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2013年3月

書評:新井政美編著『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』講談社、2013年。


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新井政美編著『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』講談社、読了。イスラムは「反近代的」か。イスラムと近代的価値観の対立・調和の実験場=トルコの近現代史を材料に、本書は、共和国トルコの「苦悶」の歩みから「近代化」「政教分離」「世俗化」の内在的開花を明らかにする。

ケマル・アタチュルクの共和国は、「世俗主義」が国是。欧州では教会闘争からその概念が創出されるが、教会組織不在のイスラム世界では、宗教に起因する政策決定を退けるという概念になるから、適用の幅が大きい。本書はそのねじれに注目する。

ねじれとは何か。国家の啓蒙主義が敵対勢力を反動と認定し、イスラム=反近代とレッテルしたことだ。イスラムの歴史を振り返るとイスラムこそ学問や科学を保持した砦であり、文明と宗教の並立には矛盾がないはず。そこに20世紀のねじれを見る。

現代トルコの「イスラム主義者」は、CNN的な「反動」に位置する。しかしイスラムの並立の伝統に乗っ取れば、宗教の自殺行為としての「イスラム主義」とは距離を置く。この守・攻に二元論に回収されない創造的可能性があるのではと示唆された最新の報告。

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覚え書:「書評:差別と反逆 平野小剣の生涯 [著]朝治武 [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。


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差別と反逆 平野小剣の生涯 [著]朝治武
[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)  [掲載]2013年03月24日

■平等求め、天皇に託した希望

 被差別部落に生まれ、初期水平運動で華々しく活躍した平野小剣。長髪で髭(ひげ)を伸ばし、人一倍、スタイリッシュだった。しかし、その名は忘却され、否定的評価が下される。理由は、後半生が熱烈な国家主義運動に傾斜したからだろう。なぜ部落解放運動を闘った青年が、天皇に希望を託したのか。
 福島生まれの平野は、子供時代から厳しい差別を受けた。若き日には、恋人に出自が知られ、絶交された。怒りは絶望に結びつき、自暴自棄の生活に陥った。
 平野を救ったのは、社会運動だった。不正義を追及し、支配階級に反逆することがアイデンティティーとなった。
 この過程で、注目したのが天皇の存在。周囲の同志が、天皇制を身分差別の源泉と見なす中、平野は天皇こそが人民の平等を担保すると考えたとみられる。曰(いわ)く「我等の上に唯だ御一人在すのみである。他は平等でなければならぬ」。
 平野が希求したのは、「一君万民」のイデオロギーだったのだろう。天皇の超越性を認めれば、すべての国民は一般化される。そこに身分の上下は存在しない。国体原理への回帰が、解放を実現する。
 この逆説的な希望が、平野の民族主義を激化させたのではないか。大御心を阻害する「君側の奸(かん)」への反逆を天皇への忠誠と捉え、国家への奉仕こそが部落差別の克服につながると考えて、国家主義的闘争に飛び込んだのだろう。
 平野にとって許せなかったのは、天皇機関説だった。それは平等の源泉の否定に他ならなかった。彼は内田良平や蓑田胸喜と連携し、排撃運動の先頭に立った。1940年に49歳で他界するが、その葬儀委員長は頭山満が務めた。
 平野のアイロニカルな姿は、我々の心を締め付ける。狂おしい情熱は、悲しみを加速させる。しかし、平野を封印しても前には進めない。
 平野を忘却の彼方(かなた)から救い出した著者に花束を。
    ◇
 筑摩書房・2940円/あさじ・たけし 55年生まれ。大阪人権博物館勤務。著書に『水平社の原像』など。
    --「書評:差別と反逆 平野小剣の生涯 [著]朝治武 [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013032400005.html

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覚え書:「書評:階級「断絶」社会アメリカ 新上流と新下流の出現 [著]チャールズ・マレー [評者]渡辺靖」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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階級「断絶」社会アメリカ 新上流と新下流の出現 [著]チャールズ・マレー
[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)  [掲載]2013年03月24日


■「真のエリートとは」を問う

 実に挑発的な米国論だ。
 貧困や格差に関する本なら山ほどある。しかし、過去50年間に及ぶ豊富なデータを駆使して著者が描き出すのは、もはや同じ米国人としての行動様式や価値をほとんど共有しない今日のエリート階級と労働者階級の絶望的なまでの「断絶」だ。
 そのうえで「勤勉・正直・結婚・信仰」という「建国の美徳」を保持しているのはエリート階級であり、幸福の基軸を成す「家族・仕事・コミュニティ・信仰」においても優れているとする。
 かたやその対極にあって米社会の伝統的美徳を蝕(むしば)んでいるのが増加の一途を辿(たど)る労働者階級だと結論づける。
 これだけでも物議を醸すのに十分だが、保守派(リバタリアン)の論客である著者は、その是正のために政府が介入すべしという、ヨーロッパ型の福祉国家の前提にある人間観や世界観を徹底的に批判する。日本のリベラル派も一考する価値はありそうだ。
 「伝統」をめぐる著者の解釈や分析には疑問が残る。神経学や生物学の援用には慎重であるべきだとも思う。
 しかし、最終章で著者が展開する「見かけ倒しのエリート」への批判は含蓄が深い。
 曰(いわ)く、自らの良識に自信が持てぬまま、悪(あ)しき中立主義に流れ、卑俗な行動様式や価値を甘受する。自らの特殊な世界に籠(こ)もり、市井の米国人からますます孤立する一方、国の命運にはより大きな影響力を行使しようとする……。
 そして、この点においてはリベラル派も保守派も同罪という。左右のイデオロギー対立や政治的分断ばかりに目が奪われがちな昨今、米社会が抱えるより構造的かつ根源的な問題を抉(えぐ)り出そうとする知的態度は好感が持てる。
 格差社会や社会的紐帯(ちゅうたい)の断章化が進む現代にあって「真のエリート」とは何か。エリート論が忌避されがちな日本の言論界にとっても十分に挑発的な一冊だ。
    ◇
 橘明美訳、草思社・3360円/Charles Murray 43年生まれ。米国の政治学者・コラムニスト。
    --「書評:階級「断絶」社会アメリカ 新上流と新下流の出現 [著]チャールズ・マレー [評者]渡辺靖」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013032400006.html

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覚え書:「みんなの広場 大震災を改憲の口実にするな」、『毎日新聞』2013年03月25日(日)付。


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みんなの広場
大震災を改憲の口実にするな
無職 75(奈良県香芝市)

 東日本大震災からまる2年の前日である10日、自民党の石破茂幹事長は党宮城県連退会での講演で、大震災に関連して「国民の生命・愛三や国家そのものが危急存亡の危機にひんしたとき、一時的に国民の権利を制限するのはどの国でも当たり前」と語り、憲法改正の考え方を示したと報じられた。
 これは、国民を信頼しない極めて不謹慎な発言だと思う。被災地のひとびとはお互いに助け合って、支え合ってきた。もちろん他国で見られるような混乱に乗じた略奪や暴動もなかった。そのことは日本人の素晴らしさとして世界的に評価されている。
 それにもかかわらず、一時的に国民の権利を制限するとはどういうことか。緊急事態では国民の権利を最大限守ることこそが為政者の務めではないのか。大震災を口実西て、国民の権利を制限する憲法改正への道を開こうとするとは精神の荒廃としか思えない。
    --「みんなの広場 大震災を改憲の口実にするな」、『毎日新聞』2013年03月25日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:伊東光晴・評 『税金 常識のウソ』=神野直彦・著」、『毎日新聞 2013年03月24日(日)付。

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今週の本棚:伊東光晴・評 『税金 常識のウソ』=神野直彦・著
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊


 (文春新書・840円)

 ◇「官のファイナンス」ではない「公の税」とは

 税金についての単なる「知識」をこえて、体系的な「理解」を多くの人に、という意図で書かれた本である。このねらいは成功している。著者は日本を代表する財政学者である。

 著者が理想とする社会は、「税金は“良き市民”が支払う“文明の対価”」と人々が考えている社会である。そのためには、税をとる政府が、自分たちの政府であるという共同意識が人々の間で生まれているものでなければならない。私はアメリカ軍占領下の沖縄で、その対極を見た。脱税が成功すると「戦果」というような言い方をするのである。

 日本の現状はこれほどではないけれども、多くの人は政府を自分たちのものとは考えていないだろう。

 財政は「パブリック・ファイナンス」の訳である。このパブリック(public)、公は、西欧社会では皆(み)んなのものでもあり、自分のものでもあるという意味がある。著者は、その西欧での意味は、日本では「公園」という言葉の中にそのものずばり入っているが、それは例外で、「公用車」の公が官を意味するように、官のファイナンスであるにすぎない、という。この官を本来の公にすることが著者のねらいである。

 著者は税についての常識の誤りを正すことから話を進めていく。

 家計は収入が先にあり、その中で支出額をきめていく。国の財政は家計と違い、何にどれだけ使うかという支出がまずきまり、そのための財源を用意する。歳入が不足すれば国債発行となる。この国債発行について、財政法第4条では、公共事業費や出資金、貸付金は認めるが(これを建設国債という)、経常的支出にあたる国債発行(赤字国債)は禁じている。戦前への反省ゆえである。

 にもかかわらず、現実は、毎年特例法で赤字国債の発行を認め、国債の累積額は世界で群を抜き、「公債に抱かれた財政」になってしまった。だが、赤字国債の発行は後世に負担をまわすものだという常識は一見正しいようにみえて誤りであると。

 なるほど後世の人が公債の利子と償還金を負担する。しかしそれを手にする人も同じ後世の人である。問題は別のところにある。

 税と違って公債には抵抗感が少ないため、経費が膨張しやすくなる。さらに税で支出をまかなえば累進課税などによる再分配効果が入り込むが、公債での調達では、この効果はない等、逆再分配になる。さらに公債が外国人に所有されているなど、その所有者いかんでは、市場不安定の要因になりかねない。

 「税負担率が低い国ほど経済成長する」というのも俗説である。著者は現実統計からこのことを明らかにする。先進15ケ国をとりあげて、1970年代、税負担率の高い国の方が、経済成長率が高く、90年代も同様であるが、80年代は逆であると。

 税負担率と関係するのは、「幸福度」であるという。イギリスのレスター大学の幸福度調査から、税負担率の低い国は幸福度も低いことを示している。税負担率の高い国は、福祉を中心とする公共サービスが充実しているからであろう。フランスでも、このための指標をつくっているという。

 税を考える場合、もっとも重要なのは、中心となる基幹税は何かということである。戦後のシャウプ勧告によってわが国は所得税--個人所得税と法人所得税--中心主義が定着した。先進国も同じであり、西欧では、これに付加価値税が加わってくる。

 1990年代のはじめまでわが国の財政収入は、支出と歩調をあわせてのびていた。所得税中心主義が機能していたためである。これが大きく崩れたのは90年代の減税である。それ以後歳入と歳出の差は大きく開き、税収に匹敵する公債発行となり、公債累積が今日まで続いている。

 しかもこの減税は、著者が指摘するように高額所得者の減税であり、所得分配の悪化を招いていく。加藤寛氏が税制調査会の会長の期間(1990-2000年)、アメリカにならい小さな政府をよしとしたのが、今日の財政破綻をつくり出したのである。

 著者のアイディアが光るのは「国と地方の『分かち合い』」で述べられている「三つの政府体系」である。働く現場で共同で拠出し、病気、失業あるいは高齢退職などのとき保障し合うのが“社会保障基金政府”。住んでいる地方で納税し、教育、育児、介護、治安などの行政サービスを受ける地方政府。そして地域の行政サービスが偏らないように、交付金で調整する中央政府。--これをちゃんとやっていると共同意識が生まれ、他に支出ウェイトを置く政府だと共同意識が生まれない。日本がこれである。

 本書の冒頭でギリシャの財政破綻が紹介されているが、ギリシャは、日本が目標にしているプライマリー・バランス(税収入で経常支出をまかなう)を達成していること、その悲劇はユーロ圏に財政調整機能がないこと--つまりユーロには共同意識がないことにあるからだという。
    --「今週の本棚:伊東光晴・評 『税金 常識のウソ』=神野直彦・著」、『毎日新聞 2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070020000c.html


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税金常識のウソ (文春新書)
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覚え書:「書評:なめらかな社会とその敵 [著]鈴木健/ルールに従う [著]ジョセフ・ヒース [評者]山形浩生」、『朝日新聞』2013年03月25日(日)付。


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なめらかな社会とその敵 [著]鈴木健/ルールに従う [著]ジョセフ・ヒース
[評者]山形浩生(評論家)

■社会を変革する遠大な思考実験

 『なめらかな社会とその敵』の想定読者は三百年後の未来人。だが古代人たる評者にも、その意気込みはわかる。まったく新しい通貨システム! しかもお金の意味すら変え、社会自体の変革まで射程に入れる遠大さだ。
 著者は、題名通りのなめらかな社会を夢見る。人々の有機的なつながりを保ち、様々な関係性の途切れない世界。現代の金銭取引はそれを荒っぽく分断する。投票も白か黒かの粗雑な選択を迫る。だがインターネットはまったくちがうお金や投票を実現する。個々の取引は投資として影響を持ち続ける。一票を多くに分割して重み付けができる。本書はそうした仕組みを実際に構築して実証する。おかげでそれがもたらす壁なき世界も説得力を持つ。
 だが本書の問題点もその世界像だ。なめらかな関係性は、裏返せば全体主義的なしがらみだ。本書は息苦しい村社会を再構築する反動的な試みでもある。いまの金銭取引や投票制度は粗雑だ。だがその粗雑さは、実は自由や平等などの根拠でもある。本書の新通貨システムで算出される社会貢献度は人々の等級付けに直結しかねない。また新投票制度は、個人が政治的決断から逃げる無責任社会につながる。評者はそうした乱暴な社会像にたじろぐ。
 だが、本書の魅力もまさにその乱暴さにある。それがネットの希望と恐ろしさの両面を示す。それは新しい可能性を見せつつ、既存制度の長所をもあらわにする。いずれの場合にも読者は社会の仕組みについて、予想外の方向から見直しを迫られるのだ。
 そうした社会のこまやかな仕組みを、別の形で示すのが『ルールに従う』だ。人のずばぬけた合理性は進化だけでは説明できないし、人間の個別行動もそんなに合理的ではない。実は人間は文化や道徳構築の中で、合理性に近づくためのルールを開発してきたのだ。道徳こそ合理性を可能にし、そのために言語のような複雑性を持つ、と本書は主張する。哲学や進化生物学、経済学や脳科学まで動員した繊細な議論は実に刺激的。ただし実に難解かつぶ厚い本で、巻末の詳細な訳者解説と要約には大感謝だ。
 この二冊を並べて読むと、社会の様々な可能性が浮かび上がる。『ルール-』は単純な理念からの大なたをたしなめたものとして、『なめらか-』と対立関係にあるとすべきか、それとも逆に、制度改変を通じた社会のルール改訂という観点から共闘関係にあるとすべきか。この両者をどう対決/協力させ、発展させるかは、三百年先ならぬ今の読者の大きな宿題でもあり、また楽しみでもある。
    ◇
 『なめらかな社会とその敵』勁草書房・3360円/すずき・けん 75年生まれ。東京大学総合文化研究科特任研究員。『ルールに従う』瀧澤弘和訳、NTT出版・6090円/Joseph Heath 67年、カナダ生まれ。哲学者、トロント大学教授。
    --「書評:なめらかな社会とその敵 [著]鈴木健/ルールに従う [著]ジョセフ・ヒース [評者]山形浩生」、『朝日新聞』2013年03月25日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013032400004.html

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なめらかな社会とその敵
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ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)
ジョセフ・ヒース
エヌティティ出版
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「日本の航空技術100年展」の特別展示「零戦展示」への「旅」


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人はなぜ旅をするか
中村 インドの哲学者や行者には、どこかにこもり、じっと一か所にいて瞑想にふけり、真実を深めている人がいます。
 しかし、私はやはり旅をしたい。旅をしますと、非常に新鮮な感銘をうける。旅は自分がもっていないもの、あるいは自分が忘れたものを新たに思いおこさせてくれます。もう、旅をすること自体が感動です。
白川 そうですね。人間ってのは、元来、基本的に未知に対するあこがれがあるんじゃないでしょうか。だから、人は旅をするんです。そして、未知の世界を切り拓いていく強い精神によって、人間社会には文明が発達したんだと思います。ただその際、やはり、一人で旅をして異質の文化や風土と接触していただきたいですね。そうして異質なものと出会ったとき、猿人が人間になったような精神革命が、個人のなかにもおこり得るんじゃないでしょうか。私は旅の魅力、意味というのは、そういうところにあるのではないかと思います。
中村 それにしても、私のような老人は、もう、そんなに旅はできません。しかし、私はやはり、外界の実物を見たいという願いが強くある。
 だから白川さんのような方には、ますます、いいお仕事をしていただきたいものです。
白川 ありがとうございます。私のこれまでの仕事は、人間とは何か、人間が生きるとはどういうことであるのかということを考えたい、という仕事でした。これからも、人間の根源に迫る道をゆけるところまで歩いてゆきたいと思っています。

中村元、白川議員「仏教伝来の道を歩く」、『中村元対談集I 釈尊の心を語る』東京書籍、1991年、170-171頁。
※初出、『致知』竹井出版、1989年10月。

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引っ越しの片づけがまだ済まないのですが……、その手伝いに来ている岳父が、所沢航空発祥記念館にて開催中の「日本の航空技術100年展」の特別展示「零戦展示」(米国プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館所蔵の52型、唯一現存する飛行可能な機体)を見に行こうということで、予定を変更して、航空公園まで急遽「旅立つ」ことになってしまいました。

前日が雨で、翌日が曇天との予報。28日は汗ばむ陽気に包まれた快晴にて、訪問しました。

特別展示は閲覧時間が限定されていたため、2時間近く、記念館で時間を待ちながら、エンジンの音を聞いたり、間近で現物を見ることが出来ました。

戦争や暴力に関してはいかなる意義を付けようともその正当化は不可能だとは思っております。ただしかしながら、その現物に触れ、知っていくことは大切ですし、まあ、私自身もこの手のジャンルには人後に劣らないレベルの関心がありますので、……しょうじき、かなり疲れましたが……いい一日になったのではないかと思います。

ともあれ、部屋の整理……。

ひとつひとつやっていくしかないですね(><)

http://tam-web.jsf.or.jp/spevent/announce.html

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釈尊の心を語る (中村元対談集)
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覚え書:「今週の本棚・情報:共同展『文学と天災地変』」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。


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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『ハピネス』=桐野夏生・著
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊


 (光文社・1575円)

 ◇素敵なママたちの孤独な世界にひそむ物語

 桐野夏生は多様な題材を多様なスタイルで書く。『東京島』や『ポリティコン』などで閉ざされたコミュニティを描いてきた作者が、本書『ハピネス』で舞台に選んだのは、東京の埋め立て地に建つ高級タワマン(超高層マンション)だ。東京と橋でつながれた「半島」に聳(そび)えるビルのマイホームは、宙に浮かぶ理想郷か、空中楼閣か?

 初出連載は女性誌『VERY』。同誌は高級コンサバ(保守的)路線で、主ターゲットは三十、四十代の主婦層。経済力のある配偶者をもち、身なりはごく洗練されスタイルもモデル並み、子供が幼いうちは家庭に入り、仕事をするとしたら自宅で趣味のお教室を開く、といったライフスタイルが望ましい--そう、「望ましい」のであって、実際に何十万といる読者がそんな人たちばかりのはずはない。

 ともあれ、そのハイクラスなママたちの世界に特徴があるとすれば、自分と似た相手を好む同質集団であること。当然、排他性が生じる。「みんなちがって、みんないい」が好きなんてウソウソ。雑誌読者だってその世界からはじかれる痛みと心地よさを同時に楽しんでいるのだ。

 桐野夏生はもちろんその微妙な隙間(すきま)をちゃんと織りこみ済みで、本作ではこの隙間めがけて直球を投げこんでいる(ただしいつもよりちょっと手加減して)。素敵(すてき)なママたちの世界を題材にしながら、あえて「その世界と同化して見えるが実は決定的に部外者であることに仲間だけは気づいている」というポジションの子持ち女性を主人公にして、羨望(せんぼう)と嫉妬、プライドと自己嫌悪、孤独と暗い悦(よろこ)びの入り混じった気持ちを代弁させている。

 主人公の「花奈(かな)ママ」こと「有紗(ありさ)」は生まれ育った新潟を出て、東京で広告代理店に非正規で勤めている時に出会った相手と「できちゃった結婚」をした。憧れのタワマンで幸せな新婚生活が始まるが、まもなく娘が生まれる頃には夫婦間に大きな溝ができ、その八か月後に夫はアメリカに単身赴任。やがて家賃と最低限の生活費を送ってくるだけで音信を絶ってしまう。離婚を切りだす夫のメールが届いてから一年近くが経(た)とうとしていた。

 タワマンを通じて、有紗は「いぶママ」「芽玖(めぐ)ママ」「真恋(まこ)ママ」「美雨(みう)ママ」というお洒落(しゃれ)なママ友の仲間入りをしているが、夫との不仲や生まれ育ち、そして過去のある事情については絶対に口にできず、気後れしながらグループにしがみついている。夫の職業、自らの出身校、子供の幼稚園、服からネイルに至るまでの微妙な差異がぐりぐりとえぐり出されていく。

 おまけにタワマンでの暮らしは見えない隣人たちにチェックされている。場所柄、子連れで出かけるスーパーや公園は限られてくるので、かえって付き合いが密になり情報は筒抜け。「むら」の伝達構造や表面的な互助機能をもちながら、人と人のつながりは儚(はかな)く、本当の生活共同体ではないという厄介さがある。有紗は隣人やママ友たちの監視や値踏みの目に怯(おび)え、嘘(うそ)を上塗りしてしまう。じきにグループ内差別が浮き彫りになり、有紗とともに密(ひそ)かに仲間はずれにされていたママから驚愕(きょうがく)の事実が発覚。有紗も自分の秘密を打ち明けようとするが……。

 有紗の視点だけから書かれたシンプルな語りに徹している。冒頭は彼女が眠りから醒(さ)める場面。読んでいる途中でふと、もしかしてこれはぜんぶ、中空に浮かぶ部屋で女がひとり夢想していることじゃないかと夢想したら、全身が粟立(あわだ)った。
    --「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『ハピネス』=桐野夏生・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070025000c.html

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覚え書:「今週の本棚・情報:共同展『文学と天災地変』」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。


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今週の本棚・情報:共同展「文学と天災地変」
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊

 東日本大震災から2年が経過した今春、全国の文学館・記念館で「文学と天災地変」を共通テーマにした企画展が一斉に開催されている。全国文学館協議会に加盟する99館のうち41館が参加。東日本大震災をはじめ、過去の大災害を文学者がいかに考え、表現したかを初めての共同企画で展示する。

 主な企画は、山形県川西町・遅筆堂文庫「被災地大槌に生きるひょうたん島精神」(31日まで)▽福島県いわき市立草野心平記念文学館「磐城七浜 豊穣と脅威の海」(同)▽東京都調布市・武者小路実篤記念館「実篤と震災 関東大震災と北伊豆地震」(4月14日まで)▽金沢市・室生犀星記念館「関東大震災 その時犀星は」(5月10日まで)▽北九州市立文学館「いま、伝えたいこと 北九州市職員たちの復興支援」(31日まで)など。

 企画内容と開催期間は同協議会(http://www.bungakukan.or.jp/kyougikai/)で。一部、すでに終了した企画もある。
    --「今週の本棚・情報:共同展『文学と天災地変』」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070031000c.html


http://www.bungakukan.or.jp/kyougikai/

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華族制度は廃止されていたが、英語の世界では生きていた。


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 こどものころに読んだ佐々木邦の『奇人群像』という小説に、閣下と呼ばれる人の書をあつめて、それを納める蔵をたて、「閣下閣」と名づける計画をたてる人の話がでていた。
 その後、しばらくたって戦中に、おたがいに閣下になったということにして、
 「□□閣下は、いかがですか」
 「ああ、元気です。ところで□□閣下は何をめしあがりますか」
 などと会話する仲間に出会った。
 閣下というのは、軍人で言えば少将以上。役人で言うと、勅任官以上ということになっていた。
 敗戦があって、閣下というものは、なくなった。そう思っていた。しかし、ある時、ラジオで国際会議の模様をきいていると、日本の外に出ると、やはり「閣下」と呼ばれる人はいた。
 占領されていたころ、東京の喫茶店にすわっていると、何人からの米軍将校が入ってきて近くのテーブルで話している。はなしの中に「□□子爵夫人」とか「□□男爵夫人」とかが出てきた。彼らのつきあっている人たちらしい。華族制度は廃止されていたが、英語の世界では生きていた。
 それとにたようなことを、テレビで観た。米国制作のテレビ・ドラマに日本の海上自衛隊が出てくる。そこではっきり、「日本の海軍」という言葉が出てきた。このころまでに日本には軍隊はないということになっていて、政府は、国民むけにとにかくこの解釈をとおしていたし、軍隊でない証拠に、「陸軍」とか「海軍」とかいう言葉をさけていた。しかし、英語で言うことになると、はっきり戦前と同じく「ジャパニーズ・ネイヴィ」、「ジャパニーズ・アーミー」という言葉を使っていた。そして何年かの間に、中身のほうも、じりじりと、英語のネーミングに沿うように近づけていった。今では、「自衛隊」が軍隊であることを疑うものは、日本人の間にもほとんどいないが、その初期から、英語のほうのネーミングは実態をまっすぐにさしていた。
    --鶴見俊輔「まざりもの」、『思想の落し穴』岩波書店、2011年、299-300頁。

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偉い人間、賢い人間ほど、いかがわしい「いいまわし」で「丸め込んでしまう」その好事例を、鶴見俊輔さんがズバッと指摘しております。

ただ、こんち、その丸め込みにとらわれていることに無自覚であるにもかかわらず……ということは最終的にはその無自覚である当人すらをも毀損してしまう結果になるわけなのですが……そうしたことがらを推進していこうという手合いが多いなあと痛感します。

もちろん、これは「軍隊」だけに限定される話ではない訳ですけどね。

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思想の落し穴 (岩波人文書セレクション)
鶴見 俊輔
岩波書店
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覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『なめらかな社会とその敵』=鈴木健・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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今週の本棚:養老孟司・評 『なめらかな社会とその敵』=鈴木健・著
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊


 (勁草書房・3360円)

 ◇生命とネットから現代の思考様式を問う

 久しぶりに野心的な本を読んだ。若い世代がこういう本を書く時代まで生きたのは、年寄り冥利に尽きるというべきか。

 著者が目指すところを終章の二つの文章から紹介しよう。「本書は革命的な何かを為(な)そうとしているのではない。革命に死をもたらすという意味において、革命を、真に新しい意味での革命を起こそうとしている」「本書が目指すところは、仏教哲学のひとつの実装形態といっても過言ではないのかもしれない」

 現代社会の一般常識と、それを支える思考様式には、どこか根本的に問題がある。そのことに多くの人が気づいているはずである。ではいったいどう考えればいいのか。

 本書の柱となる考え方は複雑系の科学である。根本的にヒト社会を考えるには、生物としてのヒトから論理を立ち上げるしかない。その際に使えるのは複雑系の科学である。生物を理解しようとするなら、単純に物理化学的な因果関係で語ることがほぼ不可能であることは、生物を調べた人なら、本音ではだれでもわかっているはずである。

 もう一つ現代社会で起こっている具体的な大変化がある。コンピュータとネットの発達である。現代人は日常のきわめて長い時間をパソコン相手に費やしている。それが人と社会を変えていかないはずがない。

 著者は生命の特徴から書き始める。膜と核である。その背景には網の目としての化学反応の存在がある。そこに膜が生じることで内外の区別ができ、これがいわば私的所有の始まりとなる。核は中枢であり、小さな自由度が大きな自由度の制御を可能にする。というふうな紹介をすると、多くの人が読むのを諦めるかもしれない。それでは困るのでむしろ原文をゆっくり読んでもらうことにしよう。決して難解ではない。これまでの「常識」にとらわれずに、ゆっくり読んでもらえたら、だれにでも理解できる内容である。

 ヒト社会を生命から考え、そこにネットの発達を加えることで、著者は大きく四つの点を議論する。一つは貨幣である。新しい貨幣として著者は伝播(でんぱ)投資貨幣を提案する。詳細は原文に譲るとして、経済学者の意見を聞いてみたい。しみじみそう思う。第二は分人民主主義である。個人を一個の独立の単位とするのは、ルネッサンス以降の西欧で生じた幻想である。しかし個人はかならずしも一人ではない。それは神経科学ではすでに知られた事実である。それならたとえば投票では分人民主主義があっていい。著者はそれを具体的に伝播委任投票システムという形で論じる。

 第三は知性である。われわれはコンピュータを単純に計算する機械として考えがちである。しかしインターネットが爆発的に普及した現在では、人は単に結節点となり、いわゆるソーシャルネットワークという、巨大なコンピュータが出現したとも見える。それなら社会を一つのコンピュータとして見たら、どうだろうか。そこではたとえばメディアとは何かという問題が見えてくる。第四は法と軍事である。ここでは表題にある敵と友、社会の見方が論じられる。

 社会全体の見方を変えようとする本だから簡単な紹介では済まない。

 一つだけ付け加える。戦前の日本の「植民地」経営で、唯一に近く成功したのは後藤新平による台湾統治である。その後藤は赴任するにあたって「生物学的原理でやる」といったという。ヒトが生きものであることはあまりに当然だが、それを現実に応用できる思考は決して当り前ではない。現代社会に問題を感じている人のすべてに勧めたい本である。
    --「今週の本棚:養老孟司・評 『なめらかな社会とその敵』=鈴木健・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070002000c.html

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なめらかな社会とその敵
鈴木 健
勁草書房
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覚え書:「今週の本棚:マス・イメージ論=吉本隆明・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。


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今週の本棚:マス・イメージ論
吉本隆明・著
(講談社文芸文庫・1680円)

 長らく絶版となっていた1980年代の代表作が、著者・吉本隆明の没後1年を機に再刊された。
 鹿島茂の卓抜な解説によれば、著者は20世紀から21世紀へと向かう新しい時代の到来を「予感」し、新しい批評の方法でこの著作に挑んだ。そのため、発表当時は「熱心な読者でもその意図を計りかね」、「信奉してきた読者の多くが彼のもとから『離れた』」という。しかし、文学を少女漫画や歌謡曲、テレビCM等と同じ地平で、「『現在』という巨きな作者のマス・イメージが産みだしたもの」として論じるというコンセプトは、当時の若い世代の感覚にピタリと沿うものだった。
 例えば、糸井重里や村上春樹、高橋源一郎らの作品世界に、吉本はテレビのチャンネル切り替えに似た「イメージ様式」を見て取った。「〈意味〉の比重を極端に軽くすることではじめて衝撃に耐えられる世界である」と。このようなイメージこそ、価値相対的で混沌とした「現在」の「全体的な喩」であり得た。
 ポストモダンの思想がぶつかった課題に、いわば独立独歩の思考で渡り合った挑戦は、今読んでも十分スリリングだ。(壱)
    --「今週の本棚:マス・イメージ論=吉本隆明・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)
吉本 隆明
講談社
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書評:小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』藤原書店、2012年。


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小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』藤原書店、読了。儒教社会から脱皮(西洋化)することが近代日本の歩みであるとの通説を打破するのが本書の狙い。著者によれば「日本の近代化は半儒教的な徳川体制を脱皮し、社会を『再儒教化』する過程」であり、福沢諭吉、丸山眞男も朱子学化の当体となる。

朱子学の革新性とは何か。それは「理」の原理である。超越的な道徳原理としての「理」の概念の登場は、「理」に接近したものが上昇(尊い)するから固定的身分制度を否定し、機会均等の原理を提示した。ただし限界も存在する。理に近づき序列を上げる競争としての機会均等は、競争の苛酷さへと通じるからだ。

戦前の天皇制国家は天皇制という「理」に向かう序列化の闘争だし、毛沢東の水平闘争も形式は同じ。著者によれば福澤の独立自尊の原理は、西欧的主体ではなく朱子学的思惟の形式をとり、丸山の思想も朱子学的拘束を受けているとの指摘もある。

本書は、明治の統治システムとその思想と共振した体制教学の特質を明らかにする。この形式は今現代にも続いている。その実空虚に過ぎない「主体化」によって形式される〈序列化〉の思想的枠組みを西洋的「主体」と錯覚していたとハッとする。

手に取るまでややアクロバティックな印象は否めなかったが、独文を経て韓国へ留学した異色の著者の思考実験は、脳を揺さぶり面白く、なるほどと思うことが多かった。外来思想の土着化と東アジアが共有する文化の関係性を考えるうえで示唆に富んでいる。


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朱子学化する日本近代
小倉 紀蔵
藤原書店
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覚え書:「今週の本棚:張競・評 『卒業式の歴史学』=有本真紀・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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今週の本棚:張競・評 『卒業式の歴史学』=有本真紀・著
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊


 (講談社選書メチエ・1680円)

 ◇涙と感動を誘う“形式”の起源を徹底解剖する

 アメリカにいたとき、保護者として公立中学校と私立高校の卒業式に出席したことがある。式次第は日本と多少似ているが、生徒の着衣から入場の仕方まで細部がことごとく違っていた。私立高校の生徒は全国から集まってきたから、いざ別れようとしたとき、さすがに涙を見せる子もいた。しかし、地域入学の公立中学校では泣く子は一人もいなかった。

 日本の卒業式にはなぜ涙が欠かせないのか。その答えは本書にあった。

 卒業式をもっとも早く取り入れたのが軍学校で、一八七六年、陸軍戸山学校で行われたのがその濫觴(らんしょう)(始まり)らしい。当初、名称はまだ定まっておらず、証書と褒賞の授与が同等に扱われていた。そのことから、卒業式は「賞与式」「表彰式」とも呼ばれていた。天皇臨御によって権威性が付与され、観兵式や奏楽を伴う儀式として定着した。

 軍学校以外で初めて卒業式を行ったのは東京大学である。やがて官立・公立学校や私立学校でも取り入れられるようになった。軍学校の観兵式に代わって、学業や体操など学習成果が披露され、関係者の祝辞や挨拶(あいさつ)、奏楽、証書や賞品の授与といった手順が出来上がった。卒業式での合唱は東京女子師範学校にさかのぼる。音楽授業の成果として披露された唱歌にその原型を見ることができる。

 意外なことに、明治十年代の小学校では卒業式がほとんど行われていなかった。生徒たちは学年ごとに修了し、試験を受けてその場で卒業証書を受けていたので、とくに儀式を伴わなかった。「卒業」という言葉も年度修了しか意味していない。明治二十年代になって、「随時」入学が廃止され、さらに四月から始まる学年度に統一された。学級編成によって多数の生徒が同時に全課程を修了するため、年に一度の卒業式が可能になった。やがて、式次第の様式化が進み、「卒業」という言葉はようやく現代とほぼ同じ内容を持つようになった。

 感情の所与性を明らかにしたのは大きな成果である。卒業式が情動的な身体表現を伴う理由として、巣立ちしようとする生徒たちの斉唱と挨拶が挙げられるが、唱歌は当初の成果披露から、来賓の歓迎や余興的な意味も持つようになった。そこから儀式の意味がさらに変容し、やがて別れを演出する役割へと変わった。在校生の送辞と卒業生の答辞も演劇の台本のように作成され、用語の工夫と朗読法が指導の対象となった。しかし、発話者と発声者の主体が卒業生であるため、「自分たちの感情」という錯覚が起り、涙が自然にあふれ出たと認識された。
 近代の感情史を発掘する上で、たんに瑣末(さまつ)な資料を羅列するのではない。感情の規範化がどう形成されたかがきちんと検証されている。しかも、組織や制度の政治力学だけに注目するのではない。人間の内なる作用にも目配りが行き届いている。

 印象に残るのは、形式に対する徹底した吟味である。とくに細心の注意が払われたのは、在校生と卒業生の間の、声の往復であり、全員の声が合わさるという構成である。一連の分析を通して、見えてきたのは形式と内容の逆転という事実である。つまり、メロディにしろ、声にしろ、あるいは卒業式を描く映像にしろ、さまざまな表象はいずれも形式に過ぎない。しかし、さきに感動があって、それを表現する形式が発見されたのではない。逆に、卒業式や卒業の歌といった装置=形式によって、涙と感動が生まれた。

 記憶の政治学において、内容よりも形式、理解よりも暗記が決定的な作用をしたことを改めて思い知らされた。
    --「今週の本棚:張競・評 『卒業式の歴史学』=有本真紀・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070028000c.html


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卒業式の歴史学 (講談社選書メチエ)
有本 真紀
講談社
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覚え書:「今週の本棚・新刊:『社会運動の戸惑い』=山口智美、斉藤正美、荻上チキ・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『社会運動の戸惑い』=山口智美、斉藤正美、荻上チキ・著
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊

 (剄草書房・2940円)

 反発、反動を意味する「バックラッシュ」。フェミニズムや社会学に関心のある人なら、2000年ごろから各地で起きた男女共同参画条例やジェンダーフリー教育への批判キャンペーンを思い浮かべるだろう。

 フェミニズムに近い立場を取る若手研究者、評論家らが「バックラッシュ派とは本当は誰なのか」という問いを立て、保守運動にかかわった山口県の論評紙編集長や宮崎県都城市議などの元に足を運び、彼らの価値観や問題意識に迫っていく。地方での聞き取りを重ねる中で<市民運動化していく保守運動と、体制保守化していくフェミニズム>という入り組んだ構図が明らかになる。

 彼らはなぜ敢(あ)えて、立場を異にする人々への聞き取りを行ったのか。そこには、現在のフェミニズムに対する批判的なまなざしがある。バックラッシュ派とフェミニストが過度に互いを敵視し論争が過激になったことで、広く社会の関心を集める機会を逸してきたという指摘は、ジェンダーにかかわらず何らかの社会運動にかかわる人々にとって他人事ではないだろう。

 ネット時代の社会運動を考察する上でも示唆に富んでいる。(さ)
    --「今週の本棚・新刊:『社会運動の戸惑い』=山口智美、斉藤正美、荻上チキ・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070035000c.html

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社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動
山口 智美 斉藤 正美 荻上 チキ
勁草書房
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arrived


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さて、個人的な状況報告が続き申し訳ございませんが、昨日は雨の中の引っ越しでしたが、一夜あけると快晴。

ベランダから雄大な富士山を拝見することがきました。

四月一日から新年度。

さらに勢いをつけてがんばっていこうと思います。


 


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覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『メモワール-写真家・古屋誠一との二〇年』=小林紀晴・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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今週の本棚:堀江敏幸・評 『メモワール-写真家・古屋誠一との二〇年』=小林紀晴・著
毎日新聞 2013年03月24日 東京朝刊


 (集英社・1785円)

 ◇悲劇に昂ぶる“人間の闇”を追って

 若い写真家が先達の仕事に強く引きつけられ、その作品を前に感じた昂(たか)ぶりと、にもかかわらず生じたひとつの疑問の根を探ろうとする試み。しかもみずからの写真によってではなく、瞬間を捉える映像から常に遅れてやってくる、言葉という厄介な手段を用いて。

 論の対象は、一九五〇年生まれの写真家、古屋誠一である。東京で写真を学んだのち、二十三歳で渡欧した古屋は、一九七八年、オーストリアのグラーツで出会った女性クリスティーネと結婚する。その直後から彼女は重要な被写体となるのだが、次第に精神に異常をきたし、一児を遺(のこ)して、一九八五年、当時彼らが住んでいた東ベルリンのアパートから身を投げた。以後、古屋は、亡き妻との時間を仏語のメモワール、すなわち記憶と記録と自伝の意味を兼ねる重層的な表題のもとに、写真集の形で再構成しはじめる。

 彼女をそこまで追い詰めたのは、自分ではなかったか。懺悔(ざんげ)とも供養とも自己批判ともどこか微妙なところでずれを起こす問いを重ねながら、彼は執拗(しつよう)に、もうここにはいない妻と、まぎれもない現在時の対話をつづけていく。一九六八年生まれの著者は、一九九一年、個展会場でその古屋の作品に触れ、衝撃を受ける。彫りの深い、陰りのある表情で、凜(りん)とした空気と壊れかけていく心の磁場を同時にまとうクリスティーネの姿を淡々と追っていく写真の、静謐(せいひつ)な品格。同時にまた、それらすべてを踏み破るような、穏やかならぬ負の力の偏在。見る者の胸を突き刺したのは、自死の直後、横たわる妻を古屋が上から撮影し、小さなコンタクトプリントの一コマとして発表していたことだった。

 私的な悲劇の現場を、なぜ人々の目に晒(さら)す必要があるのか。このような出来事を「自分の作品」にしていいものなのか。最初の問いは、むしろ怖いもの見たさに近い興味関心に根ざしている。しかし本書が特異なのは、一対一の関係に収まる疑念が、もっと規模の大きな不幸を前にした時の写真家の心の動きに重ねられていることだ。自身がニューヨークで体験した九・一一。そして十年後の、すぐには現地入りしなかったという三・一一。倫理的なためらいの生じる場へ、写真家はなぜ出向くのか。悲惨な光景のなかに美を認めて高揚しかねない、あるいはすでに昂ぶっている自分を、どう受けとめるのか。

 古屋の世界と向き合いながら、著者はプラトンの「呪われた眼(め)」を意識し、場所を変えて幾度も対話を重ねていくうち、相手の人生と作品世界に半身を入れてしまう。論述の対象が自問の核となり、かけがえのない師のような存在になっていく。だからこそ、古屋がいまはもうここにいない妻との向き合い方を模索しつづけ、写真だけでなく彼女がドイツ語で遺したノートの一部を公開した際、「得体(えたい)の知れなさ」を感じて、対話の中断を余儀なくされたのである。それでも離れなかったのは、古屋の世界には「人が生きていくなかで体験するであろう普遍的な要素が多く含まれている」からであり、自分のなかに「一人の人間が抱えている闇をとことん見てみたい欲求があった」からだと著者は書く。

 ここで示されているのは、古屋が古屋でありうる理由と、その闇に魅了され、至近からそれを観察し得た希(まれ)な体験を言葉の「作品」にしたいという想(おも)いの衝突である。両者が複雑にからまって、「作品」というそれこそ得体の知れない謎めいたよじれの結果に立ち到(いた)る事実を、本書は最も自然な現象として読者に差し出しているのだ。
    「今週の本棚:堀江敏幸・評 『メモワール-写真家・古屋誠一との二〇年』=小林紀晴・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070007000c.html

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メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年
小林 紀晴
集英社
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覚え書:「今週の本棚:さらさらさん=大野更紗・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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今週の本棚:さらさらさん
大野更紗・著
(ポプラ社・1470円)

 ビルマ(ミャンマー)の奥地で難民支援の使命感に燃える大学院生から一転、原因も治療法も不明な難病を患い、「助けられる」当事者になってしまった著者。痛みと苦しみに満ちた病気との闘いをユーモアに包んで書き上げた前作『困っているひと』(ポプラ社)が話題になってから2年間に、病にとどまらず障害や震災、雇用など、好奇心の赴くままに書いた文章と対談をまとめた。
 故郷は、東京電力福島第1原発に近い「山の中」。病気で参加のかなわぬ反原発デモをインターネットで見つめ、福島の良心に電話する。話題は、ナスの出来映え。故郷を離れ東京で暮らすうしろめたさを感じながらも、人々の日常を見つめ、書くことの意義を見いだしてゆく。その語り口は率直さに満ちている。
 電子書籍隆盛の今だからこそ、「本にしかできないことを」と、小口に似顔絵を刷った。傾ける方向によって「更紗ちゃん」が困ったり、笑ったり。その表情のように、難病や原発事故に苦しむ故郷の不条理を怒りつつ、ユーモアや遊び心も忘れない。難病を抱えながら作家として生きることを「旅」に例えた著者の、「旅先」からの報告書だ。
    --「今週の本棚:さらさらさん=大野更紗・著」、『毎日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130324ddm015070017000c.html

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さらさらさん (一般書)
大野更紗
ポプラ社
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困ってるひと (ポプラ文庫)
大野更紗
ポプラ社
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move


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さて本日は、夕方からお引っ越し。
近所ですが、10年くらした家を後に、新居へ。

しかし、引っ越しやさんの手気の良さに驚いてしまいます。

前提としては、お金を払ってという商売にはなりますが、金額以上のことをして頂いたというのが実感です。

ありがとうございました。

 

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覚え書:「書評:『バタイユ 聖なるものから現在へ』 吉田裕著 評・管 啓次郎」、『読売新聞』2013年3月10日(日)付。

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『バタイユ 聖なるものから現在へ』 吉田裕著

評・管 啓次郎(詩人・比較文学者・明治大教授)
不安が生んだ思想


 太陽がすべてを与えている。地球上の生命とは太陽エネルギーが変換された現象にすぎない。

 あたりまえのことだが、何度でも確認しておく必要がある。そして地球が閉鎖系である以上、地上で消費できるエネルギーの総量が限られていることも。昨年没後50年を迎えたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユの発想の根底にあったのも、この太陽からの贈与という視点だった。

 太陽はみずからを破壊して地球にエネルギーを与える。その過剰から生命が生まれる。生命は増殖を本質とし、増殖は余剰を生み出す。人間は有用性を原理として社会を営むが、有用性だけが支配する社会には希望もよろこびもない。過剰な部分を蕩尽とうじんすることの昂揚こうようが、人をいきいきとさせる。無用、浪費、違反、祝祭。現在、そうした発想があまり違和感をもたらさないのは、すでにわれわれがバタイユのいう「一般経済学」の思想圏にいることの証明かもしれない。

 本書はそんなバタイユの全貌を、丁寧に概観する。論述は、あくまでも明晰めいせきで、ゆるぎなく、ゆるみもない。古文書学校を出た図書館員として終生すごしつつ、多くの文学者・哲学者・芸術家たちと地下水系のような交渉を保ちながら、娼家しょうかを好み、バタイユはすべてを考えた。社会学、宗教学、哲学、文学、美術史。すべてを横切るようにして、「死」という想念にとりつかれずには生きてゆけない人間存在の核心を考えた。

 あらゆる通念(ドクサ)に対してスキャンダラスなまでに抵抗を試みたパラドクサル(逆説的)な人。彼が第一次大戦からヒロシマ、アウシュビッツにいたる大量かつ無名の死をつきつけられてきた世代に属していることには、大きな意味があるだろう。痛いほどの不安が生んだ思想だと思う。それはわれわれの多くが共有している不安だ。チェルノブイリがあった。福島の状況はいまも続く。有用性・計画性の社会の破綻に直面した現在、改めてバタイユの姿勢に学びたい。

 ◇よしだ・ひろし=1949年生まれ。早稲田大教授。

 名古屋大学出版会 6600円
    --「書評:『バタイユ 聖なるものから現在へ』 吉田裕著 評・管 啓次郎」、『読売新聞』2013年3月10日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130311-OYT8T00827.htm

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バタイユ 聖なるものから現在へ
吉田 裕
名古屋大学出版会
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覚え書:「書評:『郷愁と童心の詩人 野口雨情伝』 野口不二子著 評・畠山重篤」、『読売新聞』2013年03月10日(日)付。


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『郷愁と童心の詩人 野口雨情伝』 野口不二子著

評・畠山重篤(カキ養殖業)
孫ならではの秘話


 明日3月11日で東日本大震災から2年を迎える。岩手、宮城、福島の被害は甚大だが、茨城も津波に襲われた。

 筆者の野口不二子さんは野口雨情の直系の孫に当たる。一度生家の「観海亭」を訪れたことがあったが、福島県境に近い北茨城市磯原。国道を挟んで目の前に太平洋が広がる。

 生家を守っていた不二子さんは、津波が来るという情報に、まさかと思ったが、一階にある資料を何回も駆け上がり必死で二階に運んだ。幸いなことに家は傾いたが波は二階まで達せず、貴重な資料は守られたのである。

 不二子さんは語り部として非凡な才の持ち主である。NHKの「ラジオ深夜便」に出演依頼があり、津波の経験談や、雨情の人生観、詩の背景などを語ったところ大きな反響があり、雨情の作品がまだまだ日本人の心の中に生きていることを実感したという。

 そして、生誕130年でもあるので雨情伝の執筆を……との話が持ち上がった。

 世に雨情伝は出版されているが、どちらかというと研究者向けで一般向けのものが少なかったのだ。不二子さんは今まで短いものは書いたことがあるが、まとまったものの執筆はなかったと謙遜されている。しかし、そこは文人の孫だ。直系の近親者でなくては知り得ない秘話を盛り込んだ見事な雨情伝の誕生である。

 津波から逃げる途中、瓦礫がれきの下から民謡が聞こえていたという話を何度か耳にした。人は死を覚悟した時、歌を口ずさむのだ。小生もこの津波でおふくろを亡くした。お世話になっていた老人ホームが波を被かぶったのだ。おふくろが好きだったのは“雨降りお月”。

 生前なぜお嫁にゆこうと決心したかを問うと、“見合い写真が美男子だったから”とケロリと語った。農村と漁村の素封家同士の縁組は、雨情とヒロの縁組と重なる。付録のCDで“雨降りお月”を聞いた。涙、涙であった。

 ◇のぐち・ふじこ=1943年生まれ。茨城県県北生涯学習センター長。99年、野口雨情生家・資料館を設立。

 講談社 2762円
    --「書評:『郷愁と童心の詩人 野口雨情伝』 野口不二子著 評・畠山重篤」、『読売新聞』2013年03月10日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130311-OYT8T00669.htm

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郷愁と童心の詩人 野口雨情伝
野口 不二子
講談社
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覚え書:「みんなの広場 橋下市長は任命責任果たしたか」、『毎日新聞』2013年03月19日(火)付。


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みんなの広場 橋下市長は任命責任果たしたか
無職 69(大阪府豊中市)

 橋下徹・大阪市長は、自身の肝煎りの公募で就任した区長の一人を更迭するという。昨年8月の就任からわずか7カ月。報道によると、私用で会議を欠席したり、途中退席したりすることが多く、的確性を欠くと判断したとのこと。しかし、そのような人物を登用したのは誰であろうか。面接も行った任命者の責任は大きいと思う。
 面接や書類だけで応募者の的確性を見抜けると思ったのであれば、慢心というしかない。任命責任について、「区長を交代させることで果たすことになる」というのは無責任極まりない。まずは眼力の無さを市民にわびるべきだろう。公募区長は「僕の直属の部下」と公言するならば、きちんと教育できなかった指導力を恥じるべきであろう。
 これまでの言動から判断するに、責任を転嫁する市長では有能な人材は去っていくだろう。
    --「みんなの広場 橋下市長は任命責任果たしたか」、『毎日新聞』2013年03月19日(火)付。

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覚え書:「書評:銀座並木通り [著]池波正太郎 [評者]逢坂剛」、『朝日新聞』2013年03月17日(日)付。


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銀座並木通り [著]池波正太郎
[評者]逢坂剛(作家)  [掲載]2013年03月17日

■心に食い込む不思議なリズム

 最後の文士(とあえていおう)池波正太郎は、すでに死して23年になろうとするが、今もなお広く江湖に読み継がれる、稀有(けう)の作家の一人である。
 本書には、表題作を含む初期の現代劇が3本、収められている。現代物といえば、亡くなる2年前に発表された小説『原っぱ』がある。この人の現代物は、時代物とはまた異なる、独特のノスタルジックな味わいを持つ。それはいわば、マジックミラーの裏表で、前から見えないものを後ろからすかして見る、ひそやかな感覚を呼び起こす。
 めったに、けれんを使わぬ作家だが、その点は小説でも戯曲でも、また時代物でも現代物でも、同じである。一読して、さしたるドラマはないと思えるのに、読後に深く心に食い込んでくるのは、この人特有の不思議なリズムに、酔わされるからだ。
 本書で作者は、旧来の脚本の形式にこだわらず、ト書きをしばしば過去形で書いたり、登場人物の心理を〈叙述〉したりする。これらは、後年の小説への萌芽(ほうが)、とみてよい。また『冬の旅』の主人公で、結婚しながら妻の座をおろそかにし、絵の修業にのめり込む女性画家の姿は、玄人はだしの画人でもあった、作者自身の投影であろう。劇中に、おりに触れて音楽の話題がからむのも、作者の嗜好(しこう)を反映して興味深い。
 3作の中では、最後の1幕物『夫婦』が、もっとも読みごたえがある。下町の保健所を舞台に、防疫係長の立花と妻の直子の夫婦愛、所員の栗原と恋人真佐子の純愛、それに反発する栗原の父親との確執が、短い舞台の中にきびきびと展開されて、間然するところがない。最後に明かされるエピソードは、読者(あるいは観客)に、粛然とした驚きと感動をもたらすだろう。
 若書きながら、本書には後年の池波正太郎のすべて、とはいわぬまでもほとんどの資質が、凝縮されている。
    ◇
 幻戯書房・2310円/いけなみ・しょうたろう 1923-90年。作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』など。
    --「書評:銀座並木通り [著]池波正太郎 [評者]逢坂剛」、『朝日新聞』2013年03月17日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013031700011.html

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銀座並木通り 池波正太郎初期戯曲集
池波正太郎
幻戯書房
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覚え書:「書評:統計学が最強の学問である―データ社会を生き抜くための武器と教養 [著]西内啓 [評者]川端裕人」、『朝日新聞』2013年03月17日(日)付。

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統計学が最強の学問である―データ社会を生き抜くための武器と教養 [著]西内啓
[評者]川端裕人(作家)  [掲載]2013年03月17日

■最速で最善の答えを出すために

 挑発的なタイトル。統計学を「最強の武器」と位置づける。「どんな分野においてもデータを集めて最速で最善の答えを出すことができるから」と。一方、広告会社がプレゼンに使うような「統計」はむしろうさんくさく見えることがある。「しょせん統計」と我々は言いがちかもしれない。当てにならないという意味で言及されるわけだが、実際の統計学は「どの程度当てにならないか」自ら述べる力がある。そして、今、研究の諸分野、政策立案の諸分野、経営判断の場でも、必須の知識と方法になっている。これを知らずにいると、個々人の問題としては確実に損をする。著者に言わせれば「合法的な詐欺の被害者になっても文句は言えない」。
 本書では、まず伝統的で実践的な応用分野、疫学や公衆衛生施策を導入部に使う。そこから先、様々な例が語られるが、IT分野での「ビッグデータ」の流行と、最近よく行われているA/Bテストのエピソードが印象的だ。ビッグデータを「ビッグ」なままコンピューターで扱いえる現代だが、何が知りたいかを明確にすればスモールデータを適切に集めた方がよい場合が多いと釘を刺す。ウェブの広告バナーなど、どのデザインが多くクリックされるか実験しながら最適なものを選ぶA/Bテストは「ランダム化比較実験」と同等の優れた手法だが、誤差を考慮しないと判断を誤りかねない……。
 本書の後半は統計学入門的な内容が増えるが、統計学の威力とその及ぶ範囲を素描した前半について、評者は中高生に読んでほしいと思う。さらに読み進むなら『統計学を拓(ひら)いた異才たち』(デイヴィッド・サルツブルグ著、日経ビジネス人文庫)、『その数学が戦略を決める』(イアン・エアーズ著、文春文庫)、『市民のための疫学入門』(津田敏秀著、緑風出版)など。実務としての必要を痛感した向きは、数ある教科書的入門書に進むべし。
    ◇
 ダイヤモンド社・1680円/にしうち・ひろむ 81年生まれ。著書に『世界一やさしくわかる医療統計』など。
    --「書評:統計学が最強の学問である―データ社会を生き抜くための武器と教養 [著]西内啓 [評者]川端裕人」、『朝日新聞』2013年03月17日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013031700010.html

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統計学が最強の学問である
西内 啓
ダイヤモンド社
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第27回卒業式、おめでとうございます。

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 ――ただ気の向くままに――
 おおそうだ。気の向くままに放浪さえしていれば、俺には希望があった、光明があった。放浪をやめて、一つ土地に一つ仕事にものの半年も辛抱することが出来ないのが、俺の性分であった。人にコキ使われて、自己の魂を売ることが俺には南京虫のように厭だった。人の顔色をみ、人の気持を考えて、しかも心にもない媚を売って働かなければならないことは、俺にはどうしても辛抱のならないことだった。だが、しかし不幸なる事に人間は霞かすみを喰って生きる術すべがない。絶食したって三日と続かない。とどのつまりは、やはり人にコキ使って貰って生きなければならない勘定になる。他人をコキ使おうッて奴には虫の好く野郎は一匹だってない。そこでまた俺は放浪する。食うに困るとまた就職する。放浪する、就職する、放浪する、就職する………無限の連鎖だ!
 ――生きるためには食わなければならぬ。食うためには人に使われなければならぬ。それが労働者の運命だ。どこの国へ行こうとも、このことだけは間違いッこのないことだ。お前ももういい加減に放浪をやめて、一つ土地で一つ仕事に辛抱しろ。どこまで藻掻もがいても同じことだ――
 と、友達の一人は忠告した、俺もそうだと思った。――だがしかし俺にはその我慢がない。悲しい不幸な病である。俺はいつかこの病気で放浪のはてに野倒のたれるに違いない。
    --里村欣三「苦力頭の表情」、『日本現代文学全集 69 プロレタリア文学集』講談社、1969年。※初出は春陽堂 1927年。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000219/files/1074.html

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昨日は勤務する短期大学の卒業式。門出を祝う桜花と陽光とめぐまれ、最高の卒業式になったのではと思いました。

卒業されるみなさま、さまざまな進路に進まれることと思いますが、あらゆる人間を人間として尊重することだけは忘れないで欲しいな……と。

今年の卒業生は、2011年3月11日の東日本大震災を経験後、入学された皆様です。新時代をになう若人たちに最敬礼したいと思います。

おめでとうございます。


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覚え書:「今週の本棚:明治神宮 『伝統』を創った大プロジェクト=今泉宣子・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。


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今週の本棚:明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト
今泉宣子・著

(新潮選書・1575円)

 年間一千万人が参拝する明治神宮は、社だけでなく、高層ビルを望む七十二ヘクタールの杜の存在感が大きい。明治天皇の御息所を東京にという願いから造られたものだが、これは明治という時代の記憶の場でもある。西洋の近代知をとり入れた明治であるがゆえに、神社の「伝統」に連なりながらまったく新しいのである。杜は通常針葉樹だが、代々木の知で継続するにっは生態学的に見て広葉樹でなければならぬとされ、現在の主要樹種は楠、樫、椎である。自然林の如くみごとだ。これらを通して著者は、神宮造営プロジェクトに「永遠」というテーマを見る。明治神宮には内苑と外苑があるのが特徴であり、外苑には野球場や絵画館などもある。西欧で都市計画、建築、林業、美術など、新しい専門を学んだパイオニアがぶつかり合いながら理想を追求していく過程が興味深い。内苑は官、外苑は渋沢栄一を中心に民が支援した。まさに都市東京の未来を見すえた町づくりであり、世界への発信だったのである。今この地には百年を経た美しさがある。これからの百年は、何がテーマになるのだろうか。今はどんな町をつくればよいのだろうかと考える。(桂)
    --「今週の本棚:明治神宮 『伝統』を創った大プロジェクト=今泉宣子・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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明治神宮: 「伝統」を創った大プロジェクト (新潮選書)
今泉 宜子
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覚え書:「書評:当事者研究の研究 石原孝二編」、『東京新聞』2013年03月17日(日)付。

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当事者研究の研究 石原 孝二 編

2013年3月17日

◆「自分語り」で取り戻す自分
[評者] 佐藤 幹夫 フリージャーナリスト。著書に『ハンディキャップ論』など。
 べてるの家。障害当事者による自分語りなどのユニークな活動で、その名を全国に轟(とどろ)かせている。この取り組みに端を発した「当事者研究」は、本書の「ケアをひらく」シリーズを中心に注目すべき仕事を世に送り出してきた。ではこれまでの障害当事者運動や援助論と、どこがどう異なっているのか。本書はその意義を再確認し、精神医学、教育学、現象学という他領域からの検証を、戦略的に布置してみせた。
 評者がべてるの家を初めて知った時、納得や期待と共にかすかな危惧を抱いた。自身の妄想や苦痛を言語化し、外部化することは、自分を輪郭づける限りでは生きにくさの軽減につながるだろう。しかし言葉は、発話者に個人化や孤立をも強いてくる。この先の開放装置がどう用意されているのか。それが危惧の中身だった。
 各論文では、そうした外野からの疑問に応えるように主題が選ばれている。「当事者の自分語り」がなぜ研究というスタイルを取るか。研究として自覚化された「自分語り」の最大の目的は、心身(の状態を表す言葉)を専門家から取り戻し、自分で自分を定位することである。しかしそれは「自分のことを自分だけで決める」ことではなく、むしろ当事者同士のつながりを明確にする。あるいは、当事者が持つ困難をなぜ<健常者>は持たずにすむのかという問いは、「障害/健常」という分断を相対化し、この一連の自己発見のプロセスが当事者研究と呼ばれる、ここが従来の当事者運動との違いである、という指摘は新鮮であった。
 本書は「当事者研究」の可能性の提示を狙いとしているが、実はここには障害や援助についての「語り」をめぐる企画者(編者)の一貫した戦略がある。ケアが開かれるためには「語り」が開かれていなくてはならない。ここまで継続されてきた本シリーズの戦略がどこにあったか、その真意を浮かび上がらせる役目も本書ははたしている。
いしはら・こうじ 東京大准教授、倫理学。他に河野哲也・向谷地生良・熊谷晋一郎らが執筆。
(医学書院・2100円)
◆もう1冊
 斉藤道雄著『悩む力』(みすず書房)。障害や病気を抱えた人々が共同で暮らす<べてるの家>の活動を紹介したノンフィクション。
    --「書評:当事者研究の研究 石原孝二編」、『東京新聞』2013年03月17日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013031702000172.html


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当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)
綾屋紗月 河野哲也 向谷地生良 Necco当事者研究会 石原孝二 池田喬 熊谷晋一郎
医学書院
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夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

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大君の遠の朝廷みかどとあり通ふ島門しまとを見れば神代し思ほゆ(柿本人麻呂)


個人的には、瀬戸大橋を通る際は、夕暮れか早朝がベストではないかと思うのですが、葬儀で帰省した折り、ちょうど夕刻に通過することができましたので、いくつか写真を撮ってみました。

岡山駅についたときに雨があがったようで、陽の光がもどりはじめました。

Nikon COOLPIX P300。少し前のモデルですが、コンデジでは割といい絵のとれるカメラではないかと思いつつ。


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覚え書:「今週の本棚:池内紀・評 『路上の義経』=篠田正浩・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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今週の本棚:池内紀・評 『路上の義経』=篠田正浩・著
毎日新聞 2013年03月17日 東京朝刊

 ◇池内紀(おさむ)・評

 (幻戯書房・3045円)

 ◇伝統芸能の深層へ 往き迷う探究の魅力

 篠田正浩は二〇〇三年に映画監督を引退。以後、日本芸能史の考察に没頭してきた。四年前に最初の成果、『河原者ノススメ』を発表。学者の論考とはおよそ異質の視点と連想を通して、日本の伝統芸能の深層に骨太いテーゼを立て、泉鏡花文学賞を受賞した。

 『路上の義経』は続稿にあたる。風変わりなタイトルは、考察の終わりちかくに述べてある。「あれだけ盛名を誇っていても、源義経には定住する土地、家がなかった」

 牛若丸、そして義経。たいていの人が幼いころすでにこの名前となじんでいる。さっそうとした歴史上の人物だが、なんと奇妙なヒーローであることだろう。兄の頼朝は武士政権を打ち立てた事跡すべてが歴史にとどめられているが、弟については、さっぱりわからない。史料で確認できるのは、鎌倉方の総大将として木曽義仲を討伐した宇治川合戦から平家滅亡の壇ノ浦までのたった一年三カ月。その足跡は北は奥州平泉から西は下関までと、当時としては破天荒の広い地域に及んでいるが、見つかるのはおぼつかない伝承や風聞だけ。武人もまた歌詠みのかたちで内面を吐露した時代だというのに、義経作は一首だにつたわっていない。

 「源九郎義経は死後になってから誕生したといっても過言ではない」

 三十歳で非業の最期を遂げるのを待っていたかのように、伝説や物語があふれ出た。『平治物語』『平家物語』『義経記(ぎけいき)』などの軍記物、能、幸若舞(こうわかまい)、浄瑠璃、歌舞伎。歴史文書としてはまともに扱われない物語や芸能のなかにこそ、義経は脈々と生きている。しかも世にいう「判官(ほうがん)びいき」の後光につつまれ、庶民の人気でいうと兄は弟の足もとにも及ばない。

 全14章、最後に短い「切」がついている。牛若以前から書きおこし、誕生、『義経記』の作者、おなじみ武蔵坊弁慶、ついで超人的な大活躍。壇ノ浦まで行き着いたとたん、孤立と逃走が始まる。史実を追うためには手がかりとなる語り物や芝居に向かわねばならず、フィクションのなかで変容をとげた人物を、あらためて歴史文書から推察して実像に近づけなくてはならない。『船弁慶』『義経千本桜』『安宅(あたか)』『勧進帳』……。さながら狂言作者近松門左衛門が作劇の秘訣(ひけつ)とした「実(じつ)と虚(きょ)の皮膜(ひまく)の間」をたどるかのようだ。当の著者が述べている。「果てしない迷路」、「試行錯誤の連続」。

 だが、まさにそこにこの本の魅力がある。みずからで問いかけ、そのたびに問いがどのように事実とかかわるのか、困惑のなかで往(い)き迷う。タイトルは著者自身の姿でもあって、「路上の正浩」は往きくれて、天を仰ぐときもあった。とたんに映像の世界で生きてきた人の目と認識がはたらくだろう。『船弁慶』で弁慶が数珠(じゅず)をもみながら誦呪(じゅじゅ)して主人の危難を救うくだり、主役が交代する瞬間に義経が「高貴な少年神」に変身するのを言うことができる。おなじみ『勧進帳』の幕切れ、弁慶が飛び六方(ろっぽう)で花道をすっとんでいくのは私もよく見たが、そこに主君を守り抜いた高揚感は見て取っても、「待ち受ける悲劇の予感」は、ついぞ思ってもみなかった。

 篠田正浩は早稲田の学生時代に箱根駅伝に出て、「花の二区」を走った人だ。なんとたのしいことだろう。正月の箱根駅伝の絶大な人気の秘密が箱根権現に祈願した曽我兄弟や判官義経の剣「友切丸」、さらに天皇家の万世一系を支えた「日本共同体の無意識の表出」にも結びつく。少年のようにみずみずしい感性と一途(いちず)なまでの探究心、さらに一つの大いなる立論の成熟していくのに立ち会うという、読者はめずらしい体験をする。
    --「今週の本棚:池内紀・評 『路上の義経』=篠田正浩・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130317ddm015070013000c.html

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覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『「つながり」の進化生物学』=岡ノ谷一夫・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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今週の本棚:村上陽一郎・評 『「つながり」の進化生物学』=岡ノ谷一夫・著
毎日新聞 2013年03月17日 東京朝刊

 (朝日出版社・1575円)

 ◇生物の行動から導き出す「こころ」の効用仮説

 ハダカデバネズミという、かわいそうな名前をつけられた動物を、こともあろうに書物の標題にした著作(岩波科学ライブラリー)で、二〇〇九年の科学ジャーナリスト賞を得た著者が、今度は高校生を相手にした講義の書物化という形で、読者に挑んだのが本書である。高校一・二年生の男女十六名が参加した都合四回の講義が土台になっている。主題はコミュニケーションだが、副旋律あるいは通奏低音として流れ続けているのは、「こころ」であり「意識」である。

 「こころ」の存在を、デカルトは「我」については明証的に語ったが、その後、それはしょせんは「機械の中の幽霊」(『心の概念』の著者として有名なG・ライルの表現)に過ぎない、という考え方から、山川草木一切が「こころ」あると考える一種のアニミズムまで、「こころ」を巡っての議論は、歴史上果てしがなく続いていると言ってよい。今流行の脳科学も、あるいはロボット工学も、この問題に、新たな切り口を提供しつつある。著者は、動物行動学の立場から、「こころ」あるということの意味を生徒に考えさせようと、様々な事例と、様々な現象を紹介していく。それだけでも、極めて興味ある展開が見られる。

 小鳥の「さえずり」の研究が、研究者としての出発点であったという著者は、ジュウシマツなどの小鳥の「ことば」ばかりではなく、問題のハダカデバネズミの啼(な)き声の分別でも、一般には知られていない豊富な知見を披露する。また、そうした啼き声の区別を通じて、彼らの社会的特性(階級、役割分担などなど)をも、平易な言葉で語ってくれる。

 そうした場面では、オスとメスの区別や、オスとメスとがツガイになる際の行動特性などが、重要な鍵になるのは、子孫を残すことが根本の原理である、一般の生物を相手にしたときには、判(わか)りやすい道理だが、高校生たちは、率直に語られるそうした「性」を巡る問題に、臆(おく)せずに、また変に恥じらわずに、反応しているのも、とても印象的である。語り手である著者の人柄や、語り口にもよるのだろうが、期せずして(あるいは期されたのかもしれないが)良質の性教育の趣さえある(著者は本文の最後のあたりで、「下ネタが多かった」という文句があっても、というようなことを書いておられるが)。

 本書から読み取れる著者の一つの結論はこうである。生物のもろもろの行動を見ていくと、進化の過程で、他者に「こころ」があるという前提で社会生活をやっていく方が、明らかに適応度が高まる。そのことは、自分の「こころ」の問題とは切り離して、はっきりさせることができるはずだ。

 この考え方は、「こころ」の効用仮説とでも名付けるべき、興味ある性質のものである。それにしても、話のなかで、著者の引用する書物の種類と数は、驚くべきものである。もともと、文科と理科のはざまにいた、と自己描写する著者ならでは、なのだろうが。

 自己描写と言えば、本書冒頭でのエピソードも、印象深い。というのも、生徒たちに初めて接したときに、「自己紹介」ではなく、見ず知らずの隣の生徒がどんな人か、外見だけで思ったことを述べよ、つまり、他者描写を強いる著者の戦略も、非常にユニークで啓発された。その背後には、他者の「こころ」は、突き詰めれば、他者の外見と振る舞いの所産であることを、気づかせたいという著者の思いが働いているのだろう。
    --「今週の本棚:村上陽一郎・評 『「つながり」の進化生物学』=岡ノ谷一夫・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130317ddm015070040000c.html


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「つながり」の進化生物学
岡ノ谷 一夫
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葬式についての雑感


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葬式についての雑感ですが、ブログにまとめて書こうかと思いましたが、気力喪失にて、忘れない内にメモ程度に少しtwに流しておきます。

日曜日、妻の祖母が104歳(数え)でなくなり、月曜お通夜、火曜日葬儀となりました。宗派は浄土真宗本願寺派。実父の葬儀をだしてから、割と葬儀に出ると細かいチェック(なんじゃそりゃ)をするようになったのですが、本願寺派では死者は穢れた忌諱対象ではないから「お清めの塩」は使わないとか。

確かに、死者が忌諱の対象でないからという意義はよく分かる。しかし、日本仏教の歴史を振り返ると……それが権力による一方的なものであったとしても……寺請制度の人別張のことを勘案すると、「生」と「死」を管理してきた訳だから、少しだけ空虚に響いた。真宗だけの問題は勿論ありません。

葬式仏教の問題は私が指摘するまでもない話です。また穢れのような発想があるから、佛教者が「弔い」の役割を引き受けたという点を積極的に評価することもわかる。前者に対して鬼の頸~ってやるのも違うし、後者にしても、それは私度僧みたいな話やないけという話でもあって、難しい。

確かに葬式仏教化することで、「信仰」の形骸化は進んだ。その結果、信仰としての仏教ではなく、習俗としての仏教となってしまったことは否定できない。葬式を出す方も、とりあえず坊さん呼んで……みたいな手順をはずさずに「滞りなく」遂行すればそれでよしという風潮がある。

では、形式化した信仰の在り方は100%否定されて、近代日本のキリスト教に代表されるような、自覚的決断としての「信仰」だけが本物なのかと断じることには少しだけ違和感がある。勿論、葬式仏教の問題がスルーされてよいことでもないし、自覚的信仰も「継承」においては形骸化は不可避だし。

もともとは対峙・決断・受容というスタイルこそ本道だろうと思っていましたが、ここにはややもすると信仰の共同性や相互批判の問題が等閑視され、一切合切が個人へのみ還元されてしまうことになるのではないか、と。とすれば、「しゃべっている私の声を聞きたい」に傾く危険性を孕んでしまうのではと。

確かにアカデミズム的なヨーロッパのプロテスタンティズム的在り方は、宗教学の誕生そのものを歪めたように、ひとつの範にはなると思うし、宗教に限らず人間の共同性は、ややもすると、腐敗と形骸化の無限ループに陥ってしまう。それは宗教史が明らかにするところでもある。

何か特定の範型を示した上で、先験的な批判を遂行するのではなく、例えば、葬式仏教に問題があることは当事者にもわかっている問題だし(そうでない事例も多いでしょうが)、外からの高等批評によってのみ変えていくのではなく、何というか相互批判というかそうしたアプローチも必要なんじゃないかと。

まあ、伝統教団……個人的には冠婚葬祭を自前で準備できる宗教はもう制度宗教と捉えるべきと思いますが……は、これも何度も言っていますが、伝統に安住するのでなく、そしてロシア革命式な全否定主義の転換ではない、何か、を遂行して欲しいなとは思いました。まあ、そろそろ何いってんだかですが(酔

まあ、しかし、葬儀での導師の浪曲というか詩吟というか、独特の調子をもった、念仏の語りというのは、まあ、ある意味では「文化」になっているんだなーと瞠目はした次第。こういうのが、よくわらないけどありがたいというのは、坊さんにしても消費者にしてももったいないんではと思ったり。

それから、個人の信条として「これでなければ常道できない、本物はこれだけだ」っていうのは自分に返す言葉としては意義を持つと思っている。しかし、それを他者に向けることだけは慎もうと思っている。

死を利用して恐怖を餌に、何かを押さえつけようとするような言論に対してだけは警戒的でありたい。

ユニテリアンとつき合いが長かった所為かも知れませんが、個人的には、これによってしか~できないっていう発想という信念のようなものがほとんど中和されたように思う。勿論、信仰とは他に2番、3番があっての相対的な1番ではない絶対的な1番とは承知しているけど並立できる気はする。

個人的には真宗にはあまりいいイメージがない……TLの関係者の皆様すいません……ただ、生前お会いしたのが1度しかない祖母でしたが、いわゆる「成仏」はしたのではないかとは感じた。例えば、これでは成仏できないって何なんだろうか・・・。

それからもう一つはやはり序列の問題はやっぱり何じゃらほいとは思った。岳父が長男だから喪主になる。その長女が細君だから、席次でいくと主人の私が列席の2位につく。親族で僕より親しく故人と交流した人間が他に沢山いるにも関わらず。釈尊は水平的な人間関係を説いたというが……ちょとやれやれ。


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覚え書:「今週の本棚:井波律子・評 『明日の友を数えれば』=常盤新平・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。


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今週の本棚:井波律子・評 『明日の友を数えれば』=常盤新平・著
毎日新聞 2013年03月17日 東京朝刊

 (幻戯書房・2625円)

 ◇鮮やかな距離感覚に“生の軌跡”が浮かびあがる

 今年一月、八十一歳で亡くなった作家・翻訳家、常盤新平の最後のエッセイ集。二〇一二年まで、著者が七十代に著した長短とりまぜ六十九篇のエッセイを収める。

 米国の作家アーウィン・ショーの翻訳など、洒落(しゃれ)たイメージのつよい著者が、昔の友人との交遊、たまたまの出会い、父母兄弟のこと、川口松太郎や木山捷平をはじめとする好きな作家のこと等々、心に浮かぶことにスポットを当てながら、老境のなかで推移する平穏な日常を綴(つづ)る。穏やかな語り口が心に沁(し)みる。

 平穏とはいうものの、その実、著者は活発に町歩きを楽しんで、昔ながらの雰囲気を保つ喫茶店で一休みし、時には友人と日帰り温泉旅行に繰り出すなど、たいへん活動的だ。友人や知り合いも多く、さらりと淡泊な筆致でみごとにそのイメージを描出している。

 とりわけ秀逸なのは女性、しかも高齢の女性の描き方だ。たとえば、「おばあさんの桜」の老女。著者が都心に仕事場をもっていたころ、公園の桜の木の下にたたずむ優雅な着物姿のおばあさんを見かけた。その上品な老女は近くで喫茶店を営んでおり、著者は彼女が淹(い)れるドリップ式のコーヒーをしばしば飲みに行くようになる。一篇の掌編小説のような味わいに富む話である。

 また、「おばあさんの鮨屋(すしや)」「年に一つ」に描かれる、脱サラをしておでん屋を営み、「あぶく銭、棚からぼた餅、果報は寝て待て」が好きだという愉快な友人と連れだって、八十を過ぎたおばあさんが握る鮨屋に通う話も面白い。おばあさんはいつも笑顔で「早くお迎えが来ないかと待ってるんですよう」と言いながら、せっせと鮨を握り、自転車で路地をかいくぐって出前に出かける。元気溌剌(はつらつ)とした、惚(ほ)れ惚(ぼ)れするほどイキのいいおばあさんだ。

 このほか、「朝食の楽しみ」には、飛騨の高山に旅し、早朝、おじいさんとおばあさんが営む喫茶店に入ったときのこと、夫婦かと思ったら、なんとおばあさんはマスターおじいさんのお母さんだったという、思わず笑ってしまう話も見える。

 高山のおばあさんのその後は不明だが、高齢の彼女たちはやがて静かに退場する。

 桜のように何やら妖しくも艶麗な喫茶店の老女は、病んで店を閉め、まもなく他界したという噂(うわさ)が流れる。鮨屋の活発な老女は老いの深まりにともなって、これまた店を閉め、引退してしまう。物哀(ものがな)しい結末である。

 本書に収められたエッセイの基調には、総じてこうした老いの哀しみ、あるいは有限の命の哀しみが、ひっそりと流れている。
 こうしてふと出会った人々に対してはむろんのこと、昔の友人たちとの交遊に対しても、著者の姿勢には一種、達観したような淡泊さがあり、「袖ふりあうも他生の縁」、「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)し」を地で行く感がある。鮮やかな距離感覚である。

 こうした距離感覚は、自分自身や肉親・家族のことを語るさいにもあらわれている。著者はけっして私事をことごとしく露(あら)わに語ろうとはしない。しかし、問わず語りというべきか、随所でさりげなく言及されており、本書をゆっくり読み進めると、断片的な叙述がおのずと繋(つな)がり結びついて、著者の生の軌跡や心の遍歴が浮かびあがってくる。

 手練の語り口で展開される、滋味あふれるエッセイ集だといえよう。
    --「今週の本棚:井波律子・評 『明日の友を数えれば』=常盤新平・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130317ddm015070037000c.html


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覚え書:「今週の本棚:インド 姿を消す娘たちを探して=ギーター・アラヴァムダン・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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今週の本棚:インド 姿を消す娘たちを探して
ギーター・アラヴァムダン・著
(つげ書房新社・2310円)

 インドのカーラム元大統領が「まえがき」を書いている。女性は「神からの贈物」であり、本書は「私たちの良心を目覚めさせてくれます」と。この本にはインドの女性に対する虐待、差別、犯罪などが描かれており、その是正が不可欠だと元大統領は穏やかに語っているのだ。
 確かに、にわかには信じ難い実態である。経済発展を続けるインドでは、結婚時に神父側から新郎の家族に贈る金品(ダウリー)の高騰などを背景に、多くの女児が家族によって殺されてきた。新生児を湿ったタオルに包んだり土に埋めたり。ある県では1997年の段階で毎月平均105人の女児が殺され、インド全体では男の子1000人に対する女の子の比率が91年の945人から2001年の927人へと急減したという。
 近年、インドでレイプ事件が目立つのは女性が減って結婚しにくくなったのが一因との見方もあり、状況は深刻だ。著者はインドの著名な女性ジャーナリストで、訳者の鳥居千代香氏はインドやアラブの女性差別などの研究で知られる。「世界最大人口の民主国家」とされるインドの隠れた顔に迫る一冊だ。(布)
    --「今週の本棚:インド 姿を消す娘たちを探して=ギーター・アラヴァムダン・著」、『毎日新聞』2013年03月17日(日)付。

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近代天皇制国家のもつ、疑似宗教性への反撥のふたつの道


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 この事件には仏教徒のかかわりが目立つ。死刑となった内山愚童は、曹洞宗の住職であったし、無期懲役となった高木顕明は、真宗大谷派の住職であった。また、同じく無期懲役の峯尾節堂と佐々木道元は、峯尾が臨済宗の僧侶、佐々木が浄土真宗本願寺派末寺の出身であった。また、この事件に関連して家宅捜索を受けた人物のなかにも、二人の仏教徒がいた。一人は、毛利清雅で真言宗の住職、もう一人は、井上秀天、カルカッタで原始仏教を研究した経歴をもつ。死刑の求刑を受けた二四名中、四名が仏教徒であったのは、なぜか。単なる偶然であろうか。私には、それなりの必然があったように思われる。では、その必然性とはなにか。
 その前に、ぜひ言及しておきたいことがある。それは、幸徳秋水の遺著作『基督抹殺論』についてである。その序文には、この文章が、三畳一室の一点の火気もなく、鉄窓からもれる光をたよりに、病身をおして凍筆に息を吹きかけて書いた、自分の最後の文章であり、生前の遺稿であると、したためられている。執筆の開始は、捕縛以前であったが、彼がどのようにしてこのようなテーマのもとに、結果的には絶筆となった文章を書き記すことになったのであろうか。そこには、この事件に仏教徒が関与したことにも関係する、一つの磁場が存在していたように私には考えられる。
 その磁場とはなにか。それは、宗教的権威を人民に強制することで国家統合を推し進めようとする、近代天皇制国家のもつ、疑似宗教性への反発である。日本の近代国家建設に対する批判が、根源的であろうとすればするほど、それが政治的経済的レベルにとどまらないで、宗教の次元に踏みこまねばならなかった理由がここにある。国家のもつ疑似宗教性が必然的に呼び起こしてきた反発力が、この事件には作用しているのである。
 その反発力は、二つの方向をとった。ひとつは幸徳秋水の遺著に見られる、疑似宗教に対する科学的、歴史的批判であり、他は、内山、高木らに見られる、真実の宗教をもって疑似宗教を破る道であった。
    --阿満利麿『宗教は国家を超えられるか』ちくま学芸文庫、2005年、225ー227頁。

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「今思へばげに彼もまた秋水の一味なりしと知るふしもあり」(石川啄木)

大逆事件は、主として社会主義・無政府主義の系列で論じられ、時の政府の主義者つぶしという評価が根強く存在するが、社会主義・無政府主義者が抵抗しようとした対象については、宗教者の対峙する陣列もあったわけだから、そのへんのことを阿満さんの文章から冒頭で紹介させて頂きます。

日本の、日本教的な問題は……それが近代に由来するものであれ・プレ近代に由来するものであれ……基本的には天皇制に帰着します。もちろん、天皇を「奉る」連中にこそ問題がありますが、差別の構造としては歴然として存在する。この事実は否定することができない。

明治維新後の近代日本の歩みのなかで、もっとも大きなその問題とは何か--。いくつもあるでしょうが、そのひとつは、いわずもがな、天皇が「象徴」する「国家」の宗教的権威とその強制の問題でしょう。

そもそも根拠もナニも存在するものではないから、インチキでこけおどしするしかない。だから神道=非宗教というカラクリをこしらえるしかない。

だから、まさに「疑似宗教」の発明・創造である。

さてと……そうした疑似宗教としての国家に対抗する陣列として大逆事件と捉え直すとすれば、その反撥は二つの方向性をまじえたもの。すなわち「ひとつは幸徳秋水の遺著に見られる、疑似宗教に対する科学的、歴史的批判であり、他は、内山、高木らに見られる、真実の宗教をもって疑似宗教を破る道」である。

幸徳のアプローチを世俗内・形而下からのそれとみるならば、「真実の宗教をもって疑似宗教を破る道」は世俗外・形而上からの批判とみることができます。

しかし、両者に共通することは何か。さきほど言ったとおり、根拠のない妄想のような想像という絡め取りに対して抵抗することである。

20世紀最大の神学者といってよいティリッヒは、ナチズムを経験するなかで、世界の諸宗教の最大の敵は、疑似宗教(quasi-religion)だと喝破した。

仮象にすぎない国家や制度を、しごく大事なものと奉ることのインチキさは、まさに宗教性を帯びたものであり、疑似宗教にほかならない。

とがって反社会的をきどれということではない。

しかしながら、社会に対して「一見」すると「調和的」だとか「ためになっている」とする良識の落とし穴に落ち込んでしまうと、大事なものを見失ってしまうかもしれない。

宗教とは共同体の紐帯として機能する側面が強いが、それを超克するものでもあったこと忘れてはならない。この国では、国家管理=公認教どやぃ!ということで安住する風潮がつよい、反社会性でいきがり、事件をおこすのは問題であることも承知しているし、どこの国の教会でも寺院でも、いざ戦争になれば、平和を祈るだけでなく「その国が勝つ!」ことを祈り出す。

しかし、宗教が普遍的な救済を「建前」(としてだけでも)「説く」のであれば、どこかで、特殊的な枠組みに対する「対峙」する「矜持」は併せ持つ必要があるのではないか。

そんなことを実感する。

大逆事件の検挙、そして死刑から1世紀以上すぎたが、風当たりは愈ゝ強くなっているのではあるまいか。

そんな気がします。

因みに幸徳秋水が死刑台に上ってから1年後(1912年)。国家に貢献を誓うことで国家からその存立を「認めます」という三教会同が行われる。


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覚え書:「妖怪学の祖 井上圓了 [著]菊地章太 [評者]柄谷行人(評論家)」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。


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妖怪学の祖 井上圓了 [著]菊地章太
[評者]柄谷行人(評論家)  [掲載]2013年03月10日  

■妖怪で哲学を説いた啓蒙主義者

 近年、井上圓了といえば、妖怪の研究者で、漫画家水木しげるの大先輩のような人だと考えられている。が、彼は明治初期、井上哲次郎と並ぶ哲学者であった。そして、彼が「妖怪学」という講座を開いたのは、哲学を民衆に説く方便として、である。妖怪といっても、今なら人が幻想と呼ぶものに相当する。たとえば、国家は共同幻想だというかわりに、国家は妖怪だというようなものだ。
 とはいえ、圓了は文字通り、さまざまな妖怪現象を調査し、それが幻想であることを人々に説いてまわった。その意味で、彼は啓蒙(けいもう)主義者であった。したがって、妖怪について書いた民俗学者柳田国男は、先行世代の圓了を嫌った。ロマン主義的な柳田にとって、妖怪は消滅しつつあるフォークロア(民俗)の一種として重視すべきものであったから。しかし、実際には、圓了は柳田に劣らず全国を歩いて妖怪について調べ、それを文学的装飾なしに記録した。現在、日本の漫画・小説などで引用される妖怪はほとんど、圓了の著作にもとづいている。
 しかも、彼の「啓蒙」はそれに尽きるのではない。妖怪にはいくつかの種類がある。いわゆる妖怪は仮象であり、自然科学によって真相を解明できる。しかし、そのような仮象が除かれたあとに、人は真の妖怪(真怪)に出会う。それは、この自然世界そのもの、カントでいえば物自体である。実は、圓了は、明治の浄土真宗派から出てきた宗教改革者だった。彼は仏教的認識を、哲学として、さらに、それを妖怪学として語ろうとしたのである。
 彼は大学を出た後、どこにも属さず、自分で学校を創設した。型破りの人物である。本書は、いわば圓了自身の「妖怪」性を、ヴィヴィッドに伝えている。さすが圓了が創立した東洋大学で、現在「妖怪学」という講座を担当する著者ならでは、と思わせる本である。
    ◇
 角川選書・1785円/きくち・のりたか 59年生まれ。東洋大教授(比較宗教史)。『悪魔という救い』など。
    --「妖怪学の祖 井上圓了 [著]菊地章太 [評者]柄谷行人(評論家)」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013031000005.html

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妖怪学の祖 井上圓了 (角川選書)
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覚え書:「吉田神道の四百年 神と葵の近世史 [著]井上智勝 [評者]荒俣宏(作家)」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。


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吉田神道の四百年 神と葵の近世史 [著]井上智勝
[評者]荒俣宏(作家)  [掲載]2013年03月10日


■神使いの「仁義なき戦い」

 まさに吉田神道を主軸に据えた神道各派の「仁義なき戦い」である。
 きっかけは、応仁の乱にともなう社会の混乱を利して、日本中の神を統率する「神使いの覇者」を目指した吉田兼倶(かねとも)の野望にあった。この人、社会と人心の荒廃に嫌気のさした伊勢のご神体が「神宮を抜け出して吉田神社の斎場所に飛び移ってきた」と称し、伊勢の権威を奪い取ってしまう。また神道界のトップ神祇(じんぎ)伯・白川家と同等の肩書を創設し、神位・神職の位階を授与する権限を掌握する。
 仕上げに、吉田神道は死んだ家康を神に格上げする寸前まで行くのだが、当時ローカルな神道だった「山王一実神道」での祭祀(さいし)を推す天海僧正に阻まれる。
 正一位の位階を分霊とセットで供与する伏見稲荷神社の新ビジネスとの対立や、白川家との覇権争いといった、吉田神道をめぐる俗っぽい争いの中で徳川の威光が地に落ち、「天皇」が再浮上するという経緯を解明する試みも斬新だ。
    ◇
 講談社選書メチエ・1575円
    --「吉田神道の四百年 神と葵の近世史 [著]井上智勝 [評者]荒俣宏(作家)」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013031000012.html


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研究ノート:「ハイゼンベルクの不確定性原理」についてのひとつのまとめかた


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ハイゼンベルクの不確定性原理
 不確定性原理とは、一言でいえば、「この世で人間にわかることには限界がある」というものです。主体が客体を正確に観測できるという、近代科学の大前提が成り立たないことを唱えた、一種の思考実験でした。
 科学において、主体が客体を観測するというのはどういうことなのか。まず例として、温度計でお湯の温度を測ることを考えてみましょう。
 学校の理科の実験で、お湯の温度を温度計で測るさい、「温度計を温めておくように」と言われた人は多いでしょう。温度計を冷たいままお湯に入れたら、お湯の温度が下がってしまうので、もとの正確な温度を測れなくなるからです。
 ところが温度計を温めておいたとしても、お湯の温度とぴったり同じにすることはできません。測る前のお湯の温度はわからないからです。見当で温めますが温めすぎたらお湯の温度が上がってしまいますし、低かったら冷めてしまいます。
 すると問題は、対象に影響を与えずに観測することは原理的にできるのか、ということになります。たとえば、物体を見るためには光を当てなければいけない。しかし、光はエネルギーですから、光を当てれば人間が日焼けするように、対象の物体も必ず化学変化します。
 ではどうすればいいか。思考実験で原理的につきつめると、当てる光を無限に小さくすればよい。小さくしたら見えなくなりますが、無限に当てる光を小さくすれば、無限に影響も小さくなるので、原理的には観測は可能だと考えられていました。
 ところが一九〇〇年に、光のエネルギーには量子という最小単位があって、波長が同じ場合には一定以下にはできないという考え方をしたほうが、実験結果を説明できるという説が唱えられました。これが発展して量子力学になり、しだいに定説になります。
 そうなると、当てる光量を無限に下げることはできないことになります。だとすれば、対象を変化させないで観測することはできません。一定以下に下げるなら波長を変えて長くするしかありませんが、あまり長くすると、メートル波長のレーダーでは小さな物体をとらえられないように、素粒子のような極小の世界を正確にとらえられなくなります。
 つまり観測をやっても、必ず一定の不確定の領域、わからない領域が発生することになります。これが、不確定性原理の考え方でした。
 そうなると人間は、対象を把握できない、世界を完全には把握できないということになります。科学には絶対などありえない、ということが、科学的に立証されてしまったわけです。これはヨーロッパの近代哲学と近代科学の前提が、崩れてしまったことを意味します。
 こうした学説が、ほぼ同時期に唱えられた相対性理論とあわさって、近代科学を過去のものにしてしまいました。ニュートン力学は、日常世界の応用には近似的に使えますが、宇宙のように大きな世界や、原子や素粒子のような小さな世界には使えない、ということになりました。
    ーー小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書、2012年、339ー341頁。

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覚え書:「書評:漂流老人ホームレス社会 [著]森川すいめい [評者]松永美穂」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。


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漂流老人ホームレス社会 [著]森川すいめい
[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)  [掲載]2013年03月10日   [ジャンル]社会 

■表向きの平等が孤立に追いやる

 新宿西口にずらりと並ぶ段ボールハウスが話題になった時期があった。都内の大きな公園に、ブルーシートをテントのように使って暮らす人々がいた。公園から排除された後は、河川敷などで暮らしている人を見かける。なかには互いに助け合い、電化製品も使いこなして自由な生活をしている人もいるらしい。しかし、本書でとりあげられているのは、孤立し、もっとも弱い立場にいる人々だ。認知症、アルコール依存症、知的障がい、統合失調症……。自分の状態が把握できなくなっている人々に声をかけ、医療や福祉の現場に結びつけ、どこでどんなふうに暮らしたいかという、人間として当たり前の希望を口にできるように辛抱強く促していく。本書は、池袋でそのような活動をしているNPOの代表者が、活動の実態と、あるべき支援の形を伝えるために記したものだ。
 統計上は、ホームレスの数は減っているのだという。しかし、福祉事業の名のもとに、生活保護費をピンハネされる形で狭い部屋に押し込められている人々も相当数いるに違いない。「経済競争力の糧にならない人間」を、「どこかの施設に入れることで安心していないか」と、著者は問いかける。個々のケースを読むだけでも衝撃的だけれど、この本はさらに、人間の尊厳についての議論に、読者を引き込んでいく。ことに考えさせられるのは、「みんなが平等であることを前提とする社会は、人間を、ホームレス状態に押しやる」という著者の主張だ。表向きの機会均等が、ホームレス状態に陥った人々に「努力不足」のレッテルを貼ることになり、逆にその状態に封じ込めてしまう、というのだ。
 現代では誰でもホームレスになり得る。本書にも以前は会社社長だったホームレスが登場する。多くの人が自分の問題としてこのテーマに出会うことを期待したい。
    ◇
 朝日新聞出版・1470円/もりかわ・すいめい 73年生まれ。精神科医。NPO法人「TENOHASI」代表。
    --「書評:漂流老人ホームレス社会 [著]森川すいめい [評者]松永美穂」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。

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覚え書:「書評:飛雄馬、インドの星になれ! [著]古賀義章 [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。

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飛雄馬、インドの星になれ! [著]古賀義章
[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)  [掲載]2013年03月10日


■ちゃぶ台返しにNG、交渉奮闘記

 昨年12月、インドの3大人気チャンネルの一つで、アニメ番組が始まった。番組名は「スーラジ ザ・ライジングスター」。あの「巨人の星」のインド版だ。本書は、番組の仕掛け人が放送までの紆余曲折(うよきょくせつ)を綴(つづ)る。
 学生時代にインドを放浪した著者は、「巨人の星」のインド輸出を思いつく。会社はチャレンジを承認したものの、部署は自分ひとり。不安を抱えたままインドに旅立つ。
 問題は山積していた。テレビ局をどうするか? 巨額の制作費は? 原作者は認めてくれるか? しかし、最大の問題は「巨人の星」がインドでウケるかだった。そもそも国民の大半は野球になじみがなく、ルールも知らない。
 そんな中、著者は大胆にも、設定をクリケットに変更し、難関を突破する。クリケットはインドにおける国民的スポーツで、お金持ちからスラムの少年まで浸透している。スター選手の知名度は抜群だ。
 若い頃はインド代表に選ばれるほどの選手で、いまはオートリクシャー(三輪タクシー)の運転手である父が、息子をスター選手に導くストーリーとなった。また神話的叙事詩『マハーバーラタ』をモチーフに再構成。「スーラジ」という主人公の名前は太陽神を暗示し、ライバルには雷神のイメージを付与した。
 しかし、問題はまだあった。インド側から「大リーグボール養成ギプス」が児童虐待にあたると問題視されたのだ。さらに、ちゃぶ台返しは食べ物を粗末にすると指摘され、父が酒を飲むシーンもNGとなった。一体どうすればいいのか。
 著者は、問題を一つ一つクリアし、原作の名シーンを残しつつ、放送開始にこぎつける。そのプロセスは抜群に面白い。
 本書は単なるビジネス成功本ではなく、興味深いインド文化論になっている。是非、日本でもスーラジの雄姿を見てみたい。
    ◇
 講談社・1365円/こが・よしあき 64年生まれ。講談社国際事業局担当部長、「クーリエ・ジャポン」元編集長。
    --「書評:飛雄馬、インドの星になれ! [著]古賀義章 [評者]中島岳志」、『朝日新聞』2013年03月10日(日)付。

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なぜ建国記念日に反対するか


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 なぜ建国記念日に反対するか

本誌 かつて宮様は建国記念日の問題が出ましたさい反対の意思表示をされたと記憶するのですが……。

三笠宮 私の反対したのは、「二月十一日」という日にちの問題がいちばん大きかったんです。この日を建国記念日にするということに納得しかねたからです。『日本書紀』をみますと、神武天皇の即位は正月朔(ついたち)とあるわけです。
 二月十一日とは書いていない。明治五年にはこの正月元日を太陽暦の一月二十九日と計算し、翌明治六年にはまた変更して二月十一日を紀元節としたわけです。ところがこの計算のモノサシが、歴史学的にみてでたらめだったということなんです。それに建国記念日というのは新しい国に多い。イギリスのようなひじょうに古い国は建国記念日を持っていない。ですから、建国記念日がわからないぐらい古いということを誇ってもいいんじゃないかと思うんです。
 しかし日本の建国記念日は、明治五年にできたばかりで、伝統ある祝日とはいえません。それでもなお建国記念日がつくりたいのなら、シンボリカルな日にすればいいので、『日本書紀』にある正月元日をそのまま建国記念日にすればいい、といったわけです。
 というのは、歴史学的にみると正月元日というのは意味のある日なんです。メソポタミアでも、バビロニア王の即位式は新年祭のときに行われました。
 新年というのは農耕社会における一つのエポックメーキングで重要な祭日なんですよ。だから、日本の場合も、天皇の即位が正月元旦に行われたということが、可能性がないわけではない。
 それと、建国記念日論争当時のもう一つひじょうに世俗的な欲求は、二月に祭日がないので、何かつくりたいということでした。だから、そんなら二月の立春の日を記念日にしたらと妥協案をもち出したわけです。むかしの日本の正月は立春だったろうといわれますから……。

色川 歴史月の学会が反対したのは宮さんのいわれたとおり、学問的根拠がないということと同時に、二月十一日を建国記念日にすると、明治憲法の公布の日や明治時代にこしらえた紀元節と重なってしまう、軍国主義時代の悪しき思い出が復活されるというので反対したんです。

本誌 戦後世代が社会の大勢を占めるようになるとともに、天皇制の問題が繰り返し論議されるようになると思いますが、宮様はどうお考えでしょうか。

三笠宮 これは憲法にもあきらかなように、すべて国民に任せるという気持ちですね。

色川 国民が望むか、望まないかの問題ですね。

三笠宮 そういうことだと思います。

色川 国民投票だな(笑)
    --三笠宮崇仁、色川大吉「対談 帝王と墓と民衆」、『潮』潮出版社、1974年3月、95-96頁。

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「イギリスのようなひじょうに古い国」と言われると、ちょと「ぇ!」とは思ってしまいますが、いわゆる大国のなかでは……もう斜陽してるやんけというツッコミはご容赦を……古い方だからありかと思いつつも、現在の「建国記念の日」がなんらかの適切な根拠に基づくものではないことを明解に、「宮様」が言及する文章でありますし、引用中の末尾のほうで「戦後世代が社会の大勢を占めるようになるとともに……」というリードがありますが、この対談から40年ちかくたった現在、そういうアレもあったのかということは殆どの歴史の向こう側に忘却されつつあるなあ、と思いましたのでご紹介する次第。

もちろん、宮様の意図は別でしょうけど、いわゆる「酷使」さま、こうしたカラクリが存在することには自覚的であって欲しいと思います。

ついでにいえば、戦後、2月11日が祝日に加えられるのは1966(昭和41)年のこと(適用は翌年から)。

1968(昭和43)年が、明治百年にあたるので、その前後から急旋回が始まります。

ちなみに昨年は大正百年。

さてさて、どんな転回がはじまることやら(コワイ


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帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの (1956年) (カッパ・ブックス)
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覚え書:「今週の本棚:愛と憎しみの豚=中村安希・著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。


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今週の本棚:愛と憎しみの豚
中村安希・著
(集英社・1680円)

 関西で肉まんを「豚まん」と呼ぶのは、それだけ牛肉の方が身近だから、と大阪出身の知人に聞いたことがある。松阪牛、伊賀牛の産地を抱える三重県で育った著者にとっても肉といえば牛だった。だが、米国留学中に豚を「再発見」したことが、時に愛される豚という存在への興味につながっていく。
 人と豚の関わりを訪ねるルポは、まず、豚を「けがれ」とみるイスラム圏へ。だが、宗教的禁忌の論理を探っていたはずの地で、チュニジア「ジャスミン革命」についての先進国的な思いこみが揺さぶられる。イスラエルでは、共同農業コミュニティ・キブツの食の変遷を通じて、生身のユダヤ人の考え方やイスラエル政治の断面が描かれる。「豚をめぐる冒険」は、やがて、東欧を経てチェルノブイリに達し、シベリアへと至る。
 データや証言を重ねて特定の結論に導くタイプのノンフィクションではない。だが、市井の無名の人生を集め、豚を追う軌跡という補助線を引くことで浮かび上がるのは、紛れもなく今の世界のありようだ。読後、豚料理が食べたいような、いざ皿を前にするとためらってしまいそうな、不思議な気分が残る。
    --「今週の本棚:愛と憎しみの豚=中村安希・著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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愛と憎しみの豚
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覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『店員』=バーナード・マラマッド著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。


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今週の本棚:荒川洋治・評 『店員』=バーナード・マラマッド著
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊

 (文遊社・2940円)

 ◇心の変化と発展を克明につづる名作

 アメリカ文学の新しい扉を開いたユダヤ系作家バーナード・マラマッド(一九一四-一九八六)の代表作。一九五七年の発表。日本では、三人の翻訳が出た。いずれも『アシスタント』(店員、の意味)。そのひとつ、新潮文庫版(加島祥造訳・一九七二)『アシスタント』四十一年ぶりの新版となる本書で、訳者は『店員』と題を変えた。ありそうで、ない。いい題だ。

 モリスは、ユダヤ系移民。ニューヨークの一角で小さな食料品店を営み、妻、娘と暮らす。

寒い日でも、モリスは、朝六時に店をあける。名前も知らない「ポーランド女」が、種なしのロールパンの半分(三セント)を買いに来るからだ。もう十五年も彼女は、この店でパンを買うのだ。

 向かいにできた新しい店に客をとられ、さらに貧しくなる暮らし。モリスは店をつづける。

 そこに、新しい「店員」が入る。以前この店で強盗をはたらいた青年フランク(イタリア系アメリカ人。孤児院で育った)が罪をつぐなう気持ちからだ。一家はそのことを知らない。

 青年は、モリスの娘ヘレンに思いを寄せる。「ぼくは悪いことをするときでさえ、善(よ)い人間なんだ」という。現に彼は、店の売上げをときどき「くすねて」いる。でもいつか店に返すつもりで、金額をこまめに記録する人でもある。善と悪、二つをもつ。そこに彼の苦難がある。ある日、罪を告白したフランクは、店を追われる。

 モリス夫妻、フランク、ヘレンの独白をはさみながら、彼らが人生への思いを変えて、とけあっていくようすを克明に、感動的に描く。

 「人間には奇妙なことがある--人間は外見が同じに見えて、しかし変化している」というヘレンのことばは、一編全体をおおう。希望をひろげることばでもある。

 モリスの死後、この店に戻ったフランク。冒頭の場面と同じように、早朝、いつもの「ポーランド女」が、ロールパンを買いに来る……。フランクはかつてのモリスと同じ人生のなかに入る。店を守っていくのだ。心の変化と発展が静かに、鮮やかに記されていく。

 こまかいところが次々、読者におそいかかる。そういう作品でもある。贈物の場面も、そのひとつ。

 知りあってまもないころ、ヘレンは、フランクからもらった贈物を、せっかくだからもらっておけばよいのに、彼に返しに行く。翌朝、それはごみ缶に捨てられていた。それをヘレンはまた、彼にもっていく。「君はどっちのほうがほしい?」「あたし、本のほうにするわ」。子どもみたいな会話のあと、ヘレンは贈物をひとつだけ受け取ったりするのだ。

 これでよいのかという感じ。それぞれの人の、別の人への態度が、そろわないように、この小説はつくられている。平凡な直線をもたない。そこにおどろかされる。たびたびおどろき、こちらもあらためて、ラインを引き直すことに。小さいと思えたものが大きな波をつくる。読む人の視点が底をつくような、深みのある長編だ。

 店員は、どんな心の世界をもつのだろう。ひとつの役割を与えられる。日々工夫をする。知らない客とことばをかわす。数える。動く。過ごす。待つ。いつでも自分をもちながら、かたときも自分ではない。直線的になれないのだ。でもそこで生きる。新しい一日をつくりだす。人はどこかで、ひとりの店員なのかもしれない。誰もが親しみを感じる名作である。(加島祥造訳)
    --「今週の本棚:荒川洋治・評 『店員』=バーナード・マラマッド著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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覚え書:「だいあろ~ぐ:東京彩人記 被災地の障害者題材に記録映画製作・西尾直子さん /東京」、『毎日新聞』2013年03月13日(水)付。


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だいあろ~ぐ:東京彩人記 被災地の障害者題材に記録映画製作・西尾直子さん /東京
毎日新聞 2013年03月13日 地方版

 ◇介助者不足が浮き彫り--西尾直子さん(37)

 東日本大震災発生から2年。あの日、障害がある人たちに何が起きたのか。待ち受けていた状況は--。被災地の障害者の声からさまざまな課題や問題点を切り取ったドキュメンタリー映画「逃げ遅れる人々」が完成した。製作メンバーの中心として何度も現地を訪れた東北関東大震災障害者救援本部東京事務局(八王子市)の西尾直子さん(37)に聞いた。

 --作品を撮るきっかけは?

 震災から2週間後、物資をトラックに積んで1週間被災地の障害者の元を回りました。みんな伝えたい感情や考えがあふれて、行く先々で毎晩何時間も話を聞きました。周りの風景が変わると共にこうしたことは忘れられていく。きちんと残さなきゃと。もともと障害者団体って、何かにぶちあたるとそれに集中してしまい、記録に残すことが下手なんです。友人に飯田基晴監督を紹介してもらいました。

 --登場人物一人一人が印象に残ります。

 個人的には、障害ごとに「こういう場合はこういう対応を」という教材のような作品を考えていましたが、飯田監督は障害者個人の葛藤や苦悩に切り込んだ。現場で打ち合わせながら撮影を進めましたが、新鮮でした。

 --取材や撮影を通じて気づいたことは?

 避難所にバリアフリートイレがない、仮設住宅にスロープがないといったインフラの不備を実感しました。トイレを何日も我慢し両足をぱんぱんに腫らしたり外の空気が吸いたいと涙する障害者に何人も会いました。震災を機にあぶり出された問題もありました。福島県南相馬市から名簿の提供を受け、障害者の安否確認を続けている団体に同行したときのことです。介助サービスを受けていなかったために避難情報を聞き漏らして孤立した盲ろうの夫婦に会ったり、家族が隠すように介助して生活している障害者も多く、驚きました。

 --震災発生から2年。被災地の障害者を取り巻く現状は?

 福島で介助者不足が深刻です。介助を担う若い人材が避難し、新たに職に就く人もいない。制度として保証されている介助時間がヘルパー不足から確保できない。障害者は仕方なく外出など社会と関わる機会を削っていますが、そのうち食事やトイレ、入浴といった生活の根幹を犠牲にせざるを得なくなるのではと心配です。行政の積極的な対応が必要な時期に来ていると思うし、問題は共有され始めたけれど、答えはまだ何も出ていない。

 --作品を通して伝えたいことは何ですか。

 障害は決して特別なことではなく、自分自身が当事者にもなり得ます。また、高齢者も含めれば緊急時に支援を要する人は周りにたくさんいるはず。いざというときのために何をしておけばいいのか考えるきっかけにしてほしいです。<聞き手/社会部・平林由梨記者>

 ◇記者の一言

 映画には南相馬市で弟家族と暮らしていた脳性まひの50代女性が出てくる。いまは新潟県内でひとり避難生活を送る。殺風景な一軒家で生まれ育った故郷の話で涙するシーンが心に残った。この女性が故郷に戻れても、介助者不足を解決しなければ満足な生活は送れない。原発事故がもたらした問題の根深さを感じた。

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 ■人物略歴

 ◇にしお・なおこ

 1975年、高松市生まれ。日本社会事業大学(清瀬市)卒業後、全国自立生活センター協議会の事務局に就職。震災の翌日から被災地の障害者支援や避難コーディネートなどを担う。仮設住宅のバリアフリー化や介助者の確保などを求め、国や県、自治体との交渉も行う。DVD「逃げ遅れる人々」は一般価格3000円、上映権付き団体価格は1万円。問い合わせは救援本部(042・631・6620)まで。
    --「だいあろ~ぐ:東京彩人記 被災地の障害者題材に記録映画製作・西尾直子さん /東京」、『毎日新聞』2013年03月13日(水)付。

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覚え書:「今週の本棚・この3冊:3.11=松岡正剛・選」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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今週の本棚・この3冊:3.11=松岡正剛・選
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊

 <1>ツナミの小形而上学(ジャン=ピエール・デュピュイ著、嶋崎正樹訳/岩波書店/1995円)

 <2>鯨と原子炉(ラングドン・ウィナー著、吉岡斉・若松征男訳/紀伊國屋書店/品切れ)

 <3>アクシデント(ポール・ヴィリリオ著、小林正巳訳/青土社/品切れ)

 あえて海外の三人の目を通した3・11を選んでみた。

 まず、スマトラ沖地震津波のあとに書かれたデュピュイの『ツナミの小形而上(けいじじょう)学』だが、この本はこれからの世界の災害はすべからく「ツナミ的なるもの」との遭遇によって語られるべきだとして、二十一世紀の哲学もそうした災害観察とその渦中での思索から生まれるべきだと提案する。その通りだ。

 この提案は、一七五五年のリスボン地震によって、ヨーロッパ思想がそれ以前の予定調和観からルソーやヴォルテールの啓蒙(けいもう)力に大転位したことを思い起こさせる。日本はそのような取り組みに向えていない。

 ウィナーの『鯨と原子炉』は、鯨のような生きものの多様性を忘れると、原子炉の限界を認識することを忘れてしまう危険を指摘して、これからのわれわれが人を含めた環境生物と原子炉を含めた技術環境の両方の「システム」を同時に相手にして生きていかなければならない、それにはときに原子炉を鯨とみなせる技術知性が必要だと訴えた。これもその通りだ。

 ヴィリリオの『アクシデント』は「事故と文明」という副題をもった名著。現在の文明は圧倒的な速さと事故の大きさとによって過去の文明とまったく異なっているものになってしまったのだから、われわれは自分たちの意識や知性も速度と事故によって変形を受けていると見たほうがいい。

 それなのにそのことをあまりに看過してきたため、いまや文明的な知性はかなりの危機に瀕(ひん)してしまった。これではまずい。ここはいよいよ、事故のたびに技術文明が隠してきたことたちを、かつて神話が隠してきたことを全知性が解明したように、いよいよ白日のもとに晒(さら)すべきだ。そのためには事故から目を背けず、すべての事故の残骸を残しておくべきである。そういう主張である。

 被災者が見たくない事故の痕跡からしか新たな文明観は生まれないというのだから、これはそうとうラディカルな主張だ。しかしこの見方が、かつてヴァレリーが「道具は便利になると意識から消えていくが、新たな意識は事故によってしかめざめない」といった意味であるとするなら、その通りなのだ。

 以上、三つのヒントがぼくの3・11の読み方を変えたのだった。
    --「今週の本棚・この3冊:3.11=松岡正剛・選」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚:海部宣男・評 『シロアリ』『サボり上手な動物たち』」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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今週の本棚:海部宣男・評 『シロアリ』『サボり上手な動物たち』
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊


拡大写真
 ◇『シロアリ』=松浦健二・著

 (岩波科学ライブラリー・1575円)

 ◇『サボり上手な動物たち』=佐藤克文・森阪匡通、著

 (岩波科学ライブラリー・1575円)

 ◇科学の面白さ、最前線を新たな装いにして

 「岩波科学ライブラリー」が二百冊を超え、好調である。新書が持っていた科学分野の一般読者向け総説、といった重さを捨て、バラエティに富んだテーマをトピックス的に取り上げる。シリーズ創刊二十年、当初は地味で小さな本という印象で、出版も滞りがちに見えた。だが二〇〇五年に装丁を一新して見た目も良くなり、『ハダカデバネズミ』『決着! 恐竜絶滅論争』『ヒトはなぜ難産なのか』など斬新なテーマでの出版が、月一-二冊のペースで続いている。

 同じ岩波の伝統ある雑誌『科学』は、社会的視点を強めた結果、かつてのような科学自体の面白さやその目覚ましい発展を伝える役割を失った。残念ではあるが、一般読者にはこの「科学ライブラリー」が、科学の面白さ、最前線を新たな装いで伝えてくれるようになった。

 科学の紹介でも、ビジュアル情報は大事だ。その点やや物足りなかったが、カラー写真やイラストを入れたものが出始めたことを歓迎したい。紹介する新刊二冊は、ともに動物の生態に関するもの。カラー写真、愉快なイラストをたくさんちりばめ、電車の中や就寝前に楽しめる。著者たちが一九六〇-七〇年代生まれ、ピッチピチの現役研究者なのも新鮮だ。研究現場の活気と興奮が伝わってくる。

 『シロアリ』は、読んでずいぶんと驚かされた。著者は野山を駆け回った子供時代にシロアリの巣を見てとりこになり、大学院で研究テーマをシロアリに定め、下宿のコタツでシロアリを飼ったという豪の者。大学院時代からヤマトシロアリ(羽アリの季節以外は潜っているが、どこにでもいるらしい)の生態で大発見を連発。女王は単為生殖で後継者を産むし(つまり遺伝子的には不死)、王様のほうはやたら長生きだ。シロアリの巣に紛れ込んで増殖するカビの一種「ターマイトボール」の発見や、このカビがいかにシロアリのワーカーたちに卵と誤認させて毎日世話をさせるか等々。そうした発見を述べる著者の筆も、なかなかに軽快である。

 シロアリはアリやハチとは別種で、ゴキブリの仲間だそうな。それが「社会性昆虫」としてアリやハチとそっくりな生態を発達させたことにも驚かされる。その背後には、進化という玄妙な運動原理が働いているのだ。

 考えてみれば、海中の生物の日々の生活も、私たちはほとんど知らない。海岸や海面での活動だけで知ったつもりではならじと、生物の水中での行動を記録する「バイオロギング」による研究が進んでいる。最近テレビでも見るイルカに背負わせたカメラでの水中映像などは、その成果だ。『サボリ上手な……』は、バイオロギングによる海中生態学研究の現場報告である。

 小型のカメラ、深度計、速度計、加速度計や音響記録計を開発し、カメやイルカといった大型動物だけでなく、海鳥や魚にまで取り付ける。彼ら彼女らが普段どおり餌を追い、追われ、子供を育てる行動がそのまま記録・回収される。こうして彼らの日常生活がどんどん明るみに出て、ここでも驚きの連続だ。

 バイオロギングの開発には、日本の研究者の貢献も大きい。東大大気海洋研究所で研究にいそしむ著者たちが繰り出す動物たちの海中行動報告は、臨場感あふれる。著者が強調するのは、速く泳げる動物たちも、「普段はゆったり泳ぐ」ことだ。サボって余計なエネルギーを使わないことこそ、最も良く生きる道。でもイルカなどは大いに遊ぶようで、そこにもひとすじ縄でいかない「生物」の面白さがある。
    --「今週の本棚:海部宣男・評 『シロアリ』『サボり上手な動物たち』」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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覚え書:「みんなの広場 改憲許さない多数派づくりを」、『毎日新聞』2013年03月07日(木)付。


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みんなの広場
改憲許さない多数派づくりを
無職 77(京都市右京区)

 本紙の報道によると、安倍晋三首相は先月の憲法改正推進本部の会合に出席し、改憲の意欲を重ねて示し、自衛隊の国防軍への見直しを改めて主張したと報じられた。
 私は戦争中の国民学校で「若人よ海軍へ」と教えられた。そして戦後間もなく、新制中学で習った文部省発行の教科書「あたらしい憲法のはなし」にはこう書いてあった。「こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったのでしょうか」「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことを決めました」。二つとは戦争の放棄と、「よその国と争いごとが起こったとき、けっして戦争によって、相手を負かして、自分の言い分を通そうとしない、ということ」。
 安倍首相は96条にある憲法改正の発議要件の緩和を最優先にする意向という。今こそ改憲を許さない多数派を形成する必要がある。夏の参院選はこれまでになく重要な選挙となることを十分考えて投票しよう。
    --「みんなの広場 改憲許さない多数派づくりを」、『毎日新聞』2013年03月07日(木)付。

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覚え書:「みんなの広場 憲法9条は非戦の最後のとりで」、『毎日新聞』2013年03月08日(金)付。


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みんなの広場
憲法9条は非戦の最後のとりで
予備校講師 33(大阪府寝屋川市)

 政権に復帰した自民党による憲法改正の下準備が徐々に進められていますが、果たして改憲によって、私たち国民の生活は向上するのでしょうか。安全、自由、福祉が今より充実するのでしょうか。危機管理を強調した防衛増強や生活保護費削減などの方針を見ていると、自民党の憲法改正草案ではとうてい可能とは思われません。
 たとえば戦争放棄を掲げても、集団的自衛権の行使を容認すると、運用次第で自衛権行使の名の下に戦争をする国になります。そうなると、膨大な戦費は福祉予算を削ってカバーする事態を招き、さらには平和を求める人を非国民扱いする空気が生まれるでしょう。
 罪のない市民を枯れ葉剤や劣化ウランで苦しめる戦争に少なくとも直接参加しなかったのは、日本国憲法の前文と9条が立憲主義の最後のとりでとなったからに他ならないのです。
    --「みんなの広場 憲法9条は非戦の最後のとりで」、『毎日新聞』2013年03月08日(金)付。

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覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『マックス・ウェーバーの日本-受容史の研究 1905-1995』=W・シュヴェントカー著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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今週の本棚:本村凌二・評 『マックス・ウェーバーの日本-受容史の研究 1905-1995』=W・シュヴェントカー著
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊


 (みすず書房・7875円)

 ◇分厚い「近代の主導者」研究の源をたどる

 この国で半世紀以上も生きてきて、多少の教養があれば、マックス・ウェーバーの名はなじみ深いのではないだろうか。来日したスイス人の宣教師は最初の年を岩手県の寒村で過ごしたが、そこでウェーバーの思想について説明を求められたという。しかし、この学者が学問の境界線を越えるほどに受容されるには、長い歴史が必要だった。

 その受容史に一つのピークが訪れたのが、一九六四年、ウェーバー生誕一〇〇年を祝う東京大学でのシンポジウムである。その年、東京オリンピックがあり、高校生の私は期末試験の準備もせずに、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みふけっていた。十代の若者にとって、その名はトルストイやドストエフスキーとそれほど異ならないものだった。偉大な学者の主著の一つを未熟な高校生が手にするような時代がすでに来ていたわけだ。そこにはどのような底流がひそんでいたのだろうか。

 ドイツ語の博士論文「日本経済史論」でも名高い福田徳三が日本人ではじめてウェーバーに言及したという(最近ではそれ以前にもあったと指摘されている)。二〇世紀初頭のことであり、ウェーバー自身が四十歳前後のころである。とはいえ、ウェーバーは存命中も死後数年経(た)っても社会科学の巨匠として欧米の学界で認められていたわけではない。ウェーバーの受容はあくまでゆっくりと進んでいった。

 だが、日本では、一九二〇年代以降、ウェーバーの広く深い影響が見られ、それは独特な形をとることになる。その背景には、幕末以後に急速な近代化がおこり、社会組織と生活態度の近代様式への適応に成功したことがある。

 日本と同様にドイツは英仏に比べて後発で産業化しなければならなかった。若きウェーバーはドイツ・東エルベ地域における農業労働者の実態調査に取り組んでいる。これらの労働者は必ずしも安定した職業にとどまろうとしなかった。その事実はウェーバーにとって驚きであり、それが彼の「資本主義の精神」研究への出発点をなす。だから、ウェーバーの受容はまず経済学者や社会政策学者の関心事だった。

 第一次大戦後、ドイツに留学した日本人学者がおり、また、経済学者K・ジンガーや哲学者K・レーヴィットのように日本滞在を決意したドイツ人学者もいた。なかでも、ナチの反ユダヤ政策で教職を追われたレーヴィットの来日は大きな影響をもたらす。彼はすでに『ウェーバーとマルクス』を発表していたが、この邦訳本はこれまで43刷にまで達しているほどである。

 これをきっかけとして、マルクス主義陣営もウェーバーに取り組む。それは日本のウェーバー研究をさらに活性化させたという。その背景にはロシア革命の成功があるが、時代は世界恐慌からナショナリズムと軍国主義へと傾斜していた。体制に不安をいだくリベラル派の学者たちは孤立感を深めるなかで、いわば「国内亡命」としてウェーバーの「価値自由」なる学問論にある種の慰めを見出(みいだ)すほかはなかった。それとともに、妻マリアンネによる伝記と心酔する哲学者ヤスパースの論考は「求道者」としてのウェーバー像をつくりあげるのに一役かうのであった。

 第二次大戦後の「第二の開国」が到来すると、アメリカ化の荒波とともに、マルクス主義も再生する。それに対抗する形で、経済史家の大塚久雄(かつてジンガーの助手を務めた)、政治学者の丸山眞男、法学者の川島武宜などの学者が表舞台に登場した。マルクス主義者からすれば「ブルジョワ派」であり、「近代主義者」であったが、彼らの影響は広く一般教養層におよんでいる。西洋の近代社会を範例として分析するウェーバーによりそいながら、近代日本は不完全な合理化過程として描かれたのである。その政治・法・経済・宗教をめぐる社会学には、日本社会という世界の「呪術の園」の断片を解明する手がかりがあるものとして受けとめられたのだ。

 一九七〇年ころから、日本のみならず、欧米でも、いわば「ウェーバー・ルネサンス」がおこっている。それは近代化論や官僚制化論に取り組むなかで、ウェーバーを近代の先導者としてだけでなく、その批判者として理解しようとする。まるでニーチェがヨーロッパの学問文化の仮面を剥ぎ取っていったことの社会科学版であるかのように。

 今日、ウェーバーの著作は主著2冊『経済と社会』『世界宗教の経済倫理』にいたるまで、ほとんど翻訳されている。また、ウェーバーについて日本語で書かれた著書、論文は七〇年代にすでに二〇○○点を超えているという。まさしくわが国のウェーバー研究は特殊であるとともに、十分な厚みを誇っていい。その意味で、本書はドイツ人の手になる良質な日本文化論として読むこともできる。(野口雅弘ほか訳)
    --「今週の本棚:本村凌二・評 『マックス・ウェーバーの日本-受容史の研究 1905-1995』=W・シュヴェントカー著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130310ddm015070163000c.html

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覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』=文・池上正樹、文・写真・加藤順子」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。


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今週の本棚:池澤夏樹・評 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』=文・池上正樹、文・写真・加藤順子
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊

 (青志社・1575円)

 ◇悲劇は人間的な意味を持ち得たか

 宮城県の大川小学校。

 二年前、津波で百八名の生徒のうちの七十四名が犠牲になった。学校の管理下にあって、教師の指示のもとにみんなで避難して、避難しきれなかった。

 石巻の市街地から北東の方角へ十六キロ。北上川本流が太平洋に注ぐ河口から四キロばかり上流の、堤防から二百メートルほどのところにある。あった。

 学校建築としてなかなか凝った建物である。津波に襲われた上で焼けた(しかし学校管理下の子供たちを一人も亡くさなかった)石巻市内の門脇(かどのわき)小学校の四角い校舎と比べると、円弧を基本とした大川小学校のデザインには、子供たちに気持ちのいい空間を与えようという設計者の意志が見える。

 あの日の午後、地震の後で大川小学校の生徒たちは校舎を出て校庭に集まった。東北の海沿いの地で地震があればまず津波の襲来を考える。土地に根付いた常識と言っていい。

 「大川小学校の体育館脇には、誰でも登れる山があり、シイタケ栽培などで、子どもたちが日常的に登っていた。あの日、私たちの多くは、津波が来ても、あの山があるから大丈夫だろうと考えていました。スクールバスも来ていた」と子を失った父母の一人は言う。

 時間の猶予は五十分あった。その間に子供たちの間から「山さ逃げよう」という声が上がったという証言がある。しかし教師たちはそれを聞き流し、(おそらく)判断停止のまま校庭で待機を続け、ようやく北上川の堤防の脇にある「三角地帯」に避難という方針を出して生徒たちを動かしたが、それは津波襲来の一分前だった。公式にはそういうことになっている。

 運命の悲劇だったかもしれない。しかし悲劇は検証されてこそ人間的な意味を持つ。当事者の責任の追及ではなく、その時にそこで何が起こったかを解明して、同じことが繰り返されないよう教訓を得る。

 東日本大震災は多くのことを我々に教えた。その一つが、自然は人間社会の倫理的に弱いところを突いてくるということだ。福島第一原発の崩壊と事後はその典型である。大川小学校についても同じことが言えるらしい。

 その時に何が起こったのか、解明が進まない。子を失った父母のために説明会が開かれるが、肝心のところがわからない。生き残った子供たち相手の聞き取り調査は不充分で、メモは廃棄されたという。

 「通常業務の中のメモじゃないんですよね。(児童が)74人死んでいる報告--調査書ですよね。それを捨てるというのは、公務員としてはどうなんですか?」という問いに「それに対しては、大変申し訳なかったと思っています。この前も謝りました」という答え。

 二人のジャーナリストが足繁く現地に通い、人々の話を聞き、公文書の開示を請求し、官僚機構の霧に隠された五十一分を解明しようとした。充分に整理されたとは言えない取材の記録だが、それでも謎の輪郭は見える。

 教育委員会はひたすら逃げ、ただ一人生き残った教師は今も病院に籠もって証言をしないという。

 対照的に岩手県釜石市の事例が思い起こされる。普段から津波避難の訓練を重ね、学校にいた小学生と中学生計二千九百二十一名に犠牲者を出さなかった。「率先避難者たれ」というスローガンを周知徹底、主体的な避難を促した。子供や教師を指示待ち状態に閉じ込めなかった。
    --「今週の本棚:池澤夏樹・評 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』=文・池上正樹、文・写真・加藤順子」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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「人間を内面から変えていくという、そういう人間変革の問題」としての「社会変革」


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 --ある意味でキリスト教を捨てて文学をやったというか、そういう人の中にほんとうのキリスト教的なものがあったのでしょうか?

 そこが内村などには非常に問題になったところでしょうが、例の芸術的価値の追求や政治的価値の追求と宗教的価値の追求の間にみられる激しい緊張の関係、相当のところまで両者は重なり合っていきながら、やはり窮極のところで激しく衝突し、切りさかれることになる、そういう点が内村の場合には非常に問題となっているようですね。ともかく、こうして内面的緊張がなくなっていくと、もうプロテスタンティズムはマルキシズムにたちまち席巻されるという弱さを内包してくるわけです。大正末期から昭和初年にそれが現実に現れることになった。内村の場合には一面社会主義に非常に近づきながら、一面その現世主義や科学主義にはきびしいですね。彼には、アメリカ人にみられるような小ブルジョア的社会観が入ってきていると言ってしまえば、それまでですが、私はそれだけではないように思う。内村は、言ってしまえば、社会主義が日本の財閥的な貪欲に対して批判を加えることにはもちろん賛成するし、それから、アメリカ的というよりは、いわゆる自由主義化したキリスト教あるいは富の力に屈服したキリスト教に社会主義が批判的であることには賛成なのですが、人間を内面から変えていくという、そういう人間変革の問題を完全に放棄すると見えたときに、逆に彼は社会主義に反対することになるのですね。そうした現世主義の面がちらっとでも見えると、たとえばSCM(Social Christian Movement)に対してもきびしく批判した。ともかく、内面変革の問題を少しでも薄めると、内村は非常に強い反撥に出てきますね。いまの全共闘派の人々の一部が内村のものを読んでいると言いますが、どこまで内村の思想的根基を理解しているかは別として、たとえばそういう点なんかは、彼らの心の琴線に触れるところの一つじゃないかと思います。そうした意味での内村的問題がいま出てきているように思うのです。ともかく彼は、そうしたわけで、どうしても社会主義運動に入り込んではいけなかった、近づいても入り込んでいけなかったのだと思います。
    --大塚久雄『歴史と現代』朝日新聞社、1979年、169-170頁。

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社会と宗教の関係は単純ではありませんが、宗教によって大地を耕された人間が、他者と連帯し、地の国の諸難に向き合おうとするのは、当然のことと言えるかと思います。

社会に積極的に関わることが大事なのか、それとも、教会や寺院形成……ここでいう形成とは、物質的な意義だけでなく、そこに集まってくる人々の薫陶・教育などソフトな面……が大事なのか。

このことも単純ではなく一慨に「こうあるべし」と言い切ることは難しい。しかし、近代日本のキリスト教史を概観すると、再渡来後、文明開花の波にのって順調に拡大していくものの、鹿鳴館時代の終焉と進化論の紹介、そして内村鑑三不敬事件の影響は、キリスト教の布教を阻害する要因として機能します。特に内村事件以降、教会のメインストリームというのは、どちらかといえば、先に述べた教会形成に重点を置くことになります。

もちろん、社会との接点を全く閉ざした訳ではありません。例えば、教会形成派の頭目といってよい植村正久ですが、彼の主宰する『福音新報』は、韓国併合の時から朝鮮人の独立希求を諒としてきたし、併合後は、何度の、その武断統治を批判しています。

しかし、社会派よりも教会形成が重視されてことは否定できないと思います。そしてその反撥的現象として、キリスト教を初めとする信仰から離反あるいは卒業して、社会運動にどっぷり入っていく人々も出てくる。

まさに、社会活動か信仰かという二者択一といってよいでしょう。ここに近代日本のキリスト教受容の特色を見て取れることができるかと思います。
※ここでは主論ではありませんが、そうした社会か信仰かというバランスの見事な軌跡を描いたのは吉野作造ではないかと思います。

さて、内村鑑三は、おおむね前期の、そのジャーナリスト的活動の軌跡を辿ると、日露戦争における「非戦論」に代表されるように、社会に対して積極的に関わる姿をその特色とみてとることができます。

それとは対照的なのが後期の内村像ではないかと思います。再臨運動に従事する姿は、どちらかといえば、内面の信仰を深めていく時期と捉えてしまいそうになります。しかし、再臨運動期の内村の場合、社会と遮断されていたのかと捉えてしまうと、それは大きな誤解になってしまうことも承知おくことが必要だと思います。

そもそも再臨運動自体が、まさに「この世を撃つ」“預言者的”なものであり、決して遮断された訳でもありません。

さて……
冒頭に掲載したのは、内村に師事し、戦後民主主義の論壇をリードした大塚久雄のインタビューからです。この文章で大塚は、内村を事例にとりながら、何かを変革していくことの「根柢」には何が必要なのかをコンパクトにまとめている部分ですので、少し抜き書きした次第です。

大正末期~昭和初期は、民本主義が手ぬるいとして、左翼的言説にみながみな……たとえば信仰をうしなってまで……なだれをうっていた時代です。しかし蓋をあけてみると、そうした活動家たちのなかには、一八〇度くるっとかわってしまう場合も多々出てくる。そうした事例を省みるならば、社会変革というのは、事象としては確かに「機会的変革」であってよいわけですが、それに携わるということは「人間を内面から変えていくという、そういう人間変革の問題」を失念してしまうと危機的状況を呈してしまう……そう捉えることができるかも知れません。


大塚より後輩にあたる宮田光雄は、『歴史と現代』が刊行されたちょうど10年前に『現代日本の民主主義 -制度をつくる精神-』において次のように述べていますが……「真の意味での体制変革は、たんに現存体制内部の個々的な弊害を指摘するだけで足れりとするものではない。それは、根底的には、新しい価値体系の創造を不可欠とする以上、人間の変革なしにはありえない」……これも大切なポイントになってくると思います。

このあたりを内村門下の南原繁に言わせると「人間革命」ということになるのでしょうが、、、どうも最近、そういうことを、とりあえずおいといてでも、やってしまえ!という論調が強いものですから、少し紹介した次第です。

まあ、そういうのが「日和見主義」とか「臆病」とか、罵られることは承知ですが、そうした変革なしには……もちろん、過度の「徳論」に触れる必要はないと思いますが……、なにもあり得ないとは思います。

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 こうしてみれば、社会的革新の運動は、つねにそれを支えるひとりびとりの人間の内面的な自己紀律によってこそ担保され、おし進められるといわねばならない。真の意味での体制変革は、たんに現存体制内部の個々的な弊害を指摘するだけで足れりとするものではない。それは、根底的には、新しい価値体系の創造を不可欠とする以上、人間の変革なしにはありえない。たとえば、現代の日本では、経済競争のメカニズムが作動せず、大企業にのみ利潤が沈澱しがちである。そうした大資本の恩恵に浴する労働組合が、労働者としての社会連帯の精神に欠け、また企業主義委に埋没するあまり、大企業のもたらす公害にたいして市民的連帯の立場をとり難い事実も、しばしば指摘されている。このような例をみれば、社会の革新は、いわば制度の底辺における革新、日常的な行動様式や人間の価値観を不断に変革していく地味な努力の蓄積を必要としているのである。
    --宮田光雄『現代日本の民主主義 -制度をつくる精神-』岩波新書、1969年、204-205頁。

 

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覚え書:「今週の本棚:孤独死 被災地で考える人間の復興=額田勲・著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。


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今週の本棚:孤独死 被災地で考える人間の復興
額田勲・著
(岩波現代文庫・1218円)

 東日本代審査から2年を経た今もなお、仮設住宅に単身で住む多くの被災高齢者が、「孤独死」の不安にさらされながら暮らしている。震災で表面化した問題の底流には、現代社会が抱える深刻な貧困があるのだと、本書は訴えかけてくる。
 孤独死とは何か。著者は「孤立、失職、慢性疾患が相乗する現代の低所得者層において発生する」と規定する。1995年の阪神大震災でも孤独死が問題になった。校米紙の仮設住宅に診療所を設け、被災者を長年診てきた医師として「同じ悲劇が繰り返される」との危機感は強い。
 低所得者層は災害弱者になりやすい。被災による死亡リスクに加え、その後も明日すら見通せない不安にさいなまされる。だが、超高齢社会で低所得者が増え続ける中、孤独死は被災地のみの特殊な現象ではない。
 著者は昨年、72歳で病没した。本書は99年に刊行された単行本の内容に、東日本大震災後に執筆された遺稿などを加えた新編集版。被災地が「人間の復興」を遂げるために、社会全体が孤独死の問題に真正面から向き合うことを求めている。被災地医療にこだわり続けた著者の遺言とも言えるだろう。(河)
    --「今週の本棚:孤独死 被災地で考える人間の復興=額田勲・著」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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覚え書:「今週の本棚・本と人:『東北発の震災論』 著者・山下祐介さん」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。


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今週の本棚・本と人:『東北発の震災論』 著者・山下祐介さん
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊


山下祐介・首都大学東京准教授=東京都八王子市で2013年2月21日、手塚さや香撮影
 (ちくま新書・924円)

 ◇震災を「自分の問題」にするために--山下祐介(やました・ゆうすけ)さん

 副題に掲げた「周辺から広域システムを考える」に論旨は集約されている。広域システムは、インフラや流通網を張りめぐらすことで周辺の小さな社会を中心に従属させるものだ。「首都圏と東北という中心と周辺の関係性に加えて、東北の中にも周辺がある」という問題意識に基づき、「巨大化した広域システムが、周辺に置かれた被災者の主体的な復興を妨げているのではないか」と繰り返し問いかける。

 雲仙普賢岳の噴火(1990年代)や阪神大震災(95年)で被災者やボランティアを調査し、11年度末までの17年間は青森・弘前大で地域社会学の研究として過疎地に足を運んだ。

 震災直後、弘前市から岩手県野田村への支援の体制作りに奔走した。首都大学東京に移った現在は、福島県富岡町からの避難者が町の将来像や生活再建について語り合うタウンミーティングを支援する。2年間、深くかかわってきたからこその強い危機感が執筆に駆り立てた。

 被災の現場で目の当たりにしたのは、「行政頼みの住民」であり「国に依存する地方の体質」だった。地域の主体性を問う厳しい指摘だが、無論、被災地だけの問題ではない。国や経済、科学、専門家が何とかしてくれるという<人任せの風潮がこの震災では広く見られた>と、日本全体の構造を問題視する。

 本書では、地域によって異なる様相を呈した被災地の状況を精査し、その上で日本の近代化の中で東北が課せられてきた役割の変遷をたどった。「中心-周辺」の関係性を固定化した流れが浮かび上がってくる。

 近代化の検証は、必然的に原発の問題に及ぶ。原発は近代化が生んだ「中心-周辺」構造の典型だ。福島第1原発の事故によって、福島県内外への避難者は15万人を超え「自治体」「住民」の概念も自明ではなくなった。それまで所与とされていたものが震災で揺らいだはずなのに、依然として「中心」の視点で復興が進められることは、「地域社会の解体につながる」と警鐘を鳴らす。

 「2年たっても、私たちはいまだにあの震災の全体像を見通すことができていない。少しでも多くの人に主体的に理解し、自分の問題として考えてほしい」<文と写真・手塚さや香>
    --「今週の本棚・本と人:『東北発の震災論』 著者・山下祐介さん」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130310ddm015070171000c.html


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東北発の震災論: 周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
山下 祐介
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覚え書:忘却を強いられるとき、われわれが抵抗する唯一の道は記憶することだ


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 ミラン・クンデラという作家がいます。チェコで苦しい経験をして、亡命して、いまなおパリに住んでいる人ですが、かれが、権力を持っている強い連中のやり方は、忘れさせることだ、ひどいめにあったことは忘れさせて、もう一度同じことをやらせようというのが権力の考えることだというんです。その反対に、記憶し続けること、覚えているということが弱い民衆の武器なんだ。弱い人間は覚えていなきゃいけない、記憶していなきゃいけない。忘却を強いられるとき、われわれが抵抗する唯一の道は記憶することだ、とクンデラはいうのです。それはブルクハルトの考え方とも重なり合っていると思います。
    --大江健三郎「井伏さんの祈りとリアリズム」、『あいまいな日本の私』岩波新書、1995年、134頁。

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あの日から本日で2年となりました。

いらだつことばかりなのですが、いらだつことで終わってしまうとそれこそ思うつぼなので、記憶しつづけていこうと思います。

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あいまいな日本の私 (岩波新書)
大江 健三郎
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書評:リンダ・ポルマン(大平剛訳)『クライシス・キャラバン 紛争地における人道援助の真実』東洋経済新報社、2012年。

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リンダ・ポルマン『クライシス・キャラバン 紛争地における人道援助の真実』東洋経済新報社、読了。人道援助の現場の混乱と真実をレポートする「衝撃」の一冊。飢えた子供への憐憫が集めた資金や物資は巨大な利権だ。それを援助団体、武装組織、地元の政府といった当事者たちが群がり奪い合う。

UNHCRのキャンプを拠点に出撃していく武装組織。「お涙頂戴」とPR合戦に明け暮れる当事者とNGO。人道援助という「金科玉条」の裏に見え隠れするジレンマを本書は紹介。幾多の現地取材に基づく筆者のレポートは読者を圧倒する。

本書はシニシズムを決め込むこと提言すると捉えるのは早計。ジレンマを無視し、募金をすれば終わり(=解決する)という善意という名で関係を絶つ他者意識を筆者は撃つ。善意で解決するとは思わないが、関わりと倫理を問う一冊。了。

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クライシス・キャラバン―紛争地における人道援助の真実
リンダ ポルマン
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覚え書:「書評:『ドアの向こうのカルト』 佐藤典雅著 評・星野博美」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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『ドアの向こうのカルト』 佐藤典雅著

評・星野博美(ノンフィクション作家・写真家)
教団脱会の経緯を告白


 東京ガールズコレクションやキットソンというアパレルブランドをブレイクさせたカリスマプロデューサーが、25年間過ごした「エホバの証人」。教団生活からどのように抜け出したかを赤裸々に語ったのが本書。そのオセロゲームのような人生に興味を惹ひかれ、手にとった。

 父親のアメリカ駐在中に母親が入信したため、彼は「証人」の二世である。著者は子供の素直な目で淡々と教団生活を見つめる。異文化であるアメリカと、教団という特殊な社会とも折り合いをつけなくてはならない。しかしこの異文化性が彼を救うことにもなる。日本から来る証人はなぜうつ病が多いのか。なぜ主婦の入信者が多いのか。不幸のオンパレードからの現実逃避ではないのか…。異文化の目を持った著者は、次第に現実に目覚めていく。

 大学進学や就職を無意味と考える教団で、信者は不安定な経済状況を強いられるため、マルチ商法に手を染める人が少なくない。この商品だけが絶対的に正しく、あとはまがいもので信用できないという絶対性、この良さを多くの人に広めようとする布教性など、マルチ商法とカルト教団の仕組みが類似することに著者は気づく。それが組織に対するはっきりした疑念に変容するのに時間はかからなかった。

 彼はとうとう洗脳から解除され、家族や妻、妻の実家の人たちを脱会させることに成功した。ファッション業界のマーケティング事業も波に乗る。彼は断言する。流行も広告も軽い社会的洗脳である、と。かつて教団で徹底訓練された、人を惹きつけるためのプレゼン能力や、論破する戦略、洗脳のノウハウがビジネスの最前線で役立っているのだ。

 めでたしめでたし、なのだが、読後は疑問符でいっぱいになった。スピリチュアル本や霊能者、インターネットによって覆される世界観って単純すぎはしないか? そう思った瞬間、皮肉にも、構築的世界観を奪う宗教の力を思い知らされた。

 ◇さとう・のりまさ=1971年、広島県生まれ。米国で育ち、企画会社勤務などを経て、2010年に独立。

 河出書房新社 1800円
    --「書評:『ドアの向こうのカルト』 佐藤典雅著 評・星野博美」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130225-OYT8T00609.htm

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ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録
佐藤 典雅
河出書房新社
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覚え書:「書評:『戦後食糧行政の起源』 小田義幸著 評・開沼 博」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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『戦後食糧行政の起源』 小田義幸著

評・開沼 博(社会学者・福島大特任研究員)
政府主導の管理体制


 日本の食料自給率(カロリーベース)は約4割。だが、食の半分以上を海外に頼る日本で「明日、食糧危機が訪れないか」と懸念する人が多いわけでもない。私たちは日本の食糧行政に無意識の信頼を置いているのかもしれない。

 本書は戦時期から戦後占領初期までに食糧危機の中でなされた「戦後食糧行政」の確立・定着過程に迫る。

 昭和14(1939)年、「朝鮮大旱魃かんばつ」による国内の米不足は、それまで「米穀買い上げによる米価安定策」等に限定されてきた食糧管理行政の脆弱ぜいじゃくさを露あらわにした。農林省は、外貨温存のため外米輸入に反発する陸軍や、米穀強制買い上げを求める内務省の意向を部分的に取り入れつつも「戦時食糧専売体制」の確立に向かい、昭和17(1942)年には食糧管理法が制定される。

 戦局悪化の中、米穀輸入・移入自体が困難になると農林省は内務省と協力して農家に米の供出を求め、メディアは国民に統制順守、開拓・土地改良を促す。だが、終戦後、民主化の中で内務省は廃止になり、農家は供出を拒否し、闇取引が拡大。食糧危機が進み新興政党・新聞による体制批判は強まるが、当初国内自給による自力救済を求めていたGHQに一時的な食糧輸入を認めさせることで危機を突破。戦時下に成立した食糧管理体制は存続・強化されることになった。

 著者はこの過程が食糧管理体制に「様々な利害を吸収する機能」を埋め込んだと見る。平成7(1995)年の食糧管理法施行令廃止まで、半世紀に渡って維持されたこの食糧管理体制が日本の戦後社会を支える食の安定供給を実現した。現在、グローバル化や自由競争の波の中、食糧管理をめぐる利害調整は混迷しているようにも見える。かつてのような政府主導の管理体制強化は望みにくいが、安全なものを安心して食べ続けられるかも不確かだ。「食」への信頼は揺らいでいるように見える。その足元を見つめなおすきっかけになる論考だ。

 ◇おだ・よしゆき=1976年生まれ。慶応大や武蔵野大などで非常勤講師。共著に『戦前日本の政治と市民意識』など。

 慶応義塾大学出版会 5800円
    --「書評:『戦後食糧行政の起源』 小田義幸著 評・開沼 博」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130225-OYT8T00422.htm


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戦後食糧行政の起源―戦中・戦後の食糧危機をめぐる政治と行政
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戦前日本の政治と市民意識 (叢書・21COE‐CCC多文化世界における市民意識の動態)
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覚え書:「【著者来店】『武士道とキリスト教』 笹森建美さん」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。


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『武士道とキリスト教』 笹森建美さん

根幹にある共通点

 十字架が掲げられた礼拝堂で、刀を構える剣道着姿の男性。ここ東京・世田谷の駒場エデン教会の牧師にして、小野派一刀流第十七代宗家が、武士道とキリスト教をもっと広めたいと、一冊の本をまとめた。

 小野派一刀流は、柳生新陰流と並び、徳川将軍家の剣術指南役となった名門。最初の一太刀で相手を倒す「切落きりおとし」が極意というすさまじさだ。キリスト教のイメージとの違いに、違和感を覚えずにはいられない。

 だが、そんな違和感には慣れっこの様子。「二つは決して矛盾しない」と穏やかに語る。むしろ、代々伝えられた武士道と、祖父の代から入信したキリスト教には共通点が多いと説く。生き死にを大事にすること、信じる道のための自己犠牲の精神、努力と精進を続ける長い道のり……。「武士道で本当に強さを極めた人には、人間の限界が分かる。だから、人の限界を超える神様の存在にたどり着ける。キリスト教は、日本人にぴったりの教えです」

 アメリカ留学から帰国後、牧師と古武道の指導を両立させて43年となる。帰国した頃に聞いた、子どもたちの「野球選手ならホームラン一本でいくら」という言葉が忘れられない。戦後の日本ではすべてがカネに換算され、価値観が揺らいでいると感じた。「だから最近はどんな分野でも、位が高くなっても格が伴わない人が多い。信仰も武士道も、深める過程で自然に倫理的になっていくのに……」

 こんな時代だからこそ、武士道とキリスト教が共に持つ精神を世に生かしたい。80歳を迎える今年も、毎週土曜には牧師から武道家へと装いを変え、30人ほどに直接教える。表情から感じ取れる、深い優しさと真の強さ。だから真っすぐな訴えも胸に響く。「人にとって一番大切なものは、絶対的な価値観を持つことです」(新潮新書、680円)(小林佑基)
    --「【著者来店】『武士道とキリスト教』 笹森建美さん」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/raiten/20130226-OYT8T00849.htm

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武士道とキリスト教 (新潮新書)
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覚え書:「そこが聞きたい:公共善に貢献する志を マイケル・サンデル教授」、『毎日新聞』2013年03月04日(月)付。


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そこが聞きたい:公共善に貢献する志を マイケル・サンデル教授
毎日新聞 2013年03月04日 東京朝刊

 東日本大震災から11日で2年になる。「共同体主義」を唱える米ハーバード大のマイケル・サンデル教授が来日し、被災地を初めて訪れた。被災地では防災集団移転、巨大防潮堤建設など復興の進め方は意見が割れている。サンデル教授に、どのように合意を形成すべきか聞いた。【聞き手・山越峰一郎、近藤綾加】

 ◇震災復興の合意形成--マイケル・サンデル教授(59)

 --東北大で住民と討論した「白熱教室」はどうでしたか。

 ◆日本の友人の何人かは、東北の人たちが寡黙なのを心配していましたが、講義が進むにつれて多くの人が手を挙げるようになり、とても力強く多様な意見を述べていました。でも、私は驚きません。日本のどこでも議論に参加したいという強い意思を感じてきたからです。

 時間をかけても合意形成が必要だという人や、決断と行動を優先すべきだという人がいて、意見は一致しませんでしたが、賛成しない意見も聞こうとする意思を感じました。震災は、相手を尊重して議論する新しい波の始まりでもあるのです。全員が一致しなくても、相互理解を進めることができます。

 --津波で壊滅的被害を受けた宮城県名取市閖上(ゆりあげ)を訪れたそうですね。

 ◆70歳の男性が案内してくれました。幸運にも家族は生き残ったそうですが、彼の家があった所には雑草だけが生えていました。70年間ずっと住んでいた場所です。海を恐れているか聞いたのですが、男性は「いいえ。海は悪魔ではない、豊かな恵みをもたらす愛すべきものだ」と答えました。

 --閖上は、いったん防災集団移転すると決まっていたのですが反対意見も多く、現地再建も一部認められました。

 ◆実際に現場を見て、住民の意見がなぜ割れるのか、より理解できました。男性の近所にも、元々住んでいた低地に再建している家がありました。彼は「何が正しいか分からない」と言いました。地域には意見の不一致があり、それはときに世代によって起きているそうです。

 私は集団移転すべきか、巨大防潮堤を造るべきかなどについての答えを持っていません。ただ、住民の考えを引き出すにはいろいろな方法があります。選挙は重要な方法ですが、十分ではありません。同時に、より小さな地域の集団の中で意見をぶつけ、異なる案を学ぶことで、住民は何を選ぶべきか決められます。意見表明できるようにもなります。選挙、デモ、市民団体の活動、地域共同体での討論。これらによって意味のある市民社会がつくれるのです。

 住民が何を望んでいるか見いだすためには、国レベルの選挙と同様に、近所、小さな共同体、街といったレベルで討論することが重要です。これは民主主義の重要な部分です。

 --日本では、議員の世襲が問題になっています。

 ◆米国にもブッシュ大統領親子のような例があり、有権者は、名前の分かるなじみのある人を選ぼうとするのでしょう。民主主義では起こりうることですが、米国では世襲議員を選ばないとしても、お金のある候補者を選んでしまう別の問題も出てきています。民主主義は不完全です。簡単に答えを導き出せるものではありません。

 --政治家を目指したこともあるそうですが、政治家に必要な資質は何でしょうか。

 ◆志や忍耐力に加え、理想を言えば「公共的な善」への貢献です。また、経歴の異なる人々と問題に取り組む姿勢も重要です。全ての政治家がこの能力を持つわけではありませんが、最高の政治家は、金持ちだけでなく貧しい人も含めたあらゆる階層の人と問題に取り組むことを好みます。それは民主主義にとってとても重要なことです。

 哲学の学者になりましたが、政治やジャーナリズムへの関心は失っていません。哲学書を書くときも、学者だけでなく普通の人でも理解できるものを書こうとしています。哲学は私たちの生活や政治的、倫理的な選択に密接な関係があると信じています。哲学書を書くことで、政治的選択につながる最大限の貢献をしているつもりです。

 ◇忘却にあらがう

 --復興の進められ方と同時に、被災地では震災の風化も懸念されています。

 ◆災害の風化は世界中で見られる傾向です。人々は自分たちの国、地域、近所、家族といった近いところで起こったことに最も関心を持ちやすい。だからこそ、日本だけでなく世界の人々に思い起こさせることが重要なのです。東北の人々は震災と津波の影響に依然として苦しみ、依然として覚えていてもらうことを必要としています。

 私たちはグローバルな社会の一員なのです。私たちの生活から遠く離れた世界で起こった災害から学び、苦しみを気にかけるべきなのです。そのために教育は、近所を超えたところでも、いま生きている世界を人々に教えるという点で重要なのです。被災地を訪れた最も重要な目的は、彼ら(被災者)は忘れられていないという希望のメッセージを伝えることでした。

==============

 ■ことば

 ◇共同体主義

 自らが属するコミュニティーの「公共的な善」を正義の根源とする思想。人間は社会的存在であるとして、共同体に起源を持つ美徳を重要な価値判断とする。自由主義を批判するなかで生まれ、国家よりも顔が見える範囲の小さな共同体を重視する。

==============

 ■人物略歴

 ◇Michael Sandel

 「共同体主義」を提唱する政治哲学の代表的論客。米ブランダイス大卒、英オックスフォード大で博士号。NHK番組「ハーバード白熱教室」が好評を博す。著書に「これからの『正義』の話をしよう」「それをお金で買いますか」など。
    --「そこが聞きたい:公共善に貢献する志を マイケル・サンデル教授」、『毎日新聞』2013年03月04日(月)付。

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http://mainichi.jp/select/news/20130304ddm004070004000c.html


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覚え書:「書評:東北発の震災論―周辺から広域システムを考える [著]山下祐介 [評者]田中優子」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。

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東北発の震災論―周辺から広域システムを考える [著]山下祐介
[評者]田中優子(法政大学教授・近世比較文化)  [掲載]2013年03月03日


■脱原発ではなく脱システムを

 本書を最後まで読むと恐ろしくなってくる。「震災論」とあるが、じつは「広域システム」論だ。ここで言う広域システムとは「ある箇所の生産は全世界で展開されている生産工程に結びついており、一カ所で生じた破壊が全世界の生産活動に直接影響を及ぼす」システムのことだ。電気、ガス、水道、高速道路、新幹線、電話、インターネット等もその一部である。それがあるからこそ私たちは毎日生きている。しかしいったんシステムに問題が生じると、個人はそれをどうにもできない。
 ならば専門家や国家がなんとかしてくれるのかというと、誰も責任を持っていない。そういう状況のなかに自分が生きていることを、まざまざと実感する。システムには国家などが動かすもの、企業などの経済社会が動かすもの、自治体や人間関係の網の目もあるのだが、その全体は誰にも見えない。主体が無いので、ほころびが出ると制御も修繕もできないのである。
 かつては家々の復興はそれぞれがおこなっていた。それを基盤に経済も自治体も再建された。しかし今は、大きなシステムが動かないと家も個々の生活も成り立たない。そこで、災害が起こるとますますシステムに自分を追い込む。人間のためのシステムが「いつの間にかシステムのための人間になっている」のだ。
 著者は震災後の東北での経験や東北の歴史の検証から、地域のシステムが中央のシステムに取り込まれ利用されてきたことに気づく。原発だけでなく、貿易自由化、大店舗乱立、リゾート開発、市町村合併もしかり。小さなものを食いつぶしながら巨大化し、利益は中央が取り、地域にそのリスクを押しつけるのが広域システムの特長である。
 脱原発ではなく脱システムこそが必要だという。システムと個人の中間に、小さな共同体の意志を創り出すことが脱システムへの始まりだとも。重要な指摘の書である。
    ◇
 ちくま新書・924円/やました・ゆうすけ 69年生まれ。首都大学東京准教授(地域社会学)。『限界集落の真実』など。
    --「書評:東北発の震災論―周辺から広域システムを考える [著]山下祐介 [評者]田中優子」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013030400006.html


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東北発の震災論: 周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
山下 祐介
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覚え書:「書評:皮膚感覚と人間のこころ [著]傳田光洋 [評者]横尾忠則」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。


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皮膚感覚と人間のこころ [著]傳田光洋
[評者]横尾忠則(美術家)  [掲載]2013年03月03日

■触れるとなぜ気持ちいいのか

 皮膚感覚という語は日常によく耳にするが、概念に対する身体感覚という意味で認識されているように思う。私たちは普段、皮膚に類する語を比喩的にけっこう無意識に使っている。「鳥肌が立つ」とか、「一肌脱ぐ」とか、「虚実皮膜の間」とか。
 「虚実皮膜」は虚構と事実の微妙な境界にこそ芸術の真実が宿るとする考えで、その両極を共有する薄い膜が皮膚じゃないかと想定するならば皮膚がにわかに芸術と深い関係を生じるじゃないですか。
 また「皮膚之見(のけん)」という言葉を耳にすることがある。その意味は、表面だけでは分からない皮下にモノの本質があると言いたいのだが、この「皮下」こそ本書のテーマである「人間のこころ」ではないのだろうか。余談になるがアンディ・ウォーホルは「表面が全てで裏には何もない」と、全くこの言葉と真逆のことを言っている。
 それはさておき、皮膚は世界と自己の境界を形成するものであり、環境と身体と心と皮膚についての見地から、著者は人間とは、生命とは何かということを多面的に皮膚科学の視点から考察していく。
 僕が特に皮膚を意識する瞬間は、入浴中に自らの皮膚に触れる時だ。「気持ちイイ」のは皮膚感覚が心理に与える影響だ。皮膚の刺激が心に及ぼす影響は母親の皮膚体験により、幼児期の人格形成にさえ影響する。ヴァレリーは「人間にとってもっとも深いものこそ皮膚だ」と語る。
 皮膚感覚は自己と他者を区別する意識と深く結びつく。自分の皮膚に触れるより他人に触れられた時の方が心地いい。つまり皮膚が自己意識を作っているということ。自己が皮膚と共にあるということは普段、意識しないが、本書の読後は皮膚と心が不離一体の関係にあることを脳と共に強く意識する。そして精神の健康と皮膚の健康が密接であることを自らの皮膚に触れながら感じていたい。
    ◇
 新潮選書・1155円/でんだ・みつひろ 60年生まれ。資生堂研究所主幹研究員。『皮膚は考える』『第三の脳』など。
    --「書評:皮膚感覚と人間のこころ [著]傳田光洋 [評者]横尾忠則」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013030400008.html

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傳田 光洋
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研究ノート:朝鮮人が来るなら来てみろ(和辻哲郎)、関東大震災下での知識人たちの反応から見えてくる人種主義の原像

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酒井 …… 今回、『思想』の関東大震災の特集号を読んで、学ぶところが実に多かった。人文科学系の人は、ほとんど朝鮮人襲撃の話をしています。ということは、ほとんどの人がその風評を聞いて憂慮していたということだと思います。朝鮮人の襲撃は東京の火災から二日ぐらい経ってから拡がってきたようです。ただ野上豊一郎は、震災の直後に、すでに宇都宮でその話を聞いたと言っていますから、すごい勢いで風評が拡がった。和辻哲郎も、この風評を信じてしまったことを正直に書いています。和辻は、この風評にのせられて「朝鮮人が来るなら来てみろ」と準備したと書いている。しかし風評にのせられて行動してしまったということについての自責の念が彼にはなかった。これはいくつかの意味で象徴的です。関東大震災で起こった朝鮮人虐殺は、日本の人種主義の原点の一つです。これ以前に日本に人種主義がなかったとは思いませんが、その後の日本の人種主義の展開を集約的に表している事件でしょう。和辻の朝鮮人に対する敵意は、後の中国人蔑視、さらには戦争中に表明されることになる彼の反ユダヤ主義の先鞭となっている。彼は植民地主義に反対していますが、それは民族と民族が混交することに対する嫌悪なのですね。朝鮮半島を併合することによって、内地と朝鮮が労働市場としてはひと続きになってくる。その結果として、朝鮮からの労働者と内地の住民が共存しなければならなくなるわけですが、このような異民族の混在を和辻は原理的に憎悪している。後に彼が戦争中に仕上げた『倫理学』(上・中・下、岩波書店、一九三七-四九年)の持つ側面がすでにこの段階で現れているし、戦後日本で彼が一番人気のある哲学者になる基盤がここにはある、という感じがしました。
 『思想』関東大震災特集号の執筆者たちは朝鮮人襲撃に関して、情報の受容と拡散についての分析をしているけれど、私はそこで一つのコンテクストが抜けているように思いました。つまり、三・一一ならぬ三・一(日本統治下における三・一独立運動)があったのが震災の四年前です。当時の人にとって当たり前の前提だったかもしれませんが、それがあったために、反植民地暴動が起こるかもしれないという恐怖心が一気に朝鮮人に向かっている。これはその後に何度か起こる日本帝国の中での暴動と、それに対する予防的な暴力の問題と関わると思います。日本軍部が戦争末期に沖縄市民を大量に殺しているのと同じような反応です。
 植民地主義は、まず、植民地で支配される植民地被支配者の問題です。しかし、植民地主義は、宗主国の住民にも深い影を落とします。「鮮人襲撃」の風評はその典型的な表れでしょう。植民地暴動が起こるだろうから、その前に彼らをつぶしてやろうという暴力の先取りの反応。これをどのように分析している人がいるかなと思ったのですが、『思想』関東大震災特集号にはいなかった。関東大震災の被害が東京や横浜という都市部を中心に起こったのに対し、東日本大震災が、過疎地域を含む主として沿岸地域で起こったことが、少なくとも現在にいたるまで、今度の震災では少数者虐殺が起こるような混乱が報告されていない最大の理由でしょうか。
 もう一つ、特集の関連で興味深かったのは、翌年の『思想』一九二四年一月号に石原謙が書いている「震災後の日本に帰りて」という小文です。石原は震災発生の時、アメリカにいたのですが、関東大震災に対してアメリカが人道的な援助を行って、それに非常に打たれたという話です。しかし、アメリカが震災で日本を人道支援した一九二三年の翌年に、合州国では日本人移民を排除する移民法ができます。つまり、人道的な援助が行われるチャンネルと、政治の中で人種主義的な国際政策ができるチャンネルは、別のものだということです。今回の震災でも、善意に満ちた国際協力の輪が拡がりましたが、これが日本のなかにある反中国意識の、あるいは、たとえば、中国の反日感情の抑制に役立つかどうかは、また、別の問題でしょう。今回も、そういったリアル・ポリティクスの枠の中で、全部がコントロールされていたと思います。
    --「座談会 二一世紀の知とは何か 酒井直樹 坂元ひろ子、小林傳司 港千尋 司会=吉見俊哉」、『思想』編集部編『「思想」の軌跡 1921-2011』岩波書店、2012年、9-10頁。

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『思想』編集部編『「思想」の軌跡 1921-2011』岩波書店、読み始めるが、冒頭の座談会(「二一世紀の知とは何か」 酒井直樹 坂元ひろ子、小林傳司 港千尋 司会=吉見俊哉」)が興味深いので、「研究ノート」として少しご紹介しておきます。1921年の創刊ですから、刊行から2年後、関東大震災が起こります。

『「思想」の軌跡1921-2011』の冒頭に掲載されている座談会では、参加者たちの、この特集号に対するコメンタリーから始まります。

酒井直樹さんが、「人文科学系の人は、ほとんど朝鮮人襲撃」の話をしていることに注目、「ほとんどの人がその風評を聞いて憂慮」とその特徴を指摘しております。ここが非常に興味深いです。

和辻哲郎も例外に洩れず、「朝鮮人が来るなら来てみろ」と準備したと書いている。

しかし、関東大震災下での、カウンターとどさくさ紛れとしての朝鮮人・社会主義者に対する「虐殺」は、吉野作造の事例を引くまでもなく、まさに「風評」に過ぎない。吉野は、流言飛語を信じた民衆も責任から逃れないと指摘していることは有名ですし(「朝鮮人虐殺事件について」、『中央公論』1923年12月)、ほとんど根拠のないデマと官憲による動員によって、無辜のひとびとが「虐殺」されたは、震災後、早い段階で分かってきている。


しかし「この風評にのせられて『朝鮮人が来るなら来てみろ』と準備した」と書いた和辻哲郎には、「風評にのせられて行動してしまったということについての自責の念が彼にはなかった」という。

それは何か。「関東大震災で起こった朝鮮人虐殺は、日本の人種主義の原点の一つ」ということに他ならない。

関東大震災以前に人種主義が皆無ではありませんが(人類館事件を想起せよ)、「和辻の朝鮮人に対する敵意は、後の中国人蔑視、さらには戦争中に表明されることになる彼の反ユダヤ主義の先鞭」であり、「その後の日本の人種主義の展開を集約的に表している事件」といえるのではないかというのは正鵠を得ているのではないかと思います。


『思想』特集号の当時の執筆者たちは、朝鮮人襲撃に関する情報の受容と拡散についての分析をしています。しかしながら(当時の人には当たり前だったかもしれないですが)「三・一(日本統治下における三・一独立運動)」の視座が抜け落ちている。これは恐れから、予防的な暴力を正当化する展開の先駆けとなっていく。

酒井さんの議論を受け坂元さん曰く「真偽を確かめるまでもなく流言を信じて『抵抗の衝動』から自ら木刀をもって自衛の見張りに加わった体験を記していることです。『自分の胸を最も激しく、また執拗に煮え返らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂』だったというからには、彼にとって朝鮮人は同胞でなかった」。

もちろん、和辻哲郎の限界は主著『倫理学』にも見え隠れする。しかし、「戦後日本で彼が一番人気のある哲学者」であることを想起するならば、これは決して、和辻個人を攻めれば終わりという話でもないということでもないかと思います。和辻も反省しなかったように、私も反省していないと思う。

非常に考えさせられる指摘であると思います。

そして震災から、10年と待たずに満州事変です。

蛇足ですが、吉野作造の偉大さがよくわかる対照性です。

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 更に進んで、我々は自らの態度を深く反省して見るの必要を感ずる。我々は平素朝鮮人を弟分だといふ。お互いに相助けて東洋の文化開発の為めに尽さうではないかといふ。然るに一朝の流言に惑ふて無害の弟分に浴せるに暴虐なる民族的憎悪を以てするは、言語道断の一大恥辱ではないか、併し乍ら顧ればこれ皆在来の教育の罪だ。此所にも考察を要する問題が沢山あるが、これらは他日の論究にゆずり、只一言これを機会に、今後啓蒙的教育運動が民間に盛行競られん事を希望しておく。
    --吉野作造「朝鮮人虐殺事件について」、『中央公論』1923年12月。

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『思想』の軌跡――1921-2011

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覚え書:「書評:沈黙の町で [著]奥田英朗 [評者]逢坂剛(作家)」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。


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沈黙の町で [著]奥田英朗
[評者]逢坂剛(作家)  [掲載]2013年03月03日

著者:奥田英朗  出版社:朝日新聞出版

■緊迫感に満ちた、いじめ真相解明

 奥田英朗は、もともと引き出しの多い作家で、どれを読んでもおもしろく、失望することがない。 この作品は、一昨年から昨年にかけて、本紙に連載された新聞小説である。これを読むと、著者がきちんと自分の小説作法を持ち、読者を最後まで引っ張るための枠組みを、明確に意識しながら書いていることが、よく分かる。
 まず、中学生のいじめという、きわめて今日的かつデリケートなテーマを、正面から取り上げた姿勢に、著者の覚悟のほどがうかがわれる。誤解を恐れずにいえば、この作品を問題提起型説教小説ではなく、あくまで手ごたえ十分のサスペンス小説として、書ききったところがすごい。
 冒頭、某地方都市の中学生名倉祐一が、部室棟と並ぶ銀杏(いちょう)の木の下で、頭部損傷死体となって発見される。長丁場の小説で、前置きなしにいきなり事件からはいる呼吸のよさは、読み手を否応(いやおう)なしに引きつける。まさに、エンタテインメントの王道、といってよい。 死体の背中には、つねられたと思われる、多数の傷痕がある。ほどなく、携帯電話の受信履歴等から、同じテニス部の市川、坂井、金子、藤田の四人が名倉をいじめていたらしいことが、判明する。名倉は四人に強要され、部室の屋根から銀杏に飛び移ろうとして、転落死したのではないか……。
 物語は、生徒たちの親や担任の教師、真相究明に当たる刑事、事件担当の若い検事、さらには取材に当たる女性記者など、複数の関係者の三人称多視点で、書き進められる。いわば、映画のカットバックの手法で、読み手の興味を少しもそらさず、達者につないでいく。そのため、場面転換は目まぐるしいほどだが、著者は一人ひとりの人物を生きいきと、みごとに描き分けてみせる。
 中盤、今度はフラッシュバックの手法で、突然話を名倉が生きていた時点にもどし、読み手のペースを攪乱(かくらん)する。それ以降、物語は現在と過去を行きつもどりつしながら、名倉の死後と生前の出来事を、交互に描いていく。この手法によって、いじめる側といじめられる側の実態が、徐々に解明される過程はまことにスリリングで、まさに玄人わざの筆運びだ。
 生徒の視点は、被疑者の市川や女子の安藤朋美にほぼ限定され、坂井ら他の被疑者の視点は、取り入れられない。それには理由があるのだが、このあたりはミステリーにとかくありがちな、アンフェアな視点操作を回避するための、たくみな処理といえる。著者はミステリー作家ではないが、そうした気配りにも怠りがない。
 重いテーマを、かくも読みやすく提示する筆さばきは、この作家の独擅場(どくせんじょう)だろう。
    ◇
 朝日新聞出版・1890円/おくだ・ひでお 59年生まれ。作家。97年に『ウランバーナの森』でデビュー。2004年に『空中ブランコ』で直木賞、07年に『家日和』で柴田錬三郎賞、09年に『オリンピックの身代金』で吉川英治文学賞をそれぞれ受賞した。
    --「書評:沈黙の町で [著]奥田英朗 [評者]逢坂剛(作家)」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。

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覚え書:「書評:色川大吉歴史論集 近代の光と闇 [著]色川大吉 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。

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色川大吉歴史論集 近代の光と闇 [著]色川大吉
[評者]上丸洋一(本社編集委員)  [掲載]2013年03月03日

著者:色川大吉  出版社:日本経済評論社

■「歴史の辛さ」ともにかみしめ

 天皇制の是非について2人の歴史学者が対談した。
 A「これは憲法にあきらかなように、すべて国民に任せるという気持です」
 B「国民が望むか望まないかの問題ですね、場合によっては天皇制は無くなってもよい」
 A「そういうことだと思います」
 B「昭和という元号についてはどうですか」
 A「西暦にしたらよいですよ。(元号は)なにかにつけ、とても不便です」
 Aは、昭和天皇の弟で古代オリエント史学者の三笠宮崇仁(たかひと)、Bは本書の著者色川大吉である。戦後すぐ、三笠宮は東大文学部で西洋史を、色川は日本史を学んだ。右のやりとりは、もともと1974年に月刊誌に掲載された対談の一節。三笠宮との交友をつづる本書収録のエッセーで紹介されている。
 「歴史論集」と題にうたうが、読みやすい内容だ。巻頭の「歴史家の見た宮沢賢治の光と闇」で著者は言う。
 ――賢治の作品は「暗くて悲しくて、読んでいて辛(つら)い」と学生らは言う。しかし、この辛さは実は賢治が生きた時代の辛さ、「歴史の辛さ」であり、その辛さに共感することが「賢治の時代の人びとへの哀悼なのだ」と。
 盛岡高等農林学校で賢治と意気投合した保阪嘉内、帝国憲法制定に先立って民主的な「五日市憲法草案」を起草した民権家の千葉卓三郎、町の芸者屋・鹿島家の「君ちゃん」……。著者は、歴史の闇の中に消え入ろうとする人物に光をあて、「歴史の辛さ」をともにかみしめる。
 中世史家の故網野善彦は、東大の3年後輩。日本の近現代にふれた網野の著書『日本社会の歴史』下巻(岩波新書)について、色川は「民衆を全く歴史の客体扱いし」ていると厳しく批判する。
 「(網野を)疑ってかかることから、歴史家網野善彦への真の理解もはじまる」
    ◇
 日本経済評論社・2940円/いろかわ・だいきち 25年生まれ。東京経済大名誉教授。『明治精神史』『ある昭和史』など。
    --「書評:色川大吉歴史論集 近代の光と闇 [著]色川大吉 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2013年03月03日(日)付。

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覚え書:「『原発のごみ問題 未来への投棄だ』 脚本家・倉本聰さんインタビュー」、『毎日新聞』2013年03月04日(月)付。

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「原発のごみ問題 未来への投棄だ」
脚本家・倉本聰さんインタビュー

テレビドラマ「北の国から」などの作品で知られる脚本家、倉本聰さん(78)が作・演出した舞台「明日、悲別(かなしべつ)で」が、全国各地で巡演されている。閉山した架空の炭坑町「悲別」シリーズの最新作で、東日本大震災をきっかけに原発問題を取り入れた。国のエネルギー政策に翻弄され、故郷を追われた「棄民」が大きなテーマだ。倉本さんに「悲別」に込めた思いや原子力政策に対する考えを聞いた。【聞き手、論説委員・鴨志田公男】


 --東日本大震災から間もなく2年。自民党が総選挙で圧勝し、安倍晋三首相は、民主党政権が掲げた「2030年代の原発ゼロ」見直しを表明しました。

 ◆原発にはいろいろな視点がありますが、ごみ問題が最大のテーマでしょう。事故が起きなくても使用済み核燃料の問題があるし、40年で廃炉にする場合も大量にごみが出る。廃炉に使うロボットも高レベルの放射能に汚染されたごみになる。処分については何も決まっていない。これからアジアで原発の新設が相次ぎ、日本がビジネスチャンスとばかりに参入しようとしているが、許されるのかという気がします。核のごみが出る責任を誰が取るのか。私たちは資本主義の中で、ごみを出すことに慣れきり、反省がなくなった。

 --私たちは電力を使っているのに、核のごみの処分はひとごとで、誰かがやってくれると思っている面があります。

 ◆ 未来というごみ箱に核のごみを捨てているわけです。それでは我々の子孫はたまらない。そもそも、そこまで人間という生き物は持たない仕組みになっているのでしょう。

 --世の中はアベノミクスを歓迎し、多くのひとびとは景気回復を期待しています。経済成長を中心に考えると、原発は必要だという意見も出てきます。

 ◆安倍さんには、核のごみの問題をどうするのか、しっかり答えてほしい。経団連の会長さんにも。何の返答もなく、次のステップ、その次のステップというのはおかしい。便槽のあふれ出した家に住んでいるようなものなのに、どんどん原発を動かしていこうというのは理解できない。

 --震災直後の夏の東京でも省エネ意識が進み、明かりが消えましたが、昨年の夏は違いました。

 ◆日本人は忘れっぽくなってしまった。私自身は、資本主義的な考え方とは決別しなければいけないと考えています。

 --昨年は東北の被災地で「悲別」を巡演しましたね。反応は。

 ◆大きな反響がありました。特に福島の講演では「ありがとう」という叫び声も出た。(震災や原発事故が)風化されることが寂しいし、嫌いなんでしょう。舞台で「悲別は人がいなくなって、大熊や双葉町を見ているようだ」というせりふが出てきます。今年も3月11日に福島を訪れ、大熊や双葉、楢葉町あたりの状況がどうなっているかを見てきたいと思っています。

 --廃坑に埋められた「希望」は、つるはしやハンマーでした。坑道に入って落盤事故にあった者たちは、これらを使うことで、生きる力を出します。

 ◆つるはしやハンマーは、人間が本来持っているエネルギーを使いなさいということなんです。現代の文明社会では、速くものを解決し、時間を余らせて、別のことをしたいという感覚がありますね。でも、コンテナ船で米国から日本に貨物を運ぶのに8日かけていたのを7日にしたら3割もエネルギー消費が増えたという話もある。それでよいのか。皆さん、一人一人に考えてほしいと思います。

「悲別」シリーズ最新作巡演中
 200年前に閉山した炭坑町、悲別。若者たちは、先人たちが地下300メートルの坑道に埋めたタイムカプセルに封印された「希望」を探しに、2011年の大みそか、町に集まることを約束する。20年後、福島の原発労働者となって事故処理にあたる者があり、片や、悲別の町おこしのため、炭坑の地下1000メートルに原発廃棄物を閉じこめようと画策する者がいた……。
 全国21会場を巡る公演は1月にスタート。3月6日に茨城県東海村で最終日を迎える。
    --「『原発のごみ問題 未来への投棄だ』 脚本家・倉本聰さんインタビュー」、『毎日新聞』2013年03月04日(月)付。

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「明日 悲別で」特設サイト

http://www.kuramotoso.jp/2013_Winter/top.php

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覚え書:「災害と文明 エネルギー転換への視点 原発ゼロ社会を目指す=大島堅一」、『聖教新聞』2013年02月27日(水)付。


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災害と文明 エネルギー転換への視点
原発ゼロ社会を目指す

大島堅一 立命館大学教授

イデオロギーの問題でなく安全・安心の問題
根拠のない“安価神話”
費用の多くは国民が負担

◇ 日本の進むべき道
 今、日本が目指すべき社会とは、「原発ゼロの社会」です。そして、原発ゼロの社会とは、安全・安心な暮らしが約束される社会です。
 地震大国の日本では、いつ巨大地震が原発を襲い、原子炉が暴走を始め、放射性物質が大量放出されるかしれません。原発ゼロの社会は、そうした危険のない社会です。脱原発はイデオロギーの問題ではなく、皆が共通に望む安全・安心を実現するために必要なものです。
 私自身、経済学者として、原発をその経済性から調査・研究を続けてきましたが、福島第一原発事故といった深刻な事態に直面し、経済性やコストの問題もすべて吹き飛んでしまった感さえします。
 原発は、いったん事故が発生すれば、私たちの理解を超えて甚大な影響を及ぼすものなのです。すでに過去のものとなった“安全神話”や、「原子力は安価である」といった言説に踊らされてはならないと思います。
 原子力の発電コストが他の電力に対して安価とされる際に、その根拠となるのは、政府のエネルギー政策や原子力政策に関する審議会が発表する報告書です。福島第一原発事故以前では、2004年に発表した数値が具体的な根拠とされてきました。この報告書では、原子力の発電コストは水力や火力と比べても安くなっています。
 しかし、報告書では、発電コストを算出するための条件やデータの多くは非公開とされていたため、原子力が安い電源であるかどうか再現することができません。計算に使われている数字がどういう根拠があるものなのか、それが分からないのです。
 また、報告書では計算の際に、架空の発電所を想定し、ある期間使用した時、どの程度のコストで発電できるかという「モデルプラント方式」を用いていましたが、報告書に示された数値は、実際の原発の運転年数、設備利用率に則して算出されたものではありませんでした。実際の運転年数、設備利用率から算出される発電コストでは、原子力は必ずしも安い電源にはならないのです。
 しかも、発電コストに含まれるものは、発電に直接要する費用と使用済み燃料の処理等にかかるバックエンド費用のみで、原発に関わる政策費用としての立地対策費用、研究開発費用が含まれていません。この政策費用を含めれば、原子力は最も高い電源になります。福島第一原発事故によって多額の事故費用が生じ、原発のコストが今、見直されていますが、事故以前から原子力は最も高い電源だったのです。
 私自身の経験になりますが、2010年9月に、原子力委員会から原子力政策大綱について見直すべきかどうか、専門家として意見を聴かれることがありました。
 私は、今述べた趣旨に沿って“原子力政策大綱は見直されるべきではないか”と発言しましたが、委員長から「あなたのやっていることは研究とは言えない」という批判を浴びるというのが当時の状況でした。
 しかし、原発事故によって状況は一変したのです。

◇ 原子力政策の誤り
 なぜ、原子力は高いコストにもかかわらず利用されてきたのでしょうか。
 それは、電力会社が支払うコストは全体の一部にすぎず、政策費用の多くは国民の税金によって支払われているからです。
 その背景には電源三法の存在があります。1974年に制定された電源三法は、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法からなるもので、当時の総理大臣の田中角栄氏が原発反対派を抑えるためにつくった法律です。これによって、原発周辺地域に多額の交付金が支給される構図ができました。
 原電開発促進税法に定められた電源開発促進税は、エネルギー政策における原子力発電の位置づけが高まるたびに、引き上げられてきました。財源が増えることで、研究開発費や、立地対策に必要な原発周辺地域への交付金が増額されました。
 経済産業省は、他の電源にも使われていると説明していますが、立地対策の7割、電源開発促進対策特別会計のおよそ3分の2が原子力に費やされています。これほどまでに原子力開発を支えるエネルギー政策は他の国では見ることができません。
 しかも電力会社は、税金から支払われる政策費用を含む全てのコストを電力料金の原価として国民に転嫁しています。
 したがって、電力会社にとって原発は安いものなのです。しかし国民からすれば最も高い電源です。
 一方で、原発の安全対策には十分なコストがかけられていなかったことが、今回の事故で明らかになりました。大事故を防ぐためのシビアアクシデント対策は国の規制によらず、電力会社の自主性に任され、周辺地域を含めた防災体制、多重防護が確保されていなかったのです。
 元GE(ゼネラル・エレクトリック社)の技術者であった原子力の専門家は、日本の安全基準はアメリカに比べ非常に遅れていると指摘しています。
 日本の安全基準は、もともとアメリカの安全基準に基づいて作成されましたが、その後、アメリカでは何度も改訂されています。しかし、日本は改訂に消極的で、その差は著しくなっています。
 原子力規制委員会では、本年7月までに新基準の法制化を目指していますが、アメリカと同等に達するには、かなり難しいのではないかと専門家は指摘しています。
 福島第一原発事故を教訓とし、最高水準の安全基準を法制化するためには、これまでの安全対策への真摯な反省と政策の転換を、コストの面からもはっきりと示す必要があるのではないでしょうか。

◇ 脱原発の潮流
私たちには将来世代への責任が

 昨年8月までに実施されたエネルギー・環境に関する意見聴取では、国民の大多数が原発ゼロ社会を望んでいることが明らかになりました。エネルギー政策を根本から転換する時がきたと言えます。
 これに対し、原発を停止することの経済への影響を懸念する人々がいますが、果たしてそうでしょうか。
 脱原発を進めれば、廃炉費用とともに、短期的には、節電、再生可能エネルギーでは補えない分、火力発電による燃料の消費が増え、これに伴う追加的な燃料費が発生するでしょう。しかし、このコストはいつまでも続くものではありません。再生可能エネルギーの比率が増加すれば、火力発電への比重は低下するからです。
 再生可能エネルギーの普及を疑問視する向きもありますが、脱原発を加速させたドイツでは、2012年の1月から6月の合計で、再生可能エネルギーが電力全体の25%に達しています。したがって、原発停止で不足する電力を再生可能エネルギーに置き換えることは、決して難しいことではなくなっているのです。
 個々では、細かな計算は省きますが、今後15年間で再生可能エネルギーに置き換える場合にかかる脱原発のコストは全体で年間平均約2兆円になると考えられます。
 一方、脱原発によって生まれる便益があります。これまで原子力政策を進めるために年間数千億円にも上っていた政策費用が節約できます。
 さらに増え続ける使用済み燃料の再処理、再処理から生み出される高レベル放射性廃棄物等の処分にかかる費用が削減され、年間2兆円近い節約が期待できるのです。原発を稼働させる費用も当然不要になりますから、全体では年間約2兆6400億円が、脱原発により節約できることになります。脱原発の便益はコストを上回るのです。
 脱原発の道へ歩み出すための転換点に、今、日本は立っています。これ以上、深刻な事故は起こすことはできません。ここで転換しなければ、日本という国自体が信用を失うことになりかねません。私たちには将来世代に対する責任もあります。たった数十年でためた放射性廃棄物を10万年先までの将来世代に押しつけることの倫理性の意味を考えなければならないと思います。
 脱原発の潮流は現在、世界にも広がりつつあります。原発事故以前には、原発ゼロを視野にすえた研究はなかったと言っていいでしょう。しかし、原発事故以降、各分野で原発ゼロ社会をテーマとした研究が始まっています。しかも、それらは経済性からも原発ゼロを推奨するものです。
 海外に目を向ければ、ドイツでは脱原発を加速させるなかで、再生可能エネルギー等の成長産業を押し上げ、経済成長を達成しつつあります。ヨーロッパ全体がそのような方向へと進んでいます。
 日本では脱原発への転換点に今、立っている--私は、繰り返し訴えたいと思っています。
おおしま・けんいち 1967年、福井県生まれ。経済学博士。高崎経済大学助教授を経て現職。専門は環境経済学、環境・エネルギー政策論。経済産業省総合資源エネルギー調査会基本問題委員会委員等を務める。著書に『原発のコスト』(第12回大佛次郎論壇賞)、『再生可能エネルギーの政治経済学』『原発はやっぱり割に合わない』などがある。
    「災害と文明 エネルギー転換への視点 原発ゼロ社会を目指す=大島堅一」、『聖教新聞』2013年02月27日(水)付。

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覚え書:「書評:写真家 井上青龍の時代 太田順一著」、『東京新聞』2013年3月3日(日)付。

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書評:写真家 井上青龍の時代 太田 順一 著

2013年3月3日

◆体を張って撮る貧困の底
[評者] 吉田 司 ノンフィクション作家。著書に『王道楽土の戦争』など。
 東日本大震災の復旧事業で暴力団が労働者を違法派遣し儲(もう)けているとか、最近の非正規雇用の若者は一杯百円のコーヒーで夜を明かすマクドナルド難民になっているなんて話を聞くと、一泊五十円のドヤ街の貧困労働者が暴力団のピンハネ搾取や警察の横暴と激しく戦った一九六〇年を思い出す。六一年夏、大阪・釜ケ崎のドヤ街の群衆は「俺たち人間やぞ」、差別をやめろと叫んで機動隊六千人と激突。投石と放火の暴動が四日間も続き、底辺暗黒からの「人間宣言」と評された。
 本書はそんな釜ケ崎の日雇い(非正規)労働者たちの日常を体当たりで活写した伝説的「無頼派」カメラマン・井上青龍の生涯を描いた評伝である。
 地下足袋姿でコップ酒をあおり、手ぬぐいに小型カメラを隠し、すれ違いざま片手でカシャ!と彼らを隠し撮り。当然「なんで撮った」と殴り合いのケンカになる。いまは写真界の巨匠となった森山大道に若き日「路上写真」の醍醐味(だいごみ)を覚えさせたのはこの青龍らしい。あの片手撮りのなんとカッコ良かったことかと森山は回想している。
 カメラ・アイが映像美よりも街角の飢餓や暴動といった人間の荒野を駆けめぐり、ナロードニキ(ロシア民衆革命派)ばりの社会変革を夢みた時代だった。ところがこの青龍さん、報道写真や大学の先生になって“食える”ようになるとテーマ喪失で作品が撮れなくなる。スランプと空白の二十年。最後は「南島の空に…人間を探しに行きます」の言葉を残し、南国奄美の海の水中撮影事故であっけなく死んだ。
 彼の師匠筋は「ドン(鈍)な奴や」と嘆いたと言うが、しかし青龍の生きざまは貧困と絶望が深いほど逆に人間は捨て身の勝負に出る、体当たりで本質的な仕事をやってのけるものだという人生の妙味をよく伝えている。いま貧困の底にいるマクド難民の若者たちに「勇気を出せ!」と無料配布して読ませたくなる本だ。
おおた・じゅんいち 1950年生まれ。写真家。著書『父の日記』(写真集)『ぼくは写真家になる!』。
(ブレーンセンター・2940円)
◆もう1冊 
 神田誠司著『釜ケ崎有情』(講談社)。お金がなくても生き生きと暮らす大阪・釜ケ崎の人々の姿を写し取ったルポルタージュ。
    --「書評:写真家 井上青龍の時代 太田順一著」、『東京新聞』2013年3月3日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013030302000168.html

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覚え書:「書評:視線とテクスト 多木浩二遺稿集」、『東京新聞』2013年3月3日(日)付。


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視線とテクスト 多木浩二遺稿集

2013年3月3日

◆「もの」に探る人間の意味
[評者] 高島 直之 美術評論家・武蔵野美大教授。著書『中井正一とその時代』など。
 一昨年に八十二歳で亡くなった著者の、いまでは眼に触れにくい七〇年代の初期評論を中心に集めた全七章立ての浩瀚(こうかん)な書だ。著者は、近代の日常生活に滲(し)みこんだ無意識の視線や知覚のありようを探るために都市論やメディア論、視覚表現や映像イメージ論などに広く分け入ったが、本書は建築とデザインの領域に絞っており、いわば多木批評の出発点を示す企図がある。
 その建築・デザインの戦後過程を通して著者が向き合った課題とは、これまで生産と消費の経済的合理性を優先しそこに技術的な解決を求めていくことで「もの」が形成されてきたが、時間と場を考慮した人々の生と世界とが交じり合う環境を調整して回復すること(第一・六・七章)。その技術的システムによる「もの」は自分の機能のなかに孤立しており、このバラバラの「もの」を生き生きとした場所に共存させ、それを調和させていくのが人間の可能性であること(第三・四・五章)。そのふたつである。
 著者はこのことを論証するために「もの」の記号論を導入する。家具を論じる第二章では、椅子は、背・座・脚の身体機能から作られるが、そこでは皮膚のこすれや骨のうずきのような触覚を刺激することにおいて、場に包まれた主観的な身体感覚も生み出す。そこで人は椅子によって人間存在の新たな意味を発見し、自己自身を超え空間を編成しなおしていく経験を得る、というのである。
 著者の、行為-想像力-事物が絡みあった日常の「もの」の記号分析は先駆的な試みであった。一九二八年生まれといえば、戦中の皇国史観を経て、戦後のロシア-ソ連型社会主義とアメリカ型消費資本主義を受け入れた世代であろう。それらのもつ啓蒙(けいもう)主義的進歩史観から発する反映論的イデオロギーへの忌避と強い批判意識が、著者をして筆を執らせる動機となったのではなかったかと思われた。
たき・こうじ 1928~2011年。評論家。著書に『生きられた家』『都市の政治学』など。
(青土社・3990円)
◆もう1冊 
 磯崎新・多木浩二著『世紀末の思想と建築』(岩波書店)。急速な変化を遂げた二十世紀末の建築の社会状況・文化を問う対談集。
    --「書評:視線とテクスト 多木浩二遺稿集」、『東京新聞』2013年3月3日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013030302000167.html


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書評:小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』ミネルヴァ書房、2010年。


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戦前日本の政党政治と国際協調体制と国際金本位制といった政治経済、国際システムはなぜ崩壊したのか--。本書は第一次大戦後から満州事変に至るまでの政軍関係を分析した一冊。著者は実証的政治過程分析によって鮮やかにその系譜を浮かび上がらせる。

陸軍は内部での権力争いがすさまじく、暴走しやすい体質。著者は史料からその襞に分け入る。政党内閣が機能するためには「強力な首相」と「強力な陸相」の組み合わせがベスト。田中義一は陸相時代は軍を掌握するも、首相になるとコントロールできなかった等々。

全体として、「政党内閣がなぜ崩壊したか」という答えにはもう少し踏み込みが欲しかったのは事実。しかし、政治/軍「関係」が別々に議論される所論が多いなか、複雑な相関関係を丁寧に整理していく力量に驚く。

長い序論は、原敬論といってよい。吉野作造との関係でここに注目してしまう。筆者によれば原敬は軍の「漸進主義的制度改革」を粘り強く目指した人物。参謀本部の解体論も横行するが、皇室を担ぎ上げる軍の「軽挙」を退けようと努力する。

盛岡藩出身の原らしくその忍耐力はすさまじい。伏魔殿に入ってまで、人事的協力を取り付け、ことを運んでいく。軍人が統帥権を振りかざすのは危険であり、皇室は「慈善恩賞等の府」であるべきとの論、現在の象徴天皇制を先取りする構想といえよう。

「田中義一、浜口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅……陸軍改革の試み、その意図せざる挫折を描く」。おすすめの一冊です。


http://www.minervashobo.co.jp/book/b56126.html

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政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932 (MINERVA人文・社会科学叢書)
小林 道彦
ミネルヴァ書房
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覚え書:「今週の本棚:中村達也・評 『現代日本の労働経済-分析・理論・政策』=石水喜夫・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。


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今週の本棚:中村達也・評 『現代日本の労働経済-分析・理論・政策』=石水喜夫・著

毎日新聞 2013年03月03日 東京朝刊

 (岩波書店・2940円)
 ◇人口減少の現実を見極める「政治経済学」

 熱い想(おも)いの込められた書である。著者は、六年間にわたって『労働経済白書』の執筆に携わり、現在は大学で労働経済論を講じる立場にある。日本の労働経済の現実に分け入り、あるべき政策を構想し、その実現のための方策を模索してきた。そんな中で痛感したのは、労働経済を分析するための経済学が、あまりに日本の実態とかけ離れた机上の理論なのではないか、ということ。

 確かに労働力は商品であるにはちがいないが、他の商品一般とは異なる性質を幾重にも具(そな)えたいわば擬制的な商品である。働くという人間の営みは、市場の論理と用語だけで語ってしまうと、重要な多くの事柄がこぼれ落ちてしまう。それぞれの国ごとに賃金や雇用や労働をめぐる様々な規制や法体系や慣習が形成されてきたのも、もちろんそのことと関連している。

 ところが主流派の経済学は、労働力を、他の商品一般と同じ論理によって説明づけようとする。賃金という価格は、他の商品の価格と同様に伸縮的でなければならず、労働力の需要と供給も、市場の流動的な調整が可能となるよう、できるだけ規制を取り外さなければならない、等々。しかも、こうした主張を、OECDなどの国際機関も大々的なキャンペーンを張って展開してきた。例えば一九九六年、OECDの委員会が日本の労働経済を分析して、いささか強硬とも思える提言をまとめたことがある。長期雇用や年功序列などに象徴される日本の労働慣行は、市場の調整機能を著しく損なうものであるから、解雇規制を緩和し労働者派遣事業を拡大し民間の人材ビジネスを拡張すべし等々、市場の調整機能を強調するものであった。現に、構造改革の名の下にそうした政策が推進されてきたのは周知のこと。その過程で非正規雇用が増え、平均賃金が下落を続け、労働の世界が流動化と不安定化と劣化の度を強めてきたのであった。本書の第1部が示すとおりである。

 著者は、労働問題を歴史的・社会的条件から切り離して商品一般の論理で説明づけ政策を構想する経済学を、「市場経済学」と呼んで厳しくこれを問い質(ただ)す。そして、それに対置さるべき経済学を「政治経済学」と呼び、その典型をケインズ経済学に見いだす。両者を対比させつつ労働問題の解明を試みたのが、本書の第2部と第3部である。興味深いのは、ケインズの一九三七年の講演「人口減少の経済的帰結」が問いかける意味を強調していること。ケインズは、人口減少が投資機会を狭め経済の停滞と失業の可能性を高めると見たのであるが、そうした問題意識を引き継いだハロッドの『動態経済学序説』は、戦後の世界的な経済成長の中で次第に忘れ去られてしまった。しかし、現在の日本は、まさに人口減少のさ中にある。先進諸国の多くは、人口が微増ないし定常の状態にあり、二一世紀半ばまでに人口減少が見込まれているのは、ドイツ、イタリア、韓国ぐらい。そんな中で、とりわけ急速に人口が減少している日本の現実を見極めるための貴重な手立てとして、ケインズとハロッドの指摘を改めて思い起こすべきではないのか。

 スミスと現代の「市場経済学」をいささかストレートに結びつけている点が気になるし、労働力商品の特殊性を強調するのであれば、何はともあれマルクスを避けて通ることはできないはずだが、そのことへの言及が見られないなど、いくつか尋ねてみたい論点はあるけれど、著者の熱い想いに満ちたこの問題提起が、ぜひとも生産的な論争へとつながってほしいと思う。
    --「今週の本棚:中村達也・評 『現代日本の労働経済-分析・理論・政策』=石水喜夫・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130303ddm015070002000c.html


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現代日本の労働経済――分析・理論・政策
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覚え書:「今週の本棚:差別の境界をゆく 生活世界のエスノグラフィー=岸衛・桜井厚・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。


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今週の本棚:差別の境界をゆく 生活世界のエスノグラフィー
岸衛・桜井厚・著
(せりか書房・2415円)

 ライフストーリーの研究者2人が滋賀県の被差別部落を中心に1990年から約20年にわたり、丹念に聞き取りした内容をまとめた。年齢も立場もさまざまな人が登場。時代とともに変遷する差別の形、当事者の心境の変化が浮かび上がる。同和問題の入門書としても活用できる。
 昭和3年生まれの女性はずっと部落内で生活し「私は差別に出合わなかった方だと思う」と語る。しかし、大学を卒業して公務員になった息子は、婚約者の両親が結婚に猛反対し、破談になったという。牛革の靴職人は弟子入りを希望する若い女性が現れ「冗談や」と戸惑う。当の女性は「靴産業が部落産業とは知らなかった」。若い保育士は「部落の人間だと意識して考えたことはない」と言いつつ、職場では隠している。バイクで走り回っていた少年は小学校教員になり、部落の現状をこう語る。「ひと昔前はみんな生活レベルが低かった。今はすごい格差。高級車が止まる家の隣が、電話も水道も止められた家だったりする」
 部落と部落出身の市井の人々に寄り添い、証言を忠実に再現。差別の輪郭がぼやけてきた「部落の今」を伝えて説得力がある。(か)
    --「今週の本棚:差別の境界をゆく 生活世界のエスノグラフィー=岸衛・桜井厚・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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差別の境界をゆく―生活世界のエスノグラフィー
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覚え書:「時代の風:宗教と民主主義=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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時代の風:宗教と民主主義=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ
毎日新聞 2013年03月03日 東京朝刊

 ◇過激主義を恐れるな

 西アフリカのマリで、イスラム過激派勢力の拡大に対しフランス軍などが軍事介入した。マリで起きていることは私たちが直面する多くの問題の側面を映し出している。

 まずイスラム過激主義だ。トルコやモロッコ、フランスでみられる近代的、科学的なイスラム教もあれば、反動的で閉鎖的なイスラム教もある。カトリックや福音主義の中にも過激思想はあり、神道や儒教にも変化を恐れる人々がいる。だがこれほどの宗教的なテロリズムはイスラム教にしか存在しない。彼らは楽園つまり非常にポジティブな死後を信じ、現世に生きることを重要視しない。イスラム教の「ジハード」という言葉は通常は自らの内面の悪に対する戦いと解釈されるが、無信仰者や異教徒に対する聖なる戦いと考える者が相当数いる。これはイスラム教の本質的な思想をゆがめている。

 過激な原理主義は最貧国ではなく、近代性に近づいている国で生まれやすい。富裕層、エリート支配層に近づけない中産階級の欲求不満が強まるからだ。例えばパキスタンはバングラデシュほど貧しくないが、原理主義がある。

 二つ目に薬物の問題がある。マリは薬物密売に関し、特別な位置にある。ラテンアメリカからの薬物は大西洋を渡り(アフリカ大陸西岸の)ギニアビサウを通ってマリ国内の秘密の空港を経由し、欧州に入る。テロリストと薬物が結びつくほど危険なことはない。薬物の売却で彼らは兵器を購入するからだ。

 本当の問題は過激主義を恐れることにある。カタールやサウジアラビアでは富裕層が恐れから自衛のために過激派に資金を渡そうとしている。これは非常に危険だ。

 アルジェリアの人質拘束事件で、アルジェリア政府は長年の内戦の経験から、テロリストに対して一つの対応しかありえないことを理解していた。それは戦争だ。彼らの対応は正しかった。

 武装勢力の活動を世界規模で防ぐには強力な国際連携が必要だ。興味深い例はペルシャ湾とソマリア沿岸だ。かつて非常に多くの海賊やテロがあったが、フランスや英国、米国、ロシア、中国、日本などが非公式な形で国際警察のような作戦を実施し、安全が保たれている。国際社会の協力でテロリズムと戦えることを示している。

 一方で、勢力を拡大する市場は、宗教の敵とみなされる可能性がある。市場は精神面より物質面、集団より個人、長期より短期的なものを優先し、宗教と対立するからだ。

 宗教と市場秩序の両立には宗教が国家ではなく個人に属することが条件だ。国家の役割は個人が望む宗教を信仰できるようにすることだ。宗教規則への服従を強制する社会に自由はなく、市場は自由でない社会では機能しない。教育は非宗教的、近代的であることが重要だ。ナイジェリアの過激派勢力が名乗る「ボコ・ハラム」は「反近代教育」という意味で、彼らは宗教学校でのみ行われる教育を要求している。

 穏健なイスラム教と民主主義は共存しているが、イスラム過激主義と民主主義は両立しない。どのような宗教でもイデオロギーを強制する意思は全て、民主主義に反する。

 私たちは、個人が好きなものをますます自由に選ぶ世界に向かいつつある。それは宗教にも当てはまる。現存する宗教を選んでもよいし、カトリックやプロテスタントやイスラム教、仏教の小さな断片を集めて個人的な宗教を作ってもよい。それを私は「レゴ宗教」と呼ぶが、二つ意味がある。一つは小さな断片で組み立てる、おもちゃのレゴブロックで、自家製の宗教だ。もう一つは、L’ego(自我)宗教という意味だ。

 アフリカにはイスラム教以前の宗教、アニミズム(精霊信仰)が存在し、イスラム教と同時に、あるいはカトリックと同時に信仰している人も多い。

 過激派勢力は少数であっても、アフリカ全体の安定にとって脅威となっている。

 アフリカの発展のためには国際社会が、法の安定と民主主義を国家が実現する手助けをしなければならない。これは世界全体に言えることだ。民主主義がなければ経済成長も起こらない。二つ目に、最も貧しい人々が独自の経済活動を発展させるのを支援することだ。ここではマイクロファイナンス(小口金融)が重要だ。誰かに毎日、食料を与える代わりに自力で収入を得るための資金を貸すのだ。

 アフリカの安定した統治を助けることができれば21世紀はアフリカの世紀になる。莫大(ばくだい)な天然資源があり、やがて人口は世界人口の4分の1を占める。アフリカは巨大な経済成長の可能性を秘めているが、そのためには最悪の事態を避けなければならない。それはカオス(混とん)状態だ。カオスを回避し国々を安定させるか、自ら安定するのを助けることができれば、世界の成長の大きな原動力となる。(ジャック・アタリ氏は今回で終了します)=毎週日曜日に掲載
    --「時代の風:宗教と民主主義=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/opinion/news/20130303ddm002070087000c.html


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ちがっているということと反対であるということがたえず混同される

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 日本ではちがっているということと反対であるということがたえず混同されるでしょう。たとえばノン・コミュニストという範疇がなくて、同伴者か然らずんば反共というふうに区別する。これが組織論に現われると丸抱え主義になり、既存のものとちがった組織をつくるとすぐ反対組織として受取られる。ちがった者同士が共通の目標のために組んで行くという発想をもっとひろげないと駄目です。
    --丸山眞男「対談 現代における革命の論理」、井汲卓一編『講座・現代のイデオロギー』第一巻、三一書房、一九六一年、232頁(『丸山眞男座談 4 1960-1961』岩波書店、1998年所収)。

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意見が異なることが、すなわち、自分自身の「敵」となることは必然なのだろうか--。丸山眞男はそうした脊髄反射を慎重に退けるべきと提言する。

そもそも、同じ意見に属する人間であったとしても、人間が一人一人の独自の世界を持ち、相互に異なっていることは明らかである。だとすれば、そうした自覚にたった上で、違ったもの同士が組んでいくという覚悟からはじめるほかない。

その自覚と覚悟によって、多様な組み立てが可能になるのであり、自己と他者の緊張関係が有機的に昨日する。相互の異質性の自覚を欠いたまま、共同体的な収斂の立場を優先させるのでも、そして同時に、異質なものとして排除する純血主義でもない、「連帯」としての「共同・協同行動」が必要なのではあるまいか。

20世紀とは、「同伴者か然らずんば反共か」という二者択一的脊髄反射の悲劇の繰り返しであったのではあるまいか。

見解の違いは明らかにすべきであるし、問題は探求されてしかるべきだ。そうした作業を割愛した連帯は、うまく機能するわけがない。しかしながら、異なっていることを認めないのは、それ以上に問題であろう。


しかし、ながら人間は、いまだにおなじ分断主義をとり続けているように思う。


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丸山眞男座談〈4〉1960?1961
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覚え書:「今週の本棚:加藤陽子・評 『記念碑に刻まれたドイツ』=松本彰・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。


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今週の本棚:加藤陽子・評 『記念碑に刻まれたドイツ』=松本彰・著

毎日新聞 2013年03月03日 東京朝刊

 (東京大学出版会・6720円)
 ◇民族の存亡をかけた歴史の変転を問い直す

 葉かげから少しだけ陽(ひ)のさしている森をゆっくりと歩く人--。本書を読み終え、眠りについて見た夢を、珍しいことに憶(おぼ)えていた。静かな夢で、もう一度眠り直したくなる心地良いものだった。森を歩く人の夢を見た理由は明らかで、本書244頁(ページ)に載せられたベルリン近郊ハルベにある「森の墓地」の写真に、評者の脳が反応したからだろう。

 ハルベは、第二次世界大戦の最終盤、首都ベルリンへと迫るソ連軍と、防衛するドイツ軍との間に激しい戦闘のあった場所である。戦後の冷戦下、「ファシズムと軍国主義の犠牲者」への追悼を優先せざるをえなかった東ドイツにとって、対ソ戦で死んだドイツ軍将兵を公然と追悼することは憚(はばか)られた。だが一人の牧師の一念により、二万余の小さな墓石が森の地面を埋めつくすまでに整備が進むこととなった。

 こうして書いているすべてのことを教えてくれた本書は、戦争・革命・統一という三つの歴史事象を縦軸に配し、国民の集団的記憶の表れである記念碑とそこに刻まれた言葉を横軸に配し、ドイツの近代史を豊かに描いた。1870年から71年の独仏戦争での勝利を想起すれば、ドイツにとって国家統一が戦争と不可分であったとわかるし、1914年から18年の第一次世界大戦での敗北を想起すれば、ドイツにとって革命が戦争と不可分であったこともわかる。戦争・革命・統一の中核に位置したのは戦争であり、民族の存亡をかけた戦争は、集団の記憶として記念碑に刻まれることとなった。ここに著者の着眼の妙がある。

 ただ、戦争の記念碑が歴史認識の機微に触れるのは、追悼する対象、伝えようとするメッセージの内容が常に問われるからだろう。「第一次世界大戦戦没兵士栄誉の碑」を依頼された彫刻家バルラッハの例でいえば、彼の作成した天使のブロンズ像<漂う天使>はハンブルク市のギュストロウ大聖堂に飾られはしたが、ナチスや軍から強く批判された結果、1937年に像は撤去され、41年には破壊の憂き目にもあっている。

 38年の演説でヒトラーは「全ての健全なもののみが正しくかつ自然である。また、正しくかつ自然なものはすべて美しい」と断じた。ナチスの文化観に適さぬものは、バルラッハによる慰霊碑といえども破壊を免れることはできなかった時代。そのようなナチス全盛時代の記念碑の例としては、ハンブルク市にある<兵士の行進>碑が挙げられる。この碑には、労働者詩人レルシュの愛国詩「兵士の別れ」のリフレイン部分「ドイツは生きなければならない、たとえ我々が死ななければならないとしても」が刻まれた。

 このような、変転きわまりない歴史に正対しても著者はひるまない。その学問的真摯(しんし)さは、それぞれの時代の記念碑の特徴や雰囲気を正確に読者まで届けようとして配された200を優に超える写真の数々からも察せられよう。

 よく知られたように、戦争責任に対するドイツと日本の対応は異なっており、日本の対応がいまだ不十分なことは評者も自覚している。

 だが、日独の違いを嘆くだけでなく、両国で何故これほどの違いが生じたのか考えてみることも大事なのではないか。再軍備を早期に決断することで欧州に復帰したドイツと、平和憲法を抱いてアジア太平洋に復帰した日本と。両者の戦後思想の異なった軌跡をたどる際、記念碑をめぐるドイツ国内の相克と論争について本書が導いた知見と創見は、不可欠なものとなるはずだ。
    --「今週の本棚:加藤陽子・評 『記念碑に刻まれたドイツ』=松本彰・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130303ddm015070038000c.html


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記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一
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覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『集合知とは何か』=西垣通・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『集合知とは何か』=西垣通・著

毎日新聞 2013年03月03日 東京朝刊

 (中公新書・861円)
 ◇ネット社会を考える貴重な一冊

 ここ十数年のメディア環境の変貌ははなはだしい。フェイスブックやツイッターなどといったソーシャルメディアが話題にならない日はないほど。だが、パソコンの普及もインターネットの浸透も、ここ十数年のことにすぎない。だいたいそれ以前のコンピュータは、人工知能すなわち「人間にかわって高速度で思考する機械」にほかならなかった。それがいまや面目を一新し、何よりもまず強力な相互通信機器に、また膨大な人々の考えを瞬時に把握できる機械になってしまったのである。

 コンピュータは「タイプ1」から「タイプ2」へと変貌したのであると、本書の著者は言う。「両者のあいだには、設計思想上の根本的な相違がある。高価な注文生産のかわりに安価な大量生産が主流となり、ハードウェアはなるべくシンプルで基本機能だけをみたし、多様なヒューマン・インターフェイスをソフトウェアが分担することになったのである」と。「タイプ1」の典型は、八〇年代、産官学のコンピュータ研究者をあつめ、およそ五〇〇億円の予算をかけてとりくんだ日本の国家プロジェクト「第五世代コンピュータ」開発だが、無惨な失敗に終わった。なぜか。理由は「プロジェクト・メンバーの見識の無さにあった」と著者は言う。「西洋から輸入した技術自体は所与の前提とし、ひたすらその改良にいそしむ」という近代日本流のやり方がもはや通用しないことに気づかなかったからだ、と。むしろ逆に、万物にみな生命が宿るといった日本古来の考え方のほうがよほど適切だったのに、と、示唆するのである。

 本書はしかし国家プロジェクトの失敗の責任を問うているのではない。そうではなく、知の世界そのものが「機械の知」から「生命の知」へと大きく転換しつつあることに注意を促しているのだ。近代西洋型の知からの大きな転換、コンピュータが「タイプ1」から「タイプ2」へと変貌したことの意味はそこにあるというのである。人間の死を宣言したいわゆるポストモダンは「機械の知」の最終段階のようなもの。「タイプ2」の登場とともにポストモダンの掛け声も急速にしぼみ、いまでは「検索エンジンとソーシャルメディアによって低コストで直接民主制が達成できる」という楽観的な議論さえ横行している。生産者と消費者を直接結ぶいわゆる流通の「中抜き理論」の政治版である。「みんなの意見」は案外正しいといった「集合知」礼賛の声も同じ流れのなかにある。

 だが、と、著者は警鐘を鳴らす。透明でフラットなグローバル世界というイメージは幻想にすぎない。人間社会とはむしろ「ローカルな半独立の社会集団」の無数の入れ子構造なのであり、それはつまり「中抜き理論」のその「中」にこそ重要性が潜んでいるということなのだ、と。こうして、「人間集団を感性的な深層から活性化し、集団的な知としてまとめあげる」ような「タイプ3」のコンピュータの出現がいまや切望されているというのだ。

 傾聴すべきだが、しかし本書の白眉はむしろ従来の主観・客観という考え方に対する痛烈な批判にある。現実に地上に存在するのは個々人の「主観世界」だけであり「客観知」のほうこそ人為的なツクリモノなのだ、にもかかわらずそれが重要なのは、「主観」の食い違いによって闘争を繰り返さないために「衆知をあわせて創りあげた一種の知恵」にほかならないからである、というのである。客観知とは「生命の知」なのだ、と。

 過熱するネット社会を考えるための貴重な一冊。
    --「今週の本棚:三浦雅士・評 『集合知とは何か』=西垣通・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130303ddm015070010000c.html


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覚え書:「引用句辞典 不朽版 『真の人生』の逆説=鹿島茂」、『毎日新聞』2013年02月27日(水)付。


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引用句辞典 不朽版
「真の人生の逆説」
鹿島茂

幼年時代を全肯定し一億総シュルレアリスト

 シュルレアリスムにのめりこむ精神は、自分の幼年時代の最良の部分を、昂揚とともにふたたび生きる。(中略)幼年時代やその他あれこれの思い出からは、どこか買い占められていない感じ、したがって道をはずれているという感じがあふれてくるが、私はそれこそが世にもゆたかなものだと考えている。「真の人生」にいちばん近いものは、たぶん幼年時代である。幼年時代をすぎてしまうと、人間は自分の通行証のほかに、せいぜい幾枚かの優待券をしか自由に使えなくなる。
(アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」 『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』所収、巌谷國士訳、岩波文庫)

 二〇一三年の現在、シュルレアリスムの教祖ブルトンによるこの幼年時代の定義に意義を唱える人は、少なくとも、先進国にはほとんどいないはずだ。幼年時代こそは「真の人生」にいちばん近いものだとだれもが感じている。
 だが、一九二〇年代に、アンドレ・ブルトンがシュルレアリスム運動を始めたときには、この幼年時代の定義はあきらかに異端であった。でなければ、ブルトンがわざわざシュルレアリスムのマニフェストとしてこれを掲げたりはしない。
では、ブルトンが「真の人生」=幼年時代の対立物として断罪しようとしていたのは何だったのだろうか? 理性=損得勘定によってすべてがあらかじめ定められ、買い占められてしまっている「音なの生活」である。ブルトンにとって、「大人の生活」というガラスの円天井をうち破り、その外側へと脱出することこそがシュルレアリスムであり、そのためには、なんとしても幼年時代を取り戻さなければならなかったのである。
 しかし、時間とともにこのシュルレアリスムの主張は広く認められ、二〇世紀の芸術・文化は、シュルレアリスムの「方法」には拠らぬまでも「真の人生」=幼年時代という思想を全肯定することになる。さらに、時がたち、二一世紀となるや、それは「異端」の領域から脱して、一般人の生活という「正系」をも支配するに至ったのである。
 だが、こうした過程で、だれも気づかなかったパラドックスが生まれた。
それは、「真の人生」=幼年時代と信じる人たちは自分の幼年時代の中にアルカディアを見て、それを延長しようとすることはあっても、幸せな幼年時代を次代に与えようとはしなかったということだ。それもそのはず、幼年時代を拠り所として生きるということは、生涯独身か、あるいは結婚しても子供をつくらないというオプションを選び、生命連鎖の環を自分のところで断ち切るのと同義だからである。なぜなら、「真の人生」を十全に生きようとしたら、子供をつくってその養育費や教育費のためにあくせく働くなどというのは完全に邪道であり、絶対に選んではならない選択肢だったからである。
 シュルレアリストたちが先導した幼年時代の全肯定は、こうして、次の時代の幼年時代を消滅させるという逆説を生んだのである。
しかし、それでも、幼年時代の全肯定が、シュルレアリストなどの例外的な存在に限られているうちはまだよかった。、子供じみた変な奴らが変なことをしている、で済んだのである。異端が異端のままでいる社会は、ある意味、とても健全であった。
 だが、いつしか、商業資本が異端に目をつけるに及んで、幼年時代全肯定の思想は、サブ・カルチャーというかたちをとってありとあらゆる社会層へと拡散していった。「真の人生」は幼年時代にしかないと子供の頃からたえず無意識に刷り込まれていけば、どんな普通の人でも、幼年時代というアルカディアを無限に延長してゆくのが最も正しい道であると信じるようになる。異端が正系に化け、「一億、総シュルレアリスト」と化した悪夢のような社会。これがいまの日本なのである。
 シュルレアリストのように幼年時代を全肯定する思想は「社会」にとって異端であるばかりか有害であるから、すべからくこれを弾圧すべしという主張を囗にすることは、何人にも許されない。また、「真の人生」は幼年時代にありというのは一部の特権的な人間にしか許されないのだから、そうしたFXに似たリスクを普通の人間は冒すべきではないという「まっとうな」考えも反動と見なされるようになった。かくて「個性尊重」という、一見、あたりさわりのない、だが、その実、かなりの危険を孕んだ思想が社会をしずかに覆いつくしてゆくのである。(かしま・しげる=仏文学者)
    --「引用句辞典 不朽版 『真の人生』の逆説=鹿島茂」、『毎日新聞』2013年02月27日(水)付。

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覚え書:「今週の本棚:渡辺保・評 『完本 浄瑠璃物語』=信多純一・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。


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今週の本棚:渡辺保・評 『完本 浄瑠璃物語』=信多純一・著
毎日新聞 2013年03月03日 東京朝刊

 (和泉書院・3150円)

 ◇日本文化の源をなす「死と再生の神話」を知る

 日本の三味線音楽には大きく分けて二つの流れがある。一つは浄瑠璃、一つは唄。二つの違いはストーリーの有無による。浄瑠璃にはストーリーがあり、唄にはない。浄瑠璃の代表的なものは、義太夫、常磐津、清元、新内。唄は長唄、地唄、端唄、小唄である。

 この浄瑠璃のもとが中世に成立した「浄瑠璃物語」すなわち本書である。浄瑠璃とは本来清浄な瑠璃の玉をいい、浄瑠璃世界といえば、その玉に飾られた世界--薬師如来の浄土をいう。そこから転じて薬師如来の神将の一人の生まれかわりの、この物語のヒロインの名前になった。浄瑠璃御前。彼女の物語を語る旅芸人を浄瑠璃語りといい、これが三味線と結びついて浄瑠璃の水源となり、一大水脈をつくった。

 信多(しのだ)純一によれば、その水源はまず物語--文学にはじまり多くの物語に影響を与え、詩歌をとりこみ、末は西鶴に及ぶ。その一方では音楽になり、三味線と合体し、演劇に進出した。さらにもう一方ではこの本にも挿入されている美しい絵巻になり、奈良絵本になってついには浮世絵の題材になった。すなわち文学、音楽、美術、演劇と、ほとんどあらゆる文化領域の底流になったのである。

 しかしあまりにその拡散が広範囲にわたったために、その大もとの「浄瑠璃物語」の本体は今日まであきらかではなかった。

 そこで信多純一は、新しく発見した比較的まとまった善本と他の異本の断片を照合し「定本」をつくった。この作業によって伝説のなかにあった「浄瑠璃物語」の全貌があきらかになったのである。信多純一はさらにこの「定本」の現代語訳を行って本書をつくった。現代人の読み物になったのである。

 浄瑠璃御前は、三河の国の平安貴族と矢作(やはぎ)の宿(しゅく)の遊女の間に、薬師如来から授かった十四歳の美少女である。遊女の娘といっても、金殿玉楼に住み、何十人もの女性にかしずかれる娘である。一方鞍馬山で修行中の源義経(牛若丸)が奥州の藤原秀衡(ひでひら)の配下金売り吉次(きちじ)に伴われて、東海道を下ってくる。十五歳。矢作の宿で義経は彼女を見染め二人は結ばれる。その恋物語であるが、この本を読めば、これが単なる恋物語でないことはあきらかである。私がそう思う理由は、第一にその描写が現実離れしていること。たとえば御前の住居の絢爛(けんらん)豪華なありさま、あるいは恋の描写の複雑さ。その複雑さは十四歳と十五歳の若い男女の恋ではなく幻想的かつ文学的な空間である。
 第二に義経は歴史上の人物像とは全く違っているばかりか、ここには神仏はもとより天狗(てんぐ)の如(ごと)き化け物が登場して、人間と異界の区別がほとんどない。

 すなわちこれは民衆の作り上げた幻想世界であり、神話であった。神話だからこそ文化の広い領域にひろがる水源になったのである。

 私は、この文章を読み、美しい絵を見て、この物語になぜ人々が心を動かされたかを思った。そこにはこの物語に救済をもとめた民衆の心が流れている。すなわちこの物語は、死と再生の神話--浄瑠璃御前も義経も死と再生を体験している--の原型であり、歴史の底辺で大衆が求めたものを示している。

 読みながら私は、レヴィ・ストロースがアメリカ大陸の先住民の仮面をたどって、神話分析を行った『仮面の道』を思い出した。そういう研究がこの本からもつくられるべきである。そうすればさらにこの神話の意味、日本文化のもう一つの原点があきらかになるだろう。その可能性を含めてこの本の出現は文化史上の一つの「事件」である。
    --「今週の本棚:渡辺保・評 『完本 浄瑠璃物語』=信多純一・著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130303ddm015070045000c.html

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覚え書:「今週の本棚:若島正・評 『アサイラム・ピース』=アンナ・カヴァン著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。


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今週の本棚:若島正・評 『アサイラム・ピース』=アンナ・カヴァン著
毎日新聞 2013年03月03日 東京朝刊

 (国書刊行会・2310円)

 ◇囚われの心象を封じた忘れがたい短篇群

 アンナ・カヴァンと言えば、すぐに連想するのは、今はなきサンリオSF文庫である。一九七八年から十年間にわたり、ジャンルSFのみならず前衛的な主流文学まで幅広く海外文学を紹介し、ひと味違った奇妙な作品が多いことで愛好家に知られていた文庫だった。その中でも記憶に残るものを選び出せば、アンナ・カヴァンの『氷』『ジュリアとバズーカ』『愛の渇き』の三冊はおそらく上位にくるはずだ。とりわけ、忘れがたい印象を残す『氷』は、J・G・バラードの初期作品群のような破滅SFの趣を持ちながらも、幻想小説や冒険小説の要素をミックスした独特な作品として、いまだに彼女の代表作であり続けている。しかしその当時は、異様な作品世界に目を奪われて、アンナ・カヴァンというあまり知られていない作家自身についてはそれほど関心が向けられなかったが、実を言うと『氷』は彼女が生前に発表した最後の作品だったのである。死後出版された短篇集『ジュリアとバズーカ』も含めて、わたしたちはいわば双眼鏡を逆に持つように、最後のアンナ・カヴァンから先に眺めたのだ。

 それから三十年近くが経過して、今回久しぶりに出た『アサイラム・ピース』は、彼女がアンナ・カヴァンという筆名を使った第一作となる短篇集である。彼女はそれまで使っていたヘレン・ファーガソンという筆名をここで変え、作風も変えた。つまり、わたしたちは『アサイラム・ピース』でアンナ・カヴァンという新しい作家の誕生を目にすることになる。
 この短篇集は、連作短篇の形式を取る表題作「アサイラム・ピース」を除けば、残りの十三の短篇はすべて、ある強迫観念に取り憑(つ)かれた女性の「私」の一人称で語られている。精神に変調をきたし、療養生活を送ることになった人々を描く「アサイラム・ピース」ではクリニックという具体的な形を与えられているが、残りの十三篇の語り手たちもまたある意味で、「わけのわからぬままに囚(とら)われの身になった人間」であり、自分を取り巻く世界に、家に、そして自分自身の観念に閉じ込められている。敵はいたるところに遍在している。「すべての原子、すべての分子、すべての細胞が一致団結して悪辣(あくらつ)な謀議をこらし、ターゲットになった者にどす黒い攻撃を仕かけてくるのだ」。しかし、その敵は姿が見えない。それは鏡の中にしかいない、幻なのかもしれない。「この世界のどこかに敵がいる。執念深く容赦のない敵が。でも、私はその名を知らない。顔も知らない」。この不条理な世界に対して、語り手たちは静かな怒りに近い感情をおぼえる。「どうして私だけが、見えない看守のもとに苦痛に満ちた夜を過ごさなければならないのか。私はいかなる法のもとに裁かれ、有罪とされ、これほど重い刑を宣告されるに至ったのか」

 こう引用してみればわかるように、この作品世界はカフカの『城』や『審判』に近い。しかし、アンナ・カヴァンが一読すればすぐに彼女のものだとわかる独自のスタイルを持つに至ったのは、女性の一人称によって語られる心象風景を、水晶や氷を想(おも)わせる硬質の文体で、しかも断片的な短篇の中に封じ込めた点にある。各短篇は、物語や登場人物たちが自由に動き出す前に、すっぱりと切り取ったように唐突に終わる。いわば、作品そのものが孤独なのだ。『アサイラム・ピース』に収められた作品たちは、まるでクリニックに収容された人々のように、それぞれの作品世界という個室に閉じこもっている。そして、なによりも驚かされるのは、アンナ・カヴァン自身を反映した不安定な精神世界を描きながらも、筆致は決して不安定ではなく、むしろ徹底して論理的であることだ。その微妙なバランスが、彼女を作家にした。
 この短篇集には、「終わりはもうそこに」と、「終わりはない」という、矛盾した題の二篇が並べて最後に置かれている。全篇を通じて、決して口にされることはない「死」という言葉は、警告という形でしか現れない。自殺という可能性がつねにすぐそこにありながら、語り手たちは生き続ける。「待つこと--それは、この世の何よりも難しいことだ」という言葉は、本作品集では最も悲痛なものとして響く。アンナ・カヴァンという作家が、この地点で最後を迎えたのではなく、この地点から出発して、それから二十五年以上も小説を書き続けたという事実に、わたしは驚異をおぼえる。

 アンナ・カヴァンにとって、書くことはまさしく生きることだった。代表作『氷』は、文字通り外に出ようとする冒険の試みだった。ヘロインの常用による心臓病が原因になったとされている彼女の死については、自殺説もあるようだが、わたしは信じない。彼女はまだまだ書いて、そして生きたかったはずなのだから。(山田和子訳)
    --「今週の本棚:若島正・評 『アサイラム・ピース』=アンナ・カヴァン著」、『毎日新聞』2013年03月03日(日)付。

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覚え書:「みんなの広場 原発に隕石、果たして杞憂?」、『毎日新聞』2013年02月28日(木)付。

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みんなの広場
原発に隕石、果たして杞憂?
無職 65(山口県周南市)

 取り越し苦労を意味する「杞憂(きゆう)」は、中国の古代王朝・周にあった杞の国の人が天地が崩れるなどとありもしないことを憂えた故事からきている。隕石の落下もこれまでは、多くの人が杞憂と思っていたかもしれない・
 だが先日、ロシア・ウラル地方に落下し、約1500人が負傷したことで無用の心配とは言えなくなったと思う。落下地点とみられる湖から90キロ北には核燃料製造・再処理施設があった。直撃していれば、悲惨な大災害になったであろう。
 しかし、日本の原子力規制委員会が策定中の安全基準は、隕石の原発への衝突を想定していない。「質問なるほドリ」によると「頻度が低く、考え出すときりがない」の理由という。しかし確立が限りなく低いことをよいことに対応を怠っているのが実情ではないか。可能性がある以上「直撃するはずはない」とは信じられない。ロシアの空を走った閃光や流星痕を目の当たりにした今、隕石も現実的な脅威と考える。
    --「みんなの広場 原発に隕石、果たして杞憂?」、『毎日新聞』2013年02月28日(木)付。

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「この世の中のすべてが嘘であつても、私は人を信じて生きて行きたい」(里村欣三)


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 里村欣三は正直でありすぎたしまっとうでありすぎた。私が無念に思うのは、ありていに言って里村は、もう少し要領よく、もう少し俗人であればという感慨である。しかしそれは里村欣三にとって無理な注文であり、もし里村が生きていれば、私は彼から叱責されるにちがいないであろう。
    --高崎隆治「里村欣三の人間像」、里村欣三顕彰会編『里村欣三の眼差し』吉備人出版、2013年、3頁。

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里村欣三顕彰会編『里村欣三の眼差し』吉備人出版届いてました。関係者の皆様ありがとうございます。「デモクラシーの大正、戦争とファシズムの昭和、時代と正面から切り結んだ異色の作家里村欣三」。帯が秀逸 ※原稿間に合わずすいませんでしたorz

文芸戦線派の作家として活躍し従軍作家としての顔をもつ「里村欣三ほど誤解され忌避された作家は、この国の文学史上稀れである」(高崎隆治)。全てが統制下の時代の「抵抗」とは錯綜的であり、単純な二元論でその「眼差し」を捉えることは不可能だ。高崎先生は「コンテクストを読め」と絶えず言われた。

徴兵を忌避し満州へ逃亡した里村欣三は苦力として「生きた」。そして40代で輜重兵、大戦下は、報道班員として戦地へ。単純に「転向」と片づける論者は多いが、それは果たして正確だろうか。里村の文章を読むと、それがプロレタリア小説であろうと、戦地からの報告であろうと「変化」は全くない。

里村欣三の生まれ故郷に建立された文学碑には「この世の中のすべてが嘘であつても、私は人を信じて生きて行きたい」との言葉が刻まれている。ここにカテゴリーに抗うその人柄をしのぶことができる。比較的入手しやすいのは『河の民』中公文庫(絶版ですが。関心のある方には手にとってもらいたい。

戦中の1943年に出版された里村欣三の『河の民』は副題の通り「北ボルネオ紀行」。ここでどうしても想起するのは、鶴見俊輔さんだ。捕虜交換船で帰国後、海軍軍属として同じ年にジャワ島に赴任している。鶴見さんがあえて帰国して軍属となったことの意義を対岸の里村と重ね合わさずにはいられない。

ちなみに里村欣三の『苦力頭の表情』、『シベリヤに近く』、そして『放浪の宿』は青空文庫で読むことが出来ます。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person219.html

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里村欣三の眼差し
里村欣三の眼差し
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里村欣三生誕百十年記念誌
吉備人出版

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覚え書:「書評:『古代豪族と武士の誕生』 森公章著 評・上野 誠」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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『古代豪族と武士の誕生』 森公章著

評・上野 誠(万葉学者・奈良大教授)
昔も役人はつらいよ


 某県に出向しているキャリア官僚から、こんな嘆きを聞いたことがある。「上野さん、一月ってもう大変なんです。新年会の梯子はしごで、一日五つや十はざら。たいへんなのは挨拶で、○○組合、○○協議会と名前は違うけど出席者は八割は同じ。挨拶の内容を変えなきゃいけない。それに、お金もかかるし」。私は、本書読了後、以上の言葉を思い出した。

 話は1300年前に飛ぶ。国司こくしすなわち律令国家の地方官が、任地に赴任しても、実際にその土地で働くのは、その土地を代々治める郡司ぐんじなのである。したがって、郡司がそっぽを向けば、国司はその任務を果たせない。もし、紛争が起これば、突然、矢が飛んでくることも、放火にあうことも、あるのだ。ではどうやって、国司は、郡司たちを手懐てなずけるのか。ここが、本書の見所だ。郡司たちの子弟を、花の都の下級役人に採り立てるのである。郡司の子どもは、男なら、天皇や貴族の家で事務官として働き、女なら采女うねめすなわち下級の女官として働く。采女の中には天皇の子を宿す場合もあるから、大出世となることも。二つ目の懐柔策は、郡司たちの領地を国司が保証してやるという方法である。いわば、口利きだ。本書は、こんな上申書からはじまる。「私め他田神護おさだのじんごの祖父、父、兄は代々領地を世襲しておりますし、また私自身も平城京でご立派な御身分ごみぶんの方々の家で忠勤してまいりました。したがいまして、下総国しもうさのくにの海上郡うなかみぐんの郡司のお役は是非、私めに任命して下さい」という文書である。現在の千葉県香取郡・市域を代々治める郡司の言葉だ。ただし、この文書は、事務能力抜群で、能書家であった安都雄足あとのおたりという人物に代筆してもらったようだ。

 さて、話は冒頭に戻る。では、とどのつまり、郡司たちと仲良くなる一番の方法は何か。それは宴会だ。かの万葉歌人・大伴家持も、最大限に郡司たちを褒め讃たたえる歌を作っている。全国会議員、全国家公務員、必読の書、ここに現る!

 ◇もり・きみゆき=1958年、岡山県生まれ。東洋大教授。著書に『遣唐使の光芒』など。

 吉川弘文館 1700円
    --「書評:『古代豪族と武士の誕生』 森公章著 評・上野 誠」、『読売新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130219-OYT8T01017.htm

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覚え書:「書評:『暮らしのイギリス史』 ルーシー・ワースリー著 評・平松洋子」、『読売新聞』2013年2月24日(日)付。

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『暮らしのイギリス史』 ルーシー・ワースリー著

評・平松洋子(エッセイスト)

 チューダー朝の男性の性的魅力はふくらはぎ(下着)。十七世紀、妊娠するには女性のオーガズムが必要不可欠とされた(セックス)。裕福な患者が貧困者から歯を譲り受け、口から口への移植が大流行(歯磨き)。

 肉を焼くために、特別に品種改良された焼き串回し犬が活躍(料理)。朝食は賃金労働者の食事とみなされ、座って食べるのは男の沽券こけんにかかわった(食事時間)……全364ページ、中世以降あらゆる階層の人々が繰り広げるイギリス生活史は、おや、まあ、へえ! の連続。住まいの細部事情を覗のぞき見ながら、わたしは、過去に生きた人々が間近で動き回るような親近感と好奇心を覚えた。

 著者はイギリスの主要な王宮を管理する組織の主席学芸員。その立場を生かした資料渉猟に止とどまらず、尿を利用するチューダー朝の染み抜きを試したり、秘薬を飲んでみたり、実体験の裏づけを厭いとわない。本書にリアルな生活臭が色濃いのは、身体と歴史との関係性を見落とすまいとする視点が通底しているからだ。図版も多数収録。眠れない夜の読書にも、きっと楽しい。中島俊郎、玉井史絵訳。(NTT出版、3600円)
    --「書評:『暮らしのイギリス史』 ルーシー・ワースリー著 評・平松洋子」、『読売新聞』2013年2月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130219-OYT8T01024.htm


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暮らしのイギリス史―王侯から庶民まで
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我国ニ在テハ宗教ナル者、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ


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 ではキリスト教に対する態度はどうであったか。キリスト教に対する迫害、ないし禁教の動きは秀吉に始まる。家康の対キリスト教政策もほぼこれを踏襲するものであって、海外貿易の利はおさめ、キリスト教は禁ずるというものであった。家康のブレーンの僧崇伝のしるした一六一三年(慶長十八年)のキリシタン禁令が禁教の理由としてあげたのは、(1)キリスト教は侵略的植民政策の手先である、(2)在来の神仏に対する信仰を誹謗する、(3)人倫の常道をそこなう、(4)日本の法秩序を守らない、ということであって、秀吉の禁教の理由とほぼ同じであった。スペイン船の水先案内から洩れた情報にもとづいて秀吉は禁教政策をとった。だが彼は本当はスペインの侵略をおそれていたのではなく、それを口実として利用したにすぎない。この場合もそれと同じだろう。だとすれば国内秩序の維持ということが禁教の最大の理由であり、この点ではキリスト教は一向宗以上に怖るねこ宗教勢力とみなされていたのである。
 その後島原の乱がおこり、キリスト教は少数の隠れキリシタンを除いてほぼ完全に弾圧された。もう政治権力に対抗しうる宗教はなかった。またこの乱以後、仏教の諸寺院が戸籍係の役目をして、政治権力の末端組織の役割を果たすようになってからは、仏教の無力化は目にあまるものとなり、表面の繁栄のうちに仏教はその宗教的生命を失っていった。
 このことはどう評価されるべきか。近代化の迅速さという観点からは、宗教戦争の可能性がなくなったこと、あるいは宗教が政治や学問を妨害することがなくなった、等の利点もあげられよう。しかし宗教のもつ政治を批判し浄化する可能性が消え、この宗教の無力は、明治憲法起草当時の伊藤博文の「起案ノ大綱」にみられるように、天皇制設立の間接の原因となっていることも見逃せない。すなわち伊藤はヨーロッパの憲法政治を精神的に支える機軸としてのキリスト教に注目するとともに「我国ニ在テハ宗教ナル者、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」として、宗教の代替物を皇室に求め、天皇の大権を普通の立憲君主国家における君権では考えられないほど強化し、いわば天皇制の疑似宗教化をはかった。
    --源了圓『徳川思想小史』中公新書、1973年、14-16頁。

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近世~現代の日本宗教史の本質をつく一文なので、抜き書き。

しかし、いわゆるキリシタン禁教の4つの理由は、1890年(明治23年)に勃発した内村鑑三不敬事件に端を発する「教育と宗教の衝突」論争における、キリスト教排撃論とほとんど同じ「理屈」だから驚いてしまう。

そしてその4つの理由は、江戸最初期においても、近代日本においても「口実」にすぎない点も同じだ。その口実によって何を実として取るのか。

すなわち「国内秩序の維持」にある。

宗教のもつ「地の塩」をそぎおとしていくのが日本宗教史の歩みとっても過言ではない。

宗教への無関心としての無宗教であることが「フツー」とされ、宗教によって「耕された」批判精神は、全て「反社会性」として片づけられてしまう。
※もちろん、論外の事例はあるがここでは横に置く。

では、日本における「宗教の社会性」の特色の一つはどこに見いだすことが可能なのか。それはまさに「国内秩序の維持」を遂行することにほかならない。例えば、「政治権力の末端組織の役割を果たす」ことが、宗教の公共性、社会性と同一視される風潮を権力と民衆自体が構築してきた。


批判によって機軸を建てることも可能であるにもかかわらず……。


この点は忘れてはならないだろう。


http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/814826/1

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徳川思想小史 (中公新書 (312))
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覚え書:「書評:放射能問題に立ち向かう哲学 [著]一ノ瀬正樹 [評者]鷲田清一」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。


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放射能問題に立ち向かう哲学 [著]一ノ瀬正樹
[評者]鷲田清一(大谷大学教授・哲学)  [掲載]2013年02月24日

■「不明なこと・偽の問題」明確に

 放射線被曝(ひばく)の人体への影響という、深刻で、しかも風評が飛び交う議論に、〈不寝番〉の役を買って出る哲学研究者が、ようやっと現れた。
 被災地外で子供たちを守るためになされるそれ自体は正しい行動が、被災地の物産や瓦礫(がれき)の搬入を忌避する行動へと裏返り、それがやがて被災地差別や復興阻害につながってゆくという不幸な光景が、被曝限度の法令基準が出された頃から浮き立ってきた。これは、福島の原発事故を機に、不条理、不安、不信といった「不の感覚」と、科学による「客観的」評価という、被曝をめぐる二つのスタンスが、それぞれにぶれたまま捻(ねじ)れあうところに起因すると、著者は見る。安全/危険について何がどこまで確実に言えるかを冷静に見究めないと、無用の被害が増すばかりだ、と。
 そこで著者が取り組むのは、「低線量放射線を長期に被曝したら、がん死する」という言明における「たら」が、いったいどのような論理的性質をもつものかを、「因果性」をめぐる哲学の議論をベースに解き明かすことである。精緻(せいち)をきわめた議論をへて導かれるのは、因果関係というものがつねになんらかのシナリオを下敷きにしていること、安全/危険についての議論には(線量の測定から確率の読みまで)断定の不可能性ということが本質的に含まれていることだ。問題はだから、どれほどのリスクかという「程度」にあり、それにもとづいて「より正しい」シナリオをどう模索し、行動に反映してゆくかにある。
 予断や「不」の感情に振り回されることなく、何がまだ不明なのか、何が偽の問題なのかを明確にするという「ハエ取り器」の仕事を、著者は哲学の研究者として、そして被曝の不安にさらされた地域の一住民として、見事にやりとげている。世の〈不寝番〉たるべき哲学を象徴するあの「ミネルヴァの梟(ふくろう)」はまだ死んではいなかった。
    ◇
 筑摩選書・1680円/いちのせ・まさき 57年生まれ。東京大教授(哲学)。『確率と曖昧(あいまい)性の哲学』など。
    --「書評:放射能問題に立ち向かう哲学 [著]一ノ瀬正樹 [評者]鷲田清一」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013022400020.html


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放射能問題に立ち向かう哲学 (筑摩選書)
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覚え書:「書評:20世紀の椅子たち 椅子をめぐる近代デザイン史 [著]山内陸平」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。


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20世紀の椅子たち 椅子をめぐる近代デザイン史 [著]山内陸平
[掲載]2013年02月24日

 近代デザイン史上特筆すべき99脚の椅子を、写真とエッセーで紹介する。座り方のわからないアート性偏重のものはなく、どこかで見かけたようなものばかり。建築家フランク・ロイド・ライトの事務用椅子といった大物の作品だけでなく、背中合わせに組み合わせられる空港の待合椅子のような公共空間向け製品も登場する。京都工芸繊維大学名誉教授のインダストリアルデザイナーである筆者の目配りを感じる。
 デザイナー紹介や作品の位置づけと、筆者自身のエピソードを、事典にも昔話にも傾かない奥行きある文章にまとめあげる。そこから立ち上るのは、もっとも身近なデザインともいうべき椅子を介した時代の空気である。
    ◇
 彰国社・3675円
    --「書評:20世紀の椅子たち 椅子をめぐる近代デザイン史 [著]山内陸平」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013022400015.html


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20世紀の椅子たち―椅子をめぐる近代デザイン史
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覚え書:「異論反論 生活保護費が削減されました=雨宮処凛」、『毎日新聞』2013年02月27日(水)付。


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異論反論
生活保護費が削減されました
寄稿 雨宮処凛

「どん底への競争」止めよ

 1月29日、この国の「最後のセーフティーネット」が切り崩されるような決定がなされたことをご存じだろうか? それは生活保護費の削減。過去最大の引き下げで、96%の世帯で減額されるという。「でも、受給者は増えてるし、仕方ないんじゃないの?」。そう思う人いるだろう。が、この引き下げは214万人の当事者だけでなく、「自分には関係ない」と思っている人たちにも大きな影響を与えることがわかってきた。
 まずは最低賃金。生活保護よりも最低賃金で働く方が収入が低いことが問題となって久しいが、これに対するもっとも有効な解決策は「最低賃金を上げる」ことだろう。しかし、生活保護基準が引き下げられてしまったら、最低賃金が上がる根拠のひとつがなくなってしまう。「どん底への競争」がますます加速するだけだ。

就学援助の基準も引き下げ
「教育を受ける権利」を侵害
 また、生活保護を基準に定められている制度のひとつに就学援助がある。経済的な理由から給食費や学用品代などが工面できない家庭に対する制度で、11年度にこの制度を利用した子どもは過去最多の156万人。小中学生の6人に1人が就学援助を受けているのだ。この数字だけをみても「子どもの貧困」の深刻さがわかるが、生活保護基準が引き下げられれば、就学援助の基準も下がり、対象から外れる子どもが一定数、生み出されてしまう。このことによって修学旅行に参加できなくなったり、学用品がそろえられなくなったりするなど、「教育を受ける権利宇」そのものが侵害されてしまうのだ。
 影響を受ける制度はそれだけではない。2月19日、衆議院第1議員会館で開催された集会で、民主党の長妻昭議員は、今回の引き下げによって低所得層が影響を受ける可能性のある制度が38もあることを指摘した。住民税が非課税の世帯への課税をはじめとして、保育料や国民年金保険料金の減免、障害福祉サービスの利用など、影響は幅広い分野に及ぶ。
 ドサクサに紛れるようにして切り下げられる制度はまだある。それは、中国残留孤児やハンセン病患者らへの給付金。これも、生活保護を基準としているのだ。
 この日の集会には、母子家庭や障害を抱える当事者、また就学援助を利用している親などから発言があった。「もう何を節約すればいいのかわからないくらいです」。自らも子どもも病気を抱えるシングルマザーが訴えると、手足に障害を抱える男性は「これ以上生活が破壊されたら命を絶つしかない」と語る。また、脳性まひで車椅子の女性は「生活保護の引き下げは、命に直結する問題です」と、支援者に文章を代読してもらった。
 弱者の生活を破壊するような決定がなされる一方で、安倍政権は物価目標を2%に設定し、アベノミクスともてはやされている。政治は、一番弱い立場にこそ寄り添うべきではないのだろうか? そんな疑問をもつのは、私だけではないはずだ。
あめみや・かりん 作家。反貧困ネットワーク副代表なども務める。「3月6日午後3時からは『STOP! 生活保護基準引き下げデモ』。厚生労働省前での抗議アクションの後、午後4時から日比谷公園出発で国会請願デモ。もちろん私も参加します」
    --「異論反論 生活保護費が削減されました=雨宮処凛」、『毎日新聞』2013年02月27日(水)付。
 
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覚え書:「書評:コモンウェルス 上・下 [著]アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート [評者]渡辺靖」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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コモンウェルス 上・下 [著]アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート
[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)  [掲載]2013年02月24日

■「所有」への呪縛、乗り越える概念

 冷戦終結後の世界秩序の本質を〈帝国〉という概念で表し、世界的に注目される2人の最新作。
 〈帝国〉といっても帝国主義の「帝国」とはまったく違う。グローバル資本主義による新たな支配のあり方、具体的には「領土や境界をもたない、中心をもたない、国民国家をも包摂する新たなグローバルな権力ないしはネットワーク」を指す。
 超大国アメリカであってもそこから自由でなく、イラク戦争に象徴される単独行動主義は、〈帝国〉にあっては最初から破綻(はたん)することが運命づけられていたという。
 「ありのままの世界」の分析を重んじていた従来の2人の作品に比べ、今回は「あるべき世界」の記述により踏み込んでいる。
 その鍵となるのは〈コモンウェルス〉という概念。ただし、ここでは「共和国」ではなく「〈共〉という富(コモンウェルス)」を意味する。
 新自由主義は自然資源(水や天然ガスなど)と社会資源(知識や情報、言語、情動など)を際限なく私的所有=民営化してきた。
 一方、社会主義はそれに抗(あらが)うべく国家所有=国営化を説くが、どちらも〈私〉か〈公〉かという「所有」をめぐる旧来の二項対立に囚(とら)われている。社会民主主義もその折衷案に過ぎない。
 つまり、三者とも〈帝国〉のなかに包摂されたままで、持続可能なグローバル民主主義の未来はそこにはないというわけだ。
 著者は、〈共〉こそがそうした「所有」への呪縛を乗り越えてゆける概念であり、「人民」や「労働者」といった特定の単位に収斂(しゅうれん)されない多種多様な人びとの集合体=マルチチュードが依拠し、蓄積すべきものだと説く。
 そのためには〈共〉を腐敗させる障壁を壊さねばならない。その代表例として著者は家族・企業・ネーション(=国民/民族)の三つを挙げる。往年のマルクス主義を彷彿(ほうふつ)させる過激な論法だ。
 しかし近年の、とりわけ若い世代の柔軟なライフスタイルやフラットな人間関係への志向はそうした動きへの(意図せぬ)予兆のように解せなくもない。
 また、シェアハウスからカーシェア、インターネット上での音楽や講義の共有にいたるまで、〈共〉へ向けた小さな営為が少しずつ広がっているようにも見える。
 世界各地で頻発しているデモには「所有」をめぐるマルチチュードによる政治的闘争としての次元もありそうだ。
 マルクス主義が軽視した人間の性(さが)=人間性の現実に本書がどこまで対応できたかは疑問が残る。しかし、時局的な小論が言論空間を浮遊する昨今、現代世界を大胆に描き続ける2人が当代希有(けう)な知性の持ち主であることは確かだ。
    ◇
 水嶋一憲監訳、幾島幸子・古賀祥子訳、NHKブックス・上下とも1470円/Antonio Negri 33年生まれ。イタリアのマルクス主義社会学者・政治哲学者・活動家。Michael Hardt 60年生まれ。アメリカの政治哲学者・比較文学者。
    --「書評:コモンウェルス 上・下 [著]アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート [評者]渡辺靖」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013022400012.html


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コモンウェルス(上)―<帝国>を超える革命論 (NHKブックス No.1199)
アントニオ・ネグリ マイケル・ハート
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コモンウェルス(下)―<帝国>を超える革命論 (NHKブックス No.1200)
アントニオ・ネグリ マイケル・ハート
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覚え書:「書評:マックス・ウェーバーの日本 [著]ヴォルフガング・シュヴェントカー [評者]柄谷行人」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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マックス・ウェーバーの日本 [著]ヴォルフガング・シュヴェントカー
[評者]柄谷行人(評論家)  [掲載]2013年02月24日

■ドイツ以上になぜ読まれたのか

 本書は、日本のウェーバー研究の内容を、大正時代から現在にいたるまで詳細に検討するものである。実は、ウェーバーは日本で、ドイツで以上によく読まれてきた。にもかかわらず、日本人のウェーバー研究はドイツでほとんど知られていなかった。したがって、本書がドイツの読者にとって役立つことは当然であるが、日本人にとっても、いろいろと考えさせる事柄を含んでいる。
 日本は、非西洋圏で唯一、近代資本主義国家となった。その理由を問うために、日本人は特に、ウェーバーの理論を必要としたといえる。しかし、ウェーバーが広く読まれるようになったのは、1930年代、天皇制ファシズムが席巻し、マルクス主義運動が壊滅した時期である。ウェーバーの理論が必要となったのはその時である。では、ドイツでは、どうだったのか?
 その点に関して、著者は、興味深い出来事を記している。この時期、ドイツでは、マルクスやウェーバーを読むことが全面的に禁止されたが、日本ではある程度、学問の自由が保持された。その結果、ユダヤ系の哲学者レーヴィットが日本に亡命し、東北大で教えた。彼の書いた『ウェーバーとマルクス』がよく読まれ、日本のウェーバー・ブームの発端となった。一方、ドイツでは、ウェーバーは忘れられた。ウェーバーに対する態度の差異は、ここから生じた。
 日本でこの時代からウェーバーが読まれたのは、根本的に、マルクスを補うためであったといってよい。戦後でも、事情は同じである。たとえば、大塚久雄や丸山真男は、ウェーバーを掲げてマルクス主義を批判しているように見える。が、彼らは自分らこそ真にマルクス的だと考えていたのである。ウェーバーが日本で広く読まれたのは、そのような思想家がいたからであって、「ウェーバー研究者」のおかげではない。
    ◇
 野口雅弘ほか訳、みすず書房・7875円/Wolfgang Schwentker 53年、ドイツ生まれ。大阪大学教授。
    --「書評:マックス・ウェーバーの日本 [著]ヴォルフガング・シュヴェントカー [評者]柄谷行人」、『朝日新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013022400017.html


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マックス・ウェーバーの日本―― 受容史の研究 1905-1995
ヴォルフガング・シュヴェントカー
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書評:佐伯順子『明治〈美人〉論 メディアは女性をどう変えたのか』NHK出版、2012年。


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佐伯順子『明治〈美人〉論 メディアは女性をどう変えたのか』NHK出版、読了。本書は近代化という時代の転換期の中で、新しいメディア(新聞・雑誌・写真)が女性をどのように表象したのかを明らかにする一冊。当時の美人とは芸者を意義する言葉。日本で最初のミスコンの参加者の全ては芸者だ。

新しい時代を告げる女性のシンボルは「女学生」。「女性雑誌」は、やがて良妻賢母へとの意義を強調する。雑誌や新聞は皇族や家族の夫人・令嬢の洋装写真を掲載し、ビジュアル化された「よき家庭」像を演出するが、論調は良妻賢母高調のみではない。

大正・昭和に開花する職業女性の萌芽だけでなく、キリスト教に示唆を受け、外面の美に対する内面の美という論調も見られ、トータルとしては、単一な女性像への収斂というよりも、様々な生き方がせめぎあっていた。図版も多く実像を立体的に理解できる一冊。


 

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覚え書:「今週の本棚:五百旗頭真・評 『カウントダウン・メルトダウン 上・下』=船橋洋一・著」、『毎日新聞』2013年02月24日(日)付。

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今週の本棚:五百旗頭真・評 『カウントダウン・メルトダウン 上・下』=船橋洋一・著
毎日新聞 2013年02月24日 東京朝刊

 ◇五百旗頭(いおきべ)真・評

 (文藝春秋・各1680円)

 ◇フクシマ-死の危機に直面した国家の記録

 『同盟漂流』で冷戦後の安全保障を書き、『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』で北朝鮮の核危機を描いた著者が、本書では福島原発事故に立ち向う。

 日本には自然災害が異常なほど多い。とりわけ18年前の阪神大震災から地震活動の活性期に入り、地球温暖化とあいまって、忘れるいとまもないほどに天災が頻発している。苛酷な自然災害にあって若干の救いがあるとすれば、多くの災害が一過性を特徴とする点にあろう。短時間に終了する災害の直後から救援と復興のプロセスを開始できるのが普通である。ところが、東日本大震災は大地震のあと約30分後の大津波の追撃により海辺のまちを廃墟と化すとともに、東京電力福島原発の冷却システムを破壊した。それは放射能の持続的猛攻を解禁した。

 何が起ったのか。この途方もない災害に対して、日本の政府と社会はどう戦ったのか。本書は、死の危機に直面した日本国家が不思議にも生き延びる同時代史についての精細にして優れた記録である。

 2011年3月11日、午後2時46分に発生したマグニチュード9の大地震に対し、福島第1原発で稼働していた1~3号機は設計通り自動停止(スクラム)した(4号機と第2原発の5・6号機は定期点検中で発電を休止していた)。ところが大津波が1~4号機の全交流電源を破壊し、原子炉冷却が不可能となった。核分裂による発電は停止しても、原子炉の燃料棒は高熱を発し続ける。それを水で冷却するシステムが失われれば、空だき状態となって、メルトダウン(炉心溶融)に至る。使用途中の燃料棒は、1号機に292体、2号機は587体、3号機に514体、加えて使用済み燃料を貯蔵する4号機のプールに1331体があった。これらが沸騰すれば大連鎖爆発を招き、チェルノブイリの何百倍かの放射能をまき散らす大事故となる。米国海軍のシミュレーションでは、周囲200マイルが放射性雲(プルーム)に浸され、東京も住めなくなると危惧された。

 1号機は12日午後3時36分に、3号機は14日午前11時に水素爆発を起し、それぞれの建屋を吹き飛ばした。現場で指揮をとる第1原発の吉田昌郎所長は剛直にして有能なリーダーであった。決死隊をもって戦う覚悟を持ち、部下からあつく信頼されていた。その吉田が14日夕には「もう駄目かもしれません」と東電本社と官邸に連絡する事態となった。次なる爆発が憂慮される2号機に水が入らない。最前線司令部である免震重要棟から必要最小限の人員以外を退避させる措置を吉田は講じた。東電の清水正孝社長は、第1原発から退避する許可を、14日夕から官邸に求めた。

 菅直人首相は15日午前3時に起され、官邸の側近たちと深夜の会議を開いた。東電が撤退を求めているのに対し、最強硬論者は菅首相自身であった。撤退などありえない。それは日本の死を意味する。東電は決死隊を組んでも戦うべきだ、と首相は怒りを露(あら)わにした。未明に清水社長を官邸に招致して、撤退不可を言い渡し、さらに東電本社に乗り込んで、怒りに震えて演説した。結論は、政府と東電による事故対策統合本部を東電本社内に開設し、細野豪志首相補佐官を配して対処プロセスを掌握することであった。菅首相が東電にいた午前6時10分、2号機の爆発が起り、4号機の建屋の一部も吹き飛んだ。メルトダウンする原子炉に敗れて、日本は終りを迎えるのか。

 建屋が吹き飛んだことは逆にヘリから水を注入する可能性を開いた。ここまで来れば、自衛隊しかない。北澤俊美防衛大臣に随(したが)って菅首相を訪ねた折木良一統合幕僚長は、国民の命を守るのが自衛隊の任務であり、全力を尽すと語った。16日午後4時、大型ヘリが30メートルの高度まで降りて偵察したところ、4号機の燃料プールに水が入っていると見えた。米国側は4号機プールの水喪失を最悪シナリオの主要素としていたが、プールは生きていたのだ。幸運といわねばなるまい。高線量のため、16日のヘリ放水は中止されたが、折木ら自衛隊トップは、17日には何であれ決行する決意を固めた。

 放水は焼け石に水の感もあったが、日本国家の戦う意志を示す行為となった。下げ続けていた株価は急反発し、米国は日本の本気を見た。それに続く高圧ポンプ車による建屋越しの放水が応急的な冷却をもたらした。それでしのぎつつ、東電と関連会社の作業員がなお線量の高い中電源を運び、冷却システムを再建した。実は、第2原発も第1原発と紙一重の冷却システム喪失事態に陥りかけた。それを的確な対処により救ったのは増田尚宏所長であった。

 おびただしい内外関係者へのオーラル・ヒストリーによって、この重大問題をめぐる事実関係を手にとるように提示、解明した本書である。加えて、日米同盟のありがたさと微妙さを事実の重味をもって語り抜く。またメディアに酷評された菅首相の問題点を「菅という不幸」と認めつつも、「菅という僥倖(ぎょうこう)」があの危機の中で劣らず有意性を持ち得たとの大局観にも感銘を覚える。
    --「今週の本棚:五百旗頭真・評 『カウントダウン・メルトダウン 上・下』=船橋洋一・著」、『毎日新聞』2013年02月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130224ddm015070006000c.html

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覚え書:「書評:日本防衛論 グローバル・リスクと国民の選択 中野 剛志 著」、『東京新聞』2013年2月24日(日)付。

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日本防衛論 グローバル・リスクと国民の選択 中野 剛志 著

2013年2月24日

◆杞憂でない危機の攻略法
[評者] 前泊 博盛  沖縄国際大教授。著書に『沖縄と米軍基地』など。

 気鋭の若手評論家がジャーナリスティックな手法も交えながら難攻不落のグローバル経済危機を解析し、攻略法と日本の防衛策を提示している。
 いま世界は、深刻な所得格差、財政不均衡、温室効果ガスの発生、サイバー攻撃、水資源不足という「五つのグローバル・リスク」を抱えている、という。さらに、実際に起きた場合に被害が大きいリスクとして、システミックな金融危機、水資源不足、食糧不足、財政不均衡、エネルギーと食糧価格の極端な変動を挙げる。
 ブラックマンデー、リーマン・ショックやユーロ危機など、これまでのグローバル・リスクの事例について、リスク研究の大家や経済学者の予測や理論を基に実証的に分析を試みている。
 借金によって手元資金を膨らませて投資を行う「レバレッジ」の拡大が現代資本主義経済の特徴と著者はみる。このため、わずかな利益変動で売り急ぐ「デレバレッジ」に陥り、資産価格の暴落、金融市場のパニック化を招く。ミンスキーの「金融不安定性仮説」を基に、そんな「本質的に不安定な経済システム」の中にある現在のグローバル資本主義経済の脆弱(ぜいじゃく)性を突く。
 著者が描く最悪のシナリオが杞憂(きゆう)ではなさそうなあたりが本書の読みどころである。もちろん、その危機の回避策、対処策も織り込んでいる。政府による総合安全保障戦略の構築と実現のための長期的な計画の策定。公共事業投資の促進による打たれ強い強靱(きょうじん)な国土形成、内需拡大による経済基盤の強化は、アベノミクスとも重なる。
 経済に加え軍事的にも高まる中国リスク。一方で米国による覇権国家システムが崩壊し「もはや中国に対抗する能力も意志も失いつつあるアメリカに日本を守ることはできない」として、著者は自主防衛・反撃力の強化も要求している。その点は厄介だが、「祖国を守る一助」にとの真摯(しんし)な姿勢を踏まえ、読者の多事争論を期待したい。
なかの・たけし
 1971年生まれ。評論家。著書に『TPP亡国論』『日本思想史新論』など。
(角川SSC新書 ・ 840円)
<もう1冊> 
 本山美彦著『金融権力-グローバル経済とリスク・ビジネス』(岩波新書)。リスク転売ビジネスの性格を強める金融の問題を問う。
    --「書評:日本防衛論 グローバル・リスクと国民の選択 中野 剛志 著」、『東京新聞』2013年2月24日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013022402000171.html


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覚え書:「発言 朝鮮学校差別 再考が必要」、『毎日新聞』2013年02月24日(日)付。


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発言 朝鮮学校差別 再考が必要
田中宏 一橋大名誉教授(日本社会論)

 2020年のオリンピック・パラリンピック開催地が9月に決まるため、東京都の猪瀬直樹知事は招致活動を本格化させている。そうした時に、都及び日本政府は朝鮮学校差別を続けていていいのだろうか。
 かつて、名古屋オリンピック招致に関連して、こんなことがあった。名古屋市は、東京や大阪では外国人にも開放されていた公立学校の教員採用に「国籍条項」を設け、受験を拒んでいた。民間の名古屋人権委員会は、国際オリンピック委員会(IOC)の委員宛てに英文の手紙を送り、「名古屋に重大な人権上の問題があることに留意し、候補地の審議に際してオリンピック運動の道徳的資質の向上に十分配慮されたい」と訴えた。81年9月、開催地はソウルに決まった。この手紙との因果関係は分からないが、国際社会では差別は許されない問題であることは肝に銘ずるべきだ。
 都は従来27校の外国人学校に生徒1人年額1万5000円の補助金を支給してきた。しかし10年度から、朝鮮学校10校だけに補助金を不受給とし、来年度予算も計上していない。学校側に不正があったわけではない。子供の教育問題と国際問題を混同してはならない。
 同じ年度から高校無償化法が施行され、高校だけでなく、専修学校及び外国人学校も対象とした。ブラジル学校、中華学校、韓国学校、インターナショナルスクールなど39校の生徒は、公立校の授業料相当額の就学支援金を受けるようになった。
 しかし朝鮮学校だけは、対象にするかの判断が先送りされ、受領しないまま卒業した生徒は2年次に及ぶ。
 さらに安倍内閣が成立すると、下村博文文部科学相は、拉致問題の進展がないなどとして、朝鮮学校のみを排除するための高校無償化法施行規則を20日に改正した。同法は「教育に係る経済的負担の軽減」と「教育の機会均等に寄与」を目的」としている。こうした施行規則改正は同法の委任の範囲を逸脱していないだろうか。
 国連・人種差別撤廃委員会は、10年3月、日本政府の報告を審査した後の「総括所見」で、高校無償化からの朝鮮学校排除の動きに懸念を表明し、教育差別禁止条約(1960年採択、加盟100カ国)への加入を促した。しかし、国連の総括所見の懸念は、安倍政権によって現実のものとなってしまった。
 また、国連・社会権規約委員会への日本政府からの報告は、4月に本審査が行われる。同委員会からの事前質問には「在日コリアンの子供たちへの根強い差別に対応してとられた措置効果について情報を提供してください」などとある。朝鮮学校の女子生徒は民族服のチマチョゴリを着て通学していた。心ない日本人による嫌がらせや暴行を避けるため、そうした姿が見られなくなって久しい。
 オリンピック憲章には「差別はいかなる形であれ、オリンピックムーブメントとは相いれない」とある。朝鮮学校差別とオリンピックは両立しないのである。
 再考を促したい。(寄稿)
    --「発言 朝鮮学校差別 再考が必要」、『毎日新聞』2013年02月24日(日)付。

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