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2014年10月

書評:樋口直人『日本型排外主義 在特会・外国人参政権・東アジア地政学』名古屋大学出版会、2014年。

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樋口直人『日本型排外主義 在特会・外国人参政権・東アジア地政学』名古屋大学出版会、読了。果たしてフラストレーションやルサンチマンといった社会不安だけが日本の排外主義の動機となっているのか。本書は先行研究を踏まえ、著者自身の聞き取り調査も加えながら、その経緯を明らかにする。

馬鹿と言っても聞く耳は持たないし誤りの指摘はスルー。排外主義運動は「通常の病理」として扱われてきたが、そうではなく「病理的な通常」として著者は扱う。その歴史的経緯こそ、帝国と植民地が対照する歴史的に生成された東アジアの地政学の鬼子なのだ。

「国家は国民だけのものであり、外国に出自を持つ(とされる)集団は国民国家の脅威であるとするイデオロギー」が排外主義だが、日本では、現実には外国に出自を持つ集団すべてが脅威と見なされない。ここに日本型排外主義の特色を見出すことができよう。

ミナレット禁止のスイスやブルカ大げさに取り上げるフランスの事例などが欧米型排外主義の特質をなす。対して日本で顕著なのは、外国人参政権や東アジア諸国関連のイシューに対する非合理な反応。こうした反応は「東アジアの地政的構造」を背景とする。

「日本型排外主義とは近隣諸国との関係により規定される外国人排斥の動きを指し、植民地清算と冷戦に立脚するものである。直接の標的になるのは在日外国人だが、排斥感情の根底にあるのは外国人に対するネガティブなステレオタイプよりも、むしろ、近隣諸国との歴史的関係となる」。

「排外主義運動は、単なるレイシズムとしての在日コリアン排斥ではない。『主流の歴史にたいして不協和音を奏でるような物語」(グラック※)を体現する存在たる在日コリアンを、汚辱の歴史と共に抹殺したいという欲望が根底にある」。※→グラック(梅崎透訳)『歴史で考える』岩波書店。

今世紀に入ってからの保守政治の変容は、現実の排外主義運動を促す結果となっている。しかしそれに至る経緯は、はるか以前から築かれ同時に在日コリアン政策に反映されてきた。本書の分析に、その 根深さに暗澹とするが、本書は「今読むべき本」である。

[http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0763-4.html:title]


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日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―
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拙文:「読書:人は時代といかに向き合うか 三谷太一郎著(東京大学出版会)」、『聖教新聞』2014年10月25日(土)付。


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読書
人は時代といかに向き合うか
三谷太一郎 著

永遠なるものを射程に収める

 政治史の大家が「時代と向き合い歴史を学ぼうとするすべての人々」に贈る歴史との対話--近代日本の軌跡をたどる本論集は、さながら考えるヒントの玉手箱だ。
 近代日本の歩みとは、脅迫にも似た成長願望とその挫折の繰り返しである。著者は3・11の大震災を幕末以来の日本の「一国近代化路線の終わり」と捉える。それは「日本の近代を導いてきた『文明開化』・『富国強兵』のスローガンの方向指示の効力を最終的に失ったことを意味する」との歴史認識だ。
 「『人』は歴史を書くことによって、あるいは歴史を読むことによって、すなわち『時代』を認識することによって、はじめて『時代』を超えるのである」
 日本人はさまざまな「戦後」を検討すること、すなわち〝時代と向き合う〟ことを怠ってきた。本書はそのことをありありと浮かび上がらせる。白眉は、本来別のものである「人」と「歴史」の交差を描く著者の人物論であろう。吉野作造や南原繁らの時代の超え方は示唆に富む。
 本書は1988年に刊行された『二つの戦後』(筑摩書房)に12編を加えて再編したもの。『学問は現実にいかに関わるか』(東京大学出版会)の続編に当たる。一読して驚くのは、30年以上前に書かれた文章を収録していながら決して色あせていないことである、歴史との縦横な対話は、歴史主義への惑溺を退けつつ、永遠なるものを射程に収めている。 (氏)
東京大学出版会・3132円
    --「読書:人は時代といかに向き合うか 三谷太一郎著(東京大学出版会)」、『聖教新聞』2014年10月25日(土)付。

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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 異議唱えぬ日本の若者=山田昌弘」、『毎日新聞]2014年10月22日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論
異議唱えぬ日本の若者
香港の民主化運動、対照的な熱気
山田正宏 中央大教授

 現在、大学から在外研究の機会を与えられ、香港に滞在中である。日本でも報道されているように、当地では普通選挙を求める民主化運動が活発化し、9月末より学生を中心とした若者が政府庁舎前の道路で座り込みを続けている。昼間に何度か現場に足を運んでみたが、一時帰宅か、学校や仕事に行っている人が多いのか、思いのほか落ち着いていた。暴力的な雰囲気はなく、活動家の話を聞く人や、黙々と普通選挙の願いを紙に書いている若者たちをみると、静かな熱気を感じることができた。
 原稿執筆時点では、動向は予断を許さないが、中国政府が譲歩して民主化要求を認めることはまずないと言われている。しかし、香港の将来を担う若者たちが、自分たちの社会を自由で民主的なものに変えていきたいという意思を言葉や行動ではっきり示したことは、香港の将来にとって大きな意味を持つことだと感じている。
 ひるがえって、日本の若者はどうだろう。以前、ある学生新聞の記者が、高騰する大学授業料に関する意見を私に求めてきた。「私が学生の頃は、学生自治会が大学で授業料値上げに反対のデモやストライキをやっていた」と昔話をしたら、「そんなことをして、就職にひびかないんですか?」と言われたことがある。
 また、地域社会に貢献したいと政治家を目指す若者と話した時、「つきあっている彼女から、一流大学を出て一流企業に就職できるのに、なぜそれを蹴って不安定な政治家を目指すのかと言われ、困っている」と聞いたことがある。
 社会に異議申し立てすることを「自分にとって不利益になる恐れがあるから」と、控えるのである。今年発表された内閣府の若者の意識に関する国際比較調査でも、「社会現象が変えられるかもしれない」と回答した日本の若者は、調査7カ国中最低の30%だった。
 人と違う意見を言うのを避ける傾向も若者の間に広がっている。「権威に疑問を持ち、社会を変えるエネルギーを持つ存在」という若者の定義は、もう日本では当てはまらない。
 「自分が多少不利益を被っても、社会を良い方向に変えるために行動したい」という若い人が多い社会と、「どうせ何をしても社会は良くならない」と権威に従って自分の利益だけを考える若い人が多い社会とでは、どちらが活性化するかは明らかである。もう香港は、一人当り国内総生産(GNP)で日本を上回っている。これからどんどん引き離していくにちがいない。従順でおとなしい若者が増えたと、日本の大人たちは喜んでいてよいのだろうか?
内閣府の若者意識調査 内閣府の2014年版「子ども・若者白書」では、日本、米、仏など7カ国の13~29歳の男女を対象に、人生観や社会参加についての意識を調査。「社会の問題に関与したい」などの項目で、日本の若者の意識は諸外国の若者と比べて押す大敵に低い結果だった。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 異議唱えぬ日本の若者=山田昌弘」、『毎日新聞]2014年10月22日(水)付。

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書評:河野哲也『「こども哲学」で対話力と思考力を育てる』河出ブックス、2014年。


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河野哲也『「こども哲学」で対話力と思考力を育てる』河出ブックス、読了。最前線で活躍する著者が、その理論と実践の要を判りやすく書き下ろした、「こども哲学」入門。対話と討論を経ても、あらかじめ決まった意見に集約することが教育なのだろうか。相互の言葉を検討するこども哲学には新しいヒントが多い。

哲学とは「真理の探求」だと言われるが、大切なことは思い込みを柔軟に退けていくことであり、「問い」を正しく立てること。そして経験から紡がれる意見を結びつけ考えていく。そして他者との対話によって思考を深化させていく。

たしかに「意見」を言わせても、そこには上位者からの「添削」あっても、「対話」も「思考力」も存在しない。しかしひとの話を聞き、相互に検討していく(対話)ところに「批判的」「創造的」「ケア的」思考が育まれる。

本書は1部でその理論を扱い、2部で実践を紹介する。環境作りから授業の進め方、ファシリテーターの役割や各教科との関連など非常に具体的だ。教育を考え直す出発点になる。教育関係者だけでなく子を持つ親にも読んで欲しい。
 

[https://www.facebook.com/ardacoda:title]


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「こども哲学」で対話力と思考力を育てる (河出ブックス)
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覚え書:「記者の目:経済学者、故・宇沢弘文氏のこと=客員編集委員・原剛(早稲田環境塾塾長)」、『毎日新聞』2014年10月23日(木)付。


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記者の目:経済学者、故・宇沢弘文氏のこと=客員編集委員・原剛(早稲田環境塾塾長)
毎日新聞 2014年10月23日 東京朝刊

(写真キャプション)CO2排出削減について力説する宇沢弘文氏=原剛撮影

 ◇野生知と美学の人

 日本海に近い新潟大学教員宿舎の夜更け、宇沢弘文教授は時計を見やって言った。「まだ間に合います。林を近道しますが」

 旧制一高ラグビー部員だった偉丈夫は、杯を置いてすっくと立ち上がり、私のかばんをわしづかみにして暗闇へ飛び出した。「ちょっとヤブこぎします」。真夏の林の下草が足に絡みつく。教授はヒグマさながらに下草を蹴散らして突進、JR越後線内野駅の裏手に至った。汗まみれになり、私は最終列車に間に合った。

 先月亡くなった経済学者、宇沢弘文氏の姿が強烈な印象として思い出される。

 ◇手足で構想した国際炭素税論

 そのとき、1991年。毎日新聞社会部記者だった私の手元には、宇沢教授が会長をつとめた世界計量経済学会の「地球温暖化の経済分析研究会」で発表する国際炭素税の論文があった。

 (1)30年間の二酸化炭素(CO2)排出量を計算し、防潮堤、かんがい水路など温暖化の対策費用を明らかにする。

 (2)CO2の現在の排出量に比例して、対策費用を各国が国民所得に応じ「炭素税」の形で負担する。同時に、森林1ヘクタールのCO2吸収効果を計算し、森林保全、植林の補助金額を決める。

 (3)90年を基準として炭素1トンの排出にアメリカ国民は1人年間720ドル、日本は150ドル、インドネシアは3ドルを拠出する--国際炭素税の構想である。

 「日本150ドル、インドネシア3ドル」論のむこうに、私は異国の街を走る教授の姿を思った。自分の目で民衆の生活情報を得るため、訪れた外国の空港でスエットに着替え、中心街までリュックを背に走った。「最長はアルゼンチン、ブエノスアイレスのエセイサ空港からの35キロかな」

 米スタンフォード大、カリフォルニア大、シカゴ大と経るにつれ、ノーベル経済学賞の有力候補となっていく。しかし、米国のベトナム戦争介入を批判し、帰国して東大教授となって、市場原理優先を先鋭化させる新古典派経済学から決別、環境保全を基本とする最適成長の経済学に転じた。きっかけは東京のジョギング路が首都高速にふさがれ、大気汚染や交通事故など自動車による社会的費用を構想し始めたことだ。そして、「社会的共通資本」論が宇沢経済学の礎になっていく。

 社会的共通資本は、豊かな人間関係と多様で魅力的な地域文化をつくるための自然環境(森林、生態系など)、インフラストラクチャー(道路、上下水道施設など)、制度資本(教育、医療、金融制度など)からなる。これら社会的共通資本のネットワークが人々の絶えることない働きかけによって築かれ、市場原理主義の生み出した経済の不均衡と社会の不安定が改められていく。教授は遺稿「社会的共通資本としての森」にそう記している。また、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)は社会的共通資本を損なうと主張し、亡くなる直前にTPP違憲訴訟の呼びかけ人に名を連ねた。

 ◇成田問題では双方から信頼

 専門知識と深い教養知に加え、鋭敏な野生知を備えていた。野生知とは他者の気持ちになろうとする私と、私によって私にさせられた他者との出会いの試みとされる(レビストロース「野生の思考」)。他者をおもんぱかり、本当の私と向かい合う姿勢ともいえようか。著書「自動車の社会的費用」「『成田』とは何か」「社会的共通資本」(いずれも岩波新書)は、教授が環境破壊の現場で被害者と遭遇し、連帯行動に向かった強烈な野生知の記録である。青年時代に寺で修行した教授にとり、野生知の働きは、他者との「縁」の決定的な影響を説く仏教に通じていたのかもしれない。社会に亀裂をもたらした成田空港問題の最終局面で、教授は厳しく対立した政府と反対組織の双方から仲介を頼まれた。農業の復興をもとに、地域の再生を願う教授の批判力と構想力を、当事者たちは信頼し、共感を寄せたのである。

 その当時のある朝、成田空港問題のインタビューを終えた宇沢教授が、皇居堀端の毎日新聞東京本社を走り出た。濃い空色の運動着にリュックを背負い、白ひげの雄ライオンを思わせる威厳を漂わせて道路を横断したところで、不審者を警戒中の警察官に取り囲まれた。後を追った私の面前で、警官は敬礼し、教授を“放免”した。すぐ宇沢氏だと気づいた警官がいたようだ。教授は再び走り始め、温暖化研究会をおいていた近くのビルへ向かった。

 文化勲章など世の称賛を受けるたびに、宇沢教授はそういう自分の姿を恥じらい、身をすくめた。得点したラガーが済まなそうに相手方から引き揚げる風情がうかがえた。美学の人であった。
    --「記者の目:経済学者、故・宇沢弘文氏のこと=客員編集委員・原剛(早稲田環境塾塾長)」、『毎日新聞』2014年10月23日(木)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20141023ddm005070009000c.html:title]


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書評:三枝博音『近代日本哲学史』書肆心水、2014年。

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三枝博音『近代日本哲学史』書肆心水、読了。明治から戦前昭和に至る「哲学」移植とその受容を同時代の視点から描く。初版は昭和10年刊、ナウカ社より刊行。三枝は1892(明治25)年の生まれだから、「近代日本哲学史」を描くとは、まさに自身の学識の来し方を問ういとなみでもあったと言えよう。

明治哲学の論理学への反応、戦前昭和のハイデッガー解釈と西田哲学の根本問題へのクリアカットな指摘は今なお鮮やかである。

本書は附録として「わが国では何故弁証法が発展しなかったか?」を収録する。

「弁証法は対立物の統一における法則」と捉え「権力偏重の気風」(福澤諭吉)ゆえに「相関関係をなさない」し、「平均を失うであっては秤とはならない」と見てとる。弁証法で全てが理解できるとは早計だろうが、そもそも弁証法以前の「この世」の重力が平衡や発展を妨げるのが日本社会の実情だとすれば、三枝の指摘は、今なお課題としてその重厚な余韻を失ってはいない。


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 弁証法は、科学的方法として全科学の分野においてその意義を発揮して来てい、今後一層その科学的意義を示そうとしている。弁証法は、勿論ギリシア文化の中にその発生を見出せないではない。しかし、本来の弁証法は何としても封建制度を廃して市民社会が擡頭した以後における科学の方法である。人と人の関繋(Verhaltnis)が、人間の理性にもとづく合理的契約によって成立することが、市民社会の本質である。勿論、市民的社会はその内的矛盾によって発展し、今や転化せんとするところを示しているが、しかし、市民社会は近世科学の母胎であることは否定できないし、人類の発展は市民的社会において科学を実現せしめるに至ったのである。弁証法はこの市民的社会の中においては、上下・主客の関係は決してその本来の人間と人間との関係ではない。縦の上下関係ではなくて、横の併列関係すなわち相関関係が市民的社会における人間と人間との関繋である。勿論、相関関係、釣合、平衡、こういった運動諸関係は、古代においても封建社会においても、あらゆる種類の人間と人間の関係において支配していたのである。しかしこれらの諸関係は、現代においては政治及び経済の全面に押し出されているのである。
 わが国においては、近世の科学が発展し得るような諸事情が社会の中に作りあげられたのは、明治以後である。それ故、明治以前においてわが国に弁証法が発達しなかったことは今や容易に理解し得られるのである、明治以後今日に至るまで、或る部類のインテリゲンチャを除いては、一般の学識の所有者にとって、弁証法の理解が、(その声の喧しいほどには)徹底されていないように思えるのである。それでなうとも弁証法がよく広く把握されるということは、それこそなかなか困難な事である。
 ここに今更言うまでもなく、弁証法は対立物の統一における法則である。へーゲルも弁証法的関係を明らかにするために区別、差別、反対、矛盾等の諸概念を明瞭にすることに努めたのであった。これらの諸関係は一つとして「権力偏重の気風」のもとにある上下・主客・内外の固定的区別ではないのである。或る経済学者は弁証法的関係を秤の動的静止の性質に比した。分銅と被量物との相平衡する運動中の静、ここに弁証法の成果を把えたのである。卓抜の見解でもあった。福澤諭吉はわが国の封建的社会的「交際」の特色をとらえてこう言った。「苟も爰に交際あれば〔苟も人間と人間との関係のあるところには〕其権力偏重ならざるはなし、其趣を形容して云へば日本国中に千百の天秤を掛け其天秤大となく小となく悉く皆一方に偏して平均を失うが如し。」つまり、たとえ人間と人間の関係があっても、それが相関関係をなさないのである。平均を失うのであっては秤とはならないのである。
    --三枝博音『近代日本哲学史』書肆心水、2014年、276-278頁。

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[http://www.shoshi-shinsui.com/book-kintetsushi.htm:title]


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覚え書:「インタビュー カジノで考える民主主義 思想家・武道家、内田樹さん」、『朝日新聞』2014年10月21日(火)付。


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インタビュー カジノで考える民主主義 思想家・武道家、内田樹さん
2014年10月21日

(写真キャプション)「中国の富裕層をカジノに呼びたいなら、中国人がハッピーになれる国でなきゃ。嫌中本を発禁にするとかね」=山本和生、遠藤真梨撮影


 カジノを含む統合型リゾート開発を推進しようという法案(カジノ推進法案)の審議が始まる。外国人観光客が増え、税収も上がって雇用も増えるそうだ。いろんな懸念もあるみたいだが、安倍政権も推進派の国会議員も「何とかする」って言っている。そんないいことずくめなら、なぜ今までなかったんだろう。内田樹さんに聞いてみた。

 「実は、身内にかなり重篤なギャンブル依存がいます」

 ――ほう!

 「優れたビジネスマンですし、他の面ではいたってノーマルな人物なのですが、ことギャンブルとなると熱くなる。若いころは競馬場へ行って1日でボーナスをすってしまうというようなこともありました。海外出張の時はカジノに通っていました。なぜそんなふうにお金を無駄に使うのか聞いたことがあります。これで負けたら全財産を失うという時のヒリヒリする感じが『たまらない』のだということでした」

 ――依存症は青少年や地域社会、治安への悪影響と並んで反対派、慎重派が最も懸念する点です。やはりカジノはやめたほうがいい、と。

 「僕は別に賭博をやめろというような青臭いことは言いません。ただ、なぜ人は賭博に時に破滅的にまで淫するのか、その人間の本性に対する省察が伴っていなければならないと思います。賭博欲は人間の抑止しがたい本性のひとつです。法的に抑圧すれば地下に潜るだけです。米国の禁酒法時代を見ても分かるように法的に禁圧すれば、逆にアルコール依存症は増え、マフィアが肥え太り、賄賂が横行して警察や司法が腐敗する。禁止する方が社会的コストが高くつく。だったら限定的に容認した方が『まし』だ。先人たちはそういうふうに考えた。酒も賭博も売春も『よくないもの』です。だからと言って全面的に禁圧すれば、抑圧された欲望はより危険なかたちをとる。公許で賭博をするというのは、計量的な知性がはじき出したクールな結論です」

 ――カジノ法案は、政府内に管理委員会を置いて、不正や犯罪に厳しく対処するよう求めています。推進派の議員らは、十分な依存症対策も取る方針を明確にしています。それなら賛成できますか。

 「賛成できません。法案は賭博を『日の当たる場所』に持ち出そうとしている。パチンコが路地裏で景品を換金するのを『欺瞞(ぎまん)だ』という人がいるかもしれませんけれど、あれはあれで必要な儀礼なんです。そうすることで、パチンコで金を稼ぐのは『日の当たる場所』でできることではなく、やむをえず限定的に許容されているのだということを利用者たちにそのつど確認しているのです。競馬の出走表を使って高校生に確率論を教える先生はいない。そういうことは『何となくはばかられる』という常識が賭博の蔓延(まんえん)を抑制している。賭博はあくまでグレーゾーンに留め置くべきものであって、白昼堂々、市民が生業としてやるものじゃない。法案は賭博をただのビジネスとして扱おうとしている点で、賭博が分泌する毒性についてあまりに無自覚だと思います」

    ■     ■

 ――安倍晋三首相は、シンガポールでカジノを視察して、日本の経済成長に資すると発言しました。経済を活性化する良策ではないですか。

 「賭博は何も生み出しません。何も価値あるものを作り出さない。借金しても、家族を犠牲にしても、人から金を盗んででも、それを『する』人が増えるほど胴元の収益は増える。一獲千金の夢に迷って市民生活ができなくなる人間が増えるほど儲(もう)かるというビジネスモデルです。不幸になる人々が増えるほど収益が上がるビジネスである以上、そのビジネスで受益する人たちは『賭博に淫して身を滅ぼす人』が増大することを祈ることを止められない。国民が不幸になることで受益するビジネスを国が率先して行うという発想が、僕には信じられません」

 ――しかし観光振興の起爆剤になり、自治体財政にも寄与する可能性はある。デメリットを上回るメリットがあるとは考えられませんか。

 「安倍政権の経済政策は武器輸出三原則の見直し、原発再稼働などいかに効率的に金を稼ぐかにしか興味がない。でも、当然ながらリスクが高いほど金は儲かる。一番儲かるのは戦争と麻薬です。人倫に逆らうビジネスほど金になる。でも、いくら金が欲しくても、あまり『はしたないこと』はできない。その節度が為政者には求められる。その『さじ加減』については先人の経験知に謙虚に学ぶべきですが、安倍政権には節度も謙虚さも何も感じられません」

 「為政者の本務は『経世済民』、世を治め、民を済(すく)うことです。首相は営利企業の経営者じゃないし、国家は金儲けのためにあるんじゃない。福島の原発事故対策、震災復興、沖縄の基地問題の解決の方がはるかに優先順位の高い国民的課題でしょう。厳しい現実から目を背け、なぜ金儲けの話ばかりするのか」

    ■     ■

 ――でも、安倍内閣の支持率は一定の高さを保っていますよ。

 「メディアは選挙になれば『景気を何とかしてほしい』『経済の立て直しを』という『まちの声』を繰り返し報道してきました。国民は政党間のこむずかしい政策論争よりも民生の安定を望んでいると言ったつもりでしょうが、メディアはそれを『有権者は経済成長を望んでいる』という話に矮小(わいしょう)化した。有権者は何より金が儲かることを望んでいるというふうに世論を誘導していった」

 「武器輸出も原発再稼働もカジノも『金が儲かるなら、他のことはどうでもいい』という世論の形成にあずかったメディアにも責任の一端があります。メディアはなぜ『金より大切なものがある』とはっきり言わないのか。国土の保全や国民の健康や人権は金より大切だと、はっきりアナウンスしてこなかったのはメディアの責任です」

 ――理想を高らかにうたうのは大切だと思いますが、現実的な議論をすることが、成熟した大人の態度と言えるんじゃないですか。

 「それのどこが『大人の態度』なんです? 人間は理想を掲げ、現実と理想を折り合わせることで集団を統合してきた。到達すべき理想がなければ現実をどう設計したらいいかわかるはずがない。それとも何ですか? あなたはいまここにある現実がすべてであり、いま金を持っている人間、いま権力を持っている人間が『現実的な人間』であり、いま金のない人間、権力のない人間は現実の理解に失敗しているせいでそうなっているのだから、黙って彼らに従うべきだと、そう言うのですか」

 ――理想を語らず、目先の金。嫌な世の中になりました。

 「時間のかかる議論を『決められない』と罵倒してきたのは、あなた方メディアでしょう。『決められない政治』をなじり、『待ったなし』と煽(あお)ったせいで、有権者は独裁的に物事を決めていく安倍さんを『決断力がある』と見なして好感を持った。合意形成に時間がかかる民主制より、独裁的な方が政策決定の効率はいい。そう思うようになった。それならもう国会なんか要らない。安倍さんがどれほど失政をしようと『劇的に失敗する政治』の方が『決められない政治』よりましだ、そういうニヒリズムが蔓延しています」

 ――ニヒリズム……。

 「米ソ冷戦の1960年代、米ソの外交政策に対して日本人は何の発言権もなかった。国内でどんな政策を行っても、ある日、核ミサイルが発射されれば、すべて終わりだった。そういう時代に取り憑(つ)いていた虚無感を僕はまだ覚えています。いまの日本には、当時の虚無感に近いものを感じます。グローバル化によって海外で起きる事件が日本の運命を変えてしまう。どこかで株価が暴落したり、国債が投げ売りされたり、テロが起きたり、天変地異があれば、それだけで日々の生活が激変してしまう。自分たちの運命を自分たちで決めることができない。その無力感が深まっています」

 「『決められない政治』というのは政治家の個人的資質の問題ではなく、グローバル化によって、ある政策の適否を決定するファクターが増え過ぎて、誰も予測できなくなったので『決められなくなった』というシステムそのものの複雑化の帰結なのです。何が適切であるかは、もうわからない。せいぜい『これだけはやめておいた方がいい』という政策を選(よ)りのけるくらいしかできない」

    ■     ■

 ――私たちは政治とどう向き合ったらいいのでしょう。

 「民主制のもとでは、失政は誰のせいにもできません。民主制より金が大事という判断を下して安倍政権を支持した人たちは、その責任をとるほかない。もちろん、どれほど安倍政権が失政を重ねても、支持者は『反政府的な勢力』が安倍さんのめざしていた『正しい政策』の実現を妨害したから、こんなことになった。責任は妨害した連中にあるというような言い訳を用意することでしょう。そんな人たちに理屈を言って聞かせるのはほとんど徒労ですけれど、それでも『金より大切なものがある。それは民の安寧である』ということは、飽きるほど言い続ける必要があります」(聞き手・秋山惣一郎)

    *

 うちだたつる 50年生まれ。専門はフランス現代思想。神戸女学院大名誉教授。合気道七段。道場「凱風館(がいふうかん)」館長を務める。近著に「街場の共同体論」。
    --「インタビュー カジノで考える民主主義 思想家・武道家、内田樹さん」、『朝日新聞』2014年10月21日(火)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11412485.html:title]


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覚え書:修復的正義論の観点


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 わたしは、民主主義を、じっさいには平等でも自由でもない諸個人が、それでも平等に扱われることを求めたさいに、一つひとつ制度を精査し、批判的に現状を捉え、改革していく政治システムだと考えている。その意味において、軍事的性奴隷制という人道に対する罪を放置することは、被害者の声に耳を貸さないという点で、現在もなお、かつてその尊厳を踏みにじられた人の人権をさらに傷つけるという、反民主主義的な状況である。現在いかに、わたしたちがそうした反民主主義的な政治社会を許しているかについて、小論の結論にかえて、近年多くのフェミニストが論じるようになった「修復的正義」という概念を使って説明してみたい(7)。
 正義論は、西洋政治思想史においては、つねに健常者である平等な男性成人を中心として、いかに公正な社会を作るかの原理を論じてきた。他方で、近年多くのフェミニスト思想家たちが修復的正義に着目するのは、正義を論じる際の前提に大きな違いがあるからである。
 彼女たちによれば、わたしたちが構成する社会には、強者と弱者、権力者と無力な者、社会的に烙印を押され続けた者たちが存在している。つまり社会は不平等で、不正義を許容してきたし、現在もそうである、という事実から出発する。したがって、組織的犯罪・国家的暴力は均一に人々を被害者にするのではない。そうではなく、歴史的に無視され、政治的声をもたない存在は、他の者たちに比べ、国家暴力に晒されやすい傾向にある。つまり、被害者は、平等な存在として認められてこなかったからこそ、被害にあったのだという点が強調される。
 このような文脈から、合衆国の倫理学者であるマーガレット・ウォーカーは、「被害者を、屈辱や侮蔑から解き放つことは、修復的正義に賭けられている、まさに核心である」と主張する(Walker, Margaret U. What is Reparative Justice? Marquette Universiy Press, p.16)。その意味で修復的正義は、これまで無視され続け、被害にあったことを述べようとも一人の人間の声として受け取られてこなかった者たちを、尊厳ある同等の人として扱うことから始まる。したがって、修復的正義が要請する賠償は、金銭的・物理的な賠償を超えて、対等な人間として加害者と被害者が一つの社会を構成することに向けた、変革的な意味をもった対話を伴う交流を命じるのだ(同上、pp.14-5)。
 ウォーカーによれば、甚大な人権侵害が生じた後--社会的に弱い立場に置かれていたからこそ国家暴力に晒され、さらに脆弱化した社会的地位に陥っているために、長年その被害について、正当な救済も賠償も受けられなかった被害者への--修復にとって、「善意や慈悲」からなされる行為はふさわしくない。なにが修復にふさわしいかの条件なのかは、「修復のためにとられた手段が正義によって要請された行為を意味することと密接に関連している」(同上、p.22)。そして、ウォーカーは、日本政府が「慰安婦」問題への対処として提示した「国民基金」を、むしろ「嫌悪を引き起こさせる、侮蔑的な意味を帯びる」手段として(同上、p.23)、修復的正義が挫かれた典型例であると、厳しく批判している。
 「国民基金」は、過去の甚大な人道に対する罪に謝罪として不十分だった。ウォーカーによれば、加害者の「謝罪」が意味するのは、つぎの三点である。
 第一に、「償われるべき『被害』があったこと」を認めていること、第二に「正義を為す意図があること」、そして「当然果たすべき責任がある」ことを認めることである。この三点から、謝罪が「慈善・善意・厚意から発しているのでなければならない」ということは、とりわけ強調されなければならない。
 しかしながら、安倍政権はいくども、河野談話は「善意」であったと繰り返している。つまり、日本政府が唯一負っていると主張する道徳的責任は、果たすべき義務のない「善意」であり、慈善であり、だからこそ、被害者の訴えに耳を貸さないのだ。あくまでも、被害者を同等な尊厳ある人として扱おうとしないこの態度は、日本政府が、一人ひとりの人権が尊重されるべき国際社会に属する対等な構成員として被害女性を認めず、むしろその人格を貶めていることを意味している。
 以上により、「慰安婦」問題がわたしたちに突き付けているのは、過去の歴史認識の問題であるというよりむしろ、現在の民主主義のあり方なのだ。ウォーカーを援用するならば、もっとも社会的に弱い立場にあったからこそかつて国家暴力に晒されてしまった女性たち--その多くが、植民地支配の下での朝鮮半島出身の女性--に対等な人格を認めようとせず、加害責任を問われている政府が、善意で謝罪をしていると公言しても許容される社会をわたしたちは作り出している。
 謝罪は、あくまで「相互行為」である。謝罪は、加害者が被害者を尊厳ある人として認めるなかでようやく成立する。被害の回復、正義の回復は、なによりもまず、この相互行為、つまりかつての被害者とともに国際社会を構成していこうという、民主主義的な意志のなかでのみ、実現されるであろう。
 残念ながら現在の日本は、そうした民主主義を否定しているかのようだ。ちょうど一〇年前の、イ・オンソクさんからの未来の変革に向けたメッセージに、わたしたちはどれほど応えることができるのだろうか、市民の力が今試されている。
(7) フェミニストたちによって論じられるようになった、「修復的正義」に関する詳しい議論は、岡野八代『フェミニズムの政治学 --ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房、二〇一二年)、とくに二九一-三一三頁を参照。
    --岡野八代「日本軍『慰安所』制度はなぜ、軍事的『性奴隷制』であるのか 問われる現在の民主主義」、『世界』岩波書店、2014年11月、102-104頁。


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覚え書:「文化の扉:はじめての丸山眞男 歴史に見る「いま」、未来を切りひらく」、『朝日新聞』2014年10月20日(月)付。

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(文化の扉)はじめての丸山眞男 歴史に見る「いま」、未来を切りひらく
2014年10月20日

 「戦後日本を代表する知識人」といわれる丸山眞男。厳格な学者というイメージだが、実際は、おしゃべりでユーモアに満ちていた。生誕百年の今年、様々な先入観を抜きに読んでみよう。
 29年前、学生だった筆者を含む二十数人の勉強会に出席した71歳の丸山は、よくしゃべった。
 専門の政治思想史の話に加え、雑談も記憶に残る。日本の新聞は訃報(ふほう)が貧弱なこと。業績があっても“昔の人”という感じだと、記事が小さいこと。それは、現在が全ての基準になる「『いま主義』の極端(な表れ)なんです」と日本思想史の特徴にふっと話が及ぶ。哲学者ハンナ・アーレントが亡くなった時、ニューヨーク・タイムズに大きな追悼が出た。「でも、さすがのアーレントも、アガサ・クリスティーにはかなわないんだ」と、つけ加えて笑ったこと。
 学問的な厳密さと、ざっくばらんな快活さが同居していた。
    *
 丸山眞男は1914年、新聞記者・丸山幹治(かんじ)の次男として生まれた。父の親友の新聞記者・長谷川如是閑(にょぜかん)に、ものの考え方を学んだという。NHKで「のど自慢」を手がけた兄の鐡雄(てつお)は映画や軽演劇に眞男を誘った。ジャーナリスティックな感覚や、人々の喜怒哀楽に通じた人柄がつくられていく。
 33年、唯物論研究会の講演会を聞きに行き、検挙・勾留された。その後、特高警察による監視が続く。東大法学部に進み、南原繁の下で政治思想史を学んだ。通信社の特派員志望だったが、「新聞記者は一代限りでたくさんだ」と父にいわれ、学者の道へ。のちに軍に召集され、広島で被爆した。
 敗戦後、日本の軍国主義を分析した論文「超国家主義の論理と心理」や「軍国支配者の精神形態」は、大きな反響を呼んだ。「誰が決めているかわからず、誰も責任をとらない『無責任の体系』があったという指摘は、原子力政策にも当てはまる」と、杉田敦・法政大教授(政治学)はいう。
    *
 大学紛争後の71年、丸山は東大教授を辞職する。日本の思想に流れる「いま主義」や大勢順応を「古層」あるいは「執拗(しつよう)低音」と名づけ、分析を続けた。福沢諭吉も生涯のテーマだった。「丸山は、自らが置かれた条件を認識することが変革の始まりと考えていた。そして、研究は未完に終わったが、福沢に『古層』を突破する一つの可能性を考えていたのではないか」と松沢弘陽・北海道大名誉教授(日本政治思想史)はいう。
 丸山は晩年まで、学生や社会人の小さな集まりに参加した。冒頭に引いた会で、こう話している。
 「昔のことを済んだこととするのが、日本人の盲点です。俺は現代に住んでいるんだ、江戸時代とは無関係だと。そうではありませんよ、江戸時代どころか、あなたのなかに『古事記』が住んでますよ」「皆さんが僕の文章を読んでいて、一つでも、『あ、これは、いまの問題なんだな』と思ったら、僕の意図は達せられるんです」
 歴史の中に「いま」を見て、未来を切りひらく。丸山の仕事にはその豊かさがある。(石田祐樹)

 <読む> まず杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)を。福沢論は松沢弘陽編『福沢諭吉の哲学 他六篇』(岩波文庫)で。『丸山眞男集』全16巻+別巻(岩波書店)もある(別集全5巻が12月から刊行)。様々な勉強会などでの丸山の発言を活字化したのが、丸山眞男手帖(てちょう)の会編『丸山眞男話文集』4巻+続4巻(みすず書房。続3、4巻は11月以降刊行)。同会(川口重雄代表)は「丸山眞男手帖」を刊行してきた。今年8月に第69号で休刊。電話03・6760・9606。members3.jcom.home.ne.jp/mm-techo.no_kai/
 <調べる> 東京女子大学丸山眞男文庫は、丸山の蔵書約2万冊、草稿類約3万ページなどを所蔵している。閲覧には申し込みが必要。電話03・5382・6817。www.twcu.ac.jp/facilities/maruyama/bunko/

 ■人生に反響する言葉 作家・佐川光晴さん
 僕が北大に入ると、父が丸山の『現代政治の思想と行動』『戦中と戦後の間』『日本の思想』を送ってきた。それが始まりです。学生寮の自治を守る闘争の渦中に投げ込まれたので、丸山を読んで随分助かりました。僕のような普通の人間が運動に直面した時、何が起き、何を考えるべきかが、ちゃんと書いてある。人を集めても、一時的な盛り上がりではダメで、運動は継続しなくてはいけない、ということを一番学びました。
 卒業後、牛の解体を10年半してから作家になり、2004年に出した『灰色の瞳』には、丸山を登場させました。丸山が積極的に語らなかった「被爆体験」に焦点を当てて、批判的に書いています。丸山と全く違う経路で、自立した個人を描きたかったのです。
 丸山の文章でとくに好きなのは佐久間象山について書いた「幕末における視座の変革」(『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫)。手持ちの儒教の思考方法から、最大限の可能性を引きだしていく。旧制高校のような理屈で精いっぱい主張していた寮の活動を思い、実に腑(ふ)に落ちました。自分たちがやっていることの中に「世界」はあるんだと。人生のいろいろな場面で丸山の言葉や態度は反響しますね。
 ◇「文化の扉」は毎週月曜日に掲載します。次回は「水上勉」の予定です。ご意見、ご要望はbunka@asahi.comへ。
    --「文化の扉:はじめての丸山眞男 歴史に見る「いま」、未来を切りひらく」、『朝日新聞』2014年10月20日(月)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11411127.html:title]


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日記:「問題」は「見えない所」へ封じ込めて、例えば、「差別は存在しません」というアナウンスが日本社会の構造。


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橋下氏、在特会と面談 ヘイトスピーチ巡り応酬
2014年10月21日
(写真キャプション)激しく言い合う在特会の桜井誠会長(右)と橋下徹大阪市長

 ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)の対策を検討している大阪市の橋下徹市長は20日、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の桜井誠会長と市役所で意見交換をした。両者は怒号を飛ばして激しく応酬。主張は平行線のまま、30分の予定が10分弱で終わった。

 橋下氏は7月の記者会見で「ヘイトスピーチはやり過ぎだ。僕が直接対応する」と表明。これを受けて、在特会側が面談を申し入れていた。面談は報道陣に公開で行われ、会場の会議室には100人ほどの報道関係者らが詰めかけた。

 橋下氏は「民族とか国籍をひとくくりにして評価するような発言はやめろ」と批判。そのうえで「参政権を持っていない在日韓国人に言ってもしょうがない。在日の特別永住制度に文句があるなら、それをつくった国会議員に言え」と求めた。一方、桜井氏は「あんたの友だちの国会議員に言っている」。ヘイトスピーチを行ったという具体的な事実関係を示すよう求め、「民主主義のルールに基づいてデモ行進をやっている。言論の自由を否定するのはやめろ」と反論した。

 3メートルほど離れて座った両者は冒頭からけんか腰だった。最初に「あんた」と言われた橋下氏が不快感を示す。やりとりの中で「うるせえ、おまえ」と橋下氏が発言すると、今度は桜井氏が激高。両者が立ち上がって詰め寄り、警備担当者ら10人ほどに取りなされる場面も。最後は橋下氏が「もう終わりにしましょう」と、議論を打ち切った。(井上裕一)
    --「橋下氏、在特会と面談 ヘイトスピーチ巡り応酬」、『朝日新聞』2014年10月21日(火)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11412579.html:title]


ついったのまとめですが……手抜きですいません。

橋下徹大阪市長が、桜井誠在特会会長と面談したそうな。内容以上に醜悪なのは「両者は冒頭からけんか腰」というそれ。本質は言論で解決しようという意志がないという暴力体質に他ならない。

「民主主義のルールに基づいてデモ行進をやっている。言論の自由を否定するのはやめろ」とは桜井誠。

しかしながら橋下市長の挑発に激高した桜井氏は立ち上がって詰め寄り、警備担当者らに取りなされる訳ですよ。「暴力も辞さない」という態度が見え隠れしています(橋下氏もだけど。

「真面目にやっている」“つもり”と“ポーズ”だけの二人にエールを送っている場合ではありませんぜ。










 


橋下徹VS桜井誠の話題でいくつかRTしましたが、現実に負傷を負う「暴力」でありながら、その対論はどこかTVで「見る」「プロレス」状態。何度も言及しますけど「ディベート詐欺」つうのは、ゼロ地平ではなく真理を反故にする契機。しかも今回は更にひどい状況を招く導火線にもなった訳で。

他律的ではなく自律的に過去の所業を反省する視座を持ち得ないどころか、ありもしない「在日特権」とやらを「問題」であるかのような議論へ収斂し、問題があるなら大いに検討とはこれいかに。ありもしない議論に時間を費やす暇はないと思うんですよ。他に手をつけなければならない課題が山積でして。

今月で精神科勤務して半年になったけど、退院する方(男)から「ここって高齢者女性病棟ですか?」って聴かれて「え!」と思ったけど、そう指摘されるとそんな具合で、(病院で違いはあるでしょうけど)入院者の2/3が女性でそのうち2/3が高齢者。姨捨山状態だなあと実感しましたよ。

世界でもっともベッド数が多い日本の精神医療。中でいると、医療スタッフの現実はよくがんばっているとは思うけど、厚生労働省が精神科を地域移行するどころか「居住化」していると聴く。世界の潮流と逆行ですけど、退院しても転院・施設移動の繰り返し。

すでに「居住化」という「囲い込み」ですがな。
※ちなみに地域以降が世界の潮流。

「問題」は「見えない所」へ封じ込めて、例えば、「差別は存在しません」というアナウンスが日本社会の構造。在日外国人に対する「区別」と称した「差別」も同じだし、ハンセン病の歴史がその代表事例でしょうが、「無ライ県」よろしく精神科の「世間」からの見えない化=現代版「無精神病患者県運動」の国を挙げても同じでしょう。

大文字で言えば、福島第一原子力発電所の事故収束や震災復興から、小文字で言えば「いじめ」に至るまで。本当に着手しなければならない問題は山積ですよ。ヘイトスピーチやって、ありもしない問題を問題視して「真っ先にこれに手をつけますよ」という政治家の影がちらほらでしょう。本末転倒ですがな。

プロレスの試合をテレビでみながら、やいのやいのといいながら「やっちまえ」といっても始まらないのに、やいのやいのといって「やっちまえ」と試合に「感動」したら、はい、おしまい。消費の文化は何も創造しませんよ。やいのやいのというのなら、身近な日常で関わることを想起せよですよ、ほんと。

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「在日特権」の虚構 : ネット空間が生み出したヘイト・スピーチ
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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 支給と受給の大きな落差=宮武剛」、『毎日新聞』2014年10月15日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論
支給と受給の大きな落差
年金改革のポイント
宮武剛 目白大大学院客員教授

 いつも年齢は3種類ある、と感じる。肉体年齢、精神年齢は個々人の努力や意欲で若々しく保てる。だが、社会が一律に押しつける、いわば「社会年齢」もある。「定年」が典型例だ。
 もっと自由に引退時期を選びたい。その意味も込め、社会保障制度改革国民会議に参加した際、制度で定める「支給開始年齢」を、個々人で選べる「受給開始年齢」へ名前も内容も切り替えよう、と提案した。
 厚生労働省資料は「受給」に変えられ、マスメディアの多くも特に説明なしに追随している。しかし、大事なのは「受給開始年齢」にふさわしい仕組みと環境・条件である。
 ちなみにスウェーデンの年金制度は、61歳以降は自由に時期を選び、受給後に就労の際は中断も認める柔軟な設計である。
 日本でも正規支給は65歳だが、60歳からの、いわば「早取り」(繰り上げ支給)、66歳以降の「遅取り」(繰り下げ支給)もある。ただし、国民年金で早取り約323万人に対し、遅取りは約10万人。厚生年金の遅取りは施行の2007年度以降、希望者は伸びないままで約23万人(13年3月、受給者数)。60代後半の選択は機能していない。
 厚生年金も国民年金も17年度には保険料が固定され、負担は増えない代わり、年金の給付財源も増えない。限られたパイをどう配分するか、という時代を迎える。より和解世代への給付財源を食いつぶさないために給付水準は抑え込まれる。
 現役の平均手取り額に対する厚生年金額を示す「所得代替率」は現在の62・7%から徐々に50%へ引き下げられる(夫は平均賃金で40年加入、妻は専業主婦の新規受給時)。
 その対策で老齢年金(国民年金)の加入期間を、40年(20〜60歳直前)から45年(65歳直前)へ延ばす方針が固まった。実施されれば、経済成長などが標準的な場合、前述の所得代替率は50%から約57%に上がる。67歳まで加入を続けると68%まで跳ね上がる(遅取りで1カ月0・7%の増額分を含む)。
 定年制廃止や大幅な雇用延長が進まない中、いったい60歳代後半まで働けるのか。
 しかし、今回の年金の「財政検証」で所得代替率50%を確保可能な試算例はすべて「労働市場参加が進む」条件付きだ。
 具体的には、働く意欲があれば30年度で男性60歳代前半は91%、60歳代後半も67%が働ける社会を想定している。この極めて高い目標を達成しなければ、現役世代の半分の年金さえ受け取れなくなるのだ。
 「支給」開始年齢から「受給」開始年齢への切り替えは、政府・厚労省はもちろん、社会全体で取り組むほかない途方もなく難しい宿題になった。
保険料・率の固定 17年度で保険料は厚生年金18・3%(労使折半)、国民年金1万6900円(04年度価格)に固定される。この収支内に支出を収めるため少子化と長命化に応じ給付を抑える「マクロ経済スライド」(1・1%)を適用、例えば物価2%アップでも年金額は0・9%分上積みにとどめる。
    −−「くらしの明日 私の社会保障論 支給と受給の大きな落差=宮武剛」、『毎日新聞』2014年10月15日(水)付。

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日記:ナチスを反省し戦後責任を履行してきた戦後ドイツ政府に対してその「反省する」態度を「自虐史観」といって揶揄する高市早苗・総務相。そりゃ、さすがにナチスと親和するがな(ぐぬぬ


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2 着実に成果を出してきた修正主義者
 有田 在日差別は残念ながら日本社会にずっと続いてきました。八〇年代以降日本に居住する外国人が増え、社会の構造変化に伴って、多様性や多文化共生という方向へ進化していくはずだった。ところがそういう方向には向かわなかった。なぜ今これほど排外主義的になっているのか。一言で言えば社会が劣化してしまった。僕たちは何を原点にしなければいけないのか。それは一九四五年の敗戦であり、言葉を代えれば、戦後民主主義の出発点です。
 文部省は四五年九月一五日、戦争に負けた1カ月後に「新日本建設ノ教育方針」を出しました。それを読むと、まだたじろいでいるようなところがあって、「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムル」と書きながら、そのあとは、軍国思想は払拭しなきゃいかん、平和国家の建設を目途として謙虚に反省が必要だ、「平和愛好ノ念ヲ篤クシ」、文化国家、道義国家をつくらなければいけないと続くのです。「国体護持」という言葉がまだありながらも、官僚の中心でも新しい日本をつくる気概で沸いていた。だから四七年五月三日に皇居前広場で行われた憲法施行記念式典には天皇も駆けつけ、約一万人が参加しました。夜になると花火が打ち上げられ、翌日は花電車が走って祝ったのです。これが原点です。
 ところがそうした社会的雰囲気がどんどん崩されてきた。来年は戦後七〇年になります。安倍政権はご承知のように日本国憲法の核心である九条について解釈改憲を子なった。国会で安倍首相を見ていると、この人の学びというのは自分が信奉するイデオロギーだけを一生懸命詰め込んで、それと対抗するものを相対的に読んでみる作業をしていない人だということがよくわかります。攻められるとすぐにカーッとなって、首相の席から指してやり返す。極端に右傾化した政治家が政権の中枢に座り、お友達内閣を構成している。たとえば高市早苗総務省や下村博文文科相は、二〇一一年に日本とドイツの交流開始一五〇周年を記念して可決した「日独友好決議」に反対、安倍首相は退席しています。高市さんは、決議の案文のうち日独両国が各国との戦争で「多大な迷惑をかけるに至り、両国も多くの犠牲を払った」と述べていることや戦後の「戦争への反省」に言及していることが問題だと言っています。「『戦争権』は、全ての国家に認められた基本権」「日本の自虐史観にドイツまで巻き込んで、現在のドイツ政府を『反省するべき行為をした主体』であるかのように断罪する権利を日本の国会が持つとは思えません」(『正論』二〇一一年七月号)と反対したそうです。ナチズムなどの全体主義にいまだ徹底的な批判を行っている世界の人権基準からすれば、日本政治の著しい後進性を露呈しています。
 ドイツは自分の国のあり方を反省して戦後をつくってきました。安倍さんも下村さんも高市さんもそこに反発している。グローバル化の不安の中で、しっかりした日本をつくってほしいという発想からこうした政治家に期待してしまうのかもしれません。日本社会が国際社会から見ればおかしなねじれを生じて変質しつつある。敗戦を原点だと思う人たちがそこにまだまだ充分に有効に対処し得ていない。
    --「特集:ヘイトスピーチを許さない社会へ 座談会『私たちの社会は何を「憎悪」しているのか 「差別の煽動」と闘う覚悟と希望=有田芳生・北原みのり・山下英愛』」、『世界』岩波書店、2014年11月、70-71頁。

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[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/ketsugian/g17713005.htm:title]

おっと、「歴史誤認」の日本会議が裏で騒いでいたのか(きちがいか。

[http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/2381:title]

高市早苗総務相が2011年の「日独交流百五十周年に当たり日独友好関係の増進に関する決議案」に反対していたことを先に言及しましたが、「日独友好決議」でググったら、日本会議の糾弾サイトがトップに。排外主義的民族宗教をソフトにロンダリングした「日本会議」のことをやっぱり甘く見過ぎていた。

日独交流百五十周年に当たり日独友好関係の増進に関する決議案→ [http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/ketsugian/g17713005.htm:title]

曰く……、「各国と戦争状態に入り、多大な迷惑をかけるに至り、両国も多くの犠牲を払った」、「戦争への反省に立ち、今日、自由、民主主義、人権の尊重…」穏健すぎるぐらいまっとうなんだが。

日本会議が友好決議に反対する理由は3つだそうな。
1.「多大な迷惑をかけるに至った」というような過去の歴史認識は必要ない。
2.両国が、同盟を結んだ後、世界に戦争を行ったという誤解、
3.ホロコーストの独と日本は違う。

おいおいまてよ。

「ユダヤ人殲滅を企図して計画的に虐殺を実施したナチスドイツのホロコーストを含むドイツの歴史と我が国の歴史を同一視」することは不可能という日本会議。対して所属する高市早苗は「日本の自虐史観にドイツまで巻き込んで、現在のドイツ政府を『反省するべき行為をした主体』であるかのように断罪する権利を」を日本は持たない?

え!!!

日本会議は「ドイツとは、開戦に至る時期も経緯も異なる。それを一方的に両国が『各国と戦争状態に入り、多大な迷惑をかけるに至った』と同一に論じれば」ホロコーストをやっちまったドイツと日本が同一視されるからいかんというのだけど、高市早苗サンは、反省した現独政府そのものの態度がいかんというのか。

すげえなあ。

つぎのような報道もある。

高市氏とネオナチ 思想的共通/日本会議系反対 党議拘束外す/「日独友好決議」めぐり自民代議士会:しんぶん赤旗 →[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-09-17/2014091702_03_1.html:title]

あの、極右排外主義原子力発電所推進の「日本会議」ですら、ナチス・ドイツのホローストとは「一線を画する」矜持を「建前」としてもっているわけだが、高市さんには、その矜持すら共有できていないと疑われてもいたしかたなし。ウルトラの何乗分の右曲がりなんだ。

ホロコーストを反省する現在のドイツ政府を批判し、ナチスを礼賛する高市早苗さん。

あんた、ほんま、「ネオ」以上の「ナチズム」やないけ。


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世界 2014年 11月号 [雑誌]

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覚え書:「時代の風:大学の国際化=京都大学長・山極寿一」、『毎日新聞』2014年10月12日(日)付。


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時代の風:大学の国際化=京都大学長・山極寿一
毎日新聞 2014年10月12日 東京朝刊

 ◇産業界、地域の理解必要--山極寿一(やまぎわ・じゅいち)

 今月5日から7日にかけて、京都で「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」が開かれた。約100カ国の科学者、企業のトップ、政府関係者ら約1000人が集まって世界共通の課題や解決策について話し合った。多くの大学から学長が参加して大学の抱える問題や役割について議論が行われ、私も大学の国際化と流動性について意見を述べた。

 日本に限らず、世界のトップクラスの大学はどこでも国際的な評判を気にしている。大学のランキングを左右するのは、その大学に所属する研究者の論文数やそれらの論文の引用率だ。今は英語が主流だから英文の学術誌に論文が掲載されねばならない。英語を母国語としない国の大学にとってこれは悩ましい。自国の歴史や文化はどうしても母国語で教え、研究し、公表する必要があるからだ。

 また、教員や学生の流動性も対象になる。教員が何十年も所属を変えず、学生が分野や進路について狭い選択肢しか与えられない状況は評価が低い。とくに国際化は喫緊の課題だ。海外には外国人教員率が50%を超えている大学が相当数ある。英国のある大学は最近中国に連携大学を作り、中国の学部教育の2年間を英国で行うことを可能にした。今年は2000人の中国人学生を受け入れたという。カナダの大学でもフランスの大学と学部2年間の留学協定を締結している。単位の互換性を条件に、どちらの大学で単位をとっても卒業に必要な単位として認められるジョイントディグリーやダブルディグリー制度を適用している。

 京都大学でも大学院の授業やセミナーの英語化、外国人教員率は近年急速に上昇したが、学部学生の国際化はまだ十分ではない。受け入れる外国人学生、海外に留学する日本人学生の数を増やしていかねばならない。しかし、これは大学だけの力ではできない。今回、さまざまな大学から日本に学生を送るメリットが明確でないという話を聞いた。もちろん、日本の高い科学技術や知識は海外の学生にとって大きな魅力だ。だが、学生はその先を考える。せっかく高い技術を習得して学位をとっても、日本の企業になかなか就職できない。日本の大学で学んでも自国の企業が優先的に採用してくれるわけではない。日本でも自国でも活躍できる機会が閉ざされているというジレンマがある。

 文部科学省は、産業界の出資による「トビタテ!留学JAPAN」を設置して日本人学生の留学を支援し、海外の大学と共同して授業科目を設ける国際連携教育課程の実施へ向かって動き出している。これは大学の国際化を進める上でいい追い風になると思う。しかし、企業が本腰を入れて外国人学生を受け入れてくれなければ、海外から日本へ来ようとする留学生のモチベーションは上がらないし、日本の学生の留学意欲も高められない。

 大学の国際化を促進するためには、海外から優秀な教員を採用しなければならないが、そこにも困難な課題がある。欧米のトップレベルの大学の教員の給料は日本の国立大学の2倍近い。運営費交付金が毎年削減される中、海外の優秀な教員を採用すれば、いきおい教員数を減らさざるを得ない。講義数が減り、学問の多様性が確保できなくなる。これはとくに人文社会学の分野では教育の質の低下につながる。学生の英語能力は向上しても、厚みと幅のある教養・基礎教育を提供できなくなるからだ。

 それに、海外から家族を連れてやってくる教員は大きな壁にぶつかる。配偶者が働く場所がないし、子供たちが通うインターナショナルスクールが近くにない。欧米では夫婦を一緒に雇う大学も多いが、日本ではそういう体制がまだできていない。

 つまり、大学を国際化するためには、産業界や地域が外国の教員や学生を温かく受け入れる環境が不可欠なのだ。幸い、世界一の観光都市である京都は、海外からの訪問客を受け入れる条件がそろっている。京都の伝統的な施設を国際交流の場として活用しつつ、学生のみならず地域の国際化、活性化を図る。これは観光振興にも利するはずだ。いわば、京都をまるごと大学キャンパスにする試みを推進しながら、海外とのアカデミックな交流を高めようと今、私は考えている。=毎週日曜日に掲載
    --「時代の風:大学の国際化=京都大学長・山極寿一」、『毎日新聞』2014年10月12日(日)付。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20141012ddm002070155000c.html:title]


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日記:ポストコロニアル批評の嚆矢サイードが普遍的価値にこだわること

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 真実を語るという目標は、わたしたちの社会のように管理された大衆社会では、おもに、よりよい状況を構築すること、そして既知の事実に適用されておかしくない一連の道徳的原則--平和、和解、苦悩の軽減--といえるようなものを構想することである。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、153頁。

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昨夜は、有志の研鑽会「コロンビア大学コア・カリキュラム学習会」の第8回目。
月に一度の学習会ですが、まあ8回も良く続いたなというのが実感で、できるだけ長く続けたいと思いを新たにした次第です。

8月からカリキュラムからいったんはずれたテクストを読んでいるのですが、10月度はサイードの古典的名著『知識人とは何か』(平凡社)を取り上げ、闊達なやりとりができました。

さて、サイードと言えばポストコロニアル批評の嚆矢ですが、彼が「平和」や「苦悩の逓減」、「基本的人権」や「公正さ」といった「普遍的価値」を素直に認めていることに、コーディネイターが「意外でしたが」と表現してましたが、これは意外でも何でもない。

たしかに「大文字」の「普遍的」にパルチザンを仕掛けるのがポストコロニアル批評になりますから、「意外」と表現したのでしょうが、実に、意外でも何でもない。

勿論、これは「有機的知識人」としてのサイードの「対峙」というスタイルに由来することもありますが、何ンでもかンでも「普遍的」と表象される事柄に対して「うがってやろう」とするポスト・モダン批評の「いやらしさ」への対峙も含まれている。

勿論、ポスト・モダンその批判する先験的真理の実在論の問題は承知しますが、その普遍的の位置に違いがあるといえばいいでしょうか。

基本的人権の尊重といった公共世界で「普遍的」とみなされる価値観とは、真理が先験的に実在するという「普遍的」とイコールではなく、人類がその歴史を通して、相互のとりきめとして「設定」したア・ポステオリ価値として定位している。では「ア・ポステオリ」だからとか「西洋」に由来するから、相対的なもので地域や時代によって「相対的」に扱ってもよい価値なのかと誰何すれば、それは早合点すぎるでしょう。

人類がその歴史のなかでそう設定したということは、言い換えれば、人間が安全に生きていくための最低限の「とりきめ」として「設定」した、いわば「セーフティネット」。ベクトルがいわば逆な訳で、そうした諸価値が「尊重」しなければならない「最高規範」というではなく、「最低限、これだけは守らないとお話にならない」というもの。その意味において、その内実を豊かにする検討はなされてしかるべきでしょうが、その内実を破壊する検討はしりぞけられてしかるべきということになります。

ポストモダンを気取って「フラットに考え直してみましょう」と提案を装い、基本的人権の尊重を始めとする公共世界の流儀の「普遍的」と表象することにいちゃもんをつけても詮無い訳です。

そういう何でもいちゃもんをつけていく態度が、国家による「基本的人権の尊重」の抑制への露払いになった感がありますから、たいへん残念残念な話であります。

「フラットに考え直してみましょう」おおいに結構ですけれども、何を「フラットに考え直してみましょう」かは検討されなおしてしかるべきでございますがな。


 
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 権力に対して真実を語ること。これは、パングロス的な理想論ではない〔パングロスはヴォルテールの『カンディード』の登場人撃つ。楽天家の代名詞〕。それはさまざまな選択肢を慎重に吟味し、正しい選択肢を選び、それを最善をさしうるところ、また正しい変化をもたらしうるところで知的に表象(レプリゼント)することなのである。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、156-157頁。

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覚え書:「ニュースの扉)吉田類さんと訪ねる軍国酒場 ママの戦後、終わってない」、『朝日新聞』2014年10月13日(月)付。


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ニュースの扉)吉田類さんと訪ねる軍国酒場 ママの戦後、終わってない
2014年10月13日


(写真キャプション)軍服や写真が所狭しと飾られた店内でくつろぐ吉田類さん=鹿児島市千日町

 これまでに600軒以上の大衆酒場を回った「吉田類の酒場放浪記」(BS—TBS)。案内人で詩人の吉田類さんは、酒飲みの間では超有名な「酒場の達人」だ。軍歌が響く、その名も「軍国酒場」を訪ね、戦争と平和について考えた。

 吉田さんは店に入る前からご機嫌だった。口開けに、JR鹿児島中央駅前の屋台村で生ビールを2杯飲んだからである。

 鹿児島市で一番の繁華街・天文館。裏通りのビルの4階にお目当ての店はあった。「楽しみですねえ」

 吉田さんはそうつぶやくと、登山で鍛えた脚力で階段をすたすたと上っていく。やがて真っ暗な中に入り口が見えてきた。

 「3名入隊っ!」。戸を開けると、カメラマンと私を含む一行を「大日本国防婦人会」のたすきをかけた横道陽子さん(82)が敬礼で迎えてくれた。

 軍歌を歌えるのが売り物で、かつては全国にあったという軍国酒場。今もその名を冠する店は何軒かあるが、おそらくここほど徹底した店はないだろう。

 むき出しの壁には戦争当時の写真が貼られ、軍服がかけられ、所々に三八式歩兵銃や機関銃が配されている。カウンターや小あがりには「北支方面」などと書かれたプレートが。

 くつろげるようでどこか殺伐とした雰囲気。ちょっとした異空間だ。「すごいね、これは」

 連日午後7時開店(日曜定休)。飲み物はビール、焼酎、ウーロン茶。ビールは「魚雷」、焼酎は「爆弾」と呼ばれる。

 しばらくすると、「食料配給」のかけ声とともに、隣のお客さんに乾パンや「手榴弾(しゅりゅうだん)(ゆで卵)」、「鉄砲の弾(落花生)」が出され始めた。ビールが出る時は鐘が鳴らされ、横道さんが「魚雷発射!」と叫ぶ。

     *

 半ばぼうぜんとしている私をよそに吉田さんが話を始める。「ママさん、お名前はなんて言うんですか? 陽子さん? 陽子さんにとって、戦後ってまだ終わってないんじゃないですか」

 「そうですね」と陽子さん。

 陽子さんは地元・鹿児島の出身。一時東京にいたこともあったが、故郷に帰ってきた。「たまたま私は空襲の被害は受けませんでした。でも、主人は米軍機を見たそうです」

 店を始めたのは55年前だ。最初は普通の飲み屋をやっていたが、事情があって場所を移すことになり、「次はどんな店をやりたいって聞かれて、じゃあ、『軍国酒場にしよう』って。最盛期は市内に5軒くらいあって、はやってたしね」

 だが、いま残るのは陽子さんの店だけだ。「みんなやめてしまいました。うちも子どもたちは継ぐつもりはないみたい」

 話をしている間も、店内には延々と軍歌が流れ続ける。「加藤隼(はやぶさ)戦闘隊」「ラバウル小唄」……。やがて「同期の桜」がかかると、吉田さんがグラス片手に、おもむろに歌い始めた。なかなかの美声である。

     *

 陽子さんによると、この店、最近は若いお客が増えているそうだ。「ネットを見て来るらしい。私が伝えたいのは、もう二度とあんな戦争をしてはいけないということ。平和が一番。ただ、国を、家族を守るという気持ちも忘れてはいけない」

 吉田さんが話しかける。「いい店ですねえ。こういう店はなくしちゃいけません」

 「よく言うんだけど、この世が酒飲みばかりなら戦争はなくなる。酔っぱらったら鉄砲撃ってもあたらないし。酒を媒体として人と人はつながることができるんです。だから、もっと酒飲みが増えて、みんなが友達になれるといいよね」

 (文・宮代栄一、写真・河合真人)

 ■吉田の目 戦争忘れぬための「異界」必要

 面白かったです。ぼくは平和主義者ですし、これまでに回った酒場は星の数ほどですが、こういう店は嫌いじゃない。実際、歴史的事実として、あの戦争はあったんだから。

 陽子さんに「戦後は終わってないんですね」って聞いた時、即答したでしょう。もうすぐ戦後70年ですが、戦後が生活の中に残ったままの人もいるのです。

 ぼくの世代になると、直接の戦争体験はありません。でも、広島の親戚に、来日したヒトラーユーゲントを写した写真を見せてもらったことはある。海軍の軍人さんの写真も見たけど、格好よかった。当時は彼らがスターだったことがよくわかりました。

 ぼくの句に「昭和の日 あの閃光(せんこう)の 真二(まっぷた)つ」というのがあります。「昭和の日」は俳句の季語にもなっているのですが、ぼくにとっては「昭和天皇の誕生日」である以上に「戦争」そして「終戦」をイメージさせる言葉なんです。原爆の投下によって戦争は終わった。でも同時に、昭和という時代は戦前と戦後に切り裂かれ、私たち日本人も真っ二つにされてしまった。それを詠みました。

 原爆の悲惨さを説くまでもなく、戦争はやってはいけません。忘れてもいけない。でも残念ながら昭和は遠くなりつつある。だからこそ当時に没入するための異界として陽子さんの店のような酒場は必要です。ということで、もう一軒いきましょうか。

     *

 よしだ・るい 酒場詩人。高知県生まれ。俳句愛好会「舟」主宰。野生の感性を磨くために、毎週のように山に登っている。

 ◆キーワード

 <戦争の痕跡> 第2次世界大戦をしのばせる「痕跡」は、戦後70年が経過しようとする今、次々と消滅しつつある。

 復員軍人らを主な顧客とした「軍国酒場」はかつては日本中にあったと言われるが、今では数えるほど。

 戦争の爪痕を直接伝える各地の「戦争遺跡」も、全国に3万カ所近くあるとされているが、沖縄陸軍病院南風原壕(はえばるごう)群(沖縄県)など、文化財指定がされた所を除くと保存が十分でない場所も多い。

 ◇「ニュースの扉」は毎週月曜日に掲載します。次回は「楊逸さんと見る香港デモ」の予定です。
    −−「ニュースの扉)吉田類さんと訪ねる軍国酒場 ママの戦後、終わってない」、『朝日新聞』2014年10月13日(月)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11400148.html:title]


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書評:三谷太一郎『人は時代といかに向き合うか』東京大学出版会、2014年。

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三谷太一郎『人は時代といかに向き合うか』東京大学出版会、読了。本書は、政治史の大家が「時代と向き合い歴史を学ぼうとするすべての人々に」贈る歴史論集。近代日本の軌跡を辿り、現代と対話する本論集は、考えるヒントの玉手箱といってよい。 

日本の近代とさまざまの戦後 知識人の同時代観 二つの日本近代批判 史料と時代 という4つの角度で「向き合う」方途辿る。史料に準拠しながら闊達に語りは、歴史主義への惑溺を慎重に退けつつ、「永遠なるもの」を射程に収め続けている。

「人」と「時代」とは本来別のものである。「人」は「時代」に解消されないし、「時代」はいかなる「人」とも同一化されない。「人」は歴史を書くことによって、あるいは歴史を読むことによって、すなわち「時代」を認識することによって、はじめて「時代」を超えるのである。(あとがき)

なかでも本書の白眉は、著者の人物論であろう。勝海舟、内村鑑三、吉野作造と南原繁、そして田中耕太郎と丸山眞男論。「開明的市民の現像」描く中江丑吉論では初めて知ることが多い。「人」は歴史を書くことによって時代を超える。

本書は1988年筑摩書房より刊行された『二つの戦後』に一二篇を加えて再編したもので、『学問は現実にいかに関わるか』の続編だ。読了して驚くのは、30年以上前に書かれた文章を収録しつつも「色あせていない」こと。今読むべき本。

→ あとがきより「著者は三・一一大震災を幕末以来の日本の『一国近代化路線の終わり』としてとらえている。それは日本の近代を導いてきた『文明開花』・『富国強兵』のスローガンがその方向指示の効力を最終的に失ったことを意味する」。

これまで社会的活動をアカデミズムの矜持から、あえて一切を切断していた石田雄先生は、大胆に切り込んでいくことへ舵をきった。三谷太一郎先生もスタイルは違えども、同時代に対する危機感は同じく。

昨年11月の南原研究会のシンポジウムで、南原の国際平和への希求を歴史的に三谷太一郎先生は腑分けされ、その現代的意義を語られたけれども、1年とたたない間に、まあ、こんなことになるとは思ってはいなかった。そしてこれはおれも同じく。そんだけ、時代が差し当たりのところ「悪い」方へ進んでる。

この三谷太一郎先生を貫く「理想への憧憬」を手放さない姿勢というのは、南原繁に由来するのだろうなあ。先生が岡山で中学生だった時、ニュース映画で南原繁総長(当時)の映像を見たのが最初の出会い。以来、直接の学生ではなかったけれども、先生は南原繁を「先生」無しで呼ぶことが出来なかったという。本書はそのひとつの具体的展開とも言えよう。

 

[http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-003338-1.html:title]


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覚え書:「内外メディア、反応に温度差 閣僚が在特会元幹部と写真」『朝日新聞』2014年10月08日(水)付。


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内外メディア、反応に温度差 閣僚が在特会元幹部と写真
2014年10月8日

日本外国特派員協会で開かれた山谷氏の会見 (C)FCCJ
 安倍内閣の新閣僚や自民党幹部が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などの関係者と写真に写っていたことが相次いで発覚した。海外メディアは「安倍首相の頭痛の種」などと指摘。だが国内メディアの反応は概してにぶかった。この「温度差」はなぜ生じたのか。

 「在特会のような組織は容認できないと、この場で表明してはどうか」

 9月25日に日本外国特派員協会で開かれた山谷えり子国家公安委員長の記者会見。本来のテーマは拉致問題だったが、約30分の質疑の大半は、山谷氏が在特会元幹部と写真撮影をしていた問題に集中した。

 「在特会やその理念を否定するべきでは」といった質問が何度も出たが、山谷氏は「いろいろな組織についてコメントをするのは適切ではない」「ヘイトスピーチはまことによくない」などと述べただけだった。

 会見で追及した米オンライン誌デイリー・ビースト東京特派員のジェイク・アデルステイン氏は「在特会を一度も正面から否定しなかったことに驚いた。米国なら『大臣と問題団体の関係について疑惑が深まった』と大きく報じられる」と話す。

 写真について山谷氏は「たくさんの人とお会いする。在特会の関係者ということは存じ上げていない」と会見で弁明した。政治家は写真撮影を求められれば応じる。相手の素性は確認できない――との理屈は、かぎ十字に似たシンボルを掲げて行動する団体の関係者と写真撮影していた高市早苗総務相や稲田朋美・自民党政調会長らの弁明と共通する。

 国内メディアの多くは一連の弁明を淡々と報じた。海外メディアが大きく扱ったことを紹介したメディアもあった。

 英インディペンデント紙などに執筆するデイビッド・マクニール氏も「写真だけでは、在特会との関係を証拠づける根拠が弱い」と考えていた。だが、山谷氏が在特会の理念を否定しなかった上、「在日特権とは何か」との質問に対し、「法律やルールに基づいて特別な権利があるというのはそれはそれで、私が答えるべきではない」と答えたのを見て、記事の出稿を決めた。「在日特権の存在を否定せず、特権があると示唆したようにさえ見えた」からだ。

 インディペンデント紙は会見内容も含めて問題を詳報。英エコノミスト誌は山谷氏と在特会との関係に触れ、「ヘイトの一部は政権トップからインスピレーションを得ているように見える」と紹介した。だが、国内の大手メディアはほとんど報じなかった。

 こうした温度差はなぜ生じているのか。マクニール氏は「一部メディアが安倍政権のサポーターのようになる中、日本のメディア全体が権力批判に過剰に慎重なように見える」という。ドイツ人フリージャーナリストのジークフリード・クニッテル氏は「欧州では、マイノリティーを攻撃するグループの関係者と政治家が同席することは考えられない。日本メディアの多くが問題の深刻さを理解していない。今は言葉の差別だけかもしれないが、いつ暴力に発展するかわからない」と懸念する。

 北海道大学の吉田徹准教授(欧州比較政治)は、欧米メディアの反応の背景に「第1次世界大戦後、もっとも先進的な政治体制を持っていたワイマール共和国がナチスを生み、国家として特定民族を迫害したことへの反省がある」と指摘。「日本は民主体制の転覆を経験したことがなく、平等や人権に対する感受性が弱い」という。

 差別問題に詳しいジャーナリストの安田浩一さんは「日本のメディアは、差別を一部の人の限定的な物語としてしかとらえてこなかった」と分析。「でも人種差別は被差別者だけの問題ではない。社会が壊れていることが問題なのだ、という認識を持つ必要がある」(守真弓)
    --「「内外メディア、反応に温度差 閣僚が在特会元幹部と写真」『朝日新聞』2014年10月08日(水)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11391096.html:title]


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日記:世界遺産がジェノサイドを肯定する21世紀


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「奈良県の世界遺産である吉水神社の宮司が神社のブログ上で、アメリカのテレビ番組で放送された「中国人を皆殺しにしよう」との発言を支持する主張をしていたことがわかった。番組はアメリカ国内で問題視されていた。世界遺産がジェノサイドを肯定するのは極めて異例で前例がないことだ」

→ [http://matome.naver.jp/odai/2141310096361379401:title]





この佐藤宮司、大阪府警時代に阪神・淡路大震災を経験し、「祈でもって世界の平和を願いたいと思い宮司になることを決心いたしました」と吉水神社のwebサイトのトップページで、宮司になって理由を書いてある。

→ [http://www.yoshimizu-shrine.com/:title]


しかし、外国人を排斥することが「世界の平和」への具体的な「願い」となるのかなあ? この感覚がよく分からない。

戦前回帰を精神的に志向する神社本庁系神社の全てが「排外主義的愛国主義」とイコールで結ばれる訳ではないけど、結局のところ、「日本民族」とやらにのみ「配当」される宗教の限界という話か。

あほくさ。


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覚え書:「インタビュー 素顔の安倍政権 政治学者・豊永郁子さん」、『朝日新聞』2014年10月08日(水)付。

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インタビュー 素顔の安倍政権 政治学者・豊永郁子さん
2014年10月8日

 「この道しかない」「やればできる」「皆さん、共に進もうではありませんか」。いずれも安倍晋三首相の決め言葉だが、三つ並ぶと不穏な感じもする。安倍政権が私たちに歩ませようとする「この道」とはどんな道か。総花的政策という「お化粧」の奥に透ける一貫した方向性、素顔を政治学者の豊永郁子さんに解き明かしてもらった。

 

 ――安倍政権の1年半あまりをどう見ますか。

 「少なくとも表面的には、『案外穏健で手堅い』という印象です」

 ――特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認、残業代ゼロという働き方の導入など、過激で危なっかしい政策ばかり目につきますが。

 「確かに人を驚かせる思い切った政策を打ち上げます。けれども、特定秘密法では国会にチェック機関を設けるなどして、一応のかたちを整えた。集団的自衛権でも行使条件をかなり限定した。残業代ゼロも、当面は年収1千万円以上の専門職が対象と強調する。あれこれ言われ、もまれる間に『結構おとなしい線に収まっている』との見方もできます」

 ――それは甘い見方では?

 「指摘したいのは、安倍政権の老獪(ろうかい)さです。派手な政策を次々と打ち上げるのは、指導力と実行力を印象づけ、政権への支持を保つため。政策はあくまで政権維持のための道具、という姿勢です。だから実は融通がきく。でも、思ったより穏健だからといって、安心はできません」

 ――どういうことでしょうか。

 「政策を打ち上げたこと自体の効果があなどれない、ということです。例えば、残業代ゼロ政策。当面の適用対象を限定しても、時間制限のない働き方を制度化すること自体のインパクトは大きい。ブラック企業の問題などが深刻化する中、政府は無給の長時間労働を認めている、というメッセージを出すに等しい」

 ――政策がもたらす社会的影響に鈍感、ということですか。

 「鈍感というより、政策への態度が安易なのでしょう。熱い要望のある政策や格好よく見える政策を取り上げる。だから、労働環境を悪化させるような政策を打ち出す一方で、出産・子育てと仕事の両立をうたうという矛盾も平気でやる。本当に両立を目指しているのなら、長時間労働の制限に力を注ぐでしょう。政権の本音は『職場でも家庭でも、もっと働け』ということなのでしょうか。現実を無視しているし、人権への配慮も感じられません」

 「『解雇特区』の構想にも驚きました。企業に対して解雇を規制する法律は、弱い立場にある個人を保護する重要な法です。解雇特区ができれば、その地域の人々は法の保護が受けられない。法の下の平等・法の支配に明らかに反します」

 ――安易に政策を打ち上げたことが矛盾を生じさせている、と。

 「だけど『政権を浮揚させ、首相の地位を盤石にする』という政治的な目的にはピタリ焦点が合っています。アベノミクスも、消費増税による増収の機会をうまく利用して一瞬、『大きな政府』の幻を見せている。短期的な景気てこ入れが名目だから、恣意(しい)的なバラマキができる」

 「成長戦略でも、官民ファンドなどを設立し、政府主導で民間への投資を進める政策が目白押しです。民間は政府の方針に翻弄(ほんろう)され、政府に近い業界や事業者が幅をきかせるでしょう。官民協働という手法も、政府との『お付き合い』を民間に強いるものです。民間が政権の顔色をうかがう傾向が強まるでしょう」

    ■    ■

 ――かつての「護送船団方式」を思い出させますね。

 「今や、様々な業界が安倍政権との関係づくりを競っている。経団連の政治献金呼びかけ再開は、象徴的です。環太平洋経済連携協定(TPP)を巡る『聖域なき』交渉も、農業団体を政権への接近に走らせた。かつて自民党の支持層だった業界・利益団体は、小泉政権下で『抵抗勢力』として切り捨てられ、一部は民主党に流れた。それらを安倍政権は政策の『アメとムチ』で再編成し、政権基盤を固めようとしています」

 「安倍政権は、まるで発展途上国で見られる『開発独裁』を夢見ているかのよう。経済発展のため、という名目で行政が主導権を握り、事業者に号令をかけ国民を働き詰めに働かせる。内政だけでなく、外交にも非民主主義的なトーンがあります」

 ――どういうことですか。

 「安倍首相はすでに49カ国を訪問していますが、欧州の民主主義国との関係が比較的薄い一方で、非民主的な国家との関係づくりに熱心です。市民への弾圧や独裁化が問題になっている海外の首脳との親密さをアピールする映像には、何度かぎょっとさせられました。今の世界で、経済外交に精を出す姿も異様です」

 「中国への牽制(けんせい)などの戦略的意図もちらつかせますが、『安倍政権は、非民主主義体制と親和性が高いのでは』という疑念が消えません。それを裏打ちしているのが、靖国神社や歴史認識の問題などで、首相が戦前・戦中の反自由主義・反民主主義の体制を肯定しているかのように見えることです」

    ■    ■

 ――安倍政権は米国との同盟関係も重視しています。「反民主主義」とは言い過ぎでは。

 「東西冷戦の時代には、共産主義でなければ、自由主義陣営の一員を名乗れた。でも今は、各国が『リベラル・デモクラシーの国なのか』が問われています。その前提となるのが、『法の支配』の徹底と『人権』の尊重です」

 「ここでいう『法』も『人権』も、その内容は一国、一議会、一内閣が好きに決められるものではありません。けれども、安倍政権は集団的自衛権の問題では、閣議決定が憲法の解釈を決められるかのように振る舞い、『法の支配』をないがしろにした。慰安婦問題でも『人権問題』という視点が不十分です。さらに雇用政策では、法も人権もあってなきが如(ごと)しです。安倍政権は果たしてリベラル・デモクラシーを理解しているのか。国内外の人々が安倍政権に感じている不安の大元には、この疑念があるように思います」

 ――日本が自由民主主義の国であることは、揺るがないのでは?

 「私だってそう信じたい。だけど、特定秘密保護法はどうか。いろいろ制度を付け足してうわべは整えても、条文がもつ効果はそのままです。特定秘密が『政府で働く人々を民主的統制も法も及ばないところにおく』怖さは変わっていない。そしてそのような秘密を決める権限が、各行政機関に大盤振る舞いされている。米国の同種の法律と比べても政府に甘い。安倍政権は信じろと言うが、信じるに足るだけのことをしていない」

 「安倍首相は『秘密が際限なく広がり、生活が脅かされることはあり得ない』と簡単に言います。でも、いつどこで『政府が秘密にしていること』にぶつかり、どんな不利益を受けるか分からない。私たちの行動はおのずと制約されてしまう」

 「暴力的なスローガンのデモをくり返す極右的な運動から支持を得ているかに見えることも、安倍政権への不信感を生んでいます。特定秘密法は、政権のおどしとさえ感じられた。そして、そうした社会で、急速に広がりかねないのが、『官僚制化』と呼ばれる現象です」

 ――誰もが官僚のようにしゃくし定規に振る舞うということですか。

 「その通りです。特定秘密法の問題に限らず、『何かすると、後で思わぬ形で責められる』という空気が広がっている。そんな状況では、人は決められたこと、言われたことしかしなくなる。誰かの指示や自らが属する集団の流れに従うのが安全だ、となる」

 「残業代ゼロの勤務を拒むと、リストラされるかもしれない。だから黙って受け入れる。事業者も政府の顔色をうかがい、号令されるだけになる。社会に自由はなく活力など生まれようがない。今の社会に息苦しさや閉塞(へいそく)感があるとすれば、原因はそんなところにあるのではないか。安倍政権はそうした傾向に乗じ、拍車をかけているように思えます」

    ■    ■

 ――私たちはそれに対して、どう向きあえばよいのでしょうか。

 「三権分立の基本に戻るようですが、司法と議会に鍵はあります。理不尽な法令や行政府の行為について、どんどん裁判が起きる、政党だけでなく個々の議員への働きかけもどんどん起こる。さらにメディアの役割も重要です。メディアが独立を保ち、問題点を伝え続ける。自由民主主義の国であれば、こうした方法で政権を抑制できるはずです」

 「政権が安易な政策を連発することへの対策としては、英国で行われてきた『ホワイトペーパー方式』が有効かもしれません。政策立案にあたって、現在は専門家や利害関係者からなる審議会が議論するのが建前ですが、この審議会の形骸化が甚だしい。代わりに、政府が政策提言を『ホワイトペーパー』という文書の形で公開し、それを野党や専門家などの団体が文書で批判する。公開された文書でのやりとりだから、論争もきちんとしたものになる。議論が蓄積し、次の政策、次の政権に生かされる。現実離れした軽はずみな政策は出しにくくなるでしょう」

 (聞き手・太田啓之)

     *

 とよながいくこ 66年生まれ。早稲田大国際学術院教授。著書「サッチャリズムの世紀」でサントリー学芸賞受賞。他の著書に「新保守主義の作用」。
    --「インタビュー 素顔の安倍政権 政治学者・豊永郁子さん」、『朝日新聞』2014年10月08日(水)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11391078.html:title]


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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 中央こそ『発想の転換』を 『ないものねだり』抜け出そうとする自治体=湯浅誠」、『毎日新聞』2014年10月08日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論
中央こそ「発想の転換」を
「ないものねだり」抜け出そうとする自治体
湯浅誠 社会活動家

 臨時国会が始まった。安倍晋三首相は「地方創生国会」と命名した。所信表明演説を読み、私が注目したのは次の一節だった。
 「大きな都市をまねるのではなく、その個性を最大限に生かしていく。発想の転換が必要です。それぞれの町が、『本物はここにしかない』という気概を持てば、景色は一変するに違いありません」。引き合いに出されていたのは、島根県海士町の「ないものはない」というロゴマークだった。
 言葉の内容に異存はないが、物足りないものを感じもした。
 現在、さまざまな分野で先駆的として注目される地方自治体は、「中央」からより遠い地域の小規模自治体であることが少なくない。海士町しかり、木質バイオマスを活用して地域再生をする北海道下川町しかり、福祉分野で顕著な実績を上げている北海道当別町しかりである。
 この際、「中央」とは永田町・霞が関や大都市にある大企業本社を指す。地域の独自の取り組みは、公共事業や企業誘致にもう期待できないという厳しい地域が、「あとがない」という危機感の中でもがき、苦しみながら生みだした。「中央」から言わば切り捨てられたことが、今日をもたらした面がある。
 地方はすでに「発想の転換」を行いつつある。その象徴が「ないものねだりより、あるものさがし」という地方活性化のスローガンだ。「ないもの」とは、高速道路であり新幹線でありハコモノであり大規模工場である。ねだる地方の相方は、それを誘因してきた「中央」だった。前述のスローガンや海士町のロゴは、その“共犯関係”を精神的に断ち切る、という宣言にほかならない。
 問題が共犯関係なのであれば、発想の転換は一方だけでは完了しない。「中央」である国会にも発想の転換が求められる。所信は国会に対して表明されるものだから、それへの言及が欲しかった。試行錯誤の末に活性化を果たしつつある地方が顕揚されるのは、喜ばしいことだ。しかしそれがどこかよそごとのように言及されていると受け止められれば、首相が求める気概を引き出すことはできないだろう。自らの気概を示すことなく、相手の気概を引き出すことはできない。
 所信では地方でがんばるカギカッコ付き「若者」たちへの期待感も表明されていたが、地方に飛び込む若者たちが断ち切ろうとしているのも、この共犯関係に他ならない。ここでも問題点は同じ。カギカッコ付き「おじさん」たちが発想の転換をがんばる必要がある。臨時国会の論戦では、その点が明らかになることを期待したい。
地方創生 2060年代に人口1億人を維持することを目指し、人口減対策と東京一極集中の是正を推進する構想。民間の研究機関が深刻な人口減で消滅可能性のある自治体を公表したのが検討のきっかけ。第2次安倍改造内閣で担当相を置き、内閣の最重要課題と位置付ける。
    --「くらしの明日 私の社会保障論 中央こそ『発想の転換』を 『ないものねだり』抜け出そうとする自治体=湯浅誠」、『毎日新聞』2014年10月08日(水)付。

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日記:Der bestirnte Himmel uber mir, und das moralische Gesetz in mir.


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10月08日水曜日の皆既月食。

手持ち撮影のコンデジでも割とうまく撮れました(ISO高いので粒子あらめ・涙

さて……と、

こういう天体の妙演や大自然の雄大さを間近にすると、

Der bestirnte Himmel uber mir, und das moralische Gesetz in mir.

……というカントの言葉を想起します。

自然の道理と人間世界の道理の美しさ。

大自然の妙なるものに手を合わせようとは思いませんが、法則の正しさとその永遠性に憧憬すると共に、人間の内奥にも同じようなものが存在する。

美しいじゃあありませんか。

ひるがえって現下の日本社会を見るにつけ、自然の道理にも、人間世界の道理の美しさにも無頓着な人間、しかもどちらかといえば、社会をマネジメントする立場の人間にそういう手合いが多いようです。

環境だけでなく人体をも破壊する危険性だけでなく、コストも割に合わない原発を推進しようだとか、差別を差別として認識できず人間世界を血で洗うような分断しようとする者というのは、「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律」のどちらも関係ないんだろうなあ、と。


「道理よりも俺様乙」という具合なんですかねええええええ(ぎゃー

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覚え書:「耕論:スルーする力って? 『もっと自由になる』方策」、『朝日新聞』2014年10月07日(火)付。


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スルーする力って? 「もっと自由になる」方策
聞き手・尾沢智史 聞き手・藤生京子 聞き手・萩一晶
2014年10月7日

 マキタスポーツ 70年生まれ。音楽だけでなく、映画・ドラマやお笑いなど多方面で活躍。著書に「一億総ツッコミ時代」(槙田雄司名義)、「すべてのJ-POPはパクリである」。

 千葉雅也 78年生まれ。専門は哲学・表象文化論。著書に「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」「別のしかたで ツイッター哲学」。ファッション批評も手がける。

 片田珠美 61年生まれ。京都大学非常勤講師。専門は精神医学・精神分析。著書に「他人を攻撃せずにはいられない人」。17日に「プライドが高くて迷惑な人」を出版予定。
 最近、なんだか世の中が息苦しい。何か言えば揚げ足をとられ、たたかれ、ネットで炎上する。重箱の隅をつつくような言葉はスルーして、もっと自由になれないだろうか。ミュージシャン・俳優のマキタスポーツさん、哲学者の千葉雅也さん、精神科医の片田珠美さんに聞いた。

■愛なきツッコミ見極める

〈マキタスポーツさん(ミュージシャン・俳優)〉

 今は、「一億総ツッコミ時代」だと考えています。ちょっと人と違うことを言うと、ネットやSNSで叩(たた)かれる。面と向かっては言えないような激しい言葉もぶつけられる。あらゆる人が上から目線で、お笑いでいう「ツッコミ」を入れる社会になってしまった。

 まったく知らない相手や問題にもツッコミを入れてしまう。「イスラム国」なんか、普通の日本人はほとんど知らないけれど、つまらない正論を展開する人が一定数いるんです。ドヤ顔で語って、自分がいい気分になるだけ。「しょんべん正論」と呼んでいるんですが、かけておしまいみたいな感じですね。

 ツッコミの人はすぐ「おまえの立場はどっちなんだ」「白か黒かはっきりさせろ」という。世の中はほとんどはグレーで、白か黒かなんて決められない。でも、冷静に思考するのはめんどくさい。白か黒かの正論に逃げたほうが楽なんでしょう。

 僕が「ニコニコ生放送」とかに出ていると、ユーザーがいろいろなツッコミを入れてくる。全部相手にはできないから、スルーとボケをうまく使い分けるんです。本当にむかつくコメントや単なる罵詈雑言(ばりぞうごん)は、相手をしてもしかたがないので、スルーする。ただ、スルーばかりだとかえって拍車がかかる。

 僕がからむことで面白くなりそうだと思えるコメントがあれば、ボケで対応する。わざとやられてみたりすると、喜ぶんですね。それを繰り返していくと、いわば魂が浄化されて、悪いコメントがなくなっていく。

 ボケやスルーを身につけるには、まず「自分は大したものじゃない」と自覚することです。正論を言う人というのは、自分こそ正義だと思っているから、叩かれると逆ギレする。正論に正論で返そうとするんです。でも、自分の正しさなんて危ういとわかっていれば、ボケたりスルーしたりできる。他人を許せるようになるんですね。

 本来のツッコミというのは、ボケを許すものなんです。相手に対する愛や思いやりがないとツッコミとボケは成立しない。ただ、いまあふれているツッコミには愛がない。愛のあるツッコミならボケで返せますが、他罰的なヘイトのツッコミはスルーするしかない。

 いまは、知らなくてはいけない情報が多すぎるんじゃないですか。あらゆることをツッコミの対象にしようとするから、何でも知ってるふりをしなくてはいけない。でも、別にすべてを知らなくてもいいんじゃないか。あえて情報をスルーして、視野を狭める。知らないことを無理に語ったりせず、自分が責任を持てる、分相応のコミュニケーションをしていく。一億総ツッコミ時代を生きていくためには、必要のない情報をスルーしていく力も必要だと思います。(聞き手・尾沢智史)

■つながり過ぎない連帯を

〈千葉雅也さん(哲学者・立命館大准教授)〉

 ITで加速する情報社会は、誰かとつながるためのサービスにあふれています。僕もツイッターをやっていますが、ついアンテナを伸ばしすぎ、ささいなコミュニケーションまで情報収集に追われる。今、そうした「接続過剰からの切断」が必要だと身をもって感じています。

 「接続」も「切断」も、フランスの哲学者ドゥルーズが使った言葉です。それらを援用して問いを立てている僕の関心の核は、この社会や政治と、一体どんな距離で、どんなしかたで関わればいいのかにあります。

 資本主義は、過剰に向かって際限なく駆動するシステムです。でも資源・環境問題をみれば、有限であることは明らか。どこかで、成長神話にストップをかけなければならない。

 その点で、資本主義の論理と関わる原発の存立の見直しを求めたデモなど、政治的抗議の声を上げる最近の動きに、共感を覚えます。ただ、闘い方には疑問もある。社会には多くの難問があってそれらは関連していますが、一挙に批判を並べ立ててしまうと、「批判ばかりする人たち」という悪印象を与えることになりかねないでしょう。

 僕としては、あくまで個人に立脚して社会に問いを投げかけたいと思っています。一人が行動できる範囲は限られているのだから、動き過ぎてはいけない。他の人との連携も大切でしょう。でも、そこでつながり過ぎてもいけない。権力批判するあなたを認めるけど100%合流はしないよ、僕はたまにしか声を上げないから――そんなふうに互いの違いを認め、部分的にスルーできるくらいの関係の多元性が必要だと思います。

 一方で気になっているのは、一人ひとり無限の可能性があるかのような教育で夢をふりまきながら、実は苛烈(かれつ)な競争が強まる日本社会の生きづらさです。ちょうど大学で、様々な障害をもった人たちと接しています。工夫してやりとりをしても、互いの気にする点がずれていることもある。でも、互いにそれぞれのこだわりがあるわけです。

 そういう個性だからねと、ポジティブに認めようと思えば、むしろやりとりの細部にまで反応していなくていい場合もある。協調するがゆえに、ささいなことはそっとしておくという無関心の工夫もある。これもまた、つながり過ぎない連帯のあり方と思うんですね。

 つながり過ぎを切断しようという問題提起は、ある意味、せつない。バブル崩壊後に大学入学した僕ら30代から下にとっては、特に腑(ふ)に落ちる気がします。「人生は、あきらめからあきらめの旅」。最近、僕はそう書いたのですが、ネガティブな意味だけでは必ずしもないんですね。別のやりかたで多様な解答がある。それを見つけるのが幸せという直感があるのです。(聞き手・藤生京子)

■攻撃かわす逃げ場作れる

〈片田珠美さん(精神科医)〉

 言葉の攻撃に疲れ果て、心身に不調をきたす患者さんが増えています。診察していて感じるのは、ここまで激しく他人を攻撃し、破壊しようとする人が世の中にはこんなにいるのかということです。患者さんの側の弱さでは片付けられない。社会の異様な風潮を感じますね。

 攻撃的な人には五つのタイプがあります。たとえば、会社の会議で同僚の提案に徹底的に難癖をつけ、あらゆる屁(へ)理屈を持ち出して否定し、人間の尊厳までも傷つけるような人。これは「自己愛型」です。己に対する過大評価があり、とにかく自分のほうが上だ、優秀なんだと感じていたい。それを周囲にも見せつけたい。「利得型」の要素もあるかもしれません。同僚を蹴落とせば、その地位を奪い取れるという計算がある。

 ネットの世界で多いのは「羨望(せんぼう)型」です。成功して幸福そうな人が我慢ならない。だから芸能人や政治家に不祥事が発覚した途端、池に落ちた犬はたたけとばかりに徹底的にたたく。

 お店で店員を怒鳴るのは「置き換え型」です。本当は上司や妻に叱られて反論したいんだけれど、できないために八つ当たりする。「否認型」は自分にも非があるのがわかっていて、それを否定してみせるために他人を強く責めたてる。

 攻撃的な人の背景は様々ですが、一つには核家族化があります。親が満たされなかった自己愛を子どもに投影し、自己実現しようとする家庭です。大家族の時代は、祖父母もいて様々な価値観で修正されたのが、核家族では親の欲望を全部取り込んで期待を背負う。過剰な自己愛を持つ人が育っていく。

 先行きの暗い経済状況も一因です。将来に希望が持てず、貧困の足音もひたひたと聞こえる。不安や閉塞(へいそく)感が広がり、勝ち組への妬(ねた)みはものすごい。そこに、匿名で攻撃できるネットという手段が出現した。

 学歴社会信仰もあります。「いい大学に入れば、いい会社に行けて幸せになれる」という社会的上昇の夢は、いまや幻想に過ぎません。階層は固定化し、上昇は難しくなった。それなのに昔の夢がまだ残っているから不満がたまるのです。

 本質的には子どものいじめと同じですが、逃げ場のない子どもと違って大人は逃げ場を作ることができる。相手にせず、スルーすればいいのです。

 いけないのは攻撃を真に受けてしまうこと。相手は巧妙ですから、「お前のためなんだ」といって罪悪感まで抱かせる。自殺に追い込まれかねません。

 まずはよく観察する。自己愛か、羨望か、利得か。相手を見極めたうえで、できる限り接触を避ける。それでも攻撃が続くようなら反撃する。できればユーモアの力も借りて、黙らせるのです。(聞き手・萩一晶) 
    --「耕論:スルーする力って? 『もっと自由になる』方策」、『朝日新聞』2014年10月07日(火)付。

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[http://www.asahi.com/articles/ASG9Q5QP9G9QUPQJ00B.html:title]


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書評:仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』新潮選書、2014年。


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仲正昌樹さんの『精神論ぬきの保守主義』新潮選書をちょうど読み終えた。保守とは字義の通り「古くからあるもの」を“守る”思想的系譜のことだが単純にあの頃は良かったと同義ではない。本書は近代西洋思想におけるの伝統を振り返りながら、現下の誤解的認識を一新する好著。まさに「精神論ぬき」です。

仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』新潮選書は6人の思想家を取り上げる。ヒューム(慣習から生まれる正義)、バーク(相続と偏見による安定)、トクヴィル(民主主義の抑制装置)、バジョット(無駄な制度の効用)、シュミット(「法」と「独裁」)、ハイエク(自生的秩序の思想)。

6人の思想家の保守を横断すると、保守主義とは「取り戻す」ものではない。現在の社会を安定させている制度や慣習に注目し、できるだけ抽象的思考態度のラディカルさを退けていこうという透徹した現実主義。極右も極左も観念的ユートピア主義に他ならない

ヒュームにはじまる保守主義とは、私たちが安定して暮らして「いる」制度を、「いける」制度へと、外側からではなく歴史的な経験を通じての内側からの改革を不断に追求するものだ。徹底して精神論を排した漸進的改革論といってもよい。

「美しい国土」や「大和魂」といった言葉も自称保守が忌み嫌う外側からの変革の抽象性と同じである。今の地平に足をつけて未来を展望するのが保守主義の「現実さ」とすれば、日本社会において、保守すべき伝統や制度や思想はあるのだろうか。今読むべき本。 


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 これまで見てきたように、ヒューム以来の制度的保守主義は、社会を安定させている制度に注目し、それを出来るだけ守っていこうとする。すでに失われてしまった過去の文化や伝統を--自分たちの趣味に合わせて--美化した形で復興さえようとはしたりはしない。そのような観念的でユートピア(どこにもない場所)的な過去のイメージを、現実の政治に持ち込めば、人々に非現実的な理想を追求させ、社会の不安さを増すだけである。シュミットは、そういう態度を「政治的ロマン主義 politische Romantik」と呼んで徹底的に批判した--シュミットの「政治的ロマン主義」批判については、前掲拙著『カール・シュミット入門講義』を参照されたい。
 現実に存在する制度の安定化作用にさほど関心を持たず、資本主義的価値観にも社会主義的価値観にも汚染されていない“純粋な日本らしさ”を求めることが多い日本の保守派は、「政治的ロマン主義」にはまりやすい。憲法や法律に、「国を愛する心」を培うことをスローガン的に掲げることによって、“日本らしさ”を回復できると考えているとすれば、それは、保守というよりはむしろ、自分たちの青写真を元に社会を改造しようとする設計主義の発想だろう。
    --仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』新潮選書、2014年、234-235頁。

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[http://www.shinchosha.co.jp/book/603748/:title]


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覚え書:「Listening:<朝日新聞>慰安婦・吉田調書問題 新聞への信頼回復、外国人記者に聞く」、『朝日新聞』2014年10月06日(月)付。  

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Listening:<朝日新聞>慰安婦・吉田調書問題 新聞への信頼回復、外国人記者に聞く
2014年10月06日

 従軍慰安婦や東京電力福島第1原発の報道をめぐって朝日新聞が謝罪した後も、報道機関の在り方を問う議論がやまない。こうした嵐のような状況は、外国人記者の目にはどう映っているのだろうか。日本の新聞が読者の信頼を得ていくにはどうしたらよいのだろうか。日本を拠点に取材しているベテラン記者2人に聞いた。【聞き手・青島顕(写真も)、中西啓介】


 ◇歴史の修正に悪用も--独フランクフルター・アルゲマイネ東アジア特派員、カーステン・ゲアミスさん(55)

 私は任天堂社長のインタビュー記事の件で朝日新聞に警戒感を持った。従軍慰安婦や福島第1原発の問題に比べて大きく報道されなかったが、社長に会っていないのに記事にしたことは本質的問題で、あってはならないことだ。びっくりした。

 朝日が8月に慰安婦問題の記事を取り消し、検証記事を出したときは、なぜ今なのかが疑問だった。私は以前に韓国人の元慰安婦4人に会い、オランダの議会にメールを送るなどして慰安婦問題を調べたことがある。だから、(朝日新聞が証言を取り上げた)吉田清治氏(故人)が目撃者のふりをして、うそをついていたとしても慰安婦がなかったことを意味しないことを知っている。そもそも私は吉田証言自体を検証記事が出るまで知らなかった。私の調査に吉田証言は必要なかったからだ。

 福島第1原発の所長に対して政府の事故調査・検証委員会が聞き取った「吉田調書」についての報道でも朝日は記事を取り消したが、私は朝日の初報を引用した記事を書いていなかった。ドイツの新聞の読者が関心を払うようなものではなかったからだ。

 大切なのは、政府が原発で起きていることを説明することであり、原子力規制委員会が本当に独立して安全性や再稼働の是非を評価できる体制になっているかどうか、ということだ。

 メディアが他のメディアの問題を報じることは構わない。ドイツでも大手のシュピーゲル誌の内紛を他のメディアが記事にした。ただし、メディア同士の批判は慎重であるべきだ。日本のメディアが朝日問題をあまりに大きく取り上げたことには奇妙な感じがした。この問題が歴史修正主義に都合良く利用されるのは問題だ。日本に対する国際的な不信を高める要因になると感じる。

 ニュースのバランス感覚が崩れているような気がする。一昨年、17万人(主催者発表)が参加した反原発の抗議行動は、私の新聞でさえ大きく写真付きで取り上げたのに、日本の新聞の中にはほとんど無視したところもあった。

 私の理解では、ジャーナリズムの役割は政治、経済、議会などと読者の関心との間にある隙間(すきま)を埋めるため、正確に報道する独立した機関であること。そして権力を監視することだ。ジャーナリストは、常に読者のことを考えるべきだ。(談)

       ◇

 フランクフルター・アルゲマイネはドイツを代表する経済紙。ゲアミスさんは1959年生まれ。2010年から現職。経済の記事を中心に執筆し、「アベノミクス」には厳しい見方をしている。スイスの新聞にも寄稿している。

 ◇情報公開求め続けて--米ニューヨーク・タイムズ東京支局長、マーティン・ファクラーさん(47)


 朝日新聞が5月20日に書いた福島第1原発の「吉田調書」の記事を読んで、私はすぐに「朝日新聞によると」という形で記事を引用して報じた。しかし私は「原発所員が(吉田昌郎(まさお)元所長の)命令に違反して撤退した」という朝日が強調した部分よりも、約400ページの調書が開示されずにきたことの方を中心に書いた。

 吉田調書に関して問われるべきなのは、政府がこのような重要な資料の公開に消極的な姿勢であることだ。それなのに朝日はなぜ「パニック」の方に焦点を当ててしまったのだろうか。それがなくてもスクープとして十分なインパクトがあったのにと思う。

 新聞が失った信頼を取り戻すのは大変だ。ニューヨーク・タイムズも2003年に若い記者が取材していないことを記事にしたことがある。イラク戦争をめぐっては、政権が主張する「大量破壊兵器」の存在を信じてしまった。

 その二つの問題で傷ついた信頼を、いまだに回復できずにいる。信頼を取り戻すには、当局に寄りかかることなく読者のための記事を書いていくしかないのだろう。

 一方で政府事故調査・検証委員会は吉田調書の他に771人分の調書を作っている。日本のメディアは771人の調書の公開を求め、原発事故時に何が起こったのかを国民に伝えるべきだ。朝日新聞を批判しているうちに、根本的な問題から国民の目をそらしてしまってはならない。

 従軍慰安婦についても、朝日新聞の記事取り消しによって報道が自粛気味になっているのが残念だ。批判を恐れず、根拠のある事実を取材して正しい知識を冷静に届けてほしい。慰安婦の存在自体がなかったかのような議論もあるが、それはかえって日本の「国益」にならないのではないか。

 メディア同士が、記事の内容をめぐって厳しい批判をするのはよいことだ。しかし「非国民」などの極端な表現を使って感情をあおるような批判をするのはやりすぎだ。そうした風潮には全体主義的な怖さを感じる。ジャーナリストは自由な言論を萎縮させるものに抵抗すべきなのに、どうしたことかと思う。

 日本は、アジアで一番の勢いを誇っていたころの自信を失い、中国や韓国の台頭に余裕をなくしているように感じる。そうした雰囲気が、標的を作って感情のはけ口を求める行動につながっているのかもしれない。(談)

       ◇

 ニューヨーク・タイムズは米ニューヨーク市を拠点とする有力紙。ファクラーさんは1966年生まれ。東京大大学院などに留学。2003年にウォール・ストリート・ジャーナル記者として来日。09年から現職。

………………………………………………………………………………………………………

 ■ことば

 ◇ニューヨーク・タイムズの捏造問題

 2003年5月、当時27歳の男性記者が記事を捏造(ねつぞう)したとして同紙は5ページにわたる詳細な調査結果を報じ、謝罪した。前年10月以降に少なくとも36本で、実際に会っていない取材対象者の様子や談話を創作したり、他紙の記事を盗用したりしていた。
    --「Listening:<朝日新聞>慰安婦・吉田調書問題 新聞への信頼回復、外国人記者に聞く」、『朝日新聞』2014年10月06日(月)付。
 
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[http://mainichi.jp/journalism/listening/news/20141006org00m020005000c.html:title]

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日記:カトリック信仰者の靖国神社への収斂とはこれいかに。


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歴史的仮名遣の『神社新報』まとめて読んでいたら、わりとうけまくってしまい、つらい。
( ※特定のイデオロギーの紐帯としての神社信仰には唾棄を覚えるけれども、熊楠のような対峙と同化と臆面もなく錯覚するのとは同義ではない包摂には憧憬を覚えますがね。 )

[http://www.jinja.co.jp/:title]

たとえばこれ。
「杜に想ふ 秋の夜長=八代司」『神社新報』平成26年09月15日付。
[http://www.jinja.co.jp/news/news_007649.html:title]

いわく「本欄にも折々に執筆される山谷えり子氏と有村治子氏とがそれぞれ初入閣。その活躍ぶりは早速に表はされ」って記述がありますが、確かにネオナチ団体といちゃこらして「しらんがな」では済まないわけで、まあ、って確かに世界を驚かせるような活躍しとるわな。

さて、「杜に想ふ」にたびたび登場され、戦前日本への回帰を切に願う山谷えり子代議士の信仰がローマ・カトリックと耳にして驚ゐている。

カトリックだからといって『神社新報』に寄稿するなとは言わないし、政治的立場は様々在るとはおもうけれども、「教会は野戦病院であれ」と語る現フランシスコ教皇との隔たりは大きいなあ。

 いったいどういう経緯で靖国と合体したりすんやろう? まじで興味津々です。まあ曽野綾子などといった民間人の噴飯モノもおるのやけれども。

日本キリスト教思想史を研究する中でどうしても注目してしまうのは、「日本教」とでもいうべきメンタリティとの「対峙」。消極的迎合の批判の先行研究は多いけれども、しかし、山谷えり子さんに代表されるような「積極的迎合」のメンタリティつうのも、きちんと腑分けしないといかんなあ、と。

文化内受肉としてその地域としての展開というのは、それを積極的ないしは消極的に評価しようともやむを得ないし、ざっくりですが韓国やフィリピンのキリスト教と欧州のそれに「温度差」はある。しかし山谷えり子さん的な「国家」を「神」のように捉える視座つうのはちゃうやろうと思ったりです。

しかし、まあ、これはカトリックだけでなくて、無教会主義の系譜のトンデモ展開として幕屋もあるわけなので、近現代日本のキリスト教主義から派生するウルトラナショナルはスルーできないですね。誰か一緒にやります??? とかふってみたり。

( ただ、これはキリスト教に限定される話ではないけれども、マモンに過ぎない領域制国民国家を神聖化したり、あるいはそれと対峙しようとしたりする系譜というのは「僅かな数」であり、まあ、どうでもええわ、というのが一番多いのやろうとは思いますが )


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覚え書:「耕論:ヘイトスピーチへの処方箋 樋口直人さん、師岡康子さん、阪口正二郎さん」、『朝日新聞』2014年10月02日(木)付。


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耕論
ヘイトスピーチへの処方箋 樋口直人さん、師岡康子さん、阪口正二郎さん
2014年10月2日

 全国に広がるヘイトスピーチ(憎悪表現)。今夏、国連の二つの機関が相次いで日本政府に対処を求めた。だが、法規制には慎重論もある。どんな処方箋(せん)が必要なのか。

 ■極右を保守から切り離せ 樋口直人さん(在特会を調査した社会学者)

 社会でうまくいかず、鬱積(うっせき)した感情のはけ口を求めて差別デモに加わる――。街頭でヘイトスピーチを垂れ流す差別デモの参加者について、こんな解釈を何度もメディアで見聞きしました。実は私も、あれは不満や不安が産み落とした排外主義運動だと思い込んでいた。

 ところが、現場に行くとどうも雰囲気が違う。2011年から1年半かけ、在日特権を許さない市民の会(在特会)の活動家ら34人に話を聞いて、ようやく実像が見えてきました。通説の多くは根拠の乏しい神話であることがわかったのです。

 学歴では大卒(在学中・中退を含む)が24人。京大卒や東工大卒のエンジニアもいました。雇用形態も、正規が30人に対して非正規は2人。普通の会社員に多く出会いました。職業をみるとホワイトカラーが22人、ブルーカラーは6人でした。

 「移民が増えると摩擦も増え、排外的な運動が広がる」というのは欧州の定説ですが、日本の場合はこれも違った。摩擦がなかったどころか、日常生活で外国人との接点すら持っていない人がほとんどでした。実は在日コリアンの実情をほとんど知らない人々が起こした運動だったのです。

 では、なぜ在日が標的になるのか。日本に最近やってきた外国人ではなく、長く日本で暮らし、地位も確立した「モデル・マイノリティー」たる在日が攻撃されるなんて、欧州の極右運動の常識では理解できません。ここに日本の排外主義の特質があります。

 発端は00年代前半、韓国や中国、北朝鮮への憎悪に火がつきました。日韓W杯や反日デモ、拉致問題がきっかけです。その矛先が、国内の在日に向けられた。歴史修正主義に出会ってゆがんだ目には、在日という存在は「負の遺産」で敵だと映った。東アジアの近隣諸国との関係悪化が端緒だったのです。

 憎悪をあおる舞台装置がインターネットでした。韓国発のネット情報をゆがめて伝えたり、「在日特権」なる完全なデマをばらまいたり。反差別法がある欧州ならすぐに監視団体が削除させるような妄想が、何の規制もないまま拡散していった。

 その情報源になったのが右派論壇です。「嫌中憎韓」は右派月刊誌レベルでは00年代前半に始まっていた。つまり右派論壇が垂れ流した排外的な言説を、ネットが借りてきてデフォルメし広げた。さらに00年代後半に登場したネット動画が、憎悪を行動に転換させた。憎しみはヘイトスピーチという形で街頭に飛び出していったのです。

 ひどい言葉をまき散らすヘイトスピーチですが、これを「病的な人々の病的な運動」と見ていては事の本質を見誤ります。意外に普通の市民が、意外に普通の回路をへて全国各地で大勢集まった。それなりの筋道のある合理的な行動なのです。ここに、この極右市民運動の新しさと怖さがあります。

 ヘイトスピーチの法規制は、実は保守が極右との関係を整理できるかどうか、という問題だと考えています。極右は常に、ナショナリズムにおいて保守の右から強硬な主張をする。その境目に「防疫線」を引き、正常な政治と市民生活から極右を切り離す必要があります。

 さもなければ、保守はより右に引っ張られる。国際社会からも、安倍政権はやっぱり極右なのかと見られます。それではまともに国を運転していけません。きちんと損得勘定できるリアリストが、政権内部で頑張れるかどうかですね。

 欧州なら極右政党と呼ばれるべき政党も、すでに次々と日本で誕生しています。まともな保守政権でいるためには、対象を限定したうえでヘイトスピーチの法規制に踏み込むべきです。それで規制が弱くなったとしても、極右を切る、という意志を政権が示す政治的な効果が大きいのです。(聞き手・萩一晶)

     *

 ひぐちなおと 69年生まれ。05年から徳島大学総合科学部准教授。日系ブラジル人や移民の問題を研究。著書に「日本型排外主義」、共著に「顔の見えない定住化」など。

 ■放っておけば暴力に発展 師岡康子さん(弁護士)

 ヘイトスピーチをする側は、相手は同じ人間ではない、汚い存在だと攻撃します。それも民族や国籍という、変えることができない、あるいは難しい属性を突いて口汚く侮辱する。ゴキブリやうじ虫にたとえる。差別デモを見たら、ひどいと感じる人がほとんどでしょう。

 ただ、法律で規制するとなると異論が出る。「言論には言論で対抗すべきだ」とか「自由な批判を萎縮させる」とか。ヘイトスピーチがもたらす害悪がいかに深刻か、十分に伝わっていないんだなと思いますね。

 たとえば京都朝鮮学校の事件では、街頭宣伝を聞いたショックから今でも1人で留守番できない子がいます。苦痛や恐怖、絶望をもたらす、「魂の殺人」とも呼ぶべき行為なのです。近隣との関係も破壊された学校は移転を余儀なくされました。

 こんな差別はすぐに止める、というのが国際人権法の考え方です。放っておくと社会に差別が広がり、物理的な暴力につながりますから。確信を持って差別している人たちは、法律で強制的に止めるしかない。

 1965年に人種差別撤廃条約ができたのも、ネオナチの運動が欧州で広がり、またユダヤ人虐殺に発展しかねないという危機感からでした。翌年には自由権規約ができ、いずれもヘイトスピーチを禁じています。日本は両方とも加盟している。

 にもかかわらず、ヘイトスピーチを「違法」として規制する義務を政府は規約の批准から35年もサボってきた。新法で規制するほどの差別はない、との主張が理由の一つです。実態調査をして具体的な根拠を示して言うのなら、まだわかりますよ。でも、それすらしていない。

 それは戦後、この国自らが在日コリアンを差別し、民間の差別も放置してきたからです。その責任が問われるから、現実から目をそむけてきた。

 定義があいまいなまま法規制に走れば、権力がこれを乱用して表現の自由を危うくしかねない、という心配は私もあります。ヘイトスピーチ規制の名の下に、政府批判を弾圧した例は海外で実際ありますから。

 その危険を避けるには、まずは土台となる差別禁止法をつくることです。今回の国連勧告でも、そう求められています。

 日本社会には就職や入居など多くの場面で外国人への差別がある。特に在日への差別は、植民地支配への反省が戦後、十分になされなかったことが根底にあります。まず差別を違法とする差別禁止法をつくり、その中にヘイトスピーチ規制を位置づける。規制の対象は明確に限定する。権力が乱用できない仕組みを工夫すればいいのです。

 残念ながら時間はかかるでしょう。しかし今の危うい政治状況を考えると、この正攻法で進むしか道はない。そう考えています。(聞き手・萩一晶)

     *

 もろおかやすこ 92~07年、東京弁護士会・両性の平等に関する委員会委員。その後、米英に留学。外国人人権法連絡会運営委員。著書に「ヘイト・スピーチとは何か」。

 ■法規制、拡大や乱用懸念 阪口正二郎さん(一橋大学教授)

 「死ね」「日本から出て行け」といったヘイトスピーチはひどいものです。人種や性別、性的指向など属する集団を理由に攻撃する憎悪表現に、言論としての価値はありません。

 昨年10月、朝鮮学校周辺での差別的な言動に対し京都地裁は損害賠償を命じました。しかし、「朝鮮人」といった不特定多数に向けたヘイトスピーチについて、法的な責任を問えないのが現状です。

 目の前で起きている被害を新たな法律をつくって防げ、という主張は理解できます。

 ただ、例えば「在日韓国・朝鮮人には特権がある」という発言は文脈によっては政治的な表現となる可能性があり、法律での規制は妥当ではありません。政治的な表現の自由が守られなければ、民主社会でなくなるからです。乱暴な言葉を用い政治的表現がなされることがありますが、民主主義を守るためにある程度は社会がコストを負担する必要があります。

 日本での法規制は慎重にすべきです。取り締まるにしても対象を明確にし、なるべく限定的な内容にすべきでしょう。

 1970年代後半、ユダヤ系住民が多く住む米シカゴ郊外の村にネオナチの団体がナチスの軍服を着てデモを計画したとき、村が条例によって規制しようとしたことがあります。米自由人権協会は表現の自由に関わるとして団体への支援を決め、連邦地裁も条例が違憲という判決を下しました。米国では表現の自由に対する意識が強く、ヘイトスピーチの法規制はありません。

 一方、ナチスによるユダヤ人排斥を経験した欧州では、刑事規制があるドイツをはじめ法規制が主流です。65年に人種関係法が制定された英国では、人種に対する憎悪表現の文書や言葉の使用が規制され、86年の公共秩序法で演劇や映像の記録物など表現手法の対象を広げたほか、2006年には宗教的憎悪にも拡大されています。

 法規制が一度導入されると、対象が次々に拡大される可能性があるのです。今年8月末、自民党がヘイトスピーチの法規制を含めた防止策を検討した会合で、国会前の脱原発デモなどの規制を求める意見が出されました。9月1日に高市早苗政調会長(現総務相)は国会周辺のデモについての法的規制を否定する談話を発表しましたが、デモ規制に飛躍させようとする姿勢では信頼を置くことはできません。

 ヘイトスピーチの法規制という外科的処置が実施されたとしても、根本的な問題解決のカギは教育です。中学や高校では近現代史の授業時間が短く、朝鮮半島の歴史や日本との関係がきちんと教えられていません。問題の本質を知り、人々の意識を変えない限り差別は残ります。(聞き手 編集委員・川本裕司)

     *

 さかぐちしょうじろう 60年生まれ。早稲田大卒。東大社会科学研究所助手、助教授などを経て01年から現職。専攻は憲法。表現の自由を中心に研究。著書に「立憲主義と民主主義」など。
    --「耕論:ヘイトスピーチへの処方箋 樋口直人さん、師岡康子さん、阪口正二郎さん」、『朝日新聞』2014年10月02日(木)付。

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[http://digital.asahi.com/articles/DA3S11380563.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11380563:title]


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書評:岩下明裕編『領土という病 国境ナショナリズムへの処方箋』北海道大学出版会、2014年。


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岩下明裕編『領土という病 国境ナショナリズムへの処方箋』北海道大学出版会、読了。領土問題は全て政治的に「構築(construct)」された産物であり、ひとは常に「領土の罠」に穽っている。本書はボーダースタディーズの立場から「領土という病」の治療を目的に編まれた挑戦的な試みだ。

領土ほど自明のように映りながらその実空虚なものは他にはない。「領土が大事」「領土は国家の礎」という言辞に疑問を抱かないことが「領土という病」の徴候だ。本書はシンポジウムや数々の論考・調査から「領土」や「主権」という言葉の呪いを解きほぐす。

領土主権は常に権力の源泉だが、その現実は常に流動的である。「我が固有の」という絶対性など自明ではない。主権は領土から分離しても実効性をもちうるし、主権そのものも分割しうる。先ずは、領土の構築性というイデオロギーを自覚することがスタートになろう。

本書は国境地帯・領土問題係争地帯での現実を掬い上げたボーダー・ジャーナリズムの報告も多数収録。竹島が韓国領となった場合、漁業利益は日本に有利になるし、現実に竹島近海「のみ」に依存する就労者自体が稀少とは驚いた。

日本の領土問題といえば、常に北方領土・竹島・尖閣の3つが指摘されるが、沖縄こそ「日本最大の領土問題」とも指摘する。主権の分割した状態は未だ継続中。本書はアカデミズムとジャーナリズムの驚くべき協働だ。虚偽の常識をリセットしてくれる好著。

ああ、そうそう、編者の岩下さんは、中公新書で『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』を2005年に刊行した折り、産経新聞社から「平成の国賊」と罵られたそうな。話はずれますが、所謂「メディア」が「活字」で「平成の国賊」などとレッテル貼りするとはこれいかに、ですわな。

[http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/ubrj/whats-new/archives/201407/0265.html:title]


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覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 高齢者がん手術慎重に=本田宏」、『毎日新聞』2014年10月01日(水)付。


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くらしの明日
私の社会保障論
高齢者がん手術慎重に
既往歴や生活習慣で高まるリスク
本田宏 埼玉県済生会栗橋病院院長補佐

 厚生労働省によると、2013年の日本人の平均寿命は、男性が80・21歳、女性が86・61歳となり、男性の平均寿命が初めて80歳を超えた。私が医師になった1979年当時は、男性が73・46歳、女性が78・89歳だったから、34年間で男性は6・75歳、女性が8・72歳も寿命が延びたことになる。
 私が医師として駆け出しだったころ、80歳以上の高齢者の手術はまれだった。最近は高齢者に対する検診や内視鏡検査も普及し、胃がんや大腸がんなどと診断され、外科の外来へ紹介される高齢の患者は増加の一途をたどっている。
 高齢者が手術を受けるリスクは、それまでにかかった病気や喫煙などの生活習慣によって大きく影響される。過去に患者が心筋梗塞や脳梗塞を起こした場合、一般に血を固まりにくくする抗凝固薬を服用しているため、手術の影響で血液透析が必要となることもありうる。良かれと思って手術をしても、手術後にせん妄を起こして転倒骨折したり、食事を誤嚥して肺炎を起こしたりするなど、さまざまな合併症を起こして術前より食事など日常生活の活動能力が低下し、最悪の場合は生命を失って手術を後悔するような事態も生じうるのだ。
 もちろん、私は長年の経験から、症状やがんの進行度に応じて手術の長所と短所、さらにリスクを十分説明し、手術をするかどうかを本人や家族と慎重に相談している。しかし、がんは生命に直結する病気という不安から、手術のリスクを軽視して、「一刻も早く手術でがんを取り除いてほしい」と希望する患者家族は少なくない。
 手術を受けて日常生活の活動能力やQOL(生活の質)が低下したとしても、そのを乗り切れれば次に生命を脅かす他の病気になるまで、生命の延長を期待できる。一方、高齢者は、若年者と違い手術の侵襲を乗り切る体力が衰え、次の致死的な病気になりやすいという面もある。やっとの思いで手術を乗り切っても、半年から1年以内で脳卒中や心筋梗塞で亡くやった患者を何人も経験してきた。
 がんで3人に1人が亡くなる日本で、がん研究会がん研究所の北川知行・名誉所長は、超高齢者のがんを「天寿がん」と名付けた。「男性83歳以上、女性90歳以上」と定義した超高齢者になって死亡するのは「自然な死に方」と考えたからだ。焦って治療するのを選ぶのは賢明ではない。そろそろメスを置く年齢となった外科医として、自分の既往歴や体力を慎重に担当医と相談し、後悔しない治療と人生を選択してほしいと願わずにはいられない。
高齢者の健康状態 高齢社会白書によると、65歳以上の高齢者で、何らかの自覚症状を訴えている割合は、人口1000人当たり471・1人(2010年)に達する。そのうち半数近くにあたる同209人(同)は、仕事や家事などの日常性k多雨に影響があるという。
     ――「くらしの明日 私の社会保障論 高齢者がん手術慎重に=本田宏」、『毎日新聞』2014年10月01日(水)付。

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拙文:「書評 『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』植木雅俊著」、『第三文明』第三文明社、2014年11月、96頁。

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書評
『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』
植木雅俊著
角川選書 定価1,800円+税

“本物の思想家”の学究の歩み 鮮やかに描き出す


 卓越した専門性を持ちながらも万学に通じた「本物の思想家」は、百年に一人か二人、存在する。中村元もそうした「本物の思想家」の一人である。古代インド哲学の研究から出発し、東西の叡智に遍く精通した。著書・論文の数は一四八〇点余りを数える。私塾「東方学院」を開き、学びを世に拓いたその業績は前人未踏である。本書は晩年の中村に師事した最後の弟子によって著された浩瀚な評伝だ。中村の思想の核心と慈愛に満ちた生涯を明らかにする。“世界の中村”の肉声を伝える本書を読むと、権威化した「奴隷の学問」を何ら恥じることのない日本の学者などどれも霞んで見えてしまう。中村は、間違いなく二〇世紀を代表する世界の碩学なのだと。
 中村は常に「分からないことが学問的なのではなく、だれにでも分かりやすいことが学問的なのです」と語り、平易な言葉で人間ブッダの実像を浮き彫りにした。しかしそのことが「厳かさがない」と強烈な反感を買ったというから驚くほかない。ブッダは、その教えをバラモンの使う権威的言語であるサンスクリット語で伝えてはどうかと提案を受けたとき、「その必要はない」と退けた。仏教東伝の歴史は、伝言ゲームの如き権威化、歪曲の歴史といってよいが、中村への批判は、さながら仏教の歴史を見ているようだ。中村が丁寧に腑分けするブッダの肉声に寄り添えば、その本義は「真の自己」に目覚めることだ。難解がありがたいのではない。学問とは理解され人間を活かすことに要がある。中村の学問的苦闘が学説を一新していく挑戦そのものが、仏教の本義と交差する。晩年、中村は、東西の思想を比較吟味して普遍的思想史の構築に専念する。その目的は「世界平和を実現する手がかりを提供すること」だという。
 「ただ今から講義を始めます」--。真摯な探求は、死を目前にした昏睡状態の中でも続く。稀代の碩学逝きて十余年。著者は梵漢和を対照した『法華経』『維摩経』の画期的訳業で知られる。中村の魂は著者に間違いなく継承されている。僥倖を覚えるのは書評子のみでないだろう。
(東洋哲学研究所委嘱研究員・氏家法雄)
    --拙文「書評 『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』植木雅俊著」、『第三文明』第三文明社、2014年11月、96頁。

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日記:何が、「スーパーグローバル大学」ですか! もうさ、国家に褒められて嬉しいとか、やめにして欲しいと切に思いますよ


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過日、文科省が「スーパーグローバル大学」採択校を発表しましたが、その構想に準じたカリキュラムが、実際のところ、グローバルでも何ンでもないシロモノだから、「スーパーで買うことができるのですか?」ってフイタところ、「大学の運営方針しだいで大学を評価することがどうして『学問の自由』の侵害になっているのか、さっぱりわかりません」という脊髄反射を頂き、内田樹さんやその他、きちんとした批判を紹介したのですが、「国家が大学を格付け式に評価するのがなんで問題なのや!」といわれてしまい、ぐぬぬとなった訳ですが……ふかいため息ですよ。

ということで……再掲ですが、


「大学の運営方針しだいで大学を評価することがどうして『学問の自由』の侵害になっているのか、さっぱりわかりません」とのことですが、端的に言えば(そもそも論で言えば、教育行政機関は「学問の自由」を保証する機関であって、教育機関のランク付け機関ではありませんがそれは横におきますが)それは「基準に不合理な点」があるからですよ。

「スーパーグローバル」と銘打つものの、その中身は、グローバルとはほど遠い、国家の財界の意向に準拠した、すなわち国家と財界の役に立つ「人間作り」を目指すカリキュラムですよ。スーパーグローバルどころではありません。

文部科学省が各教育機関を、ここはスーパーグローバルと格付けしたり、しなかったりすることの問題ですが、これは交付金と連動していますから、個々の教員の意向はともかく、大学を運営する側からすれば、そりゃ、交付金の出る「カリキュラム」にしたほうが、いいわけですよね。宣伝にもなる訳ですから。「国家と財界の役にたつ」だけの人間づくり「だけ」を目指すようになっていけば、それは同時に「国家と財界の役にたたない」部門を割愛することになりますよね。これは一例ですし、その他もろもろありますが、これだけでももう立派な「学問の自由」の侵害ですよ。

明治時代、日本各地にミッションスクール(今の立教大学や青山学院大学など)が設立されますが、キリスト教を警戒する明治政府は、キリスト教主義の学校に制約を加えます。1899(明治32)年の官公私立を問わず宗教教育を禁止を明記した「訓令第12号」がそれですよ。宗教教育を行う学校は学校と認めない(大学進学資格の特典喪失、徴兵猶予停止)という狙いうちです。多くの学校は、私立であるという意義(信仰の立場)を優先し、「各種学校」であることを選択しました。

日本の文教政策は、国家のための人材作りが基本です。旧教育基本法改悪以降、スーパーグローバル大学構想へ修練していく現下の状況は、その猛烈な嵐といってよいでしょう。訓令第12号を振り返るならば、「国家のために役にたつ」スーパーグローバル大学化しない大学は(文科省には許認可権がありますから)、「では、専門学校でよろしいか」とならなくはないわけですよ。

そもそも、大学は国家や権力による干渉や統制から学問の自由を守るために大学の自治を確立してきたのがその歩みです。

今般の安倍耳垢(じこう)政権の大学へのグローバル戦略の要求とは、グローバルとはほど遠い「お国」のための人材育成戦略ですよ。半世紀前の言葉でいえば、「お国のために死ね」という教育原理に基礎付けられた実践学習(=学習ですよ、学問ではなく)をすることと同じ。僕は、それに対して無邪気に賛同することには危機感を覚えます。

最後にこれもそもそも論ですが、そもそもネトウヨまがいの極右安倍政権から「おぬしらは、われわれの政策の模範である」とほめられて嬉しいとしたら、それは脇が甘過ぎますよ。


で……結局の所、「国家」は先験的な悪と規定して「済んだ」と理解したり、最初期のアナキストの如くぶっこわせば方はつくというラッダイトには抵抗はあるけれども、認識の問題として「国家」を常に「相対化」させる眼差しというものが喪失したら終わりだということが、人類の歴史ではなかったかと思います。

蠱毒という呪術がありますやろう。動物を使った呪術で「器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをする」というもの。グローバルなんちやらキャリアうぇーい教育つうのもこれですよ。

さて、スーパーで売っている毒蠱教育プログラム批判を締めますが、結局の所、お国からよしよしされてニンマリすること自体が「グローバル」でも何ンでもないやろうというお話でございます。

もうさ、国家に褒められて嬉しいとか、やめにして欲しいと切に思いますよ。
グローバル市民社会という今は、そういう時代か???
しかもほめてくれる「国家」様は極右政権でございますよ。
「大勝利」「大勝利」って連呼してたら、気がついたら頭も心のなかもすっからかんになってしまった


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覚え書:「排外主義の悪循環を超えて テッサ・モーリス=スズキ『日本を再発明する』」、『朝日新聞』2014年9月30日(火)付夕刊。


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排外主義の悪循環を超えて テッサ・モーリス=スズキ「日本を再発明する」
2014年9月30日

 日本や東北アジアの近現代史研究で知られる、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス=スズキ教授。今年邦訳が出た『日本を再発明する』では、個々人が国境という枠に閉じ込められずにつながり合う世界の可能性を、歴史の中に探った。今の日本と、日本を取り巻く状況をどう見ているのか。来日を機に聞いた。

 現在のような形の日本、その輪郭は、近代に「発明」されたものだ――。そう読者に語りかける『日本を再発明する』の英語版は、1998年に刊行された。邦訳が以文社から出版されたのは、16年後の今年2月のことだ。

 「古くなっているのではないかと読み直しましたが、当時よりむしろ今に合う本だと感じました」

 同書は、アイヌや沖縄を始めとする多様な存在を画一的に「中央」に組み入れる形で近代日本が形成された歴史や、それが「自然な存在」として意識されていく仕組みを分析した。国家を「再発明」することも不可能ではないはずだ、という考えが根底にある。個人とは本来、同一的な「文化集団」に収められる存在ではない、とも訴えた。

 ■3・11が境界に

 90年代の日本は「分岐点」にあると感じられたという。一方は、「開かれた日本」になって近隣国との結びつきが強まる道だ。他方は、「閉ざされた日本」へ内向し、近隣国との摩擦が増す道だった。

 「2011年の3・11までは両方の可能性があると思えた。でもその後は残念ながら、内向きでナショナリスティックな方向へ急速に傾いたように見えます」

 不況と格差の拡大が深刻化し、国際的には中国が台頭するという歴史的背景の中で、巨大な災害に見舞われた。「強い自国」を心理的な「よりどころ」にしたいという機運が高まっても不思議ではない、と見る。

 ■二分法への警戒

 内向化の時代はどのような危険を高めるのか。一つは排外主義だと言う。東北アジアでは既に「排外主義の悪循環」が目立ち始めた、とも指摘する。

 「たとえば、韓国側の立場を軽視した声が日本で噴き出すと、呼応して韓国内でも日本側を軽視した意見が強まり、それがまた日本の世論にはね返ってしまう……そんな悪循環です」

 歯止めをかけるためには、単純な二分法を使おうとする政治家たちを警戒することが必要だと語る。愛国者か、さもなくば敵国に通じる非国民か――そんな二分法だ。

 「韓国にも『親日派か愛国派か』という従来の二分法を超えようとする研究者や文化人が増えてきた。この動きと連携すべきです」

 ■愛するから批判

 自国の歴史の一部を批判することは「愛国心」と矛盾しない、とも話した。

 「国を愛するからこそ、より良い未来を作るために批判する。当たり前のことでしょう。実際、安倍晋三首相も『戦後日本の歴史の一部』を強く批判していますよね」

 1951年に英国で生まれた。豪州を拠点に、東北アジアの歴史を研究する。

 「福島でも、北朝鮮や中国の地方でも、中央政府の力が低下する中で、自らの手でコミュニティーを守る草の根の動きが見られます。横のつながりが生まれれば、そこから新しい政治の発想が見えてくるかもしれません」

 「共有されている社会問題も関係改善への手がかりです。たとえば、高い自殺率をどう下げるかという課題に日・中・韓で協力すれば、コミュニケーションの場を生み出せます」(編集委員・塩倉裕)
    --「排外主義の悪循環を超えて テッサ・モーリス=スズキ『日本を再発明する』」、『朝日新聞』2014年9月30日(火)付夕刊。

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[http://digital.asahi.com/articles/DA3S11378307.html-iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11378307:title]


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