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覚え書:「平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超」、『毎日新聞』2014年08月04日(月)付。

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平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超
毎日新聞 2014年08月04日 東京朝刊


(写真キャプション)狩俣光永さんら日本人24人が乗り組んだ米軍タグボート=狩俣さん提供


平和のとなりで:/1(その2止) 米軍に雇われベトナムへ 生きるために 「戦争加担」指摘にも
 ベトナム戦争が苛烈を極めた1969年2月、日本の民間人24人の乗り組む米軍の船が、本土返還前の沖縄からベトナムへ向かった。その船で2等航海士だった男性が取材に応じ、いきさつを初めて詳しく証言した。ベトナム戦争では、ほかにも日本人が多数米軍の艦船や軍の下請けの民間船で戦地へ派遣され、死傷者も出た。しかし、詳しい記録はなく、全容は歴史の闇に沈んでおり、実態に迫るのは難しい。【平和取材班】

 証言したのは沖縄県に住む狩俣光永(かりまたこうえい)さん(80)。米軍タグボート(505トン、今の中型巡視船規模)の2等航海士として約3カ月間、戦闘などで動けなくなった艦船をベトナムからフィリピンやシンガポールのドックまで引く仕事をした。

 米軍との事前の約束で、危険な場所での作業はなかった。それでも、南部カムラン湾の港町で、機銃掃射する米軍用ヘリを目の当たりにした。どこに潜むか分からないベトコンへの威嚇では、と推測した。「怖いとは思わなかった。家族のために稼ぎ、必ず生きて帰る。そう思って、船乗りの仕事に打ち込んだ」

 沖縄の水産高校を出て、57年ごろ米軍基地に就職した。軍船での皿洗いから出発し、2等航海士などの資格を次々取得。那覇から近くの伊江島などへ物資を運ぶ船の船長を務めるなど、米軍に評価され、ベトナムでの仕事を任された。

    ◇

 他の船員は他界していたり、福祉施設に入っていたりで取材が難しいという。狩俣さんは何気なく言った。「本土からも、たくさんベトナムに行ってるぞ」

 当時の事情を知る関係者を訪ね、資料を集めるうちに、戦地派遣が想像以上の規模だったことが分かってきた。佐世保(長崎)や横須賀(神奈川)の米軍基地からも日本人が米軍船に乗り組み、総数は1000人を超すとみられる。米軍はベトナム戦争に全面介入した64年夏以降、日本人を本格的に雇い始めたようだ。高給を保証し、危険手当を含め通常の倍額を払ったとの記録もある。

 危険と隣り合わせだった実態も分かってきた。68年9月、軍の下請けの米民間輸送船がメコン川で攻撃され、中国人船員が死亡し、沖縄の船員が負傷した。

 死亡した日本人もいた。「日本人船員、射殺さる/南ベトナム/米舟艇の乗組員」。当時の毎日新聞の見出しだ。中部の港町で64年11月、南ベトナム政府の治安部隊に撃たれたという。記事は、犠牲者を「サイトウ・ケンゾウ(年齢、出身地不明)」と報じた。

    ◇

 こうした事件でベトナム行きへの風当たりが強まる中、狩俣さんは69年の年明け、米軍から打診された。「琉球船員の起用」と題する文書が届いた。迷いはなかった。

 基地労働者の組合は猛反対した。基地内で「戦争に加担するのか」となじられた。船員のまとめ役と目され、一緒に乗り組む仲間の妻が自宅に訪ねてきた。「本当に大丈夫ですか」。不安げに問う相手に言った。「僕にも家族がいる。死にに行くんじゃない。行くかどうかは自由だ」

 乗船予定者たちは、米軍の求めを断れば解雇されると不安を訴え、組合は「そんなことはさせない」と説得を試みた。狩俣さんは組合幹部にこう告げた。「私は自分の意思で行く。他の船員を誘ったりはしない」。打診を断り、船に乗らなかった仲間も数人いた。

    ◇

 平和を誓い、繁栄を目指す戦後社会の片隅で、戦地へ渡り、命を落としたサイトウ・ケンゾウさんを探した。

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 ■ことば

 ◇ベトナム戦争

 米ソ冷戦時代の南北に分断されたベトナムで1960年、米国の支援する南ベトナムに対し、北ベトナムの支援する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=米国側の呼称)が武装闘争を本格化させたのが発端。南シナ海トンキン湾で64年、北ベトナムが米艦を攻撃したとされる事件を口実に、米国は北爆と地上戦を展開。北ベトナムと解放戦線は68年1月、南ベトナム全土での大攻勢(テト攻勢)で米軍に大打撃を与えた。73年に米軍が撤退。南ベトナムは75年に降伏した。
    --「平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超」、『毎日新聞』2014年08月04日(月)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140804ddm001040164000c.html:title]


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平和のとなりで:/1(その2止) 米軍に雇われベトナムへ 生きるために 「戦争加担」指摘にも
毎日新聞 2014年08月04日 東京朝刊

(写真キャプション)賢三さんの遺影を手に、3歳上の兄浅雄さんは「もう悲しむのは終わり」と語った=蒲原明佳撮影


平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超
 <1面からつづく>

 ベトナムで亡くなった日本人を探して、千葉県館山市の漁師町にたどり着いた。

 同市船形の斉藤賢三さん(死亡時28歳)。仏壇の遺影は目元の涼しげな青年だ。「危険とは思っていなかったんだろうなあ」。兄の浅雄さん(82)は言った。

 敗戦前後に両親が他界。生活が苦しく、浅雄さんも弟も中学を出て漁師になった。「南方へ物資を運ぶ船に乗る」。弟は日本の仲介業者と契約し、1961年ごろから米軍で働いた。詳しいことは聞いていなかった。

 上下巻約3000ページの「全日本海員組合活動資料集」(同組合、86年)が、1ページの半分で事件を紹介していた。斉藤さんはベトナム中部の港町で64年11月3日午前0時45分ごろ、仲間と2人で船に戻る途中、敵兵に間違えられて南ベトナム憲兵に撃たれた。1発が太もも、1発が腹部を貫通した。

 浅雄さんは仲介業者から事件を聞き、「ベトナムで?」と混乱した。遺体が帰るかどうかも不明という。「顔が見たい」と懇願したが、20日後、弟は骨となって帰郷した。一緒にいた仲間に話を聞きたかったが、精神を病み無理だと断られた。

 浅雄さんは11月に、弟の五十周忌を妹らと営む。「起きたことは消えないが、弔うのも、悲しむのも終わりだ」

    ◇

 世界各地で戦争を遂行する米軍のもとで、多数の日本人が働いてきた。

 ベトナムから戻った狩俣光永(かりまたこうえい)さん(80)は、「戦争に加担したのでは」との見方に違和感を覚え続けてきた。「誰だって戦争は反対さ。でも、生きるために大義で割り切れないこともある」

 幼少期の記憶は、空襲の恐怖より飢えの苦しみが勝る。生まれ育った沖縄の小さな島は土地がやせ、イモすら満足に育たなかった。就職難で米軍基地のほかに選択肢はなく、懸命に働き、船乗りとして常に上を目指した。「時代の流れで他に道はなかった」。71年に民間船会社へ移る。

    ◇

 神奈川県の米軍横須賀基地では5000人の日本人が働き、うち2000人が艦船の修理に従事する。

 50代の修理工の男性は80年代、大学で船の設計を学んだ。造船不況で、船の仕事がしたくて基地を選んだ。国から給料をもらうが、使用者は米軍だ。「お前『思いやり予算』で食ってんだろ」。若いころ、酔った席での友人の言葉が胸に刺さり、今も抜けない。

 戦争に加担している意識はないが、疑問がわく瞬間もある。90年8月のイラクのクウェート侵攻で起きた湾岸戦争のころ、戦地帰りの米艦船は、ミサイルで敵機を落とした数だけ船体に「E」の文字を掲げていた。「エクセレント(素晴らしい)」の頭文字。「この船も、人を殺したんだなあ」と思った。

 米軍はその湾岸戦争でも、横須賀の修理工を戦地のペルシャ湾へ派遣する計画を立てていた。労組の反対でつぶれたが、男性は冷静に言った。

 「行け、と言われたら行っていた。それが仕事ですから」

    □

 戦争は、いつも平和の隣にいる。戦後69年間、私たちには見えない場所で、あるいは見ようとしなかった場所で、戦争に向き合って生きる人びとがいる。彼らを通して、集団的自衛権の行使容認や武器輸出解禁で変わりゆく日本のいまを考える。=つづく

 (この連載は川上晃弘、山田奈緒、花岡洋二、花牟礼紀仁、蒲原明佳、小川祐希、宮川裕章が担当します)
    --「平和のとなりで:/1(その2止) 米軍に雇われベトナムへ 生きるために 「戦争加担」指摘にも」、『毎日新聞』2014年08月04日(月)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140804ddm041040090000c.html:title]
 

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