日記:なぜ、真摯な自己反省が、外界に目を向け他者と出会う真のプロセスの要因となり得ないのだろうか。
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最後にヤングは、罪は、外界に目を向け、他者に関心を示させるのではなく、人びとを内面的にし、自分自身にのみ固執させてしまうと論じる。これもまた、おそらくそうかもしれない。しかし、なぜ、真摯な自己反省が、外界に目を向け他者と出会う真のプロセスの要因となり得ないのだろうか。わたしには、自分自身のナルシシズムや、自己中心的な熱望、他者よりも自分を称えられたいと思う欲求などをしっかりと見つめ、そしてそれを乗り越えようとするとき初めて、わたしたちは本当の意味で、他者に目を向けることができるし、自分のなかにある障害を乗り越え、なんとかそこからより自由になれるのだと思える。あるいは、このプロセスは、外部/内部といった道徳的生活のふたつの別べつの領域で生じる必要もない。ガンディーの生涯、そしてかれが起こした運動は、内面に目をやることは、たんに外部に目を向ける触媒となっているだけでなく、まさにそれと同時に起こっていることを物語っている。ガンディーと彼の信奉者たちは、自分たち自身の暴力や支配欲を批判することが、国民全体のための自分たちの自由の闘争にとって不可欠な側面であることを学んだ。わたしが考えているものは、もしわたしたちが、自分自身の内面世界を真摯に批判することなく、未熟な段階で外部に目を向けることとなれば、わたしたちの社会改革行動は、結局底の浅いものとなるか、短命に終わることになるだろう。わたしたち自身の内部にあり続ける、わたしたちをナルシシズムに駆りたてる力が、最後には、わたしたちの目を社会的な運動から逸らすことになるだろう。
--マーサ・C・ヌスバウム(岡野八代・池田直子訳)「緒言」、アイリス・マリオン・ヤング(岡野八代・池田直子訳)『正義への責任』岩波書店、2014年、xxxiii頁。
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年頭から覚え書きで申し訳ございません。
ええと、それから新年もどうぞ宜しくお願いします。
まだ、途中まで読み進んでおりませんが、昨年の3冊のうちの1冊に選んだのがヤングの『正義への責任』です。アリストテレス研究から始めたマーサ・C・ヌスバウムが詳細な「緒言」を本書に捧げておりますが、非常に要を得た一節で抜き書きした次第です。
現状世界の問題に対してNOを上げていくことの大切さはいくら強調してもしすぎることはありません。しかし、1mmでもくるいがあると、空中分解してしまうのも事実で、その陥穽をいかに離脱していくのか。罪ではなく責任を担うことを提唱する本書は、非常に示唆に満ちた一冊です。
罪と責任を丁寧に区別しながら、未来を担うべき責任について、語り合うこと。そこから「ここ」に済む市民としての責任と展望が立ち上がるのではないかと思います。
一歩一歩の歩みをかくあるべしと念じつつ、新年最初の日記とさせていただきます。
筆主敬白。
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