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書評:南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年。


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 では、この課題に挑戦した結果、ローマ帝国の衰亡とは何であったといえるだろうか。
 それは、「ローマ人である」という、帝国を成り立たせていた担い手のアイデンティティが変化し、国家の本質が失われてゆく過程であった。それが私の描いた「ローマ帝国衰亡史」である。
 ローマ帝国は、一般的に語られているのと異なり、四世紀のかなり遅い時期まで強勢であった。そして、四世紀の終わり頃からの怒濤のごとき政治的・軍事的な動きの中で、西方におけるローマ帝国は短期間で崩壊した。政治過程をそのように理解した上で、もっと広い視野から見てみれば、「衰亡」はより深い意味をともなって理解される。
 すなわち、最盛期のローマ帝国は、担い手も領域も曖昧な存在であったにもかかわらず、一つの国家として統合され、維持されていた。そして、その曖昧さこそが、帝国を支える要件であったのは、本書で見てきたとおりである。そうした曖昧さを持つローマ帝国を実体あるものとしたのは「ローマ人である」という故地に由来するアイデンティティであった。アイデンティティなるものは本来、他と区別して成立する独自性を核としている。にもかかわらず、最盛期のローマ帝国がこのアイデンティティの下で他者を排除するような偏狭な性格の国家とならなかったのは、それが持つ歴史とその記憶ゆえであった。ローマ帝国には、あのリヨンのクラディウス帝演説の銅板に刻まれているように、外部から人材を得てきた歴史があり、その記憶があった。そうした王政・共和制時代以来の国家発展の歴史を認識し記憶することにより、人々は偏狭な自己認識に陥らなかったのである。
 だが、そうしたローマ国家が、四世紀以降の経過の中で徐々に変質し、内なる他者を排除し始めた。高まる外圧の下で、「ローマ人」は偏狭な差別と排除の論理の上に構築されたものとなり、ローマ社会の精神的な有様は変容して、最盛期のそれとはすっかり異なるものとなった。政治もそうした思潮に押されて動くことによって、その行動は視野狭窄で世界大国に相応しくないものとなり、結果としてローマ国家は政治・軍事で敗退するだけでなく、「帝国」としての魅力と威信をも失っていった。
 こうした事態に至らしめた減員は、当時の統治能力の欠けた皇帝や「世界」を読めない無能な政治担当者の行動のみに帰されるべきではないだろう。激動の時代に生きた人々の自己理解、他者認識が変化して、国家の本質が失われていったからである。
 ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか一六〇〇年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである。
    --南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年、205-207頁。

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南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、ギボンの名著に“新”を冠する本書は、歴史学最新の成果を踏まえ地中海の帝国よりも「大河と森」の帝国の衰亡を点描する。帝国領土は確かに明るい地中海が全てではない。巨大な帝国は三十年で滅亡した。栄えた国が滅びること、国家とは何を考えさせる好著。

四世紀後半、攻勢に晒されるローマは「尊敬される国家」をかなぐり捨て、全盛期の推進軸(市民権の平等と寛容)とは対極の「排他的ローマ主義」へ傾く。国家の統合よりも差別と排除を優先させ、実質的にローマを支える「他者」を野蛮と軽蔑し、排除した。


「この『排他的ローマ主義』に帝国政治の担い手が乗っかかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。国家は魅力を失い、『尊敬されない国』へと転落していく」。著者は安易に現代と比較することに控えめだが歴史は大切なことを教えてくれる。

私は歴史学者じゃないけど、先のようなかたちでの「歴史から学ぶ」ということは必要なんだろうと思う。確かに、ゲルマン民族云々によって西ローマ帝国どーんていうのが教科書的「学び」なんだろうけれども、その転換に、繁栄から凋落へというのは(要するに寛容から排除)、アクチュアリティがあるわな

国が傾くと、声高な外交にシフトすることで、本当に考えなければならない問題をスルーさせ、瞬間最大風速的な一時しのぎの求心力を得るために排外主義に傾き、失敗してきたのは世の常。しかし、ローマ帝国もそのひとつというのは、常々「ネットで真実!」と刮目したネトウヨ諸氏にも紐解いてもらいたい

私自身はそういう内向きなものだけでなくて全てのナショナルなものは……松下電器は嫌いだけど……唾棄すべきと思っているけど、その手前に留まるとしても、自分が何であるように、他者も何であるという、自覚とその相互認識という手順が割愛されていくと、ほんと目も当てられなくなってしまう。

ざっくりとしたもの謂いをすれば、一口にギリシア・ローマといっても、ギリシアは、まさに「排外主義」に基礎づけられた自己認識によってどん尻になってゆく、ローマに超克されてゆく。そしてローマは、先験的な条件ではない「であること」の選択としての「市民権」により他者から魅力を集めた。

ついでに言及すれば、本来的に、カテゴリーに準拠されえないイエスの“戦い”が、斜陽するローマ帝国の国教となった時点で、その普遍的なものが歪められてしまうっていうのも、まあ、時期的にはローマ帝国の排外主義の生成の時を同じくしていくというのは、難ですよ。これぞ枠内猫パンチというヤツか

しかし、まあ、これはキリスト教に限定され得ない話ではあるわけなので、この世を撃つ眼差しが、この世の仮象たるものの下位に序列化されたときの問題として考えておかないと、あまり意味はない。江戸期以降の仏教や、戦前日本の諸宗教が「私たちこそ国家に有益な宗教」競争をしたわけだしね。

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