プロフィール

はじめに・・・

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はじめに……

アカデミズム底辺で生きる流しのヘタレ神学研究者・宇治家参去(=氏家法雄)による神學、宗教學、倫理學、哲學の噺とか、人の生と世の中を解釈する。思想と現実の対話。

いつもご閲覧戴きましてありがとうございます。

2010年11月25日より「はてな」に雑文を移項いたしはじめました。

当分はココログと併用いたしますが、最終的には「はてな」ブログへ移行予定です。

「はてな」の「Essais d’herméneutique」は以下のURLからジャンプできます。

http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/

twitterの呟きは以下よりどうぞ。

http://twitter.com/ujikenorio

当面は併用いたしますが、すでに【覚え書】【研究ノート】の類は、こちらでupしてないものも掲載しはじめておりますので、今後ともどうぞ宜しくお願いします。

完全移項が完了しましたら、またその旨、エントリーいたしますので、どうぞよろしくお願いします。

ついでですのでひとつ。

学問の仕事を絶賛求職ちう。

以上。

追伸:【業務連絡】2010年12月3日以前のエントリーでは一人称を、「宇治家参去」と表現しておりますが、以後は、本名の「氏家法雄」でいきます。以前のエントリーの記事はそのままにしますので、適宜読み替えていただければと思います。

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日記:如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている」

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誕生日でしたので多くの方からお祝いを頂戴しました。ありがとうございます。

みなさま、各個の返礼が遅くなりましてもうしわけございません。

そんなに長く生きていても、あんまり意味のないイキモノであることを承知ですが、バースデイメッセージありがとうございます。

ちょといろいろありまして、……詳細はそのうち決まってから言及しますが……、これから2年ぐらいかけて、方向転換をしていくなかで、残りの余生を定める準備をしていこうと考えております。

どのようなかたちに着地することになろうとも、真理を探究する、生活者として人間世界のなかで格闘していく。プラス……これが大事なのでしょうが……家族を大切にするということを、これから丁寧に拵えていこうと思います。

さて、と、お約束ですが、1924年6月、憧憬する吉野作造が最も人生の危機にあったとき、“それでもなお”次のようにしたためております。

曰わく……

「人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている」。

この気概で、適当に生きていこうと思います。

ともあれ、祝福を頂戴しました皆様ありがとうございます。

写真は、近所の梅林の情景。2015年2月27日、筆主写す。

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日記:2013年度卒業式:最小限の変革共同体としての学友関係


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 「では、つぎにわれわれが探求して示さなければならないのは、思うに、現在もろもろの国において、われわれが述べたような統治のあり方を妨げている欠陥はそもそも何であるか、そして、ある国がそのような国制のあり方へと移行することを可能ならしめるような、最小限の変革は何かということだ。この変革は、できればただ一つの変革であることが望ましく、それがだめなら二つ、それも不可能なら、とにかく数においてできるだけ少なく、力の規模においてできるだけ小範囲にとどまるものであることが望ましい」
 「ええ、まったくおっしゃるとおりです」と彼。
 「そこで」とぼくは言った、「ある一つのことを変えるならば、それによって国全体のそのような変革が可能であるということを、われわれは示すことができるように思える。その一つのこととは、決して小さなことではなく、容易なことでもないが、しかし可能なことではあるのだ」
    --プラトン(藤沢令夫訳)『国家 上』岩波文庫、1979年、404頁。

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昨日は、卒業式にて、終了後、卒業された方や仲間たちと祝宴にてずっぽりと呑んでしまいました。

しかし、つらつら思うに、この学問を軸とした人間の関わり合いこそ、自由で平等で水平な対等関係が空間であり、様々なレベルの人間共同体の基礎になるのではないかと思ったりです。


みなさま、貴重な時間をありがとうございました。


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日記:特定秘密保護法案に反対する学者の会


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……この法律が成立すれば、市民の知る権利は大幅に制限され、国会の国政調査権が制約され、取材・報道の自由、表現・出版の自由、学問の自由など、基本的人権が著しく侵害される危険があります。

特定秘密保護法案に反対の立場ですので、学者の会の趣旨と声明に賛同し、連名するものであります。

氏家

[http://www.anti-secrecy-law.blogspot.jp/:title]

特定秘密保護法案の廃案を求めるアピール
[http://blog.tatsuru.com/2013/11/27_1135.php:title]

特定秘密保護法案に反対する学者の会記者会見全文
[http://blog.tatsuru.com/2013/11/29_1257.php:title]

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秘密保護法案 『軍事国家に道』 ノーベル賞学者ら抗議声明

 ノーベル賞を受賞した益川敏英・名古屋大素粒子宇宙起源研究機構長や白川英樹・筑波大名誉教授ら31人が「特定秘密保護法案に反対する学者の会」を結成し、同法案の廃案を求める声明を28日、発表した。声明は「憲法の定める基本的人権と平和主義を脅かす。学問と良識の名において秘密国家・軍事国家への道を開く法案に反対する」としている。
 学者の会は憲法学の樋口陽一東大名誉教授、歴史学の加藤陽子東大教授、政治学の姜尚中聖学院大教授ら、さまざまな分野の研究者で公正。ほかに304人が賛同者に名を連ねている。
 声明は「市民の間に批判が広がっているにもかかわらず、何が何でも成立させようとする与党の政治姿勢は、思想の自由と報道の自由を奪って戦争へと突き進んだ戦前の政府をほうふつとさせる」と危機感を示している。
 同日、東京都内で記者会見した栗原彬立教大学名誉教授(政治社会学)は「全ての情報を統制したナチスドイツの全権委任法に当たる」と指摘。杉田敦法政大学教授(政治学)は「法案は非常に粗雑で秘密指定はノーチェックに等しい。行政府に権力を集中させ、その他の発言権を失わせる意図があるのでは」と述べた。
 小森陽一東大教授(文学)は「本質は『国家秘密隠蔽法』だ。国民の主権者性を根本から奪ってしまう。解釈改憲に明確に結びつくものだ」と批判した。

 同会には、樋口陽一・東北大名誉教授(憲法学)▽加藤陽子・東京大教授(歴史学)▽姜尚中・聖学院大教授(政治学)▽佐和隆光・京都大名誉教授(経済学)−−ら、さまざまな分野の学者が参加。304人の賛同者が集まっているという。
    --「秘密保護法案 『軍事国家に道』 ノーベル賞学者ら抗議声明」、『毎日新聞』2013年11月29日(金)付。

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八王子倫理学会?


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水曜日は、通信教育部で教鞭を執っていたときの、受講生とかるく一献してきました。

いやー、ひさしぶりにいい酒を酌み交わした時間を過ごすことができ、ありがとうございました。

通信教育部は、卒業を勝ち取るためには、レポート作成が要となりますから、ほんとにこつこつ積み重ねていくしかありません。入学したら卒業できる通学部と違い、卒業できるのはわずか数%。そのなかでも4年間で卒業することは並大抵の努力ではかないません。

しかしながら、ふたりの受講生は、4年間で卒業できる可能性が視野にはいってきたと報告してくださり、嬉しいことこのうえないひとときでした。

もちろん、ひとによっては、何年もかかったり、途中で継続できなくなってしまうこともありますが、他人とくらべてどうのこうのということよりも、自分が決めたことを本末転倒させず貫いていくということを、その学習の過程で身につけることができれば、それはただ、たんに大学で○○学を学んだという以上の、そのひとの財産になるのではないかと思います。

もちろん、入学したからには卒業を目指すというのがひとつの目標になりますし、卒業することはひとつの区切りになるとおもいます。

しかし、ひとが何かを探求することを「学問」として、とらえるならば、学生として在籍している間だけ「学問」するわけではないですから、学生の間にみにつけたそういう力を、その後も、おおいに発揮しながら、探求の道をお互いに歩み続けたいものです。

いやー、しかし、いい酒を飲みました。

ありがとうございます。


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文の人(オーム・ド・レットル)・高崎隆治先生の思い出

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金曜にその話を聞いて驚いたのだけど、戦時下ジャーナリズム研究家の高崎隆治先生が先月末に88歳で亡くなったそうです。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。年賀状のやりとりしかなく、無沙汰を囲っていたのですが、前日まで執筆されていたとか。

戦中を知る貴重な先達が鬼籍に入ってしまいました。


高崎隆治先生には、卒論の指導でお世話になり、文藝春秋が『マルコポーロ』で廃刊になったおり、その根に持つ思想性・権力との親和性の問題を、ある専門誌で連載することになり、僕が原稿を書いて、その推敲を高崎先生にしてもらいました。神田の白十字でその打ち合わせをしていたのですが、つらいですね。


そのころの高崎先生は70代でしたかね。酒は呑まないけれども、珈琲と煙草をこよなく愛され、煙草はセブンスターを愛飲されていたと思う。学徒出陣の話、中国戦線での話も詳しくお聞きしました。これはどこかで、記録にまとめてのこしておかないととは思っています。


高崎先生は、高校の教員を経て、フリーランスの研究者に。国立国会図書館にも所蔵のない、戦時下雑誌を日本各地の古本屋を経巡る中で発掘し、その問題性を指摘し続けてきました(そして、それが戦後日本の言論界の体質にも継承されている)。無視と恐喝にひるむことなく、前人未踏の業績だと思います。


高崎隆治先生は、ご自身が戦時下ジャーナリズム研究家と自己認識を敢えてしていたけど、やはりその翠点は、先生ご自身が「文芸の人」であったことを失念してもなるまい。著作は多いけれども、僕は『昭和万葉集』(講談社)を押したい。


歌人、文芸の人としての高崎隆治先生が、なぜ、戦う人だったのか--。それは歌人、文芸の人だったからだ。先生が学生の頃、西の大陸でベンヤミンが死ぬんだ。ベンヤミンは「オーム・ド・レットル」と自認したという。日本では、文芸とはママゴトの如き扱いをうけるが、ペンに言葉を託すとは命がけなのだ。


オームドレットルとしての高崎先生だからこそ、「軍国主義作家」として切り捨てられたもう一人の「オーム・ド・レットル」と切り結ぶ。それが、里村欣三だ。僕はそれは偶然ではなく必然だと理解している。


鶴見俊輔は、捕虜交換船で日本に帰ってきた。日本が負けると分かっていてだ。そしてその同じ頃、高崎隆治先生は、学徒出陣にとられることになる。しかし、あえて、幹部候補生入営はしなかった。どちらがどうというわけではない。しかし、ふたりとも、「抵抗」なのだ。

ご冥福をお祈り申し上げます。


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「われわれはなにもかもが人間の尺度にあわない世界に生きている」からこそ。


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 数世紀におよぶ進化をとげたあげく、われわれの時代になって近代文明がとるにいたった形態ほど、これまで述べてきた理想にいちじるしく逆らうものは、まずもって構想不能である。個人が偶然まかせの集合体にかくも完璧にゆだねられたことはなく、おのれの行動を思考に服させるなどもってのほか、そもそも思考すらおぼつかないというのは、かつてない事態である。抑圧者と被抑圧者という語、階級という観念などは、ことごとく意味を失う寸前にある。それほどまでに、心をうち砕き精神を踏みにじる機械、無意識や暗愚や腐敗や無気力、なかんずく眩暈をさそう機械と堕した社会機構を前にしたとき、万人がおぼえる無能力と苦悩がどれほどのものかは自明である。
 この痛ましい事態の原因はあきらかだ。われわれはなにもかもが人間の尺度にあわない世界に生きている。人間の肉体、人間の精神、現実に人間の生の基本要因を構成する事物、これら三者のあいだにおぞましい不釣合いが介在する。いっさいが均衡を欠く。より原始的な生をいとなむ孤立した小集団ならともかく、互いを食らいつくすこの不均衡を完全にまぬかれるような、人間の範疇(カテゴリー)や集団や階級は存在しない。そして、このような世界で育った若者や育ちつつある若者は、他の人びと以上に周囲の混沌をおのれの内部に反映する。この不均衡は本質的に量の問題である。ヘーゲルがいうように量は質に変わる。人間的な領域から非人間的な領域への移項には、たんなる量的差で充分である。抽象的には、尺度の単位を恣意的に変えられる以上、量はどうでもよい。しかし具体的には、ある種の尺度の単位は不変数として与えられ、今日まで不変数のままである。たとえば人間の肉体、人間の生命、年、日、人間の思考の平均速度のように。
 現在の生はこれらの尺度にあわせて組織されていない。生はまったく次元の異なる単位に転移してしまった。あたかも人間がおのれの本性(ナチュール)を考慮するのを怠って、外的自然(ナチュール)の諸力の次元にまで生を高揚させようとしたかのごとく。そして、どうみても経済体制は構築する能力を使いはたし、おのれの物質的基盤をしだに覆すためにのみ機能しはじめたとつけ加えるならば、現世代の運命を構成する歯止めなき悲惨の真の本質が、粉飾のないあらわな姿で浮かびあがるだろう。
    --ヴェイユ(冨原眞弓訳)『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005年、119-120頁。

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本日にて、哲学入門の前期授業が終わりました。今季は、大学の行事と重なり1回少ない構成だったので、最後がかなりきつい構成となり、受講者の皆様には、おせおせの授業をしてしまい大変もうしわけございませんでした。

ただ、これは何度もいっていることなのですが、結局の所、哲学とか倫理学という学問は、教室で学んだからナンボ、本を読んだからナンボ、という話ではなくして、そういうことは結局のところ、“畳みのうえで水泳”をするようなものですから、授業の終わった今日から、ひとりひとりの生活のなかで、本を読み思索し、友と語り、そしてまた自分自身にそれをもどしていく……その繰り返しの中で、出来合の言葉をさも自分の言葉のように錯覚するのではなくして、力強い考え方をみにつけていってほしいと思います。

そこにこそ「哲学の教室」は存在する訳ですから。

さて、伝統的な西洋思想史においては教養が人格を涵養するものだといわれてきましたが、その意義では、皆さんにはほんとうの「哲学の教室」のなかで、それを養っていって欲しいなと僕は思います。

ヴェイユがそうであったように、人間のただなかで、人間を深めていくほかありません。

ともあれ、ほんとうに、怒糞なヘタレ野郎の授業に参加してくださいましてありがとうございました。


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病院日記(4) 自分の生きている「世界」の広さ・狭さを自覚すること


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3週間ほど、病院で仕事するようになって、それから、その前の工場の時も実感したのですが、人間は、自分が自分の関わっている世界っていうのは、実はものすごく狭い世界でしかないなあと実感しました。その狭いというのは物理的関係世界なのですが、同時に精神も規定してしまうというか。

工場だとベルトコンベアの前で、病院だと担当科のユニットの中。工場、病院に関わらず、会社も大学も実は“狭い・世間”で、そこと家を往復して殆どの時間が過ぎていく。しかし、その知見だけで世界を判断するというか。ではノマドがいいかというと、ノマドも結局は「会う」世界は同質世界ですよね。

おまえも、広い世界を知らない井の中の蛙だろうといわれてしまえばそうですが、しかし、そのことであることは自覚しておいて損はないなあ、というのは実感しました。別に勤務先の人が錯覚してるというのではなくして、会社員であろうと主婦であろうと、そんな広い世界につながってないって話。

なので、通俗的かもしれませんが、家と勤務先の往復だけであるにも関わらず、「俺の経験では……」式のゴタクをならべて「はい、OK」というのじゃなくして、色々な世界に対して、これはもう、意識的に関わっていくような努力っていうのを自覚的に選択していくことがやっぱり必要だとは思った。

床屋政談みたいなのに食傷は誰しもがしているとは思いますし、もうええわですけど。いや、だからといってポストモダン的な「意識低いよ」で片づけるのも難であって、そうではない、「関わっていく」っていくことをしていくなかで、言葉を点検して紡ぎたいなとは思いました。雑感ですけどね。


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個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えること


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コミュニケーションとプロパゲーション
 HACS(引用者注……「階層的自律コミュニケーション・システム(Hierarchical Autonomous Communication System)」というモデルをつかうと、情報や知識の伝達や蓄積を論じることができる。
 すでに述べたように、心はもともと閉鎖系だ。知の原型は、主観的で身体的なクオリアをベースにして、一人称てきなもんとして形づくられる。その意味で閉じている知を、かんたんにつたえることなどできるはずはない。それなのに、社会のなかで「情報」が伝達され、それらを組み合わせて三人称的な「知識」が構成されていくのはなぜか。
 これは、個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えることで明確になる。簡単な例で説明しよう。
 いま、高校生の友人AとBの二人が、同じ小説を読んだ感想を語り合っているとする。主人公は貧しいシングルマザーの息子ながら、水泳に才能があり、オリンピックをめざしている。かたわらでCがその対話を黙って聞き、メモをとっている。もし面白そうなら、自分も読んでみて、ブログやツイッターで仲間に紹介しようという魂胆だ。
 Aはスポーツ嫌いの文学少年だが、自分の母親も離婚したので、主人公の気持ちや寂しさがわかる。だから、Aは自分の暗黙知をふまえ、主人公の家庭の様子や母親との交流をおもに話題にする。一方、Bは自分もテニスに打ちこむスポーツ少年なので、主人公の怪我による挫折のつらさや、勝利の喜びに身体的に共鳴できる。そして、トレーニングや水泳大会の様子に注目する。いったい、二人の対話はうまく進むだろうか。
 人間同士の対話では、言葉の意味がたがいに首尾よく伝わるかどうかを確かめる手段は存在しない。そこが機械間の通信との違いだ。もしAが小説の細かい文体の良し悪しばかりに執着し、Bもまたスポーツの技術論や根性論ばかりに拘泥していれば、二人の対話はうまく行かない。コミュニケーションは途切れがちになり、ついには断絶してしまう。
 しかし、AもBもともに主人公に共感していれば、二人の対話はそれなりに成功するはずだ。もちろん、それぞれの発言は別々の暗黙知に支えられているし、互いの言葉をそっくり理解できるわけではない。ある意味では誤解の連続かもしれない。だが、対話自体は大いに盛りあがり、コミュニケーションは継続していく。Cはその様子を観察し、処理して、自分のブログに二人の対話をもとに小説の紹介を書こうと決意する。
 二人のあいだの情報伝達とは、基本的にこのようなものだ。
 つまりそれは、AやBという「個人」の階層のHACSではなく、二人が参加している「社会」という上位階層のHACSにおいてコミュニケーションが成功し、継続していくことなのである。さらに大切なのは、その有り様をCが観察し記述することである。小規模な社会的HACSであっても、Cの記述はこのHACSの「記憶」そのもであり、作動とともに蓄積されていく。
    --西垣通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書、2013年、107-108頁。

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昨日は、尊敬し、信頼する先輩と、初めて盃を交わし楽しい時間を過ごすと同時に、思索し、行動する意義をもう一度、再省し、新しく開いていくきっかけになったと思います。

コミュニケーションの不全がこれみよがしに語られ、その一方で、交わらない自己主張のみがえんえんとくりひろげられる人間の言説世界。

もういちど、原点に戻って、その営みを相互点検するなかで、創造的な挑戦をしていきたいと思います。

お忙しい中時間をつくってくださりまして、ありがとうございました。


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「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」から、その馴化の薄皮を剥がしていく「ゆるふわ」な時間について


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起源の捏造・伝統の創造
 なぜ、女ことばの起源についての言説が発生し、このように価値づけされた女房詞や敬語が持ち出されたのでしょうか。それは、女ことばを「日本が古くから保ってきた伝統」と位置づけるためです。「伝統は創り出される」という視点を提案した歴史家のホブズボウムとレンジャーは、「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」と指摘しています(『創られた伝統』)。
 このような操作が行われるのは、近代国家には伝統を創り出す必要があるからです。ひとつの国家という幻想を創り出すためには、ある程度まとまった人数の「国民」が、ある程度まとまった「国土」にいるだけでは十分ではありません。その国民すべてに共有された国民の歴史や国民の伝統を創り出すことが不可欠なのです。「同じ国家の国民」である」という意識を持つためには、同じ歴史を共有し、同じ伝統を守ってきたという幻想が必要なのです。
 「伝統は創り出される」という考え方を取り入れると、女房詞や敬語を女ことばの起源とすることは、「女ことばと過去の連続性を創り出す」行為であることに気づきます。この時点で女ことばは、天皇への敬意に端を発した女たちが守り続けてきた日本の伝統になったのです。
    --中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書、2012年、147-148頁。

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金曜日の哲学の第二講終了。この日から本格的な授業がスタートしました。

授業での反応とリアクションペーパーを読む限り、感触は悪くないといいますか、キャリア教育隆盛の中では、もう学生たちは、自主的に学ぶというよりも、課題の予習と復習でてんやわんや。

考える時間もないというのが実情ではないでしょうか。

その意義では、哲学が息抜きとして機能しているといいますか、「ゆるふわですね」などとコメントも(苦笑

しかし、それはそれで大事なのではないのかと思ったりします。歴史と今生きてる社会との相関関係を断ち切らずに、テクストと向かい合い、自分自身の事柄として考察し、何が正しいのか、自分で考える。そして考えた事柄を友達と話し合って相互訂正していく。

時間の経過としては「ゆるふわ」でしょうが、人間が生きる上では、大切なモメントではないかと思います。

さて……。

通勤時に言語学やジェンダー研究の知見から(国家イデオロギーを担って生き延びた)女ことばの歩みを概観する中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)読んだので、授業で紹介したら早速読んでみますという学生がちらほら。自明という虚偽の認識を新たにするのが「真理の探究」だから、これは嬉しい。


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