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他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員の死ををひとしく哀悼することができません


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 ポワリエ 他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員をひとしく愛することができません……
レヴィナス まさしく、それゆえに、私たちは、私が倫理的秩序あるいは聖性の秩序あるいは慈悲の秩序あるいは愛の秩序あるいは慈愛の秩序と呼ぶものから出てゆかねばならないのです。いま言ったような秩序のうちにあるとき、他の人間は、彼がおおぜいの人間たちの間で占めている位置とはいったん切れて、私とかかわっています。私たちが個人として人類全体に帰属しているということをとりあえずわきにおいて、かかわっています。彼は隣人として、最初に来た人として、私にかかわっています。彼はまさにかけがえのない人であるわけです。彼の顔のうちに、彼がゆだねた内容にもかかわらず、私は私あてに向けられた呼びかけを読みとりました。彼を放置してはならない、という神の命令です。他なるもののために、他なるものの身代わりとして存在すること、という無償性の、あるいは聖性のうちにおける人間同士の関係がそれです!
ポワリエ 質問を繰り返すことになりますが、私たちは全員をひとしく愛することができません。私たちは優先順位をつけ、判別します……
レヴィナス というのも「全員」(Tout le monde)という言葉が口にされたとたんにすべてが変わってしまうからです。その場合には、他人(l'autre)はもうかけがえのないものではなくなります。この聖性の価値--そしてこの慈悲の高まり--は、全員が同時に出現するという事態になれば、他の人たち(les autres)との関係を排除することも、無視することもできなくなります。ここで選択という問題が出てきます。私は「内存在性からの超脱」(des-interessement)を果たしながら、今度はいったい誰が際立って他なるもの(autre par excellence)であるのかを特定することを迫られるのではないでしょうか?評価(ratio)という問題が出てきます。裁きの要請が出てきます。そのときまさしく、「かけがえのないものたち」(uniques)のあいだで比較を行うという要請が、彼らを共通の種属に還元するという要請が出てくるわけです。これが始原的暴力(premiere violence)です。かけがえのない唯一性(unicite)に対する異議申し立てです。
    --エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性--レヴィナスは語る』国文社、1991年。

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今年は、葬儀が多い一年で春先から、4件目になりますが、葬儀に出られないのでお通夜に参列して参りました。

現在の地に引っ越して10年の間。たまたま隣家だったことで、家族のようにおつきあいし、子供も祖父のようにかわいがってくださいましたので、一緒に参列してきました。

葬儀の度に実感する話ですが、少しだけ書きのこしておきます。これはいつも言っているとおりなのですが、建前としては、「全ての人に等しく」ありたいのですが、現実には、対象を序列化して扱わざるを得ないのが人間ということです。先験的な善し悪しや、そのことに無自覚でよしとするのではありません。

お前が薄情ものだろうと人間主義を気取ってもはじまりませんし、人間とはそういうものなのさと気取ってもはじまらないのですけどね。

どこから人間をはじめるかといえば、そういう極端なところに定位してはじまるのではないという話です。葬儀に対する異なった感情は端的にその消息を物語っているのではないかと思います。

例えば、会社で部下が葬儀で急に欠勤するとなったら、上司は月並みに人並みに弔いの念は沸いてくるとは思います。しかし、同時に、それ以上に、「ああ、彼が休む。シフトがやばいな」などとも思うし、参列する方は参列する方で「つき合いで参列めんどくさい」というのもある。

それを「非人間的か」と誰何されれば違う訳でね。

今回の葬儀もまさにそういう複雑な感情と向かい合わざるを得ませんでした。つまり、俗に、家族・親族は特別な「絆」の共同体であり、それ以外は「さしあたりの人間関係」にすぎないか言われればそうではないということ。

形式から言及すればものすごくお世話になった方ですから「行かざるを得ない」葬儀でありますので、参列しますが、家族であっても「行かざるを得ない」葬儀であったとしても、前者の方が弔いの念が「強く」、後者の方が「弱い」場合もあるということ。春先に実家の祖母の葬儀がありましたが、明らかにリソースの注ぎ方は違いましたよね。

こういうところを判断していくと、レヴィナスが「他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員をひとしく愛することができません」という質問について、平板な善意のような人間観だけ人間存在を認識してもはじまらないしそうではないというパラドクスに言及しておりますが、それは、愛という側面だけでなく、死に関しても、人は序列化して扱っているのは間違いない。

まさに薄情者vs人間主義というすっぺらいイデオロギー対立の喧噪のなかに人間は存在しているのではないと思う。善し悪しを先験的な立場から判定するよりも、そこから、ではどういう風に組みたてていくのかということが問われているような気がする。

その人間の存在を規定する認識に振り回されて終わりとするのか、それとも、そういう規定を自明のものとさりげなく落とし込む構造を理解するだけでなく、ダブルバインドに満ちた存在が人間であることを自覚してから、さてどうよ、というステップが必要なんだよな、……などと思うのですがね。

人間は、俗に排他的特権的な共同体と措定される家族共同体よりも、大事な相手であると措定することもあるのは事実なんだろうと思う。しかし、それは「ナチュラルではない」と断定など、おそらくはできない。家族社会学の知見に従い、近代家族そのもののフィクション性からもわかる通りですが。

勿論、家族に関する事柄で、「そんな嘘っぱちやから、全部放置プレーでok」という短絡ではありませんが、人間がそういうものである以上、全部を家族に還元してことたれりとする発想にはいかがわしさは感じざるを得ない。例えば、イデオロギー性にまみれたエセ科学に過ぎない親学に共感するみたいなw

無責任を気取ったり、問題を指摘して鬼の首をとる必要はないと思うけど、「これぞ、人間としてナチュラルだ」/「これぞ、人間として非ナチュラルだ」という発想からは、どこかで訣別していかないと、都合のよい「さしあたりに過ぎない」人間観に、生きた人間の身の丈を合わせることになってしまうのぢゃないのかねー。

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