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快楽に負けることは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである


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 『では、これがどのような技術であり、どのような知識であるかということは、あらためてまた考察することになるだろう。しかし私とプロタゴラスとが諸君の質問に関連して行わなければならない証明のためには、それがとにかくひとつの知識であることだけわかれば充分なのだ。
 諸君の質問というのは--おぼえているかね--次のようなものであった。すなわちわれわれが、知識より強いものは何もなく、知識のあるところ、いかなる場合であろうと、快楽に対してもほかの何に対してもつねに打ち克つということを、お互いに同意した際であったが、君たちはこれに対して、知識をもった人でもしばしば快楽に負けることがあると主張したのだった。そしてわれわれが君たちに同意しなかったので、諸君はつぎにわれわれに向かってこうたずねたのだ。プロタゴラスにソクラテス、もしこの状態が快楽に打ち負かされることではないとするなら、いったいそれは何であり、あなたがたはそれを何だとおっしゃるのですか。どうか私たちに教えてください、とね。
 --さて、もしあのときに、諸君に向かってわれわれがただちに、それは無知である、と答えたとしたら、きっと諸君はわれわれを笑ったことだろう。しかしいまは、諸君がわれわれを笑うとしたら、それは君たち自身を笑うことにほかならないだろう。なぜなら、君たちもまた、快苦--とはすなわち善悪なのだが--の選択について過ちをおかす人々があるとすれば、それは知識を欠いているから過つのだということに、ちゃんと同意したのだからね。おまけに、ただ知識の欠如というだけでなく、その場合に欠けている知識とは計量術にほかならないということまで、先に同意してくれたのだ。しかるに、知識を欠いておかされた過ちの行為なら、それは無知によって為されるのだということぐらい、君たち自身でもわかるだろう。
 したがって、快楽に負けることは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである。ここにいるプロタゴラスやプロディコスやヒッピアスは、自分こそはこの無知を癒す医者であると主張しているわけだ。それなのに君たちは、それが無知ではなくて何かほかのものであると思っているものだから、教えられることのできないものだと決めこんで、そうした事柄の先生であるこれらソフィストたちのところへ自分でも行こうとしないし、諸君の子供たちをやろうともしない。金のことばかりけちけちと心配して、この人たちに支払うのを嫌がっているが、それこそ個人的にも公共的にも間違ったふるまいというものだ』
    --プラトン(藤沢令夫訳)『プロタゴラス ソフィストたち』岩波文庫、1988年、149―150頁。

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葬儀やGWがあったので金曜日は3週間ぶりの授業になりました。
ちょうどフォアゾクラティカーからソクラテスにかけてのあたりを紹介しましたので、ここ数日、プラトンの手によるソクラテスの言明を再度、追いかけていました。

無知の知の自覚すらないまま知者を誇るおごりと見せかけにすぎない砂上の楼閣の如き「繁栄」の謳歌という当時のギリシア世界の様子をうかがい知ると、眠りを覚ます「虻」を自認したソクラテスの執拗な追及に襟を正すと同時に、どうしても、現在の日本社会を重ね合わさずにはいられません。

実際のところ、危機的な状況であるにもかかわらず、気にもとめることなく進んでいく日常生活。そして実際のところは「真理」をねじ曲げているにも関わらず、知者だとか高貴な人と尊重される僭主のごとき人々。

互いに、日常生活など改めて考えてみることなど不要だ!と居直る両者の精神が相照らされることで、「矛盾」が「矛盾」と認識されず、さらなる負のスパイラルに陥っているといところでしょうか。

ちょうど、民主制が内部から自壊していく様子に立ち会い、民主政の名の下に死刑を告げられたソクラテス。

そんな話しをしながら、ソクラテスの話というのは、遠い昔の遠い世界の出来事として対象化することなく、私自身の「今・現在のことがら」として、その言葉に向き合うしかないね、なんて続けましたが、学生さんたちの反応も割とよく、ソクラテスを学ぶことが、「今・現在」の私たち自身(と、私たちの生きている社会)を見つめ直すことになることを理解くれたのは幸いだと思います。

哲学をやっていると、

「ほぉ、難しい分野ですね」

だとか

「高尚な話にはついていけませんよw」

などと言われることが多いし、履修されている学生さんにも「ありがたそうだけど、あんまり関係ないかも」って認識で入ってくる方が多いのですが、授業を積み重ねるたびに、自分自身の事柄として向き合ってくれるようになる方が多いのがうれしいですね。

なんだか手前味噌的ですが、哲学など役に立たない!ではなく、根本から何かを改めることに微力ながら関わっているんだなあ、などと思った次第です。

ともあれ、誰もが毒杯を飲み干さなければならないような事態にはならないようにしたいものです。


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