日記:<他人>の現前化は平和である
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顔において、<他人>、絶対的に他なるものが現前する。けれども、顔は<自同者>を否定しないし、また、臆見、権威、摩訶不思議な超自然的事象と化して<自同者>を傷つけることもない。顔はそれを迎接する者と同じ土俵に立ちつづける。顔は現世的なものでありつづける。顔における<他人>の現前化は非暴力の典型である。なぜなら、この現前化は、私の自由を傷つける代わりに私の自由に責任を喚起せしめ、それによって私の自由を創設するからである。<他人>の現前化は非暴力であるが、にもかかわらず<自同者>と<他人>の多元性を維持する。<他人>の現前化は平和である。
--エマニュェル・レヴィナス(合田正人訳)『全体性と無限 外部性についての試論』国文社、1989年、307-308頁。
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「解放」「自立」「脱疎外」といった観念そのもに暴力性が潜在する。
存在論の暴力性を喝破しながらも、批判で終わらず、その超克と日常生活のなかで生き続ける可能性を模索したのがレヴィナスの思想といってよいが、いち早くレヴィナスに注目されたのは、そうした暴力が顕著な仕方で現出した地域ばかりだったという。
レヴィナスの知見にリアリティとは、例えば、暴力装置としての権威とそれに対峙する批判精神といった近代の構造が「形」をとらなければ、その批判精神というのは、注目されがたいのかも知れない。
言うまでもないが、批判精神に「すら」潜在する暴力を見抜くことは、その精神の対峙する権威の問題を「見過ごす」ことと同義でははない。否、批判精神に「すら」潜在する暴力を見抜くことによってこそ、対峙する権威の問題をも超克していくのであろう。
この消息を勘違いしてしまうと、批判することに酔う、ないしは荷担していない「私」の演出としてのレヴィナスの援用という本末転倒になってしまう。現代日本においてその錯誤という軽挙妄動こそ常に相対化していくべき課題なのであろう。
そもそも権威と批判精神の対峙もなく、つねに全体に回収されていくヒエラルキーの構造のなかで、先端知を飽くなく探究する知的エッジですら、気がつけばよういに、自己の暴力性を自覚しないまま、飲み込まれてしまうのが日本という精神風土だ。
そうした精神風土であるがゆえに、レヴィナスをもう一度、読み直すことが必要であり、暗い夜を駆け抜ける同伴者の足音として、つねに低音を響かせていかなければならない。
1995年の今日(12月25日)はレヴィナス老師のご命日。その学徳を偲びつつ、その意志を継承していきたい。
国文社
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