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覚え書:「今週の本棚:池内紀・評 『夏の嘘』=ベルンハルト・シュリンク著」、『毎日新聞』2013年05月05日(日)付。

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今週の本棚:池内紀・評 『夏の嘘』=ベルンハルト・シュリンク著
毎日新聞 2013年05月05日 東京朝刊


 ◇池内紀(おさむ)・評

 (新潮社・2100円)

 ◇小さな嘘からもつれゆく練達の物語集

 『朗読者』が世界的なベストセラーになったドイツの作家の短篇集。以来、二十年ちかくになるが、ほぼ五年に一冊といった執筆ペースではなかろうか。手間ひまかけた、神経のいきとどいた粒よりが七篇。練達の料理人による一品づくしにあずかったぐあいである。

 それぞれ独立しているが、共通したものがあって、ゆるやかな連作のように読める。季節は初夏だったり、晩夏だったり、秋に入りかけていたり。誰にもある夏の記憶が底に流れている。ジリジリ照りつけ、じっとり汗のにじむ日本の夏ではない。朝夕はヒンヤリしていて雷雨のあと急に肌寒さを感じるような風土の夏だ。おのずと人間関係も乾いており、日本的なべとつきが一切ない。

 共通するもう一つは、タイトルにもある「嘘(うそ)」。ちょっとした嘘、とっさに、あるいは何げなく口にした嘘、わざと言わずにおいた無言の嘘。みずから封印していた嘘と対面して、男と女の日常が微妙にもつれ、変化していく。気がつくと、「一緒の生活はもう終わるが、元の自分の生活にもまだ戻ってはいない。無人地帯にいるようなものだった」。

 小説を書き出す前、シュリンクは大学で法律を教えていた。いまもフンボルト大学で教鞭(きょうべん)をとり、イギリス、アメリカの大学でも教壇に立っている。講義ノートをかかえた旅の途上、空港の待合室、休暇をすごした海辺のホテル……。小説家の目でまわりの人を観察しているのではあるまいか。小さな嘘は法律には触れないが、人の営みのルールには抵触して、日常に及んでくる。それまで知らなかった「無人地帯」へと押しやっていく。

 登場人物はオーケストラのフルート奏者、あるいは劇作家、非常勤の大学講師などで、自分を冷静に捕捉できるし、嘘の効用とともに嘘が及ぼす思いがけない展開も追っていける。自分の感じている違和感を分析できる。

 シュリンクは一九四四年生まれであって、遅ればせにコンピュータ・メディアと遭遇した世代だが、なんとあざやかにカードやメールやパソコンのキーやインターネットカフェ、そして携帯を使いこなしていることだろう。かつての嘘は口頭や紙の上に起きて、やりとりされたが、いまや電子回路で瞬時にとびかい、また一瞬にして消え失(う)せる。

 「春先に三、四週間、アメリカ西部のカレッジで過ごし、秋にはオーストラリアの海岸地方にある大学に行き、その間に数か月はアムステルダムで暮らすというのは……」

 そんな時代の男女なのだ。恋人同士はめいめいフランクフルトとアムステルダムに住居をもち、隣り町のように往き来する。日光をあびながら、あるいは夕闇のなかでセックスして、疲れきり満足して横たわっていられる。大人のメルヒェンのような物語が、どうしてこうも印象深いのだろう?

 やがて辺りに霧がたれこめ、早足にべつの季節がやってくる。嘘の引きおこした波風の修復はついたのか? シュリンクはそれには答えず、かわりに書いていく。海辺、森、下町、郊外町、どこも何代にもわたり、そしていまもまたつづいている人間的な日常がある。そこに意味深い言葉がそえられる。

 「若いときには寝ているか起きてるかのどっちかでしょ。でも年をとると、第三の可能性として、寝ても起きてもいない夜っていうのがあるのよ」

 あきらかにこの作家は人間を見る独自のルールをもっている。人間心理の「嘘の法律」といったものをよく知っている。(松永美穂訳)
    --「今週の本棚:池内紀・評 『夏の嘘』=ベルンハルト・シュリンク著」、『毎日新聞』2013年05月05日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130505ddm015070005000c.html


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