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覚え書:「今週の本棚:張競・評 『爪と目』=藤野可織・著」、『毎日新聞』2013年09月22日(日)付。


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今週の本棚:張競・評 『爪と目』=藤野可織・著
毎日新聞 2013年09月22日 東京朝刊


 (新潮社・1260円)

 ◇愛の不在、孤独をありふれた日常として

 不思議な小説である。静かな物語展開なのに、軽やかな文体のなかに微量の鉛がよどんでいる。作品自体は理由のない不快感を与えるわけでない。しかし、物語の表層を覆う透明さの下に、正体不明の念力が不気味な音を出している。

 筋はけっして複雑ではない。語り手の「わたし」は三歳の陽奈(ひな)ちゃんで、彼女の生母の死、「あなた」である義母と父親の同居、義母との平凡な日常が描かれているだけだ。

 言葉で説明しにくい不思議さは別のところにある。一つは透明さのなかに点在する細部の曖昧さである。陽奈ちゃんの生母の死因は何か。古本屋さんはなぜ義母のコンタクトレンズを舐(な)め取ったか。陽奈ちゃんの復讐(ふくしゅう)じみたいたずらはなぜあの形を取ったのか。理由は最後まで明かされていない。そうした布置は二人称と同じように、暈(ぼか)しのような二次的な効果をもたらしている。

 ただ、読者の思考回路が攪乱(かくらん)されるのは、情緒世界の表と裏がひっくり返されているからである。注目すべきは、愛の不在は不幸としてではなく、ありふれた日常として描かれていることだ。陽奈ちゃんの生母と父親の関係は冷え切っているし、「あなた」は大恋愛のすえに同居したわけではない。男もまだ同じである。陽奈ちゃんの父親は育児を押し付けるのが目的であり、「あなた」を愛しているようには見えない。

 親子の間にも愛が欠けている。陽奈ちゃんと生母の間はまるで感情のガラスで隔てられているようで、父親は子供から遠く離れている。義母は子守の義務を果たすだけで、子供の内的世界に無関心である。

 しかし、愛の不在は悲劇の原因ではない。愛がなくても穏やかな生活があり、笑いがあり、ささやかな幸せがある。二人の女性とも快適な住空間があり、衝動買いができるほど豊かな生活をしている。愛のない生活は苦痛としてではなく、人生のありうる選択肢として描かれている。

 孤独が心地よさとともに語られているのも印象に残る。陽奈ちゃんの生母は両親がすでになく、遠方にいる兄には丸五年も連絡していない。夫に裏切られ、友達もいない。しかし、生母はまったく苦にしていない。没頭できる趣味があり、インターネットの仮想空間に自分だけの小さい世界があるからだ。雲が浮かぶ空、模様替えした部屋、自慢の欧風家具、新しく購入した調度品。彼女はそれらを写真に撮って、秘密のブログに載せるのが最大の楽しみである。

 「あなた」もまた同じだ。同居の男にほとんど見返られることはなく夫婦生活も途絶えている。古本屋の男はもっぱら性行為しか期待しておらず、それもつかの間の関係に過ぎない。陽奈ちゃんの生母のブログを発見し、それにはまってしまうのも孤独の楽しさを発見したからだろう。陽奈ちゃんに至っては、周囲のすべての大人から突き放されている。

 孤独の哀(かな)しみも古来、詩文の永遠の主題で、人間が宿命的に抱えるものとして、あるいは戦う逆境として描かれている。しかし、この作品では孤独感は悩みの原因ではない。ましてや惨めな人生の寓意(ぐうい)ではさらさらない。それどころか、孤独は生きる喜びの隠喩であり、自ら求める自由として語られている。

 快適に生きるためには、たとえ家族のあいだでも親密性はもはや必要とされない。現実生活のなかでもその足音が聞こえてきているだけに、読者ははっと虚を衝(つ)かれ、軽微な恐怖を感じる。怪奇な趣向がないのに、ホラー小説と目されたのもそのためであろう。感受性の反転によって、読者は未(いま)だかつてない人間精神に接するのである。
    --「今週の本棚:張競・評 『爪と目』=藤野可織・著」、『毎日新聞』2013年09月22日(日)付。

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