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覚え書:「今週の本棚:若島正・評 『完全なるチェス』=フランク・ブレイディー著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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今週の本棚:若島正・評 『完全なるチェス』=フランク・ブレイディー著
毎日新聞 2013年04月28日 東京朝刊

 (文藝春秋・2625円)

 ◇転落する天才の“エンドゲーム”

 チェスという小さなゲームの美しさに魅せられた人間は数限りない。しかしその中で、ボビー・フィッシャーほど、さまざまな伝説や憶測を生み、彼が残した棋譜だけではなく、その人物像についても多くの本が書かれたプレイヤーはいないだろう。神童としてアメリカのチェス界に出現し、世界チャンピオンをずっとソ連のプレイヤーが独占していた時代にあって、いわばたった一人でそれに立ち向かい、アイスランドのレイキャヴィクで行われたボリス・スパスキーとのマッチに歴史的な勝利を収め、国家的なヒーローとなったフィッシャーは、自ら王座を下りた後、悲惨な転落の道を歩んでいく。ホームレス同然の二十年間を送ってから、ユーゴスラヴィアでのスパスキーとの再戦でカムバックを遂げるが、お尋ね者としてアメリカに追われ、国外での逃亡生活の後、成田で逮捕されたことはまだわたしたちの記憶に新しい。そして最後には、市民権を得たアイスランドで亡くなるのだが、この波瀾(はらん)万丈と言ってもいいフィッシャーの生涯を描いた伝記が、本書『完全なるチェス』である。

 本書の原題は「エンドゲーム--ボビー・フィッシャーの驚くべき興亡」という。エンドゲームとは、チェスの終盤のことだ。つまり、本書の力点は、フィッシャーが世界チャンピオンという王座にのぼりつめるまでの時期よりも、むしろそこから転落していく後半生に置かれている。まさしく、フィッシャーがチェスのキングのように、次第に追いつめられて、盤上をさまよったあげく、アイスランドという盤の片隅でチェックメイトになったかのような感慨を読者は抱くのだ。

 フィッシャーを二十年間の隠遁(いんとん)生活から目覚めさせた原因であり、彼が四十七歳にして初恋の感情をおぼえた相手でもある、十七歳のハンガリー人女性は、「わたしが好きなのは天才か、いかれた人よ」と言ったという。フィッシャーは天才なのか奇人なのか、意見が分かれるところだろうが、おそらく彼は天才でも奇人でもあった。そして、真の天才のみに許される輝かしい名局を残したのに比して、狂いぶりの方は、偏執狂のように反米的言辞や反ユダヤ的な暴言をまき散らし、ホロコーストを否定するという、きわめてありきたりで凡庸なものだったのが、わたしにはとりわけ悲痛に映る。言い換えれば、こうした凡庸な奇人としてのフィッシャーの姿を見てしまった後で、それでもなお彼の残した棋譜の美しさを賞賛したいと思う人間だけが、心底からチェスを愛していると言えるのだろう。フィッシャー死亡の知らせを聞いて、かつての敵であったスパスキーが「私の弟が死んだ」とメールで書いたというくだりは、本書で最も美しいエピソードの一つだ。

 著者のフランク・ブレイディーは、フィッシャーが天才少年として台頭した頃から彼に注目し、彼の盤上盤外でのふるまいを見守ってきた人である。そのつねにバランスの取れた記述には、真の天才のそばにいて歴史を目撃してきた幸せが控えめに現れている。著者によれば、フィッシャーはけっして精神に変調を来していたのではなく、アイスランドでの最晩年には書店や図書館に通って読書三昧にふけっていたという。そのときの愛読書の一冊が『ローマ帝国の興亡』だったとか。いったいフィッシャーはそこに何を読み取っていたのか。ローマ帝国の運命に己の運命を投影していたのか。本書を読み終えて、なぜかいつまでも心に残るのは、本を読むフィッシャーのその姿なのだった。(佐藤耕士訳)
    --「今週の本棚:若島正・評 『完全なるチェス』=フランク・ブレイディー著」、『毎日新聞』2013年04月28日(日)付。

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