哲学・倫理学(古代ギリシア)

議論の範疇の限界にせまる形式的な問いの背後には、一切の形式を打破する問いがかくれている

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 対話的なものは、人間相互の交わりに制限されない。すでにそれはわれわれに例示されたごとく、相互に人間が向かい合う態度である。ただ人間の交わりにおいて、じつにこれがよく表されているにすぎない。
 したがって、会話や伝達がおこなわれなくとも、対話的なものの成り立つ最低条件には、内面的行為の相互性が、意味上分離しがたい要素となっているようである。対話によって結ばれている二人の人間は、明らかに相互に相手の方に向かい合っていることでなければならぬ、それゆえ、--どの程度、活動的であったか、どの程度活動性の意識があったかということはとにかくとして--向かい合い心がそこに立ち帰るということでなくてはならない。
 このことは、著しく形式的なことであるかもしれない。しかしこれを押しすすめることは、良いことである。なぜならば、議論の範疇の限界にせまる形式的な問いの背後には、一切の形式を打破する問いがかくれているからである。
    --マルティン・ブーバー(植田重雄訳)「対話」、『我と汝・対話』岩波文庫、1973年。

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講義を組み立てていてよく実感するのが、やはり語りが一方的になってしまうことです。たしかに、基礎的な知識や理論の紹介として「語らざるを得ない」部分が存在することは否定できないのですが、講述に徹してしまうと、パロールとしての言語だけでは、その実感とか内実とか言下の意味がなかなか伝わりにくいということも思い知らされてしまいます。

このところといいますか、例年頭をなやませていたのが、プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)のイデア論に関する講義です。

もちろん担当している科目が専門的な演習とかゼミではありませんので、ざっくりとやってしまっても問題はないのですが、そのざっくりを言葉だけで、例えば・・・

「イデアっていうのは英語でいうideaに語源をもつプラトンの真理の実在論です。現実には様々な事物や概念が存在します。しかしそうした現実“態”をこえたところにも、そうした現実“態”を規定するような何かってあるぢゃないですか。たとえば、この教壇も『机』です。そして皆さんが座っている目の前の長机も『机』ぢゃないですか。だとすれば、現実に存在するこの個別の机、要は皆さん目の前にある『机』も、そしてそれと形のちょいと異なる、ワタシの目の前にある『机』も、形はちがうけれども『机』でしょ。そうすると、そうした現実“態”をこえた“机”なるものが……存在としてはないのですが……発想としては出てきますよね、言うなれば、『机“一般”なるもの』が……。それがイデアなんです」

ですけど、言葉だけの説明ですと、結構半分の方々がぽかーんとなってしまいます。イラストを交えた私家版の教材ですがそれで支持しながらでもそうなんです。

ですから、何か、工夫が必要だよな~、と悩んでいたわけです。

ですが、不思議なもんで、閃きなのかもしれませんが、先の月曜の授業では、ぢゃあ……

「学生さんに「花を黒板に書いてください」と指示して……その際、花の銘柄は特定せずに……書かせてみるか」

……とやってみたところ、思った以上に、理解して下さった方が多く驚いた次第です。

「だれか『花』を書いて下さいませんか」

……って振って、2名の方に花を黒板に書いて頂きましたが、

一名は、ひまわりを、一名は、マーガレットを書いて下さいました。

先に書いたとおり、銘柄の指定はありません。

現実にひまわりも存在しますし、マーガレットも存在します。

両者は全く異なる「花」ですが、異なるにもかかわらず「花」なんです。

その意味では両者に共に、内在する……プラトン的に謂えば、両者をイデア界から規定する図面とか理念のようなものとして……「花」“なるもの”が想定できます。

そう、それがプラトンの言うイデアなんですね。

栄枯盛衰・流転・転変の現実世界の存在を超えた「~とは何か」とでもいうべき「○○一般」がイデアのアウトラインなのでしょう。

その意味では、今回初めて学生さんたちに作業を課してみましたが、その試みがちょゐと成功したのでは……などとほくそ笑む宇治家参去です。

……と、同時に、社会学者にして平和運動家のクェーカー、E.ボールディング女史(Elise M. Boulding,1920-)が対話とは「語るだけではなく、聞くことも対話である」と講演で論じたことがありますが、教室という講義空間においてもそれは同じかもしれません。

ブーバー(Martin Buber,1878-1965)の対話論をひもとくまでもなく、「相互に人間が向かい合う態度」が教室においてもその基礎にあるのかもしれません。

もちろん、しゃべらなければならないタスクも存在しますが、それだけに徹してしまうと、こと哲学とか倫理学とか神学といったものは、応答不可能な無味乾燥な学問に堕してしまうのかもしれません。

教室で教師と学生が向かいあうというのは内的必然と言うよりも外的的不可抗力によって向かいあう一局面です。

しかし、それだけでもないのでしょう。

いかなる理由があったとしても、人間が人間が向かいあってしまうと、そこには不可避的に対話的な空間が迫ってくるのかも知れません。

「どの程度活動性の意識があったかということはとにかくとして--向かい合い心がそこに立ち帰るということでなくてはならない」

……ことを肝に銘じる必要はありそうです。

……とはいえ、実は宇治家参去、イデア論が極めて苦手です……いうか違和感ももっております。

ですから、その違和感を解消するために、ビールのイデアを内包したチェッコ(チェコではない!)の「バドバー」の、濃ゆいモラヴィアンモルトでも飲みつつ、3時間ばかりの短い休息を楽しもうと思います。

……昨日掲示したタスクですが、レポート添削だけが対応できず、明日まわしです。
しめきりまで余裕はあるのですが、余裕にふんぞりかえると得てしてろくなことがありませんので、早めに沈没して、明日がんばります。

しかし……。

チェッコのプレミアムビールの「バドバー」。
アメリカの「バドワイザー」の語源になったといわれる700年の歴史をもつビールといわれますが、栓を抜いたときに迸った香りだけで、その味わいの豊かさが理解できるというものです。

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あの説は何の値打ちもないものなのだから、カリクレス。

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 しかし実際には、君も見るとおりに、君たちは三人ともそろっていながら、つまり君に、ポロスに、ゴルギアスさんと、いずれも当代のギリシア人の中では一番の知者がそろっていながら、その君たちは、このぼくのいう生活--それはあの世においても有利であることが明らかにされたのだが--その生活よりも、何かほかの生活を送るべきだということを、証明できないでいるのだ。いや、これほどの長い議論の間に、ほかの説はみな反駁されていったのだが、ただこの説だけは、反駁にも揺るがないで、止まっているのだ。すなわち、ひとは不正を受けることよりも、むしろ不正を行なうことのほうを警戒しなければならない。また、ひとは何よりもまず、公私いずれにおいても、善い人と思われるのではなく、実際に善い人であるように心がけなければならない。しかし、もし誰かが、何らかの天で悪い人間となっているのなら、その人は懲らしめを受けるべきである。そしてこれが、つまり裁きを受けて懲らしめられ、正しい人になるということが、正しい人であるということに次いで、第二に善いことなのである。さらにまた、迎合は、自分に関係のあるものでも、他人に関係のあるものでも、あるいは、少数の人を相手とするものでも、大勢の人を相手とするものでも、どれもすべて遠ざけるべきである。そしてそれは、他のどんな行為の場合でも同じことである、というそういう説だけは揺るがずにいるのだ。
 だから、ぼくの言うことを聞いてくれ、ぼくの目ざすこちらの方へ、君も一緒について来ることにしたまえ。これまでの議論が示しているように、目ざす目標に到達したなら、君は生きているときも、死んでからも、幸福にすごせるだろうから。そして、もし誰かが君を馬鹿者だとして軽蔑するとしても、また、もしそうしたいのなら、侮辱するとしても、それはそうさせておきたまえ。いや、そればかりか、あの不名誉な平手打ちをくらわせるとしても、ゼウスに誓っていうが、君はとにかく平然として、それを受けておればいいのだ。君がもし徳を修めて、ほんとうに立派なすぐれた人間となっているのなら、そのような仕打ちによって、君は何一つ恐ろしい目にあうことはないだろうからだ。かくして、ぼくたちは共に、そのようにして徳を修めたなら、そのときになって始めて、もしそうすべきだと思われるなら、政治の仕事にたずさわることにしよう。あるいは、どのようなことであろうと、それがぼくたちにとってよいことだと思われるなら、そのときになって勧告することにしよう。今よりは、勧告をするのにもっとふさわしい人間となってだね。なぜなら、現在のぼくたちがそうであると見えるような、少なくともそんな状態にありながら、それでいてしかも、何かひとかどの人物ででもあるかのように思いこんで、血気にはやった行動に出るのは、みっともないことだからね。そのぼくたちたるや、同じ事柄について終始考えが変り、それも些細なことについてならとにかく、一番大切な事柄について、そのありさまだのにね。--ぼくたちの無教養はそれほどのひくい状態に至っているのだよ。
 さて、それなら、いまここに現れてきたこの説を、われわれの人生のいわば道案内人としようではないかね。その説はわれわれに、生きるのも、死ぬのも、正義やその他の徳を修めながらにするという、この生活態度こそ、最上のものであることを示してくれているのだ。だから、さあ、この説に従って行くことにしよう。そして、ほかの人たちにもそうするように勧めることにしよう。君が信じていて、ぼくに勧めてくれているところの、あの説ではなしにね。あの説は何の値打ちもないものなのだから、カリクレス。
    --プラトン(加来彰俊訳)『ゴルギアス』岩波文庫、1967年。

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短大での講義ですが、ようやく哲学の概論にあたる部分を終了することができたので、(西洋における)哲学的発想の誕生から、古代ギリシアの哲学者たちのあたりまで話をすることができました。

その予習?というわけではありませんが、それを講ずるに当たり、一応、邦訳ですが、プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)の文献は読み直すようにしております。

ちょうど、土曜日から月曜にかけて後期プラトン哲学への橋渡し、ターニングポイントとなる『ゴルギアス』を再読しておりましたが、これがマア、頗る痛快です。

当時の修辞学者・ゴルギアス(Gorgias,ca. 485-c.380 BCE)との対話を通じて、プラトンに仮託されたソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)が、哲学とレトリックを区別し存在論を、レトリックの存在意義を認めつつも、雄弁と論理に戯れる実情を批判し、真剣な?営みとしての哲学の優位を堂々と主張した作品で……その主張に対する価値評価はひとまず措きますが……、プラトンはゴルギアス的レトリックを現に批判はしておるのですが、読むたびに、プラトン自身のレトリックもなかなか秀逸です。

もちろん、両者の目的意識の違いというのがあるのですが、力業では決してないですし、華麗なる酔わせるような言葉ではありませんが、プラトンの描く説得と合意を目指す対話の軌跡にはひとつおどろかされるものです。

また前期から中期にかけてのプラトンのいきいきとした筆致には、形骸化したプラトニズムには見受けられない、人間・プラトンのリアリティーを深く感じてしまうというものです。

さて……。
授業の開始前に、例の如く、学食にて日替わりランチを頂戴してきましたが、その日は、和風ハンバーグ。

きのこのあんかけソースのさわやかな味わいが秋を彩るというものです。

人を酔わせる、ないしは惑わせる言説には警戒しつつも、それが力業?であったとしても、納得と合意を目指す努力というのはいずれにしても失ってはいけないのかもしれません。

プラトン主義ないしは、真理の実在論に関するイデア論には甚だしく抵抗がありますが、プラトンそのものを読み直すたびに、その言説の力強さには、いつもながら、説き伏せられてしまいます。

素朴であってもいいのですが、なにかに裏付けられた言葉を語れる教師になりたいものです。

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しかし、困ったって、これは真実なのだ。真実だからこそ、諸君は困るのだ。僕は諸君をうんと困らせてやりたいのだ。なぜなら、それこそが諸君を最も益することとなるからなのだ。

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クサンチッペ 何者でもなくなんかないわよ。あたしはあたしで、絶対に他の誰かじゃないもの。
ソクラテス そう、そうなのだ。それは同じことの裏返しなのだが、皆にはこれがわからんのだ。いやこれはもう絶望的にわからんね。ハンチントン自身、自分が見事に矛盾することを述べていることに気づいていないのだ。
 いいかね、「文明上のアイデンティティ」と彼は言う。人は、自分が何者であるかということを何ものかにかにもとめるものだ、それがかつては国家やイデオロギーであったが、今後それは文明へと求められるだろう、なぜなら文明こそは、人が自ら選べなかった最も根源的なものだから、と。つまり彼は、人は自分には選べない文明を自分で選べる、と述べているわけなのだ。選べないが、選べる、とね。さてこれはどういうことなのか。つまり、人がその文明に属するのは、自分がその文明に属すると「思う」ことによってでしか実はないということを、この人は認めているわけなのだよ。
 とすると、自分を何者かであると思っているところのその自分は、何者でもないのでなければならないね。それをヘーゲルは「絶対精神」と言うのだ。僕等はクロアチア人、アメリカ人である以前に、等しく精神、何ものにも規定されていない絶対自由なる精神なのだよ。
 そうは言っても人間てのは気が小さい。自分を何者かと思いたい、その何者かに仲間だけで結束していたい。国益のかわりに文明益をもち出したって、事態は別に変わらないんじゃないか。何者かである自分のために、他人を蹴飛ばしても生きてやろうってこのことはね。何者でもなけりゃ、損得だってないんだから。この世の精神たちが残らずこの当たり前な事実に気づいて、理性の王国が地上に実現するまで、あと二千年はかかるかなあ。
クサンチッペ なに、しょげてんの?
ソクラテス いや、そうでもないけど。
クサンチッペ いいでない、どうせ変てこなこと言ってんだから。
ソクラテス だって、僕が言ってから二千年経ったって、やっぱりこうなんだぜ。
クサンチッペ 国があるんだから、戦争があるの、当たり前さね。
ソクラテス ああ、国ねえ。国なんてのも、人間の考えが作ってるにすぎんのにねえ。
クサンチッペ あら、でも、あんただって、アテナイの名誉だとか国家の正義だとかしょっちゅう皆にぶってるでないの。
ソクラテス うん、お前、いいこと言った。まさにそのことなのだ。
 僕が「国家」と言う。国家の「正義」と言う。いいかい、繰り返すよ、
 <自分自身のことを顧慮する前に、自分に属する事柄を顧慮しないように、また、国家そのもののために顧慮する前に、国家に属する事柄を顧慮しないように>
 さっき僕は、自分に属する事柄以前の自分そのものとは何者でもないと言った。では、国家に属する事柄すなわち国益以前の国家そのもの、とは何か。やはり何ものもありはしないのだよ。わかるかね、現代世界の諸君。
 しかし現に国家は在る、と皆は言うね。そう、確かに国家は在る。在ると信じて人々がそれのために血を流す。しかし、だ。国家を作っているのは一人一人の人間だ、一人一人の人間以外のどこか別のところに国家があるわけじゃない。なぜなら、人間を考えずに国家だけを考えることはできないのだからね。ところで、一人一人の人間とは、実は何者でもなかった。それなら、何者でもないところの人間たちによって作られている国家なんてものが、何ものかであるはずがないじゃないか。
 しかし君だって「国家」と言う、国家の正義と言うではないかと皆は言うだろう。そうだ、僕は言う、「国家」を、その正義をこそ考えよ、と。いいかね、僕は国家なんてものが、僕が何者でもない以上、何ものかであるなんて認めちゃいない。なのに、その何ものでもない国家のための「正義」と言う。これは、どういうことか。
 つまり僕は言っているのだ、国家とは何者でもないというこのことを正しく認識せよ。これが正義だ、「国家の正義」だ。何者でもない国家のための国益を求めるな。これが名誉だ、「国家の名誉」だ。国家を何ものかであると考えること、そのことによる行為、それは不正だ、国家に対する不正と不法なることは明らかなのだ。
クサンチッペ 要するに、みんなみっともないことすんなってことでしょ。
ソクラテス どうしてお前はそうやって一言で言ってくれるのかしら。しかし、要するに、そういうことなのだ。じゃ、ここはひとつ岩波文庫訳で朗々たる『弁明』といくか。
<私は諸君に断言する。私にして若しつとに政治に携わっていたならば、私はもうとっくに生命を失ってしまっていて、諸君のためにも私自身のためにも何の裨益するところもなかったに違いないからである。今私が真実を語っても怒らないように願いたい。諸君に対し、または他の民衆に対し敢然抗争して、国家に行われる多くの不正と不法とを阻止せんとする者は、何人といえどもその生命を全くすることが出来ないであろう、むしろ、本当に正義のために戦わんと欲する者は、もし彼がたとえしばらくの間でも生きていようと思うならば、かならず私人として生活すべきであって、公人として活動すべきではないのである>
 つまりね、政治家も民衆も、必死になって生きようとしているわけだろう。自分を自分と信じたり、国家を国家と信じたり、互いに蹴飛ばし合ったりしながらね。ところへ、僕みたいなのがのこのこやってきて、君たち何だって生きようとしているのかね、何のために生きるのかね、なんて言われた日にゃ、誰も困っちまうということなのだ。
 しかし、困ったって、これは真実なのだ。真実だからこそ、諸君は困るのだ。僕は諸君をうんと困らせてやりたいのだ。なぜなら、それこそが諸君を最も益することとなるからなのだ。
 さあ、まず、君は誰かを言ってみたまえ。
    --池田晶子「教授の警鐘『ハンチントン』」、『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』新潮文庫、平成十四年。

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これまで6年弱、短大で「哲学」の教鞭をとっているのですが、これまでの6年間、前期・後期とも同じ曜日の同じコマでした。

それが本年後期より、曜日は同じですが、一コマあとにずれました。
その「ずれ」にすこし彩り鮮やかな驚きを感じる宇治家参去です。

ただ、6年弱設定されていた授業時間……昼食後の3コマ目……に合わせて躰も設定されているようで、本日も同じ時間におき、大学へ向かい、1コマ余裕のある1日をおくらせて頂いた次第です。

例の如く、八王子駅周辺が路上喫煙禁止地域ですし、大学構内でも喫煙場所が限られておりますので、TULLY'S COFFEEの喫煙ルームにて珈琲で煙草をぷかぷかしてから、教員バスにて大学へ向かった次第です。

到着してから配布物をコピーしたり準備を整えていたわけですが、それでもやはり1コマ余裕がありますと、これは90分余裕がありますので、さきほど新設された大教室棟や広場をまわってから、ちょうどかきいれどきをはずれていましたものですから、新しく完成した食堂にてランチを取ってみました。

これまでですと、だいたい、駅蕎麦ですませて授業に向かうというパターンが殆どでしたが、やはり余裕があるとはいいものです。

日替わりランチ……本日はハンバーグ定食……をいただき、テラスにて喫食です。

へんな言い方ですが、目が飛び出るほど、ウマイというわけではありませんが、冷凍レトルトとか温食ですませているわけではありませんので、それなりに手が込んでい、これで450円ならばリーズナブルだろう、景色は良いし!……と思いつつ、授業開始前のひとときを堪能させて頂いた次第です。

さて……。

ゆっくりと余裕をもちつつ、準備万端で授業に臨んだわけですが、哲学の講義をするなかで、いちばん大切にしているのが「動執生疑(どうしゅうしょうぎ)」ということです。
もと仏教に由来する言葉ですが、相手の執着している心を揺り動かし、これまで当然そうだと思っていた考え方とか発想とかは果たして正しいのか? 本当はどうなのか?……と疑問を生じさせ、それにより、現状を点検してこなかった自覚を与え、そこからより高い次元へと目を開かせる変革原理といってよいでしょう。

アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)は、「哲学とは驚きから始まる」といい、ソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)は、そうした、考えるに値しないと思い込んでいる億見(ドクサ)を破壊するために対話を重ねたものです。

そうした示唆をあたえ、自分自身で現状を点検し、再び考えてみる……そこにもどることができれば、ひとは哲学し始めることができるのでは……そう思い、「動執生疑」をテーマとしております。

冒頭に引用したのは、哲学者・文筆家として知られる池田晶子(1960-2007)の、ソクラテスの対話篇風エッセーからの引用です。

プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)の手によるソクラテスの対話をよくぞここまで現代風に蘇らせたものだよな……と思われて他なりませんが、そこで語られているが如く……

「しかし、困ったって、これは真実なのだ。真実だからこそ、諸君は困るのだ。僕は諸君をうんと困らせてやりたいのだ。なぜなら、それこそが諸君を最も益することとなるからなのだ」

……ある意味では意地悪かもしれません。

しかし、これはこれなんだ!と思っている先入見を打破し、「うんと困らせ」やることによってこそ、その問題をもっと根源的に考え直すことが出来るのかなと思うからです。

まあ、親心とでも思ってくださいまし。

ソクラテスほど対話の銘酒……もとい、名手でもありませんし、パロールとしての講義もヘタクソですが、そうした先入見を穿つ、ひとつのきっかけとなる授業を展開していこう……といつも思っております。

しかし!!!!

授業を始める前に、学生が驚く前に自分自身が驚いてしまいました。

宇治家参去は、知的レベルと生活習慣がアル中の小学生?並ですので、いつも前夜寝る前に、鞄の中身を準備し、明日着ていく服装を衣紋掛けにかけて臨みます。

講義では基本的にパワーポイントを使用しますので、その使うファイルを外部ストレージ……私の場合は、16GBのSDHCカードに保存し、小さなUSBアダプター……にそれを収めて、大学の教室のPCから出力するようにしております。

以前は、自前のPCでやっていたのですが、最近、ちょいと面倒になり、教室に備え付けのPCにて対応するようにしました。
これにより、荷物がぐんとへり、こうしたSDカードを初めとする手軽な外部記憶装置の日進月歩の発達には手を合わせてしまうものです。

さて、授業開始10分前……。

PCを立ち上げ、USBスロットに差し込んだところ、ディスクが表示されません。

「ひょとして……」

「ひょとして……」

USBアダプタを開いて確認すると、そこにはなんとSDカードが入っていないではないですか!

人間が祈り始める瞬間というのはこういうひとときかもしれません。

「まぢっすか」

学生を驚かして困らせてやろうと目論んでいた教員が、自分自身の手によって驚かされ困らされてしまいました。

これが俗に言う「自爆」なのでしょう。

自爆のままほっておくこともできないので、脳みそフル稼動で代換え案を模索したところ、そういや前期のパワーポイントファイルを、学内のポータルサイトにUPしていたはずだ!

……ということを思い出し、それをダウンロードして……今日はガイダンスなので内容的にはほとんど前期のそれと大差がないので……活用した次第です。

足下をすくわれるというのはこうしたことをいうのかもしれません。

皆様もご注意下さいまし。

……ということで明年1月まで、眠りを覚ます“虻”と任じたソクラテスの如くの対話=講義をがんばります!

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「もう後期の授業がはじまるのか」

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 日常生活においては、我々は表象と思惟とを取りちがえる。我々は想像力の表象にすぎないものをも思惟においては、我々は事物から外的な単に非本質的なものを切り捨てて、事物をただその本質においてのみ取りあげる。思惟は外的現象を突き抜けて事物の内的本性にまで徹し、内的本性をその対象にする。思惟は事物の偶然的なものを除去する。思惟は事物を直接的な現象としてあるがままに見ないで、非本質的なものを本質的なものから切り離し、従ってそれを捨象する。--直観においては我々は個別的な対象を目の前にもつ。思惟はそれらを互いに関係させ、またそれらを比較する。比較によって思惟はそれらが互いに共通にもつところのものを取りあげ、それらを区別するところのものを取り除き、それによって一般的な諸表象を獲得する。--一般的な表象は、この一般的なものの下に従属している個々の対象よりも規定性をより少なく含んでいる。なぜなら、一般的なものはまさに個別的なものの除去によってのみ得られるものだからである。それに反して一般的なものは自分の下により多くを包摂する。云いかえると、ずっと大きな外延をもつ。思惟が一般的な対象を作り出すかぎり、思惟には抽象のはたらきがある。そしてそれによって一般性の形式を獲得する。例えば、「人間」という一般的対象の場合のように。しかし、一般的対象の内容は、抽象作用としての思惟には属さない。それは思惟に与えられており、思惟から独立にそれ自身で存在している。
    --ヘーゲル(武市健人訳)『哲学入門』岩波文庫、1952年。

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気が付くと本日より、短大の講義でした。

授業の仕込み‥‥といってもガイダンスと導入講義だけですが‥‥自体は、先週のうちに済ませておいたので、これから徹夜でどうのこうのするということはないのですが、

「もう後期の授業がはじまるのか」

そのことだけをしみじみと感じ入っております。

いわば、夏休みが終わるとでもいえばいいのでしょうか。

学生さんたちからすればまさに現実的には「夏休み」がおわるわけです。
宇治家参去の場合、別に今日まで1ヶ月弱夏休みがあったわけでなく、学問の仕事も、市井の仕事も連綿と続いているわけですが、やはり毎週一度とはいえ講義していた状況から、ぽっかりとそれが抜けていた時間がつづいておりましたので、似たような感慨を抱かざるを得ません。

先年より半期15回講義が制度化されたものですので、祝日など関係なく講義は組まれるのですが、それでも去年の後期初回の授業が9月の20日過ぎからだったよな~などと振り返りますと、早いスタートであることは間違いないようです。

宇治家参去が学生時代--90年代の大学空間--、記憶によれば、大体7月の中旬には前期がおわり、後期の開始は、9月の最終週ぐらいからだったような思い出があります。
そこから比べると現在の学生さんたちは、大学の違いももちろんありますし、義務教育での夏期休暇に比べるとそれでも当然ながい休暇であるわけですが、自分の時代よりもちょいと休みが短くなったのかしら‥‥と思われます。

‥‥ということで?
授業もはじまるわけで‥‥と思い、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)の講義録といいますか、哲学を素描した文献を再度ひもとく夕べです。

哲学と聴けば「固くて」「難しく」「徒手空拳」の嫌いは否定できません。
しかし、「固くて」「難しく」見えるものでも、じっくりとその対象と向かい合い、発掘作業を行いつづけると、そのリアリティが立ち上がるというものです。その作業は傍目からすれば「徒手空拳」に見えなくもありませんが、その発掘作業や労苦を自分自身で丹念にやっていくことができれば、実にそれは「徒手空拳」ではなく、「酔拳」ぐらいにはなるものが不思議です。

冒頭ではヘーゲルの文章を古い訳ですが紹介してみました。
実はこの思惟の作業にこそ哲学の醍醐味があります。
しかし、実はそれと同時に哲学を難解なものへと誘う原因も存在します。

哲学とは、特定の枠組みに影響を受けないというところにひとつの特徴があります。
ひらたくいえば、キリスト教徒でなければ理解できないとか、イスラームの人々でなければ理解できないとか、日本人でなければわからない‥‥そうした限界を打ち破る共通了解を目指す言説がその特徴です。

西洋哲学の祖タレス(Thales of Miletus,ca.624 BC-ca.546 BC)は「万物の根源(アルケー)とは何か」をとうなかで、それを「水だ」と指摘しました。

万物の根源が水であるのか、それとも原子であるのか、それとも他の何かであるのか、その議論はひとまず措きます。

しかし、注目したいのは「水だ」と宣言したことであり、その言い方・問い方なんです。

それまでの世界像では、万物の根源は「神」である的思考が濃厚でした。
信仰としてはそうした言説で成立します。
しかし、お互いに異なる文化・信仰をもつ者同士が向かい合うとき、そうした言い方ですと、限界が訪れざるを得ません。

タレスは、「世界はだれがつくったのか」という当時の一般的な問いを「万物の根源とは何か」という問いへと転換しました。そのことによってユダヤのひとびとも、ギリシアのひとびとも、またペルシアのひとびとも「参加」できる「テーブル」が準備されたわけです。

「世界はだれが創ったのか」

「ユダヤの神が創った」
「ゾロアスタの神が創った」
「ギリシアの神々が創った」

という議論では、平行線をたどりつづけ共通了解を得る事が出来ません。

しかし、「万物の根源とは何か」という問い方に対しては、お互いが真摯に議論できるわけですから、ここに西洋の哲学史はひとつの出発点をおいております。

ですから、タレスが「水」と宣言した後、議論はまさに百花繚乱のごとく、もりあがっていきます。そこから特定の文化的伝統・枠組みにとらわれない、共通了解を求める探究がはじまったといっていいでしょう。

その意味で哲学的問い・探究とは「開かれた地平」を開拓する探究といってよいかと思います。

しかしながら、問題点もあります。
そしてそれが哲学を「難解」にさせている原因です。

たしかに「世界は○○の神が創った」という言い方を哲学は遠慮します。
そのかわり「水」とか「火」とか、そうした概念を持ち出します。
これはなにかといえば、まさにリアルな物語的思考から抽象的思考への転換を意味しています。

ヘーゲルが「思惟」に関して言っているとおりです。

「我々は事物から外的な単に非本質的なものを切り捨てて、事物をただその本質においてのみ取りあげる。思惟は外的現象を突き抜けて事物の内的本性にまで徹し、内的本性をその対象にする。思惟は事物の偶然的なものを除去する。思惟は事物を直接的な現象としてあるがままに見ないで、非本質的なものを本質的なものから切り離し、従ってそれを捨象する」

たしかに、議論する対象がリアルなものである場合、イメージしやすくその実像をダイレクトにつかみとることが容易です。

しかしそうしたアプローチを伝統的に哲学は避けます。
それをもっと大きく包括するような視点……言い換えれば普遍性の探究……を大切にしますから、どうしても「特殊なリアリティ」を論ずるよりも、そこから導かれる「一般的な共通項」を大切にします。

その際、不可避的に発生するのが、「抽象的言語」の多様という事態です。

これが初学者をどうしても躓かせてしまいます。

ひらたくいえば、「読んでいてわからない」というわけです。

しかしもとを返せば、抽象化された概念は、抽象化された概念として自存しているわけではありません。制度学問として、できあがった構築物として見た場合たしかに「抽象化された概念」として自存しているように見えることは否定できませんけれども。

しかし、抽象化されていく過程、その言葉の意味、流通経路、変遷……を丹念に探究していきますと、実にこれがリアルな概念として、向かいあう人の前にたちあがってくるものです。それが難儀なわけですが、そこに醍醐味があります。

通俗的な憶見(ドクサ)を突く、そうした講義にしていきたいと思うわけですが……、はやめにいっぺえやってから沈没することにします。

どうも、風邪はなおったのですが、持病の喘息がぶりかえてしてきたようなので、ちょいと念入りなアルコール消毒が必要なようです。

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訳に立たないものを求めようなどとは、誰一人として同意しないから

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(85a)親切の定義と説明 次に、人々は誰に対し、どのようなことがきっかけで、また自分自身がどのような状態にある時、親切心を持つかという問題であるが、これは親切を定義したなら明らかとなることであろう。
 それでは、それを持っている者が親切心があるとされる所以の親切であるが、それは、困っている人に対し、何らかの見返りとしてでもなければ、手助けする人自身が何かを得るためでもなく、かの者になにか役立つことが目的で手を貸すことである、としておこう。だがその手助けも、必要の程度が非常に大きい者に対してなされる場合、或いは必要としているものが重要で手に入るのが難しいとか、必要としているのが重要かつ困難な時期であるといった場合、或いはまた、手を貸すのが彼一人だけであるとか、彼が最初であるとか、彼の手助けが特に必要とされているという場合には、大きなものとなるであろう。
 だがここで言う必要とは欲求のことである。そして欲求の中でも特に、手に入らない時には苦痛を伴うようなものへの欲求である。そのような欲求としては、例えば死のような欲望がそうであるし、また身体が痛めつけられている時や危険に曝されている時に抱く欲望もそうである。なぜなら、危険に曝されている者や苦痛の中にある人は何かを欲し求めているからである。それゆえ、貧乏な時や国外追放になった時に力になってくれる人々は、たとえそれが僅かな手助けであっても、その必要が深刻なものであるとか、手助けの時期が当を得ているという理由で、親切な振舞いをしたことになるのである。例えば、リュケイオンで筵(むしろ)を与えてくれた人がそうである。それゆえ、当然のことながら、手を貸す際には、相手が必要としているのと全く同じものにおいてそれを行うのが最善であって、もしそれができない時には、それと同程度か、もしくはそれより大きなものにおいて行われなければならない。
     弁論の進め方 さて、いかなる人に対し、いかなることがきっかけで、また、自分がどのような状態にある時に親切を行うことになるか、は明らかになったのであるから、したがって弁論に当たっては、これをもとにして、一方の人々については、そのような苦しみと必要(困窮)の中に現にある、もしくはあったということが、他方の人々については、そのような逼迫した状況にあって、そのような手助けをしてきた、もしくはしているということが、はっきりするようお膳立てすべきであるのは言うまでもない。
 一方、親切に振舞っている人々から看板を取りはずし、彼等を不親切な人間に仕立てることは、どのような議論によって可能かということも、また明らかである。つまり、彼らは自分自身のために手助けをしている、もしくは手助けをしたのだ、ということか(定義によれば、このことは親切ではないとされたのである)、或いは、たまたまそうするめぐり合わせになったのだとか、強制されてそうせざるを得なかったのだとか、彼らは、知ってか知らずかにはともかく、借りを返しただけであって、親切を与えたのではない、などということを明らかにすればよいのである。なぜなら、最後の場合は、知る知らないのいずれにしても、それは事実上の見返りであり、したがって、この点から見ても親切心とは言えないからである。
     親切のカテゴリー また、親切については、すべてのカテゴリーにおいて考察しておく必要がある。というのは、示された好意かどうかは、それは具体的な何(実体)であるかとか、これだけのもの(量)であるかとか、このようなもの(質)であるかとか、何時与えられたか(時)とか、何処で与えられたか(場所)、など理由で決まるからである。
     不親切 もし、必要とされているより小さな手助けも与えようとしなかった、とか、敵に対し、われわれに対するのと全く同じか、またはそれに匹敵する位にか、またはそれより大きい手助けを与えた、というのであれば、それは親切心を欠いていることの徴である。なぜなら、それらの援助がわれわれのためを思ってのものでなかったことは明かであるから。また、役に立たないことを知りながらそれを与えるという場合も、そうである。なぜなら、訳に立たないものを求めようなどとは、誰一人として同意しないから。
    --アリストテレス(戸塚七郎訳)『弁論術』岩波文庫、1992年。

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昨年から通信教育部のレポートを見るようになり、先月ではや1年を迎えましたが、昨年の記憶を振り返るならば、この3月は比較的件数が少ないという印象が色濃くあったのですが、今年は4月にレポート課題の内容が更新されることがりゆうになっているのでしょうか……昨年にくらべると若干件数が多くなっていることに驚きと喜びを感じる宇治家参去です。

人間という生き物は、アリストテレス(Aristotle,BC.384-BC.322)の言うとおり、驚きと喜びがあってこそ、そこから探究がはじまるというものですから、予想外の出来事ですけれども、大量に送付されてきたレポートと向かい合いつつ、そこから何か驚きと喜びを発見したいものでございます。

来週はチト忙しいので頑張って1/5ほど一気に添削すると夕方……。
日中、論文執筆ができなかったので、夕食そして夕食後の子供との怪獣ごっこだかアニマル・カイザーごっこだかで体力消耗後に課題に取りかかろうと思案していたわけですが、見事に頓挫です。

全っき他者からすると……ただしレヴィナスにおいてはすべての存在が全っき他者なわけですがそれはひとまずおいておき日常生活で使用されるレヴェルでの言語運用という意味での……それは、それで「マア、どうでもいいや」って事件であり、お恥ずかしい話で古典落語のネタにもなりませんが、うちの一人息子殿が肴……もとい……魚の骨を喉に詰まらせてしまい、民間療法?をためしてみますが……マアとれずというやつで、病院へいってきました。

すでに19時をすぎておりますので、地域の病院にいくわけにもいかず……。

ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を気取るまでもなく、この程度で救急車呼ぶ輩はいねえだろう……というのが武家の常識でございますから、地域の救急医療ダイヤルに電話をかけ、担当医が在籍している病院を紹介してもらい、K大学大学病院へ直行です。

門外漢なのでおどろくところですが、案内されたのは、電話で言われたとおり耳鼻咽喉科で、先生に診察していただくと、

「奧まで入っているようなので、鼻からナニをいれて……」

横で聞いている息子殿にもその様子が理解できたのでしょう……久し振りに120%充填した波動砲@「宇宙戦艦 ヤマト」の如く抵抗の豪泣を展開しましたので、

「だいたい2-3日でほとんどとれますから、炎症止めの薬なんかだしますから、様子みますか。それでもダメなら近くの耳鼻科で診察してもらってください」

……とのことにてクローズ。

安心した息子殿は俗に言う「泣き疲れ」たのでしょう……スヤスヤと眠り始めクローズ。

「結局骨はとれず、何だったんだ……?」

とポツリと言葉出てくるわけですけれども、

「難だったんでしょう」

と細君がいう。

ともあれ、こういう気持ちが釈然としないときは、アリストテレスの『弁論術』が一番です。アリストテレスはその主著『形而上学』の描写・発想の進行で見られるように、師匠・プラトン(Plato,BC.427-BC.347)とちがって、どうしようもない感情をきちんと整理して議論の俎上にのせてくれるのが実にウマイ哲学者でございます。

もちろん近現代の哲学者からしてみますと、それでもその議論は、広大でアイマイ過ぎると評価されてしまいますが、その著作に向かい合うと、そのおおらかさは、人間の感情を切り刻んで排除せず、うまく言葉にならない感情を言葉に導いてくれる一抹の優しさを含んでいるんだよなと実感すること度々です。

親と子の間で、親切・不親切ということが議論になるということほど悲しいことはないんだよな~と整理しながら、それを素で同苦しながらやっていくことができるようになるなかで、実は、全っき他者に対しても、素で親切になっていくのかな~などと願いつつ、気が付くと「土佐鶴」に手が伸びていました。

論文一行も進まず。
ただし、子と親の親愛の情は一行ぐらいはすすんだのでしょう。
しかしの一行は万巻の書に代え難い一行なのかもしれません。

それは実は親子の問題に限られた地平だけではないのだろうと思います。
人間は社会的存在としてあらゆる関係性という全体のなかで、自己自身と他者自身を向き合わせながら生きている生き物ですが、その生活の中で、関係性のなかで要求されてくる声なき声に少しだけ耳をかたむけると、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)なんかのいう他者の責任要求なんかをすこしばかり理解でき、孟子(Mencius,BC.372-BC.289)のいようなかたちで、はっとしてなにか動き出してしまう、チト美しいあり方が現出するかなア……などと思うところでして。

「それでは、それを持っている者が親切心があるとされる所以の親切であるが、それは、困っている人に対し、何らかの見返りとしてでもなければ、手助けする人自身が何かを得るためでもなく、かの者になにか役立つことが目的で手を貸すことである、としておこう」。

くどいようですが、別に親切をしたとも思いませんし、結果論からいうなら病院に連れて行かなくても骨はとれず……ならば病院に連れて行く必要もないと判断して、そのことを実践してそれが不親切かどうかというそれもどうかなと思うわけですけれども、いずれにせよ、大切なのは、生活の中で、目の前で難儀しているその当人に対して、どれだけ眼差しとして歩み寄っていくことが出来るのか……またひとつ試された思いがします。

〝骨折り損のくたびれもうけ〟という言葉は功利主義的経済環境においては蛇蝎のごとく忌み嫌われているあり方なのでしょうが、実はその〝骨折り損のくたびれもうけ〟というのは、なんとなくここちよい疲労感でもあるわけなんですよね。

「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」という言葉がありますが、難儀をさけてうまく立ち回っていくのか(=それは要領の良いことでもないし、さけるべき難儀も現実には存在する事なんて承知の助ですが)、それとも、そこに人生の意味を見出していくのか……ひとつ考えさせられた宇治家参去です。

ただし……「死して屍拾う者なし」@大江戸捜査網ぢゃなくて……、
前述した民間療法……骨を喉に詰まらせたときに、ご飯をのみこむ……とは俗説でかえって状況を困難にする一か八かのあり方のようでございます、耳鼻科の先生がおっしゃっていました。

やってはいけない。

……のだと。

ちなみに「そういうときどうすればいいのですか、初期行動として」

……と聞くのを忘れてしまったのが、残念なところです。

ホワイトデーのために準備した蘭の花が今を盛りとばかりに華開いております。

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「人間は万物の尺度」だけでもないだろう

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 一 真理とは何か--真理とは何か、といふことは長年の間研究されたことであり、又それはすべての人類が実際探究し又はするやうな振りをすることであるから、真理が如何なる点に存するかを注意深く吟味し、心が如何にして真理を誤謬と区別するかを認める位に真理の性質を知ることは我々の為し甲斐のあることであるに違ない。
 二 符号、即ち観念又は言葉の正しい結合或は分離--さて真理とは、その言葉の本来の意味に於ては、符号によつて指示される物が相互に一致し又は一致しないに従つて、その符号を結合し、又は分離することを意味するに他ならない、と私には思はれるのである。此処で意味する符号の結合又は分離とは、我々が命題といふ別の名前で呼ぶことである。であるから真理は本来命題にのみ属する、これに二種、即ち心の命題と言葉の命題のあること、通常用ひられる二種の符号、即ち観念と言葉があるが如くである。
 三 これによって、心の又は言葉の命題が生ずる--真理の明白な観念を作るためには、思考の真理と言葉の真理とを相互に明確に区別して考へることが非常に必要である、しかもこれ等を別々に取扱ふことは非常に難しい。何故なれば心の命題を取扱ふ場合に言葉を用ふることを避けることは出来ない、さうすれば心の命題に就いて与へられる例は直ちに単に心的ではなく言葉の命題となるからである。
    --ジョン・ロック(加藤卯一郎訳)『人間悟性論 下巻』(岩波文庫、1940年)。

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ちょうどソフィストとソクラテスの問題を講義で論じていたので、相対性と普遍性に関して少し悩んでみる。

ソフィストの代表的人物のひとり・プロタゴラス(Πρωταγόρας,B.C.500?-430?)の有名な格言に「人間は万物の尺度である」という言葉があります。すなわち、物事には絶対的な基準などない、すべてひとによって、その立場によって、ものごとの基準はさまざまに解釈されるだけだという発想です。
※プロタゴラス自身はそのような意味でこの言葉を吐いたようではないのですが、「通俗的な」ソフィスト的発想としては、そのように解釈するのがわかりやすいかと。類型化の暴論であることは承知の介ですが。

確かに「人間は万物の尺度」なのでしょう。
何によって判断するかはさておき、確かに判断を下し、価値評価を行う人間は「万物の尺度」なのでしょう。しかし、それだけでもないよね……というのが現実的な生活感覚です。

こうした発想をつきつめていくとどうなるのか。
ある意味では相対主義の絶対化とでも表現できる立場だと思われますが、つきつめてしまうと、その人自身の立場そのものの絶対化という現象を招来してしまい、他者を尊重する寛容性が喪失してしまいます。

そしてもうひとつは、わたしにも、そして、あなたにも関わりのある問題を拒絶してしまい、自閉的空間内だけでの独白という状態を導き出してしまうと思います。もちろん、これは自ら進んで、そう行った結果というわけなのですが、不毛な空間が到来することには間違いありません。議論のテーブルにつかず、自ら退場してしまうとでもいえばいいでしょうか。

さて、独白しかないならば、そこには言葉が交差する会話とか対話という、お互いが向き合う契機は全く存在しないことになります。だからこそソクラテス(Σωκράτης,B.C469頃-399)は、真理を導き出すにあたって、あくまでも対話にこだわったのではないだろうか……などとも想像してしまいます。

人間の発想・判断・実践には出発点としては、どうしても個人的な関心からスタートせざるを得ません。それが先入見の自覚という問題にはなるのですがそれはひとまずおき、そうした出発点としての個人的な背景から誰もが出発するわけですが、そこにのみこだわってしまうと、相手の存在を認めないソフィスト的発想になってしまうのだろう思います。それに対してソクラテスの場合、わたしにもあなたにも共通するような、そして共感するような何かがあるのじゃないだろうか……ないしは、そう考えざるを得ないよなって思う力強い考え方があるはずだ……そういう発想があったのだろうと思います。

「それが何かは分からないが、普遍的な(=誰もがそう思わざるをえない)なにがしかはあるはずだ」

それがソクラテスの出発点にあったと思います。
少し先走れば、「そのなにがし」かをソクラテスは語る前に刑死してしまいますので、弟子のプラトン(Πλάτων,B.C.427-347)は「そのなにがし」かを語る必要があったわけです、そこで出てくるのが、宇治家参去の苦手なイデア論というわけですが。

話を戻します。

そして、そのだれにでも当てはまるような、そしてそう考えざるを得ないようなものがあるはずだということで、対話に明け暮れたのがソクラテスの生涯だったわけですが、そいう生き方を見つめ直してみますと、人間と人間が向かい合いながら、何かを紡ぎ出していく、そして共通了解をしていく、そしてお互いの尊厳性を尊重しながら、寛容を確保する……そういう方向性への示唆が見えてくるように思えて他なりません。

自分自身としても、まだ普遍とはどの位置に定位するのか実のところ全く見えておりません。
そして、相対性も尊重しなければならないのも理解しておりますので、どのあたりの距離感が適当なのか、模索をしております。最終的には適切な答えなるものが出てくるような気もしませんが、この生活世界のなかで、ひとつひとつ、お互いに確認しながら、ちょうどよい距離感を見いだし、そして共通に関わる問題を問題としてともに検討していくなかで、実は「カラダで覚える」のが実情なのかなあなどと今は感じております。

本当はもう少し書きたいのですが、ぼちぼち市井の仕事の休憩がおわりますので、また次回?ということで。

しかし相対と絶対、普遍と個別、そしてその中央に位置する真理の問題は哲学者にとっては永遠のテーマ(永遠に答えが出ない?が、探求を怠ってはいけないテーマ)のひとつなのでしょう。

冒頭に引用したジョン・ロック(John Locke,1632-1704)もそのへんの微妙さを語っているなあなどと思ってしまいます。

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 三 これによって、心の又は言葉の命題が生ずる--真理の明白な観念を作るためには、思考の真理と言葉の真理とを相互に明確に区別して考へることが非常に必要である、しかもこれ等を別々に取扱ふことは非常に難しい。何故なれば心の命題を取扱ふ場合に言葉を用ふることを避けることは出来ない、さうすれば心の命題に就いて与へられる例は直ちに単に心的ではなく言葉の命題となるからである。

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さっ、仕事にもどろ。

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許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない

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 哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない。なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。また両者ともに、有限なものの領域、すなわち自然および人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての神とそれらとの関係を取扱っている。したがって哲学は、われわれがその対象を識っていることを前提しうるのみならず、それを識りそれに関心をもっていることを前提しなければならない、とさえ言える。このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用によってのみ、思惟的な認識および把握へ進むのであることを考えただけでも明らかである。
 しかし、思惟的な考察をしてみればすぐわかるように、思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである。したがって単に対象を識っているだけでは不十分であり、また前提や断言を作ったり承認したりすることは許されないことである。しかしそれとともにはじめを作ることの困難が生じてくる。なぜなら、はじめは直接的なものであるから、それは前提を作るものであり、あるいはむしろそれ自身前提であるからである。
    --ヘーゲル(松村一人訳)『小論理学 (上)』(岩波文庫、1978年)。

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自分としてはいい講義ができなかったなと喘ぎ・実感したときの方が、「よかった」「深く考えることができた」という反応が多い。あとで、学生さんからの感想を読んでいるとそうなのである。また逆に、今日はなかなかナイスな講義となったと満足したときは、「難しかった」「なかなか理解出来なかった」という声が多く寄せられる。しかし、この謎はまだ解明されていない。

さて形而上学としての哲学とはいわば、根本的な根拠を探求する知的試みとなるわけです。
形而上学(Metaphysica/Metaphysics)は、ギリシア語の μεταφυσικάに由来する言葉で、アリストテレス(Aristotélēs,384 BC-322 BC)がそのままの書名の著作を遺しておりますが、physica(自然)のmeta(あと・奧)を探求するという意味をもっています。ですので、自然現象や物理的な存在、そして概念的な対象が存在する理由や根拠についての問い、そしてそれをめぐる議論のことと言ってよろしいかと思います。そのため問いとしては、「それが何か」というおりも「なぜそうなのか」という問いかけが形而上学的な問いかけということができると思います。

いつもの如く、きわめて極初回の講義では、「なぜ人を殺してはいけないのか」議論させることにしております。
こうした議論をさせると、やはりよく寄せられるのが「考えてもみなかった」「殺してはいけないから殺してはいけないと思っていた」というものである。その意味で知的刺激にはなるのでなかろうかと思う。

たしかに、人を殺す行為は、“善い”とはされない行為であり、称賛もうけなければ推奨もされない在り方である。
しかしこのことは、いつまでたっても、前提的なものとして受けとめてしまうと、根拠のない、他律的なルール、ないしは、酷いいい方になってしまうけれども、「理由はよくわらないかが守った方がよい」強制として機能してしまう。

そうした問題に関しては、自分の中である程度は「なぜそうしてはいけないのか」という前提に対する反省がない限り--たとえ、なんらかの結論が出ないまでも--それはそのひと自身の掟にはならないのではないだろうか--そんなことをよく考えます。おそらくそれがカントのいう内面からの絶対命令としての定言命法へとリンクしていくものだとは思うのですが。

形而上学としての哲学は、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)が言うとおり、「対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりする」ので、何に対してもまず「なぜそうなんだ」というぐらいでやっていくのがよいでしょう。

ひとはときにふれ、いろいろな問いを発します。「何」「どれ」「どこ」--。
さまざまな問いが生きている人間存在を取り囲んでいます。しかしそうした種々雑多な問いかけの中で、より根源的な問いかけである「なぜ」(=形而上学的問い)を大切にしたいものです。

詳細は割愛しますが、比較的時間をかけて議論させると、やはり議論している学生さんたちの頭の中は飽和状態になってしまうわけですが、じっくりと考える機会にはなったことなのだろうと思います。こうした問題は四六時中考えると、頭が煮詰まって社会生活が社会生活をおくれなくなってしまうように働いてしまいますが、ときおり、当然と思っている「前提」なるものを根源的に疑い、その根拠を自分で探求することは必要だろうと思います。ただくどいようですが、探求仕舞だけで終わらせても問題で、探求と探求によって掴んだ考え方を対話によって相互交流する中で、すこしだけ自分も他者も前へ進めるのではないだろうかと思います。

木の枝から地面に落ちるリンゴという“現象”をみて、その落下を記述し、落下の有り様を説明することよりも、「なぜそのような現象が存在するのか」ということを考えてみるのも面白いかも知れません。

アリストテレス曰く

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しかしいまここで我々の語ろうとするところ(引用者註--形而上学のこと)は要するにこうである、すなわち、知恵(ソフィア)と名づけられるものは第一の原因や原理を対象とするものであるというのがすべてのひとびとの考えているところであるというにある。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 (上)』(岩波文庫、1959年)。

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だから哲学する人の議論は錯綜し、書物が難解になってしまうのでしょう。

さて、ご存じの通り、八王子市は駅前での路上喫煙が制限されており、喫煙スポットが要所に設けられておる地域です。愛煙家としては、喫煙スポットが出来たおかげで逆にありたがいなあと思うようになったわけですが、一服しておりますと、となりでカチカチ、カチカチと音がする。ライターがなかなか着火しないようでした。
これは愛煙家としてはきわめてイタイ状況です。
吸いたいのに吸えない。
さりげなくライターの火を差しだす。
笑顔が交差する。

ライターの炎で、お互いの心が明るくなる瞬間です。全く知らない方と久し振りに心が交差した一コマでした。

これがタバコの良いところです。

では「なぜタバコを吸うのか」そうした根源的探求も時には必要かも知れませんが、時間が無く考察しておりません。

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仁愛の感覚は、人間の生得的善性のひとつの現れ

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正義にしても愛にしても、その問題は人間という存在をどのように理解し、そしてその当人と他者との関係はいかなるものであるか、といった問題を抜きに語ることは決して出来ない。その意味では両者の問題には密接な関係が存在する。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の後半部で、「友愛(フィリア)、φιλία 」について論じている。

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事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』(岩波文庫、1973年)。

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人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ないのだが、しかし、正義の人であっても、なお友愛が必要である、というアリストテレスの言葉である。アリストテレスにおいては、正義と友愛の問題は、決して別個の問題ではないし、どちらが先かという優先権の主張の問題でもない。両者が相互補完的な関係にあるのだろうし、どちらかといえば、友愛こそが正義の基盤にあってそれを支ている。

近代以降の社会契約思想は、いわば友愛ぬきで正義を理論的に構築しようと試みたため、ともするとそうした営みが形式に堕してしまい、いわば内実を伴わない議論になってしまった感がどうしても否めない。もちろん形式と内実に関してもカントがくどく論じているように両者は決して自存して存在することの出来ない概念であり、密接に関わっている。しかし、普遍的概念への追及の試みが、どうしても形式性へ執着するあまり、やはり、いささか無味乾燥になりがちな傾向があるようだ。

その営みは、もちろん、「誰にでも当てはまる・そう考えざるを得ない」在り方の探究、そしてその提示という意味で、決して廃棄できない在り方ではあるのだが……。

さて、そうした近代知以前の、哲学の起源としてのギリシアの伝統に耳を傾けると、こんどは逆に、リアルな人間論が提示されている。特に面白いのがソクラテス以前の哲学者たちのことばである。まとまった散文は少ないが、箴言風の言葉のなかに、豊かな人間観察と人間論が多分に論じられている。

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 不正をなすを阻止するは立派なこと。さもなければ、一緒に悪事をなさぬこと。

 よき人であるか、あるいはよき人を真似るべし。

 多くの者はロゴス〔理〕を学んでいないが、ロゴス〔理〕に従って生きている。

 度はずれに欲求することは子供に属することであって、大人のすることではない。

 誰ひとり愛さない人は、誰からも愛されないとわたしは思う。

    --日下部吉信編訳『初期ギリシア自然哲学者断片集 3 』(ちくま学芸文庫、2001年)。

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上の5つの言葉は、ギリシアの自然哲学者のひとりデモクリトス(Dēmokritos,B.C.460頃-B.C.370頃)の言葉である。
こうした人間観察と人間論の豊富な伝統を蒸留し、昇華させていったのが、おそらく、ソクラテス、プラトンであり、そしてアリストテレスだったのではなかろうか。もちろん、その三者に共通しているのは、普遍的な真理とは何なのか、そしてそれは一体どういうものなのか……という議論の中で、幸福とは何か、善とは何か、そして正義とは何かが議論された。だから、すこし偏りの嫌いもなくはないが、読んでいると血湧き肉躍るようなわくわく感があるのかもしれない。

さて、金曜日の早朝、ツバメが自然に帰ったように、細君と息子さんが帰省した。
2週間弱の独身ライフの開始です。
とりあえず、先立つ金(おたから)が制限されているので、節制しながら凌いでいくほかありません。日中は、短大のレポート40余通に一気に目を通し、試験の内容も確認した。評価までやろうと思ったが、目がしょぼしょぼしはじめたので、今日はこれで仕事はおしまいにします。このあたりで、一杯飲んで早く起きようと思います。

最後に蛇足ですが、ちょうどそうしたギリシア流哲学者の系譜に属する現代のギリシア人哲学者・K・I・ブドゥリス(Konstantinos Ioannis Boudouris,1935-)の著作を読んでいて感心した部分を一つ紹介します。うえの記述とおなじ目的意識ですが。

正義の感覚と友愛(ないしは仁愛、愛)の問題。
他者論。
隣人とは誰か。
人間として存在すること。

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 では、正義は、はたして善そのものに対する優先性を有するのでしょうか。また、わたしたちがそれによって人間の社会領域に立ち向かう、諸価値からなるネット・ワークのなかで、正義の置かれている真の位置はいかなるものなのでしょうか。
 この点に関するヒュームの考え方はよく知られております。それによれば、充分なだけの善が存在し、ひとびとに仁愛(benevolence)の徳があるのなら、正義は不要だということになります。たとえ、ヒュームが、いま言及された箇所において、正義という言葉で社会正義のことを考えているのだといたしましても、彼の所見には、ある意義が認められます。というのは、仁愛の感覚は、人間の生得的善性のひとつの現れであるので、優先性を持つからです。
(中略)
……たぶん、正義はひとつの重要な徳ではあるにしても、わたしたちを救済してくれる徳ではないのでありましょう。
 正義や他の徳や価値に対する関係をめぐる問題は、一方で正義の優先性が措定され、他方で他の諸徳がこれと持つことになる関係が措定されるといった仕方では述べえられないものです。人格のもつ一定の道徳的特性は、必ずしもこの徳とは結びつきませんし、また、それら他の徳が、これを論理的に前提するというわけでもないからであります。これは、たぶん、カントやロールズによる人格概念をわたしたちが受け入れ、人間の根源的状態についてのジョーン・ロールズの見解を正しいものと考える場合にのみ意味をなすものでありましょう。しかし、先に申しましたように、この点に関する彼らの件気会は、満足のいくものではありません。キリスト教的考え方によれば、人間の道徳性の核心をなす、たとえば愛(アガペー<<αγάπη>>)の徳といった、もろもろの徳があります。そしてこの愛は、キリスト教倫理によれば、正義に優先するものであります。
 ひとつの根本的戒めとしての愛は、人間の感受性と結びつけられないものではありませんが、それのうちにひとつの義務を含み、人格(ひとつの魂)としての他者への私の義務に、根拠を与えるのです。このことは、愛を正義に結びつけますが、同時に、愛が正義を凌駕するものであることを示す何事かであります。
 愛と正義のつながりは、もしわたしたちが、もろもろの事柄を、個人についてのわたしたちの考え方、そして、社会において個人がつくりだす諸関係というプリズムを通じて眺め、この見方をE・レヴィナスの思想に関連づけるなら、とりわけ意義のあるものとなります。
 レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかもそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります。この領域に置いて他者は、はじめて、たとえ彼が異邦人であろうと、私がその人を愛し、意志を通じ合わせるべき隣人となります。使徒パウロによって明らかにされ、S・キェルケゴールの鋭い神学的精神によって解釈されましたように、キリスト教の第二の戒めとしてのこの愛こそが、社会内部に根源的な共同体精神を創造し、カントやロールズの無味乾燥で貧弱な主体を内容で満たし、他者を、異邦人ではなく、親しい人格と化すのです。この考えによりますと、愛は絶対的な善ですが、それだけではなく、具体的に要求されるものでもあります。そして、これの無前提の選好だけが、個人の倫理的統合を保証しうるのです。ところでしかし(他のひとが私に対して正義として押しつけてくるそれをも含めて)、この要求を認めるということは、同時に、この条件が、他のなにをさしおいても、談話の世界にほかならないところの、共同体の領域における個人相互の出会いと意志疎通を通じて課せられるのでなければならない、ということを明らかにいたします。
 正義と愛の間の関係が、このようなものとして考えるならば、いかなる点で正義についてのリベラルな考え方が不足しており、個人についての共同体第一主義的見解がいかなる点でゆきすぎているかを、洞察することができます。
 さて、正義と倫理の関係をめぐる問題は、ひとつの新たな次元を獲得いたします。現代人は、テクノロジーや非人間的で抑圧的な国家権力に対する反動として、自分の優越性または優先性を確証したがる(同一性理論の勝利を讃え、それに基礎づけを与える)傾向があるようですが、それと同時に、みずからの解体と疎外を、間接的で技術的なコミュニケーションを通じて乗り越えようともしております。こうした場面におきましては、わたしたちが実存的・社会的にコミュニケートすべき他者なるものは、本来的人格ではなく、同一性論理に支配された仮面であるにすぎません。テクノロジーによって急速に変貌し、ホロコーストによる真の脅威にさらされることによって、正義が第一の戒めとならざるをえないこの世界にありましては、「私が愛さねばならぬ隣人、それは、いったい誰のことか?」という問いは、いささか逆説的な響きをもちます。けれども、その問いは、思想的にも現実的にも、その重大性において低く見積もられるべきものではないのです。
 何故ならば、隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります。彼は、ホメーロスの世界の貧者、漂白の乞食であり、福音書にいう富める者です。彼は、「正義のおこなわれる」「法治」国家で盗賊に出会うひとびと、支えてやるのが私の義務であるひとびとです。彼は、「豊かな社会」における貧しき者・富める者であり、アフリカやインドで飢餓に苦しむひとびとです。こうして、私の隣人で現にあり・あるであろう、多くのひとびとが存在するのです。ですから、社会科学や政治科学その他の諸科学は、これまで未解決であった社会問題を解決できる方法やテクニックを発見・応用することによって、生活の万端においてあらわれてくる正義への要求に応え、これがひろく普及するよう努力を積み重ねなければなりませんが、それらの努力は、共同体、社会、国家のなかでわたしたちすべてが仕える目標が見失われないようにと援助する、哲学的・理論的考察と別個のものとされてはならないのです。
    --K・I・ブドゥリス(山川偉也訳)「正義と倫理」、『正義・愛・政治』(勁草書房、1991年)

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いちばん身近な隣人はしばし、いなくなりましたが、とりあえず独身者として過ごしていく中で、決して隣人としての感覚を忘れずに過ごしていきたいものです。

とりあえず、携帯電話のストラップを半年ぶりに変えてみる。
いうまでもなく、ウルトラマン・フェスティバル2008で、細君に買ってもらった一品だが、キューピーとキングジョー@ウルトラセブンのコラボレーションです。

人間の顔をしたウルトラ怪獣を眺めながら、尊厳の感覚を保ちながら隣人を考えてみます。

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無力であるべき哲学の“力に対する説得の勝利”

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月曜は例の如く、短大での哲学の講義を行う。
5月というのに蒸し暑い一日。久し振りにスターバックスで一杯。
喫煙者にとって鬼門のスターバックスですが、気候がよいので、そとのベンチで一服。
リフレッシュしていざ大学へ。
気温は20度オーバーですが、木陰にそよぐ風が心地よい。

さて……。
担当している講座は、立ち上げ当初から「なるべく“西洋哲学史I”とか“西洋哲学概論”のような内容ではなく、それを踏まえたうえで、考えたり、本を読みたくなるような講座にしてほしい」との意向があり、「哲学入門」は、いわゆるクロニクルな哲学史の解説というスタイルをとらず、哲学の主題と概要(哲学の史的流れ)をザァーっと第1部で行い、次いで第2部、残りの2/3ほどの回数をテーマ別で攻めるようにしています。例えば、キーワードを列挙するならば、文学、民主主義、暴力(と可能性としての非暴力)、人間主義(人間とは何か)、技術時代の科学と哲学、そして哲学の活かし方……だいたいそういうテーマで組み立てています。

言うなれば、人文諸科学と社会思想(史)の領域に渡って、哲学的知見の可能性を問う……そうした領域で講座を組み立てています。市販の教材が使えない分、自分で組み立てる苦労と悩みもありますが、先哲の言葉に耳を傾けながら、“個”としての自分自身も“全体”のなかで“考える”醍醐味を味わわせて頂いている喜びとその恩に感謝の日々であります。

本日は1部のしめくくり……実践と概念としての「対話」と「真理論」の可能性に関して、プラトンからアリストテレスの知的営み概観する。

ケセラセラと吹聴したソフィストたちの考え方に違和感を感じたソクラテスは、「だれにでもあてはまる(もしくはそう考えざるを得ない)ような普遍的な真理はあるはずだ」と考え、一冊の著作も遺さないかわりに、ひたすら“対話”に明け暮れた。

対話を行うことによってひとは、自分が何を知っているのか、そして何を知らないのか、そのことを把握できる。知らないからこそ、その対象への知への愛が芽生える。
知への愛……Philo-Sophia,ここに哲学の語源が存在する。

で……。
対話を行うことでソクラテスは自己自身の“無知の知”を把握するとともに、結果として、対話者の“無知”を暴き出すことになってしまった。ソクラテスの対話とは、まさに、当人を刺激してドクサ(臆見;真実に対して,当人の思い込みにすぎない事柄のこと)を知らしめる営みであり、そうしたソクラテスの姿を、当時のアテナイの人々は、“虻(あぶ)”のようだと表現した。

ソクラテスにその虚構が見破られたひとびとは、いわば当時の有名人たち……。虻に差されて黙っていようはずはない。差された痛みはルサンチマンと化し、“恥をかかされた”怨念は、やがてソクラテスを刑死へと導く。

ソクラテスは、「何らかの普遍的な真理はあるはずだ」……そう発想した。
しかし、「真理とは何か」このことに関しては語らずじまいとなってしまった。

それが弟子プラトンの大きな課題となる。プラトンは、「真理とは何か」という問いの探究のなかで、真理とはイデアである、というイデア論を組み立てる。生成変化する現実世界の背後には、永遠普遍のイデアという理想的な雛型があり、イデアこそが真の実在であると主張した。

永遠不変のイデアは実在するのか?

イデア論に違和感を感じていたプラトンの弟子アリストテレスは、師の学説を引き継ぎながらも、イデアが個物から離れて実在すると考えたことを批判し、師のイデアと区別して独自の存在論(真理論)を切り拓く……。

ま、そういう宇治家参去もなんとなくイデア論には違和感がありますが……。
そのあたりの話を哲学史的には本日の講義で行う。

学生さんには、負担をかける側面もあるが、ひとつ、双方向の試みとして、毎回出席カードのかわりに、リアクション・ペーパー(授業の感想カード)を書いてもらっています。
ある一人の学生さんのコメントから……。

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プラトンのイデア論にはすっきりしない部分が多々ある。正義とは何か、善とは何か、なんて一言では言い表せるものではないし、私が生きているのは現実世界であり、理想的に想定されたイデア界ではない。発想として具体的な善の行為をひな形を為す善そのものはなんとなくありそうにも思えるが、イデア(界)という言い方をされるとなんとなく躊躇する。結局は、私が今いる現実の中で、正義や善の行為を一人一人が悩みながら産み出していく方向を考える必要があるのではないだろうか。移ろいやすいかもしれないけれども、変わっていく世界だからこそ、たとえ悪いものだったとしても善いものへ変わっていけるのではないでしょうか。善と悪が完全に決まっているイデア界では、悪なるものはいつまでたっても悪のままで和解は存在しない。つまり「問答無用」と同じです。不完全だからこそ良い方向へ変わることもできるのではないでしょうか。

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実感の吐露だと思います。
彼女の言葉の前では、ここでイデア界の是非や、プラトンとアリストテレスの存在論の差異は意味をなしていないのだと思います。
彼女自身が“考え”はじめているからです。
イデアがあるにせよ、ないにせよ、結局は彼女自身が“悩み”“考える”プロセス抜きには獲得できないシロモノだからです。

その意味で、“自画自賛?”ですが、考えるヒントの提供という意味で「哲学入門」が“虻”としての機能を果たしていることに安堵する。

哲学なんか……語っていると、ついその無力さを実感するときがあります。
特に現代ではそうですが、これまで諸学の王として君臨してきた哲学は、その学としての先験的なリーダーシップ性のゆえに、大きな過ちも犯してきたものである。通俗的な言い方で極めて恐縮ですが、誤った発想、考え方のもとに沢山の流血が流れてきたものであります。そうした暴力性の反省から、現代の世界において、いわば“前衛革命家”じみた哲学の発想のつつしむべき方向性なのでしょうが……哲学の立場から提言を自戒する傾向が強い。

しかしながら、哲学者はかたらずにはおれない“ミネルヴァのフクロウ”たちです。

そうした自戒を含めつつ、何かへ善導しようという思い上がりは毛頭ありませんが、考える糸口、実際の著作へ手を伸ばすきっかけだけは失いたくないものです。動執生疑さえできれば……、そんな実感です。

技術時代と高度に先端化した学術世界において、古典的な哲学の言説は、ある意味で無力かもしれません。ミネルヴァのフクロウの羽ばたきは“すすり泣き”かもしれません。しかしその歩みを辞めることは決してない。善を説かないとしても、善を見出したいからかもしれません。

人間は何度も同じ歴史を繰り返してきました。その意味でひとは歴史から何も学んでいないのかもしれません。しかし、どこかで学ぶきっかけをつくりたい。
考え方の“強要”ではなく“共学”を目指したい。その意味でいつまでも学生としての自覚が宇治家参去には必要不可欠かもしれません。学生と教師……立場違いますが、共に議論し、学び合うなかで、“力に対する説得の勝利”をこの地に実現したい今日このごろです。

最後に哲学者にしてプロセス神学者・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead, 1861-1947)の言葉でもひとつ。

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 人間の生は、既存の言葉では表わせないほど一般的な想念を、漠然と感知することによって推進される。このような一般的な諸観念は、一つ一つ切り離して単独には把握できない。それには、人類が相互に解明し合う諸観念の体系を思考しうるよう、事物の一般的な本性を感知するにあたって前進することが必要である。しかし、感知の一般性の成長はあらゆる進化する変化のうちでもっとも緩慢なものである。精神性におけるこの成長を促進するのが哲学の仕事である。それが首尾よくいくかぎりにおいて、偉大な観念の特殊な適用は野蛮な空想との粗雑な結びつきをまぬがれるのである。カルタゴ人は偉大な文明的な貿易国民だった。彼らは人種的には、人類のうちで偉大な進歩的部分の一つに属していた。彼らが貿易を行ったのは、シリアの沿岸から、地中海全域を通り、ヨーロッパの大西洋岸を北上し、イングランドのコーンウォール錫鉱山にまで及んでいた。彼らはアフリカを周航し、スペイン、シシリー、北アフリカを支配した。だがしかし、プラトンが思弁にふけっていた時に、この偉大な国民は、宗教的な贖罪の行為としてモレク神に子どもをいけにえにするというしかたで、<宇宙>の至高の力を考察した。理解の一般性の成長は、今日のこれに対応する文明ではこういう蛮行を不可能にする。<人身御供>や<人間奴隷>は、偉大な宗教上の直観や文明の諸目的が、本能的行動として継承された野蛮さによって表現されている例である。直接的な宗教的直観は、その起源がいかに純粋なものであっても、既存の社会に実際に偏在している低級な悪習や情緒と結託する危険性がある。宗教は哲学に推進力を与えている。しかし一方<思弁哲学>は、流布している行動様式の諸事実にかかわらない究極的な意味を示唆することによって、われわれの高度な直観が低劣なものと結託することを防いでいるのである。
 観念の歴史は誤謬の歴史である。しかしあらゆる誤謬を通じて、それはまた、次第に行為が浄化される歴史でもある。好ましい秩序の展開に進展がある時は、意識的に抱懐された観念の働きが増すことによって、行為が野蛮へと逆行しないように守られているのがわかる。この点で、プラトンの次の言い分は正しいことになる。世界--すなわち、文明的秩序の世界--の創造は、力に対する説得の勝利である。
    --ホワイトヘッド(山本誠作・菱本政晴訳)『ホワイトヘッド著作集 第12巻 観念の冒険』(松籟社、1982年)。

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シビレエイたるソクラテス

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一三
ソクラテス それでは、もういちど最初から答えてくれたまえ。君も、君の仲間の人も、徳とは何であると主張するのかね?
メノン ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいました--あなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビイレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に大してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから。
 とはいえ、これまで私は徳について、じつに難解となく、いろいろとたくさんのことを、数多くの人々に向かって話してきたものです。それも、自分ではとてもうまかったつまりでした。それがいまでは、そもそも徳とは何かということさえ、ぜんぜん言えない始末なのです。--あなたがこの国を出て海を渡ったり、よそへ行ったりしようとしないのは、賢明な策だと私は思いますね。なぜなら、あなたがほかの国へ行って、よそ者とこんなことをしてごらんなさい。きっと魔法使いだというので、ひっぱられることでしょう。
ソクラテス 油断のならぬ男だね、君は、メノン。もうすこしでひっかかるところだったよ。
メノン え? いったい何のことですか、ソクラテス?
ソクラテス 何のために君がぼくを譬えたか、気がついているよ。
メノン 何のためだと思われるのですか?
ソクラテス ぼくに君のことを譬えかえさせようという魂胆なのだろう。とかく美しい連中は誰でも、「たとえっこ」をするのをよろこぶものだということを、ぼくは知っている。彼らにしてみれば、それは得になることだからね。だって、思うに、美しい人たちは、やはり美しいものに譬えられるにきまっているではないか。しかしぼくは、君を譬えかえしてはあげないよ。
 それから、このぼくのことだが、もしそのシビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせるというものなら、いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう。だがもしそうでなければ、似ていないことになる。なぜならぼくは、自分では困難からの抜け道を知っていながら、他人を行きづまらせるというのではないからだ。道を見うしなっているのは、まず誰よりもぼく自身であり、そのためにひいては、他人をも困難に行きづまらせる結果となるのだ。いまの場合も例外ではない。徳とは何であるかということは、ぼくにはわからないのだ。君のほうは、おそらくぼくに触れる前までは知っていたのだろう。いまは知らない人と同じような状態になっているけれどもね。だがそれでもなおぼくは、徳とはそもそも何であるかということを、君といっしょに考察し、探求するつもりだ。

一四
メノン おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探求するおつもりですか? というのは、あなたが知らないもののなかで、どのようなものとしてそれを目標に立てたうえで、探求なさろうというのですか? あるいは、幸いにしてあなたがそれをさぐり当てたとしても、それだということがどうしてあなたにわかるのでしょうか--もともとあなたはそれを知らなかったはずなのに。
ソクラテス わかったよ、メノン、君がどんなことを言おうとしているのかが。君のもち出したその議論が、どのように論争家ごのみの議論であるかということに気づいているかね? いわく、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」--。
メノン あなたには、この議論がよくできているとは思えませんか、ソクラテス。
ソクラテス ぼくはそうは思わないね。
メノン どの点がよくないかを指摘できますか?
ソクラテス できる。というのは、ぼくは、神々の事柄について知恵をもった男や女の人たちから聞いたことがあるからだ……。
メノン どのような話をですか?
ソクラテス 真実な--とぼくには思えるのだが--そして美しい話だ。
メノン どんな話でしょうか、それは。また、話した人たちというのは誰ですか?
ソクラテス それを話してくれたのは、神職にある男の人や女の人たちのなかでも、自分のたずさわる事柄について説明をあたえることができるように心がけている人々だ。さらにまた、ピンダロスをはじめ、その他多くの神的な詩人たちもこのことを語っている。彼らの言うのは次のようなことだ。さあ、それが真実を伝えていると君に思えるかどうか、よく考えてみてくれたまえ。
 すなわち、彼らの言うところによれば、人間の魂は不死なるものであって、ときには生涯を終えたり--これが普通「死」と呼ばれている--ときにはふたたび生まれてきたりするけれども、しかし滅びてしまうことはけっしてない。このゆえにひとは、できるだけ神意にかなった生を送らなければならぬ。なぜならば--
 ふるき歎きへのつぐないを ペルセポネに
 うけいれられし人びとの魂は 九つたびめの年に
 ふたたび 上なる陽のかがやく世へと送られ、
 その魂からは ほまれたかき王たちと
 力つよき人びとと 知恵ならびなき人びとが生まれ
 のちの世に 人たたえて聖なる英霊とよぶ

一五
こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなくうまれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろな事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親切なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと--このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが--その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、実は全体として、想起することにほかならないからだ。だからわれわれは、さっきの論争家ごのみの議論を信じてはならない。なぜならあの議論は、われわれを怠惰にするだろうし、惰弱な人間の耳にこそ快くひびくものだが、これに対していまの説は、仕事と探求への意欲を鼓舞するものだからだ。ぼくはこの説が真実であることを信じて、君といっしょに、徳とは何であるかを探求するつもりだ。

メノン わかりました、ソクラテス。ただしかし、われわれは学ぶのではなく、「学ぶ」とわれわれが呼んでいることは、想起にほかならないのだと言われるのは、どのような意味なのでしょうか。ほんとうにそのとおりだということを、私に教えることができますか?
ソクラテス だからさっきもぼくは言ったのだよ、メノン、君は油断のならない男だとね。いまも君は、ぼくが君に教えることができるかどうかなどとたずねてくる--教えというものはなく、想起があるだけだと、ぼくが主張しているのに。つまり、ぼくが自分の言葉と矛盾したことを言うのを、たちどころに暴露させようというつもりなのだ。
メノン いえいえ、ゼウスに誓って、ソクラテス、けっしてそんなつもりで言ったのではありません。つい、くせが出たのです。でも、あなたの説のとおりだということを、もし何らかの仕方で示すことがおできになるなら、ぜひそうしてください。
ソクラテス なかなかむずかしい注文だが、まあ君のためなら、努力してやってみよう。--では、そこにいるたくさんの君の従者のなかから、これはと思うのを誰かひとり、ぼくのためにここへ呼び出してくれたまえ。その者をつかって君に証明するから。
メノン 承知しました。〔召使の一人に〕君、ここへ来たまえ。
ソクラテス ギリシア人だね? ギリシア語を話すだろうね?
メノン ええ、それはもう……。私の家で生まれたのですから。
ソクラテス さあそれでは、よく注意していてくれたまえ。この者が想起するとわかるか、それともぼくから学ぶのだとわかるか、という点にね。
メノン よく注意していましょう。
    --プラトン(藤沢令夫訳)『メノン』(岩波文庫、1994年)。

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「徳を教えることは可能か」と問うメノンに対して、ソクラテスは、その前に把握すべきは「徳とはそもそも何であるか」と問い直し、「徳」の定義の問題、探求する(学ぶ)という意味を巡って提起される「(学習)想起説」の問題、そして「想起」を可能にさせる「魂の不死」の問題--様々な課題が彩り鮮やかに、爽やかな対話として進行するプラトンの美しい対話編の一節から。

上で少し述べたように、「徳」(アレテー)とは何か、というテーマを手掛かりに、想起(アナムネーシス)の問題、知識論、そして徳を体現した全体人間の養成という課題(哲人政治家の教育、この問題は『国家』で深く論じられることになるが)が本論の主軸となる。ちょうど上に引用したのは、知識論(探求・学ぶということの意味)との関わりから、想起が提起される個所です。

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「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」--。
    --前掲書。

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なんとなく“聞き流す”ともっともらしく聞こえてしまう“論争家ごのみの議論”です。
ゆっくり読み直してみると……、この“論争家ごのみの議論”は、知を探求することは無駄だとの主張といえる。すなわち、
①人が知っていることを探求することはありえない。知っているから探求する必要がない。
②人が知らないことは探求することは不可能である。対象を知っていないから探求不可能である。

こうしたいわばソフィスト的議論は、哲学とは「知を愛する」という“フィロソフィア”という営みを否定するものであり、知と知の所有者を固定させてしまう二元論である。
現実の人間は、いわば知と無知のただ中に投げ出されており、はっきりとは知らないが、そしておぼろげにしかつかめていないが、その全貌とは何か、そしてその真実とは何か、“知ろう”と欲する、知を愛そうと動くがゆえに、哲学が存在する。そこには知の固定化は存在しないし、固定化した時点で、探求すべき知は存在する価値を失ってしまう。また人間の現実を固定化させてみてしまうこと自体が、傲慢なソフィストの立場である。

ソクラテスは、そうした議論に対して、「魂が不死なるもの」という条件に基づく想起説を提示する。その想起説の、技術時代における有効性に関する議論には興味がないので、ここでは措く。ソクラテスがそうした議論を提示した意味を探求すべきだと思うからだ。

ソフィストの議論に従えば、探求には意味がない。
初めから“あらゆること知っている”がゆえに、ソフィストたちは探求しない。そして、“知らない人間”たちに、知を“教える”がゆえに金もとる。いわば、ソフィストたちだけが「知っている者」であり、それ以外は「無知の者」ということにもある。そうした分断的な二元論への異議申し立てとしてのソクラテスの議論が存在するのである。

人間は、「知らない」と同時に「知っている」。
だから、探求が必要だ。
ソクラテスにおいては、それが“想い起こす”ということであり、知らない状態は、忘れている状態にほかならない。今は忘れているから「知らない」のである。

だからこそ“汝自身を知れ”と語ったのである。

“汝自身を知れ”とは単に知らないこと自覚という知識論的なレベルに収まるような格言ではない。本来知っていたからこそ、想起するのである。であるとするならば、ソクラテスの知とは、知のカタログや見本市ですべて展示されているような知とは質的にことなるものである。つまり、知とは本来自分自身のものである知にほかならない。自分自身のものでない知は存在しないし、探求の価値もない。

探求によって自己自身に帰る……“自覚”という手続きが必要かもしれません。

久し振りにプラトンの対話編を読み直しています。
シビレエイたるソクラテスの議論にしびれてしまう、ある日の宇治家参去でした。

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言論嫌いが人間嫌いへ

Hemlock

 「対話」と「会話」の違いとはなんだろうか。

 『大辞林』によると次の通り。
 対話:双方向かい合って話をすること。また、その話。
 会話:複数の人が互いに話すこと。また、その話。

 「対話」が向き合ってお互いに真剣に話し合うものであるとすれば、「会話」はまさに字の如く、話を交わすものと理解できるが、上の説明だけだとわかりにくい。

 そこで、多田孝志『対話力を育てる―「共創型対話」が拓く地球時代のコミュニケーション』(教育出版、2006年)を手がかりに考えてみる。

 氏によると、「対話」とは、人間の信頼関係の中で語り合いによって何かを創造していくことを目的とするものであるのに対し、「会話」とは、例えば井戸端会議のように、とりたてて目的があるのではなく、とりとめのない話であったり、楽しさの共有に意味をおくものと説明されている。

 現在の子どもたち(だけでなくオトナもそうだが)に多く見られるのは、「会話」であって「対話」ではない。

 本書ではその原因をいくつかあげているが、第一は、子どもたちに自信がないこと、あるいは自己肯定感が持てないこと。第二は、諸外国に比べると日本の学校教育においては、対話をする環境が少ないということ。第三は、聴いてもらう体験がきわめて少ないこと。そして第四は、褒められていないことが指摘されている。ゆえに、現在の子どもたちの傾向として「対話からの逃避」の傾向が見られるわけである。

 「自分が言ったことが誤解されて伝わってしまった過去の体験から、他人を信用できないと感じ、過度に人間嫌いになったり、あるいは恐れと失望のため、自分の世界に閉じこもったりしてしまう傾向がある。引きこもりも、会話拒否も、携帯電話やインターネットへの執心も、結局はしっかり他人と向き合い、話をするということ自体からの逃避である」

 たしかに子どもたちの話に耳を傾けると、発信や自己主張は多いが、相互作用や意味形成をもとめるやりとりはなかなか見えてこない。対話の欠如は顕著に存在する。

 思うに、人との対話であれ、歴史、あるいは自然や宇宙との対話であれ、語らいを通した開放された空間の中でのみ、人間の全人性が保障される。なぜなら、人間は生まれ落ちたまま人間であるのではなく、“言葉の海”“対話の海”の中で鍛え上げられて初めて、自己を知り他者を知り、真の人間へと成長するからだ。

「……しかし、先ず、われわれはある出来事に襲われないように気をつけよう」とあのお方は言われました。
「どんな出来事でしょうか」と私は訪ねました。
「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。」
    --プラトン(岩田靖夫訳)『パイドン 魂の不死について』(岩波文庫、1998年)。

 言論嫌いが(ミソロゴス)が人間嫌い(ミサントローポス)に通じていくことを諄々と若者に諭す『パイドン』の美しい一節の消費期限は、今なお切れていない。言葉(対話)や人間の存在と切りはなされ、孤立した個人(=弧人)の自閉的空間とは、人間精神の自殺の場にすぎない、淋しい空間である。

 ソクラテスが最後には、毒杯を仰いだように、言論、対話に生き抜く人生は確かに茨の道である。しかし、そこにしか人間が人間となる道はない。

 アテナイ中を経巡り歩き、相手を見つけては、対話に明け暮れたソクラテス--。自分自身を見つめ直し、弱さも強さも知り、勇気をもって前進したその生涯の最後は荘厳であった。

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 さて、子供が幼稚園の芋掘りで、どでかいサツマイモ2本を持ち帰ってきた。
 さあ、いかように調理すべきか。

対話力を育てる―「共創型対話」が拓く地球時代のコミュニケーション Book 対話力を育てる―「共創型対話」が拓く地球時代のコミュニケーション

著者:多田 孝志
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ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫) Book ソクラテスの弁明・クリトン (講談社学術文庫)

著者:プラトン
販売元:講談社
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パイドン―魂の不死について (岩波文庫) Book パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

著者:プラトン,Plato
販売元:岩波書店
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ビールVSソクラテス

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◇ビール!ウフォォ!!
学問だけじゃ喰っていけないので、市井の仕事もしています。今日はそこで働くバイト君との話から・・・(一応、バイト君を使う身分)。
バイト君曰く、「ビール飲みたいッス」。勤務開始一時間後の話である。金のない二人は何とか工面しつつ、終業後、居酒屋へ。
彼が飲みたいのは暑いからだけではない。そのモチベーションは、すべての物事に〝意味〟を求め、心から納得したいから、との熱意である。詳しい話はおくが、こうした彼との対話のなかから、自分もそうであったなぁ~と思いつつ、今ではそうした環境と折り合いをつけつつ生きている自分を自覚する。

◇メメント・モリ2・ソクラテス・無知の知
(それなりに飲みましたが、まじめなことも書いておこう)

で・・・

ソクラテスとは〝覚悟の人〟である。
『ソクラテスの弁明』のなかで、彼は死について語る。
「(人々が死を恐れる理由について--引用者註)なぜならば死を恐れるのは、自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。しかもそれは自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを覚知しているかのようにこれを怖れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れりと信ずることではないのか」(プラトン(久保勉役)『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、1964年))。
ソクラテスの有名な〝無知の知〟の概念を死に関して語った場面である。人は知らないことに恐怖する。故に知らないことを知ったかぶりするのではなく、無知を自覚すること(無知の知)が重要で、それによって生も死も当人にとってきわめて正確に理解できるのではないかとの問いかけである。

人間はすべて、自己自身であることに配慮すべきである--ソクラテス-プラトンをつなぐ重要な論点であるが--との主張は、いわばソクラテスのマニフェストである。自己自身に対する配慮(いうまでもないがそこには自分自身に深く関わる世界と他者への視点も含まれ、自己中心的な、自閉的な視座とは世界と自分との位置づけが根本的に異なる)そのこと以外、すなわち自分にとって付属物であるようなものを優先すべきではない。

ソクラテスの弟子・プラトンは言う。
「身体のもとが腐っていたら、どれだけ食物があり、飲み物があったところで、また富や権力を与えられるとしても、人生は生きるに値しない」(プラトン(藤沢令夫訳)『国家(上)』岩波文庫、1979年)。
プラトンの言う、〝身体のもと〟とは、ソクラテスの言う自己自身の〝魂〟のことである。人は、自己自身の生命を見つめ直し、それを良くすること以外に〝幸福〟へと至る道はない。
ソクラテスは、それを無知の知を分別し、真の知を愛し求めることにより人は幸福を実現できるとといた道筋なのであろう。

高校の教科書にも書かれている〝無知の知〟の自覚とは、単に、ものごととして知らないことを〝知っている〟という〝自覚〟ではなく、生き方に対する〝自覚〟である。
(と書きつつ、ビールを飲んでいる)。
国家〈上〉 (岩波文庫) Book 国家〈上〉 (岩波文庫)

著者:プラトン
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メメント・モリ

05 

まったく暑い日が続くが、昨日よりはほんの少し、風が心地よい。
臥所からおきると、びっくりしたが、飼っている金魚が一匹死んでいた。
夕方、職場の屋上でくつろいでいると、空から何かが落ちた。
飛んでいる途中に寿命が尽きたアブラゼミが足下に落ちてきたのだ。
古来より、哲学者たちは動物と人間の違いについて激しい議論を展開してきたが、ヒトにも動物にも等しく死は訪れる。

メメント・モリ(Memento mori)とは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。日本語では、「死を想え」「死を忘れるな」などと訳されることが多いが、いずれにせよ「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた言葉である。

古代ローマでは、この言葉が、戦に勝利した将軍が凱旋する際のパレードで使われた言葉であると伝えられている。将軍の後ろに使用人が立ち、この使用人は、将軍は今、絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない、ということを思い起こさせる役目をになっていたそうな。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていたのである。

さて、過ぎゆく夏をどう楽しむか。

「東京で生まれ育った者の夏は、炎天の中を街へ出かけ、映画か芝居の一つでも観て、その帰りに好きな店へ立ち寄り、ビールの一本も飲んで帰って来れば、それで大満足だし、仕事もほとんどやすまない。茄子や胡瓜、白瓜にトマトなど、夏の野菜が食欲をさそい、むしろ体重が増えるほどだ」(池波正太郎『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和59年)

どこか遠い南国の島にだけバカンスがあるのではない。何気ない日常生活を振り返る、何か一つ工夫をすることで、人は本当の生きる楽しみを享受できると思う。
Book 日曜日の万年筆

著者:池波 正太郎
販売元:新潮社
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友愛

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◇友愛
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の後半部(8-9巻)で、「友愛(フィリア)」について論じている。

「事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる」(アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』(岩波文庫、1973年))。

すなわち、人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ない、しかし、正義の人であっても、なお友愛が必要である、とのアリストテレスの言葉である。アリストテレスにおいて友愛こそが正義の基盤にあってそれを支ている。

今年の夏は暑かった(まだ暑い)。本当に暑い・熱い夏の間、初めての夏期スクーリング担当講師として奮戦しました。講義の4日間は、講義時間だけでなく、学生さんたちとの交流の中から、逆にこちらが学ばせていただいたひとときであった。

ある学生さんが言っていた。
「スクーリングに参加しているときは、励まし合う仲間がいて前へ進むことができるが、いざ田舎に帰って一人レポートを前にすると“孤独”を感じてしまう。が、それは自分一人ではない。ほかの仲間たちも同じである。だからこそ、こうしたスクーリングの場で会ったとき、再会したとき、一生涯つづくつながりがはぐくまれるんです。そしてお互いを励ます仲間になれるんです」。

近代以降の社会契約思想は、いわば友愛ぬきで正義を構築しようと試みるが、アリストテレスにおいて友愛とは欠かせない原理である。書物の世界の話でなく、リアルな友愛の重要性を実感した4日間であった。

拙い講義を聴いてくださり、本当にありがとうございました。
しかし、本当に暑かった・・・

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観照する

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◇採点終了
本年より大学の通信教育部で共通科目『倫理学』のスクーリング担当の教員としてひとつ担当授業が増えました。通学部と違い初めての経験にとまどう部分もありましたが、暑い夏、東京の大学校舎で行われた夏期スクーリングもなんとか無事に先週終わらせ、ようやくスクーリング試験の採点も終わる。用紙のところどころに授業評価(感想)が書き込まれており、次回の講義の上でとても参考になる。学生の皆さん、ほんとうにお疲れさまでした。
さて、このところ金が乏しく、必要以外の新しい本を買うことが厳しいので、古い本をじっくり読み直しています。ようやくアリストテレス『ニコマコス倫理学』(岩波文庫)を読み終えましたので、その感想から。彼は、師匠のプラトンの考え方との対比からよく「現実主義者」と評価されますが、その点に納得する。
すなわち・・・


◇幸福をめぐるアリストテレスの議論の進め方
アリストテレスにとって、幸福が最高善であることは自明である。ただ探求の課題は、幸福の本質とは何か、また何によってそれが成り立つか、である。彼の議論は、「人間の固有の働きは何か」という問いを手がかりに進んでいく。
例えば、「良い大工」とは何か。それは大工として立派に仕事の出来る人である。たとえ彼がどんなに人で親切であろうと、うまく楽器が演奏できようとも、仕事が出来なければ良い大工とはいえない。それは大工に固有の仕事ではないからである。では、「よい人間」とは何か。それは人間という種に即して固有の働きを立派に果たす人ということになる。それでは、人間に固有の働きとは何か。自然の恵みを受け成長する働きならば草や木にもある。感覚的働きはすべての動物にも存在する。人間にとって固有の働きとは何か。それはアリストテレスにとっては、それは「理性」だ、ということになる。アリストテレスにおいて最高善は幸福であり、幸福とは理性的活動ということになる。
『ニコマコス倫理学』の最終巻は、「観照(テオリア)」という、他者の存在を必要としない、純粋に理性的な活動(認識だとか学問)を、最高の幸福として宣揚し論を結んでいる。
幸福を理性的活動、観照という側面から見ていけば、アリストテレスのような現実感覚に富んだ人でもそういってしまうのかと、感じる部分は確かにある。やっぱり哲学者は最後にはそんなことが言ってみたくなるのかと。
近代以降の倫理学は、他者との関係を中心においてから展開されるが、そうした議論と比較した場合、最終的には観照の宣揚で終わっていたとしてもアリストテレスは、幸福を一個の人間として自己の内面の問題(勇気や節制)を手がかりに、論じているの点が著しく対照的である。いわば幸福を語るということが、現在の自分の真の幸福として議論しているのである。確かに観照を自足した「見るだけの人生」、「神的な生活」とアリストテレスは表現するが、やはり現実の人間に即して教説している点は看過できない。


◇幸福な人
アリストテレスの言葉から・・・

「「観照する」ということがより多く見出されるほど、「幸福である」こともまたより著しい。付帯的にではなく、観照のはたらきそれ自体に即して--。(観照は即時的に尊貴なはたらきなのであるから)。してみれば、幸福とは何らかの観照のはたらきでなくてはならぬ。
 もとより、人間である以上は、外的な好条件をも要するであろう。われわれの本性は観照的な活動という目的のために自足的たるのではなく、肉体もやはり健康でなくてはならないし、食物やその他の世話も与えられていることを要する。ただし、外的なもろもろの善なくして至福たりえないのは事実だとしても、だからといって、幸福であるためにはいろいろ大がかりなものを必要とするであろうと考えてはならない。なぜなら、自足ということは過剰に存せず、実践もまた然りであって、たとえ水陸を併せ統べなくとも、うるわしきを行うことはきるのである。すなわち、ほどほどのものからしてもひとは徳に即して行為することができるはずであり、(このことは容易に観取されうる。よろしきことがらをなすことにおいて私人は覇者に劣らず、かえってまさっているとさえ考えられるから。)その程度のものがあれば充分である。徳に即して活動しているひとの生活はそれで充分幸福たりうるであろう。
ソロンが幸福な人を描いて、次のようなひとだとしているのも、おもうに、適切である。いわく、外的なものをほどほどに給せられ、自らもって最もうるわしきことがらとなすところを行い、節度ある仕方でその生涯を送ったひと--。実際、ほどほどのものを所有しておれば、まさになすべきところをなしうるのである。アナクサゴラスもまた、幸福なひとは富者や覇者であるとは考えなかったように思われる。彼は幸福なひとが世人の眼には何となく奇妙な人間として映ったとしても自分は驚かないだろうといっている。けだし、世人は外的なことがらにしか気づかず、そのれによってものごとを判断するものなのだからである。かくして、これらの智者の見解も、われわれの議論に一致するごとくである」(一一七七b二七~七九a一六)。
   アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』(岩波文庫、1973年)

アリストテレスの幸福を考える上では、「中庸」の徳に関しても言及しなければいけないが、これから仕事(学問以外の)なので、また次回。はぁあ、仕事も現実なんですね。観照してぇえ!!

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