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2013年4月

個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えること


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コミュニケーションとプロパゲーション
 HACS(引用者注……「階層的自律コミュニケーション・システム(Hierarchical Autonomous Communication System)」というモデルをつかうと、情報や知識の伝達や蓄積を論じることができる。
 すでに述べたように、心はもともと閉鎖系だ。知の原型は、主観的で身体的なクオリアをベースにして、一人称てきなもんとして形づくられる。その意味で閉じている知を、かんたんにつたえることなどできるはずはない。それなのに、社会のなかで「情報」が伝達され、それらを組み合わせて三人称的な「知識」が構成されていくのはなぜか。
 これは、個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えることで明確になる。簡単な例で説明しよう。
 いま、高校生の友人AとBの二人が、同じ小説を読んだ感想を語り合っているとする。主人公は貧しいシングルマザーの息子ながら、水泳に才能があり、オリンピックをめざしている。かたわらでCがその対話を黙って聞き、メモをとっている。もし面白そうなら、自分も読んでみて、ブログやツイッターで仲間に紹介しようという魂胆だ。
 Aはスポーツ嫌いの文学少年だが、自分の母親も離婚したので、主人公の気持ちや寂しさがわかる。だから、Aは自分の暗黙知をふまえ、主人公の家庭の様子や母親との交流をおもに話題にする。一方、Bは自分もテニスに打ちこむスポーツ少年なので、主人公の怪我による挫折のつらさや、勝利の喜びに身体的に共鳴できる。そして、トレーニングや水泳大会の様子に注目する。いったい、二人の対話はうまく進むだろうか。
 人間同士の対話では、言葉の意味がたがいに首尾よく伝わるかどうかを確かめる手段は存在しない。そこが機械間の通信との違いだ。もしAが小説の細かい文体の良し悪しばかりに執着し、Bもまたスポーツの技術論や根性論ばかりに拘泥していれば、二人の対話はうまく行かない。コミュニケーションは途切れがちになり、ついには断絶してしまう。
 しかし、AもBもともに主人公に共感していれば、二人の対話はそれなりに成功するはずだ。もちろん、それぞれの発言は別々の暗黙知に支えられているし、互いの言葉をそっくり理解できるわけではない。ある意味では誤解の連続かもしれない。だが、対話自体は大いに盛りあがり、コミュニケーションは継続していく。Cはその様子を観察し、処理して、自分のブログに二人の対話をもとに小説の紹介を書こうと決意する。
 二人のあいだの情報伝達とは、基本的にこのようなものだ。
 つまりそれは、AやBという「個人」の階層のHACSではなく、二人が参加している「社会」という上位階層のHACSにおいてコミュニケーションが成功し、継続していくことなのである。さらに大切なのは、その有り様をCが観察し記述することである。小規模な社会的HACSであっても、Cの記述はこのHACSの「記憶」そのもであり、作動とともに蓄積されていく。
    --西垣通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、2013年、107-108頁。

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昨日は、尊敬し、信頼する先輩と、初めて盃を交わし楽しい時間を過ごすと同時に、思索し、行動する意義をもう一度、再省し、新しく開いていくきっかけになったと思います。

コミュニケーションの不全がこれみよがしに語られ、その一方で、交わらない自己主張のみがえんえんとくりひろげられる人間の言説世界。

もういちど、原点に戻って、その営みを相互点検するなかで、創造的な挑戦をしていきたいと思います。

お忙しい中時間をつくってくださりまして、ありがとうございました。


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集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)
西垣 通
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覚え書:「今週の本棚・新刊:『表現の自由とメディア』=田島泰彦・編著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『表現の自由とメディア』=田島泰彦・編著
毎日新聞 2013年04月28日 東京朝刊

 (日本評論社・4515円)

 「表現の自由」の観点から考えると、新聞、放送、ネットメディアにはさまざまな制約がある。人権・プライバシー侵害に対する権力による規制や自主規制、政治の圧力、暴力的ゲームや「わいせつ」表現の規制、裁判員裁判における取材・報道の制約--。本書はこうした問題についてメディア法の観点から論点整理し、詳細に考察している。上智大新聞学科教授の田島氏の他、7人の研究者の論考で構成されている。

 氏は、メディアは「権力の監視」という本来の責任を探求するため、それぞれの問題について過剰な公権力の介入や法規制を排除し自らの倫理規範に基づいて、自主・自律的に克服していくべきだと説く。自主規制は、専門家や市民も参画する開かれた制度にすべきだと提言する。

 インターネットにおける人権侵害や、情報源の開示をめぐる日米新聞の違いなど、海外メディアの現状を幅広く紹介し、日本と対比しているのも特徴だ。氏と親交のある英国の研究者が、英国における「プレスの検閲」の実態を考察していて興味深い。成熟した市民社会で「表現の自由」とメディアの関係はどうあるべきか、深く考えさせてくれる。(吉)
    --「今週の本棚・新刊:『表現の自由とメディア』=田島泰彦・編著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130428ddm015070049000c.html


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表現の自由とメディア
田島泰彦
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覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『ドクトル・ジヴァゴ』=ボリース・パステルナーク著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『ドクトル・ジヴァゴ』=ボリース・パステルナーク著
毎日新聞 2013年04月28日 東京朝刊

 (未知谷・8400円)

 ◇すべての運命がきらめく、変革の古典

 二〇世紀現代文学の古典「ドクトル・ジヴァゴ」(一九五五)はソ連での発表が許されず、一九五七年イタリアで出版。翌年のノーベル賞受賞ではソ連当局の圧力で辞退に追いこまれ、パステルナークは失意のうちに死去。母国ロシアでの解禁、刊行は一九八八年。日本で三十三年ぶりとなる、工藤正廣の新訳は生気と詩情にあふれる名訳。この機会をのがしたくない。

 第一次大戦、ロシア革命、内戦の四半世紀。個人の立場が奪われた時代にも、ロシアの大地とつながって生きる人びとの姿を、パステルナークは懸命に描く。医師・詩人ユーリー・ジヴァゴ、ロシアの象徴といえる魅惑の女性ラーラ、その夫で冷酷な革命家ストレーリニコフ、辣腕(らつわん)弁護士コマロフスキーを中心に、舞台は回る。人間に対する新しい見方が、刻々と姿をあらわす。

 モスクワへ向かう列車が不時停車。路床に出て、野の花を摘む乗客も。「この場所は不時停車のおかげでたったいま出現したのだ」「谷地坊主(やちぼうず)の点在するこの沼沢地の草地も、広々とした川も、高い向こう岸に見える教会堂のある美しい建物も、この世にはなかったろうに」

 内戦下、連行される少年。包帯の頭から血が流れ、ずり落ちた学帽をそのたびにかぶりなおす。それを兵士たちが手伝う光景は、ジヴァゴの注意を引く。ラーラは、読書を、「人間の最高の活動ではなくて、何かもっとも簡単な、動物にでも出来ることのように行っている」と、見る。「この読書室に集まって来ているのは読書しているユリャーチンの人たちではなく、彼らが暮らしている家々や通りがここに合流して来ている、とでもいうような感覚」。一場面にも意識の奥行きが示され、息をのむ。

 登場する人たちの出現の仕方も「方向」も、はっとさせるものがある。五九九ページ。ストレーリニコフが辺地ヴァルイキノのジヴァゴのもとに来るときのようすがまずひとつ。異母弟エヴグラフの現れ方も、小説を読んでいるという気持ちで読んでいる人には唐突。従来の散文にはないことばの流れ、飛躍、つながり。革命と戦争の時代に、それを上回るほどに革新的な表現形式だ。文学の「変革」も進められていたのだ。

 情景も緊密に結びつく。たとえば冒頭近く、まだ一六歳のラーラが部屋で眠る。「二つの点--左肩の突出部と右足の親指とで」背丈とベッドでの位置を感じとる。ずっとあと、ラーラを思うジヴァゴの視線のなかで、「ラーラの左肩がこじ開けられた」。そこからリボンがのびていく幻想の軽やかさ、重み。目覚ましい情景がつづく。

 だが、この小説のおおきなところは、ひとりの人間をいったん描くことでおわらず、そのあとのその人をどうとらえるか。その二つが感じとれる視点を注意ぶかく備えたことにあるように思われる。

 冷酷なストレーリニコフが古典中学の教師として子供たちに慕われる、という過去。ジヴァゴとラーラの遺児ターニャが、シベリアの一隅で、洗濯係の娘となって日々を送る、という未来。目のとどかない、底深い歳月のなかでも、人の生き方が残され、伝えられていく。胸をしめつけられる瞬間だ。すべての人たちの運命が、形を変え、時を変えて、きらめく。「ドクトル・ジヴァゴ」は、いまは損なわれた文学のあたたかさ、美しさを思い出させる。本書のためにかかれた、モスクワ在住の画家イリーナ・ザトゥロフスカヤの絵も素晴らしい。(工藤正廣訳)
    --「今週の本棚:荒川洋治・評 『ドクトル・ジヴァゴ』=ボリース・パステルナーク著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130428ddm015070036000c.html

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わたつみの豊旗雲に入日さし こよひの月夜さやけくありこそ

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「わたつみの豊旗雲に入日さし こよひの月夜さやけくありこそ」(天智天皇・万葉集)。

先月と同じようなエントリーで恐縮ですが、またしても葬儀にて、瀬戸大橋を渡る機会がありましたので、その寸描を残しておきます。

日が沈む前なので、紅くは染まっていませんけれども。


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覚え書:「書評:幸福の経済学 人々を豊かにするものは何か [著]キャロル・グラハム [評者]水野和夫」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。


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幸福の経済学 人々を豊かにするものは何か [著]キャロル・グラハム
[評者]水野和夫(日本大学教授・経済学)  [掲載]2013年04月21日   [ジャンル]経済 


■幸せな農民、不満な成功者の謎

 幸福は経済学者や心理学者がそれを考察対象とする以前から哲学的な思想のテーマだと著者は主張する。幸福をベンサム的な意味(快楽的な効用)とアリストテレス的な意味(意義深い人生を送る機)の両面から捉え、「幸せな農民と不満な成功者」という謎を解き明かしている。
 本書によると、1人当たりのGDP(国内総生産)が概(おおむ)ね3万ドルを超えると生活満足度との間に明確な関係はなくなり、「尊厳」がアリストテレス的な幸福概念と一致する。そして、「所得」は豊かさを担保するものとなる。豊かさとは、欲しい物がすぐ、手近な場所で手に入ることと考えれば、ゼロ金利・ゼロインフレ下の日本は、マクロ的には豊かさを、世界でも最高レベルで実現したことになる。
 そうであれば、本書が提言する「主観的な幸福度」に特化すべきは日本だということになって、成長やマネーといった量的指標を追い求めてばかりで大丈夫かという読後感が強く残る。
     ◇
 多田洋介訳、日本経済新聞出版社・2100円
    --「書評:幸福の経済学 人々を豊かにするものは何か [著]キャロル・グラハム [評者]水野和夫」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013042100012.html

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幸福の経済学―人々を豊かにするものは何か
キャロル・グラハム
日本経済新聞出版社
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覚え書:「書評:諏訪根自子 [著]萩谷由喜子 [評者]出久根達郎」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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諏訪根自子 [著]萩谷由喜子
[評者]出久根達郎(作家)  [掲載]2013年04月21日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 


■ナチスから贈られた名器の謎

 ショックだったのは、この人の死が半年もたってから報じられたことだった。それも外国の新聞が亡き人として取り上げていたため、確認して判明したのである。わが国では彼女は忘れられた「天才ヴァイオリニスト」だった。無理もない。若い音楽ファンでさえ、多く名前を知らない。独特の名は、根を養えば木は自(おの)ずから育つ、の意を込めて両親に命名されたという。
 会社員の娘である。来日した大ヴァイオリニスト・ジンバリストにその才能を認められ、十歳の天才少女と一躍はやされる。十六歳でベルギーに留学、パリからベルリンへ。
 ナチス政権下、宣伝相のゲッベルスから名器ストラディヴァリウスを贈られる。
 戦後この一件が彼女を苦しめた。名器はナチスの略奪品と非難され、返還すべきとの声もあった。彼女は沈黙する。
 本書は伝説の演奏家の初の評伝だが、根自子が大切に愛用した名器については、実妹が興味深い証言をしている。これも衝撃の意外さである。
     ◇
 アルファベータ・2520円
    --「書評:諏訪根自子 [著]萩谷由喜子 [評者]出久根達郎」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013042100011.html

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諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト その劇的生涯 1920-2012
萩谷 由喜子
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覚え書:「みんなの広場 優れた師と出会いたい」、『毎日新聞』2013年04月25日(木)付。


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みんなの広場
優れた師と出会いたい
大学生 21(東京都調布市)

 時代錯誤かもしれないが、私は今、師弟関係というものに憧れる。家庭でもなく、友人でもなく、先輩後輩の関係でもない。優れた人物から教えを受け、その考えに共感し、時には疑問をもち、その背中についていく。現在、師弟関係というものはあるのだろうか。落語などにはあるようだ。
 しかし、一般の人には、ほとんどないのではないか。むしろ、師と呼びたい人がいるのか疑問だ。選択する自由がある現代こそ、優れた師に出会い、教えを請うことが必要なのではないか。また、優れた考えを知り、視野を広げるだけならば、読書で十分だろう。けれど、師弟関係のすばらしいところは、その精神的なつながりである。
 人との関係が希薄といわれる現在、師と呼ぶ人物に出合い、自ら進んで、「教えてください」と頭を下げることがどんなに難しいことか分からない。しかし、より豊かな人生を歩むため、私は、そんな人物に出会うことを願わずにはいられない。
    --「みんなの広場 優れた師と出会いたい」、『毎日新聞』2013年04月25日(木)付。

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覚え書:「書評:戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件 [著]根津朝彦 [評者]田中優子」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件 [著]根津朝彦
[評者]田中優子(法政大学教授・近世比較文化)  [掲載]2013年04月21日   [ジャンル]歴史 


■言論の自由と暴力・自主規制

 伊藤整に『日本文壇史』という素晴らしい仕事がある。文学作品が人のつながりの中で、あるいは新聞など様々なメディアを使って成立してきた過程が見える本だ。
 本書はその評論版「日本論壇史」というべきものだ。歴史といっても戦後、とくに一九六〇年代に絞った論だが、この著者は今後、論壇通史を書けるのではないかと思う。
 対象は単行本ではなく、月刊総合誌である。本にまとめられる前の原稿が掲載される場所だ。生々しい現場である総合誌を通して、論壇の動きを丁寧に追っていて、思想家のみならずメディアとしての雑誌の戦後史と、そこにかかわった編集者たちの動きが見えてくる。
 思想史は思想の中身を問うが、それがどういう経緯や関係や時代と事件の動きの中で生まれてきたかは、あまり問題にしてこなかった。本書の題名になっている風流夢譚(むたん)事件はよく知られた事件だが、本書は事件を戦後の論壇史と思想史の中に置いた。第一章で戦後ジャーナリズムにおける論壇史全体を見渡し、次に総合誌その他のメディアのなかで、天皇制および天皇家がどう扱われていたかを論じ、その上で事件に入ってゆく。天皇制の問題を正面から論じない戦後の思想界、安保問題を背景にした右翼の動き、テレビの登場によって大衆メディアにさらされるようになった天皇家。その時代状況が見える。だからこそ、この事件が結果したメディア全体の「自主規制」が明確になる。
 著者は事件そのものを解説しているのではなく、この事件に日本の出版と言論界がどう対処したかを問題にしているのである。暴力にさらされたときの言論の自由の問題と自主規制の関係は、今に至るまで少しも進展をみせていないのではないか。
 中央公論社を事例に論はすすめられているが、個別の出版社がテーマなのではない。言論とは何か、を問うている。
     ◇
 日本経済評論社・6090円/ねづ・ともひこ 77年生まれ。国立民族学博物館外来研究員。
    --「書評:戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件 [著]根津朝彦 [評者]田中優子」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013042100008.html


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戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件―「論壇」・編集者の思想史
根津 朝彦
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覚え書:「書評:謎の独立国家ソマリランド [著]高野秀行 [評者]内澤旬子」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。


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謎の独立国家ソマリランド [著]高野秀行
[評者]内澤旬子(文筆家・イラストレーター)  [掲載]2013年04月21日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 


著者:高野秀行  出版社:本の雑誌社 価格:¥ 2,310

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■西洋式でない国、嘘のような現実

 人がこの地球上で生きるのに、国家というところに所属しなければならなくなってどれくらい経つだろう。それが最良のやり方なのか、時々わからなくなる。
 ソマリアと聞けば、無政府の内戦状態にあって、外国人が立ち入ることなど到底出来ないところだと思っていた。それが旧英領ソマリランドの部分だけ「勝手に」独立して、ソマリランドと名乗り、自分たちだけで話し合って内戦も解決し、十数年も平和を保っているという。そんなことができるんだろうか。にわかに信じがたい。
 著者はこの国の「平和」を確かめるように歩く。主だった産業もなく、街は貧しいものの、市は立ち、ご飯に困ることはない。武器を携えて歩く者もいない。携帯電話も普及している。海外諸国から正式に国と認められてなくても、独自の通貨は酷(ひど)いインフレもなく安定し、学校もあるし、モノも海外から入ってくる。政府の悪口を言ったらすぐ逮捕されることもない。確かに普通に暮らしている。ただし海外に離散したソマリ人からの仕送りで財政が成り立っているというのがミソ。日本からだって、大使館もなくビザもとれないのに、送金はすぐに出来る。しかもなぜか金券ショップから。
 一方隣接する南部ソマリアを歩けば、国連が認める国家にもかかわらず、いまだ無政府状態の紛争中で、海賊が跋扈(ばっこ)するプントランドあり、ガルムドゥッグなる自称国家まで乱立。まるで戦国時代。護衛兵なしでは一歩も外出できないという状況。なのにモガディシオの放送局は、辣腕(らつわん)とはいえ、まだ20代の女の子が支局長となり、年上の男たちと現場を駆け回る。イスラム国なんだが? 彼らの嘘(うそ)のような現実が露(あらわ)になるたびに驚き呆(あき)れ、時に笑い、膨大なページ数も気にならずにぐいぐい読めてしまう。
 複雑な氏族社会の歴史など、わかりやすくまとめてあることもさることながら、既存の常識や内戦の悲惨さにひきずられず、ありのままのソマリを知ろうとする著者の視点が心地よいからだろう。
 遊牧民として、昔から争いに慣れた彼らは、仲直りをするときに、どちらが先に手を出したのかや原因を問わない。焦点はどれだけの被害があったかに絞られ、人ひとり殺されたらラクダ百頭を遺族に差し出すというような精算方法を伝統的にとって来た。
 しかしさすがにソマリランドの内戦被害は大きく、ラクダでは精算しきれない。それでは彼らは何を差し出して解決できたのか。
 彼らの伝統を活(い)かしたやり方を、そのまま真似(まね)はできないにしろ、西洋式の平和と民主主義が絶対正しいと思う必要もないんだなと、思えてくる。
     ◇
 本の雑誌社・2310円/たかの・ひでゆき 66年生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学探検部当時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。著書に『世にも奇妙なマラソン大会』『ワセダ三畳青春記』『西南シルクロードは密林に消える』など。
    --「書評:謎の独立国家ソマリランド [著]高野秀行 [評者]内澤旬子」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013042100003.html

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葬式についての雑感(2)


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 私の父は大学を定年引退したあとに熱心な仏教徒になったが、決して寺に行くことも僧侶の話を聞くこともなかった。日本の仏教は戦争犯罪を行い、反省をしていないと考えていたのである。それで父親は死ぬ数日前に、手書きの短い遺言を書いた。自分の死に際して、日本の僧侶の手を触れさせるな。葬式に類するものはいっさいするな、というものであった。私は仏教徒である、だから戦争に荷担した仏教に私の死をゆだねない。ということである。原理はよろしいのだが、これを完全に実現するのはなかなか難しい。それで姉と兄と相談して、しばらくは父親の死を親戚、隣近所、友人、学生などから隠すことにした。日本社会は、父親が考えるところの「戦争荷担の仏教」と「葬式仏教」と一体化しているので、遺言を実行するためにいっさいの行事をせずに一時的に父の死を日本社会から分離したのであった。
 だいたいうまくったのだが、火葬場で係のひとがやってきて、故人は仏教徒でしたか、神道でしたか、クリスチャンでしたか、無宗教でしたかと聞いたので、仏教徒でしたと言ったのがまずかった。お骨がでてきたときに僧侶がやってきて、勝手にお経をあげはじめたのである。あわてて姉と兄と相談したが、途中でやめる必要もなかろう、お父さんスミマセンということで黙っていた。一週間ほどして父親の死をまわりに知らせると、香典を持った人がやってきて拝ませてくれという。しかし仏壇もなければ位牌もないし、戒名もないのである。お香典も受け取るな、と言われている。それで泣きながら事情を説明して断ると、向こうも泣きながら、それでは気持ちがおさまらない、ぜひ香典だけでも受けとってくれ、という押し問答になる。火葬場での読経をやめさせるかどうかの息子と娘たちの緊急立ち話会議も、香典を断る泣きながらの押し問答も喜劇的なのである。体制に対して、それと異なった原理を押し通すことは、悲劇的でもあり喜劇的でもある。
    --室謙二『非アメリカを生きる  --〈複数文化〉の国で』岩波新書、2012年、152-154頁。

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葬儀が終わって東京へ戻りました。東京の仮寓の住まいが結局一番、落ち着きますね。

元々は濃厚な人間関係が厭で出奔したようなものですが、その「重力」からは決して逃れることができないから、形式的であろうが、「そんなものよね」と相対化によって適切な落とし所に今となっては着地しましたが、それでも実家世間に帰ってももう「居場所」はないといいますか。

田舎の旧家の人間関係てものすごく疲れるんです。だからデラシネになりたいとは思うものの、人間が生きるにはデラシネであることはできない。だとすればどうつきあっていくのかといいますか--。

「あほくさ」とは思うものの「爆発しろ」では解決しない。無自覚な馴化・惑溺も全否定でもない聡明さが必要かなあ、と。

そういう人間関係世界の建前とホンネが交差するのが、おそらく生老病死に関するセレモニーになるんだろうと思います。

簡素かつ極度の形式主義ではありましたが、まあ、いい葬儀だったのではないかと思う。92で亡くなった祖母の死顔はいい表情だったし、数年ぶりに従兄弟とも再会する機会になった。

これで私と細君の祖父母は皆亡くなりました。今回は、氏家家に養子に入ったうちの親父の母。甲斐源氏の秋山氏の出の日蓮門流。満州で結婚して、興正派。今回は真宗での葬儀。まあ、それはそれでいいのかとは思った。

末木文美士さんの『日本仏教の可能性 現代思想としての冒険』(新潮文庫)を読んでいた所為かも知れませんが、現実に葬式仏教オワタのは否定できない。ただし、それを消滅作戦的全否定で迎えても始まらないなーという話で、死者を引き受けたそれをどう「内在的超越」していくかで、人間関係も同じなのじゃないのだろうか、と。

なので、その人が自分自身に向ける眼差しとして「これでない絶対だめだ」というのは理解できるが、「これでないと成仏できない」という他者への言葉は、「坊さんを呼ばないと成仏できない」というシステムと五十歩百歩なのじゃないのかも、とネ。

余談ですが、先月が本願寺派で、今回は興正派。念仏の抑揚が違うのよね、少し驚き。それから初七日で使った「正信念仏偈」の参列者用のテクスト、抑揚の発音記号というか、例えば「この音をのばす」という指示書きが教文に振られており、これは親切だなとは思いました。こういう配慮は大事だろうとw

まあ、坊さんのおはなしは少し糞過ぎてツライものがあったのと、ネタ受け用でイスラームの話をしていたけど、少し噴飯モノ過ぎて辛かった(><)

まあ、しかし、坊さんを呼びたいという需要があれば、必要かとは思いつつも、それに安住する構造は、結局の所、需要の側も供給の側にとってもお互いの為にはならないだろうね。

しかし、伝統としての宗教(家の宗教)と、個人の自立的受容による宗教の問題とは、ほんとどちらがエライとかいう単純な問題ではないとはここ数年痛感する。宥和的言及が多いですが、個を尊重しない家の宗教にはもの凄い問題はあるのは承知してますが、破壊ではなく創造的な批判であらなければとね。

私個人としては、もうユニテリアンのような感じだけど、それでも、吉満義彦に注目せざるを得なくなってしまう。自身の信仰告白をたえず強要される在り方から、静謐に祈る「伝統」への移項が何を意義するのか。もう一度点検しなければならないとね。


関連エントリ

http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20130319/p1


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覚え書:「書評:卒業式の歴史学 [著]有本真紀 [評者]渡辺靖」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。


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卒業式の歴史学 [著]有本真紀
[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)  [掲載]2013年04月21日   [ジャンル]歴史 


■日本に特有の「涙」はいつから

 3月の風物詩といえば卒業式。ふと思い浮かべる曲は何だろう。〈仰げば尊し〉〈贈る言葉〉〈旅立ちの日に〉……。ハレの日にもかかわらず、そこにはうら悲しさが漂う。級友や恩師との別れに涙した人も多いだろう。
 しかし、著者によると、そうした雰囲気の卒業式は「ほとんど日本に特有の学校文化」というから驚きだ。
 しかも「卒業式で泣かないと冷たい人と言われそう」という斉藤由貴のヒット曲の歌詞とは裏腹に、近代的な学校制度が誕生した明治初期には、卒業式は「涙」や「別れ」とは無縁だったという。
 一体いつから、なぜ、どのように卒業式はセンチメンタルな空間へと変容したのだろうか。目から鱗(うろこ)が落ちる史実を丹念に積み重ねながら、そのからくりを鮮やかに解き明かしたのが本書だ。
 キーワードは「感情の共同体」。音楽(唱歌斉唱)の援用によって台本(式次第)にある「劇場作品」はより情操的深みを増し「記憶」として共有され易(やす)くなる。
 しかし、そもそも何のための「共同体」なのか。それは日本社会における「学校」の位相を改めて問い直すことでもある。
 しばしば懐古主義的な精神論や目前の成果主義に陥りがちな教育改革論議。まずは所与の「現実」を歴史的文脈のなかで脱構築する作業が欠かせない。本書の真の醍醐味(だいごみ)はまさにその点にある。
 卒業式といえば、スティーブ・ジョブズが人生哲学を論じた演説は世界中の大学生の間で話題になった。
 日本の卒業式でも「涙」や「別れ」よりも「言葉」が重んじられる日が来るのだろうか。30年後、卒業式はどうなっているのだろうか。
 それは、とりもなおさず学校、そして日本社会の未来を想像し、デザインすることに他ならない。
 本書をそのための貴重な契機としたい。
     ◇
 講談社選書メチエ・1680円/ありもと・まき 58年生まれ。立教大教授(音楽科教育、歴史社会学)。
    --「書評:卒業式の歴史学 [著]有本真紀 [評者]渡辺靖」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013042100013.html


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卒業式の歴史学 (講談社選書メチエ)
有本 真紀
講談社
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覚え書:「書評:ラカン [著]ポールロラン・アスン」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。


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ラカン [著]ポールロラン・アスン
[掲載]2013年04月21日   [ジャンル]歴史 


著者:ポール=ローラン・アスン、西尾彰泰  出版社:白水社 価格:¥ 1,260

Amazon.co.jp楽天ブックス紀伊國屋書店BookWebTSUTAYA online
 フロイトの後継を自認する精神分析家であり、構造主義思想家、哲学者として今も影響を与え続けているジャック・ラカン(1901?1981)。その思想は難解であることでも知られるが、本書は、とっつきにくさのもとだった式や図を減らし、フロイトを参照軸にしながら、思索の軌跡を大づかみに、しかしツボは外さず語る。彼の書いた論文集『エクリ』より、彼の講義=『セミネール』に重点をおいたのが特徴だ。とはいえ、分かりやすいと言えばウソになる。「象徴的な父は思考不可能である」「性関係は存在しない」といった“ラカン節”もちゃんと残っている。謎めいたところが魅力でもあることをわきまえた著者とみた。
     ◇
西尾彰泰訳、白水社文庫クセジュ・1260円
    --「書評:ラカン [著]ポールロラン・アスン」、『朝日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013042100005.html

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ラカン (文庫クセジュ978)
ポール=ローラン アスン
白水社
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葬儀という「文化」


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4月24日の水曜日の朝。91歳で祖母(父の母)が無くなりました。夕方、連絡を受け、その日の夜勤をこなし、翌朝からの仕事へ出勤して、忌引きの調整をして、夜遅くに実家へ戻り、ご挨拶を済ませてきました。

金曜日の朝、葬儀。骨あげと初七日を済ませ、その夜、東京へ戻りました。

慎んでご冥福を祈ると共に、葬儀という「文化」から、個人と共同体の問題、形式と内実、批判と創造的批判の差異、等々……についていろいろと考え直す機会になったと思います。

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覚え書:「書評:東北発の震災論 山下祐介著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。

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東北発の震災論 山下 祐介 著

2013年4月21日

◆新たな「主体性」を思い描く
[評者]赤坂 憲雄 学習院大教授・民俗学。著書『東北学/忘れられた東北』など。
 3・11から二年余りの歳月が過ぎた。東京ではすでに東日本大震災は過去に属しているかのようだ。被災地はしかし、今も復興以前の現実にあえいでいる。たしかに、膨大な予算がつぎ込まれているらしい。それはしかし、3・11以前へと復旧させるための公共事業であり、将来を見据えた創造的な復興といったものではない。三陸海岸や福島の被災地を歩きながら、著者は東北の近代化の構造を洗い直し、東北から見えてくる東日本大震災の姿を浮かび上がらせようとする。
 日本社会は広域にわたって形成された一つの巨大システムをなす、と著者は言う。原発はまさにこの「広域システム」のシンボルのようなものだ。それはつかの間、東日本大震災によって揺らいだが、あらゆる人やモノや場所から「主体性」を奪い「周辺化」することで存続を果たした。周辺はリスクを背負い、還流してくるいくらかの利益と引き換えに中心に奉仕する。この中心と周辺というシステムの根幹は事後も揺らぐことはなかった。東京という中心からは、周辺たる東北の被災地は見えない。それでいて、復興のシナリオは東京で作られ、被災地に降りてくる。それはしかも、有機的な全体像も将来への見通しも持たないままにゆるく周辺を覆い尽くしてゆく。
 この広域システムの際限のない拡散と合理化に抗する知は、どこから生まれるのか。個と全体のあいだに、バラバラな社会の隙間に、論理的には説明しがたいかたちで顕われる大地の区画のなかで「くに」として析出するものと言う。とてもきわどい物言いだ。
 「くに」とは近代の国民国家ではむろんなく、何か、古風にして、いまだ見たことのない共同体のようなものであり、そこに新たな「主体性」の誕生が予感されている。東北はその実験場として再生しなければならない、という最後の呟(つぶや)きに、もどかしくも共感を覚える。
やました・ゆうすけ 1969年生まれ。首都大学東京准教授。著書『限界集落の真実』など。
(ちくま新書・924円)
◆もう1冊 
 太宰幸子『地名は知っていた』(上)(下)(河北新報出版センター)。宮城県の被災地を歩き、伝統的地名が語る災害伝承の重要性を考える。
    --「書評:東北発の震災論 山下祐介著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013042102000171.html

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東北発の震災論: 周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
山下 祐介
筑摩書房 (2013-01-09)
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覚え書:「書評:電力の社会史 竹内敬二著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。

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電力の社会史 竹内 敬二 著

2013年4月21日

◆遅らせられた自由化
[評者]山岡 淳一郎 ノンフィクション作家。著書『原発と権力』など。
 原子力、環境、エネルギー分野は関連し合っており、全体の政策的バランスを保つのは難しい。東電福島原発事故後、民主党政権は「二〇三〇年代原発ゼロ」を打ち出し、九電力の「地域独占」の見直しに踏みだした。ところが自民党の政権奪還で逆コースへ転じようとしている。昨夏の「国民的議論」を経て、いったい私たちは何に光を見いだそうとしたのか。エネルギー政策の本質とは何か。
 そうした問題意識に対し、本書は、極めて良質な資料を提供してくれる。電力問題を二十年以上取材してきた著者は、日本の特殊な原子力推進体制や核燃料サイクル、自然エネルギー政策など、興味深いテーマに沿って社会史をつづる。
 圧巻は電力自由化、発送電分離に関する記述だ。過去に何度も電力自由化の議論はおこなわれ、部分的に自由化が採用されたが、既得権にしがみつく電力会社は進行を遅らせた。その骨抜き行為が「多様なエネルギー産業の発展とイノベーション(技術革新)を邪魔していたのではないか」と著者は問う。
 安倍内閣は発送電分離を閣議決定した。今後、電力会社から切り離されて「公共化」される送配電部門はきちんと中立性を保てるか。発送電分離の時期は先送りされないか。政権の本気度を見極めるうえでも、本書は大いに役立ちそうだ。
たけうち・けいじ 1952年生まれ。朝日新聞編集委員。著書『地球温暖化の政治学』など。
(朝日選書・1680円)
◆もう1冊 
 田口理穂著『市民がつくった電力会社』(大月書店)。ドイツ南部の市民が自然エネルギー電力会社を立ち上げた話。
    --「書評:電力の社会史 竹内敬二著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。

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[http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013042102000170.html:title]


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電力の社会史 何が東京電力を生んだのか (朝日選書)
竹内敬二
朝日新聞出版 (2013-02-08)
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病院日記(3) 洗う-洗われる 蜘蛛の糸の如き必然の対峙


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病院仕事(看護助手)の介助入浴の見学を先日しましたが、昨日、実践に投入されました。先日の雑感→ http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20130412/p1 患者さんは全てを委ねざるを得ない点に「剥き出しの生」を痛感しましたが、実際にやってみると、そうなのだけど、てきぱきとやることができました。

てきぱきというのは、実際に洗わせて頂くと、構えた以上にすんなりできたことに驚き(但し、女性の髪をドライヤーで乾かすのはものすごく難しかった)。ただ、同時に、人工呼吸器や様々な管をつけた患者さんも含まれますので、結構、神経を使ったので、時間はあっという間でしたがもの凄い疲労。

入浴介助しながら、痛感したのは、洗う-洗われるは、(僕たちは)仕事-(患者さんは)必然(=してもらわざるを得ない)という……それは、蜘蛛の糸のような、ほんとに薄い糸……相互の信頼関係?のようなもので結ばれたうえに、成立しているのだなあとも思いました。

今日は、若い男性の看護士さんとペアを組んで20名近くの患者さんのお世話をさせて頂きました。仕事なので、どんどんやっていきますが、先の「剥き出しの生」を実感しつつも、やっぱり「さっぱり」すると患者さんたちは「生き返る」んです。毎度真剣勝負になるのですが、がんばろうと思います。


僕は、配膳と入浴介助で「のみ」患者さんと関わるのだけど、四六時中関わる看護士さんは、凄いと思った。下の世話から看護まで。それから「ねぎらう“声”がけ」がすごい。勿論、仕事だろうけど、「このシャンプー、いい香りですね♪」なんて、僕にはなかなか出てこなかった。凄い人たちだと思った。


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覚え書:「今週の本棚・本と人:『桜ほうさら』 著者・宮部みゆきさん」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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今週の本棚・本と人:『桜ほうさら』 著者・宮部みゆきさん
毎日新聞 2013年04月21日 東京朝刊


 (PHP研究所・1785円)

 ◇筆跡の謎解きに恋を絡めて--宮部(みやべ)みゆきさん

 主人公は古橋笙之介(しょうのすけ)、22歳。長屋暮らしの浪人。お家騒動に巻き込まれて切腹した父の汚名をすすごうと、近郊の小藩から江戸深川へやってきた。周りで起こる不思議な出来事を解決し事件の真相へと向かっていく。

 「桜と江戸を絡めた話を書きたかった。私なら長屋の花見だと。若い浪人者が登場すれば、面白くなり、恋もさせられる。貸本屋が繁盛し出版業が充実していた時代ですから、主人公の生業(なりわい)を写本作りにしました」

 文字を書く--ユニークな道具立てによる謎が笙之介の前に立ちはだかる。父の死の原因となった偽文書。誰が書いた? 前藩主が残した奇っ怪な文字。何が書いてある? 拐(かどわ)かしを知らせる脅迫状。犯人像は?

 「書は人なり」。筆跡つまり人が「書くこと」への根源的な問いがちりばめられている。

 「『三島屋変調百物語』では『語り』について取り上げました。文字も語りと同様に人柄を表します。日本人にとって『書くこと』はとても意味のある行為でしたから、主人公の仕事を写本作りにしたのです」

 さらに「恋」という横糸が、物語を彩り豊かに織り上げる。

 仕立屋の娘・和香には身体と顔の左半分にあざがある。が、初対面で笙之介は「桜の精だ」と見とれて一目ぼれ。初々しい2人の気持ちが響きあう。

 「『やせたい』とか、『二重まぶたがいい』などと若い女性が思い悩んでいます。でも私は『恋ってそんなものじゃない』と言いたかった。外見は大したことではない。恋に落ちれば、あなたのほかに何も見えない状態に陥っているのですから」

 長屋でうごめく市井の人々のやさしい言動。が、物語の最後に笙之介の家族やさまざまな人々の冷酷さが明らかになる。

 「家族は揉(も)めているけれど、長屋の住人は皆、仲がいい。生活を共にする人とのやりとりが大切ということでしょうか」

 「桜ほうさら」は宮部さんの造語。「大変だったねぇ」という意味の山梨方言「ささらほうさら」をもじった。

 「500円玉貯金のように少しずつ書き継ぎました。そして桜の時期に本屋さんに並んだ。幸せな本です」<文・桐山正寿/写真・宮間俊樹>
    --「今週の本棚・本と人:『桜ほうさら』 著者・宮部みゆきさん」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130421ddm015070036000c.html


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桜ほうさら
桜ほうさら
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宮部 みゆき
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覚え書:「書評:色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上春樹著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。


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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上 春樹 著

2013年4月21日

◆絶望、孤独から再生の歩み
[評者] 横尾 和博 文芸評論家。著書『新宿小説論』『文学÷現代』など。
 本書の背後には3・11の大震災と原発事故がある。著者が一九九五年の阪神大震災のあと、連作短編集「地震のあとで」(のちに『神の子どもたちはみな踊る』)を発表したように。本書には津波も放射能もなにも書かれてはいない。だが大震災が行間に深く埋もれている。私はそのように読んだ。同じ時代の空気を吸ってきた同世代の者の勘である。
 その根拠を謎解きのように提示するのは簡単だ。主人公の多崎つくるという名前。姓は三陸リアス式海岸の多くの岬を象徴し、名はモノ作りと再生を比喩する。人間関係の正五角形とは原子力ムラを暗示。また盛んに使われる「色彩のない」という表現について、私は大津波が押し寄せるさまや、事故後の福島第一原発のモノクロ映像を想起した。そして「調和する親密な場所」は「消え失せた」のであり、「記憶をうまく隠せたとしてもそれがもたらした歴史は消せない」など意味深長な会話文。しかし謎を解き、隠されたキーワードを探し発見すること自体に意味はない。文学は読むのではなく、感じることが大切だと思うから。
 表面上のストーリーは三十六歳の男が、十六年前に体験した親友たちとの決別で負った絶望と孤独を、女友達をとおして過去の傷に向き合い、再生に向けて歩みだす物語。わかりやすいストーリーと難解な意味、風変わりなタイトル、比喩と象徴、著者の本領発揮の作品だ。主人公の多崎つくるは自分が中庸で色彩がない、と思っている。しかし色彩がないことが、ひとつの色彩になっていることに気がついたのは私だけだろうか。いやあの三月の東北の海辺の無機質な情景を見たものは、みな色彩の意味を察するに違いない。
 痛みはどのように克服されるのだろう。忘れることか、あるいは真実と向き合うことか、はたまた…。村上春樹と私たちの心の巡礼の旅は、まだ始まったばかりである。
むらかみ・はるき 1949年生まれ。作家。著書『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』など。
(文芸春秋・1785円)
◆もう1冊 
 莫言著『変』(長堀祐造訳・明石書店)。現代中国を代表する作家の自伝的小説。小学校を放校になって以来の人生の変転を描く。
    --「書評:色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上春樹著」、『東京新聞』2013年4月21日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013042102000172.html


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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
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書評:浅見雅一、安延苑『韓国とキリスト教 いかにして国家的宗教になりえたか』中公新書、2012年。


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教会成長理論は、一九六〇年代にフラー神学校で始まった新しい宣教学の理論である。フラー神学校の宣教学とは、教会成長を目的として、神学的要素のうえに社会科学と行動科学を統合させた理論であった。それに実践的要素を加えたものが教会成長理論と呼ばれ、やがて宣教学とは分離したひとつの学問となった。
 また、趙鏞基の説く「霊的に満たされ、物質的に恵まれ、病苦から解放される」という「救いの三重の祝福」について、マリンズは、ソウル大学哲学科教授孫鳳鎬の見解を引用しながら「現世の祝福の過度の強調」に帰着すると説明している。現世の祝福とは、現世利益の肯定に置き換えることができる。キム・ヨンジュによれば、キリスト教を信じれば万事がよくなるという説教は、聖書の教えをバランスよく教えているとは言い難いが、「救いの三重の祝福」は現世利益を求める大衆の宗教心と欲求を満たすものとして歓迎されたという(キム・ヨンジュ『韓国教会史』改訂第三版)。純福音協会が現世利益を過度に強調しているという説明になるが、これは韓国のプロテスタント協会に多く見られる特徴である。
    --浅見雅一、安延苑『韓国とキリスト教 いかにして国家的宗教になりえたか』中公新書、2012年、27-28頁。

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世界最大のメガ・チャーチを有し、全人口の3割をクリスチャンが占める韓国。その教勢は政治の動向にも影響を与える。本書は出会いから現在まで、「いかにして“国家的宗教”になりえたか」(副題)を概観、受容の特色を紹介する簡便な一冊。

李朝下、「西学」として理知的側面から受容されたが指導者の欠如が極端な倫理主義を招く。近代化以降は帝国主義との対峙でプロテスタント受容が加速した。そして戦後はアメリカ「流」。大型教会と個別教会の二主義が教勢拡大を促すが問題も多い。

神学畑の認識では韓国のキリスト教とは「聖霊」重視と「民衆神学(恨の情)」とシャーマニズムの親和性に目がいきがちだが、キリスト教を信じれば万事がよくなるという教説が歓迎された(=教勢拡大へ)というのは意外だった(教会成長理論)。

「通史を新書で」というのは誰もの願いであると同時に「限界」ともなる。記述の濃淡に対する指摘は読み手の関心によって容易だが、類書が少ない中では、輪郭を掴める一冊ではないだろうか。本書で初めて知ることも多く、文化内受肉の一事例を学ぶことができる。


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韓国とキリスト教 (中公新書)
浅見 雅一
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覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『旅立つ理由』=旦敬介・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。


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今週の本棚:池澤夏樹・評 『旅立つ理由』=旦敬介・著
毎日新聞 2013年04月21日 東京朝刊


 (岩波書店・2415円)

 ◇幸福感につつまれた「南の世界」の旅物語集

 いやしくも書評を仕事としている以上、「珠玉の短篇」などという言葉は使いたくない。褒め言葉として安直に過ぎる。

 しかし、ベルギーの名店のチョコレートが一箱あって、毎晩一つ週末には二つと食べるような気分を与えてくれる本となれば、この言葉も使いたくなる。それが二十一個、挿絵もすばらしくて完璧なパッケージだ。

 風味はエキゾチック。話の舞台の多くがアフリカ、ラテンアメリカ、あるいはヨーロッパも隅の方だから。その土地の風土感を土台に書かれているから。

 基本の枠組はある日本人男子の旅物語である。たいていは一人だが、時には幼い息子が同行する。この子の母親のアミーナはウガンダ人で、いろいろあって今は別れたらしいことがおいおいわかる。

 「アフリカの流儀」という話がある。男とアミーナとその同郷の友だちのナスィームの三人で、ケニアのナイロビから列車でウガンダに向かう。

 とんでもなく荷物が多いのはアミーナにとってこれが四年ぶりの里帰りだからだ。郷里の人たちへのおみやげが尋常な量ではない。

 こんなにたくさん運べるか?国境を越える際にトラブルはないのか? そこは無事に過ぎたとして、その先で荷物を預けたボダボダすなわち自転車タクシーを漕(こ)ぐ少年たちは信用できるか? 男はさまざまな不安に苛(さいな)まれるが女たちは平然としている。

 そしてすべてはうまく運ぶ。現代の欧米文化が用意した人間不信に基づく仕掛けとは別の、アフリカ本来の相互信頼システムが正しく機能する。だから最後にナスィームは「ほらね、言っただろ、これがウガンダの流儀ってものよ」と言わんばかりに笑うのだ。

 この本が楽しいのは、基本のところで満足と安心の肯定的な人間観を踏まえているからである。南の世界においては、どんな難関が立ちはだかるように見えても、最後には万事が収まるべきところに収まる。

 イタリアという国は南の世界には属さないかもしれないが、しかし息子はそこを楽天的なトポスに変えてしまう。

 父と子で観光でフィレンツェを訪れ、ずっと一緒に動き回りながら少しの間だけ別行動になる。父はミケランジェロの墓を見に行き、息子は広場で待つ。十歳の息子を観光客とそれを狙う悪党がうようよしている(ように思える)シニョリーア広場に残して父は離れ、目的を果たし、心急(せ)いて戻る。

 その間になんと息子は四ユーロ稼いでいた。遊び半分に色鉛筆でスケッチブックに描いた絵に、お母さんと小さな女の子の二人連れが値を付けたのだ。

 これがこの本のはじめにある「世界で一番うまい肉を食べた日」という話。父と子は四ユーロの稼ぎでリストランテで豪遊する。呆(あき)れるようないい話だ。

 文学で幸福感を書くのはむずかしい。今の日本では誰もが不満を抱いて生きているからちょっとやそっとでは読者は納得してくれない。この国に幸せがないのなら外に出るか、というほどことは単純ではないし。

 それでも、この本に溢(あふ)れる賑(にぎ)やかな市場の喧噪(けんそう)と熱気、行き交う会話、それに料理の味と芳香……一転、シャッター街の寂れかたを思い出して、これはやっぱりこの国にはないものだと考えてしまう。

 ブラジルに住んで部屋を借りたとたんに友人たちがパーティーを企画してどんどん料理を作り、見ず知らずの人たちが何十人もやって来る。その中心にあるのがフェイジョアーダという料理。これを食べたいと思う自分はつまり淋(さび)しいのかな。
    --「今週の本棚:池澤夏樹・評 『旅立つ理由』=旦敬介・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130421ddm015070024000c.html

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覚え書:「今週の本棚:持田叙子・評 『沈黙のひと』=小池真理子・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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今週の本棚:持田叙子・評 『沈黙のひと』=小池真理子・著
毎日新聞 2013年04月21日 東京朝刊


 ◇持田叙子(のぶこ)評

 (文藝春秋・1785円)

 ◇いのちの果てに往還する父娘の時間

 お父さん。お父さん、お父さんお父さん、お父さーん……。

 父恋いの濃密な声が、この本いっぱいにこだまする。少なくとも読者にはあざやかに聞きとれる。それは、すでに黄泉路(よみじ)をゆく父のうしろ姿に投げかけられる切ない呼び声だ。

 生前、ひとりの人間としての父のことを全く知ろうとしなかった自身の若さのおごりを恥じ、悔い、父の魂をなつかしく撫(な)でる娘のしずかな哭(な)き音(ね)でも、それはある。

 二〇〇九年三月中旬、風のつよい日曜日。晩年の四年余をそこで暮らし、八十五歳で逝った父の遺品を整理するために「私」が、介護付有料老人ホーム「さくらホーム」にタクシーから降り立つ場面より、この長篇小説は始まる。

 「沈黙のひと」という題名はまことに暗示的。「私」の父・三國泰造(みくにたいぞう)のなかには、さまざまの<沈黙>が重層する。彼は、沈黙に守られた秘密の恋を長年かかえていた。ホーム入所の原因はパーキンソン病で、指も口唇ものども震え、しだいに沈黙の海底に「だるまのように」沈没してゆく日々に耐えた。

 そこに彼の生きた時代性--昭和十八年学徒出陣し、多くの知友を失い、しかし高度成長期の企業戦士として戦争体験の辛苦に口をつぐんで生きた、寡黙な世代としての特徴も加わる。まさに、<沈黙のひと>。

 両親が早く離婚し母子家庭に育った娘の「私」は、特に父とは疎遠である。そもそもオヤに関心がない。精いっぱい自分の人生を生きてきた--「私はたぶん、初めから、家族と離れて生きることしか考えていなかったのだ」。

 なのに難病をわずらいホームに入った最晩年の父に、思いがけない濃い情愛が湧く。それまで子を捨てた者として自制していた父も、話せずワープロも打てなくなった彼のために娘が考案した「文字表」を震える指で必死にさし、「え」「り」「こ」と娘の名をつづる。

 それぞれの人生の大半を離れて生きてきた二人は、いのちの果ての季節のなかで固く結びつき、寄りそって風雨をしのぐ。これを人生終盤の悲惨というべきか、老いと病いがもたらした天与の僥倖(ぎょうこう)というべきか--。

 「私」はホームから父のワープロや書簡を持ち帰り、供養の心で遺(のこ)された言葉を読みとく。話せなくなった父の内面への旅でもある。その過程で長年秘められた父の恋も発覚する。父の遺品や思い出にうながされ、「私」は多様な時間を往還する。この時間の織物がみごと。戦後昭和史と個人史を重ね、巻き広げる。

 親子三人で幸せに暮らした白い社宅、木の門扉をひらくと芝生があった。社会人となり訪ねてきた娘を、いつまでも人波の中に追う泣きそうな父の顔。出征のさい文学青年の父が詠んだ歌、「プーシュキンを隠し持ちたる学徒兵を見逃せし中尉の瞳を忘れず」。教養の世代でロマンチストでお坊ちゃんで、理不尽な恋の情熱に憑(つ)かれて二度も家庭を壊し、結局はやみくもに働いて建てた自分の家で死ぬ願いさえ、かなわなかった父。「私」の母のおもい認知症を知り、号泣する父……。

 ああ、そして、晩年の病む父と「私」との、初めてでさいごのスキンシップの描写がすばらしい。車椅子の「痩せた父の身体は骨ばっていて」、背後からそっと抱きしめる。父の「痩せて角張った小さな膝」「尖(とが)った肩」「ひんやりとして骨ばった手」。--その手は、脳梗塞(こうそく)の発作で朦朧(もうろう)と点滴をうける時も、私が握るとつねに「力なく握り返してきた」。哀切を極める。吉川英治文学賞受賞作。
    --「今週の本棚:持田叙子・評 『沈黙のひと』=小池真理子・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130421ddm015070010000c.html

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沈黙のひと
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覚え書:「意見広告 意見議員=『憲法改正提案』の無資格者(一人一票実現国民会議)」、『毎日新聞』2013年4月20日(土)付。


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なかなかインパクトのある全面広告です。

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覚え書:「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』=村上春樹・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』=村上春樹・著
毎日新聞 2013年04月21日 東京朝刊

 (文藝春秋・1785円)

 ◇血を流す傷と対峙する“無色の男”の物語

 文学には異性関係を超越したプラトン的ソウルメイト(片割れ同士のような魂の友)が描かれてきた。トリスタンとイゾルデ、キャサリンとヒースクリフ。その調和は完璧であるほど生身の世界を離れ死に近づく。村上の小説でも『1Q84』の天吾と青豆、『国境の南、太陽の西』の「僕」と島本さんなどがそれに中(あた)るだろう。こうした深い絆を持ちうるのは男女二人とは限らない。『ノルウェイの森』では、直子とキズキというカップルに主人公が加わり「三人だけの小世界」を形成し、最新作ではそれが五人の男女混合ユニットになった。主人公を除き姓に色が入っており、アカ、アオ、シロ、クロと呼ばれるが、ミスター・ブルー、ミス・ホワイトなどとも書かれ、村上もよく知る米作家ポール・オースターの『幽霊たち』を即(ただ)ちに想起させる。二人連れで街を歩く恋人を目撃する場面など、下敷きにした部分もあるかもしれない。

 名古屋の進学校に通う五人の「乱れなく調和する共同体」の中で、名前に色のないつくるは自分だけが「色彩の希薄な」取(と)り柄(え)のない人間と感じていたが、鉄道の駅舎造りを学ぶため、仲間と離れ東京の大学へ入学。あるとき突然、訳もわからず四人に絶縁され、自殺を考える。半年後、生きる気力を辛うじて取り戻し、卒業後は念願の駅舎建設の仕事について一見優雅な三十六歳の独身男に。二歳年上の恋人沙羅から、あなたの過去の傷はまだ血を流している、「記憶は隠せても、歴史は消せない」と喝破され、四人と対峙(たいじ)する巡礼の旅へ出る(なにせ沙羅はその問題を克服しない限りもう寝てくれないと言うのだ!)。

 とはいえ四人の消息を調べあげお膳立てしたのは恋人で、主人公は過去作群の男性たち同様おおかた受け身であり、おなじみの性夢でも女性にお任せ。また女性が妊娠途絶し後に死に至る(瀕(ひん)する)というセットパターンも踏襲されている。「その闇はどこかで、地下のずっと深いところで、つくる自身の闇と通じあっていた」など村上作品特有の言い回しも鏤(ちりば)められ、作者のテーマやモチーフを集約した感もある。

 つくるは仲間から弾(はじ)かれた後、灰田というこれまた色の名をもつ下級生と友だちになり、灰田の父が体験した不思議な話を聞かされる。そこには、取引を持ちかける悪魔のような男が登場する。灰田とのエピソードは唐突に始まり唐突に終わる。

 つくるが疎外された理由も謎だが、これほど甚大にして不可解な事件に彼が一言の追及もなく蓋(ふた)をしてしまったのも解し難い。村上の小説には、自分を理不尽に害する相手に立ち向かわずただ背を向ける人々がよく出てくるが、この受動性は処女作『風の歌を聴け』で既にこう疑問視されていた。「私があなただったら、そのオマワリをみつけだして金槌(かなづち)で歯を何本か叩(たた)き折ってやるわ」。「僕」は答える。「もうみんな終わったことさ」冗談めいて始まったこの問いかけは後にも反復される。例えば『ノルウェイの森』で少女暴行の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられたピアニストのレイコさんに夫が怒る。「俺がそこの家に行って直談判してきてやる」。彼女はただ、引っ越しましょうと言う。こうした働きかけ(私があなたに代わって/あなただったら)は本作にも持ちこされた。沙羅が「私があなただったらそこに留(とど)まって、納得がいくまで原因を突き止めるけどな」と言うと、つくるは「ずっと昔に起こったことだ」と一旦は流そうとするが、今回は訴えかけに応じる。

 つくるが絶縁されたのは、仲間の一人が彼に暴行されたと嘘(うそ)を言いだしたから。この人物は仲間の関係の変化を恐れ、才能の壁にもぶつかって精神を病み、やがて寛解の時期を経て悲惨な結末を迎える。その虚言のせいで自殺しかけたつくるや、この人物の世話で人生が潰れかけた仲間は、手を下したのは「象徴的に」自分であったかもしれないと結論するが、実際の犯人は最後までわからない。ヒントからの推測は自由だろう。灰田とのパートは、意味深な記述を満載しながら前後との接続がないように見え、そのあまりの断絶ぶりにむしろ本筋との深い繋(つな)がりや役割を感じる。ラストにサリン事件への短い言及があるが……。因(ちな)みに私は『幽霊たち』に先立つチェスタトンの「ブルー氏の追跡」を読み返していて、ある解釈を思いついた。

 ここでもまた心の弱みにつけ入る邪悪と「分身的なダークネス」という馴染(なじ)み深い主題が変奏されているのだろう。おまけのように見えて灰田とのパートは最重要と思う。

 ソウルメイトとの美しい関係の裏には、自分たちだけを特別視する傲慢(ごうまん)さがある。またもや村上の主人公は最後に、人の心を結びつけるのは調和(完全さ)ではなくむしろ傷(不完全さ)であると気づく。血を流さない赦(ゆる)しはないと。彼岸からの呼びかけを拒み、凡庸で不格好な俗世に彼は漸(ようや)く入っていくだろう。

 それはそうと、かつて村上の小説にうっすらあった自己批評性としたたかなユーモアはどこへ行ったんだろう? その謎の方が気になる。
    --「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』=村上春樹・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130421ddm015070031000c.html


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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
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覚え書:「今週の本棚:古典を失った大学 近代性の危機と教養の行方=藤本夕衣・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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今週の本棚:古典を失った大学 近代性の危機と教養の行方
藤本夕衣・著
(NTT出版・3990円)

 かつては世間離れした場として容認されていた大学にも、「改革」の波が打ち寄せる。予算の効率配分、多様なニーズへの対応、キャリア教育等。東大でも、語学学校を目指すかのような国際化が進む。
 それで良いのか? 本書はそうした改革論とは正反対の視線で大学を見直す。「古典をどう理解するか」を軸に、思想の次元で大学と民主主義の関係を問う。登場人物はR・ローティとA・ブルーム。哲学と大学をめぐる論争が、丁々発止と繰り広げられる。
 大学が危機にある理由に、普遍的原理なるものが追究しえなくなったポストモダン状況をとも挙げる。そこからブルームは、実証データや歴史的事実に拘泥して価値の更新を目指さない「アメリカン・スタイルのニヒリズム」が蔓延したと見る。ローティは、差異を生む権力の批判に傾倒する「文化左翼」や論理偏重の分析哲学など、博識だが傍観者的論調が生まれたという。
 古典を通じ古代に目を向けるロマンを感じ取ろう。古典を読む世間離れの期間こそが大学だ。浅い改革とは一線を画す、熱い思想の書。(空)
    --「今週の本棚:古典を失った大学 近代性の危機と教養の行方=藤本夕衣・著」、『毎日新聞』2013年04月21日(日)付。

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古典を失った大学―近代性の危機と教養の行方
藤本 夕衣
エヌティティ出版
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書評:西垣通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、2013年。


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西垣通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、読了。ここ10数年のコンピュータの変化とは、人間に代わっての高速な処理から相互通信性にシフトしつつあることだ。本書は「~2.0」のフレーズに代表されるインターネットを初めとする「集合知」の現在と未来を考える一冊だ。

震災に代表されるように専門家主義の凋落とネットの集合知の台頭しつつある現在。著者は両者に安易に組みしない。知が機能するためには適切な条件の上での運用に限られるからだ。万人参加による透明でフラットなグローバル世界は残念ながら幻想に過ぎない。

本書の肝は何といってもその「人間論」だ。安易な歓迎論、守旧的なプロフェッショナリズムの両者は、対象を完全に正確に記述できるという落とし穴に陥っている。人間社会とは「ローカルな半独立の社会集団」の無数の入れ子構造。その様相を明らかにする。

リアルに実在するのは個々人の主観世界。そして私たちが「ありがたい」と感じる「客観知」のほうこそ人為的な虚像にすぎない。著者の手厳しい主客構造批判は、エアボクシングの熱中をいさめ、相互生成的な「知恵」を創り上げることへのシフトを促す。

本書は「ネットでバラ色」論に食傷気味の読者だけでなく、若い学生に手にとって欲しい一冊だ。認識と参加の地平を新たにする。知が通信で相互生成されるのはネットだけではない。人間のコミュニケーション(教育もその1つ)がそれを記憶・蓄積・創造へと促す。


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集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)
西垣 通
中央公論新社
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覚え書:「書評:レジリエンス 復活力 [著]アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー [評者]田中優子」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。


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レジリエンス 復活力 [著]アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー
[評者]田中優子(法政大学教授・近世比較文化)  [掲載]2013年04月14日   [ジャンル]社会 


■どんな領域も同時に扱う多様性

 まだなじみの無い言葉だが、すでに「レジリエンス resilience」は新しい目標として世界に広まりつつある。レジリエンスとは、外部から力を加えられて崩壊しかかった人やものやコミュニティーや組織が、立ち直る力のことである。復活力、復元力と訳されるが、完全にもとに戻ることではなく、働きと健全性が維持できる程度に戻ることを意味する。たとえばいま東日本では、津波対策として極めて高いコンクリートの防潮堤を海岸に巡らす計画が進んでいる。これはレジリエンスとは正反対の方法だ。ひとたび破壊されたら元の状態に戻れない。レジリエンスは防御力ではなく、適応力、敏捷(びんしょう)性、協力、つながり、多様性によって復元する方法なのだ。
 多くの事例が書かれている。ジャマイカでは計画漁業をおこなっていたのに、ウニが全滅し藻類が繁茂しサンゴ礁が死滅した。環境保護は多様な生き物全体を捉える必要がある。本書はそれを金融危機と同じだと見る。金融は同調が起こったときいっきに崩壊する。レジリエンスには多様性が不可欠なのだ。
 自然環境、金融、コミュニティー、組織、個人など、危機が訪れるあらゆる領域を同時に扱う。そこが面白い。結核菌とテロ組織は、活動規模を機敏に拡大縮小する能力に見習うべきところがある。三種の樹木層からなる混成森林を育て、中心を動物保護区としたボルネオの事例では、コミュニティー、経済システム、生物多様性、生態系がレジリエンスを取り戻した。井戸にヒ素が混じったバングラデシュでは、現場の生活を知らない外部の介入が差別や争いを生んだ。パラオでは漁業資源が激減したが、ある管理官が漁師たちと対話し、ダイバーから環境税を取り、コミュニティーを回復させた。レジリエンスはボスではなく通訳型リーダーがふさわしい。学ぶこと満載だ。復興の方法を今なら見直すことができる。
     ◇
 須川綾子訳、ダイヤモンド社・2520円/Andrew Zolli ナショナル・ジオグラフィック協会フェロー。
    --「書評:レジリエンス 復活力 [著]アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー [評者]田中優子」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013041400013.html


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レジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か
アンドリュー・ゾッリ アン・マリー・ヒーリー
ダイヤモンド社
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覚え書:「書評:鉄条網の歴史―自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 [著]石弘之、石紀美子 [評者]荒俣宏(作家)」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。


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鉄条網の歴史―自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 [著]石弘之、石紀美子
[評者]荒俣宏(作家)  [掲載]2013年04月14日   [ジャンル]歴史 

■家畜用から新たな環境の囲いへ

 鉄条網は西部劇を終わらせた。その発明者グリッデンが後妻に「花壇が家畜に荒らされるので、何とかして」と頼まれたことから誕生したこの家畜フェンスは、家畜を制御するカウボーイを失職させた。辺境で大牧場を拓(ひら)いた牧場主たちと、後から入植してきた開拓農民も敵対し、農地と家畜を守るのにガンマンと鉄条網を持ちだし、19世紀末にはジョンソン郡戦争のような衝突となる。名作西部劇「シェーン」も、この時代と場所の話である。
 家畜の侵入と脱走を防ぐ鉄条網は、次に人間をも束縛する。戦場や強制収容所では人間が鉄条網に囲い込まれるが、ここから現代の環境問題へ飛躍するのが本書の目論見(もくろみ)だ。鉄条網で人を遮断したチェルノブイリや朝鮮半島の軍事境界線では、逆に自然が復活し動物が異常に殖えだす。立ち入りできなくなった福島原発事故区域も含め、鉄条網が創り出した新たな環境の未来がまだ読めない。鉄条網の内側は深刻さを増している。
     ◇
 洋泉社・2520円
    --「書評:鉄条網の歴史―自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 [著]石弘之、石紀美子 [評者]荒俣宏(作家)」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013041400014.html


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鉄条網の歴史 ~自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明
石 弘之 石紀美子
洋泉社
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覚え書:「メディア時評 見通しを検証する誠実さを=釈徹宗」、『毎日新聞』2013年04月13日(土)付。


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メディア時評
見通しを検証する誠実さを
釈徹宗 相愛大教授(宗教思想・人間学)

 新聞で、「仮説演繹法」を活用した報道ができないものだろうか。仮説-予測-検証というプロセスを繰り返す科学研究の一手法である。まず現在の情報やデータに基づき、将来に関するもっとも確からしい仮説や予想を立てる。次にこの仮説に事象を当てはめていく。うまく当てはまれば、仮説の妥当性の高さが確認できる。当てはまらない場合は仮説を修正していく。
 今であれば、アベノミクスの今後や衆院違憲判決への対応などやってみてはどうだろうか。アベノミクスならば、日本経済、世界経済への影響を数カ月や数年単位で予測し、定期的に予測と現実がどう合致したかしなかったかを検証するのだ。特に私が読みたいのは、仮説がうまくいかなかった場合の検証である。どこにミスや誤解があったのか、どんな不確定要素があったのかなどの分析は新聞にとって貴重なものになる。
 私は「あの出来事の、その後」を追跡する記事が好きである。きちんと「その後」を追跡した記事を読むと、なにか誠実な職人の仕事に出会えたような気分になる。たとえば、毎日新聞3月28日付朝刊の「維新国政進出から半年」にはそんな印象を受けた。我々は目新しい政策や政党の動きに目を奪われがちなので、この記事のようにある程度の期間で俯瞰し振り返る作業が必要であろう。記者の署名を見ながら「この人たちはずっと維新を追いかけているのだろうなあ」などと思いをはせた。
 朝日新聞(3月25日朝刊)では、「尖閣諸島の寄付金どうなった?」との追跡記事が掲載された。集まった寄付金の約14億2000万円を、東京都が基金にしたことを述べていた。この記事は、言及されなくなったもののしっかり見守らねばならない案件を思い出せてくれたのであった。
 一般に検証記事とは、こうした「あの件は適切に処理されたのか」「現時点までの経緯を点検する」など事象自体のその後を検証するものだ。他方、各紙とも、社会動向の予測や仮説を立てるところまではコラムなどでそこそこやっているが、それを検証する記事は少ない。もう少し踏み込まなければ、情報をベースにして構築される知恵は蓄積されないように思う。
 情報の消費スピードが増し、昨日のニュースが忘れ去られる時代だ。新聞が自らの見通しを検証する過程を読者に見せることは、知的誠実さのモデルを示すことにもつながるはずである。
(大阪本社発行紙面を基に論評)
    --「メディア時評 見通しを検証する誠実さを=釈徹宗」、『毎日新聞』2013年04月13日(土)付。

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覚え書:「書評:3・11行方不明 石村博子著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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3・11行方不明 石村 博子 著

2013年4月14日

◆生死の境を揺れる心
[評者] 稲葉 真弓 作家。著書『半島へ』『千年の恋人たち』など。
 東日本大震災から二年、その間私たちは、多くのメディアを通して「死者・行方不明者」という言葉を何度も耳にし、目にしてきた。死者に関しては、なんとなくだが一個の肉体をイメージすることができる。遺体は「死の確認=死亡宣告」でもあるのだ。しかし、行方不明者の場合はどうだろうか。遺体はない。生死は曖昧なまま日々は過ぎていく。
 本書は「行方不明者」にまつわる七つの章で構成されているが、それぞれの章にそれぞれの家族の「あの日」と「その後」が丁寧に描き出されている。福島県大熊町で被災、実父と妻を亡くしたうえ、当時七歳だった娘を捜し続ける若い父親、あるいは、同居の家族四人を失い、うち二人が行方不明という男性など、行方不明者を持つ家族の思いは複雑だ。だめだとわかりつつもあるいは…と、心は生死の境を揺れるからだ。
 家族の喪失感は「あの人」「あの子」が姿を現さない限り一生つづくだろう。しかし希望がないわけではない。彼らが遺(のこ)していったものがその後の家族を奮い立たせることもあるからだ。岩手県大船渡市の女子大生の例をあげよう。両親は大船渡の海を愛した彼女を偲(しの)び、漁師料理を出す店を埼玉県に開いた。彼女は残してきた両親に「その後をどう生きるか」を問い掛けてもいるのだ。
いしむら・ひろこ 1951年生まれ。ノンフィクション作家。著書『東京の名家』など。
(角川書店・1680円)
◆もう1冊
 石井光太著『津波の墓標』(徳間書店)。被災地で起きているさまざまな現実をつづるノンフィクション。
    --「書評:3・11行方不明 石村博子著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013041402000184.html


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3.11行方不明    その後を生きる家族たち
石村 博子
角川書店(角川グループパブリッシング)
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書評:山田邦男『フランクルとの〈対話〉 苦境を生きる哲学』春秋社、2013年。


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山田邦男『フランクルとの〈対話〉 苦境を生きる哲学』春秋社、読了。NHK・Eテレ「こころの時代」の放送を元に、名著『夜と霧』で有名なヴィクトール・E・フランクルを読み直す最新の入門書。震災以降注目を浴びるフランクルは「今、何を語りえるのか」。ニヒリズムと生きる意味を問い直す。

フランクルの思想をナチ告発の一書と認識すればそれは矮小化となってしまう。フランクルは生涯を通して自らの実存的苦悩と対決しつつ、時代そのものの苦悩とも対峙し続けた。その意味で、フランクルの哲学とは「苦境を生きる哲学」であると著者はいう。

人生の無常さは人間を無意味化するのが必然であるからこそ「人生の意味」を問うべく運命づけられているのが人間である。しかし大切なのは「人生の意味を問うべきなのではなく、われわれ自身が問われているものである」ことを自覚することだろう。

フランクルの思想は分かり易い。しかし幾重もの入れ子構造が読者の理解を阻むのも事実である。本書は半世紀をかけてフランクルを読み続けた著者自身の「旅の記録」である。生きる希望と勇気をどこから立ち上げるのか。著者の軌跡はヒントに満ちている。

真理の場所としての〈今・ここ〉 「自分が今・ここで何をなすかということが非常に根本的なことになってくるということですね。それが結局、フランクルが〈コペルニクス的転回〉ということで本当に言おうとしたことではないかと」。


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フランクルとの〈対話〉: 苦境を生きる哲学
山田 邦男
春秋社
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覚え書:「書評:理想だらけの戦時下日本 [著]井上寿一 [評者]三浦しをん(作家)」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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理想だらけの戦時下日本 [著]井上寿一
[評者]三浦しをん(作家)  [掲載]2013年04月14日   [ジャンル]歴史 政治 

■実情は、わりと好き勝手だった

 国民精神総動員運動(精動運動)について、詳しくわかりやすく論じたのが本書だ。精動運動とは、1937年の日中戦争勃発を受けて行われた、「国民を戦争に動員するための官製運動」だ。
 具体的には、心身を鍛練(たんれん)すべく体育を推奨、健康のために徒歩での移動を推進、早起きして宮城(皇居)の方角を遥拝(ようはい)、華美な服装や生活を改め、パーマをかけている女性に注意を与える、などの運動である。同時に精動運動には、社会の平等と弱者への想像力を希求する志もあった。
 その点はけっこうだが、現在、もしこういう運動が展開されたら、私は途端に落伍(らくご)者になるだろうなあと思う。体育は苦手だし、昼夜逆転生活だし、極度の方向音痴なのでてんで見当ちがいの方角を遥拝してしまいそうだからだ。いまが戦争中じゃなくて本当によかったと思うのだが、実は当時の人々も、精動運動にあんまり従っていなかったし、「それでほんとに戦争に勝てるのか」という批判も多かったことが明らかになる。
 たとえば新聞に、「(日の丸を)壁掛けや机掛けに流用するのは以(もっ)ての外である」との記事が載った。わざわざ注意喚起せねばならぬほど、本来とはちがう用途で使うひとが多かったのだ。また、「戦場の労苦を偲(しの)び自粛自省」する日に、温泉街で芸者さんと遊ぶひとも続出した。
 戦時中というと、国民は言論の自由がまるでなく、軍部の独走に対してなすすべもなかったイメージがあるが、実情はちょっとちがうようで、人々はわりと好き勝手に、たくましく生活していた。
 しかしそれでも、日本は太平洋戦争に突入していった。当時と現在の類似点を、本書は鋭く指摘する。精動運動のような上からの理想(というか幻想)の押しつけを拒否し、正確なデータに基づき過去を分析・論考することが、戦争を回避するために重要なのだと、つくづく感じる。
     ◇
 ちくま新書・882円/いのうえ・としかず 56年生まれ。学習院大学教授(日本政治外交史)。『政友会と民政党』
    --「書評:理想だらけの戦時下日本 [著]井上寿一 [評者]三浦しをん(作家)」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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理想だらけの戦時下日本 (ちくま新書)
井上 寿一
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覚え書:「書評:明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト [著]今泉宜子 [評者]保阪正康」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト [著]今泉宜子
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載]2013年04月14日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 

■造営に挑んだ無数の庶民の姿

 明治神宮造営運動は、明治天皇逝去の2日後から始まったという。渋沢栄一関係の事業年表には、「御陵墓ヲ東京ニ御治定ニナルヤウ当局ニ陳情スルコトヲ協議ス」とあり、渋沢本人と娘婿で東京市長の阪谷芳郎を中心に広がっていった。
 明治天皇を祭神とするこの神社づくりに、どのような人物が、いかなる発想で、自らの存在を賭けて挑んだかを本書は説いていく。著者はこれらの先達の中からとくに12人の像を丹念に描くのだが、はからずも「近代日本」の造園学、公園学、林学など幾つかの学問体系が整備されていくプロセスも理解できる。造営運動の終始先導役を果たした阪谷は、後年の人びとにこの神社設立に身を挺(てい)した人たちの思いが伝わるよう、あるいは恥ずかしくない造営をと檄(げき)を飛ばしたのは自らの時代の能力を刻みこもうとの意思があったからだ。
 代々木の原生林が杜(もり)になり、そこに祈りの空間をつくりあげていく使命感。本多静六、本郷高徳、上原敬二ら林学や造園の専門家たち、とくに上原は神社境内林の理想形として仁徳天皇陵に注目したこと、伊東忠太、佐野利器、折下吉延らがそれぞれ自らの専門分野を生かした神社づくり、伊東の「社殿と社殿の調和」という発想に、当時の建築系研究者の先端精神を見ることも可能だ。
 内苑計画での林学系と農学系が神殿にひざまずく人たちの心理を考えて散策空間をつくったとの見方、聖徳記念絵画館に展示する「画題選定ノ方針」では、「(明治天皇を)正面ヨリ描クヨリモ寧ロ側面」とあるが、既存の解釈に対して著者独自の見方も示されている。12人の1人、「青年団の父」といわれた田澤義鋪は、全国の青年団を動員して具体的に造園を進めたが、田澤を見る著者の筆には畏敬(いけい)の念があり、造営にかかわった無数の日本の庶民の姿がごく自然に想起されてくる。
     ◇
 新潮選書・1575円/いまいずみ・よしこ 70年生まれ。明治神宮国際神道文化研究所主任研究員。
    --「書評:明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト [著]今泉宜子 [評者]保阪正康」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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明治神宮: 「伝統」を創った大プロジェクト (新潮選書)
今泉 宜子
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覚え書:「書評:色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 [著]村上春樹 [評者]佐々木敦」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。


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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 [著]村上春樹
[評者]佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)  [掲載]2013年04月14日   [ジャンル]文芸

■存在し続ける過去、勇気持ち向き合う

 発売当日まで他の一切が伏せられていたので、このいささか奇妙な題名は、巷(ちまた)でさまざまな臆測を呼んでいた。だが、謎めいたタイトルは、この小説の内容をきわめて端的に表していたのだった。
 多崎つくるは36歳、独身。少年の頃からの駅好きが嵩(こう)じて、鉄道会社の駅舎の設計管理部門に勤めている。名古屋で高校に通っていた頃、彼には男女2人ずつの、親友と呼べる仲間たちがいた。5人は、それぞれタイプはまったく異なっていたが、むしろそれゆえに、まるで正五角形のように完璧な親密さを形成した。つくる以外の4人は、姓に色が入っていた。あだ名は「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」。つくるだけ色彩を持っていなかった。そして彼だけが東京の大学に進学した。20歳を前に帰省した際、つくるは突然、4人から一方的に絶縁を宣告される。理由はまったく思い当たらなかった。彼は死を強く望むほどのショックを受け、現実世界に戻ってきた時には、ほとんど別の人間と言ってもいいくらいの変貌(へんぼう)を遂げていた。
 それ以来、16年間、彼はかつての親友たちと一度も再会していない。だが彼は、仕事の関係で知り合った、2歳年上の魅力的な女性、沙羅から、遠い昔の、5人組からの追放の真相を、今こそ確かめるべきだと言われる。こうして、多崎つくるの「巡礼」の旅が始まる。
 つくるは自分を空っぽの容器のように感じている。自分には「色彩」がないと。だが彼の名前には代わりに「多」の1字がある。空であるということは、多くのものを入れられるということだ。だがそれは良いものばかりとは限らない。「巡礼」は、思いがけぬことに、最終的にフィンランドの片田舎へと、つくるを向かわせる。懐かしい4人の友だちの、16年前の秘密と、16年の間に起こっていた変化と、16年後である現在の姿が、いっぺんに彼に訪れる。痛ましさと優しさに彩られた真実と、それでも解かれることのない、おそらくは解かれるべきでもない謎が、幾つも浮かび上がってくる。
 ふと思い立ち、最初の数行を書きつけ、先の展開は何もわからないまま書き継いでいったと、村上春樹はインタビューで語っている。だが、それでもやはり、この小説は、はじまりからおわりに向かって、大きな渦を描きながら収斂(しゅうれん)してゆくように見える。「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」。沙羅はつくるにこう言う。そう、過去はどこかに存在し続けている。だからいつかは必ず、勇気を出して、それに向かい合わなくてはならない。たとえそれが悲嘆と絶望、解けない謎に満ちていたとしても、そうしなくてはならないのだ。村上春樹は、おそらくそう言っている。
     ◇
 文芸春秋・1785円/むらかみ・はるき 1949年生まれ。作家。『世界の終(おわ)りとハードボイルド・ワンダーランド』で谷崎賞、『ねじまき鳥クロニクル』で読売文学賞。カフカ賞、エルサレム賞など海外の文学賞も多数受賞している。
    --「書評:色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 [著]村上春樹 [評者]佐々木敦」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013041400007.html


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覚え書:「書評:カール・シュミット入門講義 [著]仲正昌樹 [評者]水野和夫」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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カール・シュミット入門講義 [著]仲正昌樹
[評者]水野和夫(日本大学教授・経済学)  [掲載]2013年04月14日   [ジャンル]経済 社会 


■「決断」の真意、例外状況の今こそ

 もし今生きているとしたら誰に現在の状況を診断してほしいかといえば、カール・シュミットである。彼の著作や論文は数多くあるが、独特の文体や教養の深さなどを考慮すると、読者自らがシュミットの著作を読んで、彼が下したであろう21世紀の診断を推察するのは至難のわざだ。
 しかし、本書が出たことでシュミットの「例外状況」「決断主義」「独裁」論などの背後に潜む哲学や世界観に迫ることができるようになった。難解なシュミットの著作を原典にあたりながら、例えば有名な「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」というわずか1行に関して、著者は詳細でかつ説得的な解説を行うなど、シュミットの翻訳書を読んだだけでは気づかない点を知らしめてくれる待望の書である。
 「何が普通なのか?」を、誰かが改めて決めなければならないような「限界状況」でこそ、「主権」の本質が明らかになるとのシュミットの考えは経済でも通用しそうだ。通常の経済では想定していないデフレに陥った今こそ資本主義の本質を考える絶好の機会なのに、日本銀行は市場へ流すお金の量(マネタリーベース)などを「2倍、2倍、2倍」と唱えて問題の本質から目をそらしている。
 「秩序」をなによりも重視するシュミットは、国家を成り立たしめる根源的な法秩序よりも深い、本質的な秩序の「層」があると考える。だから、その秩序を裏付ける、何らかの究極の「実在」を中心とする世界観を問題にする。
 例外状況が相次いで現出しはじめている21世紀にこそシュミットが生涯を通じて考え抜いた、究極の実在に迫ろうとする哲学的思考が不可欠なのに、安易に「決断」を口にする政治家が多い。こうした風潮に著者は憤慨しているが、評者も同感である。今の政治家の決断の背後にあるのは、シュミットの思索とは似て非なるものだからである。
     ◇
 作品社・2100円/なかまさ・まさき 63年生まれ。金沢大学教授。『今こそルソーを読み直す』など。
    --「書評:カール・シュミット入門講義 [著]仲正昌樹 [評者]水野和夫」、『朝日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013041400006.html

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語る対象が最初からあるのではなくて、大勢の人がある現象に注目して、それについて語るようになる


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 一般論として、学が産に協力すること事態は頭から断罪はできない。世の中の財を産がつくっている以上、そこに学が貢献することは、巨視的には公共のためになるはずなのである。ただ、問題は貢献の仕方なのだ。私企業の短期的利益のためだけに、大学の教育研究のエネルギーが使い果たされては困るのである。公的教育機関である大学を、手軽なアウトソーシング先にしてよいはずはない。
基礎的な知をになう役割をもつ大学において、とくに大切なのは、学問の独立性であり自律性ーである。だから学が産や官と連携する際には、まず原則やルールをきちんと定める必要がある。しかし現状はそうなっているだろうか。
    --西垣通『集合知とは何か -ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、2013年、13-14頁。

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水曜から千葉で担当する倫理学の講座もいよいよ本格的な授業開始となりました。初等教育に「特化」していることもあってか、かなりのスキル系優位のカリキュラムにならざるを得ないのですが、一般教養としての「倫理学」に関しては、何を教えてもらうというスタイルよりも、共に討議するなかで、自分自身でつかみ取ることが大切なのではないかと教養教育に関しては考えておりますので、先ずは、「なんで学問と向き合うことが敢えて必要なのか」というところから始めるようにしております。

そこで孔子の『論語』の冒頭より「学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや。 朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。 人知らずして愠みず、亦君子ならずや。」(学而第一)から、学ぶ意義を確認します。つまり人間が何かを学ぶということは、何らかの目的-手段の連鎖においてそれと向き合うというよりも、学ぶことによって、それを自らの生きるエネルギーに転換していくことが重要になってくるのではないか、という話です。

そして、和辻哲郎の『倫理学』より

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総じて学問すなわち「問うこと」がすでに人間の存在に属することである。元来「学」とは「まねぶこと」「模倣すること」を意味した。すなわちすでに為し得る他の人についてその仕方を習得することである。それは第一に作用、行為であってノエーマ的な知識ではない。第二にそれは他の人との間に行われるのであって孤立人の観照ではない。学が特に知識に関する場合でも、すでにできあがった知識を単に受け取って覚え込むのは学ぶことではない。学ぶのは考え方を習得して自ら考え得るに至ることである。だからこの際ノエーマ的契機を抜き去ってノエーシス的契機にのみ即するならば、学とは人と人との間の局面的面受の関係であるとも言い得られる。同様にまた「問う」とは訪(とぶら)いたずねることである。人を訪ねる、人を訪(と)う、というごとき好意的連関において、その人に安否を問うというごときことが行われる。安否を問うのはその人の存在の有りさまを問うのであり、したがってその人を問うことにほかならぬ、このような間柄の表現が問いの根源的意味である。

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「学問」という言葉の語義(問い・学ぶ)から、「すでにできあがった知識を単に受け取って覚え込むのは学ぶことではない」と指摘し、これまでの「学習観」を破壊するようにしておりますが、ちょと難しい話をしたかなと思いきや、反応を見るとわりと好評でホッとした次第です。

さて、講義後、大学の図書館へ本を返却にいくと司書さんと話しをしていた受講生とばったり。ちょうど授業で紹介した本の返却だったので、「さっきの本はこれですよ」とカウンターで返却して書架へ。

帰り際、司書さんから「彼女、先生の紹介された本を借りていましたよ」と声をかけて頂きましたが、こういうのは嬉しいですね。

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 では、「女ことばイデオロギー」(「女ことば」という規範・知識・価値の体系)は、どのように成立したのでしょうか。女ことばがはなしてきた言葉づかいから生まれたのでないのならば、何によって形成されてきたのでしょうか。実は、その答えは、四つの問題点を指摘したこれまでの議論の中にあります。
 まず、規範としての女ことばですが、私たちはマナー本が女性の話し方の規範にかかわりがあることを確認しました。次に、知識としての女ことばにも、フィクションの登場人物が使う言葉づかいが影響を与えてきたことをみました。最後に、価値としての女ことばにも、新聞投書の影響が大きいことを指摘しました。本書では、これらのマナー本、フィクションの会話、新聞投書などを「言説」という概念でとらえ、女ことばは、言説によってつくられてきたと考えます。
 では、言説とは何でしょうか。フーコーは、言説とは「言語によって語られる諸対象を体系的に形成する実践である」と指摘しています(『知の考古学』)。
 「言説」とは、話し言葉でも書き言葉でも「何々は、○○である」と語る言葉のかたまりです。フーコーはことばに注目して、私たちが何らかの知識や概念を持っているのは、人々がそれについて「ことばで」語ってきたからだと考えました。語る対象が最初からあるのではなくて、大勢の人がある現象に注目して、それについて語るようになる。すると、それの語る行為が、その現象を社会的に意味のある対象にしてきたと考えたのです。
    --中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書、2012年、21-22頁。

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覚え書:「書評:知られざる日露の二百年 アレクセイ・A・キリチェンコ著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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知られざる日露の二百年 アレクセイ・A・キリチェンコ 著

2013年4月14日

◆元諜報員が提示する歴史
[評者] 佐々木 洋 札幌学院大名誉教授。共著に『スターリンと日本』など。
 本書は、旧ソ連の「沈黙の壁」に風穴を開け、シベリア抑留や北方領土占領に関し「非はわがソ連にあり」と主張した元KGB大佐の初の単行本である。機密が解かれた公文書に基づく言説は注目を浴びた。東北大学の研究機関から出た四万名の『シベリア抑留死亡者名簿』も著者の編集になる。
 まずは二百年前のレザノフ使節団の失敗と蝦夷地などへの侵害が日本人の脳裏に対ロ疑惑を刻んだ歴史から説きおこす。日本の北樺太撤兵から赤軍の満州進攻までを戦争瀬戸際期と著者は観(み)る。ソ連は東京裁判で日本の系統的な侵略を断罪したが、「田中上奏文」は偽物で、張鼓峰事件もノモンハン事件も偶発的な国境紛争にすぎず、日本軍は中国戦線が泥沼化して、ソ連に大規模に進攻する余地がなかったと言う。
 この分野には故スラヴィンスキーの好著があるが、スターリンによるブリュッヘル元帥ら「極東閥」を含む大粛清と日ソ関係との関連に未解明の難問が多い。なぜかリュシコフ大将の日本亡命の時期を一カ月誤認しているが、熱戦と冷戦の極東史解明に関わるこの分野で、著者キリチェンコがロシア側の研究の鍵を握るのは間違いない。
 さらにミズーリ艦上での降伏調印式以後にも赤軍が歯舞諸島の「解放」戦争を続けた歴史を提示する。その一方で、北方領土返還に四島周辺漁民が反対し、ロシア人密漁者が国境警備機関を買収する現実があり、日本国民は冷淡だとする現状認識を突きつける。
 読者の多くが初めて知ると思われるのが、スターリンの厳命でソ連諜報(ちょうほう)員二人が終戦直後の八月十六・十七の両日、広島と長崎の原爆現地踏査に入った逸話であろう。二人とも被爆(ひばく)して一人が助かった。その教訓は今なおロシアの原潜等で生かされているという。
 訳文は滑らかで読みやすいが、外交用語や軍事用語などについて、より適切を期すべき箇所がある。
Алексей А КИРИЧЕНКО 1936年生まれ。露日関係史研究者。共著に『ソ日戦争』。
(川村秀編、名越陽子訳、現代思潮新社・2940円)
◆もう1冊
 W・モロジャコフ著『後藤新平と日露関係史』(木村汎訳・藤原書店)。満鉄総裁など日露関係の最前線にいた政治家の役割を考察。
    --「書評:知られざる日露の二百年 アレクセイ・A・キリチェンコ著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013041402000185.html


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知られざる日露の二百年
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書評:長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年。


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 「聖書に書かれていることって本当に起こったことだろうか?」
 「歴史的に証明されているのか?」
 「考古学はそれを裏づけしているのか?」
 本書ではこうした疑問に対して、最新の歴史研究の成果と考古学的調査の成果を使ってできるかぎり答えていく。途中からは聖書の中に描かれているいくつかの具体的な事件を取り上げて、その史実性について、現段階で言えることを論じる。
 著者はキリスト教、あるいは他のいかなる宗教に対しても中立的な立場からこの本を書いたつもりである。そして本書が、聖書にまだ触れたことのない人にとっては聖書への興味を増すきっかけに、信仰をもっている人にとっては聖書に対するより深い洞察へといたるきっかけになることを願っている。
 ただし、聖書に信仰を置いている人には、ここから先を読むにあたり、一度頭を柔らかくしていただきたい。なぜなら最初に言っておくが、この本は聖書の物語に書かれたいくつかの出来事の史実性を否定するからである。そういった本なら読むのをやめよう、と思うなら、残念だが、ここで本を閉じていただく方がいいかもしれない。著者個人としては、本書に書いた事柄は本当に信仰を強めこそすれ、弱めることはない、と信じているが、著者の講義を聞いたクリスチャンの中には「背教的」という感想を寄せた人もいる。しかし、本書では今日の学界で主流となっている意見を中心に紹介し、そうでない場合でも少なからぬ研究者が認めていることを述べているつもりである。仮にそれが信仰と相反すると感じるならば、この本はその人に向いていないのだ。だが、考えてほしい。今日の学問的研究の成果を知らないままで、「聖書に書かれたことは歴史的にもすべて真実」と信じることが、本当の信仰だろうか。真の信仰は必ずしも科学による証明を必要としない。
    --長谷川修一「まえがき」、『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年、ii-iii頁。

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人部科学は文献精査が基本となるが自ずから限界がある。本書は、現地調査に従事する研究者の手による考古学的知見と旧約聖書の記述内容を照らし合わせる一冊。「その時、何が起きたのか」。

信仰の有無を問わず知見を深めるきっかけになる一冊である。

聖書の記述はそのままの形で受け入れがたいものが多い。著者は遺構調査から、記述と歴史の実際の描き出す。アブラハムは実在したか、イスラエルはカナンを征服したか等々……。加えて、エピソードのみならず聖書学・考古学・古代近東学に目配りをきかせた一冊である。

まえがきが素晴らしい。「本書に書いた事柄は本当の信仰を強めこそすれ、弱めることはない」。聖典の記述が荒唐無稽だから信じずるに足らずというのはナンセンスである。しかし同時に、著者の挑戦を「背教的」と断ずるのも勇み足であろう。加えて、記述が「歴史的にもすべて真実」が果たして本当の信仰だろうか。

「今後の考古学発展のためにも、古代イスラエル史研究の発展のためにも、そして聖書記述のより一層深い理解のためにも、中東に平和が訪れることを願ってやまない」。

(以下は蛇足)

しかし、さきの『聖書考古学』のような矜持というのは大事だとは思います。記述が歴史的実在という意義で???だから信じるに足らずと退ける悪しきプラグマティズム・近代主義もどうかと思いますが、捨閉閣抛して引きこもるっていうのもどうかという話です。もちろん、どの宗教でも同じ話ですけどね。

個人的には、大学入学の際、歴史学を選択するか(そして、その選択肢の選択肢の一つとして考古学を選択するか)で悩んだことがありましたので、刺激に満ちた一冊ではありました。ま、今は、流れ流れて日本基督教思想史という誰もが省みない分野だけど、まあ、それはそれでよし。

「信じること」に対しては二つの脊髄反射のアプローチがあると思う。ひとつは近現代に特色的な現象である「それ、科学的やないけ」という表層批判(もちろん、トンデモがいい訳ではない)。もう一つはそれと一つものの裏と表といってよいファンダメンタルな態度。この両者が「信仰」を毀損するなあと。

そういうものを踏まえた上で、どう自身の信仰を深めていくか。そして人間社会に住まう一員としての共通了解とか公共世界で生きていくという接点も忘れずに、どう振る舞っていくのか。この両方が、多分、大切なような気がします。高等批評で「転ぶ」のもどうかだけど、先の通り耳をふさぐのもどうかとね

なので、まったく異なる信念体系としての基督教を日本人がどのように理解したのかは大事なテーマだと思うし、それは着目点をかえてみるならば、仏教を受容したアフリカの人々にとってそれは何か……なんていうのも後日の課題としてみると面白いと思う。手前味噌ですいませんが。

だから、その意味では、信仰か、学知かという、そもそもの「設定」そのものがナンセンスなのだとは思う。こういう枠組みってホント、誰が設定したンだろうね。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2013/02/102205.html


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覚え書:「書評:明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田詠美著」、『東京新聞』2013年04月14日(日)付。


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【書評】

明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田 詠美 著

2013年4月14日

◆喪失を抱いて生きる家族
[評者] 伊藤 氏貴  文芸評論家。著書『告白の文学』『奇跡の教室』など。
 夫に去られ少年と少女を抱えた女と、妻に先立たれ幼い少年を抱えた男が再婚し、そこに新たな女の子が生まれる。想像するだに困難なこの新しい家庭の問題はしかし、家族同士の軋轢(あつれき)ではなかった。むしろ驚くべきほど互いを思いやるなかで、自分の実子である長男の夭逝(ようせい)によって女の心に空いた穴から全員の苦しみが始まった。他の成員たちにとっても悲しい経験ではあったが、母たる女の喪失感は全くレベルが違った。女は生きる意味をさえ見失った。アルコールに溺れた。そしてそのことはつまり、家族の他の者たち全てにとって、自分が死んだ長男ほどには女から愛されてはいなかったのだという事実を突きつけるものだった。
 あまりに辛い現実ではある。特に子どもたちにとって。長男を別格に扱う「家」の時代は過ぎ、公平を建前とする「家族」の時代に、親が子どもたちに注ぐ愛情に格差が存在しようとは。
 母に悪気は全くない。しかしそれでも、親も人間であり、子も人間であるかぎり、好みや相性というものは厳として存在してしまうのだ。いかに辛くともその現実を受けいれ、あるいはいなすことによって、子どもたちは生きる力を養う。自分も辛いが、アルコールに浸らねば生きていけない母の方がもっと大きな喪失を抱いているのだ。「人を賢くするのって、絶対に人生経験の数なんかじゃないと思う。それは、他人ごとをいかに自分ごととして置き換えられるかどうか」だという一種の悟りは、母の辛さを共に分かち持とうとすることにより得られる。
 「家」だろうが「家族」だろうが、あるいはこの後に来る新たな関係だろうが、他人と共棲(きょうせい)するにはこうした悟りを実践することが必要だ。タイトルのように、死を想(おも)うこととは、自分にとっての自己の消滅だけでなく、他者にとっての自己、自己にとっての他者の消滅を考えることでもあり、それが真に「人を賢く」するのだろう。
やまだ・えいみ 1959年生まれ。作家。著書『風味絶佳』『ジェントルマン』など。
(幻冬舎・1470円)
◆もう1冊
 山田詠美著『ベッドタイムアイズ』(河出文庫)。日本人の少女の「私」と黒人米兵の恋と別れを新鮮な感覚で描いたデビュー作。
    --「書評:明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち 山田詠美著」、『東京新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013041402000186.html


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覚え書:「書評:閉経記 伊藤比呂美著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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閉経記 伊藤 比呂美 著

2013年4月14日

◆体の衰えを面白がる
[評者] 井坂 洋子 詩人。著書『嵐の前』『はじめの穴 終わりの口』など。
 ぶっちゃけトークはとてもむずかしい。まず度胸がいる、技術もいる。相手を敵に回さない自信がある。伊藤比呂美は宝塚風にいえば、我ら“現代詩組”のトップスターだが、組を卒業して広い世界へ飛び立った。残された者はさみしいような誇らしいような気持ちだ。
 ぶっちゃけトークなのに俗っぽくなく品性を感じさせるのは、肩書とか学歴とか略歴に記されるようなハードな部分ではなく、いちずに人間性に由来する。文中に「独学とは、なんとアナーキーなことであることか」という一文があったが、好きなように生きてきたというだけではない。生きることを修整しながら考え考えやってきたという感じがする。
 「シャイ」な自分が、「ぱかんと自分をあけっぴろげられるように」なった。そうしたら世界が広がったという、その秘密というか秘策がここにある。
 熊本の両親をみとり、自分が巣作りしたカリフォルニアの家も娘たちが次々に独立して、年の離れた夫と残され、やがて一人になるだろう予感がある。誰もが味わう無常と老いる肉体に目をこらすが、それが“新鮮で面白い”という。
 「漢」と書いておんなとルビをふり同胞たちに語りかけるこのエッセイ集は、フェミニズムということばの観念や知的装いをくだき、実質を見せつけている。
いとう・ひろみ 詩人・小説家。著書『河原荒草』『ラニーニャ』『女の絶望』など。
(中央公論新社・1470円)
◆もう1冊
 平田俊子著『きのうの雫』(平凡社)。詩人兼小説家のエッセー集。記憶の中の情景を繊細かつユーモラスにつづる。
    --「書評:閉経記 伊藤比呂美著」、『東京新聞』2013年4月14日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013041402000183.html


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覚え書:「みんなの広場 『核発電』と呼び変えよう」、『毎日新聞』2013年04月13日(日)付。

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みんなの広場
「核発電」と呼び変えよう
中学校教員 59(大阪府茨木市)

 物の名前は、その性質や本性が明確になるものがいい。「原子力発電」という名称も、その性質がより分かる「核発電」とすべきではないだろうか。
 原発も核兵器も核物質、核分裂を利用する点で共通しており、核兵器を最初に製造した米国など英語ではどちらも「nuclear(核)」を用いる。それが日本ではなぜか、一方が核兵器で、他方は原子力と異なっている。最初に正しく和訳されていれば、原発について私たちはもっと敏感になり、原発事故やそれに伴う放射能の危険性を真剣に受け止めていたと思う。
 日本人が外国の文化、文明の吸収に努めた明治初期、福沢諭吉がスピーチを訳したといわれる「演説」などすぐれた訳語が生まれ、今もよく使われている。次代を担う子供たちのためにも、今後は「核発電」という言葉を使っていくことが適切だと思う。特にマスコミに要請したい。
    --「みんなの広場 『核発電』と呼び変えよう」、『毎日新聞』2013年04月13日(日)付。
 
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覚え書:「今週の本棚:高樹のぶ子・評 『神隠し』=長野慶太・著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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今週の本棚:高樹のぶ子・評 『神隠し』=長野慶太・著
毎日新聞 2013年04月14日 東京朝刊


 (日本経済新聞出版社・1575円)

 ◇謎を超えて人間存在に迫る“本末転倒”の魅力

 小説の最初に置かれた謎が、最後には解かれなくてはならないのがミステリーの掟(おきて)だとすれば、この掟は作品の自由を制限するのだろうか。

 掟があるからこそ、この器に様々なテーマを盛り込むことが出来るのだとも言える。

 自由律の詩より俳句や短歌の方が、貪欲放恣(ほうし)に感性を踊らせることができて、しかも読者にすれば音律の快があるので読みやすいという事実を、ミステリーに援用するのはいささか強引であるにしても。

 謎は心の平安を乱し、読者はどうにかして解答を得ようとする。暗闇の中に置かれれば、出口を探し求めるのが人間の本能。この本能を利用してミステリーは成立していることを認めなくてはならない。

 謎は解かれなくてはならないが、解かれる謎には様々なレベルがある。

 殺人事件が起き犯人が判明すれば、それですべて解決される少年探偵団的小説から、事件が起きる背景をえぐり、社会や時代のテーマを炙(あぶ)り出す作品、はたまた人間心理に巣喰(すく)う狂気にまで手をのばしたりと、層も深さも様々あるけれど、エンターテインメントでは謎が謎のまま残されることは許されず、最後まで読み進めて来た読者に何らかのカタルシスを与えなくてはならない。

 となると、そのカタルシスの質と余韻の強さで、作品の力が問われることになる。

 セキュリティ・チェックがもっとも厳しい空港のセキュリティ・チェックポイント内で、子供が消えた。あり得ない事件を最初に置いて、その謎を解いていき、読者を見事に得心させるのが本作だ。エンターテインメントとしての要件を十分に満たしている。

 この謎解きの筋道は、何が何でも通さなくてはならないのだが、それだけでは読後のカタルシスと余韻は小さくなる。ああそう来ましたか、でおしまい。

 カタルシスの質と余韻を大きくするのは、実は表向きの筋道ではない。骨組みではなく血管や筋肉あるいは細胞という、入り組んで絡み合う他の要素だ。人体に譬(たと)えるのが相応(ふさわ)しいほど、あやふやで曖昧、割り切れない人間性、つまり合理的な筋道に反するものによって、カタルシスと余韻が与えられるのである。

 論理的で整合性のある骨組みと、論理や整合性では扱えない人間存在の実態を、どう組み合わせ調和させるかがミステリーの要諦だとすれば、筋道を辿(たど)ることで、やがて深々とした人間の実情に導く本作は、ミステリーの王道を行く成功例と言える。

 空港のセキュリティを通過した「密室」で子供が消えたという謎は、空港という特殊な場所の盲点だけでなく、国際間の法的なシステムの違いなどを一つ一つ解きほぐすことで明かされていくのだが、その謎が解かれたあとにも、処理できない親子や夫婦の情が残される。

 ミステリーとしての表側の筋道骨格が最終決着を見たあたりで、突然吹き上がり横溢(おういつ)し、胸に広がる切ない読後感は、必死で辿ってきたはずの理路を消し去り、さほど大事なことでもなかったのではと思わせてしまう、つまりは本末転倒。

 ミステリーを読む愉(たの)しみは何か、と自問すればまずは謎解きの筋道を追うことだろう。しかし筋道などは頭脳と取材で数理的に作りあげることも出来るのだ。頭脳と取材で作れないものこそ、実はこのジャンルを支えているのだと、あらためて自己矛盾に気付かせてくれるのもミステリーの魅力である。
    --「今週の本棚:高樹のぶ子・評 『神隠し』=長野慶太・著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130414ddm015070027000c.html

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覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『無地のネクタイ』=丸谷才一・著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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今週の本棚:湯川豊・評 『無地のネクタイ』=丸谷才一・著
毎日新聞 2013年04月14日 東京朝刊


 (岩波書店・1470円)

 ◇名人芸をたっぷり味わう最後の軽エッセイ集

 丸谷さんがいちばん最後まで連載をつづけた(「図書」)、短いエッセイをまとめた本である。全集をはじめこれからも丸谷さんの本は編まれていくだろうが、これは最後の本の一つということになる。そして軽妙なエッセイの名人芸をここでもたっぷりと味わうことができた。

 一編は雑誌の見開き二ページほどで、ごく短い。そのせいもあるのだろうか、私が「お楽しみエッセイ」と呼んでいた丸谷さんの文章のなかでは、わりに単刀直入という感じの発言が多い。そこが、この本の第一の特徴といえそうだ。たとえば、将棋の升田幸三の発言にからめた文章論。

 「ぼくは、いくら名文を書いたといっても、読んでツヤのない文、楽しみのない文を書いてもしかたがないと思う」(升田幸三『勝負』)

 という升田の発言を、丸谷さんは文学の局外者による卓抜な文章論とし、現代の文芸評論に責任がないか、と言葉を継ぐ。文芸評論は「思想と観念を重んじるあまり美を軽んじた」、そして大切な文章の巧拙を無視した、とズバリ直言する。

 この短文集の第二の特徴は、すべてが何らかの意味で文明のあり方の考察であることだ。発表の場所が「図書」であるのが、意識されてもいるのだろう。文明のよき方向への発展を願う、丸谷さんのいつもの姿勢がくっきりと出ている。

 たとえば、しっかりした引用句辞典が欲しいと語る「ほしい辞書」。「暮春には春服既に成り……(中略)わたしの憧れる生き方である」という文章に出会って、その出典を「春服」を手がかりに調べたくなるではないか。それに対応する引用句辞典がわが国でとぼしいのは、明治以後の近代化を乗り切るために、古人の名文句や名台詞(せりふ)という積荷をあえて捨ててしまったからだ、と急所をつく発言。

 その上で、日本人は最近になって引用句のとぼしい文化の寂しさに気づいたようだ、と指摘する。齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』が人気を博したのは朗読のすすめという性格もあるけれど、より根本的には、過去と断ち切れて薄れてしまった日本語の生命力を、古典からの輸血によって取り戻したい気持のあらわれであるという。

 引用句辞典という、丸谷さん得意のフィールドで話をすすめながら、ふっと飛躍して文明のあり方に及ぶ。丸谷さんだけに可能、といいたくなるような説得力がある。

 もう一つこのエッセイ集に際立つ点を挙げるとすれば、時事的な話題をごく自然にとりあげていることだ。とりあげながら、不要に暑苦しくなりすぎないのが、いかにも丸谷さんらしい。

 たとえば、日本人が世界でもとび抜けて死刑肯定の気分が高いのはなぜか、という考察。古代からの「御霊(ごりょう)信仰」に結びつけて考えをすすめる姿勢はきわめて柔軟で深い。

 また、3・11東日本大震災にも、ふれている。雑誌「東京人」の地震特集をほめながら、東京に巨大地震が起きたとき、千代田区の避難所が考えられていないのが不思議で、皇居を開放するべきだと発言する。原発問題では、伊東光晴氏の論文をなぞるように紹介しながら、はっきりと脱原発に向かうべきだと、その可能性の根拠まで探りながら主張している。

 硬い話ばかりの紹介になったが、ついニヤリとする文章にもむろん事欠かない。「パーティといふ祭」では、五十代以上の女性は威勢のいい色づかいの服で参加してください、と勧めている。何やら最後まで色っぽいことを考えつづけた丸谷さんを思い、楽しくなり、そして寂しくなる。
    --「今週の本棚:湯川豊・評 『無地のネクタイ』=丸谷才一・著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130414ddm015070024000c.html


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丸谷 才一
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書評:ピョートル・クロポトキン(大窪一志訳)『相互扶助再論 支え合う生命・助け合う社会』同時代社、2012年。


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 近頃では、理想などというと嘲笑われるだけだ、とよくいわれる。そして、なぜそうなのかは、たやすくわかる。理想ということばが、純情な人たちをだますのに使われてばかりきたからだ。だから、こういった反撥が起こるのは当然だし、健全だとさえいえる。われわれにしても、これだけ手垢にまみれ汚されてきたことばだから、新しい観念にふさわしい別の新しいことばに置き換えたい気持ちだ。だが、ことばはどうであろうが、事実は同じである。すべての人間が自分の理想をもっている。ビスマルクだって、やはり--変な理想ではあったが--「血と鉄」に象徴される統治機構という窮極目的をもっていた。どんな俗物でも、いかに低いものであっても、自分なりの理想をもっているのだ。
 しかし、こうした人たちとは別として、より気高い理想を胸に抱いた人間がいるのである。獣のような生活なんて、とても我慢できない。隷従、虚言、背信、陰謀、対等ならざる人間関係、そういう生活を考えると嫌悪でいっぱいになる。それでは、その代わりに、自分が隷従し、嘘つきになり、陰謀家になり、他人の支配者になることができるのか。できはしない。よりよい関係が人々の間にできてさえいれば、どんなに好ましい生活が送れるか、すでにかいま見てきているのだ。そして、自分が進んでいく道のなかで出合う人々といっしょになって、そうした関係を実現する力が、自分自身のなかに潜んでいるのを感じているのだ。つまり、理想と呼ばれるものを胸に抱いているのである。
    --ピョートル・クロポトキン(大窪一志訳)『相互扶助再論 支え合う生命・助け合う社会』同時代社、2012年、239-240頁。

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クロポトキン(大窪一志訳)『相互扶助再論』同時代社、読了。主著『相互扶助論』を深化・発展させた論考「いま求められている倫理」「自然の道徳」の初訳、「進化論と相互扶助」「アナキズムの道義」の新訳を収録。本書は副題の通り「支え合う生命・助け合う社会」へ向けての青写真といえよう。

相互扶助とは人間社会におけるモラルの根本であるが、クロパトキンは、それを生物の生命活動の機制自体と考えたが、人間社会と同じように動物社会にも相互扶助があるのではなく、動物世界のそれに起源があると見る。相互扶助再生のヒントはここにある。


クロパトキンの人間観・生物観は、伝統的西洋近代のそれを打破するものだが、連続だけでなく断絶も認める。それが本能と意識との相違である(ここに人間の自由の原点が存在する)。ただ、本能と意識に関しても連続性を認めるから相関的といえよう。

マルクス主義に顕著に見られる機械論、還元主義、歪な因果論は一切見られない(勿論、それが「空想的」と揶揄」されるが)。しかし、クロポトキンの言説は空想的どころか、イデオロギーと訣別した生き生きとした等身大の人間の思考を認めることができるのに驚く。

「強くあれ。情と知のエネルギーをみなぎらせ、あふれされよ。そうして、君の知を、君の愛を、君の行動エネルギーをみなぎらせ、あふれさせよ。そうして、君の知を、君の愛を、君の行動のエネルギーを、広く、他者へ向かって拡張せよ!」、『アナキズムの道義』。

人間からかけ離れそれを利用する言説は全て幻像である。抽象的立場を取り下げ、自分を自分として生きていくこと。要はここであろう。所謂「爆発しろ」とは無縁である。同時代社からは大杉栄訳『相互扶助論』が刊行されており、併せて読みたい。了。

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覚え書:「書評:『労働組合運動とはなにか』 熊沢誠著 評・開沼博」、『読売新聞』2013年03月31日(日)付。

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『労働組合運動とはなにか』 熊沢誠著

評・開沼 博(社会学者・福島大特任研究員)
自立を求める営み


 私たち「おじさん」は、ウザイと煙たがられても、労働組合の必要性を説き続けなければなりません――。

 そんな若者・女性への思いを「主題の前置き」としつつも最終章でアツく語る労働研究の大家。「労働組合運動の復権」と題された講義を基に作られた本書は労働組合運動の歴史と現在の全体図を与えてくれる。

 地味な労役を担う大多数のノンエリート。彼ら/彼女らが労働における不当な支配や操作からの自立を求める営みが労働組合運動だという。

 その初期に位置づけられるのは19世紀半ば英国で生まれた職種別組合。熟練工たちによる労組は、企業に呑のませる「標準賃金」や失業・死亡保険制度を整えた。19世紀末には、特定の技能をもたない港湾労働者の間で「誰でも入れる」一般労組が広まり最低保証賃金や就労斡旋あっせんも制度化される。だが、労組の発展はそれへの弾圧も強化。労組専門の探偵や「警備」会社が社会主義の根と共に労組運動を潰していきもする。

 日本における労組運動も明治30(1897)年代から始まるが、会社への団体交渉やストライキはおろか、組織化自体なかなか許されない。許されたのはその後も日本に根づくことになる「縦の組合」=企業内組合。各企業の労組運動に部外者が介入しないからだ。大正期や戦後初期には激しい争議も起こったが、企業内組合の中で年功制度や労使協調が生まれていく。そして「新自由主義的改革」の中、労組組織率は下がり、駆け込み寺としての期待も失われていく。

 「ストなし万歳」の現代。格差社会の中で生まれた「しんどい思いを抱える人々」は労組運動より「(鉢巻に組合旗みたいな“いかにもな運動”には引いてしまう)普通の市民」による脱原発運動や「(とにかく左翼っぽいものを嫌う)愛国者」たちの排外主義運動に向かっているようにも見える。労組運動の再生に健全なセーフティーネットと中間団体の回復の可能性を見出みいだす著者の主張を読み直す意義は小さくない。

 ◇くまざわ・まこと=1938年生まれ。甲南大名誉教授。専門は労使関係論。著書に『働きすぎに斃れて』など。

 岩波書店 2100円
    --「書評:『労働組合運動とはなにか』 熊沢誠著 評・開沼博」、『読売新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130402-OYT8T01039.html

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労働組合運動とはなにか――絆のある働き方をもとめて
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覚え書:「今週の本棚:加藤陽子・評 『ユーロ消滅?』=ウルリッヒ・ベック著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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今週の本棚:加藤陽子・評 『ユーロ消滅?』=ウルリッヒ・ベック著
毎日新聞 2013年04月14日 東京朝刊


 (岩波書店・1575円)

 ◇“現代のリスク”とどう向き合うか

 四年前のギリシアの財政危機に端を発したユーロ危機。重い内容を書いているはずなのに、わくわくしながら読み進められる本だ。作家の山田詠美氏がどこかで述べていた。ページをめくらせるのがエンターテイメント。ページを読む手を止めて考えさせるのが純文学。その伝でいえば本書はリスク社会論のエンターテイメントといえる。

 読者に読む快楽を与えてくれる理由の一つが、達意の訳者・島村賢一氏の技に負っているのは間違いないところだろう。いま一つは、著者が、一見異なった事象の背後に潜む構造上の共通性を読み手に示してみせたからだろう。一過性の知的興奮が持続的な理解へと高められたとき、ひとは愉(たの)しいと感ずるものだ。さらなる愉悦は、ミュンヘン大学で社会学を講じ、チェルノブイリや福島の過酷災害について時宜に適した発言をおこなってきた著者が、「制御が利かなくなった近代というもの」について腰を据えて論じ、なおかつ、希望のもてる未来のシナリオを指し示してくれたことから生まれる。成熟した大人の専門家が絶望していないとき、ひとは安心してまどろめる。

 近代とは何かを考えてきた学問の方法に社会学がある。評者が専門とする歴史学などは、何をもって近代の画期とするかを考え、共同体の解体、身分制の解体、市場を軸とした再生産などを、その答えとしてきた。リスク社会学が対象とする時代は、人間社会の成熟とともに著しい進歩をとげた経済=技術活動によって、地球上のすべての人々にとって安全地帯といえる場所がなくなった現代である。

 普通の人々にとって、その複雑な稼働システムなど知るよしもない原発は、爆発しないとは言い切れない。金融工学によって精緻化された金融市場も、いつ暴落するかわからない。このように、仮定としてのカタストロフィを予期しつつ生きねばならぬ時代が現代社会にほかならない。

 テロや環境危機(原発事故を含む)などの現代のリスクは、ある意味ですべての人々を公平にグローバルにのみこむ。そのようなとき、従来型の国民国家単位での政治によって国家が地球規模のリスクを回避することはできない。国内政治/国際政治という区分けが無意味となる社会となってしまえば、人々は不断に「自分の生活と、世界の他の地域における他者の生活との不愉快な関係」を日々体験せざるをえなくなる。ここに、ベックが新たな責任の共同体の可能性をみる根拠がある。

 たしかにユーロ危機は、ギリシアの経済的運命がドイツ連邦議会の決定に左右されてよいのかといった、民主制の根幹にかかわる深刻な問題を欧州全体につきつけた。一方、スペインなどの南欧諸国が抱くドイツ像は、「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」手前勝手な国、というものだろう。対立は根深い。

 ただ、カタストロフィの予期が、公衆に共有されるようになれば、変化は案外早いのかも知れない。各国憲法の保障する議会の予算議決権や国家による銀行への監督権そのものが、何らかの欧州連合機関に移譲されるところまで行くのは困難にしても。ベックは明るい未来像をヘーゲル的シナリオと名づけた。

 だが、反対に転ぶ可能性も捨てきれない。カール・シュミット的シナリオと名づけられたそれは、リスクの脅威が全権委任による政治的怪物を生み出す未来像となっている。ドイツが負わされた歴史的な責務は今回も重い。(島村賢一訳)
    --「今週の本棚:加藤陽子・評 『ユーロ消滅?』=ウルリッヒ・ベック著」、『毎日新聞』2013年04月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130414ddm015070030000c.html

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ユーロ消滅?――ドイツ化するヨーロッパへの警告
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「国家のために死んだ人間には枚挙の暇がないけれど、人間のために滅んだ国家はひとつもない」。

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 まだ五歳未満でしたが、大人から「日本の兵隊さんは、天皇陛下万歳と言って死ぬのだよ」と、よく聞かされていました。しかし病院では、いつも瀕死の状態でうなされている負傷兵がいましたが、誰も「天皇陛下万歳」などとは言いません。なにか、口からうめくように言葉をもらす人がいましたが、それは「お母さん」という声でした。子ども心にも「天皇陛下万歳と叫んで死ぬ」というのは嘘ではないか、という不信感が生まれました。これも、負傷兵たちを見て受けた衝撃でした。国が嘘をつくという疑いをもった、初めての経験です。それ以来、私の心には、国家に対する不信感が根づいたと言っていいのです。大げさな言葉で言えば、「国家権力の脱神話化」の初体験であり、その後の私に大きな影響を与えました。
    --坂本義和『人間と国家(上) ある政治学徒の回想』岩波新書、2011年、23頁。

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「地球的な諸問題と取り組まなければならない現代に生きる人間は、国家との関係において、自分のアイデンティティをどのように感じ、考えていくべきなのでしょうか」。

確かに、人間の社会の秩序やルールを維持することに国家の役割は存在します。しかし、それは国家「だけ」によって維持されているものでもありません。

「国家権力の脱神話化」を終生の課題とされた国際政治学者の坂本義和先生は、1927年にアメリカで生まれ、ほどなく上海に移り、およそ10年間をその地で過ごされました。

その折り、第一次上海事変が勃発します。坂本先生一家は日本に引き揚げる予定でしたが、ちょうど麻疹にかかってしまい、留まることになってしまいます。

家で安静にしてはいたものの、病院に通わなければならないので、戦火をくぐって通院されたそうですが、そのときの思い出が冒頭の一節です。

病院は負傷兵で溢れ、悲鳴の合間に聞こえてくるのは「天皇陛下万歳」ではなかったという。

このところ、国家によって全てを管理していこうとする風潮に安易にのっかかろうとする軽挙妄動が多い気がしますが、その結末が何を意味するのかは、歴史から学んでおくことが必要でしょう。

私はよく学生にも言いますが、「国家のために死んだ人間には枚挙の暇がないけれど、人間のために滅んだ国家はひとつもない」ですよ。


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人間と国家――ある政治学徒の回想(上) (岩波新書)
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覚え書:「書評:昭和の洋食 平成のカフェ飯 阿古真理著」、『東京新聞』2013年4月7日(日)付。

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昭和の洋食 平成のカフェ飯 阿古 真理 著

2013年4月7日

◆料理と女性の変容捉える
[評者] 原田 信男  国士舘大教授。著書『江戸の料理史』『歴史の中の米と肉』。
 私たちが生きていくために不可欠な食は、本来的に個人のものではありえず、所属する集団に支えられてきた。
 人間の生活は実にさまざまな協業によって維持されるが、そのもっとも基本的な単位が家族である。そして食料の確保は男性、料理の提供は女性という家族内分業が永く当然なものとされてきた。しかし複雑で高度な発展を遂げた社会では、この家族のあり方に、さまざまな変容が強いられるようになる。社会的分業の細分化によって、家族単位で営まれてきた食に、大きな変化が生ずるようになった。
 それが昭和という時代に先鋭的に現れ始め、とくに家庭で育まれてきた伝統的な料理に、洋食という異なる食文化が入り込んできた。さらに女性の社会進出が進み、食品産業が多様化すると、料理自体が簡便化され、外食・中食が普及して、スタイリッシュなカフェ飯が人気を集めるようになった。
 もちろん、この間の事情は単純ではなく、とくに社会構造の変化に拍車がかかった昭和後期や平成に入ってからは、食の変容が著しく進んだ。
 著者は、その変化を、映画や「金曜日の妻たちへ」のようなテレビ番組、あるいは漫画「花のズボラ飯」や雑誌「すてきな奥さん」などに素材を求めて、ほぼ八十年にわたる家庭料理の変化を、丹念に描き出している。
 それは料理技術の伝承の問題から始まり、出来合いの惣菜(そうざい)やインスタント・レトルト食品の利用、さらには外食からスローフードに至るまで、女性の立場からの実に細やかな視点で、記述が展開される。なかでも興味深く思えたのは、専業主婦の母と自立する娘との対立で、これがあたかも一つの底流するテーマとなっている。
 本書で提示された家庭料理の変容自体も興味深いが、それ以上に面白かったのは、女性と料理の関わりで、むしろ現代女性史としても読まれるべき作品といえよう。
あこ・まり 1968年生まれ。ノンフィクション作家。著書『自由が丘スイーツ物語』など。
(筑摩書房・1785円)
    --「書評:昭和の洋食 平成のカフェ飯 阿古真理著」、『東京新聞』2013年4月7日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013040702000148.html


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昭和の洋食 平成のカフェ飯: 家庭料理の80年
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覚え書:「書評:謎の独立国家ソマリランド 高野秀行著」、『東京新聞』2013年4月7日(日)付。

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謎の独立国家ソマリランド 高野 秀行 著

2013年4月7日

◆戦争止めるシステム
[評者] 桜木 奈央子 フォトグラファー。著書『かぼちゃの下で』など。
 戦争を終わらせることは、とても難しい。政府や国際社会が介入してもうまくいかないことが多いのが現実だ。
 しかし、独自に和平の道を歩んだ国がある。それはアフリカのソマリランド。公式には承認されていないが、事実上「独立国家」として機能している。無政府状態のソマリアの一部でありながら、ソマリランドがどうやって平和を維持しているのか、また「氏族の長老たちが木陰で話し合って戦争を終結させた」のは本当なのか、その「謎」を解く本である。
 取材方法がユニークだ。著者は、現地の嗜好品(しこうひん)である覚醒植物「カート」をソマリ人と一緒に食べ、ともに酔いながら情報を収集。人びとの声に耳を傾け、ソマリの価値観に深く触れていく。
 ソマリ人は元々(もともと)遊牧民である。家畜の略奪など争いごとが頻繁に起こるので、それをやめさせる伝統的な和平システムが既に確立していた。ソマリランドは試行錯誤を重ねながらそのシステムを国家運営まで高め、戦争を終結させたのだ。
 この小さな国はアフリカの、そして世界全体の希望かもしれない。既存の価値観を真似(まね)るのではなく、自分たちのやり方で国を作っている。その「遊牧民的な」国づくりは示唆に富んでいて、創造的だ。アフリカは、新しい生き方のヒントに満ちている。
たかの・ひでゆき 1966年生まれ。ノンフィクション作家。著書『アヘン王国潜入記』など。
 (本の雑誌社・2310円)
◆もう1冊
 瀬谷ルミ子著『職業は武装解除』(朝日新聞出版)。中東やアフリカで武装解除の仕事に携わった著者のエッセー。
    --「書評:謎の独立国家ソマリランド 高野秀行著」、『東京新聞』2013年4月7日(日)付。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013040702000145.html


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「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」から、その馴化の薄皮を剥がしていく「ゆるふわ」な時間について


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起源の捏造・伝統の創造
 なぜ、女ことばの起源についての言説が発生し、このように価値づけされた女房詞や敬語が持ち出されたのでしょうか。それは、女ことばを「日本が古くから保ってきた伝統」と位置づけるためです。「伝統は創り出される」という視点を提案した歴史家のホブズボウムとレンジャーは、「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」と指摘しています(『創られた伝統』)。
 このような操作が行われるのは、近代国家には伝統を創り出す必要があるからです。ひとつの国家という幻想を創り出すためには、ある程度まとまった人数の「国民」が、ある程度まとまった「国土」にいるだけでは十分ではありません。その国民すべてに共有された国民の歴史や国民の伝統を創り出すことが不可欠なのです。「同じ国家の国民」である」という意識を持つためには、同じ歴史を共有し、同じ伝統を守ってきたという幻想が必要なのです。
 「伝統は創り出される」という考え方を取り入れると、女房詞や敬語を女ことばの起源とすることは、「女ことばと過去の連続性を創り出す」行為であることに気づきます。この時点で女ことばは、天皇への敬意に端を発した女たちが守り続けてきた日本の伝統になったのです。
    --中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書、2012年、147-148頁。

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金曜日の哲学の第二講終了。この日から本格的な授業がスタートしました。

授業での反応とリアクションペーパーを読む限り、感触は悪くないといいますか、キャリア教育隆盛の中では、もう学生たちは、自主的に学ぶというよりも、課題の予習と復習でてんやわんや。

考える時間もないというのが実情ではないでしょうか。

その意義では、哲学が息抜きとして機能しているといいますか、「ゆるふわですね」などとコメントも(苦笑

しかし、それはそれで大事なのではないのかと思ったりします。歴史と今生きてる社会との相関関係を断ち切らずに、テクストと向かい合い、自分自身の事柄として考察し、何が正しいのか、自分で考える。そして考えた事柄を友達と話し合って相互訂正していく。

時間の経過としては「ゆるふわ」でしょうが、人間が生きる上では、大切なモメントではないかと思います。

さて……。

通勤時に言語学やジェンダー研究の知見から(国家イデオロギーを担って生き延びた)女ことばの歩みを概観する中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)読んだので、授業で紹介したら早速読んでみますという学生がちらほら。自明という虚偽の認識を新たにするのが「真理の探究」だから、これは嬉しい。


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覚え書:「書評:ステーキを下町で [著]平松洋子 [画]谷口ジロー [評者]保阪正康(ノンフィクション作家) 」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。


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ステーキを下町で [著]平松洋子 [画]谷口ジロー
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載]2013年04月07日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 


■思い出も重ねる「食する旅」

 著者の文体にはリズムがある。北海道から沖縄までの「食する旅」のメニューにふれながら、読む側も食後感を味わうのは、まさにこのリズムのせいだ。鹿児島で「黒しゃぶ」の「じわ、じわ、しっかりとうまみが湧き出る」風格を味わう。下北半島で「鮟鱇(あんこう)」料理を前に、「目がうれしがってどこから箸をつけようか迷いに迷う」、その抵抗感がなんとも楽しい。
 実は本書は、そのような「食する旅」だけが売りではない。帯広で味わう「豚丼」を通じて十勝開拓の先達・依田勉三らの辛苦を偲(しの)ぶ。三陸海岸の「うに弁当」を語りながら、被災地への励ましを奥ゆかしく伝える。京都の「うどん」を味わいつつ、人の縁に驚く。東京・下町の肉料理に父親の思い出が重ね合わされる。
 「食」とは記憶する脳やその場に駆けつける脚力、私たちに何かを訴える食材を慈しむ視覚、そして時間と空間を共有した人たちの織り成すハーモニーでもある。
    ◇
 文芸春秋・1575円
    --「書評:ステーキを下町で [著]平松洋子 [画]谷口ジロー [評者]保阪正康(ノンフィクション作家) 」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013040700001.html


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覚え書:「今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評
(河出書房新社・1470円)

声に耳を澄ませば・・・死者は生きている

 あの日、津波が去った後、高い杉の木の上に一人の男が引っかかった。DJアーク。赤いヤッケ姿で、姿勢は仰向けだ。
 彼は自らの死を認識しないまま、人々の想像力を電波にラジオ番組を流し始めた。それが「想像ラジオ」。リスナーの多くは死者だが、生者にも届く。大切なのは、生と死の二分法ではなく、聞こえるか聞こえないか。
 現代は、あっという間に死者を忘却する。までるで忘れることが、社会を前に進める唯一の道であるかのように。何もなかったように事態にフタをして、次に進もうとする。
 「いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」--それは、声を聴かなくなったから。
 しかし、「想像ラジオ」のリスナーは、死者の声に耳を傾ける。DJアークの声は、イヤホンから水滴のようにつたい、世界をつなぐ。死者と生者が手を携え、一歩一歩、前に進む。
 時に「想像ラジオ」の音は、言葉にならない。声にもならない。しかし、人々は意味を聞く。言葉にならないコトバが、そこには存在する。
 死者とは一体だれか。彼らは生者とは別の「霊界」に住んでいるのか。そこは、この世とは切り離された別次元の領域なのか。
 そうではない。死者の世界は、生者がいなければ存在しない。「生きている人類が全員いなくなれば、死者もいない」。両者は切り離すことのできない、密接不可分の存在なのだ。
 生きている我々は、大切な人が亡くなると、喪失感を味わう。その人の空白に絶望し、生きる希望を失う。しかし、二人称の死は単なる喪失ではない。必ず我々は、死者となった他者と出会い直す。生者同士の頃の関係とは異なる新たな関係が生まれる。
 だから、死者は生きている。そうとしか言いようがない。
 DJアークは、言葉を紡ぎながら、そしてリスナーの声に耳を傾けながら、徐々に事態を把握していく。大地震がやってきて、津波にさらわれたこと。濁流に飲み込まれながら、杉の木に引っかかったこと。そして、もう息をしていないこと。
 彼は、放送を続けながら、どうしても「あること」が気になる。それは、妻と息子と連絡が取れないことだった。
 二人の声が聞こえない。どうしても聞こえない。二人は「想像ラジオ」のリスナーなのか。
 DJアークは、生者に向けて声を届けようとする。妻の名前を叫んでみる。しかし、反応はない。
 生者が死者の声をキャッチするのは、悲しみが湧く時だ。それは、不意にやってくる。あとは耳を澄ますことができるかどうかだ。
 この悲しみこそ、死者のささやきのサイン。「本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものなのかもしれない」
 DJアークは、リスナーから励まされる。「想像せよ」と。その想像は、生者の心に悲しみを芽生えさせることができるか。想像と想像が重なる時、死者と生者は出会うことができるのか。
 ラストシーンに、心の奥底から涙があふれた。
 フィクションは、リアルを越えたリアルに迫る。荒唐無稽なシチュエーションこそが、現実以上の現実をあぶりだす。これが文学の力だ。
 ポスト3・11の文学に、ようやく出会えた。間違いなく傑作だ。
    --「今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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覚え書:「市民が共に統治する社会を ネグリ氏の民主主義観」、『朝日新聞』2013年04月09日(火)付。


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市民が共に統治する社会を ネグリ氏の民主主義観


 選挙制度や議会のあり方を巡る議論が盛んだ。背景には、選挙で民意を政治に反映できるという強い信頼がある。そんな中、「現代の代表制は民主主義を実現しない」と主張するのがイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリ氏だ。国際文化会館と日本学術会議の招きで初来日したネグリ氏に単独インタビューで真意を聞いた。
 ――代表制民主主義の何が問題なのですか。
 私が言う民主主義とは、自由、平等、すべての人の幸福を保障するシステムです。これに対して選挙を通じて現在、実現されているのは、結局は豊かな階層の人たちの意向。米国ウォール街の占拠運動が掲げた「私たちは99%だ」というメッセージがわかりやすい例だ。1%のための政治になってしまう。日本でも同様です。脱原発運動が広がり、世論調査を見ても多くの人が支持するのに、選挙の結果はそうならない。
 民主主義に不可欠なコミュニケーションもゆがめられている。例えば「原発をなくすと生活が立ちゆかなくなる」などと、国家は恐怖を植え付ける。
 ――ならば、政治家を選ぶのでなく、インターネットを使い政策ごとに投票して決めるのはどうですか。
 それはただの世論調査による政治。最近、イタリアでもそういう意味での直接民主主義的な手法を求める声が出ているが、解決方法ではない。民衆の意思と、その時々の要因に左右される世論とは違うものです。
 ――代議制もだめ、直接投票もだめというと……。
 私が提案しているのは、統治のかたちをコミュニケーションのあり方を通じて変えていくことです。
 17世紀オランダの哲学者スピノザの「絶対的民主主義」という考えが参考になる。彼は、代表制民主主義のように個人を孤立した一票の存在と捉えない。個人は、相互関係のネットワークの中に位置づけられる開かれた存在。そのすべてが代表される民主主義を考えた。私は、イタリアの刑務所にいた時、彼の本を読んでこの考えを知った。(著書で提唱している)「マルチチュード(多様な人々の群れ)」とはこうした結びつきを意味します。
 ホッブズに代表される一つの主権を持つ政府が多数の市民を支配するという考えではなく、多様な主体が国家と対立しながら現場で協働して統治にかかわっていく。こうした共同体的な方法が民主主義なのです。
 私は、富を共有するという意味で「共和国(コモンウェルス)」という考えに関心がある。そこでは普遍的な一つのルールが統治するのではなく、例えば個人の財産や権利のあり方も、自分たちで「共に」作り替えていくのです。
 ――現実に可能ですか。
 可能どころか、歴史はそう動いてきた。例えば、かつて南米諸国では、ソ連型の古い社会主義に対して、市民から自発的な民主化運動が広がった。原住民の権利回復や農民の土地獲得運動など、内容は様々。政府(ガバメント)という一つの権力による統治から、現場で協働した市民による統治(ガバナンス)へとはそういう意味です。
 私が提案するのは、国家の廃絶ではない。コミュニケーションのあり方を変えることで、私有財産や私的な権利を今とは違った位置づけにすること。参加と協働を基盤に、市民が「共に」統治する社会です。
 具体的にどうすべきかは、私は(哲学者であって)発明家ではないので答えられない。だが、世界は「帝国」の支配下で、明らかに国民国家の再組織化という方向に進んでいます。
     ◇
 Antonio Negri 1933年生まれ。欧州を代表する左派知識人。マルクスやスピノザの研究で知られる一方、労働者の自律運動にも深く関わる。78年のイタリアの元首相誘拐殺害事件に関与したとして逮捕、起訴されたが、83年に無実を主張してフランスに亡命。97年に帰国して刑に服した。
 2000年に共著で「〈帝国〉」を発表。グローバル企業やIMF(国際通貨基金)などの国際機関、米国などが、国民国家を超える「帝国」とも呼ぶべき世界的な権力を作っているという見取り図を示した。
 こうした権力に対抗するものとして、多様な個人がつながった集まりを意味する「マルチチュード」を提唱した。ウォール街のオキュパイ運動の参加者たちが彼の本を手にしていたことでも知られる。
 ネグリ氏は08年にも来日予定があったが、過去に政治運動に絡み有罪判決を受けた経緯から日本政府からビザ申請を求められ、中止されたことがある。
    --「市民が共に統治する社会を ネグリ氏の民主主義観」、『朝日新聞』2013年04月09日(火)付。

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http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201304080457.html


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覚え書:「書評:双頭の船 [著]池澤夏樹 [評者]赤坂真理(作家)」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。


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双頭の船 [著]池澤夏樹
[評者]赤坂真理(作家)  [掲載]2013年04月07日   [ジャンル]文芸 


■桁外れの喪失に 言葉与える格闘

 「絆」――何か言った気になれる便利な言葉ではあるが、ひとつだけ、はっきりさせよう。
 「絆」の要件とは、一人一人、ばらばらであることだ。
 同じであることではない。たとえば酸素分子があって、隣も酸素分子なら、どこまで行っても酸素。だが、水素分子が隣り合わせると、水という奇跡的な第三のものが生まれる可能性がある。
 ばらばらほど、融合するものはない。簡単なことだ、が、盲点である。この冷徹なまでの明晰(めいせき)さから物語は出発する。「船」ほど、それを端的に体現するものはないから。船は乗組員がそれぞれのことをして初めて動く。逆に乗組員が「一枚岩」だったりしたら沈む。
 「3・11」直後の被災地沿岸部。小さなフェリー船、しまなみ8は、独自のボランティア活動に乗り出す。やがてさくら丸と名乗るその船は、独自の価値と規範を創(つく)り、独立した共同体のようになり、食物をつくり家族をつくり、歌い踊り祭りをし、死者の弔いをする。やがて船は、意外な姿を読者のうちに結ぶだろう。
 もとは狭い港内で転回せずに発着できる、舳先(へさき)と艫(とも)の区別のない双頭の船。それが自らに課した最初のミッションは、日本各地で放置された自転車を回収、船内で整備して、津波の被災地に届けること。そのために呼ばれた知洋がメインの語り部であるのは、当然のことに思える。整備とは、ばらばらにして、ひとつにすることだからだ。それは、摂理をもたらす行為である。だから、別のすこぶる魅力的なキャラクター、熊を本来いる場所に帰したりオオカミに掟(おきて)を教えたりする男、ベアマンとも、違うようで似ていて、どちらにも居場所がある。「それぞれが個性と力を発揮すれば、一人一人がユニークな存在で必ず居場所がある」。よく言われるこのことは、本当なのだ。ただ、楽ではないというだけだ。これをあたかも個人の当然の権利のように喧伝(けんでん)したのは「戦後」の罪ではなかろうか。
 「戦後」の罪のもう一つは、大戦の膨大な死に言葉を与えていないことだろう。被災地の「復興」が、進まないどころか忘れられ、国内棄民をつくりつつあるのは、桁外れの喪失に言葉を与える力が社会にないからではないか。池澤夏樹は、これに言葉を与えようと格闘している。寓意(ぐうい)に満ちた語りは神話的で、現実的ではないと言う人もあろう。が、そのようにしか語れない重層性もあるのだ。
 「船は橋のようなものかもしれない」と、私はふと思った。橋に、どちら向き、もない。きちんと過去と折り合うことと、未来を夢見ることとは、等価である。人もまた、双頭の船なのだ。
    ◇
 新潮社・1575円/いけざわ・なつき 45年生まれ。作家。88年に「スティル・ライフ」で芥川賞。93年、『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞、2000年、『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞、01年、『すばらしい新世界』で芸術選奨文部科学大臣賞。11年に朝日賞。
    --「書評:双頭の船 [著]池澤夏樹 [評者]赤坂真理(作家)」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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覚え書:「書評:二・二六事件の幻影―戦後大衆文化とファシズムへの欲望 [著]福間良明」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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二・二六事件の幻影―戦後大衆文化とファシズムへの欲望 [著]福間良明
[掲載]2013年04月07日   [ジャンル]歴史 ノンフィクション・評伝 

 「昭和維新」を掲げた二・二六事件が戦後、映画や小説でどう描かれてきたか。
 戦後しばらくは、言論統制の影響もあって、青年将校の「純粋ゆえの浅慮」が批判的に語られていた。しかし1960年代末の大学紛争期になると、彼らに権力批判を読み込み、彼らの政治的情熱に共感する作品が登場する。
 80年の映画「動乱」や89年の「226」では政治的要素は後景に退き、もっぱら「私的な純愛」に焦点が当てられる。彼らは「飽食の時代」を批判する存在としても位置づけられるようになる。
 青年将校を批判する視点が消えていく過程は、「変革」「維新」が再び語られる今、示唆的だ。
    ◇
 筑摩書房・2310円
    --「書評:二・二六事件の幻影―戦後大衆文化とファシズムへの欲望 [著]福間良明」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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病院日記(2) アガンベンの「剥き出しの生」とレヴィナスの「倫理」より


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twのまとめですが(汗、先日、入浴介助の「見学」をしたのですが、その印象録を少し残しておきます。介護や医療の現場の人からすれば、「おまえ、どこまでナイーブなんや」とかいわれそうですが、まさに「驚きの神経内科」つうか……なので。

キーワードは、アガンベンの「剥き出しの生」とレヴィナスの「倫理」。入浴介助ですが、要するに一人でシャワーを浴びることができない患者さんを風呂場へ運び、躰を洗ってあげる作業です(看護士の指導のもとで)。必然的に高齢者が多いのですが、配属部門ゆえ、躰の動かせない方が中心になります。

この手の世界をしらないので、まさか女性のお世話をするとはおもっても見なかったのがショック。おまえ、「キーワードは」という表現もどうしようもないのですが、「どこまでナイーブなんや」とか言われると反論の余地はできないのですが、ですが、カルチャーショックではあります。

しかし、そんな羞恥をお互いにかまっていられないのも事実であり、おばあちゃんもおじいちゃんも、……今回は私は見学なので、まさに補助の補助……、看護士さんや看護助手さんんの手によってさっぱりすると笑顔になっていく。いろいろな想念が交差する且つそれが仕事なんだなと感じました。

アガンベンは古代ローマの特殊な囚人(ホモ・サケル、社会的・文化的特性の一切が奪われた彼らを殺しても誰も罪にならない)という「剥き出しの生」に注目し、「主権権力の外に位置する者」を歴史的に位置づけた。フーコーの系譜といってよい。しかし、これは本の世界の話ではないなあ、と実感。

自分で躰を自由に動かすことができない人間が「剥き出しの生」の囚人で、それを介助する人間がその「看守」ということではないですよ。両者が必然に求め合っている瞬間ですが、こうした「剥き出しの生」っていうのは、「ああ、それは生=権力ですよね」って教室で語るのとは違う、生々しさを感じました

従属的眼差しを生-権力は撃ちますが、字義通りの従属でなくとも、私たちは彼・彼女のように、(認識・不認識に関わらず)「ゆだねるほかない」局面を、どこかで経験する可能性というのはあるんだなーと。それがまさに「なまなましい」んです。僕たちは多分そのことを意識的に遠ざけていたなあ、と。

「囚われ人」として権力の操作対象となることにも気がつきにくい。しかし、生活者としてもっと落とし込まれている次元で、私たちは気づくことを避けていたなあ、というのが実に教学でした。確かに、医療/介護で「世話になる」ということは「言葉」としては理解している。しかし、実際に見ると……ね。

ちかしい年齢の方の入浴介助も見学した。さっぱりして浴室を出られていった。それから、今度は、配膳。そのひとのところに、昼食を運んだけど、なんか、いろいろと意識している自分自身が、糞野郎だなあと思った。何、その「意識」ってみたいな。人間を人間として扱うというのは、こういう次元にもある

幾重にもめぐらされた「対象知」の眼差しは、僕自身も自戒を込めてだけど、やっぱり人間を人間として扱わない操作的な立場に必然する。なんかそういうのを気づかせてもらった機がします(……っていう言及自体がもうその眼差しなんだけど、ゴルァとかはなしで)。

それからもう1つは、加齢や老衰は必然的に、私自身の裸体の操作を他者に委ねることになります。だから、それは、だれか別の人の話じゃなくて、私自身の遠い未来の話として「自覚」というか「覚悟」はしておいた方がいいと思った。じゃあ、他人じゃなくて家族ならいいの?って言われれば、同じでしょ

ネタじゃなくてね、性器もいっぱいみましたよ。知り合いの介護施設経営者が言ってたけど、排泄含めてその手の極めて「プライベート」な事柄が、全き他者に「委ねられる」ということは、自身の自尊の毀損にんもなるんですよ(→例えば、弱っていく)。ほんと難しい

( まあ、「ちんこ」とか表現しましたけど、最初の生-権力に戻れば、ほんと、そういうものごとに囚われていること自体、「性」を管理する権力の眼差しに抵抗していたつもりで、初歩的な羞恥を感じてしまったことは遺憾ではありますん。 )

剥き出しの生になってしまうと、月並みですが、権力も地位も関係ないですね。人間は、ほんとに、何も、もっていくことはできないと思った。※で、念のためですが、「おう、だから、裸と裸のつき合いが大事なんだよ」とか言われると、それはそれで無自覚なマチズム乙とは思ってしまう。

で、全き他者の件ですが、レヴィナスは、倫理が要請されるのは、まったく関係のない他人同士が交差する瞬間と端的に指摘しますが、入浴介助というのは、まさにその局面だったと思う。どう異なる人間は、躰と心で向き合うのかという瞬間だった。洗われる側は、そりゃ厭でしょ。こっちも厭でしょ、正味。

しかし、そういう嫌好を超えて、向き合わざるを得ないところに、人間の在り方というものが必然的に浮かび上がるというか、道徳的な「べし」よりも原初的に「関わる」“流儀”が要請されるなあとは思った。月並みですが、介護医療関係者がレヴィナスを心読するというけど、なんか一端を感じた。

レヴィナスは、私たちが自明であるということが実は自明ではない特異な現象であるとして、逆説的に、他者の存在の「異邦人性」を強調しますよね。異邦人とはテケトーにしてもええというのが通常の認識だけど、案外、僕たちは剥き出しの人間に向かうとそれを真摯に扱うもんなんですよね。不思議ですが。

「〈他者〉は私にふり向き、私を問いただし、無限なものであるというその本質によって、私に責務を負わせる」。レヴィナス(熊野訳)『全体性と無限』。これは字義通りの隷属とかそういうのではなくてね、って思いました。だから仕事でそれをやる、しかも「命」を扱うひとは、悩みの連続だ。 v

看護助手のバイトの後は、総合スーパーでの夜勤ですが、「お客様は神様」っていうけど、結局は狸と狐の化かし合い(って言い切るとあれですが)。しかし、なんというか命を預かる現場は、どう向き合っていくのか試されているなと感じました。まあ、同時に、患者さんからのパワハラもあったりしてね(涙

( まあ、ほんとうは、医療・介護・福祉の現場だけでなくて、このへんにもっとも敏感にならなければならないのは、宗教者たちなんだけど、それはとりあえず今回は横に置いておきます )

……というか、そういう経験をtwとはいえ活字化してしまう、そして、全く知らない人のちんぽやおっぱいが洗われていく光景を前に、アガンベンがどうのとか、レヴィナスがどうのとか、考える自分もタイガイだとは思いますが、ちょっとこのへんは、仕事する中で、「業務」だけでない側面で深めたいす。

そんなことをまあ、感じましたが、アリストテレスは……おい、またか!って話ですが……ほんと、考え、自分の認識を改める瞬間つうのは、考えるに値しないよと嘯く、私たちの日常生活に詰まって居るなあ、とは思いました。

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覚え書:「書評:モダン・ライフと戦争―スクリーンのなかの女性たち [著]宜野座菜央見 [評者]水無田気流」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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モダン・ライフと戦争―スクリーンのなかの女性たち [著]宜野座菜央見
[評者]水無田気流(詩人・社会学者)  [掲載]2013年04月07日   [ジャンル]歴史 アート・ファッション・芸能 


■社会の矛盾とスターの身体

 「女性の美」を読み解くことは、難しい。とりわけ政治や経済と結託したとき、その難易度は跳ね上がるようだ。本書は、1930年代前後の日本映画を、「女優」に着目して論じている。表象される「望ましい女性像」を通し、美と資本主義の関係性を、さらには戦争と平和の共犯関係を丹念に書き出した秀作である。
 戦間期、後発近代化国・日本は所与の矛盾に突き当たった。産業合理化や民主化の進展に伴う軋轢(あつれき)や、文化的には西洋化とその反作用としての国粋主義も見られた。だがそれらすべてを、大衆の旺盛な消費欲望が飲み込んでいく。日本の「モダン・ライフ」はこのように鵺(ぬえ)のごとき顔をもち、人々を魅了した。この時期、日本映画は大衆文化の王座にあり、同時代の資本主義を肯定し続けた。それは、戦前から戦争初期の「豊かなモダン・ライフ」礼賛基調も、その後の諦念(ていねん)基調も受容し、大衆の「望ましさ」に応えた。
 20年代、栗島すみ子は大衆演劇的な女形女性像を楚々(そそ)とした佇(たたず)まいで上書きした。30年代には、田中絹代がナショナリズムの高揚を背景に、オリンピック出場を目指す少女を演じた。原節子は男顔負けに働き恋に破れるワーキング・ウーマンを演じた。いずれも、キーワードは都会の「モダン・ガール」だった。
 戦時の文化基調は、一貫して消費抑制基調だったわけではない。むしろ人々の関心は、戦争初期、軍需景気で豊かなモダンライフ享受に向かったのだ。その平和ムードは、「戦死者・障害者を増やし続ける戦争の膨大なコストに対する日本人の批判意識を麻痺(まひ)させた」と筆者は指摘する。だが40年代に入り、戦況悪化や経済的逼迫(ひっぱく)から一気にモダン・ガールは批判の対象とされ、今度は高峰秀子らが農村のけなげな少女を好演する。時代ごとに噴出する社会の矛盾を包摂するスター女優の身体。それらが踊る銀幕の、眩(まばゆ)い闇が見えるだろうか。
    ◇
 吉川弘文館・1785円/ぎのざ・なおみ 映画会社の東北新社を経て、明治大学・大阪芸術大学兼任講師。
    --「書評:モダン・ライフと戦争―スクリーンのなかの女性たち [著]宜野座菜央見 [評者]水無田気流」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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覚え書:「書評:漁業と震災 [著]濱田武士 [評者]萱野稔人」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。


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漁業と震災 [著]濱田武士
[評者]萱野稔人(津田塾大学准教授・哲学)  [掲載]2013年04月07日   [ジャンル]社会 


■「上から目線」の改革論を批判

 もしかしたら漁業ほど、東日本大震災後のさまざまな復興論にふりまわされた産業はないかもしれない。たしかに日本の漁業は、大震災によって壊滅的な被害を受けるまえから衰退していた。何よりも担い手の高齢化がとまらない。なかなか漁業だけでは食えず、後継者が育たないからだ。漁業組合も停滞し、いまや補助金なしではなりたたない。水産資源の減少も深刻だ。こうした現状から、漁業は高齢化社会の象徴であり、大震災を契機に再生すべき典型的な産業とされたのである。
 そうした復興論のなかには、たとえば漁獲高をより厳しく制限することで漁業の構造転換を図ろうという提案もある。漁獲高を厳しく制限すれば、漁業者は市場で高値のつく大きな魚を選別して獲(と)るようになり、また乱獲も防げるため水産資源も保全されるからだ。私もかつて本紙で同様の提言をしたことがある。
 しかし筆者はこうした復興論を、現場を無視した「上から目線」の改革論にすぎないと批判する。筆者は言う。日本の漁業はこれまでも漁業者間の利害衝突を繰り返しながら漁獲制限のルールを作り上げてきたし、そうした内発性を無視して外から漁獲枠を強制しても実効性をもちえない。大型魚の乱獲も始まるだろう。そもそも水産資源の減少の原因は必ずしも漁獲の行き過ぎにあるとはいえない。
 筆者の批判は決して漁業の問題だけにとどまらない射程をもつ。事実、今の日本には現状分析をなおざりにし、複雑に絡み合った原因を単純化し、一挙に事態を改善してくれる魔法の解決策をもとめる改革論があふれているからだ。そうした改革論は事態を悪化させることはあれ改善することはない。問題をその複雑さのまま認識する力、そしてその複雑さを解きほぐしながら粘り強く解決策を模索していく思考力。漁業の問題をつうじて本書はそれを私たちに要求している。
    ◇
 みすず書房・3150円/はまだ・たけし 69年生まれ。東京海洋大准教授(漁業経済学)。『伝統的和船の経済』
    --「書評:漁業と震災 [著]濱田武士 [評者]萱野稔人」、『朝日新聞』2013年04月07日(日)付。

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1名から100名への道(ぇ


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水曜日は前期集中ですが千葉の短大にて「倫理学」を担当しておりますが、今週から授業が始まりました。

昨年は6名の履修でしたが、今年の初講は……ガイダンスになるので登録はまだ……100名近くの学生諸氏が参加しており・・・

「びっくら」こいた次第です。

時間割の都合によるのですけど(苦笑、全力でがんばってまいりますので、どうぞよろしくお願いします。

担当した初年度が1名でスタートしましたので、およそ100倍です(ぇ!

 


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覚え書:「今週の本棚・新刊:『世界宗教百科事典』=井上順孝ほか編集委員会編」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『世界宗教百科事典』=井上順孝ほか編集委員会編
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊

 (丸善出版・2万1000円)

 かつて高校社会科に「倫理・社会」という科目があったが、近年の高校生の、とくに宗教に対する関心は著しく薄らいでいるようだ。試験に宗教関係の出題があると、平均点が下がる傾向にあるという。冠婚葬祭の場を除き、宗教を意識せずに暮らせる現代だから仕方ない、では済ませたくない。800頁(ページ)に及ぶ本書を繰る意味とは何だろうか。

 国境を越える人の往来がこれほど密になり、世界発の情報をネットで瞬時に入手できる時代だからこそ、「世界の人口の過半数はなんらかの宗教を信じている」ことの意味は大きい、と本書は説く。ダイナミックな情報化、グローバル化が進む世界では相手の宗教の理解は不可欠だ。

 難しく考えなくても、「文学、絵画、映画、音楽における宗教的モチーフ……世界遺産に占める宗教施設の比重の大きさは明らか」ともあるように、宗教を知るのは面白い。

 古代オリエントのゾロアスター教やミトラ教に始まり、宗教が時代や地域によっていかに多様な変容を遂げたかをたどれば、そのつど新たな発見がある。さまざまな宗教の研究者が挙げる「さらに学びたい人のための文献ガイド」も貴重だ。(卓)
    --「今週の本棚・新刊:『世界宗教百科事典』=井上順孝ほか編集委員会編」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130407ddm015070013000c.html

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覚え書:「今週の本棚・新刊:『あん』=ドリアン助川・著 中島京子・評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『あん』=ドリアン助川・著 中島京子・評
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊

(ポプラ社・1575円)

生きることの意味を“特上の粒あん”に託す物語

 シャッターの目立つ商店街にある「つぶれはしないが、決して賑わうことのない」どら焼き店「どら春」に、一人の老女がやってくる。アルバイト募集の張り紙を見て、自分を雇ってくれないかというのだ。老女はお手製の絶品あんを、雇われ店長の千太郎に差し出す。映画「タンポポ」を思わせる、どら焼き店再生物語がスタートする。老女があんを作るようになると、「どら春」の売り上げは伸び始める。初めての完売御礼も出る。
 こうして順調に見えた「どら春」の経営だったが、ある日を境に客が減ってしまう。指が折れ曲がり、左右の目の大きさの違う老女・徳江が、ハンセン病患者だという噂が流れたのだ。たしかに彼女は難船病の療養施設に暮らしていた。何十年も前に彼女の病気は完治し、ハンセン病じたいが現代医療で簡単に治癒するものとなり、施設に暮らすすべての人が快復者であるというのに、長い隔離の歴史を生きた徳江たち元患者は、いまも偏見から自由ではなかったのだ--。
 ここまで読んで、小説から道徳的な啓発を受けることに興味のない人は、あまり読みたくなくなるかもしれない。小説は説教ではないのに、あらすじだけだと説教くさくなる。
 この小説のいちばんの読みどころはやはり、ハンセン病施設で生涯のほとんどを生きざるを得なかった徳江という老女が、五十年作り続けたあんに託した魂の物語にある。そして、つまらないあらすじ紹介と決定的に違う小説は、読者をそこに導くために、なんともいえない無様な中年男の物語を用意する。その男、千太郎が、いい。
 若い時には物書きを志していて、いまも未練のある千太郎は、ちっぽけな麻薬所持事件にからんで堀の中にいたこともある。出てきたときには母親も死んでいて、借金だけが残っており、どら焼き店のオーナーに借りを返すためにだけ「どら春」で働いている。どら焼きに情熱など微塵もなく、接客も好きではなさそう。その仙太郎が徳江を雇った理由は、あんの旨さと「時給二百円」という徳江が提示した破格の条件だった。一日も早く借金を返して自由になりたい仙太郎は、「婆さんはゴミみたいな時給で特上の粒あんを作ってくれる。これがチャンスでなくて、なにがチャンスなのか」と思う、自己中心的な男である。
 けれどこの人は自分自身が外れ者なだけに、根拠のない偏見とは無縁でもあるらしい。絶品のあんを作ってくれる徳江を、元患者だからといってクビにすることはできないとうじうじする。体を張って徳江を守るほどの漢気はないし、「心の病気」で仕事をサボったりするだめな人なのだが。
 千太郎が徳江を訪ねて、恐る恐る療養施設に足を踏み入れるとき、読者は彼といっしょに、徳江の魂の遍歴に出合うことになる。仙太郎の戸惑い、気おくれ、恥じらい。その心の持ちようを、自分のもののように感じて読みながら、徳江の過去を探し当てると、悲しい歴史の中で語られることのなかったいくつもの声が聞こえてくる。こうして仙太郎と小さな旅をした後には、読者は彼に生じる変化をすんなり信じることができるし、そうした変化が私たち自身にも起こりうることを、信じる気持ちにもなってくる。
 もう一つ、忘れてはならないのは、この物語の中のあんが、ほんとに美味しそうだということだ。水をいっぱいに含んだ小豆が、丁寧に煮られて、佐藤とともにあんに練り上げられていく過程には思わず唾が沸いてきた。
    --「今週の本棚・新刊:『あん』=ドリアン助川・著 中島京子・評」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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覚え書:「ひと:バラック・クシュナーさん=ケンブリッジ大の『ラーメン先生』」、『毎日新聞』2013年04月05日(金)付。


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ひと:バラック・クシュナーさん=ケンブリッジ大の「ラーメン先生」
毎日新聞 2013年04月05日 東京朝刊

 ◇バラック・クシュナー(Barak Kushner)さん(44)

 米国の名門プリンストン大で第二次世界大戦中の宣伝活動を研究し、博士号をとった正統派学者だが、日本の大衆食ラーメンにものめり込み、昨年、英文の著書「スラープ(つるつる)!」をまとめた。

 この国民食との出合いは岩手県山田町の学校で英語助手をしていた92年、教委職員に連れられ入った「六文」という店。日本料理は洗練されていると思っていたので、これも日本食と聞いて驚いた。すぐ気に入ったが、「レーメンをラーメンの岩手方言と勘違いしていたので、何度注文しても冷麺が出てきた」と笑う。

 専門は外国との関係からみた近現代日本史。

 「チャーシューは中国の影響。麺は第二次世界大戦後、米国から小麦を大量輸入したことで広まった。ラーメンには、日本の近現代史が凝縮されているんです」

 ラーメンを軸に日本史を見るのも面白いと思い04年、本格研究入り。日本滞在通算7年で、鹿児島から北海道まで50地域以上で食べた。ラーメン好きで知られる落語家、林家木久扇師匠はじめ50人以上にインタビューした。大衆食にこだわった背景には、「政治や経済が上、大衆文化は下」と考える学問世界の保守性に、異を唱える意味もあった。

 「ラーメンには店長の個性が出るため、チェーン展開が難しい部分もある。そこが魅力」と言う。ラーメン出店ブームのロンドン。日本の国民食が持つ「個性」をロンドン市民に再認識してもらうことも期待している。<文と写真・小倉孝保>

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 ■人物略歴

 米ニュージャージー州出身。東京大に留学経験がある。06年英ケンブリッジ大講師、10年に准教授。
    --「ひと:バラック・クシュナーさん=ケンブリッジ大の『ラーメン先生』」、『毎日新聞』2013年04月05日(金)付。

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http://mainichi.jp/select/news/20130405ddm008070141000c.html


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覚え書:「今週の本棚:中村桂子・評 『われらはチンパンジーにあらず』=ジェレミー・テイラー著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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今週の本棚:中村桂子・評 『われらはチンパンジーにあらず』=ジェレミー・テイラー著
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊


 (新曜社・4410円)

 ◇ヒトを特徴づけるものとは何か

 ヒトゲノム(細胞核内のDNAのすべて)とチンパンジーゲノムでは、一・六%しか違わない。共に塩基が三〇億ほど並んでおり、実際には三五〇〇万もの塩基に変異が見つかっているのだが、それでも一%強という小さな数字の与える印象は強い。DNA研究は、すべての生き物が共通の祖先をもち、人間もその一つであることを示してきたし、チンパンジーがヒトに最も近いことはこれで明らかだ。チンパンジーの行動研究も仲間意識をもたせるものが多い。とはいえ、やはりヒトはヒト。共通祖先からチンパンジーと分かれて以来の六〇〇万年の間に起きた変化を知りたい。ヒトを特徴づけるものは何かという問いがこれまで以上に大きくのしかかってきたように思う。

 ここでまず浮かぶのが言葉である。英国で言語障害をもつ家系(KE家)を対象にその原因遺伝子を探索した結果、高次の言語処理を行なうブローカ野と発話の際の複雑な筋肉の動きを制御する基底核とに関わる遺伝子に変異が見出された。第七染色体の長腕に存在するそれは、FOXP2と名づけられ「言語遺伝子」として有名になった。しかし、この遺伝子は動物全体で保持されており、鳥の歌、コウモリのエコロケーション(超音波による)に関わっていることが明らかになった。共通性は、喉頭から出る音や超音波の生成に関わる筋肉の素早く巧みな運動調整にあり、FOXP2はそこにある多くの遺伝子の調節役なのである。具体的機能の解明はこれからだが、「言語遺伝子」という呼び方は適切ではない。高次機能に「○○遺伝子」はないのである。

 たとえば、脳ではたらくエンドルフィンの遺伝子そのものは霊長類で共通だが、その調節に関わる部分はヒト以外では一つであり、ヒトでは一つから四つまでさまざまとわかった。以前はガラクタと呼ばれていたタンパク質合成と無関係の領域も調節に関わっている。何が存在するかよりも、それがいつ、どこで、どんな風にはたらくかが重要なのである。こうして、一・六%の違いが、かなりの差を生み出すわけである。

 遺伝子の変異も塩基の変化に限らず、配列重複、欠失、スプライシング(RNAのつくり方)の違いなどさまざまである。ヒトでだけコピー数の多い遺伝子に注目すると、その多くが脳と中枢神経系に関連しており、脳研究の必要性を改めて感じる。その他重要なのは、栄養と代謝(食べものの変化が関係)、病気との闘いであり、この三つが六〇〇万年間の変化を象徴しているようだ。

 著者は、行動研究についても、チンパンジーだけに注目することによるバイアスを指摘する。イヌは、人間の目の動きで餌(えさ)の場所を知るなど社会的認知能力が高い。カラスは筒の中から餌をとり出すのに適した棒を他の棒で引き寄せるなどの作業でチンパンジーを凌(しの)ぐこともある。もちろん、イヌやカラスの方がヒトに近いと言っているのではない。ヒトを知るには、さまざまな生物のさまざまな現象を比較する必要があるということだ。

 興味深いのは「自己家畜化したヒト」という章で、ヒトとチンパンジーの間の遺伝的差異の多くがこの4、5万年で起きており、たとえば、認知に関わるドーパミン受容体の多型化など社会が強力な淘汰(とうた)圧をかけているらしいという指摘だ。まだ仮説の段階だが、ヒトへの進化にとって重要な視点である。

 チンパンジーが魅力充分の仲間であることは認めたうえで、ヒトを知る時にゲノムの近さだけに惑わされないようにという忠告である。(鈴木光太郎訳)
    --「今週の本棚:中村桂子・評 『われらはチンパンジーにあらず』=ジェレミー・テイラー著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130407ddm015070010000c.html

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覚え書:「今週の本棚:五味文彦・評 『江戸絵画の非常識』=安村敏信・著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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今週の本棚:五味文彦・評 『江戸絵画の非常識』=安村敏信・著
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊


 (敬文舎・2940円)

 ◇十三の「常識」を越えて生み出された入門編

 常識は難しい。常識を知らねば、知識不足が指摘されよう。しかし常識に囚(とら)われれば研究は進展しない。本書は江戸絵画におけるその常識がいかにつくられ、それをいかに乗り越えてゆくべきかを考えたものである。

 著者が江戸絵画の常識としてとりあげたのは十三、それぞれに常識とされる評価を掲げ、これらが果たして常識なのかと疑い、検討してゆく。非常識というタイトルがついているが、それは常識を疑うという意味であろう。

 まずとりあげるのは、「俵屋宗達の『風神雷神図屏風(びょうぶ)』は、晩年に描かれた傑作である。」という「常識」への挑戦。

 江戸絵画に先駆的研究を担ってきた山根有三の提唱になるもので、広く認められてきた。しかし著者は、その根拠は山根の直観に基づくものであり、根拠はないとして疑う。宗達晩年の作品ならば「法橋(ほっきょう)宗達」の落款があってしかるべきなのにそれがない。そこで宗達の生涯を追うなかから、宗達壮年期の作品と見るべきである、という結論に到達する。

 直観だけに頼らずに周辺の資料をきちんと読み込み、研究することの大事さがよくうかがえよう。続く第二章では、宗達を真似(まね)た尾形光琳について、「光琳は宗達を乗り越えようとして、琳派を大成した。」という常識に挑む。

 琳派の祖である光琳は、宗達に学びそれを乗り越えようとした、その芸術家の強烈な執念によって『紅白梅図屏風』を制作するにいたったという。

 これも山根有三の説に疑問をなげかける。先には直観の危うさに疑問を抱いたが、ここでは絵師を芸術家として捉えることの危うさに注目している。

 両者の技法のありかたの違いや、光琳の職人画工としての生き方を探った上で、光琳は宗達を乗り越えようとして琳派を大成したのではなく、工芸と絵画の世界をつなぐ独自の世界をつくろうとして、結果的に琳派を大成した、と結論づける。

 ともに著者の方法には説得力があるが、しかし山根にしてみれば、折角(せっかく)、直観により新たな視点に基づいて論を立てたのに、従来の常識に引き戻されてしまった、という思いにかられることであろう。常識を覆すことの難しさがそこにある。越えたところで、再び新たな常識が作られてゆくことになるのである。

 以下、狩野派、円山応挙、谷文晁(ぶんちょう)、秋田蘭画、浮世絵などに関する常識について、吟味してゆく。なお、まだ常識にはなっていないが、新たな常識が作られてゆく恐れを表明したのが、十一章の「奇想派があった。」である。

 これは岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲(じゃくちゅう)、曾我蕭白(そがしょうはく)、長沢蘆雪(ろせつ)、歌川国芳などの画家をとりあげ、奇想の画家ブームをもたらした辻惟雄(のぶお)の論が一人歩きするようになり、あたかも奇想派という派があったかのような常識が生まれるのではないかという慮(おもんぱか)りから、書かれている。その上で他にも奇想の画家が多くいることを紹介している。

 こうして本書は江戸絵画の新鮮な入門編となっている。整然と説明されても、なかなかわからない江戸絵画の世界を身近に感じさせる趣向である。

 著者が常識に挑戦する背景には、東京の板橋区立美術館にあって長年にわたり常識に挑戦して美術展を開いてきたことがある。常識に沿って開いた美術展などは全く面白くない。新たな視点から、また新たな画家や絵画に目を注いで企画してきた、野心的な企画展の開催への努力から本書『江戸絵画の非常識』は生み出されたのである。

 このチャレンジ精神を私も見習いたいものだ。
    --「今週の本棚:五味文彦・評 『江戸絵画の非常識』=安村敏信・著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130407ddm015070022000c.html


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病院日記(1) よりそう言葉について

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病院でバイトしはじめまして一週間になりましたので、その印象録をひとつ。

コミュニケーションの問題についてです。
※ディベート等は割愛します。

世の中には、話題や趣味を共有することに喜びを見いだす、井戸端会議のような「会話」というものがあります。また、熟議という言葉に代表されるような、何かの目的をもった創造的止揚を目指す「対話」というものもあります。

そして21世紀になってから、にわかに注目を集めるようになったのが「グローバル人材w」の必須アイテムとしの言葉のやりとりといいますか、ふんだんな有意義情報をもとに、エッジを利かした(二流)スノッブなやりとりというものがあります。

論証知に隣接する学問に長く携わっていると、私自身、「会話」よりも「熟議」に目がむきがちなのは事実ですが、対話や熟議だけで、会話がまったくないというのは生活の潤いが全くないとは思います。かといって会話だけでいいのかと考えれば、それも生活世界がものすごく閉じたものになってしまうという消息もよくわかります。

そして有意味性のみを排他的に追求するグローバル言辞(とでも表現しておきましょう)はどうかといえば、相対的価値に準拠する「流行」のひとつにしかすぎませんから、これほど空虚なものはないと思いますので、割愛しておきますw

さて、楽しさの共有、そして目的をもったやりとり、この両方は、場合に応じてということになるでしょうが、どちらが先かというものでなく両方が必要です。

しかし、それ以外にも必要な、そして、それによって、人間生活はより意義あるものとして彩り豊かになる言語様態というのもあるのではないか。そんなことを考えるきっかけを病院で経験することがありました。

それは「よりそう言葉」とでもいえばいいでしょうか。

細かい設定は割愛しますが、リハビリの患者さんと担当者さんが時間になると窓辺にやってきて、ぽつりぽつりと言葉を交わしています。

「天気いいですねー」
「ここは、昔、ウサギを飼っていたんですよ」
「実験用かい?」
「ペットですよ。ウサギは頭がいいから、穴掘って逃げたりしてねー」

「天気いいですねー」
「もっと上の階だと富士山がきれいに見えるんですよ」

井戸端会議でも、そして、熟議や対話でもない。グローバル的w価値から判断すればまさに「無意味」「無意義」な言葉のやりとりです。

しかし、その一見すると意味のない言葉のやりとりが、人間によりそい、人間を--おおげさかも知れませんがーー生き生きとさせていく。

そういう言葉のやりとりもあるもんだなー、等々と感慨した次第です。

ものごとを早急に!
それは値打ちがあるのかないのか?

そういう尺度だけで物事が判断されるのが現代社会の特色といってよいでしょう。しかしそうしたものに逆行しようとするような「よりそう」言葉に人間を人間らしく導いていくヒントがある。

まあ、印象批判のひとつにすぎませんが、そんなことを感じた次第です。

なんだか小津安二郎の「お早よう」が見たくなりますね。


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覚え書:「今週の本棚:小島ゆかり・評 『日本の恋の歌-貴公子たちの恋』『日本の恋の歌-恋する黒髪』=馬場あき子・著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。


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今週の本棚:小島ゆかり・評 『日本の恋の歌-貴公子たちの恋』『日本の恋の歌-恋する黒髪』=馬場あき子・著
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊


 (角川学芸出版・各1680円)

 ◇襞深くなつかしい“人の心”に立ち返る

 月刊誌『短歌』(角川学芸出版)に全七十回(二〇〇六年-二〇一一年)連載された「日本の恋の歌」を、二冊に再編集しての刊行である。古来、日本文学の土台には和歌があり、その中心は恋の歌である。本書の対象となる王朝から中世において、それは圧倒的な質量をもって詠み遺(のこ)されている。

 いったい人々をこんなにも熱中させてしまう「恋」とは何か。それは単に、人が人を思うという域を越えた、人間探求の場でもあり、時には地位や身分の桎梏(しっこく)から少しく解放された別天地として、人間的な思いやりの温かさや、願いのかなわぬ失意に打ちのめされたりするリアルな場なのである。(「あとがき」-貴公子たちの恋-)

 そしてまた、韻律の様式をもつ和歌ゆえに、表現の粋(すい)を競い合いつつ、日本の詩の言葉が磨かれていった現場でもあるのだ。

 それにしても、二冊に及ぶ古典和歌の鑑賞を、これほどぞくぞくしながら読ませる著者の力に驚く。わたしはじっさい、この歌人の歌語りを聴く機会に何度も恵まれてきたけれど、まるで見てきたように、その場に居合わせた人のように語るのだ。千年の時間など一気に飛び越えて、歌のなかの男たちが女たちがざわざわと動きはじめ、そこにありありと人の姿や場面が見えはじめるのである。

 歌人としての鮮やかな直感や、文芸評論家としての膨大な蓄積はむろんながら、わたしがもっとも感動を覚えるのは、過去の歌びとたちの心理や歌の現場にみずから立ち会い、生身(なまみ)をもって受け止めようとする、著者の溌剌(はつらつ)とした人間的情感の深さなのである。

 さて、本書の見どころはいくつもあるが、まず<貴公子たちの恋>篇において、「『古今集』の恋」に先立つ「色好みの源流」を第一章に据えたこと。元良親王(もとよししんのう)がはじめに登場する新鮮さである。

 元良親王は、失敗談も含めて色好みの代名詞であった平中(へいちゅう)(平貞文(たいらのさだふん))や、「いちはやきみやび」の人・業平(在原業平)の次の時代の風流士(みやびお)。業平の愛人であった藤原高子(たかいこ)と清和天皇との間に生まれた陽成院の第一皇子。「わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢(あ)はんとぞ思ふ」(『後撰(ごせん)集』)の一首は知られていても、その人と作品についてあまりくわしく語られることのなかった人である。

 著者は、元良親王の女性遍歴のみならず、そのピークとなる宇多院の京極御息所褒子(きょうごくのみやすんどころほうし)との禁忌の恋の時期や心理的背景を細やかに探り、物狂いの帝とも言われた父・陽成院についてもていねいに言及して、親王を時代と人間関係の中から浮かび上がらせている。

花の色は昔ながらに見し人の心のみこそうつろひにけれ『後撰集』

 「春下」に見えるこの歌の場面は、親王がすでに同居していた女性を、宇多院が召人(めしうど)(侍妾(じしょう))として奪ったのちほぼ一年、逢うことのかなわない愛人の曹司(ぞうし)(部屋)の戸口などに、桜の枝に歌をつけて挿しておいたというもの。「花の色は昔のままに変わらずに今年も咲いたが、ともに契ったあなたの心だけは、私から離れていってしまったのですね」と詠む歌の、「うつろふ」にもっともふさわしい桜の花の時期まで、怨(うら)みを胸にとどめてじっと待つ。そこに「折を知る」風雅の心があるという。

 「『色好み』に身を賭けて風雅を生きた人々の女性との交流には、若き日に、その才や美ゆえに最も変化しやすい女性の命運への嗟嘆(さたん)がこもっている。(中略)世の制度の外にある<女>という存在が、世の制度に縛られた男たちには必要だったのだ。そこに美があり歌ことばがあればなおさらである」

 「一夜めぐりの君」という綽名(あだな)をおもしろがるだけでは見えてこない、親王の精神の陰影が立ち上がってくる。そして『源氏物語』のモデルの一人だったと目(もく)される所以(ゆえん)も、あらためて思い起こされる。元良親王を最初に登場させた意図は、親王を語ることがつまり、「色好み」というきわめて日本的な「あはれ」の扉を開く鍵であったからにちがいない。

 ほかにも、小野小町の歌に現れる海辺幻想と伝承との関わりや、『古今集』の代表的女流・伊勢の歌の「うたかた人」をめぐる読み解きなど、新鮮な視点が次々に示される。

 続く<恋する黒髪>篇では、圧巻の「和泉式部の恋と歌」をはじめ、晶(すず)しい男の魅力を感じさせる藤原実方(さねかた)の恋や、壮大な物語に彩られた『源氏物語』の恋の歌、さらに「後拾遺姿」と呼ばれた風体をめぐる和歌論や、題詠の恋の諸相など、著者の歌語りの情熱は尽きることがない。恋の歌と場面はこんなにもおもしろく、人の心はこんなにも襞深(ひだぶか)くなつかしいのだと、教えられる。
    --「今週の本棚:小島ゆかり・評 『日本の恋の歌-貴公子たちの恋』『日本の恋の歌-恋する黒髪』=馬場あき子・著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130407ddm015070006000c.html


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覚え書:「今週の本棚・新刊:『虚構内存在』=藤田直哉・著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。


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今週の本棚・新刊:『虚構内存在』=藤田直哉・著
毎日新聞 2013年04月07日 東京朝刊

 (作品社・2520円)

 2000年代に「若手論壇」と呼ばれた一連の動きに影響された、より若い世代による長編評論。著者初の単著で、SF作家の大御所、筒井康隆を論じた。「若手論壇」には、反貧困などで現実の政治について発言する、いわば左翼的な系譜と、情報環境やオタク文化など虚構性が強い分野を論じる流れとの二つがあった。両者を止揚する論理を編もうというのが本書の狙い。そこで、筒井が1970年代から主張してきた「超虚構理論」などに注目する。

 現代の人間は、ほとんどの現実を直接の身体感覚ではなく、メディアを通した情報、つまり虚構の形で受け取っている。たとえば、メディアで知った政治や戦争の情報を、現実として理解する。そして、インターネットなど虚構の世界で自己を表現し、他者と交流する。つまり、現実と虚構の境界は、もはやあいまいだ。だから、現実と虚構の区別を付けられるところは付けつつ、後者にも前者並みの対応ができる世界の見方を構築すべしと主張している。

 反貧困や脱原発の街頭での運動形態にも、ネットを万能視した昨今の社会運動論や民主主義論にも違和感を覚える人に、特にお勧めだ。(生)
    --「今週の本棚・新刊:『虚構内存在』=藤田直哉・著」、『毎日新聞』2013年04月07日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130407ddm015070024000c.html

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虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉
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書評:S.グリーンブラット(河野純治訳)『一四一七年、その一冊が全てを変えた』柏書房、2012年。


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S.グリーンブラット『一四一七年、その一冊が全てを変えた』柏書房、読了。ルネサンス黎明期のイタリア。主人公はポッジョ・ブラッチョリーニ。教皇庁祐筆の人文主義「ブックハンター」の物語。歴史を変えるのは活版印刷でもガリレオでもない。古代ローマ詩人ルクレティウスの哲学叙事詩の発見だ 。

ルクレティウスの『物の本質について』(岩波文庫所収)は「神の摂理の否定と死後の世界の否定」する人間讃歌であったから千年以上秘匿された。そのフマニスムはピコ・デラ・ミランドラだけでなく現代科学論をも先取りする。

物語はヴァチカンの狡猾な内部抗争の狭間で続けられる古代ギリシア・ローマの写本の探索のドラマ。再発見に「全てを変えた」分水嶺を見出すが、本書は人と書物、ヨーロッパ出版史をめぐる優れた文化史ともなっている。

最後に蛇足。私は是々非々であればいいと思うから、歴史教科書的二元論とその眼差しから人間の営みを理解しても始まらない。宗教的権威も糞だが、人間中心主義も糞だから。どう軸を糾すかという話。鬼の頸をとることほど無益。


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「書評:『アップダイクと私――アップダイク・エッセイ傑作選』 ジョン・アップダイク著 評・尾崎真理子」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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『アップダイクと私――アップダイク・エッセイ傑作選』 ジョン・アップダイク著

評・尾崎真理子(本社編集委員)
その生涯と文学の神髄


 1970年代、アメリカの生活をこの人から教わった。それなりに長い読者でいたけれど、この本によって初めて対面できた気がする。

 米文学界を代表する文豪の遺作群から評論集7冊を選び、そこから絞り抜いた26編。心躍る訳文を凝らした、エッセイと書評の大傑作選だ。76年の生涯の要所もあまねく浮かび上がる。

 5歳でディズニーの「白雪姫」に魅了され、漫画家志望でハーバード大へ入学したとは意外。超一流誌「ニューヨーカー」編集部ですぐに頭角を現し、1957年、25歳の時にボストン郊外の生活をスタートさせている。以来50年、<私は何度も家を替え、教会の宗派を替え、妻を替えた。私の版元は何度も人手に渡った>。けれども水曜の晩には、決まって隣人たちとポーカー。<腕前ときたら並ですらないのに>

 こうした日常の積み重ねこそ、『走れウサギ』はじめ長編だけでも23作に及ぶ創作活動の、堅固なバックボーンだったのだ。

 映画(ならエロール・フリン)、ベースボール(中でもテッド・ウィリアムズ)、ゴルフ、美術、性。およそ自国文化に死角はないぜと言わんばかり、記憶に溜ため込んだ固有名詞とゴシップを満載した文章のパレードが続く。その小説の主人公より、作者は激しい人のよう。

 一番の読みどころは後半の作家評で、ヘンリー・ジェイムズを論じながら、<作者が大衆に差し出すべきは、作者自身、それだけなのだ>。プルースト、ボルヘス、J・チーヴァーらへ向けては、宝石で作ったナイフのような指摘を、20世紀文学の同じ高みからグサリと放つ。日本文学への造詣も深く、谷崎の病的な耽美たんびに共振し、村上春樹の『海辺のカフカ』と神道の関係をここまで熱心に解こうとしていたとは。

 編訳者の若島正(森慎一郎と共訳)は<正当に認められる日は、はたして来るのだろうか>と解説を結んでいるが、心配ご無用。本書によってその日はついに訪れた。

 ◇John Updike=1932~2009年。『カップルズ』『クーデタ』『金持になったウサギ』など著書多数。

 河出書房新社 2400円
    --「書評:『アップダイクと私――アップダイク・エッセイ傑作選』 ジョン・アップダイク著 評・尾崎真理子」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130327-OYT8T00876.htm


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アップダイクと私 ---アップダイク・エッセイ傑作選
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覚え書:「書評:『ジャン=ジャック・ルソーと音楽』 海老澤敏著 評・岡田温司」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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『ジャン=ジャック・ルソーと音楽』 海老澤敏著

評・岡田温司(西洋美術史家・京都大教授)

 「ルソーはまず音楽家だった」、モーツァルト研究の第一人者でもある著者の年来の揺るぎない確信である。18世紀フランスを代表する大思想家で、『エミール』や『告白』などの本でも名高いその人が「まず音楽家だった」とは、いったいどういうことなのか。半世紀にもわたる著者のルソー研究を集大成した本書は、その問いに誠実でかつていねいに答えてくれる。

 新しい記譜法を引っ提げてパリの文壇にさっそうと登場したルソー。「音楽を情熱と呼び、恋と対置させた」ルソー。先輩の大作曲家ラモーに対して、理論と実践の両面から果敢に論争を仕掛けたルソー。時まさに啓蒙けいもう主義の全盛期、ディドロとダランベールが編へん纂さんした浩瀚こうかんな『百科全書』のために、音楽関係の項目を数多く執筆したばかりか、みずから『音楽辞典』まで著したルソー、等々。数え上げるときりがない。とはいえ残念ながら、完全な形で今日に伝わる楽曲は、イタリア・オペラの影響を色濃く受けた代表作とされる幕間劇『村の占師うらないし』などごくわずかで、しかも上演されることも少ない。逆にだからこそ著者は、この大思想家の知られざる顔にあえてスポットライトを当てようとするのだ。その教育論や言語論、政治思想でさえ、実は音楽への「情熱」抜きには語りえないものだという。

 さらに本書で読みごたえがあるのは、誰もが口ずさんだことのある童謡『むすんでひらいて』をめぐる鋭い考察である。広くルソー作とされているのだが、綿密な調査によって著者はその通説に見直しを迫る。明治時代に日本に入ってきて、なぜルソーが作者とされるに至ったのか、そのスリリングな推理は読んでのお楽しみ。随所にちりばめられたモーツァルトとルソーの意外な比較論にもまた、この著者ならではの味わいがある。音楽へのルソーの情熱と、音楽家ルソーを解明し現代に甦よみがえらせる著者の「情熱」とが、美しくも軽妙な二重唱を響かせる好著である。

 ◇えびさわ・びん=1931年、東京生まれ。尚美学園大特別専任教授、日本モーツァルト研究所長。

 ぺりかん社 5800円
    --「書評:『ジャン=ジャック・ルソーと音楽』 海老澤敏著 評・岡田温司」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130326-OYT8T00894.htm


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ジャン=ジャック・ルソーと音楽
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キャンパスの花々


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このところ、ものすごく忙しく、なかなか更新できずすいません。
先週の金曜から授業も始まりましたの、キャンパスの花々でもひとつ。


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覚え書:「書評:『冬の旅』 辻原登著 評・角田光代」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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『冬の旅』 辻原登著

評・角田光代(作家)
絶対的宿命の中の生


 不幸になろうと望む人はいない。目の前に二つの道があるとき、その先に幸福があると思えるほうを、人は選ぶ。――いや、そうなのだろうか? 私たちに選ぶことなど許されているのだろうか? この小説を読んでいると、わからなくなる。

 三十代の緒方が滋賀刑務所を出所するところから物語ははじまる。なぜ刑に服すことになったのか、彼の過去が断片的に語られていく。少年のころ出奔した父親、ひとりで緒方を育て上げた母。就職した飲食店の上司、性的倒錯者であるアルバイト学生、白鳥満。ある偶発的な事件をきっかけにそこをクビになった緒方の次の職場の宗教団体。神戸の震災のただなかで出会う、妻となる女性。登場する人々は、それぞれの背景をうかがわせながら、複雑に絡まり合う。バブル景気、阪神淡路大震災、不景気――彼らはまるで風に煽あおられる紙くずのごとく、時代と、時代が起こす偶然に翻弄され、出会い、別れ、求め、裏切られ、手に入れ、失い続ける。

 緒方はじめ、すべての登場人物の心理描写がいっさい描かれていない。だから読み手はなぜ彼らがそのときそのように決断し、そのように行動するのかわからない。しかしわからないことに強力な共感がある。そのように行動しない選択肢などなかったと思えてくるのである。

 やがて先の疑問が出る。私は意志によって何かを選んでいるのだろうか。昨日あの電車に乗ったこと、待ち合わせに遅れたこと、今日風邪をひいて発熱することは、選び取ったことなのか。私たちは紙くずのように時代のなかを運ばれていくことしか、できないのではないか。

 宿命というものの冷徹で絶対的な力を、この小説は巨大で精密なタペストリーのように立ち上がらせる。そうしてラスト、私たちははじめて緒方の心の声を聞く。宿命のなかでどう生きるべきか、私たちもまた、考えることになる。読中も読後も、ひたすらに圧倒された。

 ◇つじはら・のぼる=1945年、和歌山県生まれ。作家。著書に『枯葉の中の青い炎』『許されざる者』など。

 集英社 1600円
    --「書評:『冬の旅』 辻原登著 評・角田光代」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130326-OYT8T00992.htm

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覚え書:「書評:『生命とは何だろう?』 長沼毅著 評・畠山重篤」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。


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『生命とは何だろう?』 長沼毅著

評・畠山重篤(カキ養殖業)

 幼稚園児だったある日、著者はすべり台の上からすべり降りて着地した時、“自分はどこから来てどこへ行くのだろう”と考えたというから、天才的な頭脳の持ち主なのだろう。

 しかし、研究室に閉じ籠もることなく、地底、海底、南極、北極、砂漠と、生命の起源を探し求めてフィールドワークを徹底的に行う姿勢を崩さない。

 “生命とは何か”という根源的なテーマに迫ろうとする時、あらゆる学問の壁を越えねばならない。そこは正に天才の領域と言える。

 137億年前に宇宙が誕生し、さまざまな素粒子が生まれ、やがて水素やヘリウムなどの原子が作られたことが「生命の起源」となったというが、ホモ属(ヒト属)の登場はわずか260万年前と言われている。はたして人類はどのような進化を遂げるのか。

 地球温暖化についても言及している。本当に怖いのは、むしろ寒冷化であると。興味津々なテーマが最後まで並ぶ。これから知の山脈を歩き始める人にとって必読の一冊である。(集英社インターナショナル、1000円)
    ーー「書評:『生命とは何だろう?』 長沼毅著 評・畠山重篤」、『読売新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130326-OYT8T00866.htm


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覚え書:「書評:森鴎外―日本はまだ普請中だ [著]小堀桂一郎 [評者]荒俣宏」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。


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森鴎外―日本はまだ普請中だ [著]小堀桂一郎
[評者]荒俣宏(作家)  [掲載]2013年03月31日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 


■破格の人間語る、700ページの「史伝」

 取り扱われた森鴎外の事績が膨大に過ぎたのか、それとも著者の側で書くべき材料が溢(あふ)れ返ったのか。たぶん両方が切り結んで700ページに及ぶ大評伝となったのだろう。鴎外の一生全体をほぼ過不足なく語っていくが、副題を「普請中だ」としたのは唯事(ただごと)でない。「普請中」は、「舞姫」の後日談とも読める短編のタイトルで、西洋から日本まで追ってきた恋人の処遇に窮する鴎外らしき官僚が、女に拒絶を言い渡す際に発した「決めゼリフ」だからである。
 鴎外がそもそもドイツ留学に出たのは、衛生面から日本を普請するためだった。軍隊を悩ます脚気の病原を細菌とするドイツ先端医学か、あるいは栄養学的な問題だとするイギリス経験医学か。これは陸軍対海軍の代理戦争でもある。また留学先では、元お雇い外国人の地質学者ナウマンが、日本の文明開化は外圧から発したもので舵(かじ)取りが利かないと批判し、世俗でも日本の生活環境は不潔だという誤解が流布していた。論争相手続出で、帰国後は全医学の改造も鴎外の肩にかかる。世界の医学情報を収集する医学ジャーナリズムの確立も急務であった。ちなみに本書は「情報」という便利な術語を造ったのは鴎外だとする見解に与(くみ)しているが、最新の研究で否定する人もいるので要注意。
 それにしても破格の人間である。軍人・医学者として日本普請に邁進(まいしん)しつつ、その「片手間」に日本文学をも普請してしまう。天敵とみなした自然主義に向けては、自身の罪を告白することでよしとする風潮が結局は自分の暗部を曝(さら)す露悪趣味に堕すると批判、軍人らしく情報力を活用した戦略に打って出る。まず、ドイツから新聞雑誌を大量に取り寄せ、活(い)きのよい新奇な短編小説を次々に訳出する。そのあとは、自然主義の得意技だった私生活描写を逆手に取り、なんと資料性が勝負の「史伝」として描き上げる実験に挑む。有名な「渋江抽斎」以下、あえて無名の江戸文化人を取り上げ、資料を発掘し取材する作業をも小説の一部に組み込むのだ。だが、取り上げた人物が平凡に死んでいるため、その作風はどこか身上調査書めいていき、肝心の読者がついていけなくなる。本書の著者も、同情と寛容をもって晩年の「史伝」を読むよう求めている。
 ならば鴎外は何を普請したかったのか。「史伝」はドラマ化や私生活の暴露ではなく、個人の静かな精神史だ。本書は鴎外の遺書を紹介するが、「石見人森林太郎として死せん」との遺言は、鴎外史伝が目指した無名にこだわることの意思表示だ。そういえば本書の書きざま自体も、これに倣って鴎外を「史伝」として普請する試みであるように感じる。
    ◇
 ミネルヴァ書房・4410円/こぼり・けいいちろう 33年生まれ。東京大学名誉教授(比較文化・比較文学、日本思想史)。『若き日の森鴎外』『森鴎外--文業解題』『森鴎外--批評と研究』『宰相鈴木貫太郎』『日本人の「自由」の歴史』
    --「書評:森鴎外―日本はまだ普請中だ [著]小堀桂一郎 [評者]荒俣宏」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013033100004.html

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森-外: 日本はまだ普請中だ (ミネルヴァ日本評伝選)
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覚え書:「書評:カールシュタイン城夜話 [著]フランティシェク・クプカ [評者]松永美穂」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。


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カールシュタイン城夜話 [著]フランティシェク・クプカ
[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)  [掲載]2013年03月31日   [ジャンル]歴史 文芸 

■チェコ宮廷、王と側近らの七夜

 カレル四世といえば、14世紀後半の神聖ローマ皇帝で、ボヘミア王、ドイツ王でもあった人物である。現在のプラハではカレル橋やカレル大学にその名が残る。彼は各国の宮廷に華やかな縁戚関係を持ちながら、チェコ人としての自意識を失わず、プラハをヨーロッパの文化都市として発展させた。本書は、そのカレルが宮廷で毒を盛られて療養生活を送っているときに、忠臣たちと七夜連続で物語を聞かせあったという設定。男だけの集団で、話すのは当然(?)女性のことばかり。そのため、一日三話、計二十一話の物語には、それぞれ女性の名前が冠せられている。
 最初は地名や人名に馴染(なじ)みがなくてとっつきにくかったけれど、途中からどんどんおもしろくなってきた。男女の出会いと別れがバラエティーに富み、人生への洞察に満ちた話が続くから、だけではない。著者自身が第二版のあとがきで書いているように、この本は「女性への愛」だけでなく「祖国への愛」に貫かれている。カレル四世時代は、チェコが当時の先進国の仲間入りをし、飛躍的に発展した時期だ。物語の登場人物たちからも、チェコ人としてのプライドが伝わってくる。
 この本の初版が出版されたのは、チェコがナチス・ドイツに占領されていた1944年。本書は秘(ひそ)かに強制収容所に持ち込まれ、囚人たちのあいだでも回し読みされたという。男たちの無聊(ぶりょう)を慰めるための艶(つや)話、だけではないことがわかってもらえるだろう。
 本書では三人の側近が物語を語るのにつられるように、病人であるカレル自身も語り手の側に参加していく。彼の話からは王家の特殊な家族関係も見えてくるが、そんな王であっても、恋人や妻を思う気持ちは庶民と変わらない。
 すべての物語が語られたあとで、毒殺未遂の真犯人がわかり、意外などんでん返しが待っている。仕掛けたっぷりの、大人の夜話なのだ。
    ◇
 山口巖訳、風濤社・2940円/1894-1961年。プラハ生まれ。作家・劇作家・詩人。
    --「書評:カールシュタイン城夜話 [著]フランティシェク・クプカ [評者]松永美穂」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013033100012.html

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覚え書:「書評:蟠桃の夢―天下は天下の天下なり [著]木村剛久 [評者]出久根達郎」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。


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蟠桃の夢―天下は天下の天下なり [著]木村剛久
[評者]出久根達郎(作家)  [掲載]2013年03月31日


■難解な思想書を解説する

 帯の背に、「山片蟠桃(やまがたばんとう)の生涯」とある。そうに違いないが、普通の伝記と思って読むと面くらうだろう。主人公の顔形が鮮明に見えてこない。
 蟠桃は江戸時代の大阪が生んだ町人学者である。米仲買の店の小僧から番頭になった。雅号の由来である。仙台藩の財政立て直しに妙策をもって成功する一方で、本を書く。太陽暦も作った。一年が三百六十五日に設定されている。
 大著『夢の代(しろ)』は、江戸期の独創的な思想書といわれ、難解なことでも有名である。本書はいっそこの本の解説書と紹介する方が正しいかも知れない。それでも、取っつきにくい。千三百枚の原稿を半分にした、とあるから縮約しすぎたのかも知れない。ムダが無い分、窮屈になった。
 本書はまず「あとがき」から入り、次に最終章を読むとわかりやすい。蟠桃が若い主人にあてた遺訓が、天才商人の人となりを表している。
 誰にも長所短所がある。短所は見捨てて長所を評価せよ、人の話には耳を傾けよ……
    ◇
 トランスビュー・2100円
    --「書評:蟠桃の夢―天下は天下の天下なり [著]木村剛久 [評者]出久根達郎」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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覚え書:「書評:孤独な天使たち [著]ニッコロ・アンマニーティ [評者]楊逸」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。


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孤独な天使たち [著]ニッコロ・アンマニーティ
[評者]楊逸(作家)  [掲載]2013年03月31日


■ぶつかりあう姉弟はやがて

 他人に共感できず、「自己愛性人格障害」と診断された14歳の少年、ロレンツォは、学校で仲間に恵まれず、孤独な日々を過ごしていた。しかし両親は、息子がたくさんの友だちに囲まれるようになってほしいと、塀が落書きでいっぱいの荒れた公立高校に入れて奮闘を続ける。
 ある日、一人の生徒がクラスメート数人を別荘でのスキーに招待するのを耳にして、ロレンツォは、親の期待に応えようとしたのか、自分も誘われてスキーに行く、と母に嘘(うそ)をついてしまった。
 スキーに出かける日、途中まで送ってくれた母と別れた後、ロレンツォは、誰も使っていない自宅マンション地下の物置部屋に、こっそりと舞い戻り、そこに籠(こも)って「スキーに行った」という時間を消化しようと企(たくら)むのであった。
 誰にも邪魔されず、自由気ままに過ごせるはずの一週間が始まって間もなく、思いもよらぬ招かれざる客--異母姉のオリヴィアが現れる。それまで会うこともめったになかった2人が、いきなり地下の暗くて狭い物置部屋で向き合うことになる。昔は「信じられないほどきれいだった」オリヴィアは「空色のベッドの上に伸びた、黒っぽい色の染みのよう」に変わり果てていた。何が起きたのだろう。
 回避から始まり、憎悪の念を抱き、危うく殺しそうになるほどの喧嘩(けんか)までした。やがて姉を憐(あわ)れむようになり、助けてやらなければという強い姉弟愛が生まれる。そして10年後、オリヴィアの財布に、ロレンツォの電話番号を書いた紙が残っていたため、2人は衝撃の再会を果たす。
 9歳違いの姉と弟、それぞれに孤独を抱えながら、擦れ違い、そして激しくぶつかりあった。著者は迫力のある筆遣いで、半ば暴力的なぶつかりあいの凄(すさ)まじさを、生き生きと描いている。巨匠ベルトルッチ監督もきっとその描写力に魅せられて、9年ぶりに映画を作ったのだろう。
    ◇
 中山エツコ訳、河出書房新社・1680円/ 66年、ローマ生まれ。『ぼくは怖くない』など。
    --「書評:孤独な天使たち [著]ニッコロ・アンマニーティ [評者]楊逸」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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研究ノート:南原繁と吉野作造


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(2)人間人格と自由の精神
 南原思想の現代的意味を尋ねるならば、その一つは何と言っても「人間人格の自由」「良心の自由」の根拠、神的な根拠を語って、それによって実践的に生きたことでしょう。その「良心の自由」は、彼にとっては人間性に生得的なものではありませんでした。人間は人間悪の矛盾の中にあると南原は認識しました。それゆえ人間は、自己を没却して神の恩恵によって再生されなければならないと言うのです。「重要なのは、各個人の心情・良心において神的生命と直接に結合(これは南原においては連続的な結合ではなく対決的あるいは自己放棄的な不連続な結合を意味しています)することであり、それによって一切の外的権威に対して内面的独立を保つことである」と言います。南原の人間人格の回復と良心的自由の確立は、神との直接関係によるものでした。この点で南原は、彼の先輩吉野作造とも相異していました。吉野にとっては、ヒューマニティの中にディヴィニティがあり、そのディヴィニティによって「四海同胞」を語ることが可能と思われました。つまり吉野には「ヒューマニズムと宗教改革」の「相違」や「断絶」が欠如していたわけです。しかし南原にとっては、ヒューマニティの否定と忘却のかなたに思いも設けぬ神の恩恵からの創造としての「宗教的良心」があります。そこに人間人格の自由の根拠が見出されました。南原と吉野の間のこの相違は、人間悪の認識の違いでもあったのですが、それはまた両者のそれぞれの師つまり海老名弾正と内村鑑三の違いとしても指摘することができるでしょう(50)。そこにはまた「罪」の認識の相違と共に、「贖罪」の理解の相違がありました。南原は彼自身の告白の言葉としては幾分希薄とも思えますが、やはりキリスト論的贖罪信仰の線にあったことは否定し得ないことです。ただしその表現が、師である内村の場合に比してある意味で希薄な表現に止まったこともまた事実であり、それには理由があったと思われます。
(50)『南原繁著作集』第一巻、三二一頁。
    --近藤勝彦「講演 南原繁のキリスト教信仰と学問思想」、南原繁研究会編『宗教は不必要か』tobe出版、2007年、40-42頁。

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南原繁のキリスト教信仰の特色のひとつが「罪」の認識になりますが、南原の先輩にあたる吉野作造のキリスト教信仰の特色も同様に、否、それ以上に「罪」の認識が希薄になる。

もちろん、それはうえで指摘されている通り、その二人の師の特色の違いによるものではありますが、ある意味では、南原、吉野共に、師と向き合うなかで、自身の展開を描いたとも評価できなくはありません。

このあたりは、講演を手掛かりにして、もうすこし手をいれる必要がありますね。


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宗教は不必要か ― 南原繁の信仰と思想

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覚え書:「書評:インフォメーション 情報技術の人類史 [著]ジェイムズ・グリック [評者]山形浩生」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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インフォメーション 情報技術の人類史 [著]ジェイムズ・グリック
[評者]山形浩生(評論家)  [掲載]2013年03月31日   [ジャンル]人文 


■人間とは何か、皮肉に悲しげに

 人は常に情報に支配されてきた。遺伝子に刻まれた情報がぼくたちのあり方を規定し、情報の扱いが文明の興亡をもたらす。だからこそ情報の蓄積、形式化、伝達は急激に発展し続け、情報の量も増大を続ける。そしてエントロピー概念を通じて情報は物理世界と接続され、この宇宙すべても実は壮大な情報の渦だという情報宇宙論にまで至る--。
 これがこの長大な『インフォメーション』の全体像だ。もちろんその大部分は、コンピューターやインターネット、その背後に流れる情報理論の進展となる。だがグリックは、鈍重な年表ではすませなかった。事例の詳細な説明で描きだされるのは、情報という現象の質的な変化だ。その本質は、形式化、機械化、自動化の流れだ。なかでも本書の手柄はその過程で生じた、「意味」の喪失の指摘にある。媒体、情報、意味は不可分だったのに、やがて情報は媒体を離れ、意味は情報量で置き換えられる。それはもう人間を必要としない。いまや情報は自律的に増殖し、人間はそのお守り役でしかない。「情報史」はそこで人類とは決別するのだ。
 だが、と最後に本書は問う。意味と切り離された「情報」とは何なのだろう。その情報洪水の中で必死にそのおこぼれのような意味を探す人類とは結局何なのだろう。壮大な構想とは裏腹に、本書はちょっと悲しげだ。情報の主人のつもりで書き始めたのに、気がつくと己が情報の従属物だった衝撃、それでも「意味」にすがり情報につかえざるを得ないという悲哀。そしてそれを伝えるためにさえ、大量の情報に付随する薄氷のような「意味」に頼らざるを得ない--その皮肉への自覚が、本書を単なる技術史以上のものとしている。それは、本書を読む読者--そして書評子たるぼく--が、いやがうえにもつきつけられる皮肉でもあるのだ。
    ◇
 楡井浩一訳、新潮社・3360円/James Gleick 54年生まれ。作家、ジャーナリスト。『カオス』など。
    --「書評:インフォメーション 情報技術の人類史 [著]ジェイムズ・グリック [評者]山形浩生」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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覚え書:「書評:危機の憲法学 [著]奥平康弘 [編]樋口陽一 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。


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危機の憲法学 [著]奥平康弘 [編]樋口陽一
[評者]上丸洋一(本社編集委員)  [掲載]2013年03月31日   [ジャンル]政治 


■憲法の対応力を理論的に検討

 東日本大震災の発生から2カ月近くたった5月3日の憲法記念日、東京都内で開かれた改憲派の集会に出向いた。そこで何が語られるか、聞いておきたかったからだ。
 「自衛隊の災害援助活動は憲法に規定されていない。憲法九条を改正して、国防軍がその任にあたることを明確にすべきだ」
 高名な学者が講演した。
 確かに憲法にそうした規定はない(そもそも自衛隊を直接、規定する条文がない)。しかし、自衛隊法が災害援助活動を規定している。改憲の必要がどこにあるのか、首をかしげた覚えがある。
 現行憲法では、今度の大震災・原発事故のような危機に対応できない、という主張がある。本当にそうなのか。
 本書は「『危機』における憲法の対応力を理論的に検討」することをテーマに、憲法学者14人の論文を収録。〈3・11〉後の政治、社会を憲法学の窓から考察する。
 民主党政権下、大飯原発(福井県)の再稼働を協議した関係閣僚会議は、議事録を作成しなかった。第3章では、この点を軸に、政府の意思決定と政治家の責任について考える(蟻川恒正執筆)。
 また第12章では、被災者の避難行動と避難生活を憲法に照らして分析。原発事故に際しての政府の避難指示は「あまりに住民の生命、身体の安全を軽視した粗雑にすぎるもの」であり、「法的責任を問われてしかるべきもの」と指摘する(葛西まゆこ執筆)。
 ほかに、愛敬浩二「国家緊急権論と立憲主義」、鈴木秀美「原子力災害と知る権利」などの論文を収める。
 憲法が掲げる理念は、なお実現の途上にあることを本書は語る。ただし、専門性が高く、全体にかなり難解だ。
 一般向けには森英樹ほか編著『3・11と憲法』(日本評論社)などがある。折しも、前回衆院選を違憲、無効とする司法判断が続いた。今こそ憲法に向き合う時だ。
    ◇
 弘文堂・4305円/おくだいら・やすひろ 東京大名誉教授。ひぐち・よういち 東北大・東京大名誉教授。
    --「書評:危機の憲法学 [著]奥平康弘 [編]樋口陽一 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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覚え書:「みんなの広場 指導での罵声や暴力やめて」、『毎日新聞』2013年04月03日(水)付。


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みんなの広場
指導での罵声や暴力やめて
主婦 72(福岡市東区)

 近所にある2カ所の公園では、土日は朝から小学生がそろいのユニホームで、野球やサッカーに余念がない。子供たちの頑張る姿が可愛いくて、買い物途中にそばを通ると時々足を止めて見学する。しかし、指導者らしき人の聞くに堪えない罵声にその場を急いで離れることもある。
 スポーツの指導者の体罰に追い詰められて自殺した子供を思うと、心が痛む。女子柔道選手への暴力やパワーハラスメントにもショックを受けた。大きく報道されたことで社会問題化したが、指導者たちは反省し、どう変わるのか。体罰や暴言は二度としないでほしい。
 先日も元気な声が公園に響いていた。指導者の声も心なしか少し優しい。公園の桜も満開間近だった。心からスポーツを楽しむ子供たちを見たい。大人は安全にプレーできるように見守り、のびのびと競技に取り組めるようにしてほしい。
    --「みんなの広場 指導での罵声や暴力やめて」、『毎日新聞』2013年04月03日(水)付。

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覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『もうひとつの街』=ミハル・アイヴァス著「、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。


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今週の本棚:沼野充義・評 『もうひとつの街』=ミハル・アイヴァス著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊


 (河出書房新社・1995円)

 ◇中欧の荒々しい想像力が躍動する活劇風奇想譚

 中欧から鮮やかな文学の贈り物が届いた。その名も『もうひとつの街』。いまでも魔法のような魅力を漂わせるチェコの古都、プラハを舞台として、その現実の街と並行的に存在するもうひとつの摩訶(まか)不思議な街を探索する物語である。作者はチェコの作家にして哲学者。中・東欧版「マジック・リアリズム」の旗手として幻想小説を次々に発表しているが、その一方でデリダやボルヘスを論じた批評や理論的著作もある。社会主義時代には作品を発表することができず、ビロード革命の時期に遅咲きのデビューを果たし、いまや国際的に注目される存在である。

 『もうひとつの街』の物語は、名前のない主人公の「私」が、雪の降りしきる冬のある日、プラハのカルロヴァ通りの古本屋で濃い菫(すみれ)色のビロードで装丁された不思議な本を見つけるところから始まる。中を開くと、判読できない未知の文字が「魔法のネックレスのチェーン」のように連なっていた。この世界のものとも思えないその本の虜(とりこ)になった「私」はそれを購入し、大学図書館に専門家を訪ねて意見を聞くのだが、それから次々と不思議な光景を見聞するようになり、自らも奇怪な冒険に巻き込まれていく。

 こういった設定からして、現代文学最先端というよりは、古書好きの読者にとってたまらなく懐かしい、やや古風な仕掛けの小説と言えるかもしれない。架空の不思議な本を扱った現代小説の傑作は少なくなく、ボルヘスの『砂の本』や、セルビアの作家、パヴィチの『ハザール事典』などがすぐに頭に浮かぶ。しかし、アイヴァスの筆力は、そういった先行者とはまったく異なった未知の領域に読者を運んでいき、都会の裏側に繁茂するジャングルのような世界に迷い込んだ読者は息をつく暇もなく、ページを繰っていくことになる。

 実際、次々に繰り出されるシュルレアリスム的とも呼べそうなイメージの数々は、ここで列挙することも難しい。プラハ郊外のペトシーンの丘からは津波が押し寄せてきて、その中から巨大な黒い魚が顔を出し、人間をあざ笑う。そして街には時折緑色の特別な路面電車がやってきて、線路もない森や畑を突っ切って、最後にはチベットの僧院にまで行くらしい。一度その電車に乗った者は、二度と普通の世界には帰って来られない。深夜の大学では「室内の奥地での大戦争」についての講義が行われ、主人公はやはり深夜の鐘楼の回廊でサメと格闘し、エイに乗って空を飛び、鳥の朗誦(ろうしょう)する叙事詩を聞く、といった具合だ。

 この活劇風の奇想譚(きそうたん)の背後には、二つの「帝国」の境界に生きることを運命づけられた人間の「起源」と「中心」を求める形而上(けいじじょう)的な探求という側面も強く感じられ、それがこの作品をいわば思想的にも強靱(きょうじん)なものにしている。ひょっとしたらこの「もうひとつの街」は、西欧からは「見えない」中欧という存在の隠喩になっているのだろうか。

 こういう作品に接すると、アメリカや西欧の現代文学とは明らかに異なった息吹を感じることができる。それは商品としての洗練度に関してはやや粗く見えるかもしれないが、文学が本来持っていた荒々しい想像力の手ごたえを感じさせる「もう一つのヨーロッパ」の力というものだろう。現代の世界文学は英語だけでわかるものではない。幸い、本書の訳者を初めとして、中・東欧の文学を原語で読解できる新進の優れた研究者・翻訳者が活躍を始めている。今後、紹介がさらに進むことを期待したい。(阿部賢一訳)
    --「今週の本棚:沼野充義・評 『もうひとつの街』=ミハル・アイヴァス著「、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130331ddm015070023000c.html


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もうひとつの街
もうひとつの街
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ミハル・アイヴァス
河出書房新社
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覚え書:「書評:学問は現実にいかに関わるか [著]三谷太一郎」、『朝日新聞2013年03月31日(日)付。


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学問は現実にいかに関わるか [著]三谷太一郎
[掲載]2013年03月31日   [ジャンル]教育 

 日本近代政治史の研究者が、福沢諭吉、吉野作造、大山郁夫、蝋山政道、丸山眞男らを例に、学問と現実の関わりを考えた。福沢は、高い水準の「学問」を担う人間に「人望」が集まるとし、人望がなければ学問は用をなさないと述べた。学問の危機はしばしばそれを担う学者の人望の危機という形で現れる、との著者の指摘は重い。
 「現実」と「現在」を混同してはいけないともいう。様々な面をもつ「現実」の構造をとらえること。「現在」が永遠に続くと信じる権力崇拝によって曇らされない、状況判断能力を保つこと。それが学問の任務だという。表紙は、吉野の蔵書印がある『学問ノスヽメ』の「学者ノ職分ヲ論ス」。象徴的だ。
    ◇
 東京大学出版会・2940円
    --「書評:学問は現実にいかに関わるか [著]三谷太一郎」、『朝日新聞2013年03月31日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013033100007.html


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学問は現実にいかに関わるか
三谷 太一郎
東京大学出版会
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覚え書:「書評:児玉誉士夫 巨魁の昭和史 [著]有馬哲夫 [評者]後藤正治」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。


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児玉誉士夫 巨魁の昭和史 [著]有馬哲夫
[評者]後藤正治(ノンフィクション作家)  [掲載]2013年03月31日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 


■米国公文書から足跡を探る

 右翼、黒幕、政商……児玉誉士夫に載せられてきた形容である。ロッキード事件の被告となり、CIAとのかかわりも明るみに出たが、いまも実像は霧の中にあり続けている。本書は主に、アメリカの各情報機関が保持する「児玉ファイル」を検索するなかで児玉の足跡に新しい光を当てんとした評伝である。
 戦前、児玉は「鉄砲玉」としてテロ事件を起こして収監されるが、陸軍、ついで海軍航空本部と交わり、大陸で「児玉機関」を設立、物資調達にたずさわった。ヘロインも扱った。A級戦犯容疑で巣鴨プリズン入りするも釈放され、政界に豊富な資金を提供し、戦後政治の節目に裏工作者として介在していく……。
 CIAとは巣鴨釈放の時点から「協力関係」にあったという。米側からすれば、反共の駒の一つであり、「手のひらの上で踊ら」せていた存在だったのだろう。
 戦後、児玉が掲げたのは「自主防衛」であるが、それもお題目であって、占領軍、鳩山一郎、河野一郎……と、時々の権力に吸着することに長(た)けた政商という色彩が濃い。保守政界とのかかわりは続くが、岸信介以降は密度が薄れていく。権力側がもう裏世界の関与を必要としなくなっていったのだろう。
 「…推測の域をでない」「…一枚かんでいたのかもしれない」といった言い回しが随所に見られる。個々の事例で児玉がどう介在したかという確証は、ファイル類からも掴(つか)み切れないからだ。
 読了し、児玉を包む霧は随分薄くなったように感じるが、依然実像は霞(かす)んでいる。あるいは〈実像〉などないのかもしれないとも思う。児玉にとって必要だったのは〈怪物という虚像〉が独り歩きしてくれることであったろうから。晩年は脳卒中の後遺症が残り、「失見当識」であったという。虚空に視線をやったままに逝った、孤独な老人の姿がふっと浮かぶ。
    ◇
 文春新書・987円/ありま・てつお 53年生まれ。早稲田大学教授(メディア論)。『原発と原爆』など。
    --「書評:児玉誉士夫 巨魁の昭和史 [著]有馬哲夫 [評者]後藤正治」、『朝日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013033100005.html


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児玉誉士夫 巨魁の昭和史 (文春新書)
有馬 哲夫
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おどろきの神経内科・外科神学


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4月1日の新年度より、看護助手の仕事をはじめました。昨日で2日目。
神経内科・外科の担当ですが、まさに患者さんの入院生活を清潔・快適に保ち、医師・看護士がスムーズに仕事ができるように「準備の準備」をする仕事といえばいいでしょうか。

医療の世界はどこかで経験しておかなければならないとは元々思っておりましたので、良い機会になるのではないかと考えております。

そうした応答のなかから、自身の研究を深めていきたいと思います。


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覚え書:「今週の本棚・新刊:『理想だらけの戦時下日本』=井上寿一・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『理想だらけの戦時下日本』=井上寿一・著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊

 (ちくま新書・882円)

 戦前、戦中の時代状況を猛烈な勢いで書き続けている著者の今年度4冊目となる単著。「国民精神総動員運動」、略して精動運動の通史である。精動運動は、日中戦争が始まった1937年から40年まで続いた、戦争動員のための官製運動だ。

 著者は、当時と現代の国民意識が似ているとする。30年代は、投票率の下がる現代同様、代表民主制への懐疑が強かった。復古的な「家族」主義からリベラルな「新しい公共」まで昨今の強い共同体指向は、精動運動にもあった。精動運動には格差是正を求める面もあった。「勤労奉仕」という名の学生ボランティアなど、運動の具体的内容も今に通じる。他方、当時の国民は、全力で精動運動に没入したとも言い難い。運動関係のイベントは、集客のため漫画の主人公の紙芝居を上演した。「聖戦」の意義を確認する「興亜奉公日」には、温泉地がにぎわった。

 ともあれ、当時の国民一般は、共同体、平等指向の運動が盛んで、その運動からの抜け道もある自分たちの社会を「ファシズム」と呼ばれても反発したただろうと本書は見る。さて、「右傾化」が叫ばれる現代の日本は、どうだろうか?(生)
    --「今週の本棚・新刊:『理想だらけの戦時下日本』=井上寿一・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130331ddm015070020000c.html


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理想だらけの戦時下日本 (ちくま新書)
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戦前昭和の社会 1926-1945 (講談社現代新書)
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政友会と民政党 - 戦前の二大政党制に何を学ぶか (中公新書)
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覚え書:「今週の本棚・新刊:『知的創造の技術』=赤祖父俊一・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。


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今週の本棚・新刊:『知的創造の技術』=赤祖父俊一・著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊

 (日経プレミアシリーズ・893円)

 著者は、オーロラ研究の権威として知られる米アラスカ大名誉教授。競争の激しい米国に半世紀以上、身を置いた経験から、研究者や企業が生き残るための方法論を提案した。

 鍵となる言葉が、「創造」だ。そして、創造とは、無から突然生まれるのではなく、二つ以上の要素を組み合わせる「統合」と説く。

 例えば、ニュートンの「万有引力の法則」は、木から落ちたリンゴと太陽の周りを動く惑星から導かれたと紹介した。産業分野では、ガソリンエンジンと電気モーターを併用した「ハイブリッド車」を取り上げた。日本発の成果で、「創造力に劣る日本人」というのは間違った思い込みだと断言している。

 同時に、現場を歩かず、室内にこもって仕事をしがちな若手研究者の姿勢に疑問を投げかけた。流行のシミュレーションは、既存の方程式に従って計算する道具であって、方程式を書き換えようとする創造を奪っているというのが理由だ。

 現代社会では、パソコン1台あれば、何でも容易に調べられる。以前に比べて、必死に調べたり、考え抜いたりする努力を怠りがちになった気がする。耳が痛い一冊。(泰)
    --「今週の本棚・新刊:『知的創造の技術』=赤祖父俊一・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130331ddm015070043000c.html

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覚え書:「今週の本棚・新刊:『幻の野蒜築港 明治初頭、東北開発の夢』=西脇千瀬・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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今週の本棚・新刊:『幻の野蒜築港 明治初頭、東北開発の夢』=西脇千瀬・著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊

 (藤原書店・2940円)

 明治初頭の東北に国際的な貿易港を造る計画があったことをどれだけの人が知っているだろう。宮城県出身の地域社会史研究者である著者は、この野蒜(のびる)築港(同県東松島市)の建設計画が<現在に連続する東北の後進性と、地域間格差と表裏をなす劣等感への分岐点だった>という認識に基づき、計画が地域ひいては東北に与えた影響を検証していく。

 <政府お墨付きの文明開化>は人々の生活や精神にどんな変化を及ぼしたのか、国の財政難の影響で工事が頓挫するまでの経緯はなぜ忘れ去られていったのか。「仙台日日新聞」「奥羽日日新聞」といった地元紙の記事を読み解き変遷を追う。

 「(宮城は)土地が肥沃(ひよく)ゆえに人民が怠惰」といった内省的な論調が、工事が進むにつれ西南地方への対抗心や警戒心を前面に出し「地域による自立」を叫ぶようになる。

 強調するのは、地域の人々が主体的に自らの歴史を語り直すことの重要性だ。野蒜も東日本大震災の津波で大きな被害を受けたが、著者は地元の「野蒜築港ファンクラブ」とともに地域誌『奥松島物語』の刊行を始めた。地域語りの実践が街の再生に何を付与するのか注目したい。(さ)
    --「今週の本棚・新刊:『幻の野蒜築港 明治初頭、東北開発の夢』=西脇千瀬・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130331ddm015070017000c.html


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幻の野蒜築港 〔明治初頭、東北開発の夢〕
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覚え書:「みんなの広場 尊敬や信頼 感じられぬ橋下氏」、『毎日新聞』2013年04月01日(月)付。


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みんなの広場
尊敬や信頼 感じられぬ橋下氏
無職 68(大阪府熊取町)

 大阪市が昨年2月、全職員を対象に行った政治・組合運動に関するアンケートについて、大阪府労働委員会は「不当労働に当たる」と認定したことを受け、その日の午前中に橋下徹視聴は謝罪を口にして不服申し立てをしない意向を表明した。ところが、夜になって「組合は正義面するな」と一転して高圧的な発言をした。
 府労委の認定を受けた組合側の会見で自身の政治姿勢を強く批判されたことがその理由とのことだが、舌の根も乾かないうちの謝罪撤回。橋下氏の受け狙いのパフォーマンスや思いつき発言はこれまで幾度となく繰り返されてきた。そして旗色が悪くなると、「選挙で選ばれた僕が民意」という強権的な主張をして、教育や組合に過度の介入をしてきた。
 この人からは尊敬、信頼の念が伝わってこない。伝わってくるのは理念なき言動のみだ。
    --「みんなの広場 尊敬や信頼 感じられぬ橋下氏」、『毎日新聞』2013年04月01日(月)付。

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覚え書:「今週の本棚・新刊:『ポツダム宣言と軍国日本』=古川隆久・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。


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今週の本棚・新刊:『ポツダム宣言と軍国日本』=古川隆久・著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊

 (吉川弘文館・2730円)

 「敗者の日本史」シリーズ(全20巻)の一冊。1945年の敗戦で、大日本帝国は崩壊した。なぜ、あのような愚かな戦争に行き着いてしまったのか。戦後歴史学が営々と追究してきた大きなテーマに、気鋭の研究者が挑んだ。

 明治維新から日清、日露戦争の勝利を経て軍部が台頭し、政治が制御できなくなった。2・26事件を経て、軍部自体が政治的に自立して行く様子が分かる。さらに国際社会からの孤立、日中戦争を経て太平洋戦争の開戦、敗戦と独立までを描く。

 著者らしく、先人による分厚い研究成果はもとより、近年の新知見にも丹念に目配りする。また一般読者が入手しやすい書籍を参考文献としたという。

 読者への気配りとは裏腹に、為政者たち、特に明治の元勲たちへの批判は厳しい。彼らの作った国について「一応近代国家の体裁を整えたとはいっても、いかに国民不在の国家であったか」といい、軍や官僚機構の独走を食い止められない構造だったことを明らかにする。国づくりの段階ですでに、破滅への道が敷かれていた、ということか。新たな議論のたたき台となりそうだ。(栗)
    --「今週の本棚・新刊:『ポツダム宣言と軍国日本』=古川隆久・著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130331ddm015070044000c.html

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ポツダム宣言と軍国日本 (敗者の日本史)
古川 隆久
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覚え書:「今週の本棚:富山太佳夫・評 『文学におけるマニエリスム』=グスタフ・ルネ・ホッケ著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。


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今週の本棚:富山太佳夫・評 『文学におけるマニエリスム』=グスタフ・ルネ・ホッケ著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊

 (平凡社ライブラリー・2310円)

 ◇精神史の「地下」に文化現象の謎を求めて

 大学紛争の時期をはさむ今から四〇数年前のことであるが、ドイツの学者グスタフ・ルネ・ホッケによる西欧文化史の本というのか、美術史、思想史、文学史というのか、ともかく途轍(とてつ)もない二冊の本が翻訳された。『迷宮としての世界』と『文学におけるマニエリスム』がそれである。私も読んだ。そして、あの頃の思想の動きとは別の方向に突出してかけめぐるその内容に感心したことを覚えている(もっともあの頃私が熱中していたのはルカーチやベンヤミン、そして小説家のギュンター・グラスであったが)。

 ただ感心するだけにとどまらず、その主張に賛同して、さまざまの領域でそれを自己流に活用するひとたちもいて、「ホッケ教徒」と呼ばれたりもした。そんなホッケの二冊目の本の文庫化である。書評としては少し異例かもしれないが、今回はこれを取りあげることにする(『迷宮としての世界』も最近岩波文庫に入った)。

 ともかく『文学におけるマニエリスム、言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』を開いてみることにしよう。

 「ヨーロッパ文学におけるマニエリスムの源泉は古代の<アジア的>文体に遡(さかのぼ)る。このマニエリスムが、たんに一五二〇年と一六二〇年頃との間の狭く限られた意味でのマニエリスム的様式期のみに限定されない<表現身振り>として眺められるなら、そのとき私たちはヨーロッパ精神史の反古典的常数ならびに反自然主義的常数と関わることになるはずである。調和的なものよりは変則的なるものを好む様式(ステイル)であるこの様式は、全ヨーロッパ文学史のうちに例証できる……それはくり返し特殊な文学、芸術作品、作曲のうちにあざやかに表明される」

 問題は、この洞察をいかにして具体的に論証していくのかということだろう。その場合に作家論や階級論を土台とする分析ではとてもうまくいくはずがない。ホッケはそのことを明確に理解している。「文学的マニエリスムはわけてもその形式上(、、、)の諸特性において認知することができる」--内容ではない、形式こそが重要なのだということである。少なくとも形式、かたちこそが突破口になるというのだ。そうだとすれば、これはフォルマリズム批評の一種になりうるということだろうか。
 学生のときにこの本を読んだときには、その異様なばかりの迫力に圧倒されて、そんなことは考えもしなかった。しかし、今、ロシア、英米、フランス等でのフォルマリズム批評の成果を思い返してみると、ホッケの批評も基本的にはそれらと同じ方を向きながら、更に一歩踏み出しているようにも見えるのだ。彼が眼(め)を向けたのは、古典主義的な美や調和に対してではなく、「変則的なものにたいする傾向」や、「不調和なるものの崇拝」に対してであった。そのときには、例えばグロテスクなものにしても単純に拒否、排除してよいものではなくなる。そうだった、ほぼ同じ時期にヴォルフガング・カイザーの『グロテスクなもの』も日本語訳されて話題になっていた。

 ホッケは「ヨーロッパの精神史における<地下世界>」の特性を明るみに出そうとする。それは、「古代アレクサンドレイアの諸神混淆(こんこう)主義から今日の大都会の大衆文化にいたるまでの」諸々の文化現象の背後にあるものを明らかにする試みともなるはずである。

 勿論(もちろん)ここで多くのひとたちは苦笑してしまうことだろう、そんなことが本当にできるのかい、と囁(ささや)いて。しかし、それをやってのけたのがこの本なのだ。「実例、典拠参照、直接証拠」を駆使して、やってのけたのだ。あとは、読んでもらうだけである--そう書いてこの書評をおえてもいいのかもしれないが、もう少しサーヴィスするほうがもっといいかもしれない。そこで小見出しを幾つか紹介してみることにしよう。「超-書物と綺想(きそう)主義」、「<断片の天才>」、「異-修辞学」、「音楽のカバラ学」、「迷路小説」、「現代の<怪物たち>」、「カントとヘーゲルの判決」。

 最後には、「ヨーロッパの綺想体」という小見出しのもと、使われた作家名と引用とが並んでいる、ゴンゴラ、ウンガレッティ、ランボオ、マラルメ、シェイクスピア、イエーツ、ジョイス、エドワード・リア、マヤコフスキー、パウル・ツェーラン等々が。

 訳者種村季弘のあとがきの中には、来日したホッケとの楽しい出会いのことが紹介してあるし、高山宏の見事な解説は日本におけるマニエリスムの影響をマニエリスム的にまとめたもの。『不思議の国のアリス』をこの方向から読み直すことにも、彼は熱中した。そして、そう、八木敏雄『マニエリスムのアメリカ』(南雲堂、二〇一一年)は、その考え方をメルヴィルやポオに適用し、アメリカ・インディアンの描かれ方の分析にも活用したもの。見事である。(種村季弘訳)
    --「今週の本棚:富山太佳夫・評 『文学におけるマニエリスム』=グスタフ・ルネ・ホッケ著」、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。

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書評:「里村欣三顕彰会編『里村欣三の眼差し』(吉備人出版)」、『第三文明』2013年5月、95頁。


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書評
『里村欣三の眼差し』
里村欣三顕彰会編

吉備人出版・2940円

果敢に抵抗したヒューマニズム作家の実像

 プロレタリア作家として活躍したのち、従軍作家として唯一戦死した文学者である「里村欣三ほど誤解され忌避(きひ)された作家は、この国の文学史上稀(ま)れである」(戦時文学研究家・高崎隆治)。文学史は里村を軍国主義作家の代表と位置づけるが、果たしてそれは正しいのか。
 試みに戦中の作品を手に取ると、軍国主義を正当化しようとする色彩は殆どない。里村は貧者や弱者には「国境がない」という。最底辺の弱者に寄り添う慈愛と優しさには「転向」はない。このブレのなさに注視すると、里村は、あらゆる立場主義と訣別(けつべつ)するヒューマニズムの作家といってよいだろう。イデオロギーを優先させるプロレタリア作家とも、利害を優先させる翼賛文化人とも里村を分かつのは、この一点である。その意味で里村は再評価されてしかるべき文学者である。
 本書は、里村に関する待望の論集である。里村を顕彰しようとする人々の意欲的な試みだ。五〇余りの考察は、その実像を多面的に明らかにする。埋もれた経歴の点と点を繋ぐだけでなく、より立体的な里村像を提示する。里村は創価教育学会の会員であったといわれるが、入会時期や信仰の実相に迫る論考など、この本で初めて知ることは多い。
 すべてが統制下の時代の抵抗とは錯綜的であり、単純な二元論でその「眼差(まなざ)し」を捉えることは不可能だ。あれか・これかで人間を分断する現代、里村を学ぶ意義はそこにある。里村の作品は青空文庫にいくつか収録されている。本書と併せて若い人たちに手にとって欲しい。
(神学研究者・氏家法雄)
    --拙文「里村欣三顕彰会編『里村欣三の眼差し』(吉備人出版)」、『第三文明』2013年5月、95頁。

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里村欣三の眼差し
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里村欣三生誕百十年記念誌
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覚え書:「3・11とメディア―徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか [著]山田健太 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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3・11とメディア―徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか [著]山田健太
[評者]上丸洋一(本社編集委員)  [掲載]2013年03月24日   [ジャンル]社会


■報道姿勢に反省はあるのか

 東京電力福島第一原発の1号機が水素爆発を起こした直後、在京のあるテレビ局は「爆発弁というものを使った意図的な作業」だと伝えた(「デイズ・ジャパン増刊号 検証・原発事故報道」)。「爆発弁」とは何か? 当のテレビ局が釈明なり訂正なりをしたとは聞かない。
 昨夏、脱原発を訴える首相官邸前のデモを取材中に、一枚のビラを手渡された。「全国紙不買のすすめ」と題したそのビラは朝日、毎日、読売などの全国紙を「政府の宣伝局」と批判していた。
 原発事故報道で噴出したメディア批判。しかも「少なからぬ大メディアは……反省どころか自らの取材・報道姿勢を肯定しているように見える」と著者は指摘する。
 〈3・11〉に際し、新聞(全国紙、地方紙、地域紙)、放送(テレビ、ラジオ)、雑誌、ネットメディアはどんな役割を果たしたのか。新聞、テレビなどの「伝統メディア」とインターネットなどの「新興メディア」の間にどんな連携があったのか。
 本書は、これらを具体的に検証し、問題の所在と今後への教訓を市民の視点から明らかにする。
 問題点の一つとして著者は「(政府や東電などの)意思決定過程の不透明性・正当(正統)性についての追及不足」をあげる。例えば、食品の安全基準は「どこでどのような議論を経て決まったのかの報道が不十分」だったと。
 その背景に「民間情報や海外情報より、日本国政府の発表や決定を相対的に上位におく体質と、官邸・官僚への絶対的な信頼感」があると著者はみる。伝統メディアが信頼をおく官製情報に、人々は首をかしげた。その落差が不信や批判となってメディアにはね返ってきた……。
 メディアにとって本書は、自己検証のためのよりどころとなろう。メディアに不信を抱く方々にも、お薦めしたい一冊だ。
    ◇
 トランスビュー・2100円/やまだ・けんた 59年生まれ。専修大教授(言論法、ジャーナリズム論)。『言論の自由』
    --「3・11とメディア―徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか [著]山田健太 [評者]上丸洋一」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013032400007.html


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3・11とメディア 徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか
山田 健太
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覚え書:「手話からみた言語の起源 [著]高田英一 [評者]いとうせいこう」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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手話からみた言語の起源 [著]高田英一
[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)  [掲載]2013年03月24日   [ジャンル]医学・福祉

■言語は身振りから始まった?

 手話を使う人が身振りと一緒に音声でしゃべることがある。二つの言語の同時使用を「シムコム」と呼ぶらしい。
 著者はまず日本手話の起源などを語りながら、「シムコム」を人類が言語を獲得した起源としてとらえる。
 音声を当たり前のものと考えてしまえば、言語はまず音から始まり、文字化される。だが、ろう者を参考に思考する著者は、最初に身振り(指さし)があり、簡単な音が同時に発されただろうと言う。
 確かに集団で狩猟をする際には、どの獲物を追い込むかを指でさすのは自然だ。人類以外の動物はこの指さしを理解出来ない。猫に指さしをしても、先を嗅ぐだけである。
 身振りによって世界を分節した人類は、やがて壁画でイメージ言語を伝えあい、世界に散ってヒエログリフを編集し、単語を増やして音声が複雑化したと著者は推論する。
 人類史ゆえ証拠は少ない。だが、身振りと文字を、音声より前に置くというのは、まことに刺激的な論考である。
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 文理閣・2940円
    --「手話からみた言語の起源 [著]高田英一 [評者]いとうせいこう」、『朝日新聞』2013年03月24日(日)付。

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http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013032400014.html


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手話からみた言語の起源 (手話の秘密シリーズ 1)
高田 英一
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