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覚え書:「今週の本棚:渡辺保・評 『評伝・シェープキン-ロシア・リアリズム演劇の源流』=V・I・イワシネフ著」、『毎日新聞』2014年04月20日(日)付。

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今週の本棚:渡辺保・評 『評伝・シェープキン-ロシア・リアリズム演劇の源流』=V・I・イワシネフ著
毎日新聞 2014年04月20日 東京朝刊

 (而立書房・2160円)

 ◇内面心理描くリアルな演技への苦闘

 ロシアのモスクワ芸術座とスタニスラフスキーは、世界演劇史のなかで、近代リアリズムの金字塔を打ち立てた。もし彼らの仕事がなかったならば、今日の現代演劇は存在しなかったに違いない。この歴史的事実は人のよく知るところ。しかしその一つ前の時代に生きた一人の名優のことはあまり知られていない。その名をシェープキン。農奴の家に生まれ、はじめ喜劇俳優になり、ついにリアルな演技によって国民的な名優になった。この人の存在がなかったならば、スタニスラフスキーの仕事も存在しなかったばかりでなく、彼が交流したゴーゴリ、ツルゲーネフら、多くの文学者の仕事もなかったかもしれない。そのシェープキンの評伝である。

 この評伝が面白いのは、まず第一にシェープキンの生い立ったロシアの農奴の生活が生々しく描かれている点である。シェープキンは農奴解放が行われる前に、身をもって農奴の生活から脱出した。この本に描かれているのはその彼自身の体験だからこそ生々しく迫ってくる。

 第二に、十九世紀のロシアの芝居は、ほとんどフランスのコメディの輸入であった。大げさな外国人の身振(みぶ)りもの真似(まね)、観客を笑わせようとして必死になる俳優。そういうなかでシェープキン一人はごく自然な演技を求めた。この仕事がいかに困難で画期的であったことか。

 たとえばゴーゴリの「検察官」(訳者は最近の研究に従って「査察官」というがここでは読者になじみ深い「検察官」と呼ぶ)は今日でも上演されるが、あの中央政府からの検察官の査察におびえる市長の役をゴーゴリとともに作ったのはシェープキンであった。はたから見れば喜劇的な市長も、市長自身の立場に立てば必死。その必死さはリアルなものであり、そこに人間のリアルな心理描写が必要になる。著者イワシネフはそこまで踏み込んでいないが、シェープキンははじめて劇場の現場で人間の内面の心理を発見したといってもいいと私は思う。

 しかもここで重要なのは、ゴーゴリとの交流である。シェープキンはフランス喜劇ではなくロシア根生いの戯曲を求めて格闘し、作家もまた彼を深く愛して一生の友とした。このような俳優と劇作家との交流が現代の現場でもいかに大切かはいうまでもない。

 シェープキンは、決して豊かではないのに、彼の家にはつねに作家や俳優たちが十数人も同居していた。当時の作家は反体制的なために弾圧され、流罪になった人も多かったが、彼は地方への旅公演を口実に彼らを訪ね、ある時は同志からの密書を届けるという冒険さえした。

 表紙カバーにもなった画像を見ると、シェープキンは、ふくよかな顔の、少し禿(は)げ上がった小柄な男である。そこには喜劇役者にふさわしい風貌が漂っていて、農奴出身の暗い影はみじんもない。自然な演技を開発した彼は、おのれの人生の苦難も克服したのである。そればかりではない。シェープキンは、その場の笑いだけを求める観客の前で、リアルな人間像を描くために苦闘した。そしてついに観客自身を変えたのである。この徒手空拳の闘いがいかに大変であったかは想像に余りある。

 イワシネフは、普通の伝記とは違う展開によって、その名優の風貌を多角的に描いている。そのためと翻訳が生硬なところもあって、多少読みにくいところがないでもない。

 にもかかわらずこの本には今日の演劇にとっても重要な原点が含まれている。古い農奴の世界は滅びた。しかしシェープキンは生きている。(森光以(てるえ)訳) 
    --「今週の本棚:渡辺保・評 『評伝・シェープキン-ロシア・リアリズム演劇の源流』=V・I・イワシネフ著」、『毎日新聞』2014年04月20日(日)付。

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