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覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『科学者の卵たちに贈る言葉』=笠井献一・著」、『毎日新聞』2013年09月08日(日)付。

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今週の本棚:村上陽一郎・評 『科学者の卵たちに贈る言葉』=笠井献一・著
毎日新聞 2013年09月08日 東京朝刊

 (岩波科学ライブラリー・1260円)

 ◇類稀なる生化学者の破天荒な言行録

 手塚治虫の作品に登場する「お茶の水博士」、モデルと言われるのは、自称・他称を合わせると数人ではきかないらしい。江上不二夫もときにそう言われることがある。東京大学の理学部に生物化学の教室をつくるにあたって、名古屋から招かれた学者、言ってみれば日本の生化学の生みの親の一人が江上である。ちょうど評子の年代が、その教室の第一期に当たる。今でこそ、ライフ・サイエンスと名も広げて、この分野は内外共に花盛りだが、評子と同年代の学生たちが、眼(め)を輝かせ、熱誠を漲(みなぎ)らせて、この未知の分野に挑もうとしていた有様を、昨日のことのように思い出す。そして、かれらの中心に、無二の求心力を持った江上不二夫がいた。本書は、その第三期の学生だった著者が、熱い思いを籠(こ)めて綴(つづ)った江上の言行録である。

 江上の一般向けの仕事の一つにワトソンの『二重らせん』の翻訳がある。共訳は、教室一期生の中村桂子。著者によれば、この訳業で、江上はほとんど名前を貸しただけのはず、ということだが、ここで、ワトソンは、以後この分野のかなりの研究者がそうであるように、競争相手を蹴落とし、ノーベル賞獲得競争に奔走するような研究者の「はしり」を演じている。江上は、この訳本のあとがきで、日本の科学もこれからは、こうした「たくましい科学者」が出なければならないのでは、と書いてはいるが、自分自身は、こうした科学者像に批判的であった、あるいは少なくとも自分は、そのような研究者を目指そうとはしない、と考えていた、と著者は言う。

 科学者とは、十九世紀に社会に初めて登場したときには、自然の謎を解き明かさなければ、死んでも死にきれない、と思うような、ごく僅(わず)かな、世間的な名利や成功とはおよそ関係のないところで、ひたすら研究に励む人々の謂(い)いであった。漸(ようや)く世紀後半に幾つかの大学に理学部と呼ぶべき学部も設立されたが、卒業しても、雇用機会はほとんどなく、研究費を提供してくれるところもまるでなかった。そうした科学者の本来の姿を知り、自らも、その一員であることを任じていた江上が、ワトソンのような「たくましい科学者」に出会って、将来の科学者はこうでなければ、という思いと、自分はそうではないという思いの相克のなかにあったことは、想像に難くない。そして、少なくとも今の若い科学者やその卵に、科学者の本来の姿を届けたい、という著者の思いも、切実に伝わってくる。
 しかし、この本は、もう少し別の面も持っている。江上の類稀(たぐいまれ)な科学者としての個性を明らかにするところに本書の目的があるからだ。それはある意味では破天荒とでも形容するほかはないものであった。なりふり構わず、思いついたことは、何でもしゃべってしまう、繰り返しが多く、周囲の思惑など薬にしたくもない。そうした言動のなかに、後輩たちにとって宝物と言うべきアイディアが山ほど溢(あふ)れている。誠実な実験以上の教師はない、流行を追っても仕方がない、つまらない研究なんてない、結果が得られたら必ず発表しなさい……。様々なテーマの可能性のほかに、折りに触れて語られるこうした研究指針に頷(うなず)く人も多いだろう。ただ著者に言わせれば、江上に一メートル以上近づくのは危険。早口、高音、強音の言葉と唾きのマシンガンが襲うからだ。

 小さな本だが、無類に面白いし、若い人でなくてもためになる。
    --「今週の本棚:村上陽一郎・評 『科学者の卵たちに贈る言葉』=笠井献一・著」、『毎日新聞』2013年09月08日(日)付。

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