日記:学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働に在り、此働を活用して実地に施すには様々の工夫なかる可らず
金曜日は、所用があってひさしぶりに慶應義塾へ戻る。
用事をすませてしばしキャンパスを散策しつつ、学生時代のことを思い出したりしておりました。
さて、昨今、教育再生をめぐる議論で「人文より実学」だとか「グローバル云々」で「即戦力」を大学教育に求めるムキがありますが、いわば実学の元祖といってよい福沢諭吉ならば、今の状況をどのようにとらえるのか、少し考えてみました。
最近、誰もが「実学」連呼するので(「人生を豊かにする学びに加え、実学を重視した教育を提供することも必要」の如き:教育再生実行会議第6次提言)、実学の元祖といってよい福沢諭吉の『学問のすゝめ』と丸山眞男「福沢に於ける『実学』の展開」(丸山眞男『福沢諭吉の哲学』岩波文庫所収)読んでた。
「専ら勤むべきは人間普通日用の近き実学なり」(『学問のすゝめ』)。空疎にして迂遠な漢学や有閑的な歌学に対して実学を対置した福沢諭吉。「若し福沢の主張が、単に『学問の実用性』『学問と日常生活との結合』というただそれだけのことに尽きるならば、……斬新なものではない」と丸山眞男はいう。
「学問の日常的実用を提唱」「学問を支配階級の独占から解放して、之を庶民生活と結びつけた」“東洋的な「実用主義」”は山鹿素行、石田梅岩に見られるとおり、そこに福沢の独創性はないし、「内在的なものの発展はあっても、なんら本質的に他者への飛躍、過去との断絶は存しない」(丸山眞男)からだ。
福沢の実学傾注の「真の革命的転回」意義とは何か。
すなわち
「学問と生活との結合、学問の実用性の主張自体にあるのではなく、むしろ学問と生活とがいかなる仕方で結びつけられるかという点に問題の核心が存する。そうしたその結びつきかたの根本的な転回は、そこでの『学問』の本質構造の変化に起因」ものである。
「東洋社会の停滞性の秘密を数理的認識と独立精神の二者の欠如のうちに探りあてた」福沢は、学問の中心的位置を、アンシャン・レジームの学問の中核である倫理学より物理学へ移す。これは倫理や精神の軽視ではなく、「近代的自然科学を産み出す様な人間精神の在り方」を問題にした、精神の問題でもある。
「環境に対する主体性を自覚した精神がはじめて、『法則』を『規範』から分離し、『物理』を『道理』の支配から解放するのである」。
社会秩序の基礎付けを自然とのアナロジーで非合理を容認する東洋社会。個人が社会的環境と離れて直接自然と向かいあう意識を出発に起き、人間・社会の認識が初めて可能になる。
「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先ず物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ」(『文明論之概略』)。「社会秩序の先天性を払拭し去ることによって『物理』の客観的独立性を確保」(丸山)、そのことで近代精神(独立自由の精神と数学物理学の形成)が確立する。
倫理を中核とする実学は「生活態度を規定するものは、環境としての秩序への順応の原理である。自己に与えられた環境から乖離しないことがすなわち現実的な生活態度であり、『実学』とは畢竟こうした生活態度の修得以外のものではない。そこでいわれる学問の日用性とは、つきつめて行けば、客観的環境としての日常生活への学問の隷属へ帰着する」(丸山)。
では福沢の実学とは?
「如何なる俗世界の些末事に関しても学理の入る可らざる処はある可らず」(「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」)。
日常の重力との「妥協」ではなく「克服」こそ「実学」なのであろう。
その理念から「福沢は数学と物理学を以て一切の教育の根底に置くことによって、全く新たなる人間類型、彼の所謂『無理無則』の機会主義を排してつねに原理によって行動し、日常生活を絶えず予測と計画に基いて律し、試行錯誤を通じて無限に新らしき生活を開拓してゆく奮闘的人間」(丸山)育成を志したのが福沢諭吉といってよい。
福沢諭吉は「日本のヴォルテール」(丸山)として啓蒙思想の代表といわれる。しかし単なる封建批判の文明論とは異なる独自の思惟を秘めており、それは真性のプラグマティズムといってよい。今、福沢が教育における「実用」の実際を参照するならば、どのように反応するだろうか。それは馴致への惑溺と映るだろう。
しかし、日常の重力との妥協ではなく克服こそ学問の「要」であると福沢諭吉がとらえていたとすれば、それは、規律訓練型権力への批判という射程を秘めていると捉えてよいのではないだろうかとも思ったりです。
で……蛇足ついでですけど
別に象牙の塔であれとは思いませんが、社会は常に大学に何かを要求……そしてそのほとんどが不当なものが多いとは思いますが……してくる割には、その要求を満たすための負担はしないで、ただこうしろ、ああしろ、とかき回すだけというのがその実情ですから、まあ、無責任このうえねえな、と思うのは私一人ではないでしょう。
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