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覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『写字室の旅』=ポール・オースター著」『毎日新聞』2014年03月16日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『写字室の旅』=ポール・オースター著
毎日新聞 2014年03月16日 東京朝刊

 (新潮社・1890円)

 ◇言語がもたらす「私」という空白

 「老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に載せ、うつむいて、床を見つめている。真上の天井にカメラが据えられていることを、老人は知らない。シャッターは一秒ごとに音もなく作動し、地球が一回転するごとに八六四〇〇枚のスチール写真を生み出す。かりに監視されていることを老人が知っていたとしても、何も変わりはしないだろう。彼の心はここになく、頭の中にあるさまざまな絵空事のただなかに迷い込んでいるからだ。自分にとり憑(つ)いて離れない問いへの答えを、老人は探している。」

 小説の冒頭である。さらに次のようにつづく。

 「老人は何者か? ここで何をしているのか? いつやって来て、いつまでここにいるのか? うまく行けば、時がすべてを明かしてくれるだろう。ひとまず、私たちの唯一の務めは、できるかぎり注意深く写真を観察し、早まった結論を避けることである。」

 素晴らしい書き出しだ。

 老人は何者か? もちろん「私」であり、「あなた」である。小説家と言ってもいい。「あなた」も「私」も、物語るものであるかぎりにおいて小説家なのだ。問いはしたがって次のように書きかえられる。

 「私は何者か? ここで何をしているのか? いつやって来て、いつまでここにいるのか?」

 人はつねに自分が何者であるか自分自身に語りつづける存在である。昨日のことから、十年前、いや誕生から現在にいたるまでを、自分自身に物語りつづける存在だ。真偽はただその物語を他人も認めるか否かにかかっている。アイデンティティである。犬も猫もアイデンティティを問わない。自足しているからだ。人間は違う。「私」がたんなる生命現象ではなく言語現象でもあるからだ。

 言語現象とは、手っ取り早く言えば、私とあなたが入れ替わり得ること。人は、彼にも彼女にも、山にも海にも、また会社にも国家にも入れ替わることができる。これがなければ言語現象は成立しない。入れ替わるためには俯瞰(ふかん)する、つまり自分から離れて浮遊することができなければならない。魂という語が必要とされた理由だが、作者はそれを「真上の天井にカメラが据えられていること」という言葉で示している。臨死体験のときに自分を眺める視点だが、現実には人は四六時中その視点から眺めているのであり、そこから自分に乗り移っているのだ。つまり「私」とは、俯瞰するカメラすなわち言語がもたらした空白なのだ。

 老人はミスター・ブランクすなわち「空白さん」と名づけられる。重要なのは、その前に作者がぬかりなく、ブランクが「消しがたい罪悪感」と、自分は「犠牲者なのではないか」という疑いをもっていると書いていること。罪悪感も犠牲者感も言語現象そのものに起因している。

 一九八〇年代、作者は処女作『孤独の発明』からニューヨーク三部作(『ガラスの街』、『幽霊たち』、『鍵のかかった部屋』)へと鮮やかな飛躍を示して多くの読者を魅了したが、そのいっさいがこの小説に圧縮されている。

 ブランクの部屋を多くの人々が訪れる。グラックの『シルトの岸辺』を思わせるような小説の草稿。小説の小説へと収斂(しゅうれん)してゆく、感嘆するほかない構成。最後の一節において作者は、ブランクが小説家の隠喩にほかならないことを示唆するが、この一種の余裕は、ブランクが小説家の隠喩どころではない、人間の隠喩であり、小説の全体が人間的世界の隠喩たり得ていると実感されたからだろう。

 小説の現在の最先端と言っていい。(柴田元幸訳)
    --「今週の本棚:三浦雅士・評 『写字室の旅』=ポール・オースター著」『毎日新聞』2014年03月16日(日)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140316ddm015070037000c.html:title]

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