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日記:靖国神社で「不戦を誓い、平和の国を誓う」ことは可能なのか?


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 「私はその迫害者に対しても責任を負うている」と述べることで、レヴィナスは、「怨恨」(ルサンチマン)の道徳を覆そうとした。けれども、迫害者に対する責任は無条件な要請ではなかった。「私は私が蒙る迫害に対しても責任を負うている--、私はある場所でこう言った。これは私があまり引用したくない言葉だ。なぜなら、この言葉はそれとは別の考察によってのみ補完されなければならないからだ。つまり、この言葉は迫害される者が私である場合にのみあてはまるのである! 私の『隣人』、『私の民族』はすでにして他人であり、彼らのために、私は正義を要請する。」(15/141-2)
 危険な言葉である。というのは、戦争はつねに他人を護るという口実のもとになされ、「正義の戦争」を装うからだ。たしかにレヴィナスは、「戦争に対してなされる正義の戦争においても、ほかならぬこの正義ゆえに不断におののき、なおも震撼しなければならない」(10/413)、と言っている。けだしレヴィナスは、「正当な暴力」という口実によって戦争が恒常化されていく危険性を指摘しているのだろう。しかし、なぜ「戦争に対してなされる正義の戦争」と言うことが可能なのか。そのためには、悪しき戦争を仕掛ける者たちがあらかじめ存在しているのでなければならないが、ではなぜ、護るべきわが隣人と「わが憎悪なき敵」(DL/339)が区別され、分割されるのか。--筆者がレヴィナスの思想をとおして辿り着いたのは、この単純な問いだった。
 単純ではあるが、われわれが存在することそれ自体の意味の変革はひとえにこの問いに掛かっているように思われる。レヴィナスは、この問いを前にした逡巡のうちに筆者を置き去りにする。ないものねだりで、そう言うのではない。むしろ逆に、この逡巡のうちにこそ、筆者のレヴィナス「経験」が存在している、と言えようか。
    --合田正人『レヴィナス 存在の革命へ向けて』ちくま学芸文庫、2000年、36-37頁。

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25日の火曜日に用があって、靖国神社に行って来ました。twitterでその雑感を残しましたが、少し補足して印象録としておきます。

靖国神社への訪問は、大学時代、相撲部の試合で訪れて以来なので、20年ぶりになりますでしょうか。そのときは参拝してから、そのまま、本殿裏手の土俵で時間を過ごしたので、ほとんど印象に残っておりません。今回は遊就館が目的でしたが、閉館時間直後に到着しましたので、館内の特別展示(「大東亜戦争七十年展」)をざっくりまわって、それからゆっくりと境内を散策しました。

おおむね、江川紹子さんの記事「国内問題として首相の靖国参拝を考える」で「昭和10年代の価値観が今も」継続し「感動を戦争肯定に導いて教化する」施設と論評しておりましたが、まずそれはイエスです。

[http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140119-00031744/:title]

靖国神社という施設の特徴とその問題点を余すところなく紹介できていると思います。

さて、2013年12月26日、安倍晋三首相は現職総理として7年ぶりに靖国神社に参拝しましたが(※1)、首相はここで、「二度と戦争を起こしてはならないと過去への痛切な反省に立ち、今後とも不戦を誓う意味で参拝した」(※)その心情を表現していますが、考えたいのは靖国神社で「不戦を誓い、平和の国を誓う」ことが可能なのかどうなのかということです。

(※1)[http://sankei.jp.msn.com/pdf/2013/12/131226yasukuni.pdf:title]
(※2)[http://www.huffingtonpost.jp/news/abesusumusan-yasukunisanpai:title]

1時間近く、境内を散策しましたが、結論から言えば靖国神社で「不戦を誓い、平和の国を誓う」ことは不可能だろうということです。

江川紹子と認識を共有するならば、「昭和10年代の価値観が今も」継続するその社には「大東亜戦争」に対する反省は微塵もない。間違いではなかったという美化に立脚するから誓うことは不可能だ。

そして、僕が歩いて発見したのは、「大東亜戦争」だけに限らず……そして控えめに表現したとしても……「戦争は人間にとって、どちらかいえば良くはない」という認識がこれっぽちも存在しないことだ。

絶対悪という言葉がある。例えば権力批判において権力は絶対悪であるという文脈で使用される如く、様々な利点が仮にあったとしても、その存在そのものがトータルに人間にとって、所与のものとして悪であるという形而上的立場からの批判である。

戦争そのものを絶対悪と捉える視座は存在するし、僕もどちらかといえばそれに近い。しかし、絶対悪の存在を担保することには、その対象が戦争でなくても弱くなることは否めない。だから今回はそうしたアプローチを取らずに控えめに考えてみようと思うが、戦争はアプリオリな絶対悪でないとしても、アポステオリに現実的にそして歴史的に悪であることは否定できない。

だとすれば、どこまでも「やむをえなかった」「戦争が人類を進歩させた」という「弁解」でそれを理解するよりも、どこまでもそれを絶えず相対化させていく必要はあるのだろうと思う。

戦争に関しては、これも歴史的にそして現在的にも「善い戦争」「悪い戦争」という二分論でそれを肯定する立場がある。しかし、善い戦争であろうが、悪い戦争であろうが、人間の存在にとってそれを毀損するものである以上、「肯定」することは不可能だ。だとすれば、靖国神社は「大東亜戦争」のみならずすべての戦争を「否定」することができない場所である以上、「今後は戦争をしない」という意義での「不戦を誓う」場所ではない。

そして、平和を戦争の対義語と捉える必然はないけれども、「不戦」を誓う場所でないし、「場合によっては戦争は必要だ」という立場を取る以上、これまた「平和を誓う」ことは不可能である。

しかし、こういう議論をすると、安倍首相よろしく「英霊に尊崇の念を表するのは当たり前のことだ」とか、戦没施設はどこの国にも存在するから「日本だけではない」という意見が出てくる。しかし冷静に考えてみて欲しい。

「国のために死んだ」ではなく「国に殺された」のが実像だし、そういう局面にしか舵を切ることしかできなかった「政治家」の「無能」が問題なのだ。

そして「どこの国でもやっている」から賛美してもよいのだといえば、それも違う。悪事を叱責された子供が「ほかの子もやっているよ」では理屈にならないのと同じだ。

戦争を相対化・否定できない施設で不戦の誓い・平和の誓いなど根本的に不可能であるということだ(その意味では靖国以外の各国の施設もほとんどアウトになってしまう訳ではありますが。

そしてもうひとつ。「正義のための戦争」に「死んだ」のでなければ「浮かばれない」という意見も存在する。しかし、先に言及したとおり、加害者も被害者も総ての人間にとってマイナスとして存在する戦争に正義もなければヘッタクレもない。人間にとって悪である戦争を否定することによってこそ、その人間は「浮かばれる」のではないだろうか。それを反省して弔うという立場に立たない限り、欺瞞の論理であるし、それこそ死を冒涜することに繋がる。

(程度にもよるけど)政治家のパワーゲームとしての剣戟は否定しない。しかし、それに動員されるのは私たち一人一人だ。だとすれば、私自身は、……それが如何にお花畑的であるとしても……戦争そのものを完全に相対化させる視座を持ち合わせない限り、「やむを得ない」とのフレーズで不幸の連鎖は続いてしまうのだ。その不幸の連鎖を断つことこそ死者たちへの「尊崇の念」になるはずだ。

ほんと、正義の戦争だのという議論から卒業するしかない。

ふっかけられたからやったという理屈も存在する。しかしこれも、おまえの役者が下やろうという話しだし、ほかの国でもやっているやんと言っても、やってるからええという話ではない訳で、その隷属から自由になり未来を作るしか、不幸の連鎖を止めることは不可能だ。ここからスローガンとしての愛国やら反戦から自由になり、「不戦の誓い」と「平和の誓い」はアクチュアルなものとなる。

繰り返しになるが、様々な理屈をこねて戦争を否定できないことこそ問題なのである。

さて、以下は、印象記。


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今回、遊就館にて「大東亜戦争七十年展」が開催されておりましたが、ここでは、散華した英霊たちの遺書や遺品を中心に、いかに若者たちが理不尽な巨悪と戦い、無念を抱きつつ死んでいったのかという構成。勿論、そこには戦った相手の視座も、戦場となったアジアの大地と民衆への眼差しは全く存在しないから、先の戦争を反省しようという展示とはほど遠いもので、偉大な先達たちに涙という感動病で構成されている。しかし、その若者たちを戦場へ送り出した当体こそ理不尽な巨悪であることを忘れてはいけないだろう。

空襲で焼き殺されて「なんでじゃー」と感動(憤慨)するけど、その国籍を背負った人間が、よその土地で食料を奪って焼き払う。勿論、その当地の人も同じく憤慨する。しかし、前者は後者を想像しない。想像力をたくましくすれば善い戦争などはないのだ(同時に、良いも悪いもないから免罪でもないのも念のため)。


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遊就館の1Fロビーに零戦52型が展示。「ほう、日本の技術はすごい」とはおっちゃんが感心しておりましたが、その技術というのは個々の職人の卓越した技能で、確かにそれは誇るべきでしょうが、戦争をやるなら、銘刀を鍛えるような卓越した技術・技能が必要になるのではない。工業規格がなく部品の互換すら不可能だったのが過去の日本。国力としての大量生産の問題を横にしても、工芸品では世界とは戦えないという話で、昨今も、日本人は手先が器用だから、戦争になっても凄い兵器を作ってぶちまかす式の「日本の技術は世界一ィィィィィ」っていう御仁が多いのですが、それ美術工芸やで、という話な訳で勘弁して欲しいなあと思います。


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「もう一度、強い日本へ」とか「自らの身は顧みず」なので、過去に悲劇が在ったわけで、このなんとも「芳しい」お土産の数々……。


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境内に、東京裁判のパール判事の碑があった。判事の東京裁判での無罪論は親日・反白人としての免罪論ではない。すべての戦争を無効化するためには、すべての責任を追及しなければならぬというそれである。碑の瞳は何か寂しげであった。

南部宮司勘弁してくれ。

崇高さのかけらも存在しない。


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