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日記:「本人」は「本人」以外の他者や機関によってはじめて「本人」が「本人」であると担保づけられる

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久しぶりに蔦屋に行ったら会員の有効期限が切れていましたので、更新しました。

この手の手続きをするとき、運転免許証をもっていないので、わりとめんどくさいことになります。保険証+αという展開ですけども、そのときちょうど公的証明書類を持ち合わせていたのでなんなく更新できましたが、運転免許証の本人証明能力の全能感に、われながらしばし圧倒される次第です。

こういうことなら自動車の免許とっておけばよかったなあと思いますが、まあ、自動車を自分で運転しない分、エコロジカルということでよしとしておきます。

さて、「自白」という文化に見られるように、「本人」の「言葉」や「証言」というものが何よりも重要視されるにもかかわらず、その「本人」が「本人」であることは「本人」によっては決して証明されないというパラドクスに驚かされてしまうという話です。

「私は私だ」と「本人」がいくら叫んでも、そのことで「本人」であることが承認される訳でなく、「本人」は「本人」以外の他者や機関によってはじめて「本人」が「本人」であると担保づけられる。

トートロジーの証明不可能性といってしまえば、はやい話ですが、その対象性に一抹のむずがしさを覚える訳で、この対象性がいつから始まったのか。ひとつ考察の対象にしてみたいな、と思う次第です。

まあ、いろいろと課題が積ンどりますのでいつになるやらという話ですけども。

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