日記:南原繁と吉野作造 その信仰における屹立さと中庸
月末に南原繁のキリスト教信仰の独自性(修養倫理のキリスト教受容とは違う)の発表をしなきゃならんので、夕方から少し、南原の著作を読み直しておりました。
南原繁自身が「ちなみに申しますと、私はある人びとのように、宗教を表に出さない。その点はカントに学んだつもりです」(『聞き書 南原繁回顧録』東京大学出版会)と語るので、ストレートに語ったものがほとんど無い(学術的には『国家と宗教』岩波書店、でしょうが)ので、聞き書の点と点をつなぐ。
『聞き書』でもキリスト教信仰について吐露するくだりは10件程度。矢内原忠雄と比べると(矢内原は聖書講義も多い)、非常に対照的。宗教を表に出さないことは新渡戸稲造から学んだというが、まさに南原繁の厳父が内村鑑三であるとすれば、新渡戸が慈母の役割。揺るぎなき畛はあれど非常に中庸な感。
「宗教を表に出さない」。即ち、何かを為すことでその信仰を宣揚しようと言う態度には常に自戒的であったが故に、その内面を殆ど語らなかったわけだけど、これは、吉野作造とも同じ。吉野作造自身もキリスト教信仰に出会えたうれしさは語るが、活動を「キリスト教の為に」やっている訳ではないという。
戦前日本のキリスト教の特色はホワイトカラーの内面の修養倫理的受容がその大きな特色。吉野作造もその例外ではないし、南原繁自身も一高時代「煩悶青年」だったというが如きで、その枠内だ。しかし二人とも、内面世界へ撤退するわけでもなく、その信仰を宣揚するために「社会派」となった訳でもない。
吉野作造はキリスト教の説く「四海同胞」の理念に啓発を受け、脱植民地・脱反民主主義の実践に取り組む。価値並行論で多元的共存を展望しながらも、内村(そしてカント)から正義を学ぶ南原繁は、この世のものにすぎない国家と対峙する。この姿勢には共通したところがある。
南原繁は『聞き書』の中で二度吉野作造に言及している。一つは「私の吉野先生についての第一印象は海老名弾正先生の本郷教会に始まる。あの人、海老名先生の教会員なんです。それが私にとってはひとつの、何となく先生を尊敬するというか、おのずから通ずるものがあるのを感じた第一です」。18頁。
南原繁と吉野作造と大学での接点は、教員になってからだが(学生時代は吉野が留学中)、吉野を尊敬することに関して、吉野がまじめな教会員だったと指摘していることに瞠目した。南原繁は無教会主義。意外に思われるかも知れないが、ここに南原の中庸さを感じてほかならない。排除ではなく包摂の論理か
1955年の吉野博士記念会での「吉野作造博士の思い出」(『聞き書』所収)でも、南原繁は、「ただ、吉野先生は本郷教会の有力な会員であられた。従って海老名(弾正)先生の影響があったのは事実だろう。しかし、この点でも、先生は、おそらく海老名先生ともちがうのではないか」と言う。
南原繁は吉野には独自のものがありそこに学ばねばという。「私どもは、とかく、ゾルレンとザインとの間にたえず苦悶している。ところが、吉野先生の場合には、もちろん、この二者があるにはちがいないが、それは外にはあらわれていない。ゾルレンとザインが一つになっている。そこに一つの調和がある」
そして南原繁は言う。「先生は何もいわれないけれども、無言の伝道をされたのである。先生の言動には、深いそういったものがあった。ここに、吉野先生がマルキシズムになり得なかった理由がある。なによりも、先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた」。ここなんだわ。
昭和14年。学内では河合(栄治郎)事件の真最中、外では日中戦争がはじまっていたとき、東京帝国大学にはドイツからはケルロイターが来ていた。このときにあたって、南原繁は吉野作造先生のことを想い一首詠んでいる。
「灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき」
内村鑑三の「警世の預言者」としての側面をストレートに受け継いだのが矢内原忠雄とすれば、それをより社会化させた形で展開したのが南原繁なのであろう。内村と海老名弾正はその国家観をめぐって隔たりがある。しかし、その異なる二人に学んだ南原、吉野に共通したところがあるのは非常に面白い。
わたしがわたしのことがらとして「そう、生きていくこと」は大事だと思う。しかしどこまでもその啓発を与えながらも強要してはならない。吉野と南原に共通するのは、その中庸さだろう。
先に南原が吉野がよき教会員であったことを高く評価していると言及しましたが、これが実は昨年、南原繁さんのご子息(晃さん)の挨拶(南原繁研究会の研究発表会後の挨拶)で「(私は不信仰者ですが)父は、何かあったら、教会を尋ねなさい」とおっしゃっていたことがリンクする。
そこで思ったのは、確かにキリスト教と一言にいっても、新旧・正の際だけでなく、教派によっては重点の置き方がその大きな差異以上に異なる。しかし、無教会主義の南原繁が「何かあったときに、教会へいけ」といったことには、それを超えた共通項があるからだろう。果たして仏教にはあるのだろうか、と
キリスト教にはテクストの共通性があるが、仏教にない。その差異の超克が「哲学としての仏教」の受容という近代日本の展開なのではあるまいか。しかし、それはどこまでも「高尚な哲学」に留まり、人間の内面を受け止める側面は一人一人に投げ出されてしまう。その間隙を有象無象がつくのだろう。
非キリスト者の私すれば、近代日本のキリスト教の「茨の道」とは、まさに丸山眞男をして「心情キリスト者」と言わせしめた如く、憧憬すべき歩みだ。ずるずるべったりの日本教の如きを批判する絶対軸として。しかしその直系の南原繁の柔軟さは、その認識に「包摂」という新たな光を差し込む。いや面白い。
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