哲学・倫理学(古代ギリシア)

日記:コロンビア大学コアカリキュラム研究会

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 「ところで、そのうちまず優秀者支配制に対応するそれと相似た人間については、われわれはすでにこれを詳しく論じたが、このような人間を善くかつ正しい人間であると、われわれは正当に主張するのだ」
 「ええ、すでに論じました」
 「そうすると、つぎにわれわれは、それより劣った人間たち--すなわち、まずスパルタふうの国制に対応する人間としての、勝利を愛し名誉を愛する人間を、そしてさらに寡頭制的な人間、民主制的な人間、僭主独裁制的な人間のことを、論究して行かなければならないわけだね? その目的は、最も不正な人間を観察し、これを最も正しい人間に対置させることによって、そもそも純粋の〈正義〉は純粋の〈不正〉に対し、それを所有する人間の幸福と不幸という点から見てどのような関係にあるか、というわれわれの考察を完成させることにある。そうすればわれわれは、トラシュマコスに従って〈不正〉を求めるべきか、それともいま示されつつある言説に従って〈正義〉を求めるべきかを、決めることができるだろうからね」
    --プラトン(藤沢令夫訳)『国家 下』岩波文庫、1979年、172頁。

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金曜日は、大学での期末試験がありましたが、それを終えてから、かねてか要望の多かったコロンビア大学の文理横断の教養教育プログラム(コアカリキュラム)のテクストを読む研究会を始動しました。

初手としてプラトン『国家』を取り上げ、2時間近くつっこんで議論してきました。

プラトンの『国家』が対話篇において特異なのは、作中のソクラテスが、答えをだしてしまう点ではないかと思います。殆どの対話篇は実際のところ、ドクサを撃つものの、何らかの答えを導き出さない訳ですが、中期の対策となる『国家』では、不思議なことにプラトンの語らせるソクラテスは答えを提示します。

それがイデア論であり、システムとしての哲人政治の理想となります。ただ哲人政治やその具体的な仕組みについては許容できるものではないので、ポパーを導きの糸としながら、古典中の古典と格闘することに。

プラトンの意図は横に置いたとしても、結果としてはプラトン“主義”の社会構想は、ポパーが批判する通りですよね。その意味ではプラトンに対する批判というものは、僕が指摘するまでもありませんが、ほぼ出そろっており、批判としてすでに完成しているということ。

だとすれば、批判を踏襲してプラトンを理解した“つもり”になってしまうのではなく、しゃかいしそうとしての負荷をふまえたうえで、未来を展望するオプションの提案が必要になってくるのではないか……そんなお話をしました。

次は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』ですが、思想史においてethikがはじめて書名に登場する、これも古典中の古典。

俗に西洋思想史は、プラトンないしはアリストテレスの変奏曲といわれますが、基礎中の基礎になりますので、またしっかり学習していきたいなと思います。

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快楽に負けることは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである


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 『では、これがどのような技術であり、どのような知識であるかということは、あらためてまた考察することになるだろう。しかし私とプロタゴラスとが諸君の質問に関連して行わなければならない証明のためには、それがとにかくひとつの知識であることだけわかれば充分なのだ。
 諸君の質問というのは--おぼえているかね--次のようなものであった。すなわちわれわれが、知識より強いものは何もなく、知識のあるところ、いかなる場合であろうと、快楽に対してもほかの何に対してもつねに打ち克つということを、お互いに同意した際であったが、君たちはこれに対して、知識をもった人でもしばしば快楽に負けることがあると主張したのだった。そしてわれわれが君たちに同意しなかったので、諸君はつぎにわれわれに向かってこうたずねたのだ。プロタゴラスにソクラテス、もしこの状態が快楽に打ち負かされることではないとするなら、いったいそれは何であり、あなたがたはそれを何だとおっしゃるのですか。どうか私たちに教えてください、とね。
 --さて、もしあのときに、諸君に向かってわれわれがただちに、それは無知である、と答えたとしたら、きっと諸君はわれわれを笑ったことだろう。しかしいまは、諸君がわれわれを笑うとしたら、それは君たち自身を笑うことにほかならないだろう。なぜなら、君たちもまた、快苦--とはすなわち善悪なのだが--の選択について過ちをおかす人々があるとすれば、それは知識を欠いているから過つのだということに、ちゃんと同意したのだからね。おまけに、ただ知識の欠如というだけでなく、その場合に欠けている知識とは計量術にほかならないということまで、先に同意してくれたのだ。しかるに、知識を欠いておかされた過ちの行為なら、それは無知によって為されるのだということぐらい、君たち自身でもわかるだろう。
 したがって、快楽に負けることは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである。ここにいるプロタゴラスやプロディコスやヒッピアスは、自分こそはこの無知を癒す医者であると主張しているわけだ。それなのに君たちは、それが無知ではなくて何かほかのものであると思っているものだから、教えられることのできないものだと決めこんで、そうした事柄の先生であるこれらソフィストたちのところへ自分でも行こうとしないし、諸君の子供たちをやろうともしない。金のことばかりけちけちと心配して、この人たちに支払うのを嫌がっているが、それこそ個人的にも公共的にも間違ったふるまいというものだ』
    --プラトン(藤沢令夫訳)『プロタゴラス ソフィストたち』岩波文庫、1988年、149―150頁。

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葬儀やGWがあったので金曜日は3週間ぶりの授業になりました。
ちょうどフォアゾクラティカーからソクラテスにかけてのあたりを紹介しましたので、ここ数日、プラトンの手によるソクラテスの言明を再度、追いかけていました。

無知の知の自覚すらないまま知者を誇るおごりと見せかけにすぎない砂上の楼閣の如き「繁栄」の謳歌という当時のギリシア世界の様子をうかがい知ると、眠りを覚ます「虻」を自認したソクラテスの執拗な追及に襟を正すと同時に、どうしても、現在の日本社会を重ね合わさずにはいられません。

実際のところ、危機的な状況であるにもかかわらず、気にもとめることなく進んでいく日常生活。そして実際のところは「真理」をねじ曲げているにも関わらず、知者だとか高貴な人と尊重される僭主のごとき人々。

互いに、日常生活など改めて考えてみることなど不要だ!と居直る両者の精神が相照らされることで、「矛盾」が「矛盾」と認識されず、さらなる負のスパイラルに陥っているといところでしょうか。

ちょうど、民主制が内部から自壊していく様子に立ち会い、民主政の名の下に死刑を告げられたソクラテス。

そんな話しをしながら、ソクラテスの話というのは、遠い昔の遠い世界の出来事として対象化することなく、私自身の「今・現在のことがら」として、その言葉に向き合うしかないね、なんて続けましたが、学生さんたちの反応も割とよく、ソクラテスを学ぶことが、「今・現在」の私たち自身(と、私たちの生きている社会)を見つめ直すことになることを理解くれたのは幸いだと思います。

哲学をやっていると、

「ほぉ、難しい分野ですね」

だとか

「高尚な話にはついていけませんよw」

などと言われることが多いし、履修されている学生さんにも「ありがたそうだけど、あんまり関係ないかも」って認識で入ってくる方が多いのですが、授業を積み重ねるたびに、自分自身の事柄として向き合ってくれるようになる方が多いのがうれしいですね。

なんだか手前味噌的ですが、哲学など役に立たない!ではなく、根本から何かを改めることに微力ながら関わっているんだなあ、などと思った次第です。

ともあれ、誰もが毒杯を飲み干さなければならないような事態にはならないようにしたいものです。


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智を愛すること、すなわち真の哲学の姿

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 哲学は英語でフィロソフィーと言う。ソフィーは古代ギリシャ語のソピア、ラテン語のソフィアに由来して「智」を意味し、ギリシャ語のフィロスは「愛する」とか「求める」という意味なので、哲学は「愛智」の学と言い換えることができる。今回の講義は、視聴者が愛智の生き生きとした姿を見る大きなチャンスになっただろう。
 哲学者同士で、難しい術語を用いて議論を展開するのは、確かに学問的には重要だが、それでは愛智の素晴らしさは広まらない。そうではなく、優れた哲学者が学生の議論を通じて哲学を展開させていく、姿を目の当たりにすることで、議論や討論を通じて智に到達することの素晴らしさや魅力がわかり、智を愛すること、すなわち真の哲学の姿が伝わったのである。
 サンデルも語っていたが、哲学というものは、我々が常識的に当たり前だと思っていることの自明性を揺るがす。しかし、懐疑主義に陥ることなく、省察や議論を重ねていけば、結果として、より深い考え方に到達することを可能にする。学問の原点に立ち返り、このような学問を発展させることこそが、学問改革につながっていくのではないだろうか。
    --小林正弥『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』平凡社新書、2010年、27-28頁。
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昨日の哲学の授業にてなんとか古代ギリシア、すなわちソクラテスからプラトン、アリストテレスに至るまでの流れを概観することができました。
ホワイトヘッドの言を引くまでもなく西洋における哲学の基本的なところは、ソクラテスによって始まり、プラトンとアリストテレスによって開花する二つの発想にすべてが存在するといっても過言ではありませんので、この辺りを丁寧に説明させていただきました。
しかし、興味深いの古代ギリシアの哲学世界においては難解なジャーゴンや術語によって、そのやりとりを遂行していたのではなく、アカデメイアにせよリュケイオンにせよ「優れた哲学者が学生の議論を通じて哲学を展開させていく、姿を目の当たりにすることで、議論や討論を通じて智に到達することの素晴らしさや魅力がわかり、智を愛すること、すなわち真の哲学の姿が伝わったのである」という点は、哲学という学問を担当するうえでは、忘れてはいけないポイントではなかろうかと思います。
そう心がけたいものであります。
さて、授業終了後、勉強会のなかまと軽く呑むはずが、がっつり呑んでしまいました。
まあ、たまにはそういう席での哲学談義というのも大事な訳ですのでイタシカタありません。
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西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった

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西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった。直観的な知性を認めるのでなければプラトンの哲学は理解されないであろう。ルネサンスのヒューマニズムにおいても同様である。デカルトは近代の合理主義の根源といわれるが、彼においても知性は一種の直観だったのであり、直観の知的性質を明らかにしようとする現代の現象学はデカルトを祖としている。正しいものと間違ったもの、善いものと悪いものとを直観的に識別する良識 bon sens というのも出かるとの理性 raison といったものから出ていると見ることができる。知性と直観とを合理的なものと非合理的なものとして粗野に対立させることは啓蒙思想の偏見であり、この偏見を去って直観の知的性質を理解することが大切である。しかし今日特に重要な問題はデカルト的直観でなくむしろ行為的直観である。行為的直観の論理的性質が明らかにされると共に人間というものの実在性が示されねばならぬ。近代のヒューマニズムは個人主義であることと関連して人間を単に主観的なものにしてしまった。新しいヒューマニズムは行為の立場に立ち、従って人間をその身体性から抽象することなく、そしてつねに環境においてあるものと見ることから出立して、人間の実在性を示すことができる。しかるに身体性の問題はパトスの問題である。パトスは普通いうように単に主観的なものでなく、それなしには人間の実在性も考えられないようなものである。
    --三木清「新しい知性」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年、16ー17頁。

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単純に主観と客観を対立させ、主観なるものを恣意的なもの、そして客観なるものを厳正な立場と割り切ることは、哲学的思索とは無縁なものではあるまいか。

ちょうど、今日の授業ではソクラテス・プラトンの前史となるソフィストあたりのお話しをしましたものですから、そう思わざるを得ないと感じます。

そのように単純な二元論として人間の営みとしての主観的なるもののと、その成果としての客観的なるものを割り切ることこそソフィスト的立場であり、ソクラテスやプラトンといった西洋哲学の源流とは無縁なものであろう。

冒頭にはそうした消息を物語る三木清の文章を紹介しましたが、最終的にはイデア論というひとつの「試論」へ行き着くプラトンにしても、その探究の出発は、直観的な知性から。

行為的直観から出発する知的格闘が、挑戦と応戦を経て、論理的性質が鍛えられ、ひとつの合理的な考え方へと精錬されていく。

このことを失念してはならないだろう。

さて、そんな話をしながら、帰りのバスで久しぶりにF先生と同道しましたので、そのままかるくいっぱい。

学問の話をできることほどうれしいことはありませんね。


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専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)を退けつつ、同時に「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」を排していく意義について

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 専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)について、ひきつづき考察してみたい。そして、知識人はどのように権力と権威の問題にかかわるかについても考えてみたい。一九六〇年代なかば、ヴェトナム戦争反対の声が高まりと広がりをみせはじめる直前の頃のこと。コロンビア大学でわたしのセミナー希望の学生に面接をおこなった際、わたしは、ふけた感じのする学部学生と相対(あいたい)することになった。その学生について知りえたことは、彼が退役軍人であり、ヴェトナムで空軍に勤務していたということである。彼との雑談のなかで、わたしは、プロフェッショナル--この場合は熟練パイロット--の陥穽とはいかなるものかについておぞましくも魅力的な実例を垣間みることができた。なにしろ自分の仕事について語る彼の語彙たるや、まさに「隠語」と称してかまわない体(てい)のものであったのだから。そんななか、「軍隊で君は実際になにをしてきたか」というわたしの執拗な問いに対して、彼がいきなり「目標捕捉」と答えたときの衝撃を忘れることはないだろう。彼が爆撃手であり、その職務は、まあ、いうなれば爆弾を落とすことだとわかるまでに、わたしはさらに数分を要した。この単純な事実を、彼は専門用語にすっぽりとくるんで語ったわけで、専門用語とは、ある意味でアウトサイダーのあけすけな詮索をこばんだり、はぐらかすために意図されたものといえよう。ちなみに、わたしは彼をセミナーに入れることにした--彼について観察できるという心づもりがあったのかもしれないし、できるならば、その恐るべき専門用語癖を棄てさせようと考えたのかもしれない。まさに「目標捕捉」である。
    --エドワード・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、133-134頁。
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今日の授業は、大学祭明けで一週飛んでの授業でしたが、なんとか「哲学とは何か」という導入部分の講座のまとめが終了しました。
参加された皆様ありがとうございます。
いろいろと話をしましたが、そのなかのひとつは、哲学という学問は「専門」“学”ではなく「根本」“学”だという話をしましたが、そのことについて少しだけここでも話をしておこうと思います。
古代ギリシアにおいては、「哲学」という学問しか存在せず、数学も天文学も、そして音楽も哲学のなかにふくまれる諸学として位置づけられ、その翠点として「哲学」が存在しました。学の近代的な分化は18世紀まで待つほかありませんが、以降、「学」の細分化が始まると同時に、哲学の「凋落」もはじまります。
その意味では、「第一学」と任じた哲学の驕りと負荷は確かに反省されてしかるべきでしょうが、「根本」学としての意義を否定することはできません。
それを象徴するのが、カントの次の言葉でしょう。すなわち「哲学を学ぶことはできない。ただ哲学することを学びうるのみである」。
諸学を「学ぶ」ことは可能です。しかし「哲学」に関して言えば、その意義での「学ぶ」は、哲学を学ぶことの本質ではなく、中心命題は「ただ哲学すること」を学ぶことであるという点は留意して欲しいと思います。
※とはいえ、哲学も「学」として「確立」するなかで、「専門用語覚えて理解しろや、ゴルァァァ」が現状ですよね!ってツッコミは、ちょっとこの場合、お許し下さいませ(汗
だからですけれども、プラトンやアリストテレスの著作をひもとくと、ギリシア語特有の言い回しや意義は散見されますが、特定のジャーゴンはほとんど出てきません。専門学ではありませんから、専門用語は不必要な訳です。
しかし、現代は、専門化(専門家)の時代。
あらゆる議論が専門用語によって煙に巻かれる時代といっても過言ではないと思います。それがすべて諸悪の根元だ!と20世紀の革命家になろうとは思いません。しかし、仮象にしか過ぎないこととして相対化することは必要だと思います。それが籠絡から解放される流儀になりますから。
サイードの指摘する通り、専門分化(スペシアライゼーション)と専門主義(プロフェッショナリズム)は、容易に権力におもねります。それは必然といってよいでしょう。
その意味では、専門用語に頼らず、日常言語で思索を深め、他者とのやりとりを深めていくという「哲学」の原初の意義は、それにあらがう行為でもあります。そこに哲学を学ぶ意義が存在することを、ポケットのどこかに入れておいて欲しいとは思います。
そして、専門用語の権力性の問題だけでなく、哲学を学ぶもうひとつの意義がどこにあるのかといえば、今日は、皆さんと「こんなこと、考えるに値しないや」と思われることをあえて、一緒に考えてみましたよね。
例えば「鉛筆とは何か」、「りんごとは何か」からはじまり、「美とは何か」、「正義とは何か」に至るまで、「自明の事柄」として流通している事物や概念というものが山のように存在します。
「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」
ってものが沢山存在します。
しかし、それを①あえて自分で考えてみる、②そして他者とそのことをすり合わせてみるってことは大事です。
先に哲学の対極に存在する専門化(専門家)の陥穽を指摘しましたが、実は、この「ああ、こんなこといちいち考えるまでもないや」と考察を「中断する」ことも、実は同じ落とし穴なんです。
自明のように思われている事柄にこそ、権力性や現在の不正や不義を隠蔽する小細工が仕込まれております。だからこそ、あえて考えてみる挑戦というものは大切になってきます。
そしてそういうひとびとが、横断的に繋がることが可能となれば……。
それは新しい時代の始まりでしょう。
ということで「哲学を学ぶ」ではなく「哲学すること」を深めていきたいと思います。
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「ほとんどの人は自分たちの価値基準を再考する必要を痛感することすらない」ことを暴くソクラテスの対話

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 ソクラテスはプラトンより四二歳年長であった。職業上は彫刻家であったが、彼が歴史の上に占めている重要性は、哲学思想の進展に及ぼした革新的な影響に存している。彼以前の思想家たちは、物質および宇宙総体の本性に関心を向けていた。そして彼らが外界に関心を集中させた成果の最たるものが、真の実在はアトムと空虚のみであると考えた人たち(原子論者)による純粋に機械論的な学説であった。ソクラテスの関心事は人間にあった。したがって、彼の考えによれば、唯一の重要な問題は人生における目標と目的はいかなるものであるか、にあった。彼の見るところ、ほとんどの人びとは、健康や財産の類いが関心事のすべてであるかのようにふるまっているが、しかしながら、これらの恩恵にあずかったとしても幸福がもたらされはしないのである。幸福が達成されるのは「アレテー」によってのみである。すなわちそれぞれの人格性、各人のもつ人間としての固有の機能の実現によってのみである--このことは、実際、万人の認めるところである。しかるに、健康や財産はわれわれの必要の若干を満足させるにすぎない。それらはなるほど当面の目的とは見なされうるかもしれないし、徳に対する見返りとすら見なされるうるかもしれないが、けっして追求すべき究極目的ではあり得ない。われわれが事柄を十分に考えぬき、十二分に真摯な探究をつづけるならば、ついにはわれわれの究極目的が何であるのか--人間としてのわれわれの固有の機能、すなわちそれの遂行においてのみわれわれが十全に自己を表現し、よってもって真のすぐれたあり方(幸福)を達成しうるはずのその当のものは何であるのか--を見出すことが期待できよう。
    --R.S.ブラック(内山勝利訳)『プラトン入門』岩波文庫、1992年、27-28頁。

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金曜の哲学の授業では、ソフィストからソクラテスへ至る哲学の概要を紹介する内容だったのですが、何といいますか、不思議な縁といいますか、その日4月27日は、ソクラテスが刑死した日でした。

感慨ぶかいものを感じつつ、授業に取り組ませていただきましたが、ソクラテスの対話とは、結局のところ、「まあ、そういうものだろう」と思ったり、「そういうことになっているから」という日常生活における自明性への挑戦であったことだけは銘記しておきたいと思います。

「まあ、そういうものだろう」と思ったり、「そういうことになっているから」として「自分で考える」そして考えたことがらを他者とすり合わせない限り、そう受け止めている事柄や知識、そして社会制度に至るまで、本当に自分のものにはならないということです。

加えて「そういうことだから」として「考えない」ことは、実は本当はそうではないという意味でのバッタモノを掴まされているかもしれないことに気づくこともできません。

ソクラテスは対話のあげく、刑死してしまいます。それもそのはずです。
ひとびとが「自明」と思っていた事柄が、実はそう思っている内容と違うこと、そして「知っている」と自認している人間たちが実は無知であったということを結果として「暴く」ことになります。

ソクラテスは、惰眠をむさぼるアテナイ人たちの目を覚まさせる「虻」を自認したそうですが、虻にかまれた連中による嫉妬の山はてんこ盛りという次第です。

もちろん、ソクラテスのように容赦なく遂行せよ!

ということではありません。

しかし、時々「考えるに値しないよ」という事柄や、ふだんは自明ものと受けとめている概念や言葉をいっぺん、自分で深く考え直すということは決して無駄ではないはずです。

例えば……

「鉛筆とは何か」
「林檎とは何か」

から初めて見るのも手だと思います。アリストテレスは、そうした真摯な探究は、身近なものに驚くことによって始まり、やはて大きな問題へと考察が広がっていくと指摘しております。

生活世界の中で、様々な事象や事柄を検討していくなかで、例えば、

「正義とは何か」
「善とは何か」
「幸福とは何か」

または、

「働くこととは何か」

といったようなことを考えてみるといいと思います。そしてソクラテスはその探究を「対話」によって遂行しました。

学生時代のうちにしかおそらくできないと思いますので、是非、考えたことを友だちとすりあわせてみるということも同時にして欲しいと思います。

その取り組みや格闘によって、どこか自分もものとは違う、自分の外に権威として存在する「知」というものが、自分自身の「知」へと転換されると思います。

是非、若い学生諸氏(だけじゃないですが)には、そうした営みの時間を意識的にもうけて欲しいと思います。

ともすれば「疑う」ということが、日本の精神風土では何か悪いことのように錯覚されているフシがあります。しかし、疑うということは、本当に自分で信じられるものを獲得する挑戦でもあるのです。その雄々しき知的挑戦を是非、お願いしたいと思います。


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 彼は彫刻家の仕事を放擲して、誰とも出会った相手と、しかし願わくば若者と対話することにつとめ、あらゆる問いの中で最も重要だと見なす問い、すなわちわれわれの生き方の指針となる原則はどのようなものであるべきかを議論した。彼は何か特定の徳目の「名まえ」--正義、敬虔など--を取り上げ、その語に含まれている意味を議論するのが常であった。いつでも最後には対話の相手はそれの意味するところを知らないと白状せざるを得ない破目に陥るのだった。しかし、そうした議論が示しているような知的率直さなしには、ほとんどの人は自分たちの価値基準を再考する必要を痛感することすらないし、心理の探究にとりかかるということもありえないであろう。
 ソクラテスの目的に対する誠実さと高い道徳水準とがいかに若きプラトン--生れつき理想主義に熱意を燃やし、明らかに最も多感な時期にある一少年--の賞讃をかちえたかは、想像にかたくない。ソクラテスとの交わりによってもたらされた最も大きな成果は、プラトンのうちに、理性的原理に生き方の基盤を置き、いかなることがあろうとも自分の理想をまげない決意を醸成したこと、あるいはむしろその決意を不動のものたらしめたことであった。
    --R.S.ブラック(内山勝利訳)『プラトン入門』岩波文庫、1992年、30-31頁。

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文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である

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純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。心に多くの辛い実験を経て、すべての乞食根性を去って、多く祈って、多く戦って、しかる後に神より与えられるものである。これを天才の出産物と見做すのは大なる誤謬である。天才は名文を作る、しかも人の霊魂を活かすの思想を出さない。かかる思想は血の涙の凝結体(かたまり)である、心臓の肉の断片である。ゆえに刀をもってこれを断てばその中より生血(いきち)の流れ出るものである。ゆえにいまだ血をもって争ったことのない者のとうてい判分することのできるものではない。文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である。これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。
    --鈴木俊郎編『内村鑑三所感集』岩波文庫、1973年、83頁。

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先日、尊敬する大先輩の文筆家が、「何度も何度も組み立てを試行錯誤し、鉋をかける」と呟いておられたのですが、深く同意すると同時に、「言葉」そのものへもう一度真摯に向き合わないといけないなと襟をただした次第です。

何かできあがったような陳腐な言葉や脊髄反射の罵声……ばかりで、言葉のハイパーインフレ状態なのが現状ですよね。

言葉に対する不信が一番怖ろしいんです。言葉に対する不信は結局のところ人間不信を不可避に招来してしまいますから。この辺はプラトンPlato,424/423 BC-348/347 BCの『パイドン』にて、言論嫌いが(ミソロゴス)が人間嫌い(ミサントローポス)に通じていくことを、ソクラテス(Socrates,c. 469 BC-399 BC)諄々と若者に諭すシーンで語られている通りです。

過度の徳論を説こうなどとは毛頭思いませんが、内村鑑三(1861-1930)が「文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である」と指摘することだけはどこかで失念しないように心がけたいものですね。


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われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと

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もし誰かがこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、その一つ一つをもっともらしい理くつに合うように、こじつけようとしたまえ! さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、たくさんの暇を必要とすることだろう。
 だがこのぼくには、とてもそんなことに使う暇はないのだよ。なぜかというと、君、それはこういうわけなのだ。ぼくは、あのデルポイ社の銘が命じている、われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと、こう僕には思われるのだ。だからこそぼくは、そうしたことにかかずらうことをきっぱりと止め、それについては一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄にではなく、ぼく自身に対して考察を向けるのだ、--はたして自分は、デュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢狂暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと温和で単純な生きものであって、いくらかでも神に似たところのある、デュポンとは反対の性質を生まれつき分け与えられているのか、とね。
    --プラトン(藤沢令夫訳)『パイドロス』岩波文庫、年、16頁。
ステファヌス版229E-230A

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1月30日になってから言うのもナニですが、年が明けてから、哲学の古典をもう一度歴史順に読み直し始めているのですが、プラトン(Plato,424/423 BC-348/347 BC)の初期対話篇で紹介されているソクラテス(Socrates,c. 469 BC-399 BC)の肉声(にちかいもの)をゆっくり読み進めると、そこには、豊穣な人間の息吹というものを感じざるを得ません。

うえに引用した一文など、まさに知を知識ではなく、是非分別として捉えよう、そして「自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと」なんて孔子(Confucius,551 BC-479 BC)のいう「鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂うべし」(『論語』雍也第六)と肝胆相照らす発想であり、そこには思想や哲学がひとつのイデオロギーへと先鋭化する以前の豊穣な「人間そのもの」が見えてくるんですよね。

今年はいろいろと忙しい年にはなりそうなのですが、コメンタリーをもう一度いれつつ、年末までは、これもひとつの形に仕上げてみたいものです。

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人間が万物の尺度ではあるが、普遍的な、思考する理性的な人間がそうなのだということ……

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 ソフィスト哲学の正しさは主観性、自己意識の正しさ、すなわち、わたしによって承認さるべきものは、それが合理的であることをわたしの意識の前に立証しなければならないという要求である。その正しくない点は、有限で経験的で利己的な主観性を原理へまで高めたこと、すなわちわたしの偶然的な意欲と意見とが、何が合理的であるかを決定するという要求である。その正しい点は、自己確信の原理を立てたことだり、その誤りは偶然的な意欲と表象とを王座にのぼせたことである。自由と自己意識との原理を真実の姿にまで発展させること、ソフィストたちが破壊にのみ用いていたのと同じ反省という手段をもって客観的思想という真の世界、絶対的に存在する内容を獲得すること、経験的主観性のかわりに絶対的あるいは理想的主観性を定立すること--これが次の時代の課題であった。そしてこの課題を引受けかつ解決したのがソクラテスである。経験的主観性のかわりに絶対的あるいは理想的主観性を原理とするとは、次のような認識を表明することを意味する。すなわち、万物の真の尺度は、この個人としてのわたしの意見や好みや意欲ではなく、真、正、善はわたしまたは他のいかなる経験的主体の好みや恣意にも関係せず、それを決定するのはわたしの思考ではあるが、わたしの思考、すなわちわたしのうちにある理性的なものである。わたしの理性はわたしに特有なものではなく、あらゆる理性的存在に共通なもの、普遍的なものであるから、わたしが理性的な、思考的な存在としてふるまうかぎり、わたしの主観性は一つの普遍的な主観性である。実際思考する者はすべて、自分が権利、義務、善、悪と考えることは、単に自分にそう思われるだけではなくて、すべての理性的存在にそう思われるのだという意識、したがって自分の思考には普遍性という性質、普遍的な妥当、一口に言えば客観性があるという意識をもっている。以上がソフィスト哲学に反対するソクラテスの立場であり、したがってソクラテスとともに客観的思想の哲学がはじまるのである。ソクラテスがソフィストたちにたいしてなしえたことは次のことであった。すなわち、反省を無反省の信仰や従順が必然的に生み出していたと同じ結論に導いたこと、および思考する者が自由な意識と自分の確信から、かつて生活と風習とが普通の人々に無意識のうちに教えていたと同じように判断し行為することを学ぶようにさせたことであった。人間が万物の尺度ではあるが、普遍的な、思考する理性的な人間がそうなのだということ--これがソクラテスの教えの根本思想であり、この根本思想によってそれはソフィスト的原理の積極的な捕捉をなしているのである。
    --シュヴェーグラー(谷川徹三・松村一人訳)『西洋哲学史 上巻』岩波文庫、1958年、85-87頁。

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哲学という学問は基本的には「自分で考える」ことを大事にします。
しかしながら、それが独りよがりになってしまうことを極端に警戒します。
独断専行の思索というものは、哲学と呼べるものではなく、単なるイデオロギーにしか過ぎませんから。

しかし、「自分で考える」ことが大事だよ!って言いますと、「ひとそれぞれ」でいいんですよねって反応が返ってくるのも事実です。

いや、しかし、それは早計なんだが……という訳ですから、「自分で考える」ことが大事だという以上に、何度かにわたってそのことを指摘するようにしておきます。

さて……。
月曜の講義では、ちょうどソフィストからソクラテス(Socrates,c. 469 BC-399 BC)への展開を紹介していたので、そのあたりを少し丁寧に紹介した次第。

ご存じの通りソフィストたちは、詭弁術を駆使して、この世の中には「ひとそれぞれ」しかないんだって開き直ってしまいます。

プロタゴラス(Protagoras,ca. 490 BC-420 BC)の言葉「人間は万物の尺度である」は、その格率を見事に表現したものだと思います。
※ただプロタゴラスの意図は違うところにありますが、それはひとまず措きます。

たしかに人間は、神のような眼を持つことは不可能ですから、考える・判断することにおいて「ひとそれぞれ」としての「自分」から出発せざるを得ません。

その意味では字義通りの「ひとそれぞれ」でしょう。

しかし、本当に「ひとそれぞれ」って簡単に言い切ってしまうことができるのだろうかどうかという余韻は実際のところ余地としてのこってしまいます。

おそらく、この余韻にどれだけ敏感になることができるかどうかがその分岐点かもしれません。

人間にはその出発点以外にも、本人の意志ではいかんともしがたい「ひとそれぞれ」というのは歴然として存在します。

しかしそれとおなじぐらい、自分自身だけでなく他の人にも共通して当てはまるような観点ていうのも存在します。プラトン(Plato,424/423 BC-348/347 BC)のようにイデアなんてものを定位しようとは思いませんし、近代自然科学流の「客観」の「実在」なんてぇいいません。しかし、私にもアナタにもひとしくかかわるようなところはやっぱりあるです。

結局、ソフィストの問題というのは認識論としての相対主義というよりも、後者を全く切り捨ててしまった不寛容さにあるのじゃないのかなと思う次第ですが、「ひとそれぞれ」と「ひとそれぞれだけじゃない」ってことを混同したり、どちらか一方しかないんだって言い切ることは、少し恐ろしいことかも知れません。

「自分で考える」のは「ひとそれぞれ」としての私ですが、そのことを歴史と社会、そして他者との有機的な相即関係のなかでその考察をすすめていかないと……ねぇ。


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「知っているつもりではいるのですが」 「それならひとつ、言ってみてくれたまえ」。

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 「君はいま、ほかならぬ自分自身の魂の世話を、あるひとりの男--君のいうところによれば、ソフィストであるところのひとりの男--にゆだねようとしているということだ。では、そのソフィストとはそもそも何ものなのか、君がもしそれを知っているとしたら、ぼくは驚くだろう。だが、その点をもし君がしらないでいるとすれば、君は、自分が魂をゆだねる相手がいかなる人かということも--善いしろものかも悪いしろものかも--知らないでいるということになる」
 「知っているつもりではいるのですが」
 「それならひとつ、言ってみてくれたまえ。君の考えではソフィストとは何ものかね」
    --プラトン(藤沢令夫訳)『プロタゴラス』岩波文庫、1988年、19頁。

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月曜は短大で後期3回目の哲学の講義。
だいたい3回の授業で「哲学とは何か」っていうのをざっくりやるわけですが(あとはテーマ別に関心を深める内容)、その幕引きを飾るものとして、僕の方から一応の哲学の定義とやらを……一応ですよ、一応……やるわけですが、それはつぎのようなもの・・・。

「哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない」。


もちろん、いろんな流派や強調点の置き方によって様々に定義できるのでしょうが、根本的には言語を通じた共通了解を「目指す」試みということ。

だから、学生諸氏に対してもこの定義へ到達したあとは、その練習をしていただきます。

アタリマエと思っていることを、あえて「言語」を徹底的に使って「説明」してみようというソレです。

今回は、まさにこれもテキトー中のテキトーですが、

「鉛筆とは何か」

考えてもらった次第です。

様々な意見が闊達に出て刺激に満ちたひとときとなったわけですが、この「敢えて」「考えてみる」ってことは大事かもしれませんね。

鉛筆なんて「書くための道具」やないけ……っていわれてしまうとそこまでです。
しかし「書くって何?」「道具って何?」ってなっていくと……、結構「アタリマエ」って思っていることを自分で定義し直すって言うのは面倒であり難儀なんですね。

彼女たちも苦労していたようです(汗

しかし、この「敢えて」言語で「挑戦する」ことは人間にしかできません。

「アタリマエ」ってものは元来「アタリマエ」として存在するわけではありませんし、「アタリマエ」ってテキトーに「認識」しているだけに過ぎません。

その間隙をどこまで突くことが出来るのか。

これが根元的挑戦ですねw

みなさまも是非ご挑戦くださいまし。

臆見(ドクサ)をうち破っていくのが知への愛としての哲学。
臆見とは自分で考えない「他人思考」。

だから「自分で考えない」そしてそのことを「他者とすり合わせない」、「臆病な見解」なわけですよ。

この臆病をうち破る言語への挑戦としての勇気が哲学なんですね。

このブラッシュアップのひととき、生活のなかで大切にしたいものです。

「アタリマエ」なんて斥けてしまうともったいないもんですよw


ちなみにいつも講義がおわるといっぺえやって帰るわけですが、行きつけの飲み屋が開店前。虚しく「てんや」に逗留しましたが、何気に正解でおどろきw

松茸の天ぷらがうましでした。

まさに「てんや」でなんていっぺえやるもんじゃないって臆病な見解うち勝った正解です(ぇ


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