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2014年8月

南原繁研究::南原繁研究会第3回研究発表会

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8月30日(土)は、南原繁研究会第3回研究発表会(学士会館、13:00~)に参加し、ひとつ発表してきました。

プログラムは次の通り

第1部
「国家と宗教」の岩波文庫化をめぐって 加藤節
南原繁と平和思想 戦後和解と戦争罪責に関する一考察 豊川慎
東大キリスト者良心の系譜2 南原繁のキリスト教信仰のアクチュアリティ 氏家法雄

第2部
石田雄との対話 永遠の課題としての「他者感覚」 大園誠
帝人事件研究序説 高木博義
大学の自治 学問の自由 鈴木英雄

詳細は後日、ちょこちょこ紹介しようと思いますが、どの発表も南原繁の思想のもつ現代的意義を照射する刺激にみちたものでした。

第3回発表で研究会は124回目。10年毎月……東日本大震災のその月は中止……読書会を重ねてきた積み上げがひかる研究発表会だったと思います。

みなさま、ありがとうございました。


 

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覚え書:「特集ワイド:孤高の木版漫画家・藤宮史さん、6畳間からの憂い」、『毎日新聞』2014年08月28日(木)付、夕刊。


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特集ワイド:孤高の木版漫画家・藤宮史さん、6畳間からの憂い
毎日新聞 2014年08月28日 東京夕刊

(写真キャプション)雑然とした6畳間で木版漫画に彩色している。「坂口安吾っぽいですかね」と藤宮さん

(写真キャプション)藤宮さんの木版漫画「セメント樽の中の手紙」

 ちょっと風変わりな木版漫画家がいる。藤宮史(ふじみやふひと)さん。もうすぐ50歳になるが、どん底の貧乏暮らし。でもカネまみれ、スピード優先の世に背を向け、魂を削るように人間の業に向き合った作品は温かい。ゆく夏の一日、この国の危うさを、孤高の漫画家と考えた。【鈴木琢磨】

 ◇貧乏人は戦争やろうとは思わない 原発ひとつ止められない意志薄弱

 「ああ、どうも。ここにお客さんが来たの、10年ぶりかなあ」。東京は阿佐ケ谷の外れにあるアパート、ふすまが破れ、世界地図を張った6畳の居間兼アトリエで藤宮さんは笑っていた。紙パックの麦茶をいただきながら、インタビュー。「よくわからないけど、徴兵制がくるんじゃないかって気がするんです。貧乏人は戦争をやろうなんて思わない。決して。でも誰かが戦争を起こす。こんな貧乏人からも税金はくまなく取っていく。そんな感じで、引っ張られていくのかなあってね」

 いつだったか、ふらっとのぞいた西荻窪の古本屋に藤宮さんの作品がいくつか並んでいた。いまどき木版画とは珍しい、と手に取った私は驚いた。どれも20ページほどでふんわり軽いが、中身は軽くない。たとえば、戦前のプロレタリア作家、葉山嘉樹(よしき)の小説「セメント樽(だる)の中の手紙」を原作にした漫画。ダム工事現場で労働者がセメント樽を開けると、木箱が見つかり、女性の手紙が入っている。その手紙には破砕機で砕かれ、セメントになった恋人を思う哀切の文が--。やるせないストーリーだが、版画はおだやかで、いい風合いである。

 「たぶん中学か高校の国語の教科書で読んだんです。ずっと引きずってて。底辺労働者への共感っていうか。僕は共産主義者でも、ましてや右翼でもありませんよ。ぐっときたものを版画にしたいだけなんで。どうして版画にするのか? ま、僕の感性に合うんですね。ゆっくり版木を彫って、1枚ずつ刷りあげていく、その手間のかかる作業でしか出せないカスレのある線が好きなんです。僕の人生もカスレてますよ。アハハ」

 そのカスレ人生はこんな具合だ。画家を志し、19歳で静岡県から上京、油絵をやったり、銅版画をやったり、額縁を背負って歩く路上パフォーマンスをやったり。しまいには骨董(こっとう)屋まで。どれもしっくりこない。たまたま同じ阿佐ケ谷の漫画家、故永島慎二さんの銅版画制作の助手を務めたことをきっかけに漫画の世界へ。木版画という古くて新しい手法で描いた叙情的な作品「黒猫堂商店の一夜」がイラストレーター、南伸坊さん(67)の目にとまり、第7回アックスマンガ新人賞南伸坊個人賞(2005年)を受賞する。南さんが言う。

 「普通の漫画でも描くのは大変なのに、それを木版画でやるんだからね。熱のようなものが表れているのがすごいなあ、と。漫画もコンピューターで描く時代だけど、あえて微妙なニュアンスのある木版画風を出そうとしているくらいですから。これから生き残っていける絵ですよ。それにどこまでも愛着のあるものを描く姿勢がいい。ビジネスとしての漫画じゃない。金銭的な成功を望んでないし」

 さて、オンボロアパートの藤宮さんである。「政治のことは知らないけど、僕の考えは、ここに書きました」。見せてくれたのは不定期刊の雑誌「幻燈」(北冬書房)に連載中のオリジナル漫画「或る押入れ頭男の話」。押し入れにこもっているうち異形の頭となった男がホームレス生活をしながら街をさまよう。男はこんなふうにつぶやく。

 <人間の社会は、そして全世界は、競争の世界であった。競争は言葉を代えれば戦争であり、殺戮(さつりく)であった。……私はあり得ない平和や共生の世界を夢みていた><公園のベンチは、ベンチのある土地は誰のものでもないということがわかる。……みんなが座りたいときに、空いていれば座り、空いていなければ座らない。でも、なぜ気軽に空いている家、部屋に住めないのだろう><こんなにたくさんの車が、こんなに速く走らなくとも、人々は幸せに暮らせるのではないだろうか>

 戦後69年続いた平和が壊れようとしている。集団的自衛権行使へと動き出して初めての8月15日、靖国神社は若者の姿も目立った。安倍晋三首相は平和をより強固にするためだと胸を張る。そしてしきりに成長戦略を口にする。右肩上がりの時代は去ったはずなのに。「ええ、それが幸せにつながるんですかね。憲法9条を思います。戦争放棄なんて地球初みたいな試みでしょ。平和のため、のらりくらり適当にかわしていく、100年たてば立派な文化遺産ですよ。原発だって、貧乏人の意見としては止めるべきなんだけど、やっていく方に傾いている人がいる。原発ひとつ止められない、なんと意志薄弱な国民なんですかねえ」

 つげ義春さんをほうふつさせる。現代の仙人のよう。1日2食。風呂はない。スマホはない。靴は10年履く。売れる当てもないが、ひたすらシュッシュシュッシュッ、木を削る音が響く。ちゃぶ台で1枚100円ほどのベニヤ板を彫り、小学生が使うバレンで刷っていく。たまに筆で色を入れる。「外出は近くの銭湯とスーパーぐらいです。飲み屋にも行かないし……」。夜遅く、パートナーのマキコさん(44)が事務のアルバイトから帰ってきた。「私の稼ぎがもっとよければいいんですが。支えてるっていうんじゃないんです。製本を手伝ったりして一緒に楽しんでいますから。うちの人を見ていると、私なんかも生きてていいのかなってふと思えて」

 小さな木の書棚には稲垣足穂(たるほ)をはじめ、太宰治、檀一雄らの小説がびっしり。よく見れば、吉行エイスケらマイナーな作家の小説もある。そこに中森明菜のレコードが紛れ込んでいる。陰のあるアイドルが藤宮さんらしい。「ひょっとしたら、僕らは『戦前』を生きているんじゃないかって思わなくもないですね」。戦後の豊かさが崖っぷちにあるいま、繊細な作家のアンテナが新たな戦争を予感しているからなのか。「僕らは幸せでした。でも誰かの犠牲の上にある幸せだった。若い世代が貧しくて、この国がうまくいくはずはない。彼らが生きられなければ、だめですよ」

 気がつけば、2リットルのお茶がなくなっていた。これから、どんな仕事を? 「オリジナル作品も描いていきますが、ずっと気になっている芥川龍之介の『羅生門』や中島敦の『山月記』を漫画にしたい。もう少し売れてほしいですから、そろそろ僕の作品を置いてくれそうな画廊へ営業をかけなきゃいけないかなあと」。口ひげが照れた。

     ◇

 藤宮さんの作品に興味があれば、ぜひ「木版漫画集 黒猫堂商店の一夜」(青林工芸舎)を。大手書店などで取り扱っています。 
    --「特集ワイド:孤高の木版漫画家・藤宮史さん、6畳間からの憂い」、『毎日新聞』2014年08月28日(木)付、夕刊。


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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 男女交際不活発社会=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年08月27日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論
男女交際不活発社会
自治体「婚活支援」の是非
山田昌弘 中央大教授

 国の予算がついたおかげで、いわゆる「婚活支援」、つまり、結婚したい人に出会いの機会を提供したり、つきあい方講座などを開いたりする自治体が増えてきた。私は「婚活」の造語者としてコメントをよく求められる。そこでは、自治体の婚活支援に対する反対意見もよく耳にする。「結婚相手を見つけるというプライベートなことに、税金を使うのはいかがなものか」というものである。それには、「就職対策、つまり、自分の仕事を見つけるというプライベートなことに税金を使うのはいかがなことなんでしょうね」と答えることにしている。
 「異性と会う時の服装や話題に関する講座を開く」「出会いのためのパーティーを開く」などを見ると、こんなことまで自治体がしなければならないのかという人がいてもおかしくない。しかし、嘆いても実態が変わるわけではない。それは、日本が「男女交際が不活発で格差がある社会」になっているからだ。今世紀に入ってから結婚しない人が増えているだけでなく、恋人がいない独身者の割合も増えている。
 恋人がいない独身者の多くは、30歳や40歳になっても親と同居している。特に男性は、仕事と実家の往復で外出も少ない。テレビやインターネット、ゲームなど、家で楽しい時間を過ごせる道具はたくさんある。男女交際を自由に楽しむ若者も確かに多い。しかし、その背後では、異性と話すどころか見かける機会もない若者が増えている。
 「支援せずに放置すれば、どうなるのか」と、婚活支援反対論者に聞いてみたい。どこに行けばよいかわからない、声のかけ方もわからないから、家にこもるのだ。このままだと、確実に出会いがないまま、親と一緒に年をとることになる。
 30年ぐらい前までは、独身者の大部分は男女とも正社員で、サークル活動などもあった。地方でも青年団活動が盛んだった。コミュニケーションが苦手な人でも、自然と出会いの機会が多く、時間をかけてゆっくり知り合う中で結婚していった。しかし、若者の非正規化が進み、青年団も消滅しつつある。自然に出会う場所や機会はどんどん減っている。これは、社会の責任とは考えられないだろうか。
 もちろん、日本の結婚の減少は、若者の経済的状況が悪く結婚しても経済的にやっていけない状況があること、さらには女性が子どもをもって働きやすい環境にいないことも大きな要因だ。出会いの機会が増えても、経済的、制度的問題を改善しなければ、結婚は増えない。同じように、たとえ経済的問題が解決されても、男女の出会いがなければ結婚が起こらないことも確かなのである。
国の婚活支援 生涯未婚率(2010年)は男性20・14%、女性10・61%。国は少子化対策強化のため、自治体の婚活などの支援に対する助成事業制度を創設。今年2月の13年度補正予算で「地域少子化対策強化交付金」として30億円を盛り込んだ。国が婚活支援予算を設けるのは初めて。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 男女交際不活発社会=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年08月27日(水)付。

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日記:信念を曲げないと柔軟さの相関関係へ成長すること

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どういう訳だか分からないのだけど、うちのお子さま(小5)が、割と生命尊厳の原理主義者。もちろん、肉も魚も「食べる」ので、その意義は十全に理解しているとは言い難いのだけど、目の前で、生命が「殺される」ことには断固として立ち向かう。これは在る意味では凄いと思う。

夏になってから虫が宅にはいってくるのだけど、猫の珠子ちゃんが、虫を見つけると……といってもものすごい小さい虫ですけど……目をらんらんと輝かせていたぶり、時には食べてしまう。自称・生命尊厳主義者のお子さまからすると、それがどうも許すことができないらしく、珠を厳しく暴力的に叱りつける。

(瑕疵ありながら)生命尊厳を大切に思いながらも、違反に対して暴力的に振る舞ってしまう……。そんなん、ガチムチのインドの修行者と比べるまでもな「ヘタレやないけ」と判断することはたやすいのだけど、忠実に生きようとすることは子どもにしては評価できる。けど珠子への叱りやめてほしいなあ、と。

日本社会では「信条に生きる」ことより皆さんの「心情に合わせて生きる」ことが美徳とされる。だからお子さまが「信条に生きる」ことに憧憬する。丸山眞男ではないけど、その負荷に対する逆ベクトルを強調することに吝かではないから。しかし、その瑕疵修正が日本的予定調和へ落ち着いてはいかんと思う。

すべての生あるものを尊重しようという感情と、それを毀損する子猫ちゃんをいたぶることは確かに同定しない。しかしながら、子猫をいたぶることをやめる(まあ、「やめろ」とはいいたけど、「やめろ」といってなぐりはしませんけど)のを、馴致されたパターナリズム的結末にだけはなって欲しくはない。

なので、とりあえず、昨日の仕事の休憩中に、とりあえず、特定秘密保護法のパブリック・コメントを出しました、締め切り日でしたので。凡庸な批判ですが。世の中には、「そんなん無駄無駄」とか「理想と現実は違うぜ」とか言われますけど、何か関わることができるチャンネルをふさぐことは遠慮したい。

まあ、馴致されて「むだ、むだ」というのはまだマシなんやけど、そんなぐだぐだ批判しても落ち着くところは決まっているんだから、公儀の手間を増やすな、などと言われると時々凹む。絶対的権力を批判すれば済むとはもとより思わないけど、そういう形での馴化つらい。

おそらく、これからお子さまも、生命尊厳の「実践」をスタイリッシュしていくこととは思う。しかし、今、生命を大切に思いながら、珠子をたたいたことの「感情」は忘れないで欲しいし、その珠子の痛みを分かった上で、叩かないけど、その信条を曲げない人間に「成長」して欲しいと思う。

俺さ、最近、この辺の文脈でものすごい面倒くさい人間になっていると思う。しかしその面倒くささっていうものをひきうけないと、人間が人間らしく生きることへ連動しないと思うのよね。

信念を曲げないと同時に、個々の判断においてマークシート式分岐チャートの末の解答と照らし合わせて安堵するが如き寛容さを同伴させるのではなく、結果は同じとしても、常に逡巡・熟慮・葛藤というプロセスを自ら引き受けて生きていきたい。そう我が子にも望む。だから珠子を叩く我が子を叩かない。 


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覚え書:「書評:植木雅俊『仏教学者 中村元 求道とことばの思想』(角川学芸出版) 多角的な思想の全軌跡=前田耕作」、『週刊読書人』2014年08月22日(金)付。


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書評
植木雅俊・著
仏教学者 中村元 求道のことばと思想

前田耕作

多角的な思想の全軌跡

活動的な生涯とその開かれた視線をあますところなく活写

 1979年12月末、ブレジネフはソ連軍のアフガニスタン侵攻を許可する書類に署名した。『広辞苑』(第3版・1983年)は初版(1955年)に記載のない「ブレジネフ」の項をつけ加える。このソ連によるアフガニスタンへの軍事介入から半年後、中村元訳『ブッダ最後の旅-大パリニッパーナ経』(1980年6月)が岩波文庫として出版された。この二つの対照的な出来事、ひとつは果てしない戦禍を生み、ひとつは魂の平安をもたらす道のりの語りかけ、私の中に、二つながら互いに連接していて忘れがたい記憶としていまも残り続けている。
 中村の訳はパーリ語原典からのもので明解、しかも本文の約4分の3を占める詳細な訳注が付され、歴史的人格としてのゴータマ・ブッダの実像と「神話」・「後生の創作」部分と考えられる虚像の部分を言語に添って指摘し、少しでも史実に近づけようとする努力が識見を尽くして払われており、いかにも中村の博捜果敢な学風が窺われるものであった。『ゴータマ・ブッダ』は、この訳書より27年も前に書かれたものであったが、「第八章 最後の旅」では、当然のこととしてパーリ文を主典としてブッダの思わぬ終焉の地クシナガラまでの旅が克明に描かれている。同じ箇所を読み比べてみると、引用の訳文が後の経典訳とは少しづつ異なっている。この「修正と絶えざる増補」もまた中村元が仏教学者として終生持ち続けた姿勢、「誠実な探求」の証しであった。
 中村元が私塾「東方学院」を解説したのは、1973年のことである。学院は、学問のセクショナリズムを排し、分野を超え、アカデミズムの外で活動する在野の研究者に広く門戸を開くことを趣旨とした。本書の著者植木雅俊は、すでに『梵漢和対照・現代語訳法華経』『梵漢和対照・現代語訳維摩経』(いずれも岩波書店)によって仏教学の今日的意味に大きな一石を投じたが、この訳業の視角は、東方学院で中村の膝下で学び、じかに会得したものであった。「現代語訳」とは、語義の細部の差異を通して多様な意味の地平の交差点に立つことである。それは中村仏教学の機軸をなす姿勢で、アカデミズムがもっとも苦手とするところであった。植木の画期的な訳業を「卑小なアカデミズム」や「護教論者」がつねに「正統」という隠微な衣を羽織って誹謗の的にするのも、この中村・植木と受け継がれた思考の強靱な批判性にある。
 昨年は「東方学院」開講40周年に当る。そして今夏「仏教学者 中村元」の活動的な生涯とその開かれた視線があますところなく最適の著者をえて活写され、上梓されたことを喜びたい。
 松江に生まれ、ラフカディオ・ハーンが人力車に乗っている姿を見たという母トモの言葉に同郷の異人ハーンに親しみをもった幼年時代、病床にあってひたすら本を読みあさり、自在な思考が芽生える中学時代に始まり、後の「学問の基本姿勢」が培われた旧制高校時代の多様な学風との出会い、ついで大学における宇井伯寿の示唆のもと、仏教の源流にあるインドの思想「ヴェーダーンタ」(ヴェーダ聖典の究極)哲学の歴史をめぐる6000枚の驚くべき論考によって、「満三十歳という異例の若さで文学博士号を取得」するに至るまでの第一章から、自分の死を意識しつつ、病を押して最後の講義を行う野生の学者魂が燃え尽きる終章まで、いっきに読み走らせてくれる。著者のあまりにも深い思い入れが小さな瑕疵といえばいえなくもないが、一人の屹立した新しい仏教学の創始者を描くに、この肉薄なくしてほかにどんな筆策があるというのだろうか。「アーナンダよ、お前は行きなさい」、その言葉のまま著者の熱い想いをのせて躍動する言説の中で仏教学者中村元の多角的な思想の全軌跡がいまここに鮮やかに蘇る。(まえだ・こうさく氏=和光大学名誉教授・東洋文化研究者)
★うえき・まさとし氏は仏教思想研究家。著書に『梵漢和対照・現代語訳法華経』(上下、毎日出版文化賞受賞)、『梵漢和対照・現代語訳維摩経』(上下、パピルス賞受賞)、『仏教、本当の教え』ほか多数。一九五一年生。
    --「書評:植木雅俊『仏教学者 中村元 求道とことばの思想』(角川学芸出版) 多角的な思想の全軌跡=前田耕作」、『週刊読書人』2014年08月22日(金)付。

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書評:「読書:『アダム・スミスとその時代』ニコラス・フィリップソン・著、永井大輔・訳、白水社」、『聖教新聞』2014年08月23日(土)付。

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読書
アダム・スミスとその時代
ニコラス・フィリップソン・著
永井大輔・訳

近代経済学の父の生涯と思想

 近代経済学の父=アダム・スミスの最新の評伝である。その生涯と思想をバランスよく叙述する本書は、大部の著作ながら一気に読み通すことができる。
 スミスが注目するのは「社交(交換)」の感覚だ。例えば、適切な言語使用は相互に心地よさをもたらす。感情の交換も財やサービスの交換も対極に位置するものではない。日常生活上の経験から道徳の原理を明らかにする『道徳感情論』と、折り目正しく生活することのできる術(すべ)として経済活動を論じた『国富論』は、いずれも「社交」感覚の展開であり、両者は密接に連携している。日々の暮らしの中で試行錯誤を繰り返し、歴史に学ぶことを重視するスミスらしい。
 また、スミスの思想にはヒュームの影響が欠かせない。本書はその友誼を詳しく取り上げ、ヒュームの人間学をスミスが完成させたと強調する。
 彼の人生と思想において、もっとも変わらない特徴は「謙虚さ」だと著者は言う。「この性向から、思慮ある一般市民は、千年王国じみた新たな天地創造をもくろむよりも、生活や公共の事案への対処において小さな改善を少しづつ進めていくこと」の大切さが導かれる。
 等身大の「啓蒙主義」で次代を展望した人物であることを明らかにするが、それは同時に、現代思想において評判の悪い「啓蒙」に、新たな息吹を吹き込む試みにもなっている。スミスの主著は、近年、新訳が相次いで刊行された。本書と合わせて手に取りたい。(氏)
白水社・3024円
    --「読書:『アダム・スミスとその時代』ニコラス・フィリップソン・著、永井大輔・訳、白水社」、『聖教新聞』2014年08月23日(土)付。

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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 介護、日常生活支え合う=宮武剛」、『毎日新聞』2014年08月20日(水)付。

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くらしの明日
私の社会保障論
介護、日常生活支え合う
地域包括ケアとは

宮武剛 目白大大学院客員教授

 市営の集合住宅群の一角で「ふれあい処ひとやすみ」は4年前に開設された。空き店舗を改造して1階の隅に「足湯」を設けた。温泉ではないが「温まる」「よく眠れる」と、お年寄りらでにぎわい、常駐の保健師や生活相談員に何でも相談できる。
 2階には「地域包括支援センター」が入り、社会福祉士、ケアマネジャーらが地域全体の介護や生活支援に対処する。
 来訪者の自然な交流も生まれた。「男性介護者の集い」、お年寄り向けの「火を使わない料理教室」、夕刻には、地元の有志が先生役で、「学習会」が週2回開かれ、塾に行けない中学生十数人が集まる。
 「箱根」の入り口に位置する神奈川県小田原市は人口約20万人、その海側で小田原福祉会は特別養護老人ホームを軸に在宅サービスを次々に拡充した。この集いの場も、その一環だ。
 「『施設に入りたい』と、心から希望した方は一人もいない」と、同会の時田純理事長(86)は言い切る。施設は必要だが「できるだけ自宅で暮らせる地域にしたい」と願ってきた。
 独居老人の会食を1978年に始め、ボランティアの助けも借り年中無休の昼・夕食配達に育てた。92年には独自のホームヘルパー養成を始め、県内初の24時間365日訪問介護につなげた。
 介護保険発足の2000年度以降は、在宅支援の通所介護、訪問介護・看護を拡充、特養ホームは定員100人で止め、運営が難しい短・中期の一時入所を70人も引き受ける。最近は診療所併設の住まい作りを急ぐ。
 小田原市は連合自治体25カ所ごとに「ケアタウン」作りを進め、同会は地元の東富水地域(人口約1・3万人)を担当する。
 「ふれいあい処ひとやすみ」を拠点にボランティアも結成され、1回100円のゴミ出しや電球の取り換え、1時間400円の草刈りなどに取り組む。
 「血縁も地縁もない集合住宅で、自分に関心を持ってくれる人がいる。その安心感で、地域を支えたい」。時田さんの思いが自治会や社会福祉協議会の助けを得て、中学生の面倒までみる「互助」に育ちつつある。
 政府・厚生労働省が進める「地域包括ケアシステム」は名前自体が難しすぎる。つまりは「地域ぐるみの支え合い」づくりだ。
 各地域で、高齢者らが何に困り、どう支えるか、現状と課題は千差万別である。市町村が連携すべきパートナーの、地域によって社会福祉法人や医療法人、生協や農協、NPO団体や市民団体などと異なる。市町村が主体になるものの、号令だけで動くわけもない。だが、この「地域再生」という難問に回答を出そうと懸命な地域も、わずかだが現にありうるのだ。
地域包括ケアシステム さまざまな生活支援サービスを日常生活の場(原則的に中学校区、人口1万人規模)で適切に提供する体制づくり。厚労省は25年度をめどに(1)介護サービスの拡充(2)医療と介護の連携(3)介護予防の推進(4)配食や見守り等の多様な支援(5)高齢者の住まいの整備--を目指している。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 介護、日常生活支え合う=宮武剛」、『毎日新聞』2014年08月20日(水)付。

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覚え書:「吉野作造の直筆展示 原敬暗殺を運不運で語る世相批判・宮城」、『毎日新聞』2014年7月10日(木)付。

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吉野作造の直筆展示
原敬暗殺を運不運で語る世相批判
大崎・記念館「人の値打ちは人格と事跡で評価」

(写真キャプション)原敬の暗殺について吉野作造が記した直筆原稿=大崎市古川で

 「平民宰相」と呼ばれた原敬(1856~1921年)の暗殺について記した民本主義者、吉野作造(1878~1933年)の直筆原稿が横浜市で見つかり、大崎市古川の吉野記念館が入手し開催中の企画展「吉野作造とキリスト教」で展示している。
 原稿は「原さんの暗殺と人の運」と題したコラム調で、200字詰め原稿用紙5枚のペン書き。政友会総裁として初の本格的な政党内閣を発足させた原が、21(大正10)年11月に東京駅で市井の若い不満分子に刺殺されたことを受けたもので、同年12月発行の生活改善啓蒙誌「文化生活」の巻頭に掲載された。
 「死に場所を得て男を上げ運が良かった」「これからだったのに運が悪かった」と、運不運にからめて原の人物評価をする世相を批判。「運不運によって人の価値に大小の差がつくわけではない。人の値打ちは生前に築き上げた人格と事跡で評価すべきもの」と結論づけている。
 同記念館によると、原は普通選挙に否定的で、吉野とは相いれない立場だった。吉野は25年に右派無産政党の社会民衆党の結党に関わっている。
 企画展は8月3日まで。有料。問い合わせは同記念館。0229・23・7100【小原博人】
    --「吉野作造の直筆展示 原敬暗殺を運不運で語る世相批判・宮城」、『毎日新聞』2014年7月10日(木)付。

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日記:南原繁と吉野作造 その信仰における屹立さと中庸


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月末に南原繁のキリスト教信仰の独自性(修養倫理のキリスト教受容とは違う)の発表をしなきゃならんので、夕方から少し、南原の著作を読み直しておりました。

南原繁自身が「ちなみに申しますと、私はある人びとのように、宗教を表に出さない。その点はカントに学んだつもりです」(『聞き書 南原繁回顧録』東京大学出版会)と語るので、ストレートに語ったものがほとんど無い(学術的には『国家と宗教』岩波書店、でしょうが)ので、聞き書の点と点をつなぐ。

『聞き書』でもキリスト教信仰について吐露するくだりは10件程度。矢内原忠雄と比べると(矢内原は聖書講義も多い)、非常に対照的。宗教を表に出さないことは新渡戸稲造から学んだというが、まさに南原繁の厳父が内村鑑三であるとすれば、新渡戸が慈母の役割。揺るぎなき畛はあれど非常に中庸な感。

「宗教を表に出さない」。即ち、何かを為すことでその信仰を宣揚しようと言う態度には常に自戒的であったが故に、その内面を殆ど語らなかったわけだけど、これは、吉野作造とも同じ。吉野作造自身もキリスト教信仰に出会えたうれしさは語るが、活動を「キリスト教の為に」やっている訳ではないという。

戦前日本のキリスト教の特色はホワイトカラーの内面の修養倫理的受容がその大きな特色。吉野作造もその例外ではないし、南原繁自身も一高時代「煩悶青年」だったというが如きで、その枠内だ。しかし二人とも、内面世界へ撤退するわけでもなく、その信仰を宣揚するために「社会派」となった訳でもない。

吉野作造はキリスト教の説く「四海同胞」の理念に啓発を受け、脱植民地・脱反民主主義の実践に取り組む。価値並行論で多元的共存を展望しながらも、内村(そしてカント)から正義を学ぶ南原繁は、この世のものにすぎない国家と対峙する。この姿勢には共通したところがある。

南原繁は『聞き書』の中で二度吉野作造に言及している。一つは「私の吉野先生についての第一印象は海老名弾正先生の本郷教会に始まる。あの人、海老名先生の教会員なんです。それが私にとってはひとつの、何となく先生を尊敬するというか、おのずから通ずるものがあるのを感じた第一です」。18頁。

南原繁と吉野作造と大学での接点は、教員になってからだが(学生時代は吉野が留学中)、吉野を尊敬することに関して、吉野がまじめな教会員だったと指摘していることに瞠目した。南原繁は無教会主義。意外に思われるかも知れないが、ここに南原の中庸さを感じてほかならない。排除ではなく包摂の論理か

1955年の吉野博士記念会での「吉野作造博士の思い出」(『聞き書』所収)でも、南原繁は、「ただ、吉野先生は本郷教会の有力な会員であられた。従って海老名(弾正)先生の影響があったのは事実だろう。しかし、この点でも、先生は、おそらく海老名先生ともちがうのではないか」と言う。

南原繁は吉野には独自のものがありそこに学ばねばという。「私どもは、とかく、ゾルレンとザインとの間にたえず苦悶している。ところが、吉野先生の場合には、もちろん、この二者があるにはちがいないが、それは外にはあらわれていない。ゾルレンとザインが一つになっている。そこに一つの調和がある」

そして南原繁は言う。「先生は何もいわれないけれども、無言の伝道をされたのである。先生の言動には、深いそういったものがあった。ここに、吉野先生がマルキシズムになり得なかった理由がある。なによりも、先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた」。ここなんだわ。

昭和14年。学内では河合(栄治郎)事件の真最中、外では日中戦争がはじまっていたとき、東京帝国大学にはドイツからはケルロイターが来ていた。このときにあたって、南原繁は吉野作造先生のことを想い一首詠んでいる。

 「灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき」

内村鑑三の「警世の預言者」としての側面をストレートに受け継いだのが矢内原忠雄とすれば、それをより社会化させた形で展開したのが南原繁なのであろう。内村と海老名弾正はその国家観をめぐって隔たりがある。しかし、その異なる二人に学んだ南原、吉野に共通したところがあるのは非常に面白い。

わたしがわたしのことがらとして「そう、生きていくこと」は大事だと思う。しかしどこまでもその啓発を与えながらも強要してはならない。吉野と南原に共通するのは、その中庸さだろう。

先に南原が吉野がよき教会員であったことを高く評価していると言及しましたが、これが実は昨年、南原繁さんのご子息(晃さん)の挨拶(南原繁研究会の研究発表会後の挨拶)で「(私は不信仰者ですが)父は、何かあったら、教会を尋ねなさい」とおっしゃっていたことがリンクする。

そこで思ったのは、確かにキリスト教と一言にいっても、新旧・正の際だけでなく、教派によっては重点の置き方がその大きな差異以上に異なる。しかし、無教会主義の南原繁が「何かあったときに、教会へいけ」といったことには、それを超えた共通項があるからだろう。果たして仏教にはあるのだろうか、と

キリスト教にはテクストの共通性があるが、仏教にない。その差異の超克が「哲学としての仏教」の受容という近代日本の展開なのではあるまいか。しかし、それはどこまでも「高尚な哲学」に留まり、人間の内面を受け止める側面は一人一人に投げ出されてしまう。その間隙を有象無象がつくのだろう。

非キリスト者の私すれば、近代日本のキリスト教の「茨の道」とは、まさに丸山眞男をして「心情キリスト者」と言わせしめた如く、憧憬すべき歩みだ。ずるずるべったりの日本教の如きを批判する絶対軸として。しかしその直系の南原繁の柔軟さは、その認識に「包摂」という新たな光を差し込む。いや面白い。
 


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覚え書:「記者の目:責任能力乏しい知的障害者=長野宏美(外信部)」、『毎日新聞』2014年08月20日(水)付。

*p1*[覚え書]覚え書:「記者の目:責任能力乏しい知的障害者=長野宏美(外信部)」、『毎日新聞』2014年08月20日(水)付。

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<記者の目>責任能力乏しい知的障害者=長野宏美(外信部)
2014年08月20日

(写真キャプション)記者に送られてきた藤崎宗司死刑囚の自画像と死刑確定前日に書かれた手紙

 ◇死刑の再考が必要

 現政権下での死刑執行は9人を数える。香川県で3人を殺害したとして、6月に執行された川崎政則死刑囚(当時68歳)は、知的障害などを理由に弁護側が心神耗弱で責任能力が低いと主張していた。国際的には知的障害者は死刑の除外対象とされ、例えば1989年の国連経済社会理事会や2005年の国連人権委員会の決議で加盟国に死刑を適用しないよう求めている。

 ◇厳罰だけでは何も解決しない

 だが、日本では知的障害者の死刑に特別な指針はない。起訴前や公判段階で精神鑑定を行い、責任能力を問えるか判断することもあるが、犯行の態様などを総合的に評価する。知的障害があっても起訴され、結果の重大性から死刑になることもある。川崎死刑囚も1審で「知能の程度が低いため、行動制御能力にある程度の障害を被っていた」と認められたが、完全責任能力があるとして極刑になった。

 私は知的障害者の犯罪を取材した経験から、個人の問題として厳罰を科すだけでは何も解決しないと感じている。障害に目を向けて刑の減軽理由として考慮し、死刑適用も見直すべきだと思っている。

 この問題を考えるきっかけになったのは、05年に茨城県で女性2人を殺害して死刑判決を受けた藤崎宗司死刑囚(52)の事件だった。中程度の知的障害で小2以下の水準とされる。盗みなどで8度服役し、刑事責任が減軽される心神耗弱と認められたこともあった。

 殺人事件の公判でも、兄と弟のどちらがいるのか聞かれ、「妹」と答えるなど、かみ合わないやりとりが続いた。弁護人に被害者の脈が動いていたか問われて「はい」と認めたのに、「勘違いでは」と誘導されると「はい」と迎合する。確定前に複数回面会したが、動機となった借金のことばかり気にして、殺人の重大性を認識しているように思えなかった。刑務所で学んだ文字で私に送ってきた手紙には、ほぼ一文ごとに「本当です」と記され、よほど人から信用されない境遇だったのかと想像した。

 刑務所と社会を行き来した彼の足跡をたどり(東京本社版10年12月30日朝刊)、どこかで福祉につなげられなかったのかと悲しくなった。今も面会を続けるキリスト教のシスター(79)は「死刑確定後も変化はなく、死を正確に理解しているように見えない」と語った。

 先進民主国で死刑制度があり、執行を続けるのは日本と米国だけだ。その米国では02年に知的障害者への死刑は違憲とされた。「有責性が低く応報刑罰に値せず、犯罪抑止にもならない」し、「立証能力が劣り、誤判のリスクもある」という見解だった。

 問題は知的障害の定義だが、州ごとに知能指数(IQ)や専門家の診断などを基にしている。フロリダ州はIQ70を境に決めていたが、連邦最高裁は5月、より慎重に取り扱う判断を下した。IQ71の死刑囚の訴えを認め、数字で単純に分けられないという見方を示した。

 そもそも米国では死刑自体が減っている。死刑維持は32州で、執行数はピークの99年に年間98件だったが、昨年は39件で9州に限られる。米世論調査会社ギャラップ社の昨年10月の調査では、死刑賛成は60%で、過去40年で最低だった。一因として誤判の問題が挙げられる。NPO「死刑情報センター」(本部・ワシントン)によると、73年以降に冤罪(えんざい)で釈放された死刑囚は144人。中でも知的障害者は取調官に迎合しやすいため誤判のリスクが高い。バージニア州の黒人男性は82年に起きた白人女性への性的暴行と殺人で死刑判決を受けた。軽度の知的障害があり、警察の誘導で自白してしまい、刺し傷や被害者の身長と供述内容との矛盾は見過ごされた。00年のDNA鑑定で真犯人が見つかり、ようやく釈放になった。

 ◇福祉につなぐ取り組み進む

 私は犯罪を重ねる知的障害者を取材してきたが、重度でなければ結婚や仕事をしている人も多い。一方、空腹だから万引きをし、疲れたから自転車を盗むなど、欲望を抑えきれない人もいる。「悪いことか」と聞けば「悪い」と答えるが、「なぜ」と問うと「悪いから」と言い、本当に罪を理解しているのか疑問だった。犯罪組織に覚醒剤の運び屋や偽造通帳の名義人にされた人もいた。誇らしげに「成果」を語る姿には、障害を理解していないと憤りが増す。

 軽微な罪を繰り返す知的障害者に対しては、起訴や実刑ではなく福祉施設につなぐことで再犯を防ぐ取り組みも進んでいる。障害に目を向けることで問題の早期発見も期待できる。重大犯罪でももっと障害を考慮して刑罰や処遇に向き合うべきではないか。責任能力や自白の信用性が乏しいと思われる知的障害者への極刑適用は再考が必要だ。
    --「記者の目:責任能力乏しい知的障害者=長野宏美(外信部)」、『毎日新聞』2014年08月20日(水)付。

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[http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20140820org00m040002000c.html:title]


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覚え書:「書評:仏教学者 中村元 植木雅俊・著 学究の生涯と業績描く評伝」、『中外日報』2014年08月08日(金)付。

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書評
学究の生涯と業績描く評伝
仏教学者 中村元
求道のことばと思想
植木雅俊・著

 本書は、人間ブッダに光を当て、ひろく仏教の魅力を伝えた中村元の生涯と業績をたどりながら、その思想の「輪郭」と「核心」を明らかにした評伝だ。
 若き日の中村は、哲学書や宗教書を読みあさった。大学では6千枚の博士論文を書き上げ、ヴェーダーンタ哲学史の千年にわたる空白部分を復元して30歳で文学博士の学位を得た。
 『中村元選集(旧版)』全23巻の完結で文化勲章を受章し、その11年後には決定版『中村元選集』全40巻の出版に取り掛かるという飽くなき探求心。19年がかりで仕上げた『佛教語大辞典』の原稿4万枚が行方言ふ名になっても、作業をやり直して8年がかりで完成させるなど、驚嘆すべき努力家でもあった。
 偏狭なセクショナリズムと生涯闘い続け、東西の思想を比較・吟味して、洋の東西を超える人類共通の智慧を求めた碩学は、常に「分からないことが学問的なのではなく、だれにでも分かりやすいことが学問的なのです」と語った。
 本書は、中村の多くの人に慕われた人柄と、たゆまざる学究の生涯を鮮やかに描き出す。
 本体価格1800円、角川学芸出版(電話03・3238・8521)刊。
    --「書評:仏教学者 中村元 植木雅俊・著 学究の生涯と業績描く評伝」、『中外日報』2014年08月08日(金)付。

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覚え書:「発言:解釈改憲許さぬ『国民意思』を=山中光茂・三重県松阪市長」、『毎日新聞』2014年08月14日(木)付。

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発言
解釈改憲許さぬ「国民意思」を
山中光茂 三重県松阪市長

 安倍内閣は7月1日、集団的自衛権行使を可能とする憲法解釈の変更を閣議決定した。日本国憲法が「国際紛争を解決する手段」としての戦争と武力の行使を放棄したことに対する明白な違反である。
 首長である私は市民団体を結成し、憲法学者や有識者らとともに集団訴訟、国家賠償請求でこの決定に立ち向かう運動を始めた。これは「右」でも「左」でもない。松阪から市民運動として全国へと広げ、問題の重要性を国民に訴えていきたい。
 私はかつて医師としてアフリカ諸国で活動してきた。そこでは「愚かな為政者」の判断で国家体制が変えられ、国民生活が破壊されることも決して珍しくない。内戦後の民族紛争の継続や人種間の格差拡大など、為政者の判断が負の連鎖を広げる現実を肌で感じてきた。
 だからこそ、国民意思で権力を抑制する憲法というシステムがある。日本国憲法は第二次世界大戦という経過を踏まえ、前文に「平和を愛する諸国民の公正と真義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、「平和のうちに生存する権利を有すること」とうたう。そのもとで権力が制約を受けることを確認したのである。
 だが、集団的自衛権行使はこれを覆すものだ。集団的自衛権はそもそもが「国際紛争を解決する手段」として用いられるもので、自国への急迫不正の侵害がなくとも同盟国と共同して武力行使ができる。
 本来、権力を抑制すべき憲法の本質的な要素が権力者の恣意的な解釈で変更された以上、これをただすのは司法の役割だ。ただし、日本の司法は「具体的審査制」を採用していない。個別的権利の侵害がない行政行為や法律の抽象的審査はできない。そのため、内閣による閣議決定や今後の立法行為それ事態を違憲審査するためにはどのような権利侵害があるのかを「訴えの利益」として明確にすることが求められる。
 だからこそ私は自治体の長という権力機関の一員ではなく「ピースウイング」という市民団体をつくり一原告として「訴えの利益」を国民的運動のなかで明確、具体化しようと考えた。当たり前に平和を享受するなかで当たり前に生きる「平和的生存権」を具体的権利として認めるかどうかの判断は、過去の判例においても大きく分かれる。今回の閣議決定が国民それぞれの生活に明確な危険を及ぼすことの蓋然性を主張し、国民意思として認知させる。その運動の拡大により、訴訟を入り口で「門前払い」で排除できない環境を形作っていくことが重要である。
 日本は憲法9条に基づき、平和主義を抑止力としてきた。それが、日本の誇りでもあった。
 それが変更されることは「国民意思」によってストップしなくてはならない。活動開始以来、全国から1万通を超える運動への賛同メッセージをいただいた。地方議員の賛同の輪も広がってきた。まずは「法の支配」を守る司法の場において、最終的には国民が立憲主義と平和主義を守り抜く闘いにつなげていかなくてならないと確信している。
やまなか・みつしげ 松下政経塾出身。ケニアなどで医療ボランティアに従事。09年から現職(2期目)。
    --「発言:解釈改憲許さぬ『国民意思』を=山中光茂・三重県松阪市長」、『毎日新聞』2014年08月14日(木)付。

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日記:追悼、木田元先生。


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哲学者の木田元さん死去 ハイデガー研究の第一人者
2014年8月17日16時26分 『朝日新聞』電子版。

[http://www.asahi.com/articles/ASG8K4S5TG8KUCLV002.html:title]


木田元さん
 20世紀ドイツの哲学者ハイデガーの研究で知られる哲学者で中央大名誉教授の木田元(きだ・げん)さんが16日午後5時33分、肺炎のため千葉県内の病院で死去した。85歳だった。通夜は19日午後6時、葬儀は20日午前10時30分から千葉県船橋市習志野台2の12の30の古谷式典北習志野斎苑で。喪主は妻美代子さん。

トピックス:木田元さん
 「闇屋になりそこねた哲学者」という著書があるように、学者としては異色の経歴の持ち主。山形県に生まれ、旧満州(中国東北部)で育った。敗戦後、故郷で代用教員時代に米の闇屋で稼いだ資金を学資に農林専門学校に入学。そこでハイデガーの本と出合い、哲学を専門とすることを志し、東北大に進んだ。

 長く中央大学で教壇に立ち、西欧哲学、特にハイデガー研究では、日本の第一人者となった。99年の退職後も、若い研究者を相手に在任中から主宰していた私的なハイデガーの原書講読会を続け、カラオケと酒を愛する洒脱(しゃだつ)な人柄もあり、多くの後輩を育てた。

 また、東西の古典はもとより、詩歌から時代小説、推理小説までと、大変幅広い読書家としても知られ、哲学を離れても多くの著書がある。98年から02年まで朝日新聞書評委員を務めた。主な著作に「現象学」「ハイデガー『存在と時間』の構築」「哲学と反哲学」など。

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ハイデガー研究の第一人者・木田元先生が8月16日に逝去された。85歳とのこと。ハイデガーへの導きは木田先生抜きには語れない。安らかなお眠りをお祈り申し上げます。

さて、木田先生は、敗戦後の焼け野原に立ち、悪戦苦闘する中で、「ハイデガーを読みたい」という一心で哲学に導かれたという。その文章も合わせて下に抜き書きしておきます。

ほんと、こう時代の変化が(悪い方へ)というスピードの早い時代だからこそ、徹底的に考え抜くという実践は、今こそ必要だと思います。


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戦後の放浪
 人がどんなふうにして哲学に近づいてゆくものか、その一例として私自身のばあいを語ってみようと思う。
 私は一九五〇年(昭和二十五年)に東北大学に入って哲学の勉強をはじめたのだが、私のばあい、中学・高校・大学とすんなり進学したわけではなく、敗戦後の五年間ずいぶん廻り道をしている。そして、そのばあいにどうしてもハイデガーの『存在と時間』を読まずにはすまされない気になり、それを読みたい一心で大学の哲学科に入ったのである。
 いったいどうしてそんな気になったのか。それを語るには、敗戦後の私の生活をふりかえることからはじめねばならない。年寄りの思い出と思って読んでいただきたい。
 敗戦のとき、私は十六歳、江田島の海軍兵学校にいた。三歳から満州(現・中国東北部)で育ち、敗戦の四ヵ月前、兵学校に入るためにはじめて日本に渡ってきたのである。したがって、戦争に負けたから家に帰ってよろしいと言われても、帰る当てがない。近い親戚はみんな満州に集まっていたのである。当面は兵学校のクラス担任であった先生の佐賀の実家に引きとってもらったが、なにしろ日本中食糧のないとき、そこにも長居できず、一月半ほどでおいとまをした。台風で山陽本線が寸断されていたので、別府から尾道まで闇船--漁船などを利用し、不当な料金をとって客を運ぶ客船--で瀬戸内海を渡り、あとは無蓋貨車を乗り継いで東京に出た。何日かかったか、よく覚えていない。繊細で焼け出された人たちに混じって上野駅の地下道で一週間も野宿したろうか。そのうち、下町を焼け出された人たちに混じって池袋の西口のマーケットに居を移していた小さなテキ屋にスカウトされた。体力と腕力だけは人並み以上だったのである。主な仕事は、川崎あたりの旧陸軍の倉庫に木炭トラック--どういうメカニズムによるのか知らないが、この頃は木炭を焚いて自動車を走らせていた--に乗って押しかけ、隠退蔵物資摘発という名目で毛布や敷布など軍需物資を略奪することだった。時どきどこからか情報が伝わってくると、そのテの組織が大挙して押しかけ、私はそうした方面にもけっこう能力があり、親分夫婦にずいぶんかわいがられたのだが、さすがにテキ屋になる気はなく、暇を見ては必死になって身寄りを探した。
 兵学校入学のとき遠縁の海軍大佐に保証人になってもらったことは覚えていた。むろん敗戦直後にも江田島で、保証人の住所氏名の記載された入学誓約書というのを本部に探しにいったのだが、焼き捨てられた直後だった。それにあれだけの戦争のあと海軍大佐がおめおめと生き残っているとは思われなかったので、探すのは諦めていたのである。しかし、遺族の住所でも分かればなにかの手がかりになると思い、その頃、雅叙園に移っていた海軍省の残務整理部をやっと探し当てていってみると、なんのことはない、死んだと思った御当人がそこにいるではないか。向こうでも多少は気にして探してくれていたらしい。ともかく幸運であった。その指示で、山形県の新庄という父の郷里の町にゆき、父の従妹の嫁ぎ先といった程度の遠縁の家に落ち着いた。満州にいる家族がどうなっているのかは見当もつかない。二、三軒の親戚をタライ廻しにされたりして、かなりの心理的抑圧も経験したが、ともかく一年近くそこで畑仕事の手伝いなどをしながら暮らした。
 敗戦の翌年、昭和二十一年の秋に、シベリアに抑留された父を残して、母と姉二人と弟と四人の家族が引き揚げてきたのを迎えて、今度は母の郷里の鶴岡という日本海岸の町に住みついたが、むしろそれからが大変だった。なにしろ働けるのが十八歳になったばかりの私一人、一家を養わねばならない。人の世話で、まず市役所の臨時雇い、次いで十一月頃から近くの温泉町の小学校の代用教員をしたが、そんな給料で一家五人が暮らせるわけはない。週末や冬休みには闇米をかついで東京まで通った。あらかじめ人に頼んで買い集めておいた一俵分の米を、背中に三十キロ背負い、両手に十五キロずつ持って、進駐軍や警察の目をくぐって満員の夜行列車で運んだのである。二回の往復で一月の給料分ぐらい稼げたから、やめるわけにいかない。
 学校で私が担当させられたのは、当時の学制で尋常科六年を卒業し、進学しないでしまった生徒たちの入る高等科一、二年の男子のクラスであった。ロクに教科書もない複式授業をし、午後は下級生の教室で焚くストーヴの薪割りといった毎日、三、四歳下の田舎の子どもたちと遊ぶのは楽しかったが、そんな状態だから、善良な教師というわけにはいかない。ふだんは宿直を買って出て学校に泊まりこんでいたが、夜になるといやでも自分の行く末を考えてしまう。父が帰ってくる保証もないし、こんな生活がいつまで続くのかと思うと暗澹とした日々だった。
    --木田元「暗い時代に ドストエフスキーとの出会い」、『わたしの哲学入門』講談社学術文庫、2014年、30-33頁。

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覚え書:「安倍政治どうですか:/1 平和主義を破った=藤井裕久・元財務相」、『毎日新聞』2014年08月14日(木)付。


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安倍政治どうですか:/1 平和主義を破った=藤井裕久・元財務相
毎日新聞 2014年08月14日 東京朝刊

=藤井達也撮影

拡大写真
 ◇藤井裕久・元財務相(82)

 --安倍晋三首相の政権運営をどう評価しますか。

 ◆歴史観が偏り過ぎていることと、金をばらまけば経済が良くなるという手法の限界を認識していないことの2点に尽きる。

 --偏った歴史観とは。

 ◆安倍さんは、日本が中国を侵略したかどうかは「定義が定まっていない」と(答弁した)。しかし盧溝橋事件後、南京、武漢三鎮、広東までとったのは、明らかに侵略だ。もう一つの問題は、持論である「戦後レジーム(体制)からの脱却」。戦後体制を中心になって作ったのは自由民主党だ。安倍さんは集団的自衛権を言うことで、先輩たちが守ってきた平和主義を破っている。さらに米国とバイラテラル(2国間)でやろうとしているが、そうすると必ず仮想敵国を作り、それが本当の敵になる。

 --首相は「海外派兵は許されないという原則は変わらない」と言っています。

 ◆ならばなぜ集団的自衛権を言うのか。政府が与党協議で挙げた15事例は、全て個別的自衛権の問題だ。また安倍さんは、憲法解釈変更でやった。徴兵制も、違憲の根拠とされる憲法18条は「意に反する苦役(に服させられない)」と書いてあるだけで、解釈で禁じている。解釈を変えればいつでもできることになる。今の自衛隊は、海外に派遣されるとは考えずに入った人がほとんどだ。海外に派遣されるとなったら辞める人が出るかもしれない。そうなると、徴兵制にしなければ成り立たない。

 --経済政策はどう評価していますか。

 ◆法人税減税とその代替財源として外形標準課税の拡大を検討するなど、恵まれた人をより恵まれるようにすることが経済を良くするという発想が根底にある。実体経済を良くしていないばかりか、結果として円安になり、輸出は伸び悩む一方で、国民生活に直結する物価が上がっている。このままだと昭和初期の格差社会と同じ状況に行き着く可能性がある。

 --しかし、安倍政権の支持率を支えているのは経済政策への支持です。

 ◆株価が上がっているからだ。安倍さんほど株価にご執心の首相は珍しい。6月に閣議決定した成長戦略に盛り込んだ年金積立金の運用見直しも株価対策だ。しかし、株価が上がれば世の中が良くなるという発想はおかしい。池田勇人元首相は経済を良くすることが「目的」だったが、安倍さんにとって経済は、真の目的である集団的自衛権などの安全保障政策にのってもらいやすくするための「手段」に過ぎない。

 --首相は新たに「地方創生」を掲げています。

 ◆考え方は正しいが、実現できるかどうか。田中角栄元首相は「過疎と過密の同時解消」を掲げたが、結局失敗した。東京五輪は東京一極集中を加速する懸念がある。東日本大震災からの復興もある。一過性の金ばらまきはやめて、非正規社員の正社員化など雇用の安定や社会保障の安定により消費を増やし、経済を安定させる政策に転換すべきだ。【聞き手・上野央絵】=つづく

     ◇

 「政高党低」といわれる中、独自色の強い政策を次々と進めている安倍政権をどう見るか。与野党の要職を務めた国会議員経験者に、政治部デスクが聞いた。

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 ■人物略歴

 ◇ふじい・ひろひさ

 旧大蔵省出身。参院議員2期、衆院議員7期。財務相など歴任、現在民主党近現代史研究会座長。
    --「安倍政治どうですか:/1 平和主義を破った=藤井裕久・元財務相」、『毎日新聞』2014年08月14日(木)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140814ddm005010149000c.html:title]


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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 社会的排除状態に危惧=湯浅誠」、『毎日新聞』2014年08月13日(水)付。

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くらしの明日
私の社会保障論
社会的排除状態に危惧
児童虐待相談数7万件超え

湯浅誠 社会活動家

 児童虐待の相談対応件数が昨年度、7万件を超えた。1990年度が1101件だったから、約25年間で約70倍に増えた計算だ。背後には問題意識の高まりがある。いわゆる「泣き声通報」の中には誤解に基づくものもあるだろうが、それによってより多くの子どもたちが深刻な事態に至る前に対応されているのだとしたら、喜ばしいことだ。
 しかし、発見は解決ではない。特に虐待のように精神的に深い傷を残すものは、発見した後に、本人と本人を支える者たちによる長い長い「闘い」が始まる。簡単には支援の終結には至らない中で発見機能が高まっていけば、支援機関はパンクする。都市部の自治体の児童相談所は、すでにそのような状態になって久しい。
 発見は重要だ。その上で、その後の対応にも社会の目が向くといい。人によってはかなりの長期に及ぶ対応機関を専門家だけに委ねるのだとしたら、支援スタッフの増員が欠かせないが、それには費用がかかる。本人(子ども)に支払い能力がない異常、税金などでまかなうしかない。
 他方、公務員は長く減額・削減の対象であり、大幅な増員に関する社会的合意はない。結果として「より対策を充実させるべきだ」と「行政機能はスリム化すべきだ」という相反する欲求のはざまに子どもたちが落ち込んでいく。
 私たちは、このような状態を社会的排除と呼んできた。誰もが「何とかすべきだ」と言う。しかし同時に、誰もが負担は忌避する。結果として十分な仕組みが整備されず、誰かが排除される状態が続いてしまう。
 もちろん、そもそも親が虐待しなければいいし、起こってしまった虐待に対しては行政機関が大量かつ完璧に対応すればいい。それができれば、子どもたちが相反する欲求のはざまに落ち込むことはない。だから私たちは、虐待の事件などが報道されるたびに、親を責め、役所を責める。
 しかし、どれだけ親を責めても、どれだけ役所の対応を叱責しても、悲劇は繰り返し起きてしまう。だとしたら私たちは「親と役所がしっかりしてさえいれば、こんな問題は起きない」という自らの思いこみ自体を疑ってみる必要がある。それは本当に現実的な想定なのか、と。
 社会的排除とは、「社会」が引き起こす「排除」である。そして社会は、私たち一人ひとりが構成している。親だけ、役所だけの問題と考えているうちは、虐待を生き延びた子どもたちをきちんと支えられる社会にはならないのではないか、と私は危惧している。

児童虐待相談の急増 児童虐待相談件数が23年連続で過去最多を更新した背景には、2008年に虐待通告された自動の安全確認を義務化したことで、埋もれていた虐待事案が明るみに出た側面がある。昨年からは虐待を目撃したきょうだいも安全確認の対象とされた。この他、親が子どもの目前で配偶者に暴力を振るう行為の通告も増えている。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 社会的排除状態に危惧=湯浅誠」、『毎日新聞』2014年08月13日(水)付。

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日記:灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき

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 それでは、吉野先生の本質はどこにあるか。ここに「先生とキリスト教」という問題が出て来る。この点は『世界』(一九五五年四月号、一〇〇頁)の座談会の中でもふれられていますが、たしかに、先生は内村鑑三先生とは無関係だった。ただ、吉野先生は本郷教会の有力な会員であられた。従って海老名(弾正)先生の影響があったのは事実だろう。しかし、この点でも、先生は、おそらく海老名先生ともちがうのではないか。吉野先生には、吉野先生のものがあった。先生独自の境地があったのではないかと思う。これは私どもの学ばなければならない点である。私どもは、とかく、ゾルレンとザインとの間にたえず苦悶している。ところが、吉野先生の場合には、もちろん、この二者があるにはちがいないが、それは外いはあらわれていない。ゾルレンとザインが一つになっている。そこに一つの調和がある。先生は何もいわれないけれども、無言の伝道をされたのである。先生の言動には、深いそういったものがあった。ここに、吉野先生がマルキシズムになり得なかった理由がある。なによりも、先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた。
 それについて、吉野先生が病院に入院されたとき、私は、おそらく長くないだろうから、お元気なうちに一度ぜひお見舞いしたいと思って、高木(八尺)君と一緒にお伺いしたことがある。先生は、死を前にして、きわめて当り前、きわめて自然にふるまっておられた。これは東洋流にいえば、達人である。悟りに入った人である。その先生を失ったことは、まことに大きな打撃であった。
 吉野先生は、満州事変は知っておられたが、日中戦争のことはご存知なかった。それから第二次世界大戦となった。この間、私は事あるごとに、先生のことを思った。私は、日記がわりに短歌をつくっているが、昭和十四年のくだりに、一首、先生のことを詠んだ歌がある。昭和十四年といえば、学内では河合(栄治郎)事件の真最中、外では日中戦争がはじまっている。ドイツからはケルロイターが来ていた。このときにあたって、先生のことを想った。
 灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき
    --南原繁「吉野作造先生の思い出(吉野博士記念会・例会録(第八回) 1955年3月26日、於学士会館」、丸山眞男、福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録』東京大学出版会、1989年、233-234頁。

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南原繁は、吉野作造に直接学生として学ぶことはなかったし(吉野が留学時代)、教員時代の重なりも薄い。しかし、その謦咳に接し、「先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた」と評価する意義は大きい。

吉野作造が「有機的知識人」であるとすれば、南原繁は自称する通り「現実的理想主義者」である。しかしその「現実的理想主義者」は、吉野作造に学び、自ら、次代の吉野作造たらんとした意志の発露とも捉えることは不可能ではない。

繋がらなかった点と点、線と線がつながりはじめたような予感です。


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日記:意識の高い、有意味な言説というドクサ

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たまこさんのお世話ちう。

土曜日に細君が子供を連れて実家に帰ってしまったので(とほほ、猫のたまこさんと二人ぐらしです。とはいってもほとんど家にいないので少しの時間ですし、今日はぐったりと寝ていたので、少々余裕をもって接していますがものすげえ甘えてきますね。

しかし振り返ってみれば、帰宅してからは、たまこさんと「たまー」、「たまこ、かわいいね」とかそういう発話しか、していないことに改めて驚きます。そりゃあ、話す相手がたまこさんしかないわけですからね。

まあ日当稼ぎで殆ど家にいないし、家にいても書き物しているし、妻子が家にいても別段、「有意味」な会話ばかりしている訳でもなく(所謂「意識の高い」話をすると煙たがられるし)、短絡的な経済的判断を下すと「おはよう」というような「無意義」な会話の方が多いと思う。たまことの会話も同じかw

無意義な会話はダメで、所謂「意識の高い」会話だけが素晴らしいというのもゾッとするし、その対極として、社会なんてどうでもいいという無意義な会話だけでいいのよ、というのにも違和感はありますが、こういうのはたぶん、対立的にとらえるとよくないのかもですね。

名匠・小津安二郎の作品に『お早よう』(1959・松竹)というのがあります。
郊外に住む林家の親子をめぐるコメディで、TVを買ってくれと子供はねだるけど拒絶され、大人は「お早よう、天気はどうですか」といった無意味な会話ばかりだから、言葉を発しないストライキを子供たちが実行します。

ぐろーばる人材だの、コミュ力でしたっけ、そういうテンプレ的言辞をうまく使いこなすことだけに、言語の有用性を見出すことは、言語使用の当体としての人間理解を極めて細めてしまうことになると思う(社会性からの撤退も同じだけど)。

価値があるのかないの、誰かに決めてもらうことの愚かさですよね。結局の所、グローバルだの、コミュ力だの、意識が高いといった「有用性」「有意味性」なんて、権力がこしらえる訳ですから(だからテンプレになるわけで)

まじめに考えること、そして、生活者としてそれは無意識のうちに発せられる社交儀礼のごとき言辞、そういうのを対立的に捉えるのではなく、それがあっての人間というところからはじめて、「さしあたり」有用である(=お金になる・出世できる)というところを相対化させたいなあと思ったりです。

あ、そういや、たまことしか会話していないし、僕はほとんど、独り言を発話しない系の人間なんだけど、そういや、「おっす、おら、悟空」をなんどか発話していたなあ(つらい

あ、それから安倍晋三さんのコピペは、儀礼的言辞の枠内を凌駕する暴挙だとは思う。工夫もできないぐらい頭がわるい。結局、言葉と人間の存在に対する冒涜でしょう。

だけど、逆に、「すべてのことがらをお前の言葉で語れ」と脅迫されてしまうとこれも困ってしまう。人間は神ではないのだから無から創造することができない。だけど、「まねる」としての「学び」がきちんとできれば、それはコピペとはちがう自己内受容としての言葉にはなると思う。

いつものおとしどころかもしれんけど、完膚無きまでの古典を読むこと、そして外国語を学ぶことしかねえわな。 


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覚え書:「特集ワイド:この国で確かにあったこと・2014年夏/5 最近、兵士の夢を見る--漫画家・水木しげるさん」、『毎日新聞』2014年08月13日(水)付、夕刊。

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特集ワイド:この国で確かにあったこと・2014年夏/5 最近、兵士の夢を見る--漫画家・水木しげるさん
毎日新聞 2014年08月13日 東京夕刊

 ◇命懸けで合流した部隊で「死ね!」こみあげた怒り--水木しげるさん(92)

水木しげるさん=竹内紀臣撮影

 「最近、戦争の夢を見る夜が増えた」という。鬼太郎ブームを巻き起こした日本を代表する漫画家、水木しげるさん(92)が見る夢の中で、亡き戦友たちが無言で目の前を通り過ぎる。水木さんの右手は空をつかむようにして戦友を呼び止める。だが「『おーい!』と声をかけても誰も振り向いてくれない」。

(写真キャプション)ジャングルの中で、負傷兵を護送する衛生隊。水木さんはこの地で多くの戦友を失った=ニューブリテン島ラバウルで1944年


 東京都調布市の水木さんの事務所。鬼太郎や妖怪たちのフィギュアやお面が見守る。太平洋戦争中、激戦地、ラバウル(現パプアニューギニア・ニューブリテン島北東部)にいた。目の前の机に置いたのは、戦記漫画「総員玉砕せよ!」の初版本。「90%は戦地で自分が見聞きしたこと」という。

 召集令状が届いたのは1943年春、21歳の時だった。古い船に乗せられラバウルに着いたのは秋。ラバウルはガダルカナル島などへの中継地点で、連合国軍の空爆の標的になった。すでに戦局は悪化し、水木さんの船はラバウルに到着した最後の船だった。

 戦場は常識が通用しない世界だった。「上官から毎日50発ぐらいビンタされていました。水木さん(自分のことをこう呼ぶ)は、一秒でも長く寝ていたいから起床が一番遅い。だから朝から『ビビビビビン!』とビンタされる。銃の手入れが悪いと指摘されたり、軍の規則に少しでも外れる行動をしたりすれば、これまたビンタなのです」。兵隊は消耗品と位置付けられ、初年兵と畳はたたくほどよくなると言われていた。

 「戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった」

 分隊で、間もなく夜明けという頃に海岸線の歩哨に立った。望遠鏡でオウムを観察していて時間に遅れそうになり、慌てて隊に戻る途中、分隊は森側から敵襲を受け、全滅。水木さんは海に飛び込み、現地住民に襲われたり密林の中をさまよったりしながら本隊と合流を試みた。重い銃や弾は捨て、5日ほどの逃避行。「時間の感覚がまったくなかった。あるのは『生きて日本に帰りたい』という気持ちだけだった」と振り返る。

 死線を乗り越えて部隊に合流すると思いがけない言葉が返ってきた。小隊長は「天皇陛下からもらった銃をなぜ捨てて帰った!」と怒鳴った。中隊長は「なんで逃げて帰ってきたんだ。みんなが死んだんだからお前も死ね!」と。

 水木さんはこの時の心境について一言だけ述べた。「兵隊が逃げていたら戦争なんかできないから、生きて帰ったと叱られたわけですよ。だけどね、命からがら逃げてきて『死ね』と言われてもできるわけないですよ」

 著書「水木しげるの娘に語るお父さんの戦記」(河出文庫)にはこう記されている。<中隊長も軍隊も理解できなくなった。同時にはげしい怒りがこみ上げてくるのを、どうすることもできなかった>

 「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が、戦場にいた人の心を狂わせた。水木さんは口調に力を込めた。「体面を重んじたり、部下を忘れて美しく死のうとしたりする上官が多かった。玉砕という言葉が、生きたいと願う兵隊一人一人の人生に絡みついて離れない感じだった」。水木さんの直属の上官、27歳の大隊長は、皇国史観の下で「忠臣の鑑(かがみ)」とされた楠木正成に心酔していた。のちに戦況不利と判断すると玉砕を決行している。

 爆弾で手足をもぎ取られたり、腹を撃たれたりしてうめく兵士。戦場では死は常に隣にあり、命は軽すぎた。作品では仲間の死に兵隊が涙を流すシーンがあるが、「水木さんは戦場ではあまり悲しんでなんかいられなかった。なんていっても誰かに次の死がやって来ましたから……」。水木さんがソファから背中を浮かすとシャツの左袖がひらりとした。そう、この人は命こそ助かったが、左腕を失った。

 マラリアで40度以上の高熱が出て兵舎でふせっていた時、空襲による爆発で左腕を負傷した。「バケツ1杯分の出血があった」(水木さん)。治らないと判断した軍医がナイフで腕を切断。傷口にウジ虫がわき、腕は顔よりも大きく腫れ上がった。マラリアもひどくなり、状態は悪化。「周りは『死ぬだろう』と言っていました」。実際、埋葬用の穴が掘られていた。

 持ち前の体力でなんとか持ち直し、野戦病院に運ばれた。現地住民との交流で食べ物を得たことなどで回復。復員は46年、24歳の時だった。

 戦時中にニューブリテン島にいた旧日本軍は約10万人。厚生労働省によると、戦没者は約1万3700人に上る。

 ふと気がつくと、水木さんが「総員玉砕せよ!」のラストシーンをじっと見つめていた。兵士たちが玉砕する前に好きな歌をうたう場面だ。命の最後に選択したのは女郎の歌だった。<私は~ な~あんで このよう~な つら~いつとめ~をせ~にゃなあらぬ>。突撃。体を吹き飛ばされる兵士、誰にもみとられなかった死体の山、そして白骨の山で作品は終わる。

 「日本に戻ってからは『かわいそう』という言葉は使わなかった。この言葉は戦場で命を落とした兵士のためにあるのですから」。残った右手がページの上をなでるように動いた。「これを描いている時はアイデアを考えたりしなくても、何も意識しないで右手が勝手に動いた。あの島で死んでいった兵士がね、描かせたんだね」

 再び戦争ができる国を目指しているかのような安倍政権。現状を戦友にどう伝えるのだろうか。答えはなかったが、「平和を維持するには」と尋ねると、こう返ってきた。

 「水木さんは国のことはあまり考えません。それよりも自分の生か死--。この二つを戦場では強烈に突き付けられていました。誰が何と言おうと『自分は生きたい』と思うことが大事なのです」

 ひょうひょうとした口調。「平和が大切!」と声高に叫んだりはしないし、国を批判するわけでもない。それでも「戦争は嫌だ」との気持ちが伝わってくる。

 暑い。涼を求めて東京都内の大手書店に足を踏み入れると、特攻隊をテーマにした「永遠の0」が平積みされていた。一方、水木さんが「自身の著作の中で一番好きな作品」という「総員玉砕せよ!」(講談社文庫)は棚に静かに置かれていた。戦後日本が変わりつつある今、政治家、そして若者に「死んでいった兵士たちが描かせた本」を手にしてほしいと切に願う。【瀬尾忠義】

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 ■人物略歴

 ◇みずき・しげる

 1922年鳥取県生まれ。復員後、紙芝居画家から貸本漫画家に転向。65年に発表した「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞。代表作は「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」「河童(かっぱ)の三平」など。
    --「特集ワイド:この国で確かにあったこと・2014年夏/5 最近、兵士の夢を見る--漫画家・水木しげるさん」、『毎日新聞』2014年08月13日(水)付、夕刊。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140813dde012040002000c.html:title]


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書評:ニコラス・フィリップソン(永井大輔訳)『アダム・スミスとその時代』白水社、2014年。


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ニコラス・フィリップソン『アダム・スミスとその時代』白水社、読了。本書は近代経済学の父、アダム・スミスの最新の浩瀚な評伝。「社交的でありながら孤独を好む、一方ならず風変わりな人物として同時代人に知られ、尊敬と共に愛着の念も抱かせるような男の物語」。大部の著作ながら一気に読んだ。

誘拐された幼少期から徘徊する晩年に至るまで、本書はスミスの来し方とその思想の全貌をバランス良く叙述し、その全体像を生き生きと描きだす。概して思想家について人は、名前とキーワードだけが先行するが、その肉付けを本書は与えてくれるだろう。

本書の山は、フランシス・ハチソンの道徳哲学の受容と批判、盟友デイヴィッド・ヒュームの影響、そして混沌を極める18世紀英国の事象と重商主義批判を丁寧に描きだすことで、人間・アダム・スミスの足跡を浮かびあがらせるところだ。

『道徳感情論』は「利他心」に注目するのが一般的な認識だが、著者は共感の交換を通して育つ正義の感覚に重きを置き、経済活動の要となる「交換」の視点から『国富論』が著されたと見る。この源泉はヒュームの「人間学」に由来する。

経験主義の一つの理想をヒュームに見出すとすれば、アダム・スミスはその現実的展開と捉えることも可能だろう。同時代のフランス啓蒙主義が急進化していくのとは対照的に、スコットランド啓蒙主義はどこまでも「漸進主義」的営為だ。

修辞学をきちんと学んだスミスは「社交」の感覚に注目している。言葉は他者とのやりとりの中で適切に使用されたとき、相互に心地よさをもたらす。先験的独断よりも日常生活の中で試行錯誤を繰り返し歴史に学ぶことを重視したスミスらしい。

スミスは(先験的な)数学的知よりも経験知を重視し、等身大の「啓蒙主義」で次代を展望した人物であることを本書は明らかにするが、それは同時に、現代思想において評判の悪い「啓蒙」に新たな息吹を吹き込む営みにもなっている。

スミスの一貫した特色とは「謙虚さ」だと著者は言う。「この性向から、思慮ある一般市民は、千年王国じみた新たな天地創造をもくろむよりも、生活や公共の事案への対処において小さな改善を少しずつ進めて」いくことの大切さが導かれる。

“世界的権威による「暗い」精神が産んだ明るい世界” スミスの先験的決定論を退け「自分の属する社会をよくしようとする、われわれの欲望」に従い一歩一歩漸進していくその生涯こそ、現在参照されるべきである。  

[http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=08369:title]


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覚え書::「くらしの明日 私の社会保障論 分担推進が喫緊の課題=本田宏」、『毎日新聞』2014年08月06日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論

分担推進が喫緊の課題
医師業務代行する職種検討

本田宏武 埼玉県済生会栗橋病院院長補佐

 米国で医療を受けた知人から、日本の病院にはいない医師の業務を補助する助手(フィジシャンアシスタント)が、とても丁寧な説明をしてくれたと聞いた。それだけではない。外科系では、病棟回診や検査の実施、手術の説明や患者同意書の作成もこの助手が担う。手術にも助手として参加し、術後は集中治療室や病棟で患者の管理、スタッフの教育、そのうえ研究活動に従事するなど、多岐にわたって医師をサポートする。
 米国は、日本ほど高齢化が深刻になっていないうえ、人口当たりの医師数は多い。それでも医師不足の地域があり、1960年代から医師を支援する職業が導入された。2008年時点で、医師の業務を補助する助手は8万人、医師に代わって一定の診療ができる特定看護師(ナースプラクティショナー)が16万人と、計24万人が活躍する。
 今年6月に成立した「地域医療・介護確保法」は、国が目指す病床の削減や平均在院日数の短縮に従わない医療機関にペナルティーを科す方向性が問題視されている。さらに訪問・通所介護が自治体に移管され、必要な専門介護が受けられなくなる懸念も拭いきれない。
 私もこの法律には一貫して反対の立場だが、法律の付帯決議に一条の光を発見した。医療提供体制の項目に「チーム医療推進を含めた医療提供体制の抜本的改革の推進に努める」と記載され、「医師や歯科医師の指示の下、診療の補助として医療行為を行える新たな職種の創設について検討を行うように努める」と明記されていたのだ。
 この「新たな職種」として米国の医師助手や特定看護師のような職業が導入されれば、医師のためだけでなく、患者への説明や医療の質と安全性の向上にも寄与することは間違いない。
 現在の日本では、救急や人工肛門の手当など特定の分野ごとに認定を受けた認定看護師が活躍するが、米国のように1人で幅広い分野を担当できる特定看護師の養成にはまだまだ遅れている。医師助手については、いまだその検討さえ始まっていないのが実情だ。
 医療費増大によって国が滅ぶと訴えた「医療費亡国論」によって、医師の養成数を抑えた結果、先進国最小の医師数となった日本の勤務医は、長時間労働に加えて書類作成を含めた幅広い業務を余儀なくされている。
 医師不足問題の解消には、メディカルスクール新設による抜本的な医師増員策が一丁目一番地だが、医師を増やすには時間がかかる。過重労働を理由に勤務医が現場から立ち去ることを食い止めるために、付帯決議を生かして、迅速に医師助手や特定看護師を導入し、勤務医の業務分担を図ることが喫緊の課題である。
チーム医療 患者1人に対し、主治医だけではなく複数の医師や看護師などの医療者が協力して治療やケアに当たる医療体制。医療の高度化に伴い、医師だけでの判断、治療は難しくなり、国はチーム医療を推奨し、看護師などの役割拡大を検討している。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 分担推進が喫緊の課題=本田宏」、『毎日新聞』2014年08月06日(水)付。

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書評:ベネディクト・アンダーソン(加藤剛訳)『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、2009年。


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ベネディクト・アンダーソン(加藤剛訳)『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、読了。『想像の共同体』の著者が、その地域研究の軌跡を振り返りながら、学問とは何か縦横に論じた一冊。抜群に面白い。学問で重要なのは、大学の制度や母国といった「ヤシガラ椀」の外に出ることだ。

中国雲南省昆明市生まれのアイルランド人とは知っていたが、本書で現在までの軌跡をうかがい知り驚く。戦中はアメリカ西海岸に滞在、父を同地で亡くし、アイルランドを経て、苦労しながらイートン校、ケンブリッジ大へ進み、ひょんなきっかけでアメリカへ(同級生が政府学部の比較政治のティーチング・アシスタントをしていたのだが、その後継を探していたので、まさに「たまたま」)。

米国ではイギリス式アクセントを、イギリスではアイルランド表現を笑われたと回想にある。アイルランド人の父とイギリス人の母、そしてヴェトナム人の保姆に育てられた著者は、常に「周辺(マージナル)」に位置してきたが、この経験が有益に働く。

マジョリティの中でマイノリティとして“揉まれる”ことは「根っこの欠如、強固なアイデンティティの不在」だが、同時にそれは「愛情の対象が多数存在していた」ことを意味する。引き続く移動は複合的(マルティプル)なナショナリズムを育んだ。

ケンブリッジ卒業後、コーネル大へ移り、以後、インドネシア等々地域研究の旅は空間的な「移動」の連続だが、時間軸も時代の転換期。地域研究の立ち上がりは、最後の紳士育成の教養教育時代。古典教育というアマチュア精神がスペシャリストを育む。

インドネシアやシャムには「ヤシガラ椀の下のカエル」という諺がある。半分に割ったヤシガラをお椀として使うが、不安定な椀に間違って飛び込んだカエルは中に閉じこめられ、抜け出すことが出来ず、カエルの知る世界は狭い椀の中だけになってしまう。

対極の主張、そして対処療法と劇薬治療も同根というが、まさに「ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放の可能性を洗練された形で融合させること」がこれまで以上に必要になる。

著者は若い研究者の読者に次の言葉を贈り本書を締めくくる。「カエルは、解放のための闘いにおいてヤシガラ椀のほか失うべき何ものも持たない。萬国のカエル團結せよ!」。いやあ、しびれますねえ。 

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覚え書:「防衛省:有事の隊員輸送、民間船員も戦地に 予備自衛官として、検討 フェリー2隻借り上げ」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。


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防衛省:有事の隊員輸送、民間船員も戦地に 予備自衛官として、検討 フェリー2隻借り上げ
毎日新聞 2014年08月03日 東京朝刊

 尖閣諸島を含む南西諸島の有事の際、自衛隊員を戦闘地域まで運ぶために民間フェリーの船員を予備自衛官とし、現地まで運航させる方向で防衛省が検討を始めた。すでに先月、2社から高速のフェリー2隻を借りる契約を結んだ。太平洋戦争では軍に徴用された民間船約2500隻が沈められ、6万人以上の船員が犠牲となった歴史があり、議論を呼びそうだ。

 同省が隊員輸送に活用するのは、津軽海峡フェリー(北海道函館市)の「ナッチャンWorld」号と新日本海フェリー(大阪市)の「はくおう」号で、ともに1万トンを超える。同省は2隻を今年度末まで7億円で借り上げたが、来年度以降は両社や金融機関などの出資で設ける特別目的会社(SPC)が船を所有し、平時は民間、有事には防衛省が使う仕組みを目指す。

 乗組員については、有事や平時の演習など年間数十日の運用で現役自衛官を専従させられないとの判断から、自衛官OBの予備自衛官や、あらかじめ予備自衛官に仕立てた民間船員を充てることを検討している。

 背景には海自出身の予備自衛官不足がある。2012年度の予備自衛官約3万2000人の大半は陸自出身者で、海自出身者は682人。現役海自隊員で艦船に乗り組むのは3分の1程度で、船に乗れる予備自衛官は限られるとみられる。招集時には一刻も早く港へ行く必要もあり、居住地などを考えると条件を満たす者はさらに少なくなる。

 しかも、海自出身の予備自衛官は新任を退任が上回り、毎年約50人ずつ減少。自衛隊の艦船と民間のフェリーでは操船技術が大きく異なることもあり、2隻の運航に必要な乗組員約80人を自衛隊OBでまかなうのは難しいとみられる。

 同省防衛政策課は、「予備自衛官になるかどうかを決めるのは船員本人で、強制できない」と強調。予備自衛官になるよう船員が強いられるおそれについては「会社側の問題で、省としては関知しない」としている。装備政策課は「有事で民間船員の予備自衛官が乗り組めば、操船技術は格段に安定する。船を操れる者と、自衛官の感覚を持つ自衛隊OBの双方が乗るのが好ましい」としている。

 防衛省の2隻借り上げに協力する船会社2社は、取材に応じていない。

 ◇「事実上の徴用」

 全国の船員で構成する全日本海員組合の元関西地方支部長で、船員の歴史に詳しい新古勝さん(70)は、「予備自衛官になれと会社に言われたら、船員はたやすく断れない。事実上の徴用であり、太平洋戦争の悲劇を繰り返しかねず、絶対に反対だ」と批判する。【平和取材班】

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 ■ことば

 ◇予備自衛官

 普段は別の職業に従事し、有事の時に招集される志願制の自衛官。非常勤特別職国家公務員。かつては自衛隊での勤務経験が予備自衛官になる条件だったが、政府は2002年、医師や自動車整備士など各種の技能を持つ民間人を、10日間の教育訓練などで予備自衛官にできる制度を導入した。新制度の対象は陸上自衛隊に限られており、今後は海上自衛隊も利用できるようルール改正を検討する構え。
    --「防衛省:有事の隊員輸送、民間船員も戦地に 予備自衛官として、検討 フェリー2隻借り上げ」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140803ddm001010154000c.html:title]


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防衛省:民間船で有事輸送 戦地へ誰が行くのか 船長「何も聞いてない」
毎日新聞 2014年08月03日 東京朝刊

 「そんな話は全然聞いていない」。民間船員を予備自衛官とし、有事の際に自衛隊員を輸送させる防衛省内の論議を巡り、同省のフェリー借り上げに協力した船会社の現役船長の一人が、取材に戸惑いを口にした。戦地まで自衛隊員を運ぶ可能性について「考えたこともなかった。乗りたがる人間などいない」と話した。【平和取材班】

 この船長は50代で、船員として20年以上の経験がある。現在定期航路で働き、常に乗客の安全第一を心掛けてきた。自らが危険な場所に行くことなど想像外で、会社からの説明もないという。

 船長は「南西諸島なんて誰も行かない」と強調。会社から有事運航の話があったらどうするかとの問いにはしばらく黙り込み、「そうなったら考えるしかない。ただ、これまで何も説明がない」と話した。

 防衛省に船を貸した新日本海フェリー(入谷泰生社長、大阪市、社員約450人)と津軽海峡フェリー(石丸周象社長、北海道函館市、社員約360人)は、いずれも取材に応じていない。新日本海フェリーは、舞鶴(京都府)など本州日本海側の主要港と北海道の小樽などの間でカーフェリーを運航する。津軽海峡フェリーは、函館と青森・大間(青森県大間町)間の2航路を運航。「ナッチャンWorld」号は、2011年の東日本大震災で自衛隊員や支援物資を被災地へ運び、同年の大規模演習では戦車4両と装甲車10両、隊員約230人を北海道から大分まで運んだ。

    ◇

 戦争と平和を考える連載「平和のとなりで」を4日から始めます。

 ◇戦時中、徴用2500隻沈没 船員6万人死亡 生還者「まず民間人が犠牲」

 戦時中の船員の徴用では、悲惨な歴史がある。公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」などによると、日本は太平洋戦争前は世界第3位の海運国だった。開戦後に民間商船や船員の大半が徴用され、米潜水艦などに攻撃された結果、約2500隻を失い、6万人以上の船員が犠牲となった。船員の死亡率は推計43%とされ海軍の兵士の2倍以上に達した。年齢制限のある徴兵と異なり、14、15歳で徴用された少年船員もおり、17歳以下の死者は1万人程度とされる。

 「戦地で死ぬと思っていた。戦争では船員などの民間人がまず犠牲になる」。横浜市西区の久我吉男さん(88)は太平洋戦争中、乗り組んでいた商船が沈められ、奇跡的に生還した体験を語った。

 16歳の時、「船員募集」の広告を見て海員養成所に入所。半年後に商船の甲板員として徴用され、南方で働くことになった。1944年9月、18歳でボーキサイトを積んだ商船に乗り組み、日本に向けてフィリピンを出航した。5隻の護衛の艦船に守られていたが、港を出た翌朝、米軍機の攻撃で沈没した。救命イカダで漂流中に、砂浜が見えた。泳いで向かったが、幻覚だった。そのまま気を失い、沈没から4日目にフィリピン人漁師に助けられた。

 一緒に乗船した30人のうち、助かったのは15人。負傷した自分以外は再び商船で日本に向かったが、その船も撃沈され、全員が亡くなった。

 1人帰国を果たし、待っていたのは徴兵検査だった。「今度は軍人か」。入隊直前に戦争が終わった。「1人で海を漂い、どれほど怖かったか。国は守ってくれない。民間人を巻き込む戦争の恐ろしさを、忘れてはならない」
    --「防衛省:民間船で有事輸送 戦地へ誰が行くのか 船長「何も聞いてない」」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140803ddm041010074000c.html:title]


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民間船:戦時中、徴用2500隻沈没 船員6万人死亡
毎日新聞 2014年08月03日

 戦時中の船員の徴用では、悲惨な歴史がある。公益財団法人「日本殉職船員顕彰会」などによると、日本は太平洋戦争前は世界第3位の海運国だった。開戦後に民間商船や船員の大半が徴用され、米潜水艦などに攻撃された結果、約2500隻を失い、6万人以上の船員が犠牲となった。船員の死亡率は推計43%とされ海軍の兵士の2倍以上に達した。年齢制限のある徴兵と異なり、14、15歳で徴用された少年船員もおり、17歳以下の死者は1万人程度とされる。

 「戦地で死ぬと思っていた。戦争では船員などの民間人がまず犠牲になる」。横浜市西区の久我吉男さん(88)は太平洋戦争中、乗り組んでいた商船が沈められ、奇跡的に生還した体験を語った。

 16歳の時、「船員募集」の広告を見て海員養成所に入所。半年後に商船の甲板員として徴用され、南方で働くことになった。1944年9月、18歳でボーキサイトを積んだ商船に乗り組み、日本に向けてフィリピンを出航した。5隻の護衛の艦船に守られていたが、港を出た翌朝、米軍機の攻撃で沈没した。救命イカダで漂流中に、砂浜が見えた。泳いで向かったが、幻覚だった。そのまま気を失い、沈没から4日目にフィリピン人漁師に助けられた。

 一緒に乗船した30人のうち、助かったのは15人。負傷した自分以外は再び商船で日本に向かったが、その船も撃沈され、全員が亡くなった。

 1人帰国を果たし、待っていたのは徴兵検査だった。「今度は軍人か」。入隊直前に戦争が終わった。「1人で海を漂い、どれほど怖かったか。国は守ってくれない。民間人を巻き込む戦争の恐ろしさを、忘れてはならない」
    --「民間船:戦時中、徴用2500隻沈没 船員6万人死亡」、『毎日新聞』2014年08月03日(日)付。

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[http://mainichi.jp/select/news/20140803k0000e040098000c.html:title]


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吉野作造研究:抵抗としてのアジア主義:吉野作造の場合


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 天心にあっては、美(そしてそれとほとんど同義の宗教)が最大の価値であり、文明はこの普遍的価値を実現するための手段である。美は人間の本性に根ざすから、西欧だけが独占すべきではない[竹内 一九九三:三二九]

 竹内の見るところ、アジア主義は岡倉天心の登場によって、はじめて「思想」を獲得しました。単なる連帯と抵抗の論理を超えて、西洋文明を超える存在論と認識論を提示する「哲学的根拠」を手に入れたのです。

二つの出会い損ね
 しかし、竹内によると、この「思想としてのアジア主義」は誰にも継承されず、溶解していきました。天心は「アジア主義者として孤立しているばかりでなく、思想家としても孤立して」いたのです。
 一方で、「抵抗としてのアジア主義」は宮崎滔天や吉野作造へと継承されていきました。さらに、この「心情」は、昭和期に入っても岩波茂雄のような「非侵略的なアジア主義者」に引き継がれていきます。
 滔天の「抵抗」は功利主義的近代に対する根源的な反発を含んでいました。彼の反発は、西洋のアジア支配に対してだけではなく、合理主義の拡大による人間の堕落に向けられていました。滔天にとって、近代文明の栄光は賢しらな欲望の産物であり、義理や人情、良心といった情念の敗北に他なりませんでした。滔天の「心情」や「抵抗」は、近代に対する衝動的アンチテーゼを内包していました。
 しかし、問題は「思想としてのアジア主義」と「抵抗としてのアジア主義」の関係でした。竹内は次のように指摘します。

 その心情は思想に昇華しなかった。言いかえると、滔天と天心が出あわなかった。それはなぜか、というのがここでの私の問題である[竹内 一九九三:三三七]

 この部分は序章でも引用しましたが、竹内論文のきわめて重要なポイントです。
 竹内は、「心情が思想に昇華しなかった」「滔天と天心が出あわなかった」ことを問題にしています。つまり「抵抗としてのアジア主義」がもっていた連帯の想像力や義勇心、反功利主義が、「思想としてのアジア主義」へと結びつくことなく継承されたことに、竹内はアジア主義の可能性が潰えていった原因を見ているのです。 さらに、竹内は決定的な「もう一つの出会い損ね」が存在することを指摘しています。
竹内は、玄洋社から派生した国龍会のトップ内田良平の「抵抗としてのアジア主義」を高く評価したうえで、彼が日露戦争を「文明の野蛮への進軍」と捉えていたことを問題視します。内田は、アジアにおける反封建勢力の抵抗的連帯を命を張って模索しますが、その論理が次第に「文明による野蛮への闘争」という見方に傾斜し、無自覚のうちに「西洋文明の使者」へと変貌してしまったのです。竹内が指摘によれば、この内田の論理は「福沢の文明論の延長線上にある論理」です。--アジア主義を標榜する者が、いつの間にか西洋文明の使者に変貌してしまう。そして西洋的な帝国主義の論理(文明国には非文明国を開明する義務がある)へと回収されてしまう。
    --中島岳志『アジア主義 その先の近代へ』潮出版社、2014年、37-38頁。

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 中島さんの『アジア主義』より。
竹内好がアジア主義を政略としてのアジア主義、抵抗としてのアジア主義、思想としてのアジア主義と腑分けしましたが、その論旨によれば、吉野作造は、抵抗としてのアジア主義。

たしかに宮崎滔天との関係や、吉野の中国・朝鮮論に耳を傾けると、それは「義侠」です。しかし、吉野の場合、西洋の限界を承知したうえでの枠内変革への展望が素描されており、僕はそこに可能性を見出しております。

ちょと、竹内さんの議論にももう一度、目を通しながら、その意義を確認したいと思いますが、岡倉天心の如き「思想としてのアジア主義」に憧憬はするものの、規範意識のないこの国においては、西洋の没落に対する無批判の有象無象な東洋主義が跋扈する訳ですから、ある意味では「近代の超克」というものを近代の外からもってきて対応するよりも、まずは、近代という枠組みのなかで解決すべきではないかと考えています。

吉野作造は反近代でも反西洋でも反東洋でもありません。その現在の枠組みのなかで何ができるのか、それを探究し実践した訳ですから、吉野作造におけるアジア主義そして近代にどう向き合うというプロジェクトをもう一度検討し、そこにひとつ可能性なり思想と実践の指標を導きだしていきたいと思っております。

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覚え書:「平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超」、『毎日新聞』2014年08月04日(月)付。

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平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超
毎日新聞 2014年08月04日 東京朝刊


(写真キャプション)狩俣光永さんら日本人24人が乗り組んだ米軍タグボート=狩俣さん提供


平和のとなりで:/1(その2止) 米軍に雇われベトナムへ 生きるために 「戦争加担」指摘にも
 ベトナム戦争が苛烈を極めた1969年2月、日本の民間人24人の乗り組む米軍の船が、本土返還前の沖縄からベトナムへ向かった。その船で2等航海士だった男性が取材に応じ、いきさつを初めて詳しく証言した。ベトナム戦争では、ほかにも日本人が多数米軍の艦船や軍の下請けの民間船で戦地へ派遣され、死傷者も出た。しかし、詳しい記録はなく、全容は歴史の闇に沈んでおり、実態に迫るのは難しい。【平和取材班】

 証言したのは沖縄県に住む狩俣光永(かりまたこうえい)さん(80)。米軍タグボート(505トン、今の中型巡視船規模)の2等航海士として約3カ月間、戦闘などで動けなくなった艦船をベトナムからフィリピンやシンガポールのドックまで引く仕事をした。

 米軍との事前の約束で、危険な場所での作業はなかった。それでも、南部カムラン湾の港町で、機銃掃射する米軍用ヘリを目の当たりにした。どこに潜むか分からないベトコンへの威嚇では、と推測した。「怖いとは思わなかった。家族のために稼ぎ、必ず生きて帰る。そう思って、船乗りの仕事に打ち込んだ」

 沖縄の水産高校を出て、57年ごろ米軍基地に就職した。軍船での皿洗いから出発し、2等航海士などの資格を次々取得。那覇から近くの伊江島などへ物資を運ぶ船の船長を務めるなど、米軍に評価され、ベトナムでの仕事を任された。

    ◇

 他の船員は他界していたり、福祉施設に入っていたりで取材が難しいという。狩俣さんは何気なく言った。「本土からも、たくさんベトナムに行ってるぞ」

 当時の事情を知る関係者を訪ね、資料を集めるうちに、戦地派遣が想像以上の規模だったことが分かってきた。佐世保(長崎)や横須賀(神奈川)の米軍基地からも日本人が米軍船に乗り組み、総数は1000人を超すとみられる。米軍はベトナム戦争に全面介入した64年夏以降、日本人を本格的に雇い始めたようだ。高給を保証し、危険手当を含め通常の倍額を払ったとの記録もある。

 危険と隣り合わせだった実態も分かってきた。68年9月、軍の下請けの米民間輸送船がメコン川で攻撃され、中国人船員が死亡し、沖縄の船員が負傷した。

 死亡した日本人もいた。「日本人船員、射殺さる/南ベトナム/米舟艇の乗組員」。当時の毎日新聞の見出しだ。中部の港町で64年11月、南ベトナム政府の治安部隊に撃たれたという。記事は、犠牲者を「サイトウ・ケンゾウ(年齢、出身地不明)」と報じた。

    ◇

 こうした事件でベトナム行きへの風当たりが強まる中、狩俣さんは69年の年明け、米軍から打診された。「琉球船員の起用」と題する文書が届いた。迷いはなかった。

 基地労働者の組合は猛反対した。基地内で「戦争に加担するのか」となじられた。船員のまとめ役と目され、一緒に乗り組む仲間の妻が自宅に訪ねてきた。「本当に大丈夫ですか」。不安げに問う相手に言った。「僕にも家族がいる。死にに行くんじゃない。行くかどうかは自由だ」

 乗船予定者たちは、米軍の求めを断れば解雇されると不安を訴え、組合は「そんなことはさせない」と説得を試みた。狩俣さんは組合幹部にこう告げた。「私は自分の意思で行く。他の船員を誘ったりはしない」。打診を断り、船に乗らなかった仲間も数人いた。

    ◇

 平和を誓い、繁栄を目指す戦後社会の片隅で、戦地へ渡り、命を落としたサイトウ・ケンゾウさんを探した。

==============

 ■ことば

 ◇ベトナム戦争

 米ソ冷戦時代の南北に分断されたベトナムで1960年、米国の支援する南ベトナムに対し、北ベトナムの支援する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=米国側の呼称)が武装闘争を本格化させたのが発端。南シナ海トンキン湾で64年、北ベトナムが米艦を攻撃したとされる事件を口実に、米国は北爆と地上戦を展開。北ベトナムと解放戦線は68年1月、南ベトナム全土での大攻勢(テト攻勢)で米軍に大打撃を与えた。73年に米軍が撤退。南ベトナムは75年に降伏した。
    --「平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超」、『毎日新聞』2014年08月04日(月)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140804ddm001040164000c.html:title]


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平和のとなりで:/1(その2止) 米軍に雇われベトナムへ 生きるために 「戦争加担」指摘にも
毎日新聞 2014年08月04日 東京朝刊

(写真キャプション)賢三さんの遺影を手に、3歳上の兄浅雄さんは「もう悲しむのは終わり」と語った=蒲原明佳撮影


平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超
 <1面からつづく>

 ベトナムで亡くなった日本人を探して、千葉県館山市の漁師町にたどり着いた。

 同市船形の斉藤賢三さん(死亡時28歳)。仏壇の遺影は目元の涼しげな青年だ。「危険とは思っていなかったんだろうなあ」。兄の浅雄さん(82)は言った。

 敗戦前後に両親が他界。生活が苦しく、浅雄さんも弟も中学を出て漁師になった。「南方へ物資を運ぶ船に乗る」。弟は日本の仲介業者と契約し、1961年ごろから米軍で働いた。詳しいことは聞いていなかった。

 上下巻約3000ページの「全日本海員組合活動資料集」(同組合、86年)が、1ページの半分で事件を紹介していた。斉藤さんはベトナム中部の港町で64年11月3日午前0時45分ごろ、仲間と2人で船に戻る途中、敵兵に間違えられて南ベトナム憲兵に撃たれた。1発が太もも、1発が腹部を貫通した。

 浅雄さんは仲介業者から事件を聞き、「ベトナムで?」と混乱した。遺体が帰るかどうかも不明という。「顔が見たい」と懇願したが、20日後、弟は骨となって帰郷した。一緒にいた仲間に話を聞きたかったが、精神を病み無理だと断られた。

 浅雄さんは11月に、弟の五十周忌を妹らと営む。「起きたことは消えないが、弔うのも、悲しむのも終わりだ」

    ◇

 世界各地で戦争を遂行する米軍のもとで、多数の日本人が働いてきた。

 ベトナムから戻った狩俣光永(かりまたこうえい)さん(80)は、「戦争に加担したのでは」との見方に違和感を覚え続けてきた。「誰だって戦争は反対さ。でも、生きるために大義で割り切れないこともある」

 幼少期の記憶は、空襲の恐怖より飢えの苦しみが勝る。生まれ育った沖縄の小さな島は土地がやせ、イモすら満足に育たなかった。就職難で米軍基地のほかに選択肢はなく、懸命に働き、船乗りとして常に上を目指した。「時代の流れで他に道はなかった」。71年に民間船会社へ移る。

    ◇

 神奈川県の米軍横須賀基地では5000人の日本人が働き、うち2000人が艦船の修理に従事する。

 50代の修理工の男性は80年代、大学で船の設計を学んだ。造船不況で、船の仕事がしたくて基地を選んだ。国から給料をもらうが、使用者は米軍だ。「お前『思いやり予算』で食ってんだろ」。若いころ、酔った席での友人の言葉が胸に刺さり、今も抜けない。

 戦争に加担している意識はないが、疑問がわく瞬間もある。90年8月のイラクのクウェート侵攻で起きた湾岸戦争のころ、戦地帰りの米艦船は、ミサイルで敵機を落とした数だけ船体に「E」の文字を掲げていた。「エクセレント(素晴らしい)」の頭文字。「この船も、人を殺したんだなあ」と思った。

 米軍はその湾岸戦争でも、横須賀の修理工を戦地のペルシャ湾へ派遣する計画を立てていた。労組の反対でつぶれたが、男性は冷静に言った。

 「行け、と言われたら行っていた。それが仕事ですから」

    □

 戦争は、いつも平和の隣にいる。戦後69年間、私たちには見えない場所で、あるいは見ようとしなかった場所で、戦争に向き合って生きる人びとがいる。彼らを通して、集団的自衛権の行使容認や武器輸出解禁で変わりゆく日本のいまを考える。=つづく

 (この連載は川上晃弘、山田奈緒、花岡洋二、花牟礼紀仁、蒲原明佳、小川祐希、宮川裕章が担当します)
    --「平和のとなりで:/1(その2止) 米軍に雇われベトナムへ 生きるために 「戦争加担」指摘にも」、『毎日新聞』2014年08月04日(月)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140804ddm041040090000c.html:title]
 

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書評:南原繁研究会編『南原繁と国際政治 永久平和を求めて』エディテックス、2014年。

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南原繁研究会編『南原繁と国際政治 永久平和を求めて』エディテックス、読了。昨年11月同研究会第10回シンポジウムの記録。講演を三谷太一郎先生「南原繁と国際政治 学問的立場と現実的立場」、パネル・ディスカッション「南原繁と国際問題をめぐって」。同テーマを多角的に検証する。

三谷太一郎先生講演「南原繁と国際政治」においては、第一次大戦後に要求された国際政治学の確立における南原繁の特色を「国際政治学への非実証的アプローチ」と捉え、その哲学的立場と政治的立場との相関関係こそ「現実的理想主義者」としての南原の原点と見る。

パネル・ディスカッションでは、南原繁とカント、フィヒテ、丸山眞男、国際政治秩序の将来をキーワードに、南原の理想・限界を提示することで、「時代の問題」と「次の時代の問題」に私たちが格闘すべき示唆を示す。国際と国内の統合がその鍵か。

本書第二部では研究会会員の論考を収録。国際的保健医療協力の平和論的意義(石川信克)では、南原の精神を活かそうと尽力する履歴が紹介されるが、南原繁の精神を活かそうとする多様な取り組みこそ、南原繁研究会のアクチュアリティであろう。

非常に示唆を受けたのはパネル発表の「南原繁とカント 植民地支配をめぐって」(愛甲雄一・シンポジウムのパネルディスカッション)。植民地支配を自明視していたカントは、1790年代初頭より批判的言辞へと転回するが、カントを敬愛した南原の場合はどうか。対比的に検証する。

同論考では、カントの植民地支配に対する批判を確認した上で、日本の植民地支配に対する南原のまなざしにメスを入れる。南原の理想と限界を理解することこそ、ポストコロニアル時代の私たちの創造性を具体的に刺激するであろう。

南原は民族的エスノセントリズムとは一切無縁だし、国際社会の公正性を誰よりも深く理解するが、「満州事変以前に獲得した植民地の保有は歴史的に考えて容認され得るもの」との理解であり、そこに「南原政治学に含まれている弱点」が見えてくる。

「帝国主義や植民地主義に対しては原理的に反対していたはずの民族主義者・南原においては、日本がかつて植民地を有する帝国だったという事実も、『二級』帝国臣民として日常的に人権侵害を受けていた朝鮮半島や台湾などの出身者たちの存在」が見えていなかった。

同論考の批判は手厳しい。しかし眼目は南原の「不明」を糾弾することにはない。「過去の様々な過失を知る『現在』という特権的な立場から、過去の人びとの至らなさを批判することには居心地の悪さ」が残るし、批判の終始こそ非生産的という。

人物の来し方やその思想を学ぶとは、御輿を担ぐことでも、紅衛兵の如き批判に終始することでもあるまい。その理想と限界を知ることで、今、生きている私たちが未来をどう展望するのか。「南原繁とカント 植民地支配をめぐって」はよき見本である。

「まず、差し当たりは、かつて南原には見えていなかった植民地支配を受けていた側の存在をしっかりと認識すること。これこそ、今の私たちには必要とされているのだと私には思われます。いかがでしょうか」との締めくくり。大賛成である。

序は研究会代表加藤節先生のシンポジウム挨拶文。「現在の日本で大変に目につきますのは、日本国憲法と旧教育基本法とに体現された戦後の理念や体制を葬ろうとする動きです」。南原を学ぶとは「戦後を理念をどう生し直すかを考える上で大きな指針」に違いない。

憲法九条改正、自衛隊を国防軍への改組、集団的自衛権の行使容認など、その「葬ろうとする動き」のひとつが1年をたたずに実現した。「現実」を「理念」に近づけることで、そうした軽挙妄動に抗いたい。 

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覚え書:「キャンパる:戦争を考える/上 元沖縄県知事・大田昌秀さん/旧満州千振開拓団・中込敏郎さん」、『毎日新聞』2014年08月01日(金)付(夕刊)。


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キャンパる:戦争を考える/上 元沖縄県知事・大田昌秀さん/旧満州千振開拓団・中込敏郎さん
毎日新聞 2014年08月01日 東京夕刊

(写真キャプション)鉄血勤皇隊の少年兵として駆り出された悲惨な体験を語る大田昌秀さん=那覇市内の事務所で

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月26日、米軍が沖縄本島西方の慶良間(けらま)諸島に上陸して始まった沖縄戦。20歳以上の男性のみが徴兵された日本本土とは異なり、沖縄では徴兵年齢を満たさない14歳から19歳の若い人たちが、「鉄血勤皇隊」の隊員として戦闘に動員された。記者とほぼ同じ年齢で隊員として沖縄戦を経験した元沖縄県知事、大田昌秀さん(89)を沖縄に訪ねた。3回にわたり、「戦争を考える」特集をお送りし、初回は旧満州千振開拓団の体験談も併せて紹介する。【「戦争を考える」キャンパる取材班】

 ◇若者は過ち繰り返すな--元沖縄県知事・大田昌秀さん(89)

 夏も本番。沖縄の青い海では多くの人たちが海水浴を楽しむ姿が見られた。大田さんは自らが理事長を務める沖縄国際平和研究所(那覇市)の事務所で、神妙な面持ちで戦争体験を語り始めた。

 ●19歳で鉄血勤皇隊に

 45年当時、大田さんは沖縄師範学校で学生生活を送っていた。寄宿舎では、勉学や娯楽で厳しい制限をうける毎日。学校では徹底した皇民化教育を受け、大田さんも、国のために命をささげることに対し、何の疑問も抱かなかった。

 そうした中、米軍の沖縄本島上陸前日の同年3月31日、大田さんを含めた沖縄師範学校の教官と生徒が、首里城(那覇市)地下の沖縄師範学校の壕(ごう)の前に召集された。ここで軍の少佐から、すでに徴兵年齢に達して現地入隊した者を除く沖縄師範学校の生徒386人と教員二十数人が「鉄血勤皇師範隊」として軍に徴用されたということを宣告される。生徒たちは、徴兵年齢に満たない、法的根拠のない軍隊として沖縄守備軍の直属隊に組織された。大田さんが19歳の時である。

 鉄血勤皇師範隊は、本部隊、野戦築城隊、斬り込み隊など任務別に編成され、大田さんは情報宣伝隊の「千早(ちはや)隊」に配属された。任務は、東京にある大本営の発表を、沖縄の各地の壕に隠れて暮らしている住民に伝えてまわること。その任務は死と隣り合わせだった。

 艦砲の飛びかう中、「トンボ」と呼ばれる米軍の偵察機に見つからないよう、村の壕に走る。大田さんら隊員が壕に到着すると、戦果の報告を期待する住民たちは、喜んで食事などをもてなしてくれた。隊員の口から戦果が伝えられるたびに、壕内は拍手喝采だったという。

 しかし、日がたつにつれて、住民の態度も変わっていった。大本営の発表と戦況の現状との間に明らかな隔たりを感じとっていたのだ。「そこまで戦果をあげていて、どうして壕から出られないんだ」と怒る住民に対し、大田さんは「今しばらくの辛抱です。いずれ勝利しますから、米軍の心理作戦に負けて投降しないでください」となだめることしかできなかったという。

 ●学友が直撃弾で死亡

 死と隣り合わせだったのは、壕外での任務中だけではない。4月21日、大田さんら千早隊員は壕の中で眠りについていた。壕の中は息苦しく、大田さんの学友の一人が新鮮な空気を吸いに壕の外に出たちょうどその時に直撃弾が爆発。大田さんらは負傷した隊員を畳で軍病院に運んだが、翌朝息を引き取った。これが鉄血勤皇師範隊の最初の犠牲者だった。これ以降、師範隊では戦死者が続出。隊員にも恐怖感が芽生えていった。

 5月27日、千早隊員は軍司令部壕に集められ、軍司令部が首里から摩文仁(まぶに)(糸満市)へ転進することを宣告された。すぐに千早隊はその先発隊として摩文仁へ向かった。摩文仁の戦場では、たびたび悲惨な光景を目の当たりにしたという。日本兵が弱った仲間の兵士の食料を奪うために銃殺する姿、兵士が壕で泣く赤ちゃんを殺し、民間人を壕から追い出す姿。太平洋戦争を「神聖なる戦争」だと教え込まれていた大田さんは、やりきれなくなった。そして、「自分がもし生き延びたら、なぜこんな戦争が起きてしまったのか明らかにしよう」と決心したという。

 6月18日、大田さんは軍司令部壕で、突然千早隊の解散を宣告される。米軍の戦車が迫っており、一刻の猶予もない。裸足のまま壕を出た。すぐに艦砲の破片で足を損傷し、はうようにして海岸を進んでいたが、米軍の戦車に追い詰められ、海へ飛び込んだ。足を負傷していたので途中で泳げなくなり、気を失った。その後、何日がたったかはわからないが、気が付くと海岸に横たわっていたという。大田さんは何度も「死」を意識し、「どうして自分には弾が当たらないのだろうかと思ったり、手りゅう弾で自決しようと考えたり、とにかく死ぬことばかり考えていた」と振り返る。

 しかし、野草の生えた岩に隠れているとき、「こうして野草ですら生きているのだから、ここで死ぬわけにはいかない」と思い直した。その後、自力で摩文仁へ戻った大田さんは、8月14日の日本のポツダム宣言受諾後も身を潜める生活を続け、10月23日、米軍の捕虜となり無事に生き延びた。

 ●歴史見つめ直して

 「戦争の恐ろしさは、戦争を経験した者にしかわからない」と語る大田さんは、戦後一貫して平和活動を続けている。当時、皇民化教育によって当然のように戦争へ参加していた若者たち。その一人であった大田さんは「皇民化教育さえ受けていなければ、徴兵も拒否していたかもしれない」と語る。教育の問題は、過去の問題ではない。「現代の若者たちは、自分たちを取り巻く情勢などを、よく考えなければいけない。しっかりと勉強しなければ、私たちのようにまた同じ過ちを繰り返すだろう」と警告する。

 ある日突然軍隊に組織され、激戦地で闘う宿命を負わされた鉄血勤皇隊員。動員された1780人のうちほぼ半数が若い命を落とした。私たち現代の若者が、こうした歴史を見つめ直し、深く考えなければならない。

 ◇一家で移住、父ら4人失う--旧満州千振開拓団・中込敏郎さん(88)

 「新天地への憧れ。そして何より家族と離れたくなかった」

 旧満州(現中国東北部)への移住が国策として勧められていた1939(昭和14)年3月。当時13歳だった中込敏郎さん(88)=栃木県那須町=は父、母、姉、3人の妹と共に故郷の山梨県から満洲・千振(現中国黒竜江省樺南県)に渡った。「今の農業経営が大変なら援助する。無理して行くことはない」と叔父は反対したが、父は「自分たちで生活を切り開きたい」と押し切った。

 しかし、移住して1年後、慣れない開拓生活から父が病死。中込さんは開拓活動には従事せず、現地の小学校へ通い、省立畜産学校では朝鮮人、中国人とともに寮生活を送った。しかし、44(同19)年3月、大学へ入学すると、人種差別を目の当たりにする。寮内では日本人とそれ以外の人とで分けられ、米の配給は日本人のみに許された。大学の日系人の定員のほとんどが新たに日本から留学してきた者たち。彼らが当然のように人種差別をすることに中込さんは強い違和感を覚えた。

 45(同20)年8月9日、ソ連参戦で中込さんら学生たちは部隊を編成。臨戦態勢の中で15日の終戦を迎えた。奥地から避難してきた難民たちは新京(現長春)の収容所に入れられた。劣悪な環境で感染病が流行し、帰国を決めた人たちも港へ向かう途中で地元の暴徒に襲われた。無事帰国できたのは開拓団2000人のうち半数ほど。中込さん一家も、姉妹たちが次々に病気にかかり亡くなり、46(同21)年7月、約7年ぶりに祖国の土を踏んだ時には母と妹と中込さんの3人だけになっていた。

 帰国からほどなくして、昔の仲間とともに、満州での開拓地と同じ名前が付けられた新しい千振(那須町)の住民となった。しかし当時そこは竹の茂る満州以上の未開の地。開墾作業は困難を極めた。80人ほどでの共同生活では、もめごともあったが、千振開拓団の「千振一家の精神」という共通認識によって乗り越えた。その精神は、千振開拓農業協同組合になった現在も受け継がれている。

 協同組合の組合長を務め、子2人、孫2人に恵まれた中込さん。「戦争により家族をはじめ、多くのものを失ったが、今振り返ると、開拓人生に悔いなし」と締めくくった。

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 ■人物略歴

 ◇おおた・まさひで

 1925年沖縄県生まれ。琉球大学教授、沖縄県知事、参議院議員を経て、現在NPO法人沖縄国際平和研究所理事長。沖縄戦の事実解明や、米軍基地問題の解決に取り組む。
    --「キャンパる:戦争を考える/上 元沖縄県知事・大田昌秀さん/旧満州千振開拓団・中込敏郎さん」、『毎日新聞』2014年08月01日(金)付(夕刊)。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140801dde012070015000c.html:title]


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書評:トリン・T・ミンハ(小林富久子訳)『ここのなかの何処かへ 移住・難民・境界的出来事』平凡社、2014年。


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トリン・T・ミンハ『ここのなかの何処かへ 移住・難民・境界的出来事』平凡社、読了。ポストコロニアリズムとフェミニズムの代表的映像作家・思想家の手による20年ぶりの評論集。グローバリズムの歓声はその理念と裏腹に領域を分断しつつあるのがその実情。その境界の扉を開く闊達な言葉に驚いてしまう。

本書で彼女が指摘する二元論的思考やできあいの観念への抵抗は取り立てて新しくない。しかし、私はどこに立ち、何が立ちふさがり、その先に何があるのかを考えるうえで、彼女が誘う「境界的出来事」への言葉は、ひととひとが共鳴する優しさと強さを秘めている。

“elsewhere, within here”ここのなかの、何処か別の場所へ。彼女は二項対立の境界線上にたちとどまりながら、ゆさぶってくる。 

[http://www.heibonsha.co.jp/book/b158638.html:title]


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ここのなかの何処かへ: 移住・難民・境界的出来事
トリン・T. ミンハ
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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 格差広がり支援届かず 深まる女性の貧困=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年07月30日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論
格差広がり支援届かず
深まる女性の貧困
山田昌弘 中央大教授

 成長戦略の目玉に、女性の経済分野での活躍が政策課題となっている。日本の女性管理職比率は、世界最低レベル。日本経済の活性化のために指導的地位にある女性を増やす、これはこれでよいことである。
 しかし、その裏側で起きていることにも目を向けなければならない。男女雇用機会均等法成立から30年近くたち、確かにキャリアで活躍する女性もでてきた。しかし、一方で、貧困状態に陥る女性も確実に増えている。
 先月、日本学術会議社会変動と若者問題分科会と労働政策研究・研修機構の主催で、貧困化する若者女性をどう支援するかというシンポジウムが開かれた。そこでは、若者女性の貧困が見えにくくなっているため、支援の手が届きにくくなっている現状が報告された。
 「女性の貧困」と言っても、ピンとこない人が多いかもしれない。確かに路上生活者はほとんどが男性で、女性は3・5%(2014年厚生労働省調査)だ。しかし、ホームレスの定義を広げると、深刻な実態が浮かび上がる。女性ホームレスを調査研究する丸山里美・立命館大準教授によると、日本では、女性は隠れたホームレスになりやすいという。野宿よりましだからと知人宅を転々とする、暴力におびえながらDV男性と同居し続ける、不本意でもアパートを提供してくれる接客業で働くなど、自分が安心して寝起きできる「ホーム」がない若い女性が増えているという。
 今まで若い女性の貧困が目立たなかったのは、1990年代半ばまでは、定職に就く夫や余裕のある親のサポートを受けられていたからである。働く未婚女性の大部分は、一般職でも保証がある「正社員」だった。たとえ結婚せず、親のサポートも受けなくても、貧困に陥らない程度の収入は得られていた。
 しかし、90年代半ばからの経済状況の変化は、若者女性に特に過酷だった。正社員職が激減し、不安定な派遣やアルバイトに置き換えられた。これでは自立した生活ができない。そして、結婚して夫に頼ろうとも、十分な収入を得ている未婚男性の数も同時に減っている。そして、最後の支え手だった実家の親の経済状況も悪化している。
 自立できる収入が得られる仕事にも就けず、親からのサポートも受けられず、安定した収入の男性と結婚の機会もない若者女性が増えている。つまり、若い女性の間で格差が生まれ、その結果、ホームがない生活を強いられる女性が出てきているのだ。とりあえず生活ができているからといって、支援も後回しになりがちである。女性政策と言った時、そのような人たちが希望を持って生活できるような施策も併せて実施する必要がある。

女性の貧困 貧困率を男女で年齢層別に推計すると、ほぼ全ての年齢層で男性よりの女性の貧困率が高く、差は高齢期になるほど拡大する。育児・介護などで就業を中断しやすく、結果、年金水準が低くなるなど、弱い経済基盤を産む社会的構造が問題だ。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 格差広がり支援届かず 深まる女性の貧困=山田昌弘」、『毎日新聞』2014年07月30日(水)付。

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拙文:「書評 『アジア主義 その先の近代へ』 中島岳志著 潮出版社」、『第三文明』9月、第三文明社、2014年、98頁。

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書評
『アジア主義 その先の近代へ』
中島岳志著
潮出版社 定価1900円+税

「思想としてのアジア主義」の可能性

 アジア主義とは国家を超えたアジアの連帯を模索する戦前日本の思想的営みと実践のことだが、日本思想史においては、これほど罵倒にみまれた対象は他にはない。なぜなら、連帯と解放というスローガンが、大東亜戦争という最悪の結果を招いたからだ。しかし、日本の未来はアジアとの友好的な連帯なくしてあり得ない以上、その思索の軌跡を尋ねることは必要不可欠だ。どのようにアジアを眼差し、何に躓いたのか。その精査によってミラへの前進は可能になる。アジア主義の限界と挫折を腑分けし、可能性を掬い上げる本書は、その最良の導きになろう。
 出発点は西欧列強の帝国主義の「覇道」を打破し、アジアの連帯という「王道」の確立だ。しかし王道を掲げる連帯には、常に日本の帝国主義という「覇道」が深く影を落とす。支援は介入というパターナリズムへと転化し、植民地支配を文明化と錯覚してしまうが、それは、暴力には暴力で応じるが如き陥穽でしかない。近代西洋という磁場に絡め取られた名誉白人の如き思い上がりは、アジア主義を必然的に変貌させてしまう。近代西洋という重力から自由になることが、まず必要なのだ。
 著者は、「不二一元」論を説く岡倉天心や「東洋的不二」論の柳宗悦らに「思想としてのアジア主義」の可能性を見出す。彼らは、近代西洋のものの見方・考え方を根源的に変革することで、その筋道を素描している。
 「社会進化という幻想、世俗主義の反宗教性、相対主義の限界。これらを乗り越えるためには、思想としてのアジア主義が必要です」、
 同化か衝突を迫る二項対立から差異の相互薫発へパラダイムチェンジを促すところにアジア主義のアクチュアリティが存在する。
 歪んだアジア蔑視ばかりが横行する現在、“わたしたちの課題”としてアジア主義に息吹を吹き込む本書を手に取ることで、情熱的に「その先の近代」へ進みたい。
(東洋哲学研究所委嘱研究員・氏家法雄)
    --拙文「書評 『アジア主義 その先の近代へ』 中島岳志著 潮出版社」、『第三文明』9月、第三文明社、2014年、98頁。

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アジア主義  ―その先の近代へ
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覚え書:「特定秘密保護法に言いたい:国際標準に近づけよ--国際人権法研究者・藤田早苗さん」、『毎日新聞』2014年07月28日(月)付。


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特定秘密保護法に言いたい:国際標準に近づけよ--国際人権法研究者・藤田早苗さん
毎日新聞 2014年07月28日 東京朝刊

 英国在住で、特定秘密保護法を知ったのは閣議決定前の昨年夏ごろだった。友人がフェイスブックに書き込んだ。秋になって法案を読んだが、中身もさることながら、パブリックコメント(国民の意見公募)の期間を2週間しか設けず、政府が年内成立を見込んでいることが信じられなかった。南アフリカが同種の法律を作った時、専門家や市民の意見を聞いて2年以上審査した。市民の権利を制限する法律なのに、なぜ慎重に時間をかけないのか。

 海外でできることを考えた。ウェブに載っていた法案を友人と英訳し、国連人権理事会のフランク・ラ・ルー特別報告者(表現の自由担当)や表現の自由に関わる英国の国際NGOに連絡した。

 国際人権規約の自由権規約19条は、すべての者が「あらゆる種類の情報・考えを受け、伝える自由」の権利を持つとしている。ラ・ルー特別報告者は昨年11月、この自由権規約に基づいて、秘密保護法を「内部告発者や、秘密を報じるジャーナリストを脅かす内容を含む」と批判した。

 さらに国連人権委員会は今月24日に「秘密の定義が広くてあいまいだ」と日本政府に対し、秘密保護法への懸念を表明した。彼らは、知る権利が人権の要石だと理解している。食の安全など身近な権利も、情報公開によって正しい情報に早く接することがなければ守れない。

 日本政府は海外の忠告を受け止め、せめて施行前に法律を国際標準に近づけるべきだ。【聞き手・青島顕】

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 ■人物略歴

 ◇ふじた・さなえ

 英エセックス大人権センター研究員。同大で国際人権法学博士号を取得した。国連や欧州連合(EU)の人権担当者と親交がある。 
    --「特定秘密保護法に言いたい:国際標準に近づけよ--国際人権法研究者・藤田早苗さん」、『毎日新聞』2014年07月28日(月)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20140728ddm004010063000c.html:title]


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