プロフィール

生活のすべてを失わぬために、そのごく一部をさくことはいたってあたりまえだ

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 生活のすべてを失わぬために、そのごく一部をさくことはいたってあたりまえだ。お腹がぺこぺこにならぬように、日に六時間か八時間を割くこと。あとは、その残りを有効に使おうとする者には有効に使えるものだ。
    ----カミュ(高畠正明訳)『太陽の讃歌 カミュの手帖--2』新潮文庫、昭和四十九年。

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先月末に大学での通信教育部のスクーリングが終わってから、はじめてのレポートの束が週末に送られてきていたのですが、なかなか目を通すことが出来ず、日曜の日中に内容を確認--朱を入れるのはまだですが--したところひとつの驚きといいますか、喜びがありました。

だいたい1週間~10日分ぐらいをまとめて大学から送られてくるのですが、今回は手元に来たのは21通です。

一般教養の『倫理学』ですから、当然必修科目ではなく、履修してもしなくてもよいわけなのですが、21通というのは、少なくはなく、やや多めの分量といったところでしょうか。

で‥‥、
その喜びといいますか、驚きといいますか、それはレポートの内訳です。
21通中、14通が先の秋期スクーリングの受講者さんの手によるもので、はやいひとは必須となる2通を同時に投函してくださったようでして、スクーリング後にこんなに多く受講者から送付されてきたのは初めてです。

ですから、驚いた次第です。
そして、、喜んだ次第です。

地方でやる場合とか、大学でやる場合によって、履修者数とかもろもろ温度差があるのですが、スクーリング直後に、書きまとめ投函された数としては自分自身の経験のなかでは一番多くとどけられたことになります。

レポートを見るようになってちょうど1年弱ですが、やはり、スクーリングに参加してから送られてくるレポートは、1年経過したとしても、20-30パーセント前後というところが実情です。
*もちろん科目によってはさらにその数値は前後するのでしょうが。

通学制の大学と違い、通信制の場合、やはりレポートがその生命線となってきます。
しかし、それをこつこつとやっていくことは、実に至難の業です。

ですから、スクーリングの際、レポートのポイントを紹介するようにはしているのですが、それでもなかなか難しいのが実情です。

ですから、先のスクーリングでは、レポートのポイントを紹介するだけでなく、

「とりあえず、出してみること!」

--この点を、2日間にわたって力説した次第です。

たしかに、用紙や升目、またパソコンのモニターに向かって文字を埋めていくというのは大変な作業です。

そして圧倒されてしまうことや、なにも思いうかばないとか、これって素っ頓狂なことを書いているのでは--というような疑惑が出て着たりとか、、、種々、レポートを完成させることを頓挫させてしまう要因は山のように存在します。

しかし、

「とりあえず、書いて出してみること!」

これが大切かもしれません。

とにかくいずれにしましても、受講者のレポート提出率があがるための自分自身の努力を怠ってはならない・・・そのように考えさせられたひとときです。

挫けずに、挑戦しつづける姿勢が大切なのだろうと思います。
そのためには、やはり自分自身も挫けずに挑戦しつづけるしかないのだろうと思います。
ただ正直なところ、まさにこれがキツイわけなのですが、キツイということ自体が実は、マア、あたりまえなことなのかもしれません。

カミュ(Albert Camus,1913-1960)がその「あたりまえ」なことをさらっと語っておりますが、このさらっと語った一節には、千金の重みが感じられて他なりません。

自分自身もなかなか論文とか原稿をかくのに時間がない!というのが正直な実感です。
まず市井の仕事、そして学問の仕事によって、「必然的」に「あたりまえ」の「事態」として、時間が「つぶされて」しまい、創造的な仕事をすべき時間がない!と思ってしまうことは正直あります。

しかし、時間そのものが有限--ここでの有限という表現は宇宙論的な意味合いではなく、人間に等しく降りかかるという意味での有限--であるとするならば、その「あたりまえ」の事情をふまえたうえでの、活路を「創っていく」ことが肝要なのでしょう。

……などと思案しながら、帰宅したところ、大切にしていた戦時量産型駆逐艦「松型駆逐艦(Matsu class destroyer」のネームシップ「松」が大破しておりました・・・。

犯人はわかっているのですが、こわされて「あたりまえ」ということを自覚しつつ、ちょいとサミシイ宇治家参去でしたっ。

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【ご案内】10/24-25:秋期スクーリング,『倫理学』

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 しかし、学問はイメージとはちがいます。「倫理学」は「倫理とはなにか」を根本的に問い直す学問です。おそらく本書を読み進まれるうちに、既成のイメージとは違ったなにかを発見されるのではないでしょうか。倫理という言葉は、もともと「人間のありかた」という意味の言葉です。つまり、この世界のすべての事象を、人間のありかたとしてとらえてみようという観点に立ちます。私たちにもっとも身近な学問としての人間が、それが倫理学だということができます。
 そして大切なことは、この身近なものごとのうちに価値を見いだし、さらに価値を創造していくということです。それは同時に、私たちの生や生活を充実させていくということにほかなりません。本書の副題が「価値創造の人間学」となっているのは、そうした理由からです。
    --石神豊『倫理学 価値創造の人間学』創価大学通信教育部、平成15年。

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連休前に、大学から秋期スクーリングの授業・試験体制などの案内のメールが来ていたのですが、息子殿の運動会とか提出物に追われヘッダーだけ確認して内容を読んでなかったのですが、ようやく先ほど内容を確認し、いよいよ……との気概が高まった次第です。

秋期スクーリングは2回目です。

体裁としては大学で行われる地方スクーリングというフレームですが、昨年はカルチャーショックの連続でした。

人数は夏期スクーリングよりも当然少ないのですが、受講者さんたちが夏期スクーリング以上に“熱く”、質問攻めになったことを記憶しております。

これは嬉しい悲鳴です。
今回も宇治家参去のぐうの音も出ないほど、質問地獄で攻め込んでほしいと思います。

で……。

例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、履修される学生さん方へのお願いです。

できれば……序論だけでも結構です。
必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

是非、宜しくどうぞお願いします。

スクーリングとはいえ限られた時間しかありません。教材の凡ては消化できません。
大切な序論と、第一章は押さえますので、どうぞ読んだ上で……斜め読みでも結構です……参加されることを念願します。

今回の履修者は60名弱。

微妙な人数といえば人数ですが、大きな会場ではこのぐらいのメンバーがちょうどよいのかな……と思います。

こちらも全力投球で参加しますので、是非よろしくおねがいします。

……ということで、飲んで寝ます。

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秋期スクーリング出講依頼到着ス:談話と演説とに至っては必ずしも人と共にせざるを得ず

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 学問はただ読書の一科に非ずとのことは、既に人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔或る朱子学の書生、多年江戸に執学して、その学流に就き諸大家の説を写し取り、日夜怠らずして数年の間にその写本数百巻を成し、最早学問も成業したるが故に故郷へ帰るべしとて、その身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて大廻しの船に積み出せしが、不幸なる哉、遠州洋において難船に及びたり。この災難に由って、かの書生もその身は帰国したれども、学問は采皆海に流れて心身に附したるものとては何一物もあることなく、いわゆる本来無一物にて、その愚は正しく前日に異なることなかりしという話あり。今の洋学者にもまたこの掛念なきに非ず。今日都会の学校に入りて読書講論の様子を見れば、これを評して学者と言わざるを得ず。されども今俄にその原書を取上げてこれを田舎に放逐することあらば、親戚朋友に逢うて我輩の学問は東京に残し置きたりと言訳けするなどの奇談もあるべし。
 故に学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り。この働きを活用して実地に施すには様々の工夫なかるべからず。「オブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して自分の説を付くるなり。この二箇条にては固より未だ学問の方便を尽したりと言うべからず。なおこの外に書を読まざるべからず、書を著さざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かって言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽して始めて学問を勉強する人と言うべし。即ち、視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著者演説はもって智見を散ずるの術なり。然り而してこの諸術の中に、或いは一人の私をもって能くすべきものありと雖も談話と演説とに至っては必ずしも人と共にせざるを得ず。
    --福沢諭吉『学問のすヽめ』岩波文庫、1978年。

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いつ来るのかとちょいとハラハラ待っていた書類がようやく大学から到着しました。

通信教育部の秋期スクーリングの出講依頼書類一式です。

土日を使っての集中講義で、ちょうど1期(B群)で『倫理学』を講じる「予定」でしたが、「予定」は「予定」でしたので、依頼書類を受け取りひとまず安堵です。

秋期スクーリングは今回でちょうど2回目。
昨年の秋から担当させて頂くようになったのですが、ちょうど体裁としては、大学で実施する「地方スクーリング」の趣のような構成ですが、やはり2カ月間の土日のほとんどがそれにあてられておりますので、また雰囲気が微妙に違うものなんだよなア~と昨年は感慨あらたにさせられたものですが、ちょうど初回の昨年は、かなりアグレッシヴといいますか、熱心な学生さんが多く、詰問攻め……もとい質問攻めにあったのが印象的で、ぼちぼち晩秋へと移行する錦秋のキャンパスで、まさに「倫理(学)とは何ぞや」と我ながら考えさせられたものです。

ただし……、18時前で授業は済みましても、約束なんかがありまして、舞台?をかえて講義?がつづくわけでして、まさに1回1回が一期一会であるわけなのですが、非常に印象深い思い出になったことが、いまでも鮮やかによみがえってきます。

さて……。
届けられました書類は、事務手続きの書類になりますので、また印刷物などをぎりぎりまで粘る(=締め切り期日を失念して前日当たりに猛ラッシュをかけるといういつもアレ)というのは避けながら、早めにぱっぱぱっぱと処理しながら、最高の授業ができるようにがんばっていく決意です。

この「倫理学」という科目は、制度編成上、レポート+科目試験でも単位が習得できます。またレポート+スクーリング(試験含む)というパターンでの習得も可能です。

教材を自分で読み、レポートをまとめ、試験をうけてパスする割合のほうが高い科目だとは思いますが、その選択肢を選ばず、あえて、わざわざ対面授業を受けに来てくださるのはありがたいものです。

学問とは「視察、推究、読書」をもって身に得ることはできますが、福澤諭吉(1835-1901)がいう通りそれがすべてであるわけでもありません。

対面授業とはまさに「談話はもって智見を交易し、著者演説はもって智見を散ずる」双方向の現場なのだろうと思います。

そこを丁寧に拵えてまいりますので、履修される方はどうぞよろしくおねがいします。

教材だけじゃない部分で、何か、「お土産」をもって帰らせることのできる授業でありたいものです。

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片づけのできない男

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ともかく、脳みそがいい感じで煮詰まってきますと、関連した資料を自分にしか理解できない流儀で、ぱっぱ・ぱっぱと狭い部屋に展開させてしまいます。

これは宇治家参去ひとりではなかろうに……とは思うわけですが……。

とうぜんそれをやりますと、家人からは大ブーイングという始末です。

しかし、その資料とか関連文献を、それを使ってまとめているタスクが終了しないかぎり、片づけることは不可能です。

「いつになったら、片づけるんですか?」

いぶかしく細君が聴いていきます。

「直近では九月一杯、直近以外では……」

「以外では……」

「博論関係が年度内一杯。ですが……」

「“ですが”……って他に何かあるの?」

「いや、こういう“商売”しておりますから……、定年するまで!」

「……」

小さな声で……

「(多分、退官した後、若干年は残って教鞭取ると思うので)プラス5-10年!」

「どアホ!」

人間世界とは難しいものです。

文句の言われない勉強部屋の欲しい宇治家参去でしたっ!

酒飲んで寝ますワ。
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「学者小安に安ずるなかれ」 田町、池袋界隈……のすたるじっくな一日

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 学問に入るらば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安ずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗(つ)くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらも出来るものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を喰い味噌汁を啜り、もって文明の事を学ぶべきなり。
    --福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波文庫、1978年。

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どうもひさしぶりに12時間睡眠をとってしまい、寝過ぎの所為でしょうか、背中が痛く、何をやっていのだろうかと落ち込む……よりも、マア、不可避的ですがゆっくりやすめたということで、背中の痛みはおまけとして甘受していこう……などと一人納得する宇治家参去です。

昨日は市井の職場がお休みでしたが、喫緊で自分自身の卒業証明書とか成績証明書が必要になったので、チト母校へ行って来ました。

午前中はちょいと学問の仕事をしてから、ひさしぶりに慶應義塾の三田キャンパスまで行って来ましたが……台風一過ですので怒・晴天でございます。

電車のなかは涼しかったのですが、5年ぶりに懐かしい田町駅を降りると……すっかりまわりの風景が変貌していたことには驚き……、第一京浜の路上から熱風が吹きすさぶという様で、体が溶け出す始末です。

昼飯とか宴会でお世話になった商店街……といってもほとんど飯やと飲み屋……をぬけ、正門に向かうと、工事中……。

……ということで迂回路をたどり、図書館横に出てから、まずは一服です。

基本的に禁煙となっており……いまの時分はどこの大学もそうですが……、大銀杏を眺望する第一校舎脇の喫煙スポットにて一服です。

もと島原藩中屋敷跡地の小高い丘にキャンパスがあります。
緑も多い所為でしょうか……、周囲よりは2-3度は快適なようで、汗を拭ってから、窓口にて手続きをしてから、卒業後に建てられた新しい校舎なんかをちょいと見学してから……去ることを惜しみつつ、駅へ向かいました。

思えば、三田キャンパスには、都合6年間お世話になりました。
ほとんど勉強はしなかった……という苦い?楽しい思い出のおかげで1年ほど留年しておりますし、マア「“一留”の人間は“一流”の人間」と無聊を慰めた次第ですが、学問の基本の“き”と人間の基本の“き”は、ここでみっちりと仕込まれたことは否定できません。

生きている現実生活世界のなかで、書物と向かいあい、そして活字と現実世界を応答させながら、「独立自尊」「自我作古」をなしていく……そういう学問のスタイルということを学んだかなと思います。

ともあれ、一緒に苦闘した懐かしい顔ぶれと共に探訪してから、慶応通り振興会商店街の飲み屋にていっぺえやりたいところです。

ゆっくりしたかったところですが、次は立教の池袋キャンパスまで行かねばなりませんので、これ以上“のすたるじじい”に浸っておりますと、窓口の受付時間が終わってしまう……ということで再び山手線へ乗り、池袋へ向かいました。

しかし、何か忘れて入るんだよなあ~と思いつつ、外は異常に暑くて、再度溶けた次第です。

池袋で降り、地下街を抜けると、炎天下へと再度放りだされましたが、今年もちょくちょく来ておりましたので、難なく窓口をみつけると手続き完了です。

で!
思い出しました!

立教の事業部にてまた100円ライターを購入したのですが、慶應で買うのは忘れてい、しまった!と思いましたが、またそのうちということにして……。

それよりも、小腹が空いておりました。

最初は三田の「ラーメン二郎」にて懐かしい味わいをと考えておりました。
三田キャンパスといえば「ラーメン二郎」です。

あついなかで熱いラーメンというのも……しかし汗を拭いながらふうふうやるのが実にウマイのですが……そこまで体力がありませんでした。
ですから池袋のどこかで……と思っておりましたが、すでに駅構内に入っておりましたので、立ち食い蕎麦やにて、「冷やしサラダ蕎麦(蒸し鶏のせ)」を頂き、空腹感を充たしましたが、これが驚くほどさっぱりとしていながら、蕎麦の自己主張がかき消えていなく、「駅蕎麦」侮り難しとはこのことです。

さて……
「今日はもう用事もない!」

……ということですので、同じく池袋駅構内の御用達のロンドン・パブにて、「バス・ペール・エール」(1pint)×2を怪飲です!

いやぁ、旨かった!

つまみは、ゴーヤチップスで、要はにがうりの素揚げ(ちょいと薄いコロモで)なのですが、このほんのりとした苦味が、暑さの疲れを癒し、エール・ビールが潤いを取り戻すという次第です。

……しかし、いつも飲んでいるなアと思わざるを得ませんが、ときどきこうした契機が必要では無かろうかと思われて他なりません。

……ということで?
帰宅してシャワーを浴びてから、今度は、家族とささやかな慰労会です。

今年の夏はよくがんばった!

わけですので、寿司やにて乾杯してきました!

秋といえば「すずき」

ちょうど香川県産のすずきがお薦めで入っておりましたので、そのへんからはじめ、初物の秋刀魚が絶品で、こってりとした脂と薬味がなんともいえませんでした。

早い時間に乾杯しましたので、給仕の若いお姉ちゃんがまだ出勤しておらず、板場のお兄さんに、先ずは「一ノ蔵(無鑑査)」をお願いすると、

「なみなみ」と注いでくれたことに感謝です。

あと来たお姉ちゃんに「澤野井」をお願いすると、

「なみなみ」……とはいかず、まあ最初が“なみなみ”!でしたので、ありがたく受け、最後は、山かけ鮪にて締めてきました。

帰宅するとそのままダウン。
よって12時間昏睡状態に入ってしまったわけです。

ともあれ……。
日中、青春行路を確認し、夕刻から疲労を取るための慰労会もやりました。

また今日からがんばっていきましょう!

「学者小安に安ずるなかれ」

福澤諭吉(1835-1901)の言葉を励ましにうけつつ、仕事にとりかかります。

……ということで、以下は写真日記。

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三田キャンパスの大銀杏は実に懐かしい思い出がいっぱいです。
書けないこと?も多数ありますが、青春の一コマを象徴する大銀杏です。

卒業後に竣工された東館を抜けてから、池袋へ。

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郊外のキャンパスというのものびのびとしててそれはそれでいいのですが、長く都心のキャンパスでお世話になっておりました。

学部・大学院合わせると都合16年!……まさに“家が建つ”といわれる授業料および生活費を支出してくださった両親に感謝しつつ……

ビルに囲まれた都心のオアシスといってよいでしょう。楼閣群のなかに、ぽっかりと緑があり、潤いを提示しているのが都心部のキャンパスの魅力かもしれません。
休憩中のサラリーマンやOLのお姉さんを見かけることも多く、こうした環境も大切だなあ~などと思いつつ……

サラダ蕎麦は思った以上にクリティカルヒットで、
好例のバス・ペール・エールはいつ頂いてもかわらぬおいしさです。

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帰宅してから慰労会。
すずきはもうすこしたってから頂いた方がうまいのですが(落ちすずき)、秋を彩る風物詩としては欠かすことのできない一品です。

すでにバス・ペール・エールを2杯ほど頂いておりましたので、ビールはあまりやらずに、日本酒中心で攻めました。

……おかげで帰宅すると爆睡です。

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【ご案内】05/16-17:地方スクーリング,E1期北海道(札幌) 『倫理学』

01_img_0477 【ご案内】05/16-17:地方スクーリング,E1期北海道(札幌) 『倫理学』

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 しかし、学問はイメージとはちがいます。「倫理学」は「倫理とはなにか」を根本的に問い直す学問です。おそらく本書を読み進まれるうちに、既成のイメージとは違ったなにかを発見されるのではないでしょうか。倫理という言葉は、もともと「人間のありかた」という意味の言葉です。つまり、この世界のすべての事象を、人間のありかたとしてとらえてみようという観点に立ちます。私たちにもっとも身近な学問としての人間が、それが倫理学だということができます。
 そして大切なことは、この身近なものごとのうちに価値を見いだし、さらに価値を創造していくということです。それは同時に、私たちの生や生活を充実させていくということにほかなりません。本書の副題が「価値創造の人間学」となっているのは、そうした理由からです。
    --石神豊『倫理学 価値創造の人間学』創価大学通信教育部、平成15年。

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賞罰告知といいますか、定型文といいますか、毎度同じ呼びかけで恐縮ですが、例の如く、アカデミズムの荒野をさまよう宇治家参去で御座います。表題のとおり、今週末より、札幌市で開催される通信教育部の地方スクーリング(対面授業)にて「倫理学」を講じてきます。

受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

できれば……序論だけでも結構です。
必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

マータイ女史(Wangari Muta Maathai,1940-)のラリアットは必須になってしまいます。痛くて1週間ひっぱるよりも、20頁程度は1時間かけて丁寧に読む方が価値的かと。

是非、宜しくどうぞお願いします。

今回は予定者12名と聞いております。
例の如く宇治家ゼミですね。

お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースです。こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

授業中には寝ることもできない……わけですよ、はい。
顔と名前も覚えてしまいますですよ。

眠ることもできないほど最高のフルコースを提供しますので。

で……。

ここからが重要(?)

ホテルが札幌駅周辺です(精確には北口より徒歩3分)。
近くに安くておいしいところがありましたら皆さん是非教えてください!

なぜって?

「この身近なものごとのうちに価値を見いだし、さらに価値を創造していくということです。それは同時に、私たちの生や生活を充実させていくということ」にほかならない学問こそ倫理学だからです。

ちなみに……
身近なものに注目すると面白いものでございます。
サントリーの「天然水」。
東京では、天然水「南アルプス」
熊本では、天然水「阿蘇」
そして四国・中国・関西では、天然水「奥大山」
沖縄では、「阿蘇」だろうな~と思っていると、そうした通念は破壊されてしまいました。

東京と同じく「南アルプスの」天然水でございます。

北海道はどうなのでしょうか?

ついでにE1期の「地方スクーリング(E1期)実施計画」が事務局よりメールにて送られ来ましたが、宿泊先のホテルの備考欄、「○○ホテル……※喫煙部屋」。

担当教員13人いるなかで、喫煙者、おれ1人かよっ!

……ってひとりぼけつっこみをやりながら、とりあえず、カーネーションは買ってきました。

細君がうるさいからでございます。あとでガアガア言われるより先に用意しておくのが大人の倫理学というものです。

ただし、こまかく突っ込むならば、細君は私との倫理的関係性において、「母の日」の対象となる「母」ではなく「細君」に他ならないわけなのですが……。

……ということでSAPPORO黒ラベルでも飲んで寝ますわ。

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両目を閉じて引き金を引く

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チョイと自戒と反省を込めて書きます。
ナーバスで神経質な文章ですので、スルーしてください。

反省を込めた自分自身の内面との対話です。
存在論的にはあってはならない事態であり、教員・研究者というカテゴリー以前の「人間としてお前はどうよ」って問われる部分ですが、それを平然と平気で時折やってしまいますので、自戒を込めて記録として残しておきます。

ですから、興味のない方はスルーしてください。

では。

ときどきやってしまうのですが、「ひとこと多い」んですよね、宇治家参去の場合。

今日もそうなのですが、市井の仕事先で、バイトくんと終業後、タバコをぷかぷかしながら、らちもない話をしていたわけですが、そこでまた「ひとこと多く」言ってしまい、お互いに居心地の悪い始末となってしまう。

凹むわけです。
これまで何度も繰り返してきては凹んでいますので、凹むほどに更地はのこっていませんが、不思議なことに凹むわけです。

倫理学とか哲学乃至神学は、やはり、言葉に注目しながら、その内在的な意味を現代という世の中で、いわば“解釈”していく部分が主要なフィールドになっています。ですから、核燃料でも扱うが如く、その言葉を扱う上では慎重にも慎重を重ねて扱わなければならないのに、話をするなかでときとしてそのルールを自ら破ってしまうことが多々あります。

映画系の映像エンジニア(?)を目指す学生さんのバイトくんと話をしているなかで……

「おれは自分の作品で勝負するんですよ!」

ここで、すなおに……

「頑張れよ!」

……で止めておけばよいものを、

「でもな……」

「資本の圧力や権力の利益誘導なんかあって、なかなか自分のものを作るのは大変だぞ。何故なら……」
……などとやってしまう。

映像作家の総てがもちろんそうではないし、そんなことは、そういう現場に彼が入っていけば不可避的に気づくことであり、そこからが彼の本当の闘いがはじまるわけなのです。
しかしどうもそういう解説に熱が入ってくると、生来の悪い癖で、「これだけは知っておいてもらわなければならない!」などと妙に“正義感”を感じてしまい「ひとこと余計に言ってしまう」。加えて、その行為に自分自身が“酔う”ことによって、結果としてお互いに傷つけてしまうのである。

夫婦の間でもたまにやってしまいます。

ほんまにこの癖は直さないとマズイです。

ひょっとすると、リアルな世界だけの出来事ではなかったらどうしよう……などと、生来のドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky,1821-1881)愛好者は悪いことばかりへ目を向けてしまうのです(※)が、焦燥し、久し振り--でもないですかね--光明の見えぬ奈落のそこです。
※ただし、本論とかけはなれたところでいえば、そういう人間の暗闇性に目を背けず真正面から捉えていくことは必要ですが。

さて、話は戻ります。
こうした学問をやっていると、どうしても所与の前提とか常識と呼ばれるものに対する“疑い”がそもそもの出発点になります。そうすると同時に「では真実とは何か」っていう探求心が旺盛になってきますので、そうした前提を支えている構造を確認するものです。
例えば、目に見えぬ権力構造とか、支配-被支配の構図(※)なんかを確認してしまうと、その問題に関わるひとに、そのことを教えなきゃ!って……嫌悪すべきヘンな啓蒙主義が顔をのぞかせてしまいます。ヘンな啓蒙主義とは、プラトンが『メノン』の中で手厳しく批判したソフィスト流の知っている者と知らない者を分断する二元論、そしてそこでの一方通行な正義の開示というやつです。
一番あってはならない在り方ですが、そんなところを“自然と”やってしまうので、本当にあきれかえるばかりです。
※これまた本論からかけ離れますが、しかしながら、その構図や構造を覚知したとしても、それはそれでまたそれを包摂する構造を形成するひとつのスケープゴートなのかもしれないとすると、自分は真実を語っていないことになりますが。

さて、ここにおいて実は一番やっかいなのが、そのことをお話するなかで--嫌らしい言い方ですが--自分が正義であることを、その行為によって確認しているんですね、自分自身が。
西洋思想を批判的に吸収し、その暴力性を踏まえながら……などと自分自身で謳いながら、それに籠絡されているというオサムイ現状です。
西洋形而上学の暴力性を暴き出したジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)は「形而上学の歴史は絶対的な<自分が話すのを聞きたい>である」というかたちで、自己同一性の暴力を手厳しく指摘しましたが、宇治家参去もまさに「絶対的な<自分が話すのを聞きたい>」のでしょう。単にそのことに酔っているだけなんです。ここには、正義は全く存在しない。正義とは全く異なる、チープな感情として正義に“酔っている”だけですから、結果として、単なる暴力を発動させている……とんでもない情況です。

たしかにある一面では、いいきらなきゃいけないところもある。
しかし、言われなくても、本人があとから気づく問題もそのなかにある。

いいきらなきゃいけないけど、そこで感情としての正義に酔わないようにもしなければならない。感情という裏付けのない正義というのもこれは人間に内在しないから違和感があるけれども、正義を語るという行為のもつ暴力も回避しなければならない。

いつもそうなんです。
そのときは、おお、いい話できた!などと思っても、その直後、なんとなく居心地の悪さを感じてしまうことが縷々あります。

しかし、言うべきこともいわないといけないし、いうと結果として相手が傷ついてしまう。そんな境界線上をいつも彷徨っているのですが、ときおり、ストーンと落っこちて凹み、崖下からまた境界線へはい上がり“立ちすくんで”しまうという永劫回帰を繰り返しております。

あとにもひけないし、まえにもすすめない(進んでないというわけではありませんが)。
たとえ、自分が「一言多く」言ってしまった内容が、(百歩譲って)「いいきらなきゃいけない」必然性と妥当性をもったものであったとしても、その語りが、正義に酔う「一方的な」発言であったり、放言であったり、罵倒であった場合、それが本来正義的なるものであったとしても、正義自体が自壊してしまう契機となってしうのかもしれません。正義とはたしかにプラトンが模索したように、所与のイデアとして存在するのかもしれない(自分としてその発想に極めて違和感がありますが)。しかし、いずれにせよ、その語りが一歩通行になってしまった場合、正義が正義を押し殺してしまうのでしょう。そこには対等な尊敬も敬意もなく、相手に“教える”とか、“諭す”という道学的在り方しか存在せず、分断と対立しか結果として招かないからだ。

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……肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自ら欺き、自らの偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることが出来ぬようになる、すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。ところが、愛がないから、自然と気を紛らすために淫らな情慾に溺れて、畜生にも等しい悪行を犯すようになりますじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する絶え間のない偽りから起こることですぞ。自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいことがある。そうではありませんかな? そういう人はな、誰も自分を馬鹿にした者はない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに色どりをしただけなのだ、ということをよく承知しております。一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、--それをちゃんと承知しておるくせに、自分からさきになって腹を立てる。こうしてほんとうのかたき同志のような心持になってしまうのじゃ……さあ立ってお坐りなされ、お願いですじゃ。それもやはり偽りの身振りではありませぬか。
    --ドストエーフスキイ(米川正夫訳)『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫、1957年)。

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そうした正義に酔っている自分自身は、ドストエフスキーが描いて見せたフョードルであり、「一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、--それをちゃんと承知しておるくせに、自分からさきになって腹を立て」ている状況なのでしょう。
知らず知らずにやるのが怖いのですが、「自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう」のである。

いいたいこと・つたえたいことを演説してはならない。
いいたいこと・つたえたいことだからこそ、話し合わなければならないのでしょう。
おたがいのやりとりをしないと、いいたいこと・つたえたいことはつたわらない。
単なる訓戒は、単なる押しつけの暴力である。

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 ザグルーは、いま窓をみつめていた。一台の自動車が、戸口の前を、軽い咀嚼音をたてながらゆっくりと通りすぎていくのが聞えた。ザグルーは身動きもせず、この四月の朝の非人間的な美しさを凝視しているようであった。右のこめかみにピストルの筒先を感じても、かれは目をそむけはしなかった。だが、かれをみつめていたパトリスは、かれの視線が涙でいっぱいになるのを見た。両目を閉じたのはかれのほうだった。かれは一歩うしろにさがり、引き金を引いた。一瞬、壁に寄りかかり、両目は相変わらず閉じたまま、かれは、まだ自分の眼が両耳のところで脈打っているのを感じた。かれは凝視した。顔は左肩の上にのけぞってしまったが、身体はほとんど曲がっていなかった。それゆえザグルーの顔はもはや見えず、見えているのは、ただ、脳漿や、骨や、血がもりあがっている大きな傷痕だけだった。メルソーは慄えだした。
    --カミュ(高畠正明訳)『幸福な死』(新潮文庫、昭和五十一年)。

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つねづね、対話的人間構造の核として、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の顔・眼差し・眼ということを倫理の原初として語っておきながら、このザマではどうしようもありませぬ。

上に引用したのはカミュ(Albert Camus,1913-1960)の小説の一節からです。
主人公メルソーが金持ちの不具者・ザグルーを射殺するシーンですが、メルソーは引き金を引く瞬間に、殺そうとしている相手の顔を見ることができなかった。

しかし、見ることができなかったがゆえに、引き金をひくことができたのである。

「ひとこと多く」真理を語っている、正義を語っている自分自身の声に酔っている状態の宇治家参去とは、実はこのメルソーと同じかも知れません。

眼差しを閉ざし引き金を引くことが、「ひとこと多く」語るありようなのでしょう。

なんとかしないとな。
常々、人間を見よ、と人間を論じておきながら、このザマです。
陥穽の陥穽とはこのことをいうのでしょう。

ほんま、今日の彼だけでなく、これまでに宇治家参去によって数多く撃たれた彼・彼女、すんませんでした。

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【ご案内】6/28-29:地方スクーリング、高松へ(倫理学)

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【ご案内】6/28-29:地方スクーリング、高松へ(倫理学)

すこし告知が早いですが……。

来週末の土日、地方スクーリング(高松)にて、倫理学を講じます。
受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

これまでの、教科書に目を通した上で受講される方が、全体の2-4割前後です。
※昨年12月の高松での地方スクーリングでは逆に、それなりに教科書に目を通してきてくれた学生さんが8割で、スムーズに授業が進行しました!

さて……。
忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

もちろん、こちらは、読んでいない学生さんの存在を前提に講義をすすめますが、できれば、全編を読んできて!とは申しませんので、序章から1章(できれば2章まで)ぐらいは、ザァーっと目を通してきて頂くと、うれしいです。

さて今回も、熊本の事例につづき、履修予定者6名。
またも宇治家ゼミとなっています。お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースです。こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

で……。

ここからが重要(?)

宿泊は、スクーリング会場とおなじ、高松テルサですが、近くに安くておいしいところがありましたら皆さん是非教えてください!

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