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覚え書:「ショパン、祖国に眠る心臓 70年ぶり調査、死因に迫る」、『朝日新聞』2014年12月09日(火)付。

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ショパン、祖国に眠る心臓 70年ぶり調査、死因に迫る
ワルシャワ=玉川透2014年12月9日11時47分


(写真キャプション)ワルシャワの聖十字架教会で4月14日、礼拝堂の柱の中から取り出されたクリスタル製の壺(つぼ)。ショパンの心臓が入っている=国立ショパン協会提供

 「ピアノの詩人」と呼ばれ、数々の名曲を残した19世紀ポーランドの天才音楽家、フレデリック・ショパン。死後、心臓だけが祖国に戻され、曲折を経てワルシャワの教会の柱の中に「安置」された。それから約70年。専門家による調査が行われ、今秋、その死にまつわる謎の解明も進んだ。

 十字架を背負ったキリスト像が入り口に立つ、ワルシャワの聖十字架教会。ショパンの心臓が安置されるこの教会で、今年4月14日の晩、「極秘プロジェクト」が行われた。

 教会や文化遺産省、法医学の専門家ら約10人が礼拝堂の石柱の一つに穴を開ける。一辺約30センチの木箱が出てきた。その中にクリスタル製の壺(つぼ)が一つ。黄金色の液体の中にこぶし大の「塊」が浮かぶ。その濃いピンク色に誰かが思わずつぶやいた。「まるで昨日、体から取り出したみたい」

 病弱だったショパンは名声を得ながら、39歳の若さでパリで客死した。遺体は地元の墓地に葬られたが、心臓は遺言で祖国ポーランドの教会へ。その後、1945年10月の最後の調査以降70年近く、心臓は人目に触れていなかった。

 調査に立ち会った国立ショパン協会のボイチェフ・マルフフィツァ副会長(58)は「万が一、壺の中が空っぽだったらと内心ヒヤヒヤだった」と言う。

 壺が入っていた木箱は二重構造だった。黒い内箱にはハート形の金属プレートが付いており、「フレデリック・ショパン」の名と生年月日、亡くなった日と場所が刻まれていた。

 調査の必要性を訴えたのは科学者たちだ。ショパンの時代に保存された臓器の多くが、変質し始めていたからだ。心臓を管理する教会側は今年に入って調査を認めたが、厳しい条件をつけた。あくまで「保存状態の確認」を目的とし、①必要がなければ壺は開けない②教会外に持ち出さない③心臓の写真は公表しない――。さらに、専門家が求めた心臓のDNA検査やCTスキャンなども認めなかった。

 だが、9月に調査結果を発表したブロツワフ医大のタデウシュ・ドボシュ教授(63)は「心臓の保存状態は完璧だった。新たな発見も多くあった」と喜ぶ。

 例えば、心臓が浸された液体がコニャックの可能性が高いことが分かった。また、壺のふたの内側に塗ったワセリンが溶けて液体の上にたまり、蒸発を防いだため保存を助けた、とドボシュ氏は分析する。

 最大の謎は死因だ。当初は「結核」と診断されたが、その後の研究で「のう胞性線維症」の可能性が指摘された。当時は知られていない遺伝病で、呼吸器などに様々な症状を引き起こす。ショパン自身も結核という診断に疑問を抱き、「死後に心臓を調べてほしい」と話していたという。実際、心臓には縦に割られ、縫い合わされた跡があった。

 調査では、心臓の表面に白い斑点状の物質が確認された。ドボシュ氏は「結核患者に見られる症状で、結核説が強まった」と指摘するが、他の専門家にはなお否定的な意見もある。ただし、心臓のサイズが通常より2割程度大きいことも分かり、ドボシュ氏は「別の病気を併発していた可能性もある」と言う。

 ショパン協会は、撮影した心臓の写真を、それとは知らせずに、複数の専門医に鑑定させることを計画。調査後、ショパンの心臓は壺のふたをろうで補修し、今回の調査報告書と一緒に元の柱の中に戻した。次回の検査は、50年後の2064年を予定している。(ワルシャワ=玉川透)

■流転、ナチスが利用も

 ショパンの心臓は激動のポーランド史そのものだ。

 ショパンが生きた19世紀前半、ポーランドはロシアなどの分割統治下にあった。列強諸国は、フランスに移住したショパンが帰国するのを許さなかった。1849年、姉のルドビガがパリでショパンの最期をみとり、遺言を受けて心臓を祖国へ持ち帰った。ドレスの下に隠し、国境を越えたとされる。

 ショパン協会のグラジーナ・ミフニェビッチ研究員(56)は「ショパンも彼の心臓も、母国に帰れば人々の愛国心を高揚させる。列強諸国はそれを恐れた」。

 その後、心臓はいったん聖十字架教会の地下などに安置され、奇跡的に戦禍を免れた。だが、第2次世界大戦中の1944年、何者かに持ち去られる。ナチス・ドイツ説が有力だが、ポーランド人が運び出したという説も。経緯は不明だが、その後、教会に心臓を返したのは独軍将校だった。ミフニェビッチ氏によると、ナチスはその様子を記録映画に残し、プロパガンダに利用したという。

 ショパン協会のマルフフィツァ副会長は言う。「ショパンは人生の大半を外国で過ごしながら、帰国を夢見ていた。死後ようやく戻された彼の心臓は、祖国愛の象徴。だからこそ時に疎まれ、利用されたのです」

■体と「別葬」、風習他にも

 じつは心臓の「別葬」は、ショパンに限らない。

 「ポーランド心臓集」の著作があるクラクフ在住の作家、ミエチスワフ・チューマ氏(77)によると、15世紀ごろには欧州各地で行われ、1755年に独西部の王侯が行ったという記録もある。当時は通信事情が悪く、死後すぐの葬儀では遠方から間に合わない。王侯・貴族は葬儀前の後継者決定に時間をかけることも珍しくなかった。そこでまず心臓を取り出し近親者だけで弔い、ハーブなどで保存した遺体で2回目の葬儀をする風習が広まった。費用がかさむ二重葬は、権威の象徴でもあったという。

 チューマ氏は「特にポーランドでは、キリストの心臓を『愛の象徴』と崇拝する信仰が広まり、受け入れられやすかった」と見る。

 同氏の調査ではショパンの他にも、1918年ポーランド独立の英雄ピウスツキ(1867~1935)や、ノーベル賞作家のレイモント(1867~1925)ら200人を超える著名人や高位聖職者らが心臓の別葬をしたとされる。心臓は墓と別の場所に埋葬されたり、ショパンのように教会に安置されたりした。

 第2次大戦後は下火になったが、同国出身の法王ヨハネ・パウロ2世が2005年に死去した際には、多くのポーランド人が「法王様の心臓を故郷に」とバチカンに懇願した。

 チューマ氏は言う。「苦難の歴史を歩んできただけに我々は祖国への愛情が深い。心臓の別葬はそんな強い思いの表れなのです」

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 〈フレデリック・ショパン〉 1810年、ワルシャワ近郊でフランス人の父とポーランド人の母の間に生まれる。幼い頃から音楽の才能を発揮し、ピアニスト・作曲家としてフランスなどで活躍。49年、パリで死去。「小犬のワルツ」「別れの曲」など。
    --「ショパン、祖国に眠る心臓 70年ぶり調査、死因に迫る」、『朝日新聞』2014年12月09日(火)付。

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[http://www.asahi.com/articles/ASGD41PKFGD4UHBI001.html:title]
 

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