哲学・倫理学(現代)

「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」ほど恐ろしいものはありません

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 人間は「真理」をもとめる、すなわち、自己矛盾せず、欺瞞せず、転変しない世界を、真の世界--苦悩をうけることのない世界を。矛盾、欺瞞、転変が--苦悩の原因であるとは! 人間は、あるべき世界のあることを疑わず、この世界へといたる道を探しもとめたがる。(インド的立場から批判すれば、「自我」ですら、仮象であり、非実在であるとされる。)
 ここでは人間はどこから実在性の概念をえてくるのか? --なぜ人間はまさしく苦悩を、転変、欺瞞、矛盾から導きだすのか? なぜむしろ人間の幸福を導きださないのか? ・・・--
 移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪。 --恒常なるものをよしとするこの価値評価はどこから由来するのか? 明らかにここでは真理への意志はたんに恒常なるものの世界へと入りたいとの要望にすぎない。
 感覚は歎き、理性は誤謬を訂正する。したがって理性こそ恒常なるものへの道であると、人は推論した。最も非感覚的な理念が「真の世界」に最も近接しているにちがいないのである。 --感覚からたいていの不運が由来する、--感覚は、欺瞞者、眩惑者、絶命者である。--
 幸福は存在するものにおいてのみ保証されることができる。転変と幸福とはたがいに排斥しあう。したがって最高の願望は存在するものとの一体化をめざしている。これが、最高の幸福への道をあらわす定式である。
 要約すれば、あるべき世界は現存しており、私たちがそのうちで生きている世界は誤謬である、 --この私達の世界は現存すべきではなかったということになる。
 存在するものによせる信仰は一つの帰結にすぎないことが、立証されている。すなわち、本来の最初の動き primum mobile は、生成するものを信じないこと、生成するものに対する不信、すべての生成の軽視なのである・・・
 いかなる種類の人間がそのように反省するのか? 非生産的な、苦悩をうけた種類の人間、生に疲れた種類の人間で和える。私たちが反対の種類の人間を想いうかべてみれば、そうした人間は存在するものを信ずる必要はないにちがいない、それどころか彼は、存在するものを、死んだ、退屈な、どうでもよいものとして軽蔑するにちがいない・・・
 あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探し求める。「真理への意志」--創造への意志の無力としての。
    --ニーチェ(原祐訳)「権力への意志 下」、『ニーチェ全集』13巻、筑摩書房、1993年。

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ちょいとイレギュラーな授業……短大の「哲学」での講義……を組み立ててしまったのですが、先週、今週と2回ほど、教材から全く離れた授業を組み立ててしまいました。

なにをやったかと申しますと、宇治家参去特有の表現を使うならば……、

「演説」

……という奴です。

宇治家参去の授業を受けたことのある御仁であれば、

「ああ、あの表現か」

……ということになりますが、、、

要は……じぶんらしくないのですが……ちょゐと熱く語ったてしまった次第です。

「語り」が入りますと、やはり、一般教養の科目ですから、辟易としてしまう受講者もいるのではと思い、いつも、「語ってスイマセン」というおまけをつけてしまいますが、おまけのおまけをつけてしまって……

……やっちゃった、、、などと忸怩たる宇治家参去です。

ちょうど、ポストコロニアル批評のスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の発想を紹介するなかでのひとことになりましたが……そのうちスピヴァクでも論文を1本書きたいところですが……、、、ここだけはどうしても語らずにはおけません。

理念と現実の矛盾感覚の自覚の問題です。
ひとはそのどちらか一方に足をツッコンで、重視して生きていくことのほうが多いのですが、それはむしろ、現実からも、そして理念とか理想といったものからも遠ざかってしまうからです。

理念が先にたつとどうなるのでしょうか・・・。
70年代の学生運動を末路を想起するとその消息が理解できるというものです。
職業革命家たちは、理念や理想に対して俊敏になればなるほど、現実から遠ざかっていったものです。

「人間のための革命」を標榜しながら、同志を抹殺していく……そうした陥穽をそこにみてとることが可能でしょう。

そこには生きた人間も、そして人間のための理念も理想も存在しません。

地に足がついていない……といったところでしょうか。

そしてその対極には何があるのでしょうか。

自称「現実主義者」と評して「おまえ、もうちょっと現実を見ろよ」とうそぶくシニシズムです。
現実にあり方には実が不満タラタラなんですが、諦めてもいる状況です。ですけど、やっぱり、気にはかかるのですが、「シカタガネエ」と嘯き慰めつつ、理想を語る連中に冷や水を浴びせるとでもいえばいいのでしょうか。

ここには地に足が埋まっている……といったところでしょうか。

しかし、現実はその両者は両方の両極端であり、そこには生きている人間は存在しておりません。

どこに生きている人間世界が存在しているのか。

死に向かって生きている人間存在そのものが矛盾の当体であるわけですが、その矛盾を理念とか現実という言葉によってカテゴライズさせずに、その矛盾を矛盾として受け止め……スピヴァクの言葉で言えば、「ダブルバインド」ということですが……黙々と歩む世界にのみ、現実の沃野があるのかもしれません。

熱意のある学生というのは、おおむね、理念に傾きがちで、学生を終えた社会人というものは、おおむね、現実主義を吹聴しがちです。

ですけど、そこには生きた人間世界は存在しません。

どちらも現実を単純化した抽象化された立場に過ぎないからです。

現実と理念という「重荷」である十字架をせおいつつ、開拓すべきなのですが……、、、人間はどこかで、そこから概念的跳躍というウルトラQを選択肢がち……といったところでしょうか。

……その辺を説明……もとい、かたり始めると、とまりません。

これがいわゆる宇治家参去ワールドというやつでしょうか。

語る自分に辟易としながらも、小難しいスピヴァクの議論を展開したわけですが、思った以上に学生さんたちが、目をキラキラと輝かせて聞いてくださったことに感動です。

たしかにニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,,1844-1900)の語る通り、「自己矛盾せず、欺瞞せず、転変しない世界を、真の世界--苦悩をうけることのない世界」があったほうがいいし、そうなってほしいとは素朴ながらに思いも致します。

しかしながら、職業革命家たちが夢想するとおり「あるべき世界は現存しており、私たちがそのうちで生きている世界は誤謬である」と断ずることも不可能です。

そして同時に、シニシズムの現実主義者が「あるべき世界」を変革不可能と断ずることにもう同意できません。

であるならば、どうすればよいのでしょうか。

極端な道を排しながら、もくもくと我が道を歩みしかありません。しかしそれは孤立した我ではなく、全体のなかでの自己、自己としての全体のなかでの歩みでなければならないのでしょう。

関係性がたたれてしまうと、簡単に革命家になったり、自称・現実主義者になったりしてしまうものですから・・・。

真の世界とはどこにあるのでしょうか。

いきている、このぐだぐだの素晴らしき世界にこそあるのでしょう。

だからこそ、「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」から卒業したいものです。

そして、「あるべき世界」は「あるべき」批判概念ではなく、「あるべき」ように「創造しようとの意欲」をもって、ダブルバインドを自覚しつつ格闘するしかないのでしょう。
その辺を、柄にもなく語っちまいました・・・。

ですけど、そのへんの自覚、ふんぎり、といった感覚がないと、たやすく人間は人間生活世界に対して「閉ざして」生きてしまい、手段論に籠絡されてしまうというものです。

……ということで???

錦秋のキャンパスで、めずらしい学食メニューをランチで頂戴した次第です。

「カレー、ハッシュドビーフのWプレート」(うろおぼえ)

……という逸品です。

カレーと、ハヤシの、二品をいっぺんに楽しむ?ことができるという便利なアイテムであり、まさに、観念の籠絡を粉砕する一品です。

しかし……

……ながら……、

カレーは、カレー、

ハヤシは、ハヤシ、

、、、で食べた方がグッドだったかもしれません。

その意味では、理念とか概念を超克しようと尽力した宇治家参去自身の脳内理念・概念脱却論もひとつの陥穽に陥っていたのかも知れませんが……

……たぶん、、、そんなことはなかったハズ・・・。

ま、いずれにしましても「 あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探し求める。「真理への意志」--創造への意志の無力としての」呟きなのでしょう。

……ねえ。。。

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はずせないので、はずせませんが、甘受もできず・・・という状況認識

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 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することになる。したがって、先入見が--他者やテクストが語ることに直面して--疑わしくなったとしても、それはその先入見が単純に脇の押しやられ、他人ないしは他なるものがそれに代わってただちに有効になる、ということではない。そのように自分自身を度外視できると思うのは、むしろ、歴史的客観主義の素朴さを表している。本当のところは、先入見はそれ自身危険にさらされる(auf dem Spiel stehen)ことによって、真に本来的な仕方で理解に働き始めるのである(ins Spiel gebrachte werden)。先入見は自らを賭ける(sich auspielen)ことによってのみ、他者の真理請求というものを経験しうるのであり、またそれによって、他者もまた自らを賭けることができるようになる。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(轡田收・巻田悦郎訳)『真理と方法II 哲学的解釈学の要綱』法政大学出版局、2008年。

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何度か議論した話題なのですが、やはり先入見を100パーセント廃棄することは不可能なんです。

ですけど、先入見の負の側面に注目した議論が過熱してしまうと、どうしても論旨が「先入見からの脱却」というスローガンのもとに集約されてしまいがちです。職業革命家たちによって魔女狩り的に標的とされる「先入見」がやり玉にあげられてしまうわけですが、その燻り出す職業革命家たちも、同じ乃至は別の「先入見」対しては無自覚でありつつ「先入見」を批判する……というスパイラルがその実際なのかも知れません。

いうなれば、結局の所、同じ土俵の中で、無邪気に……その無邪気さが実は恐ろしいのですが……燻り出しの盆踊りを踊るとでも表現すればよろしいでしょうか……。

そんなことをフト思う宇治家参去です。

思想史的に振り返れば、先入見を先鋭的にやり玉に挙げるのが「啓蒙」“主義”であり、その対極で状況を甘受してしまうのが「ロマン」“主義”なのでしょう。しかし両者には共通点もあります。“主義”と“”で括ったように先鋭化するところにその特徴があるのだろうと思われます。

しかしながら人間生活世界の実情を勘案するならば、「先入見」をすべて脱却するのも不可能であれば、その逆に「先入見」を総て肯定し、その状況をスルーしてしまうというのもおしなべて不可能なのでしょう。

その意味では、先入見に対する自覚といいますか認識・点検を時折点検しながら、そのフィクショナルな構造を知覚するほかありません。

「そうおもっていることは億見(ドクサ)に過ぎない、このバカもの!」と断じてしまうことは簡単です。

そして「そんなもんなんなのだよなー」などと状況を肯定してしまうことは簡単です。

しかし、その両者は極端のあり方にすぎないのかもしれません。

ちょうど、昨日、紀要論文の初校が到着しました。
製本・刊行は12月なのですが、9月月末に頭をなやませた課題のひとつです。

今回は、久し振りに……といいますか実は大切な課題なのですが……吉野作造(1878-1933)で1本書いてみたのですが、今回は時期を区切って、吉野作造のナショナリズムに対する考え方をまとめてみた次第です。

大きな見取り図をだすならば、吉野作造も時代の子です。少年時代から若い頃にかけてはナショナリズムを叩き込まれ、素朴にそこに対して熱くなったことを否定できません。

しかしながら、世界状況や時代状況との対応、そして信仰の深まりのなかで、それを相対化していく……それが彼の歩みです。

しかし、注意深く吉野の文献を読んでいて気が付くのが、「ナショナリズム」“そのもの”を否定はしていないということです。もちろん“ナショナリズム”を楽天的な世界連邦論者のように“全”否定し、ひとつの価値概念に集約するようなアプローチはとりませんが……これが啓蒙「主義」的否定でしょうが、同時に、その対極にある無自覚的自己主張の優先……これがロマン「主義」的肯定でしょうが、その両者を、両者から突っ込まれないように慎重に退けております。

確かにナショナリズムの問題点を勘案するならば、前者のように、素朴に全否定することは簡単で、その対極も簡単です。

前者が否定のための否定であるとすれば、後者は否定を寄せ付けない開き直りとでもいえばいいのでしょうか。

しかし、実際に、大地に生きている人間はその感情を全否定することも、全肯定することも不可能です。

であるとするならば、その問題を抱えている自分自身を認識し、そしてよりよき対応を模索するというのがベストかもしれません。

哲学的解釈学者ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)は、歴史と社会という地平の接点のなかから「よりよき」「解釈」はどのように可能になるのか徹底的に論じましたが、両方の「主義」的アプローチを退けながら、先入見の問題を「先入見」“だから”問題であるとすることもなく、「先入見」“だから”しょうがないとすることもなく、「先入見」“がある”ことを丁寧に論じましたが、それはとりもなおさず「自覚」と踏まえた「対応」の問題に他ならないのかもしれません。

ですから吉野の文章を読んでいると面白いのは、自分自身がナショナリズムにほだされていたその過去をまったく否定はしていないということです。経験を隠そうなどとはしておりません。むしろ、そうした自分であったけれども、そこから「何を学ぶのか」そこに焦点がおかれているようです。

吉野の場合、自分自身の「ナショナリズム」の意識的自覚が、他者の「ナショナリズム」の存在を自覚させたわけですが、これなどは、先入見の自覚の好事例かもしれません。

……ということで、初校がせっかく届いたにもかかわらず、既に飲み始めましたので、校閲作業は起きてから……ということで。

締め切りまでちょいとまだ時間がありますものですから・・・。

……ってタカをくくると足下を掬われる宇治家参去ですが、たぶん、大丈夫でしょう・・・。

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「「我」が「汝」に出会う「関係」こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況」でありますから……

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……対話とは、「汝」が「我」に対して「無関心でないこと」である。それは無私の感情=存在の外をめざす感情(sentiment dés-inter-rssé)である。たしかに、その感情が憎悪に変質することもあるのだが、それは愛、そして愛に似たものと--慎重を期しつつも--名づけるべきものの好機でもある。だからと行って、それは道徳を盲信したり、中庸の観念や価値観に無思慮に屈服することを意味するわけではない。出会いにおいては、他なるものがあらゆるものに優先して重要性を持つからこそはじめて、超越の対話において、善の観念が立ち上がるのである。「我」が「汝」に出会う「関係」こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況である。倫理という事実はいかなる価値観にも依存しない。逆に、もろもろの価値観が倫理という事実に基礎づけられるのである。「善」の具体性とは、他の人間は価値があるということである。価値があることの両価性、つまり「善」と「悪」のそれぞれから等距離にあるときの決定不可能性は形式的な問題にすぎない。「他の人間は価値がある」ということにおいて、「善」は「悪」に先行しているからである。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「対話--自己意識と隣人の近さ」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

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ものごとには「慣れて」「向き合った」方がよい場合といいますか、スムーズにいく局面が存在します。

その一方で、「向き合った」場合が、カウントとして何万回と数えようとも、それが「一回目」「初めて」のことととして「向き合った」方がよい場合も厳然として存在します。
こと、人間に「向き合った」場合に関しては、むしろ「慣れて」向き合うよりも、何度の邂逅であったとしても「初めて」として「向き合った」場合の方がよい場合の方が多いのかもしれません。

ですけれども、人間という生き物は、“よく知っている”「間柄」の対象に関しては「こんなものだよな」という態度で、無意識的に対象コードを転換して向き合ってしまうことのほうが多く、そうした場合、足下をすくわれてしまいますので、「なんなんだ」とかって式に自噴してしまうことが覆いのかもしれません。

そうした場合の向き合い方というのは、対象に関して“よく知っている”と本人は自認しつつも、その実は、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が指摘するごとく、対象に対する「無関心でないこと」“でない”状態に他ならないのでしょう。

しかし、なにかと面倒な理由を付けつつ、人間は向き合う人間に対して“無関心”であることによって、状況を都合のよいように解釈し、他者の他者性を剥奪し、自己認識の帝国主義によって、世界を解釈してしまうのかも知れません。

しかし、世界とか対象というものは、そうした独白的なモノクロームの世界と対極にある総天然色の世界であるのがその実です。

であるとするならば、意識的にでも対象に対して「無関心でないこと」という流儀をどこかで持ち合わせたいものです。

--ということで?

何度も邂逅し、指導を受けている指導教官との打ち合わせが本日あります。

不思議なことに、10年以上の師弟関係になりますが、いつお会いしましても、それが「慣れた」とか「そういうものだ」というものではありません。

いつ伺ってもそのひとときが、まさに自分自身にとって「はじめて」であり「無関心」であり得ない状況になってしまいます。

まさに幸福な瞬間とはこのようなひとときのことをいうのでしょう。
※いうまでもありませんが、もちろん厳しい叱責もありますヨ。

--ということで?

本日は早めに沈没し、数時間後の論文指導を有意義なひとときにして参りたいものです。

--ということで?

そのネタである吉野作造(1878-1933)に敬意を表して、本日は吉野の故郷・宮城県大崎市(旧・古川市)の地酒「一ノ蔵 無鑑査」にて思索のひとときを彩りつつ--。

いずれにしましても、対象が人間であれ物であれ、世界であれ、それを「そういうものなんだ」と決め込むことよりも、向かいあうたびに「初めて」の経験であると接する方がなにか豊かな歩みを残せそうと思われて他なりません。

不思議なもので、紫陽花とは初夏の彩りと記憶しますが、なかなかどうして、最後の花びらをシブイ色合いで付けいるのに遭遇すると、実にそう思われて他なりません。

「『我』が『汝』に出会う『関係』こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況である」がゆえに、その邂逅を大切にしたいものです。

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考える生活

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 自然の状態にある人間は、処理すべき生涯、克服すべき困難がなければ、考えるものではない。安楽な生活、努力しなくても成功する生活というのは、考えることのない生活であろうし、従って、全能の神の生活も、そういうものなのであろう。
    --デューウィ(清水幾太郎他訳)『哲学の改造』岩波文庫、1968年。

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9月から朝型?に……といっても6時とかに起きるわけではありませんが……切り替えるべく、夜中の3時には遅くとも寝るようにしているのですが、昼過ぎとか、市井の仕事の休憩中に、睡眠という大海に沈没しそうになってしまうのですが、そこで沈没すると、結局、寝る時間が遅くなってしまい、起きている時間におけるコックリコックリ状態から抜け出せなくなってしまうので、その負の連鎖からの脱却が目下の課題です。

規律はないよりはあったほうがよく、できれば他律よりも自律であったほうがベストなのなことは承知しております。しかしなかなかうまくできず「自然の状態にある」を選択しがちなのですが、そこに流れがちであるとしても、人間はどこかでその素の状態を律するなにがしかがあったほうが、「生きている」という実感を得ることが出来やすいのかもしれません。

このところ実に休む時間がまったくとれず、仕事と研究と学問の仕事がけっこう山積みのように控えており、実に休む時間がとれません。

休む時間といえば、寝る前に一ぺえやるドリンキング・タイムぐらいですが、ドリンキングできているということを勘案するならば、まあ、自分でテキトーに休ませているんだなア~とは思う次第ですが、それでもなかなか仕事も片づかなく……、などと思いながら、目下の研究とか学問の仕事に直接の関係がないデューイ(John Dewey,1859-1952)の講演録を再読しておりますが、これがなかなか染みこんでくるものです。

「安楽な生活、努力しなくても成功する生活というのは、考えることのない生活」のようですから、ひたすら「考えること」を「商売」としている宇治家参去には「安楽な生活」とは無縁だろうとデューイが励ましてくれているのかも知れません。

まあ、「考える」ということは「処理すべき生涯、克服すべき困難」があるからこそ「考える」というものなのでしょう。

できれば、「何もなく」ても「考える」ことのできる人間になりたいものです。

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不幸にして吾人は宗派に捉へられ、民族に捉へられ、本来しかあるべき人格を作り上げて居ない

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 愛と聡明とに依て理想世界を建設せんとするが蓋しレッシングの大本願であらう。不幸にして吾人は宗派に捉へられ、民族に捉へられ、本来しかあるべき人格を作り上げて居ない。「本来の人格といふものは此世界で余儀なくされてゐる人格と何時も一致してゐる」とは云へぬ(大庭氏訳二二二頁参照)。余儀なくされて居る人格から本来の人格に向上する様に吾々を覚醒することがレッシングの『賢者ナータン』を書いた目的の一つであり、而して是れ実にまた世界平和の理想に燃えて居るすべての人の不断の努力であつた。この精神は現代の日本の必要がないだらうか。
    --吉野作造「賢者ナータン」、『文化生活』一九二一年九月。

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ひとつ安心しました。
学術雑誌(紀要)に載せる論文の原稿を前月送ったのですが、こういった類の原稿はそのまま校閲を経て掲載されるわけではありません。

いわゆる「査読」……要は内容として成立しているのか……というのがあるのですが、それが無事おわったようで、掲載「可」との連絡がありました。
※とわいえ、読まれる方よりも読む方が大変だとは思います。

連休もありちょいとずれ込んだようでしたが、「不可」とならずひとまず安堵した次第です。

完成した時点で、構成・論旨には問題ないことは自負しておりましたが、なにしろ、当初の予定とかなりおおきく転回した内容でしたので、そこが心配の種でしたが、これでまた大きな課題に向かって集中することができそうです。

さて今回は、久し振りに吉野作造(1878-1933)で1本書いてみました。
吉野作造は民本主義で有名ですが、その憲政論もかなり内容的に転回します。おなじように国家観や教会観も大きく転回するのですが、吉野作造自身のナショナリズムも大きく転回します。

吉野作造の場合、少年時代に培われ、日露戦争でクライマックスに達していくわけですが、その後の中国・天津での滞在、ヨーロッパ留学の経験などから、大きく転回していきます。いわば、ナショナリズムの念が消されるのではなく、相対化していく……とでもいえばいいのでしょうか。

ですから、日露戦争終結後に発表された民本主義の嚆矢となる「主民主義」の主張においては、民本主義の根幹となる政党内閣制と普通選挙制度の要求は時期尚早として見送られておりますし、「力と力が凌ぎをけずる」国際情勢においては、日本の対外膨張主義は〔〕に居れられた形ですけども、肯定はされております。

それが時代を経る中で、相対化されていくわけですが、その筋道が実に興味深いものです。

いうまでもありませんが、その背景にはキリスト教に基づく四海同胞の精神と人格主義の影響が大いにあることは否定できません。

しかし、勃興する民衆運動を前に、国家という枠に収まりきらない民衆と共同体としての「社会」を発見し、最終的には「人道主義的無政府主義」を理想と仰ぎ見るところまで踏み込んでいきます。

が……もちろんそのすべての軌跡を追跡しますと、それだけでひとつの博士論文になってしまいますので、今回は、「前期」吉野として、日露戦争から第一次世界大戦前夜までに時間を区切って垣間見た次第です。

ということで冒頭の吉野の文章へ戻ります。
吉野作造の趣味の一つが観劇ですが、ヨーロッパ留学中も大いに観劇したそうです。そのなかでひときわ大きな影響を与えたのが、レッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729-1781)の『賢者ナータン』(Nathan der Weise) です。話の筋は譲りますが、人間の価値は民族や宗教などそうしたカテゴリーによって代表されるものが総てではないとの論旨ですが、吉野作造はこの『賢者ナータン』に大いに感動したそうです。

血や肉による消せざる特殊性というものを総て否定することは不可能です。しかしながらそれでありながら、同じように還元不可能な特殊性を保持した他者とどのように向かいあっていくのか……吉野の議論には、つねにそうした問題意識が孕まれているように思われて他なりません。

……ということで、極めてダルイですが、市井の仕事へ行っていきます。

にわの金木犀がいいかんじです。
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不連続性がおそらくこの労役の本性

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 怠惰は何より、体を動かすとか起き上がるとかの行為の開始に結びついている。「おお、やつらを立たしちゃならぬ、難破するぞ……」とランボーは、根っからの絶望的な怠惰という膿を出す「坐りこんだやつら」のことを言う。怠惰は、あたかも実存がすぐには開始に近づかず、ある無力状態のなかで怠惰をまず先に生きるかのようにして、開始に結びつく。そしてここには、二つの瞬間の間をわずかに流れる持続の合間以上のものがある。もっともそれは、怠惰の無力状態がまた、おのおのの瞬間が瞬間としての功徳によって推敲する開始を告げるものでないとしての話だが。
 怠惰とは開始の不可能性である、あるいはそう言いたければ、開始の遂行だと言ってもいい。怠惰はなされつつある行為に内属しているとも言える。というのは、そのときまさに行為の実行は、舗装が悪くそれぞれが開始のやり直しであるようないくつもの瞬間ででこぼこした道を進むように進行しているからだ--いやな仕事は捗らず乗りが悪く、不連続に見えるが、その不連続性がおそらくこの労役の本性なのだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』講談社学術文庫、1996年。

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昨日、原稿を入稿してから、そのまま仕事へ行きましたが、雨の所為でしょうか、すこし暇といいますか、時間に余裕があり、ゆっくりと仕事をすることができました。

休憩中には、原稿作成で後回しにしていた、来週分の短大の授業の配布物の作成ができ、休憩を遮るような難事も珍事も出来することなく、授業の仕込もあらあら完了したところです。

あとはパワーポイントとの整合性をもういちど、確認し、今晩最終調整をすれば完了です。

専門はキリスト教神学になりますが、講義で担当しているのは、哲学と倫理学。
近接する分野であり、細君のような門外漢からすれば、「どれも同じでしょう?」とのたまわれるわけですが、現実にやりますと、これが「どれも同じ」という状況ではなく、たしかに学問としては隣接している諸人文科学になるのですが、それぞれと向かいあう、探究してみますと、ひとまとめにできないものがあり、強烈な壁があったりとして……、正直なところ大変です。

哲学と倫理学の絡みでアリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の『形而上学』やら『ニコマコス倫理学』を繙きながら、その連続で中世のスコラ学との関わりをみていくという作業ならばそれでも連続性といいますか、深い連関を見出すことが可能ですが、やはりそればかりが作業ではありませんので、われながら、広い守備範囲で格闘しているわいな……などと思うことがしばしばあります。

ただ、和辻哲郎(1889-1960)は「根柢の学としての哲学にはそもそも専門などはないのだ」と指摘する部分は確かにわかるのですが、現実の作業は大変です。しかしながらそれでも、ひとりで広範囲の学問と関わるという事態は、それが契機としては無理矢理であろうが、自分自身の学の可能性を広げていてくれているのは事実であり、それはそれで有難いことだよなとも実感します。

ただしかし、まだまだその学問が自分の手足のようにはなっていない部分も自覚しておりますので、神学から哲学へ、哲学から倫理学へとスイッチを入れ替えるのは、確かに体力といいますが、ちょいと「よいしょ」が必要です。

「よいしょ」が面倒で、ときどき怠惰になってしまうときもありますが、その側面とは向かいあっていくしかありません。まさに「怠惰は何より、体を動かすとか起き上がるとかの行為の開始に結びついている」とレヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の指摘の通りです。

「不連続性がおそらくこの労役の本性」ですので、今日もちょいとがんばります。

……ということで?写真は、撮るだけとって載せていなかった一枚から。

月曜に大学に出講した際、さいきんほとんど、新設された学食でランチをとっておりますが、今がいちばんいい季節ですので、テラスで頂いておりますが、なかなかいいものです。

時間にせかされる毎日からゆっくりずらしてくれるようで、このリラックスをしてからの講義が毎度毎度の楽しみです。
後期は時間が一コマ後にずれて、ちょいと当惑したのですが、そのお陰で休息がとれるようになり、今ではよかったかも……などと思うこの頃です。

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“高慢な自力性”でもなくガチガチの“服従”でもない、戦いとる一致

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 宗教家はおそらく、哲学することによって神と関係するところの個人の高慢な自力性を非難するでしょう。彼らは啓示された神に対する服従を要求します。そこで彼らに対してつぎのように答えられるのであります。すなわちてつがくする個人が信仰するのは、神が欲することを客観的な保証によって知るのではなく、むしろたえざる冒険において、神に従うことを心の底から決断する場合なのであります。神は個人の自由な決断によって働くのであります。
 僧侶は神に対する服従と、教会とか聖書とか、直接の啓示と見なされる戒律などのような、この世界の名かで現れている審判に対する服従とを、混同しているのであります。
 究極において、この世界における客観的な審判に対する服従と、根源的に経験される神の意志に対する服従との間に真の一致が可能ではありますが、この一致は戦いとらねばならないものなのであります。
 もし個人によって経験される神の意志が、一方的に客観的な審判を無視するならば、一般的なものや共通的なものによる吟味を回避しようとする恣意へ陥りやすいのです。ところがそれと正反対に、もし客観的な審判が一方的に、個人によって経験される神の意志を無視するならば、現実そのもののうちから神の意志を聴くことによって、たとえ客観的な審判に反しようとも、神に服従するという冒険を回避しようという誘惑が生ずるのであります。
 信頼するに足る権威の法令や命令においてささえをつかもうとする場合には、それを誰から聴くかという当惑が存在します。それに反して、現実全体のうちから聴くことのうちには、個人の責任負担の飛躍的なエネルギーが存在するのであります。
 人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによるのであります。
 人間であることは人間となることであります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年。

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本日は社会的には連休なのですが、講義日程の都合上、短大の哲学の授業が組み込まれております。

そのことはまったく問題がないのですが、いつも講座を立ち上げる前に、再読するヤスパース(Karl Theodor Jaspers,1883-1969)の『哲学入門』をきちんとひもとけていないことにあせり、他行を後回しにして、再読に専念する宇治家参去です。

ドイツの哲学者・ヤスパースが、一般の人々に向けてラジオを通じて語ったものがまとめられた一冊ですが、クロニクルな哲学史というよりも、哲学は何を目指し、学ぶことによって人は何を獲得できるのかという要点が平易な言葉で語られており、いつも再読するたびに発見の連続で、こういう本を「古典」と呼ぶのでしょう……などと思います。

さて……。
職業宗教家の服従を求める言説の心根もわからなくはありません。
そして、啓示されたコンテンツに対する服従を欠いてしまうと宗教は自壊してしまいます。

またそれと同じように、個々の信仰者がなにか「客観的」とされる公定をまったく問題にしないのであれば、それは恣意的以外のなにものでもありませんが、それと同時にその恣意性をさけつつ、「客観的な審判に対する服従と、根源的に経験される神の意志に対する服従」の一致を「戦いとらねばならない」ことも理解できます。

しかし、現実の言説にはどちらかの高調という嫌いが多いのですが、その雑音をかきわけながら、みずから「戦いとらねばならない」ならないのが、その真相なのでしょう。

……そのあたりをヤスパースはうまく語っているなア~と驚かされてしまう次第です。

さて、数時間後には起床せざるを得ませんので、ぼちぼち沈没しますが、久し振りに手に入れた超辛口「鳴門鯛」(本家松浦酒造販売・徳島県)でやっているのですが、相手はこちらも久し振りに手に入れた無銘ですが、利き酒用の蛇の目猪口です。

どこかで見たような……といいますか蔵元ではまさに利き酒用に使う奴ですけども……猪口ですが、なんとも味わいを醸し出してくれるといいますか……酒がすすんでしまいます。

首まわりがガチガチで相変わらずイタイ……寝返りも打てず首の移動は躰の移動と同時にやらねばなりません!……のですが、軽度のアルコール消毒のつもりが重度のアルコール消毒になってしまいそうです。

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人間とは「その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るもの」

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 第二章 事実性の理念と「人間」の概念(1)

 事実性=そのつどのわれわれ自身の現有、という解釈学の主題を指示する規定においては、「人間的」現有あるいは「人間の有」という表現は原則として回避されてきた。
 「人間」についての諸概念、すなわち第一に理性を賦与された生物という概念、第二に人格、人格性という概念は、そのつど一定の仕方で予め与えられている世界の対象連関を経験し顧慮することにおいて生じてきた。第一の概念は、植物、動物、人間、霊、神という対象系列によって示される事象連関のうちに属している。(そのさい、現代的な意味での特に自然科学的および生物学的な経験が考えられる必要はさしあたりまったくない。)第二の概念は、神の被造物としての人間にそなわった資質を旧約聖書の啓示を導きとしてキリスト教的に説明するさいに生じてきた。二つの概念規定において問題となるのは、予め与えられた物のなんらかの資質を確定することであり、ついでこの確定にもとづいて後からある一定の有の様式がその物に与えられる、あるいはむしろ、その物は無差別のままある実在的有のうちに放置されるのである。
 ちなみに、「理性を賦与された存在」という概念については用心しなければならない。それはロゴスヲ持ツ動物〈ζψονλογον εχον〉の決定的な意味を言い当てていない。ロゴス〈λογοξ〉はギリシア人の古典的、学問的な哲学(アリストテレス)においては決して「理性」をではなく、話し、談話を意味している。したがって、人間は、その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るものである(2)。すでにストア学派において諸概念の平板化が始まっており、ヘレニズム期の思弁や神智学においては、基体概念としてのロゴス〈λογοξ〉、ソフィアー〈σοψια〉、ピスティス〈πιστιξ〉が浮かび上がってくるのである。
 今日行きわたっている人間の概念は、たとえ人格の理念がカントやどいつ観念論との関連で拾い上げられようと、中世の神学との関連で拾い上げられようと、上述された二つの源泉に遡るのである。
(1)ハイデッガーによる見出し。
(2)「一九二四年夏学期〔の講義〕がいっそう適切に〔に述べている〕」(ハイデッガーによる後からの補足)。
    --ハイデッガー(篠憲二、エルマー・ヴァインマイアー、エベリン・ラフナ訳)「オントロギー(事実性の解釈学) 第2部門 講義(1919-44)」、『ハイデッガー全集』第63巻、創文社、1992年。

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マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の講義録をこのところさやさやとめぐっております。
ちょうど西洋における人間観について言及された部分がうえの一節ですが、ハイデッガーのいうとおり、西洋を根源的に規定しているのは、ヘレニズムとヘブライズムになるのでしょう。

前者を代表するのがアリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)に見られるような「ロゴス」論であり、後者を代表するのが、聖書によって啓示される「ペルソナ」論ということになります。

ハイデッガーも指摘しているとおり、通常このロゴスは、現代世界においては「=理性」という意味で訳されますので、人間とは理性的な動物である、との謂いで広く流通しております。
しかし、このロゴスという言葉は、決して「『理性』をではなく、話し、談話を意味している」ところに源をもっているようです。

その意味では、人間の能力のうちの「理性」の側面にのみ重きをおいたものというよりも、話すことができる、談話・談笑できるといったひろい人間の力に人間の人間らしさをみいだしたものであると見ることも可能でしょう。

だから人間とは、「その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るもの」とハイデッガーが指摘しているとおりです。

さて日常生活世界を振り返ってみますと、声をかけやすい人と、声をかけにくい人というのがあるのではないでしょうか。

自分自身は意識したことがありませんが、状況論的には、宇治家参去はどうやら前者のようです。

本人の自己認識としては「こむずかしいナイス・ミドル」というものがありますので、後者ではないだろうかと思うわけですが、状況はまったくちがうようにて、いろんなところから、まさに広義でということになりますが、どうやら「声をかけやすい人」「声をかけやすい相手」として認識されているようです。

どちらがいいのか、どちらがわるいのかという真偽論的な話題ではありませんし、その是非を問うことにも興味がありません。

ただ、本人の思惑とも別に、実際には、まさに「声をかけやすい」存在であることは否定のしようがなく、ときどき、そのあたりに当惑してしまうことがしばしばあります。

仕事をしていると、よく声をかけられます。

これは市井の仕事でも学問の仕事でもそうです。
質問のレベルから、こまかな問いかけ、そしてレゾンデートルをめぐる問いと幅広い「声」が「かけらる」わけですが、もともとは、どちらかといえば、自己認識にもあるとおり、「(しょうじき)あまり声をかけて欲しくない」と臨むたちなのですが、その性癖が外部的圧迫からという契機になるのですが、無理矢理こじ開けられているような気もします。

もちろん世界に対しては「閉じた」あり方よりも「開かれたあり方」というほうが、ふさわしいのですが、これにはなかなか、体力、知力、精神力とすべてが動員されてしまうので、実に結構、疲れます。

だから、「声をかけて欲しくない」と思ってしまうわけですが、それでもやはり「開かれたあり方」の方がいいよな~とどこかでは思っておりますので、「そのままでもマズイ」という違和感があります。

ですからそのいみでは、現在の職場環境(学問・市井の職場含め)で、ときどき「無理矢理こじあけられている」というのは、よくよく考え、吟味するならば、ありがたいことなのかもしれません。

その語らい、応対のなかで、「人間は、その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るものである」というくだりを生身で体感、実感しながら、言説へと記述していきたいものです。

さて、一昨日から、首がきわめていたく、まわすことができません。

最初は……、寝違えたのか!

……と思ったのですが、寝違えた場合、もっとも多いのが肩とか首の一方の筋が痛むというパターンが殆どなのですが、今回はそうではなく、両側面というより後ろ側全部という感じです。

感覚的には持病のストレート・ネックではないようなので、昨夜は様子をみて、

「まあ、一杯飲んで消毒して爆睡すれば、解決するだろう」

……と思って、寝たのですが、症状が好転する気配なし……という様子です。

赤貧洗うが如しですので、病院にもいけないのですが、ちょいと本日は、いたわりながら、これから仕事へ行こうかと思います。

ついでに、今晩のアルコール消毒は「念入り」よりも「軽め」の方がいいかもしれません。

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Book オントロギー(事実性の解釈学) (ハイデッガー全集)

著者:M. ハイデッガー
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人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない

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 人間が真に人間的であるためには、人間が本質的にも、現実的にも動物と異なるためには、その人間的欲望が実際に人間の中で人間の動物的欲望に打ち克つ必要がある。ところで、いかなる欲望も或る価値を目指した欲望である。動物にとっての至高の価値はその動物的生命であり、動物のすべての欲望は、究極的には、その生命を保存しようという動物の欲望に依存している。したがって、人間的欲望はこの保存の欲望に打ち克つ必要があるわけである。換言すれば、人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない。人間的実在性が実在性として創造され開示されるのは、このような危険を冒す中で、そしてそれによってであり、この実在性が「証明」されるのは、すなわちこの実在性が動物的、自然的な実在性とは本質的に異なったものとして示され、明示され、確証され、実証されるのは、このような危険をおかす中で、そしてそれによってである。自己意識の「起源」について語ること、これが必然的に(本質的に非生物的な目的のために)生命を危険に晒すことについて語ることとなるのはそのためである。
    --アレクサンドル・コジェーヴ(上妻精・今野雅方訳)『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』国文社、1987年。

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ちょいいろいろ本業も市井の仕事も忙しく、ちょい聴牌っている宇治家参去です。

聴牌とは、「てんぱい」。

ご存じの通り麻雀用語に派生する日常生活言語です。
麻雀における「聴牌する」とは、危ない牌を捨てるか聴牌を崩すかの選択を迫られる自体を表現した言葉なのですが、そこから転じて、物事を抱え過ぎた状態を由来する言葉として流通しております。

しかし、不思議なもので、「テンパっている」ときほど、躍動した生命を感じるときは他にありません。

皆様はどうでしょうか?

手詰まりな状況なわけですが、不思議なもので、10日として原稿用紙1枚しか埋めることが出来なかったのが平時とすれば、こうした戦時においては1日で10枚書いてしまうものです。

それを「ほとばしる」とでもいうのでしょうか。
もちろん「ほとばしる」ためにはその仕込が必要なわけですが……。

ともあれ、その合間をぬってまったく喫緊の仕事と関係のない、アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojève,1902-1968)のパリ高等研究院で行われたヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)の『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes,1807)についての講義録を繙いております。

早いうちに読んでおかねば!

……などと10年前に購入したきり、ツンドク(積読)でした。

最近、本業の傍らぼちぼち読み始めましたが、吸い込まれております。

そんな寄り道というのは、喫緊のテンパった本業に対しては、余剰なる寄り道に他ならないわけなのですが、まだ直接的にはそれとそれ、点と点がリンクはしてきませんが、目に見えざる刺激を与えてくださるようにて、ちょいと、その圧迫感を楽しんでいるところです。

ヘーゲルの言葉を頼りに、コジェーヴが「人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない」というのは本当かもしれませんネ。

人間とは、意識するにせよ、しないにせよ、実は、その対象とか目的に関して、実に「命懸け」で取り組んでいるのでは……そのように思われたひとときです。

もちろん、意識的なときもあれば、しないときもあるわけですが、そこにひとつ人間の人間らしさがあるのかもしれませんネ。

むかし……やんちゃな?ときは、よく麻雀をしたものです。
下手で弱いのは承知の介ですが、あの駆け引きがなんともいえません。

……というところで、そろそろのすたるじじいになりつつありますので、、沈没します。

ひさしぶりに、プレミアム・モルツをやっておりますが、ひさしぶりに飲むと、結構パンチが効いております。

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ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む Book ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む

著者:アレクサンドル・コジェーヴ
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野狐禅などをやる人は、往々それを履違えて、無闇にその意味を脹らますことがある

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 人格の意義
 西洋人は、パーゾナリテーを重んずる。パーゾンすなわち人格である。日本では人格という言葉は極めて新しい。私らが書生の時分には、人格という言葉はなかった。パーゾンという字はただ「人」と訳していた。しかし子細に調べると、メンという意味とは違って「人たる」という字である。格といっても資格というような意味は毛頭持たない。孟子が度々いった「人は人たり我は我たり。」の意味を持つその人格である。
 ところが日本では、この人格という意味がよくわからない。私の知っている人で、新しい頭を持った学士が、田舎へ引込んで村の改良を企ろうとした。然るに、その周囲の人々は、「お前さんも大学を出て学士になったのだから、東京でお役人にでもなったらどうだ。そして十分人格をつけて来い。」
という、笑話にもならない実話がある。おそらくその人が役人にでもなったら、それこそその人は持前の人格を落とすことになるであろう。そういう例を見ても、人格という言葉は、言葉それ自体すら十分わかっていないのである。
 西洋では、基督教でいう三位一体--スリー・パーゾンス・イン・ワン、三人のパーゾンが一つの神となりとの、教義がある。この言葉の真意は、私にもよくわからないが、いわゆる三位一体なるものが、基督教の主なる教義になったがために、誰人も基督教を信ずる者は、パーゾンということについて、相当に知識を得なければなくなった。中古の宗教論を見ると、必ずパーゾン即人格論というものがある。仏教にも人格ということはあるようであるが、これはむしろ消極的である。
 とにかく西洋では、宗教の関係上、パーゾンということを頻りに説いたものであるから、一般人にもその意味が薄ぼんやりとわかっていた。なおその上に、これが宗教から来たために、「神もパーゾン、我もパーゾン」といって、非常に人間の位を引上げ、人格といえば、いつも神に対する言葉のようになっている。そして全智全能なる神と、何事にも至らない時分のパーゾンとを終始較べて、己をより向上させることに努めている。
 ところが似非パーゾン論者や、野狐禅などをやる人は、往々それを履違えて、無闇にその意味を脹らますことがある。
 「俺も同じ人間だ、何だ詰まらない……」
 というようなことをいって、世間を甘く見たがる。
 「何だ総理大臣が……」
 というようなものもある。それらの人は、パーゾナリテーということを、
 「俺も人なら彼も人だ。彼の方は幸いにしてどこからか金を持って来て、政党の首領になったから、総理大臣になったのである。人格のためになったのではない。」
 というように考え、いうことは随分勇ましく聞えるけれども、用うる言葉は乱暴である。これは主として野狐禅をやった人によくある。これに反して、パーゾンを神に較べるものは、パーゾンだといって威張り散らすようなことはなく、常に謙遜の態度になり勝である。つまり、神の性を持っていると信じ、しかもこの性を持っていながら、神々に比較して己を考える時、己はいかに不完全な存在であろう、というように考えて来るのである。
 ベーコンが述べた言葉であったか、キリスト信者ほどプライドの高い傲慢なものはない、と同時に、あれほどまた謙遜下(へりくだ)ったヒュミリテーの低いものはない、というのは、即ちそこをいうのである。孟子もいっている、「我も我たり。」と。王者王侯と比べても、何ら異なることのない吾々は、同じ人格であるというのである。ただそれ故に、王者であろうが何であろうが……というように反抗的に出るのと、「我は神と同じ性格を持っているパーゾンである」と、己を一先(ひとま)ず高く見て、しかも完全なる神と比べて、自己のいかに罪多く至らぬことよ……と非常に謙遜下る。強いところがあって、また軟かくなり、高いところがあって、その反面低くもある。
 つまり、東洋と西洋の考え方の違いは、パーゾンというものに根柢して、そこから起こる差が非常に多いのである。パーゾンというものを深く認めればこそ、他人の権利も認めるのである。我も人なり、彼も人なり、自分が嫌いだと思うことは、彼も嫌であろう。故に彼の自由は侵さない。彼の権利も侵さない。自由ということは何から起ったか。個人個人が自由を尊ぶところから起るのである。十万円で人間を買ったり売ったりしているうちは、この神髄がわかるものではない。人の自由も何もあったものではない。
    〔一九三四年一月五日『西洋の事情と思想』〕
--新渡戸稲造「人格の意義」、鈴木範久編『新渡戸稲造論集』岩波文庫、2007年。

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昨日は休日でしたので、朝からいっちょ!仕事してやるぞ!
と思いつつ、起きると昼過ぎで、がっくし。

メールを開くと大学と研究所から、それぞれ通知が一通づつ。
前者は授業回数調整のため14日から授業開始の案内であり、後者は月末〆切の原稿の催促……。

うおっぷし!と思いつつ……後者を作製するための必要資料を探し始めましたが……なかなか見つからず……狭い家なのですが、二時間探して見つからず……と、、、既に夕方。

またコピーするかということで、作業を切り上げ、久し振りに

焼き肉大会!

……をしてしまい、がっつり飲んで沈没です。

生産性の低い一日でした。

……というところで、今朝は5時に起きましたので、市井の仕事へ行くまでちょいとその弔い合戦をしてやろうと目論む宇治家参去です。

原稿自体は、日本で福音主義的キリスト教信仰をうち立てたと言われる植村正久(1858-1925)の神学思想に関する論文なのですが、プロットは出来ておりますので、肉付け作業を少しやっていこうと思います。

……というところで?

うえの文章に戻ります。

新渡戸稲造(1862-1933)が晩年「人格」(パーゾナリテー)に関する小文です。
一昨年から、人間主義をめぐる議論に頭を悩ませております。
人間主義の問題はこれまで何度か議論しておりますが、その最大の問題は、人間主義が人間中心主義に陥ってしまう、開き直ってしまうことにあることは間違いありません。

そこでの問題とは何でしょうか。

ひとつ自分が気にかけているのが、人間の存在における無限性の方向性と有限性の方向性の両方の緊張関係という問題です。

たしかに「人間のために」という方向性を伸ばしていくと、その可能性としての「無限性」を薫育する理念が必要になるわけですが、そこにおいて「人間はすばらしい」ということだけに居直っては行けないのでしょう。しかし往々にして居直ってしまうのが事実です。

「非常に人間の位を引上げ、人格といえば、いつも神に対する言葉のようになっている。そして全智全能なる神と、何事にも至らない時分のパーゾンとを終始較べて、己をより向上させることに努めている」

むしろ、たえずその現存在のコンテンツはどうなのか……検証しながら、「己をより向上させる」契機が稼動しない限り、人間のためと称しながら、人間を内崩させてしまうのかも知れません。

新渡戸は「人格」を論じながら、そのあたりの消息をマア、うまく述べているなあ……などと思う次第で……。

「似非パーゾン論者」でもない「野狐禅などをやる人」でもない、対象に対する真摯さが必要かもしれません。

ちなみに、「野弧」とは、低級な妖狐を意味する言葉で、「野狐禅」とは、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢を表示する言葉です。

日蓮(1222-1282)は四箇格言で禅宗を厳しく批判しておりますが、その理由を教外別伝・不立文字に根拠を置いております。おそらくこれは経典に依らないというスタイルが、恣意的な野狐禅に傾きやすいという側面を批判しているのでしょう。

というところで仕事へ戻ります。

ちなみに新渡戸のいう次のくだりですが……

「 西洋では、基督教でいう三位一体--スリー・パーゾンス・イン・ワン、三人のパーゾンが一つの神となりとの、教義がある。この言葉の真意は、私にもよくわからないが、いわゆる三位一体なるものが、基督教の主なる教義になったがために、誰人も基督教を信ずる者は、パーゾンということについて、相当に知識を得なければなくなった。中古の宗教論を見ると、必ずパーゾン即人格論というものがある。仏教にも人格ということはあるようであるが、これはむしろ消極的である」

キリスト教で言う三位一体の人格論、そして仏教における人格論の問題です。
たしかに新渡戸の言うとおりなんです。「仏教にも人格ということはあるようであるが、これはむしろ消極的である」のでしょう。

しかしキリスト教における「スリー・パーゾンス・イン・ワン」と同じような仏教における構造論がないかといえばないわけではありません。

キリスト論と同じく、仏の存在論(仏身論)における「報法応の三身」論がそれに似通った思想構造をもっております。

このへんの構造比較も探究したいのですが……、ともあれそれよりも前に、まずは喫緊の仕事をすませますですわ。

しかし、朝日がまぶしいです。

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「世界につうじた」ひととは、社交界でのふるまいをこころえている者である

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 ことばの自然な論理に、世界のこの意義がはっきりと表現されている。「世界」の実質的な意義は、本質的にいって人間的な、あるいは人間学的なものなのである。
 「世界につうじた」ひととは、社交界でのふるまいをこころえている者である。「世界」通は共に在る人間という意味での世界を熟知した者、「世界」知らずはそれを知らない者のことである。「世界」を逃れる者とは人間を避けるひと、「世界」好きは共同相互存在におけるじぶんの生を享受するひとである。「世界」を軽蔑するひとはじぶんと共に在る人間の価値評価を低くみつもる者であり、「世界」がそのことについて口にするだろうことがらに聞く耳をもつひとは共に在る人間に耳をかたむけようとするひとである。あらゆる世界(すなわち、みな)、世界の歴史、男性の歴史、女性の歴史、上流世界、高級娼婦の世界といった表現が--こうした例はいくらでも増やすことができよう--ことがらにそくして示しているのは、「世界」が人間に対して法的に画定される客体でも、空虚な、人間にとって異質な滞在の場所でもないことである。世界とは、個々人の生を規定する共同世界、個々人にとって同種で同等な共同世界なのである。
 人間的な現存在はそれが「世界のうちに在ること(イン・デア・ヴェルト・ザイン)」によって規定され、世界内存在(イン・デア・ヴェルト・ザイン)は他方「共に在ること(ミットザイン)」により規定されている。本来的な共同存在はさらに互いに共に在ること(ミット・アインアンダー・ザイン)を意味し、共同相互存在はまた「共に生きること(ツザメン・レーベン)」と同義である。そうであるがゆえに、一般的な意味での「世界」がすでにそれ自体として(eo ipsp)共同世界を示しているのとおなじように、一般的な意味における「生」がすでにそれ自身として(エオー・イプソー)共同的-生を意味していることがあらかじめ見つもられよいだろう。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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恐縮ですが、このレーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)の人間・世界論に関しては、再度詳論させて頂きます。

この一年で出版された人文科学系の邦訳書では群を抜いているだろう……そう思われて他なりません。ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の弟子として知られる人物ですが、このところ通読すると実はハイデッガーにはない“開け”と“リアリティー”があるのでは……三度読み返しながらそう思わざるを得ません。

ハイデッガーに対する批判で正鵠を得ているのは、自ら血を流したレヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)をおいてほかにはおりませんが、それとはまったくことなるアプローチにおいて、“存在論”の視野を開拓したのはレーヴィットではないか……そう思われてほかなりません。

……で、このことを、わが家のジュウシマツのピーチャンとの関わりから、実は詳論したい!のですが、詳論しようとする前に、別のアポイントメントが入りましたので、先にそちらを詳論といいますか、記録にのこしておきます。

宇治家参去さんが市井の職場で昔、一緒に汗を流したバイトくんが居ます。
これまでもときおり紹介しており、今はこの職場を辞めておりますが、音楽でいっちょ、やってやろう~っていう若者にて……、今でもその縁から種々付き合いといいますか……、自分自身の中では、彼がメジャーでビューするまでは、そして人生を真っ当=死ぬまで?は関わっていかざるを得ない……しかしそれは義務ではありません……という人物が居ます。

ちょうど、ここ一ヶ月ほどなかなか連絡がとれず、今日もだめかな~って思って、携帯電話へ連絡をいれると、……例の如く無反応!

もういっぺん入れてから、メールを頂戴し、「今は取り込み中なのであとで」

……というメッセージを頂き、こ1時間してから連絡が久し振りに取れた次第です。

「おめえ、生きんのか?」

「生きていますよ~

「最近どうよ」

「飲みにでも行きます?」

……というながれになりましたものですから、レーヴィット、ハイデッガー、レヴィナスが論じることができます、スイマセン。

で……。

軽~く逝ってきた次第です。

どうやら、はじめての彼女と別れたようで……。

ちなみに一年前にはじめて彼女ができましたっーって!お祝いもしました。

ちょうど、こちらが「生きているか~」って電話をかけていたときがその現場だったようで……。

スンマセン!

詳細は置きますが……。

「別れ」ではなく、ひとつの「スタート」だったようで、安堵といいますか……これからが勝負だよな!って杯をかわしつつ健闘をたたえ合った次第です。
※私自身に対するエールとはなにかっていわれると……ひとまず措きます。

彼とは二月に飲んで「おめぇよぉぉぉ」ってボッコボッコにしてきたのですが、今でもボッコボッコにしたい状態であることは否定できません。

しかしボッコボッコになる状況から、今回は、どのように立ち上がっていくのか……。

立ち上がるのは実に冷酷ですが、本人自身の問題に他なりません。

しかし、その極限的フォローならば……別に何をするというわけではありませんが……関われます。

ともあれ、数ヶ月音信不通でしたので、安堵しました。
しかし、これからもかかわるなかで自他の成長を創っていくしかありません。

そんなこんなの飲み会をしつつ……今日も起きるのがはぇぇんだよなァ~とぼやきつつ、自宅にて“第二陣”を楽しんでいる宇治家参去です。

しかし、若いっていうのはいいですねぇ。
失敗も成功もすべて自分自身の糧となります。
そこからどうしていくのか、どのように組み立てていくのか、寄り添いながら、考えさせてくれる機会を与えてくれる宇治家参去は幸福かもしれません。

まさに……

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 人間的な現存在はそれが「世界のうちに在ること(イン・デア・ヴェルト・ザイン)」によって規定され、世界内存在(イン・デア・ヴェルト・ザイン)は他方「共に在ること(ミットザイン)」により規定されている。本来的な共同存在はさらに互いに共に在ること(ミット・アインアンダー・ザイン)を意味し、共同相互存在はまた「共に生きること(ツザメン・レーベン)」と同義である。そうであるがゆえに、一般的な意味での「世界」がすでにそれ自体として(eo ipsp)共同世界を示しているのとおなじように、一般的な意味における「生」がすでにそれ自身として(エオー・イプソー)共同的-生を意味していることがあらかじめ見つもられよいだろう
    --レーヴィット、前掲書。

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ですから--。

ですから、宇治家参去が酒を呑むとやんちゃになってしまう!……という結論でどうでしょうか。

ともあれ、彼の健闘を祈りつつ、その祈りを固める仕込に専念しますですわ。

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個人倫理と同様に、社会的、政治的な倫理学、社会と政治における倫理の哲学が問題となっている

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 人間性と正義が問題化し、倫理学の問題が改めて現実的な問題となっているが、それとともに、哲学は規範的、批判的能力をもつという主張も問いにさらされている。哲学的倫理学は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスにおける哲学の開始いらい、倫理的、実践的な学問として、すなわち、人間性と正義という倫理の概念と原理によって時代の挑戦を理解しようとする学問として考えられてきたからである。
 時代を規範的、批判的に理解するという課題に応えようとすれば、現代倫理学は、第一に、狭い個人倫理の領域だけに研究を限ってはならない。第二に、現代生活世界の具体的な諸問題を研究しなければならない、という二点をぜひとも学び直しておく必要がある。
 たしかに、個人倫理の問題を排除して、社会的、政治的な課題だけに倫理学を限定することはできない。最終的には、各個人の人格的責任と個人の幸福が問題となるからである。しかし、個人倫理の問題が、<おのずから>社会的・政治的生活の難問となり、また逆に、社会的、政治的問題が個人生活に影響を及ぼすことは、われわれが今日体験しつつある意味・方向喪失の危機が示しているとおりである。それに個人倫理という手立てではもともと答えようのない問題もある。平和の維持、人権の実現または飢餓の克服、あるいは、原子力利用は倫理的に適正であるか、延命のためには是が非でも医学を動員すべきかというような問題は、個人にとってきわめて重要な問題ではあるが、これは、個人的、私的に解決できる問題ではなくして、社会的、政治的にしか解決できない問題である。したがって、個人倫理、つまり個人的行為の倫理的な正しさと善に関する理論としての道徳哲学にとどまらない、もっと広い意味での倫理学が求められていることは明らかである。個人倫理と同様に、社会的、政治的な倫理学、社会と政治における倫理の哲学が問題となっているのである。
    --オトフリート・ヘッフェ(青木隆嘉訳)『倫理・政治的ディスクール 哲学的基礎・政治倫理・生命倫理』法政大学出版局、1991年。

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ちょいと週末までに倫理学に関する企画書とか提案書類をまとめて提出しなければならないのですが、本業・副業の絡みとか社会活動で忙しくてなかなか手がつけることができず、週のはじめから頭を抱えながら、倫理学関連の著作をまとめてひもときながら、じたばたと焦っている宇治家参去です。

しかし、そのお陰でしょうか……、
種々知見が深められているような気もしなくもなく、その意味では有り難い“修行”?と受け止め思想的格闘戦を強いられておりますが楽しいものです。

なにしろ“修行”は人間という動物にしかできませんから。

さて、冒頭では、現代ヨーロッパの哲学者ヘッフェ(Otfried Höffe,1943-)の著した倫理学に関する文献の、これまた冒頭からの引用になりますが、ヘッフェは、現代世界において倫理学がおかれた状況をうまく指摘しているかと思います。

すなわち、19世紀以降、学問が制度化されていくなかで、もともと「正義」をめぐる議論(もちろん主要な課題は「正義」だけではありませんし、どちらかといえば「善」が主要な議題ですが、善の展開形態としてここでは「正義」にかえておきましょう)がとしてスタートした倫理学が、講壇学問と化していくなかで、そのリアリティとアクチュアリティを失ってしまいました。

正義をめぐる議論とは、その文字のとおり「正義とは何か」をめぐる探究です。この正義とは何かできあがった規範のようにみえつつも絶えず固定的を拒み続ける実践的な概念です。

個人的側面における倫理としての生き方に関わる部分を意味するだけでなく、正義が体現されるべき共同体にも密接に関わる概念であり、個と全体をめぐる議論といっても言い過ぎではありません。

それがここ百数十年来、分断されてしまったのかもしれません。

前者は私的な空間に囲い込まれ、他者とか全体との契機を欠いたアトム的な処世術へと変貌し、後者は社会哲学が興隆するなか王座を奪われ、具体的な個の存在者のまなざしとか生を欠いた形而上的論争的な理論として流通するようになったのでしょう。

しかし、これは本来べつべつのものではありません。むしろ分かち難く関係をもっていると同時に、どちらが優先されるべきかといったような対立をはらむ関係でもありません。

むしろお互いに照らしあう関係といってよいでしょう。

ですからその状況を「たしかに、個人倫理の問題を排除して、社会的、政治的な課題だけに倫理学を限定することはできない。最終的には、各個人の人格的責任と個人の幸福が問題となるからである。しかし、個人倫理の問題が、<おのずから>社会的・政治的生活の難問となり、また逆に、社会的、政治的問題が個人生活に影響を及ぼすことは、われわれが今日体験しつつある意味・方向喪失の危機が示しているとおり」と指摘しているのでしょう。

個が先か、それとも社会とかそうした共同存在としての側面が先かなどと議論すること自体がナンセンスかと思います。
個だけできる部分もあれば、個が全体とのかかわり・接触の中において完遂できる問題もあれば、その逆もまたあるのが現実生活世界でしょう。

アトム的な私的密室へ後退し、恨む節を発するあり方をさけつつも、同時に、生きた存在者という契機を欠いた先鋭化した理論をさけつつ、本来的にそれが機能できる方向がどこにあるのか、--そこに現代において倫理学を学ぶ、探究する、現実生活世界のなかにおいて考えるという意味があるのだろうと思います。

……などとここまで入力し、考えているところで思考が中断されました!。

ちょうど市井の職場の休憩中だったのですが、トラブルがあったようで、緊急連絡を受け、うえの「~と思います」まで入力したところで、思考世界から離脱してしまいました。

休憩中に呼び出されることほど腹立たしいことはないのですが、なにぶん接客の最前線ですから、呼ばれれば出ないわけにも参りませんので伺ってきた次第です。

とりあえず処理してから、戻ってきて休憩の続きに考え直そうと思っておりましたが、思考中に突発的な中断があるとなかなか作業復帰のスイッチを入れることが難しく、もういいや!って気分を変えて別の本をひもとき、仕事が済んでから帰宅した次第です。

今日は何もないだろうなア--って暢気に倫理学的思索をしていたのがよくなかったのかもしれませんが、これから酒でも飲みながらチト考えてみます。

……ということで、再論。

個人の側の主体的・主観的な部分にすべてを還元してしまうと道義論に傾きます。
それはそれで大切なのですが、なにかそれが社会や政治と切り離された議論になってしまうと、公共空間においてはそれはうまく機能しません。
そしてその逆に公共的・客観的な社会正義の側面のみに倫理的思索をゆだねてしまうと、今度は個々人の立場がおざなりにされ、そこでうまく機能することができません。

しかし状況としてはその二極分裂がはなはだしい--そうした現状なのでしょう。

ですからヘッフェは次のように言っております。

つまり……、

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 時代を規範的、批判的に理解するという課題に応えようとすれば、現代倫理学は、第一に、狭い個人倫理の領域だけに研究を限ってはならない。第二に、現代生活世界の具体的な諸問題を研究しなければならない、という二点をぜひとも学び直しておく必要がある。    --ヘッフェ、前掲書。

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やはりカント(Immanuel Kant,1727-1804)以降でしょうか、上述したような状況が出来したのは……。
カントは実践理性の考察をすすめるなかで、道義の格率を「定言命法」(「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」、『実践理性批判』)として示してみせました。

以後の倫理学、道徳哲学とはカントとの対峙にほかなりません。
そのなかで、理性や感情、そして道徳律の形式……実際にカントは形式にものすごくこだわりましたが……にこだわるなかで、社会とか現実の問題から倫理や道徳が切り離されてしまい、「狭い個人倫理の領域だけ」に研究が限られたフシがあります。そして同時に「具体的な諸問題」へのアプローチは看過され、科学の“装い”を被った社会科学がそれを遂行してきました。しかしカントはそうした個人への“超”還元主義的立場を説いたわけでもありませんし、どちらかといえば、定言命法の言葉、すなわち「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として」というくだりにあるとおり、全体のなかでの思索を説いたのがその真相なのでしょう。

その意味では、具体的なアクチュアリティに関する倫理的議論……例えば、環境倫理、情報倫理、生命倫理……というかたちで、「現代生活世界の具体的な諸問題を研究」しようとする応用倫理学の興隆は、倫理学の再興?において歓迎されるべき状況なのだろうと思います。
※念のためですが、例えば、現実の生命倫理の議論は、法的側面、技術的側面からのアプローチがほとんどで、深い人間理解に根ざした議論が殆どないという現況・批判がありますが、ここではひとまず措きます。

というわけ……最近の実感?

ひさしぶりに小売業たる市井の職場に戻って実感することがひとつあります。
すなわち、「メモ」を片手に買い物をされているお客様が多いということです。

何を買うかをメモってから買い物にくるというスタイルのことです。

このスタイルは以前からも存在しましたが、ここ1年、やけに多くなったなアというのが現場で仕事をしていてつくづく思う実感です。

スーパーとか、ディスカウントといったスタイルは基本的には、「買う必要のあるもの」以外にも「(買うつもりはなかったけれども)これも買っておくか!」という余剰が実は生命線となってきます。

いわゆるチラシ・特売によるハイアンドローという「釣り」の戦略です。
原価割れの特売商品で「釣り」、店内で買い物するときにそれ以外も「買ってもらう」という方向性です(ちなみにうちの会社ではハイアンドローを辞めましたが)。

その意味では、その「釣り」戦略の対極にあるのが「メモ買い」というスタイルです。

1-2年前にはそんなに見なかったのですが、ここ最近年齢を問わず急増しているようにて、やはりこれは景気の問題とかあるんだよなア~などとレジをうったり、売り場を案内したりする際に実感するわけでして……。

余剰なもの……すなわち「不可分所得」の限界内での「可処分」領域が明らかに減少していることは疑うことができません。

……だからその実感がなにか倫理的思索と関係があるのか!

……ってつっこまないで下さいまし。

来るべき日曜日に向けて各党は凌ぎを削って格闘しているようでございます。

そんでもって共通しているのがどの各党も「生活」を看板に挙げている点です。

ぶっちゃけたところシステムを保全するための「がまん」、つまりコイズム的に言えば“痛み”は不可避的であり、その“痛み”に耐える必要性を否定することはできません。

しかし逆にいえば、“痛み”の説明も“代換え”策の提示もないままの「撤廃」だとか「上乗せ」だとかそうした議論にも、なにかついてゆけず……、つまり「現実性」という議論になってくると、これまでなにを彼らはやってきたのか、「踏まえて」判断するほかなかろう……などと思われて他なりません。

宇治家参去はそれが味方であろうが敵であろうが……もちろん言うまでもありませんが味方・敵という二元論自体が気にくわないという天の邪鬼ですが……、大声でがなるひとびとが苦手です。

「若さ」も「新鮮さ」も「熱意」も必要です。
何もそれを否定しません。
しかしながら、それだけでは問題も解決しません。

その意味では、本当に「現代生活世界の具体的な諸問題」と捉えつつも、極端な個の立場も、そして極端な全体の立場も退けつつ、「個人倫理と同様に、社会的、政治的な倫理学、社会と政治における倫理の哲学」を現場との往復関係で議論できるポリティクスというものが今求められているのだろうと思われます。

だからこそ、そのへんの議論にかかわり、実行力を行使できるようになってしまう立場に行きそうな人々にこそ「倫理学」は必要不可欠なのでしょう。

……ってことで?

金はないにもかかわらず……いわゆる高学歴ワーキングプアですから……アルコール消毒をしない限り眠ることがあたわずですので、とりあえず、本日は、久し振りの「浦霞」でもこってりとやらして頂き、冒頭に記した私的な課題は起きてから再度挑戦します。

では、おやすみなさい。

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「『である』ことと『する』こと」

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 「権利の上にねむる者」
 学生時代に末弘(巌太郎)先生からの民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明には私はなるほどと思うと同時に「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にはとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。
 たとえば、日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的プロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにはさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るぞ」という警告になっているわけなのです。これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。
 アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である」といっておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利というものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過せたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。
    --丸山眞男「『である』ことと『する』こと」、『日本の思想』岩波新書、1961年。

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このところオルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)の市民社会論を再読しているのですが、オルテガにおいてキー概念となるのが「貴族」という言葉です。

近代市民社会においてどうして「貴族」なのか!というわけですが、これは前近代的なイメージ……たとえば「世襲」貴族のようなもの--とは違う「精神性」「矜持」としてのあり方として挑発的に発せられた言葉です。

いうなれば、権利を権利たらしめるための責任・努力をだれに言われるともなく、自ら不断にたらしめる努力をおこたらないあり方がオルテガにおいては「貴族」という意味です。ですから、その対にあるのが、権利に安住してしまう「民」という見通しです。

誤解を招くと恐縮ですから、一言付加えるならば、オルテガは近代に特徴的な制度としての民主主義的なシステムそのものを否定し、封建的な貴族政治の復活をもくろんでいるわけではございません。

成果を所与のものとして反省・自覚しないのであれば、それは通俗的に表現される当の封建的な貴族主義そのものへと陥ってしまうわけですから、そうではありません。

成果を絶えず成果たらしめる努力をおこたらな無名の庶民の自覚、そのことをオルテガはまさに挑発的に「貴族として自覚をもって生きよ」……そう諭しているように思われます。

ですから、ふと丸山眞男(1914-1996)の「である・する」論を再読したくなり、さらにひもといた宇治家参去です

くどくて書かなくても宜しい話題ですが、往々にして人文科学に従事する生き物というのは不思議な奴で、何かを読んでいるとそこから別の物が読みたくなってしまうという無限ループに陥りますので、なかなか前に進まない、そうしたところが存在します。これも喩えるならば、自然科学の世界において、答えを導くために何度も実験をするわけですが、人文科学においては実験というシステムが存在しませんので、論旨が矛盾がないようにと、過去の思想家の思索にその論拠を……それは肯定・批判ふくめてですが……置いていこうと積み重ねていくわけですので、自然と関連分野の他の思想家を実は当該論者よりも論じてしまうというやつです。

さて……話がずれ込みましたが人文科学に携わる者としての常としてご容赦いただき、

しかしながら、やはりさすが丸山眞男です。

俗に戦後民主主義を擁護した「進歩的知識人」の頭目に数えられる人物です
しかしながら、読み直すたびに、そうしたカテゴライズから不断にすっぽりと抜け落ちてしまう深淵さとユーモアが丸山の文章からは鮮やかに踊りだしてしまいますので、「進歩的知識人」として「片づけてよい」と思うことができません。

というところで?

「である」ことと「する」こと、をもう一度、この時期だからこそ確認する必要があるのだろう--ということで向かいあった次第です。

あっちからこっちへ読み進めると、「である」ことと「する」ことの違いに深く感動を覚えた訳ですが、これを全共闘的世代でいうならば「ザイン」と「ゾルレン」ということに相通じてしまうわけですが、いずれにしましても、「である」に安住することなく、そしてこれが大切なのですが、誰からも命じられるまでもなく「する」ということを自覚的に選択していかない限り難しいのかなと思った次第です。

丸山のフレームワークとして払拭しがたいのは、やはり時代的制約もありますが、単純化のきらいを臆面もなく発するとすれば、対峙する構造としての「権力」という図式になります。ポスト・モダンの権力論においては、そうした「できあがった」「体系」「システム」を「想定」して「格闘」する「スタイル」の有効性には疑義が提示られているわけです。

もちろんそうした「暴露」的ポスト・モダンの営みに関してもいっしょくたんに払拭することは不可能ですが、それが批判している発想と同時に丸山の説くまろやか?な「である」「する」論を否定することも出来ない……それが現実生活の事実かもしれません。

この問題は、政治思想史に限定された問題ではありません。

あらゆる関係性に関して関わってくる問題なのでしょう。

我とシステムにおける関係性……

我と汝における関係性……

我と我における関係性……

それを“当たり前”と思ってしまったときに、その崩壊は始まるのかも知れません。

だから、それを“当たり前”と“開き直”らない柔軟な発想が求められているのかも知れません。

そこに……宇治家参去のモットーの一つである……「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」が要請されざるを得ない状況があるのでしょう。

人間主義に関しても同じです。
人間のためという探究を欠如した人間主義は人間中心主義へと陥ってしまいました。
そしてその獲得の所為かが「所与の前提」となってしまったとき、丸山眞男は激怒った次第です。

同論文の中盤での小見出しに「理想状態の神聖化」という表題がつけられておりますが、あらゆるあり方、関係性において「理想状態」なるものを「である」ものとして「神聖化」(宗教史の言語でいえば“国教化”という事態ですが)すると同時に、理想は腐敗臭を放ってしまうのかもしれません。

……ということで、オルテガ論は後回し?……といいますか後日にとっておき、KIRIN「秋味」と「双璧」をなすSUNTORY「秋生」をやってみましたが……

やはり「秋味」のほうが旨かったです。

もちろんこれは、ビールVS発泡酒というカテゴリーが違うという超克しがたい壁があるわけですが、いずれにしましてもやはりビールは酒の王者です。

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こうして「生-権力」〔ビオ・プーヴオワール 人間の生を中心においた権力〕の時代が始まるのだ

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フーコーは、ヨーロッパの一八世紀末における正気の再定義のうちに認識の暴力がはたらいていたことを確認している。そこではエピステーメーの徹底した分解検査がおこなわれたというのだ。しかし、その正気というそれ事態としては特殊な概念にかかわる再定義がヨーロッパならびに植民地における歴史のナラティヴの一部でしかなかったのだとしたら、どうだろう。この二つの認識の分解検査の企図が遂行されたのが、あるひとつの巨大な二人用エンジンの、分離された、それとは認められていない二つの部分としてであったとしたら、どうだろう。これはおそらく、パリンプセスト〔元の字を消してその上に別の字句を記した羊皮紙〕のような形態をとった帝国主義のナラティヴのサブテクストを「服従させられた知識」、「かれらの仕事にとっては不適切だとか十分に練り上げられていないという理由で知識としての資格を剥奪されてきた一組の知識、すなわち、ヒエラルキーの下方、認識ないしは科学性のレヴェル以下のところに位置づけられた、素朴な知識」(PK,82)として認知するように求めるということでしかないのではないか。
 こういったからといって、なにも「事態は実際にはどのようであったか」を記述しようとか、歴史を帝国主義の歴史として解釈しようとする歴史のナラティヴを歴史についての最良の解釈であるとして特権視しようというのではない。そうではなくてむしろ、現実についての説明とかナラティヴと称されるものがどのようにして規範的な性格の説明ないしナラティヴとして確立されたのか、その経緯を明らかにしようというのである。
    --G.C.スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』みすず書房、1998年。

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どうも調子が良くなく、久し振り?に市井の職場へ出勤すると、これまた夏休み明けの店長から、「宇治家さんはいつも調子悪そうだけど、なんだかうつされたみたいでサー、夏風邪っぽいのよ」などと独特の自虐ネタでのっけから絡んでくるものですから、

「こちらの調子がわるいのは、体調のせいだけでなく、生存に関する深い“違和感”から発しているものですから、多分、ちょいと違いますよ」

……などとこれまた濃厚な自虐ネタで返したところ、スゴスゴと退散してくれましたが、こうしたやりとりはひとつの漫才のようなものかもしれません。

ちょいとネタして、暗い気分をふっとばすとでもいうのでしょうか。

ただこっちとしては、暗い気分とはふっとばすものではなく、正面から見据えて、違和感、胃の痛さ、頭痛の痛みから考察を深めていかねばならない--とでも言えばいいのでしょうか……。その辺を大切にしたいというところで、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が「哲学とは目覚めである」というとおり、感覚を冴えさせてくれる胃の痛さ、頭痛の痛みといった違和感ほどありがたいものはございません。

違和感に鈍感となってしまいスルーしてしまうということは、問題のある現状を等閑視することにほかならないわけですので、あえて“痛み”にこだわる、否、“痛み”を感じなくなってしまうことが一番の問題なのだろう--と思うわけですが、本日は実に調子が悪く、どうやら・・・

小乗が……もとゐ、症状が軽い熱中症のようでして、今、アルコール消毒にて覚ましている次第です。

たぶん、違和感と学問に熱中していたのだろう……そういうことにしておきます。

市井の職場でも休憩中にタバコを吸っていたのですが、どうやらタバコを手に持ったまま、うつらうつらしたのでしょうか、じりじりとゆびが焦げ付くところで微睡みから起きた次第で……、まったくなっておりません。

で……
このところ、ポスト・コロニアル批評でガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)が指摘するフランス現代思想の大家フーコー(Michel Foucault,1926-1984)とかデリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の批判理論を再読しているところです。

そんで……
スピヴァクはなにもフーコーとかデリダの批判理論を“批判”して、どぶに捨てようとしているのではないけれども、通有性としての限界があるのだろうな……というところはなんとなくつかめた次第です。

学部生時代に一番読んだのが、じつは、フーコーであり、デリダですので、やはり愛着があり、いかにスピヴァクが尖端であろうとも“鞍替え”することには忸怩たるところがあり……。

両者をまさに批判的によんでいると、その批判というのはまさに“脱構築”という内在的消化とでもいえばいいのでしょうか……発展的消化……などと表現するとスピヴァク論者からは批判されますが……そう思われなくもない……というのが実感です。

さて、例の如くずれ込みましたが、本日はフーコーを再読しつつ、手の指が灼けていくこと覚知!したごとく……まさに一切衆生見喜菩薩ではありませんが……、フーコーの話でもすこしと思ったのですが、ちょい息切れです。

ですからちょいスケッチのみでご容赦を。

権力理論の運用において近代・現代を牽引したのは、まさに「古典主義の時代」に花盛りだった二元論なのでしょうねえ。

一方に悪なる権力があり、一方に無辜の民……そしてそれを牽引していく「前衛」としての党派的知識人の対峙というスタイルでしょう。

フランス革命の時代には有効な手だてだったのかもしれませんが、国民を保護することを第一義とする現代国家像においては、そうしたスタイルは、すでに死文化しているはずだろう……などと思うところなのですが、いまだにそれが跋扈しているところに実は辟易とした次第です。

善と悪との最終対決に重きを置く権力理論は、キリスト教の歴史解釈に実は深い根を下ろしているわけですけれども、これは実は古典主義時代の君主権力に対する世界像においてしか通用しません。

なぜなら、古典主義時代の権力とは「死」を裁定するエートスに他なりませんから。

それに対して現代国家の権力とは何でしょうか。

まさに「生」を裁定するエートスにほかなりません。

著しい区別が実は戦場に存在します。

古典主義時代においては、決闘とか英雄将軍にみられるように、相手をあざやかに殺すところにその美学が存在します。

対して現代戦ではどうでしょうか。
壊滅ではなく、生殺しこそ有効です。

何故ならシステムとしての福祉国家が背後に存在するからです。

殺すよりも不虞を目指す兵器を列挙するならば枚挙に暇がありません。

「生」を保証するのが国家であり、そのために「主体」として動員されるわけですから、(誤解をまねく表現ですから)不完全な「生」を抱え込むほど「負債」はありません。

主体とは何でしょうか。

英訳するとsubject。

subjectとはまさに「主体的に」であるわけですが、「支配される」「民草」をも同時に表現する言葉です。

日本語としては同一の「主体」という言葉に訳されるわけですが、「主体的」に「支配される」「誓願」を要求するのが現代国家の特徴でしょう。

だからこそ公衆衛生が発達し、福祉が問題にされ、生命の維持が愁眉の話題となってくるわけです。

そうした前時代の価値とことなる価値機軸を批判しようとはまったく思いません。

しかし、その他者を支配しようとする「権力」を制定・行使する側にどれだけ「生の権力」に対する理解があるのだろうか……考えてみると疑問ばかり多く、まさに胃の腑が痛くなるばかりです。

現代社会の支配体系の特徴とは何でしょうか。
それはとりもなおさず権力という言葉に代表される国家一般が市民を支配する際、単に法制によって個人になにかを「課す」だけでなく、ひとりひとりの市民に「心から」服従できる物語とシステムを提供していく……そのことに主眼がおかれてきます。

その意味では、前時代と著しく違い、支配の対象、そして方法が「個人」に移行したことを意味し、そのことをフーコーは「生政治学(Bio-politics)」とい表現しました。

外面的強制力だけでなく、内面的な意識レベルにおいて、支配されることに従順に誓願できる各個人の要請と育成……それが見え隠れするのが現代国家という権力の諸システムにほかなりません。

古典時代に代表される従来の権力機構においては、民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」がその象徴です。しかしこの現代に特有な「生-政治(学)」は、むしろ現実問題として抑圧的には見えません。

なにゆえならば、むしろ「生」を保証(向上)させるからです。

公衆衛生・福祉政策によって管理・統制しゆく現代の権力システムにどのように対峙していくのか。

フーコーは、個人の倫理を充実させ、自分の生活を他人が尊敬し賞賛できるようなものに転換することによって抵抗できると考えたわけですから……そのレヴェルに至れない事例はどう“闘う”のか。

そこにスピヴァクの眼は向いているのかもしれません。

……って、例の如く呑みながらの雑談なのでご容赦を。

……という伏線をはりつつ、いずれにしても、この4-5日、政府と野党でかわされたマニフェスト論争を振り返ってみると、システムとしてはその域にそって形成されているにもかかわらず、内実としては古典主義時代「以前」といってよい「パワーゲーム」に終始してしまう事実をみせつけられますと、実に辟易として胃の腑が泣いておる次第です。

いずれおちついたときに詳論すべきですが、今日は燃料切れ……いつもでしょ!ってツッコミはなしですヨ……ご容赦の程を。

しかし、実際にそうした選挙にらみの「論争」をつぶさにみてみると、「古典主義時代」どころか実はそれ「以前」だろう!って思うのは宇治家参去一人ではあるいまい。

……ということころで、アルコール消毒用のビールが終了しましたので、これから、ワインにて再度消毒してから沈没します。

ご近所の夫婦が「頂き物ですが、呑めないので……」

……ということで頂いたのでありがたく頂戴した次第です。

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 ところで西洋世界は古典主義の時代以降、このような権力のメカニズムに極めて深い変更を蒙ってきた。「徴収」は、権力の重要な形態であることをやめて、権力が服従させる力に対する唆かし、強化、管理、監視、増大、組織化といった諸機能をもつ様々な他の部品の中の一つにすぎなくなる傾向にある。様々な力を算出し、それらを増大させ、それらを整えるためであって、それらを阻止し、抑えつけ、あるいは破壊するためではないような一つの権力である。死に対する権利は、その時から、生命を経営・管理する権力の要請の上に以降するか、少なくともそのような要請に支えを見出し、その求めるところのものを中心に整えられるという傾向をもつようになるだろう。君主のもつ自衛する権利、あるいは人々に君主を守れと要求するその権利の上に成り立っていたこの死は、今や、社会対にとって、己が生命を保証し、保持し、発展させるための権利の、単なる裏面として立ち現れることになるだろう。かつて十九世紀以降の時代ほどに戦争が血腥かったことはなかったし、また、勿論あらゆる差異を考慮にいれての話だが、それ以前には、かつて体制が自分たちの住民に対してこれほどの大量殺戮を行ったことはなかった。しかしこのような死に対する途方もない権力は--そしてこれが権力にその力の重要な部分と、またしてこのような死に対する途方もない権力、生命を経営・管理し、増大させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力の補完物となるのである。戦争はもはや、守護すべき君主の名においてなされるのではない。国民全体の生存の名においてなされるのだ。住民全体が、彼らの生存の必要の名において殺し合うように訓練されるのだ。大量虐殺は死活の問題となる。まさに生命と生存〔生き残ること〕の、身体と種族の経営・管理者として、あれほど多くの政府があれほど多くの戦争をし、あれほど多くの人間を殺させたのだ。そしてこの輪を閉じることを可能にする逆転によって、戦争のテクノロジーが戦争を戦争の徹底的破壊へと転じさせればさせるだけ、事実、戦争を開始したまたそれを終わらせることになる決定は、生き残れるかどうかというむき出しな問いをめぐってなされるようになる。核兵器下の状況は、今日、このプロセスを到達点に位する。一つの国民全体を死にさらすという権力は、もう一つの国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。生き残るためには敵を殺すという、白兵戦の先述を支えていた原理は、今や国家間の戦略の原理となった。しかしそこで生存が問題になるのは、もはや主権の法的な尊合いではなく、一つの国民の生物学的な存在である。民族抹殺(ジェノサイド)がまさに近代的権力の夢であるのは、古き<殺す権利>への今日的回帰ではない。そうではなく、権力というものが、生命と種と種族というレベル、人口という厖大な問題のレベルに位置し、かつ行使されるからである。
 私は別のレベルで、死刑を例にとることもできただろう。死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意志、その法、その人格に気概を加える者に対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。
 死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた、と言ってよい。
(中略)
 具体的には、生に対するこの権力は、十七世紀以来二つの主要な形態において発展してきた。その二つは相容れないものではなく、むしろ、中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極を構成している。その極の一つは、最初に形成されたと思われるものだが、機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、こういたったすべてを保証したのは、規律を特徴づけている権力の手続き、すなわち人間の身体の解剖-政治学〔アナトモ・ポリチック 解剖学的政治学〕であった。第二の極は、やや遅れて、十八世紀中葉に形成されたが、種である身体、生物の力学に貫かれ、生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは、一連の介入と、調整する管理であり、すなわち人口の生-政治学〔ビオ・ポリチック 生に基づく政治学〕である。身体に関わる規律と人口の調整とは、生に対する権力の組織化が展開する二つの極である。古典主義の時代において、このような二重の顔立ちをもつ巨大なテクノロジーが--解剖学的でかつ生物学的であり、個別化すると同時に概念に従って分類する、身体の技能的成果へ向かうと同時に生のプロセスそのものを見ようとするものとして--設置されたという事実、それは至高の機能が爾後はおそらくもはや殺すことなく、隅なく生を取り込むことにあるような一つの権力の特徴を雄弁に語るものに他ならない。
 君主の権力がそこに象徴されていた死に基づく古き権力は、今や身体の行政管理と生の勘定高い経営によって注意深く覆われてしまった。古典主義の時代における様々な規律制度--学校とか学寮、兵営、工房といったもの--の急速な発展である。同時にまた、政治の実践や経済の考察の場で、出生率、長寿、公衆衛生、住居、移住といった問題が出現する。つまり、身体の隷属化と住民の管理を手に入れるための多様かつ無数の技術の爆発的出現である。こうして「生-権力」〔ビオ・プーヴオワール 人間の生を中心においた権力〕の時代が始まるのだ。
    --ミシェル・フーコー(渡辺守章訳)『性の歴史I 知への意志』新潮社、1986年。

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世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる

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 かくも目立たぬ現象に、かくも手広い解釈を加える甲斐があったとすれば、以上のような展望に加えて、おそらく次のような第二の展望があったからかもしれない。すなわち、それ自体としては取るに足らぬものにたいして有効性をもつことによって本来の姿を現す、象徴的関係というもののもつ射程の大きさだ。
 というのも、ここで取り上げているのは、まさにあの偉大な人間の理念的綜合と反立にほかならないからである。すなわち、あるひとつの存在が、自分を包み込む領域の統一性に完全に帰属しながら、同時にまったく別な事物の秩序から要請を受けているということ。この事物の秩序は、その存在に合目的性を課し、その形式を規定しているが、にもかかわらずこの形式は--あたかも事物の秩序など存在しないかのように--統一的連関のなかにあいかわらず組みこまれ続けるということだ。
 私たちが加わっている驚くほど多くのサークル--政治、職業、社会、家族のサークル--は、ちょうど水差しが実用的環境にとり囲まれているように、さらに別のサークルにとり囲まれている。そこでは個人がより狭い、閉じたグループに属しながら、まさにそれによって、より大きなサークルに参与している。そして、その大きなサークルがより狭いサークルをいわば操作したり、自分の側のより包括的な目的論のなかに組みこむ必要があるときには、そのつど、狭いサークルを利用する。
 取っ手が実用的課題に答えようとするあまり、水差しの形式的統一を破ってはならないように、個人もまたひとつのサークルの有機的な完結性の内部での役割を保持することを生の芸術から要求されている。しかし、個人は同時により大きな統一体の目的にも仕え、その奉仕をつうじて、より狭いサークルを周囲のサークルのなかに組みこみのを助けるのだ。
 私たちひとりひとりの関心領域についても、また同じことが言える。私たちが認識し、倫理上の要求に従い、あるいは客観的に規格化された構築物を作り上げるとき、私たちは私たち自身の持ち分や力をつうじて、理念的な秩序のなかに参入している。この秩序は、それ自身の内的論理ないしは超個人的な発展衝動に駆られ動いており、そのつど私たちの全エネルギーを個々の肢体で捉え、自分のなかに組みこむ。そのとき決定的に重要なことは、私たちが、私たちを中心とする存在の完結性を破壊させないこと、そしてその存在の周縁における個々の能力、行為、当為が、その存在の統一性の法則にあくまで留まり続けるようにすることだ。しかも同時に、この存在はかの理念的な外部にも帰属しており、私たちをその外部の目的論の通過点とするのだ。
 これがあるいは人間と事物の生の豊さということかもしれない。なぜなら生の豊かさの本質とはひっきょう、それらの相互共属性の多様性にあり、内部と外部の同時存在性にあるからだ。そこでは一方の側への結合と融合は同時に解離でもある。そこにはつねに、もう片一方への結合と融合が対置されているからだ。
 ひとつの要素が、ある有機的連関のなかに完全にとけこむようにして、その連関の自己充足性を分かち合い、かつ同時に、まったく別の生がその要素に入りこんでくるための架け橋となりうること、そして一方の全体性が他方の全体性を、どちらか一方が他方によって引き裂かれることなしに、捉えるための手がかりとなること--これこそ、人間の世界観、世界構成におけるもっともすばらしいことだ。
 水差しの取っ手は、おそらくもっとも外面的な形で、そしてそれゆえにまたその射程がもっともよく分かる形で、このカテゴリーを象徴している。このカテゴリーが私たちの生に、これほどまでに多様な生と共生を贈りとどけてくれるということは、おそらく二つの世界に故郷をもつ私たちの魂の運命の反映なのだ。なぜなら魂もまた、ひとつの世界の調和に自らを必要不可欠な部分として帰属させ、同時に、この帰属性を魂に課している形式にもかかわらず、否、その形式のゆえにこそ、もう一方の世界の網の目と意味のなかへ入りこんでいくからだ。魂の自己完成は、この二つの課題をどこまでなしとげられるかにかかっている。そのとき魂は、さながらひとつの世界--現実の世界であれ、理念の世界であれ--がもうひとつ別の世界にさしのべた腕となる。それはもうひとつの世界をつかみ、それを自分につなぎとめる腕であると同時にまた、その世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる腕となるのだ。
    --ゲオルク・ジンメル(北川東子編訳、鈴木直訳)「取っ手」、『ジンメル・コレクション』ちくま学芸文庫、1999年。

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「川の両岸がたんに離れているだけではなく、「分離されている」と感じるのは私たちに特有のことだ。もし私たちが、私たちの目的思考や必要性や空想力のなかで両岸をあらかじめ結びつけていなかったとしたら、この分離概念はそもそも意味を持たないだろう。ところがここで自然の形態は、さながら積極的な意図をもっているかのように、この概念に立ち向かってくる。そこでは自然の要素間にあたかも独立した存在としての分離が介在しているように見え、いまや精神がその分離のうえに和解と統一を差し伸べるのだ」(ジンメル「橋と扉」、前掲書)と語るのは、社会学の黎明期の主要な人物として知られるゲオルク・ジンメル(Georg Simmel,1858-1918)です。

通常、社会学者……精確には社会学を打ち立てた人のひとり……とカテゴライズされる人物ですが、哲学になじみ深い宇治家参去などからすると、社会学者というよりも、むしろもうひとつの側面、すなわち「生の哲学(Lebensphilosophie)」の思想家という趣のほうが、当該人物を表現するには適切なのではないだろうか……などと思われて他なりません。

「生の哲学」とは、「生」ですから、生ビールはどのように飲むのが旨いのか、「生」の“魚”はどのように捌いて頂くのがいちばんよいのか……そうしたことを議論するわけではありませんが、結果としてはそこに通じていく隘路を開拓しゆく哲学なのだろうと思います。

デカルト的な二元論を乗り越える試みが「生の哲学」に通底している部分ですが、知性や理性偏重ではなく、現実に生きている人間を、いわば“全体”としてどのように理解していけばよいのかということを議論しますので、当然光明だけでなく暗部をも照射する知的動向といってよいと思います。

傾向としては、やはり、理性・知性偏重という思想史の超克という側面が強いですから、当然アンチ・形而上学に傾きがちとなってしまいます。

もちろん、そうした極端な論者も多々存在しますし、「生の哲学」とグルーピングしてしまうのは、学説史としての概念化の暴力に他なりませんから、実際にはさまざまな傾向をもったひとびとが「生の哲学」というジャンルされているのが実情でしょう。

しかし、そうした知的動向のなかで、群を抜いて、現実感覚と、現実を打ち抜く感覚をもちあわせた人物はジンメルをおいてほかには存在しないのではなかろうか……初学者の域を出ない感覚的直観ですが、ジンメルの著作と向かい合うとそのことが思い起こされて他なりません。

川の両側は、岸からしてみれば、たしかに、「離れております」。
だからこそ、川なのでしょう。

しかし、川そのもの、岸そのものからしてみると、「離れている」だけにすぎず、「分離されている」という発想はないのかもしれません。

そこに「分離」を見出すのが、人間の「目的思考や必要性や空想力」なのでしょう。「分離」しているからこそ「橋」をかけたいのが人間なのでしょう。

ジンメルに特徴的なのは、人間は他者や事物に対する「つながり」を拒否すると同時に、「つながり」を強烈に求める存在である、という人間観です。

ですから、その人間が「つながる」あり方としての「社会」が注目されるわけですが、ジンメルはそもそもそうした楼閣でありながら堅牢な構築物のようにそびえたつ「社会」そのものには別段に注目しないところが面白いところです。

ジンメルが注目するのは「社会」そのものよりも「社会」を成り立たせる原点としての「「社交(Geselligkeit)」です。

この社交とは広義でいえば、まさに人と人との交際、日本語のこなれた表現をつかうならば「世間的なつきあい」を意味する共同関係といってよいでしょう。

ジンメルにおいて「社会」とは、すでにできあがった仕組みや組織ではありません。対峙してみた場合、そうした錯覚を抱きがちですが、冷静に向かい合ってみるとそうではないことが多々あります。

そうしたほころび、そしてそうした仕組みや組織の原点としての諸個人の相互作用に注目したのがジンメルの学的営みといえるかと思います。

人間はひととひととの間柄的関係において、すなわちそれが社交ということですが、自己を個別化させる要求にしたがい、既存の社交性を解体してゆきますが、それと同時に、ある側面では、既存の社交性をも強化していく生き物なのでしょう。

そこにおいては、あれか・これかといった革命家的な敵・味方論は通用しない、現実の人間世界の地平がひろがるばかりで、そのたゆみない対決のなかに、人間が、現状を不断に変革し行くきっかけがあるのかもしれません。

それを相対するものとして対峙してしまうと、そこには生きた生活空間はまったく存在しないわけですから、議論として結局人間を扱わない立場しか出てこないのかも知れません。

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魂の自己完成は、この二つの課題をどこまでなしとげられるかにかかっている。そのとき魂は、さながらひとつの世界--現実の世界であれ、理念の世界であれ--がもうひとつ別の世界にさしのべた腕となる。それはもうひとつの世界をつかみ、それを自分につなぎとめる腕であると同時にまた、その世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる腕となるのだ。
     ジンメル「取っ手」、前掲書。

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つかみ、つかまれている……だからこそ人間の喜怒哀楽はそこに存在するわけですし、そのことを一慨に抽象化することは不可能です。

抽象化された立場は、どの局面においても、生きている人間を分断するばかりですから、われわれが選択するべきは、(わたしが)つかみ、(わたしが)つかまれているきめ細かい織物のなかで、わたしという糸が輝き、わたしという糸に綴られた織物としての社会が煌めくという立場をとるしかないのでしょうねえ。

久し振りにジンメルを読みながらそのようなことをふと思った次第です。

……ということで、昨日からスポット的な三連休でございます。

市井の職場の各課長、店長の夏休み調整のための振り替え出勤がかさなっているのですが、その代替休としてまさにスポット的に頂戴した次第です。

来月はスクーリングがあるので、そこでリフレッシュ休暇を申請して、そして大学へ講義へいくという夏休み“消化”を申請しておりますので、実質これが夏休みかもしれません。

ただ、課題も山積しておりますので、論文2本とか博士論文の仕上げとか、夏期スクーリングの仕込とか……今日も自室に“ひきこもり”でございます。

ただ、夕方、玉子が切れていたので、細君より、「購入依頼」……そのバーターとしてタバコ1箱代を請求したところうまくゲット!……がありましたので、ちょいとついでにぶらぶらすると、19時すぎてから、燃えるような夕陽に向かい合い、ちと感動です。

夕陽そのもには自然の営みとしては「意味はない」のでしょう。
しかし、そこに人間が「かかわる」=「つながる」ことによって「意味」が出てくるところが不思議なものです。

しかし、ジンメル……水差しについた「取っ手」を材料にしながら、人間世界を論じるとは、……ここまでの本質的美文家は、どこをさがしてもいませんねえ。

ドイツ語もこれまた格調高い美しい文章なんです。

……ということで、今日は、『黒龍』(黒龍酒造(株)/福井県)の、「逸品」にて晩酌です。

大吟醸、純米酒、垂れ口……等々、種々『黒龍』は試しているのですが、「逸品」は初めてです。

一番安い入門者用=酔うの酒かもしれませんが、やわらかな味わいとさわやかな匂いには紛れもなく福井県産五百万石の旨みが生きているようです。

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ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫) Book ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

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<真理>や<善>「などといったものは存在しない」と主張するような議論に訴えているわけではない

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DEADLINE=2009/08/10

いつもだいたいその前後なのですが、前期に担当した科目の成績をつけて返却すべきデッドラインが本年の場合、上に示したとおりです。

そしていつものことですが、ギリギリ……すなわち〆切前日到着予定のような感じで採点して返却しているのですが、これではマズイわな……ということで、今回は気合いを入れて、早めに返却することができました。

やれば、できる!

……ひさしぶりにガッツポーズをとりながら、酒をがっつり呑んでいる宇治家参去です。
授業をやるよりも、レポートを添削するよりもはるかに難しいのが成績の評価です。
詳細は措きますが、ある意味では生命力を使うとでもいうのでしょうか……その難点に何度も頭を悩ますものですから、いつもぎりぎりまで“後回し”にしてきたのですが、“後回し”にしてしまうと、当然〆切日のプレッシャーという余計な要因も加わってき、さらにきつくなってしまいますので、書いてもらった答案用紙もそろい、提出して貰ったレポートもそろったところで、朝から一気に50通の答案とレポートを読んで、そのまんまつけさせて頂いた次第です。

それが……ある意味ではよかったようで、すっきりはればれ採点を終え、あとは大学へ返却するばかり。

「宇治家先生っていつもぎりぎりなんですよねえ」

……という担当職員のぼやきは今回はみられないのではないかと思います。

「ひょとして宇治家先生、悪いものでも食べたのでは……?」

などと議論されているのかもしれませんが、成績をおくっても、それを入力する手間を考えるといずれにせよ、早く提出するにこしたことはありませんよね。

……ってことで、ひとつ肩の荷がおりたようで……。

昨日もそうとう飲んだのですが、今日も「宇治家君、お疲れ様でした」

……ということで、がっつりやらせて頂いております。
金が無いのが難点ですので、一の蔵の「無鑑査」を買い込み、さきほどからやっておりますが、この「超辛口」というのが堪えます。

最近、だいたい一日に三度ほど風呂に入るのですが、三度も入る如く、東京は猛暑の連続で、梅雨が明けたにもかかわらず、じとっとした雨もつづものですから、体にカビが生えるのでは?などと思ってしまいますが、だからこそ「超辛口」がいいのでしょう。

まさに「超辛口」ですので、そうしたけだるさをぶっとばす呑み応えと爽快感で、まさにこいつは日本酒のスーパードライだ!などとはしゃいでいる次第です。

……ということで成績を付け終えた後、「まだなにか、大学へ提出しなければならなかったはず……」

……などと不審な思いが出てき、山のように詰まれた書類の「未処理BOX」に目を通すと、先ほど大学から送られてきた「夏期スクーリング開講に関する書類」……これは受けとって安心してそのまま返却していなかった!……が目に付き、急ぎ記入して、返却準備OKです。

要は、授業で使用する機材の申請とかそうしたフレームワークを形づくる書類なのですが、これをおろそかにすることはできません。

夏休みの大学で行う夏期スクーリングではこれまで一度も遭遇したことがありませんが、各地で開催する地方スクーリングでは、これまで「パワーポイントを使うので、関連機材を」と申請していたにもかかわらず、当日出向くと何も機材が無かった!(で、実はこれが一番始めにスクーリングをやったとき!)とか、予約して貰っていたホテルが予約されていなかった!など挿話には事欠きませんので、太めの万年筆……今回はめずらしくモンブランの2146(しかもmade in West Germanyですぞよ)で記入した次第です。

さて、本日は、ネオ・プラグマティストの頭目として知られるリチャード・ローティ(Richard Rorty,1931-2007)の小論集を読んでおりましたが、まさにこれだよな!などとひとりごちつつ、市井の職場の休憩中にほくそ笑んだ次第です。

何かを批判する際、とかくそれに対する対抗軸としてのアンチ・テーゼを打ち立てることに腐心してしまい、当初の批判的考察のもくろみから大きく逸脱してしまい、批判することによって目指すべき地点をみうしなってしまう……こうした事例は日常生活において事を欠きませんが、それは日常生活だけではなく、思想の世界においても同じかもしれません。

西洋形而上学の解体……という議論において「解体すべき目的」が喪失し、解体することに専念してしまうとそこには何ものこりません。

神学のボキャブラリーも必要ありませんが、アンチ神学のボキャブラリーも必要ないといったところでしょうか。

ローティの文章を読んでいると、ある意味でその過激な発想におどかされてしまわなくもないのですが、ゆっくり読み直すと至極真っ当なことを……それに賛同するか違和感を感じるかといった感覚の問題は起きますが……言っているよなア、などと読むたびに驚かされてしまいます。

……ということで?

昨日の東京は断続的豪雨のため、ろくな写真が撮れませんでしたので、一昨日の夕刻からの一コマです。

夏に東京から遠望できることはまずないのできわめてラッキーだったのかもしれません。

夕陽の落ちかけた西空に目をむけると富士の高嶺が微笑んでいるようで、なにやら、心が洗われた次第です。

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……すなわち、プラグマティストは、ある状況のもとである行為を実行することを善だとは考えるが、そうした行為を善たらしめているものについて、何が一般的で役に立つこおを述べうるとは、考えないのだ。ある与えられた文を確言すること--あるいはその文を確言したくなるような傾向を取り入れること、つまりある信念をわがものとすること--は、特定の状況においてのみ正当化しうる、そしてまた賞賛すべき行為となるのである。しかしそうだとするとよけいに、そうした行為のすべてを善たらしめているもの--人が確言しようという気になるべきすべての文に共通するある特性--について、何が一般的でやくだつことが述べられるとはとても思えないのだ。
 プラグマティストの考えでは、<真理>や<善>を孤立させようとする試み、つまり「真の」とか「善い」とかといった語を定義しようとする試みの歴史をみれば、こうした分野では面白い仕事など何もできないのではないかと疑わずにはいられない、ということになる。もちろん、歴史は別の展開を遂げたかもしれない。不思議なことに、<力>の本質や「数」の定義についてなら、人々はそれについて述べうる面白いことを見出してきたのだ。<真理>の本質についても、それについて述べうる面白いことが見出されていたってよさそうなものである。しかし実際には、何も見出されなかったのだ。それを見出そうという企てと、そうした企てへの批判とが、おおざっぱにいって、われわれが「哲学」と呼んでいるあの文学上のジャンル--プラトンが創設したジャンル--の歴史と重なるのである。すなわちプラグマティストは、プラトン的伝統を、もはやそれが不要になった後にまで生き残ってしまったと見るのだ。このことは何も、プラトン的問いに対し、新しい、非-プラトン的な一連の答えを提示できるという意味ではない。むしろ彼らは、そうした問いをもはや問う必要はないと考えるのである。したがってプラグマティストは<真理>や<善>「などといったものは存在しない」と主張するような議論に訴えているわけではない。あるいはまた、彼らが<真理>や<善>について「相対主義的」または「主観主義的」な理論をもっているわけでもないのだ。プラグマティストはただ主題を変えたいと思っているだけなのだ。彼らはちょうど、<自然>や<意志>や<神>について研究しても何もならないと主張する世俗主義者と同様の立場にある。そうした世俗主義者は、厳密な意味で<神>は存在しないなどと言っているのではなく、<神>の存在を肯定するとはどういうことなのか、したがってまたそれを否定することにどんな重要性があるのか、疑っているだけなのだ。彼らは<神>について何か特別で、変わった、異教的見解をもっているわけではない。彼らはただ、神学のボキャブラリーをわれわれは用いねばならない、ということを疑っているだけなのだ。同様にプラグマティストも、非哲学的なことばを用いて反哲学的な視点を作り出すための方法を常に模索しているのである。というのも、彼らは次のようなディレンマに直面しているからだ。すなわち、もし彼らの用いることばがあまりに非哲学的で「文学的」になると、彼らは主題を変えているといって非難されるであろうし、またもしことばがあまりに哲学的だと、それはプラトン的諸前提を体現してしまうことになり、プラグマティストが到達しようとしていた結論を述べることが不可能になってしまうからである。
    --リチャード・ローティ(吉岡洋訳)「プラグマティズムと哲学」、室井尚ほか訳『哲学の脱構築 プラグマティズムの帰結』御茶の水書房、1985年。

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ひとつの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分でない

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 ひとつの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分でない。何かを認識するためには、われわれが表象を有しているのみならず、われわれがそこから出て「それとは別の表象を、それに結びつけられたものとして再認」しなければならない。認識とは、ゆえに、諸表象の総合である。「われわれは、Aという概念の外に、この概念にとって外的であるけれども、そこに結びつけねばならないとわれわれが考えるBという述語を見出す」。われわれは、ある表象の対象について、その表象には含まれていない何かを肯定するのでる。ところで、このような総合は、二つの形態において提示される。それは経験に依存するとき、ア・ポステオリである。私が「この直線は白い」と言えば、そこにあるのは、互いに異なる二つの規定の遭遇である。あらゆる直線が白いわけではないし、白い直線も必然的に白であるわけではない。
 反対に、私が「直線は最短の道である」とか「変化するものはすべて原因をもつ」と言えば、私はア・プリオリな総合を行っていることになる。私は、Aについて、それに必然的かつ普遍的に結びついているものとしてBを肯定しているからである(ゆえに、Bはそれ自体、ア・プリオリな表象でえある。Aの方は、ア・プリオリでもそうでないこともありうる)。ア・プリオリであることがもつ特徴というのは、普遍的で必然的だというものだ。但し、ア・プリオリであることの定義とは、経験より独立しているというものだ。ア・プリオリが経験に適用されることはありうるし、ある種の場合においては、経験にしか適用されないこともある。だが、ア・プリオリが経験に由来することはない。「すべて」とか「常に」とか「必然的に」とかいった言葉に対応する経験は定義上存在しない。最短のは、比較級でも、帰納の結果でもなく、私が一つの線を直線として産出する際のア・プリオリな規則である。原因もまた、帰納の産物ではなく、生起する何事かを私が経験において再認する際のア・プリオリな概念である。
    --ジル・ドゥルーズ(國分功一郎訳)『カントの批判哲学』ちくま学芸文庫、2008年。

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この1ヶ月ほど、様々な人物、人、そして御仁と出会う中で、「こうと決め込んで、そうとしか考えることができない」というスタイルを多々目の当たりにして、つくづくと料簡を広げていくのは困難だよな……と実感するとともに、それでもなお、多様な地平を提示する「それだけではないかもしれませんよ」という対話しか結局はないのか……などとふと思った次第です。

さて、「こうと決め込んで、そうとしか考えることが出来ない」というスタイルは別に悪いわけではありません。それをどこに向けていくのかというのが焦点になってくるでしょう。つまり、次の言葉を使うのは嫌なのですがその言葉が一番適切なニュアンスを伝えることが出来るので臆面もなく使わせて頂きますが、すなわち、個々人の実存の問題に関してはそのスタイルで生きていくのが適切なのだろうと思います。

こう決めて、自分の生き方を歩んでいくという土台とでも言えばいいでしょうか。

しかし、人間とは生き物としては不十分で有限な存在者、罪人、末代凡夫であるとするならば、その土台というものも不変ではないはずですから、その更新はあってしかるべきですから、社会哲学者カール・ポパー(Sir Karl Raimund Popper,1902-1994)が自然科学だけでなく、人文科学、社会科学においても「反証可能性(Falsifiability)」を説いて止まなかったことを思いおこすならば、そのなにがしかを揺るぎなき土台として努力しようとも、ひとしくその土台が揺り動かされる可能性としての「反証可能性」の余地はどこかに残しておかないとマズイということはそれでもなお、言うまでもありませんでしょう。

さて、そうした実存論からはなれて、一般的に流通する「こうと決め込んで、そうとしか考えること出来ない」という発想の根っこにあるのは、自分で考える・判断するというカント的自律を拒否した軽挙妄動に由来するのかもしれません。

いかなる信条・指針・心情をゆうしてもいいのですが、それを対他的に検証しないまま、「そうなんだよな」「こうに“決まっている”」「嫌いだから……」って式に判断してしまうのはおそろしく暴力的な行為かもしれません。

検証されるべき、人間世界はある意味では、ア・ポステオリ(a posteriori)な世界にすぎません。だからこそさまざまな方向性から検討されてしかるべきなのですが、そのア・ポステオリなあり方をひとはどこかでア・プリオリ(a priori)なものとして錯覚してしまうのでしょう。

そこに落とし穴があるのだろうと思います。

経験則を形而上的な金科玉条にしてしまうということは、経験そのものの破壊を招いてしまうものです。経験として「こうだった」から「こう考える」というのであれば最後まで完遂してこそ経験則として成立するのでしょう。

それを中途の段階で王位につけてしまうことは、自己自身の信念体系の内崩をまねく暴挙にほかならないはずなのですが……。

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 ひとつの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分でない。何かを認識するためには、われわれが表象を有しているのみならず、われわれがそこから出て「それとは別の表象を、それに結びつけられたものとして再認」しなければならない。認識とは、ゆえに、諸表象の総合である。
    --ドゥルーズ、前掲書。

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このあたりを念頭に置いておかないと、正しい認識いたることは不可能なのでしょう。
しかしながら、なかなか、人間とはほかのひとの意見に耳を傾けることができない生き物なのかしら?

……などとふとぼやいてしまう日々ですが、それでもなお大石を穿つが如く、たえまなく接していく中で、気が付いたときには、ふと多面的に総合的に判断するようになってくる人も現れてくるところをついつい見てしまうと、まだまだ人間世界もすてたものではない……否、自分自身が人間世界を「素敵な世界」へと転回させゆく鍵をにぎっているのだろう!と思いつつ、誠実に生きていくしかありませんネ!

ちょいと飲みのを我慢していた麓井酒造@山形県酒田市の銘酒「麓井(ふもとい)生酛純米吟醸 山長(ヤマチョー)」にでも酔いしれながら、梅雨の夜長を楽しんで寝ますか!

しかし部屋のなかがなんかあっちいなアと思っておりましたら、エアコンが暖房でした。

これはかなりアルコールで消火活動をしないとまずいです。

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カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫) Book カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

著者:ジル ドゥルーズ
販売元:筑摩書房
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献身をたんに人間や社会ばかりでなく、なんらかの仕方で、世界にあらわれてくる生命一般にむけさせなければならない

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……献身の倫理にあっては、それが狭隘すぎるという点にどこか欠点があるに違いない。原理的にいって社会功利主義は、ただ人間の人間への献身および人間の人間社会への献身のみを問題とするにすぎない。それに対して自己完成の倫理は普遍的なものである。それは人間の世界への態度をも取り扱う。それゆえ献身の倫理が自己完成の倫理に対応しうるためには、後者のように普遍的になり、献身をたんに人間や社会ばかりでなく、なんらかの仕方で、世界にあらわれてくる生命一般にむけさせなければならない。
    --シュヴァイツァー(氷上英広訳)「文化と倫理」、『シュヴァイツァー選集 第7巻』白水社、1962年。

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久し振りの3連休スタートです!
土日に、世田谷、中野の友人とそれぞれアポイントメントがあるので、金曜のみが純粋?な休み……ということになるので、日がな一日、論文への資料の落とし込みとレポート添削をおこなっておりましたが、変な話で恐縮ですが、そればかりやっていると頭がループしてきますので、合間合間に、シュヴァイツァー(Albert Schweitzer,1875-1965)の著作を紐解いておりましたが、これがまたすこぶる染みこんできます。

密林の聖者として知られるシュヴァイツァーですが、その思想の骨格となるのは中年時に到達した「生命への畏敬」という概念になるかと思います。

シュヴァイツァーが現実世界の抱える病巣の根源として見抜いた事態とは何でしょうか。

ひとつ指摘できることは、やはり「存在を肯定できない」というシニシズムではなかったかと思います。
※いうまでもありませんが、ここでいう、いうなれば「存在の否定」とは跳躍への契機を期するための現状認識としての「否定」ではありません。

人生を、そして生きている世界をどのように肯定していくのか……密林の中でシュヴァイツァーはひとつの感覚に到達するわけですが、それがその根拠としての「生命の意志」という感覚なのでしょう。生きんとする生命の意志へ根拠を置き、シュヴァイツァーは人生と世界はたゆみなく関わりつづけることによって改善可能だ!という根源的な楽観主義に到達するわけですけれども、いつも読みながら、ノー天気な皮相的な楽観主義とは趣を異にする言説の強さに、打ちのめされてしまう長谷川平蔵です。

肯定するとは何でしょうか。
それは自分自身の生命を肯定するだけではありません。他者……それは人間のみならずすべての事物といっても過言ではないでしょう……その生命をも肯定する。
そこにシュヴァイツァーの「生命への畏敬」の輝きが存在しているのではないかと思います。

アフリカでのキリスト教伝道と医療活動を通じての平和活動に献身した生涯ですが、その活動はすべて成功であったわけでないことは承知しております。

最新の研究に寄れば、アフリカ現地での活動のすべてが芳しいものであったわけでないこと評価されておりますが、そのことは十分承知しております。

そして、拭いがたいヨーロッパ中心主義をシュヴァイツァー自身が無自覚的に内包していたことも承知です。ヨーロッパを兄とし、そしてそれ以外をいわば弟とみるものの見方は、まさにオリエンタリズムの好例のひとつであり、決して十全に包容することができないことも十分承知しております。

しかしながら……。

実際に動いた人間、関わった人間にはかなわないことも、活字と対話するなかで実感してしまいます。

安全地帯での論評・評価はどうしてもそこを掬いきれないとでも申せばよろしいのでしょうか……、後日の評価・論評はいうまでもなく歴史認識としては大切です。

しかし一方でそのように論難してしまうことは、本人の息吹・汗・血といったものまで中傷してしまうのも事実であり、必要なのは、「いずれにせよ!」そこから何を学ぶのか……そこに帰着するのでは無かろうかと思います。

シュヴァイツァーは献身は、人間だけでなくあらゆる生命への献身となるとき、それが真に普遍的なものとなると悟りました。
そして同時に、自己完成の倫理も、たんに世界から内面的な自由を獲得するというような一種の諦め的な倫理に留まることなく、世界や事物、そして自分自身に向かって積極的な活動を含むものにそれはなるだろうと論じましたが、このことが大切かもしれません。

献身という言葉は単純です。

しかしそれが自己の問題とダイレクトにリンクさせることは大変です。

献身と自己完成が倫理として結びつくときにこそ、世界は大きく展開するのかもしれません。

なにしろ、献身と自己完成は伝統的な倫理・道徳学のジャンルにおいては稀有な例をのぞき対立するものですから。

……ということで、「アサヒの何チャラマイスターとか言うビール」が実にうまい深夜です。

ちなみの蛇足ですが……しかし実はこれが大切かな?……有名な話ですが、シュヴァイツァーの好物は風月堂のゴーフルだったそうです。

確かに密林の聖者ですが……なんだか人間くさくてよいエピソードです。
久しく口にしませんが、長谷川平蔵も好物のひとつです。

あのさっぱりした板?と板に挟まれたクリームの触感が絶妙です。

私淑する池波正太郎(1923-1990)に言わせれば、

「いいねえ、シュヴァイツァーも。人間らしくてそこが格好いいねえ、なかなかまねのできるものではないよ」

……などと示唆されそうです。

……ということで、金曜日は、細君が全日幼稚園の役員業務のため不在でしたので、

「夕刻に、ピーちゃん(うちの十姉妹)を部屋のなかで放鳥するように」

……とのタスクを承っておりましたので、放鳥しましたが、まあ、彼か彼女だかわかりませんが邪魔をしてくれます。

……しかし「生命への畏敬」は大切ですね!

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近代の哲学書では「!」というような符号をつけた文章にはあまりであわぬ

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 『論語』などを素人読みしていて、ふと気がつくことがるが、「哉」その他の感嘆詞とでもいうべき言葉が非常に多い。近代の哲学書では「!」というような符号をつけた文章にはあまりであわぬ。『論語』が対話形式だから、とだけでは説明がつかぬものがある。『論語』全体の中に、強いていえば、一種の長大息する孔子の吐息が感ぜられるほどである。
 感嘆詞が発せられる場合は多くある。今ここで問題としているのは、孔子が用いているところのような場合である。すなわち、一つの言葉を発して、それを発しただけではじっとしていられない何か長く息を引く感じ、あるいは息を呑んで感動を抑えずにいられないこころもち、換言すれば、一つには疑問でもあり、畏れでもあり、懺(は)じらいでもある。しかも、他に何か決意にも充ちているものもある複雑をきわめた感情が籠もっているのである。
    --中井正一「感嘆詞のある思想」、長田弘編『中井正一評論集』岩波文庫、1995年。

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京都学派の流れをくみつつ、独自の美学理論を展開した美学者・中井正一(1900-1952
)の評論集を最近紐解いておりますが、なかなか唸らされております。

その美学理論は決して講壇哲学に収まることなく広範な対象に対する実践知として結実し、代表的な作品『委員会の論理』でも、美と対極にあると思ってしまう集団(共同体)とか、委員会においてすらも何らかの美が筋道を立てて通っておらないかぎり、有効に機能しないばかりか内包してしまうと喝破した議論には驚かされたものです。

そもそも日本においての美学は、本家たる西洋思潮と対比してみるとその確立が非常に遅れており、ややもすれば恣意的な衒学趣味的なるものに「美」を見出そうとする傾向が顕著ですが、そうしたなかでの中井正一の美学理論の構築とは、その嚆矢にして霊峰のごとききらめてきをはなっているのではなかろうかと思います。

形而上的な方向性と、形而下的な実践知との関わりで言えば、有名な滝川事件……1933年京都帝国大学で発生した思想弾圧事件……では、言論が反国家的とされ罷免を要求された瀧川幸辰(1891-1962)に対する処分に対する抵抗運動に取り組んでいたり、週刊『土曜日』での自由主義的論説の鼓舞などで、治安維持法違反での検挙……といった中井の歩みをみておりますと、まさに現実に内在した真理探求の営みではなかろうかと思ってしまいます。

それこそがまさに中井の目指した美学の方向性……すなわち、新即物主義(Neue Sachlichkeit)のひとつのあらわれなのかもしれません。

さて……はなしがずれ込みましたが、ひとつたまげたのがうえに引用した「感嘆詞のある思想」です。

はあ、なるほどね、……とはまさにこのことで、『論語』読みを自認する宇治家参去でございますが、『論語』に多用される「感嘆詞」にまで注目がいきとどいておらなかったことに脱帽です。

文章はちょうど、その冒頭の部分ですが、まさに「近代の哲学書では「!」というような符号をつけた文章にはあまりであわぬ」のが実情です。

それが難解をウリものとする哲学書なるもののひとつの特徴なのでしょうが、現実には、「一つの言葉を発して、それを発しただけではじっとしていられない何か長く息を引く感じ、あるいは息を呑んで感動を抑えずにいられないこころもち、換言すれば、一つには疑問でもあり、畏れでもあり、懺(は)じらいでもある。しかも、他に何か決意にも充ちているものもある複雑をきわめた感情が籠もっている」のが生きている世界でありますから、そうした声にならぬ声、活字にならぬ活字の部分を「きれいさっぱり」と象捨してしまうと、豊穣な人間世界を分断してしまうのかも知れません。

ただ、そう思った次第です。

世の中で誠実に生きながら、日々唸り、苦悶し、二日酔いとたたかう宇治家参去も、「うううむ」とか「うぬぅぅ」とうなりながら生きておりますが、そのへんを言語へと転換していきたいものでございます。

ということで?

6月も下旬になると、熱帯と化す東京の荒野においては、すわっているだけでもヘロヘロになってしまいますので、忸怩たる部分ですが、アイスとかその辺に今季初ですが手を伸ばしてしまいました。

いわゆる「九州名物 白熊」(丸永アイス)です。
フルーツと小豆がのった、練乳仕立てのアイスですが、この甘さが五臓六腑にしみわたります。

しかしどうして「九州名物」なのでしょうか……ねえ?

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現代の知識人は、アマチュアたるべきである

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……アマチュアリズムとは、文字通りの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。
 現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。そして、そうであるがゆえに、知識人はこう考える、もっとも専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵抗したり、自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のありかたにも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格をもつのだ、と。さらに、アマチュアとしての知識人の精神は、わたしたちのほとんどが毎日無自覚なままおこなっている専門活動のなかにはいりこみ、それをかえることもできる--もっともいきいきとした、ラディカルなのに。この場合、そうするであろうと期待されていることをなすのではなく、逆に問いかけてゆくのである。人はなぜそれをするのか、誰がそこから恩恵を得るのか、それが個人的な計画と当初のもくろみと、どのように関係するのか、と。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』(平凡社、1995年)。

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こうした世知辛いご時世ですから、市井の職場でも人員整理がすすみ、数名の方が退社あそばされましたが、人員の充足ができません。

ですから、全社的に、専門的な部門別の縦割り行政的な作業を行うという従来の業務スタイルを見なおし、極端な言い方ですが、専門的スキルがなくてもできるような業務は、所属する部門の垣根を超えてチームとして動くような業務スタイルへと転換させていこう!……そういう試みがはじまっております。

たとえば、職場はマアGMSということになりますので、玉子からパソコン、そしてパンツからスーツまで扱う小売業になるのですが、たとえば、たとえば、生鮮商品の陳列なんかに関しては商品の日付の新旧をまもれば、ある程度だれにでもできるわけですので、それはガッ!とチームを組んで補充する……そういう作業スタイルです。

そして、その対極にある、代変不可能な専門的業務というのが、例えばお魚を三枚に下ろしたり、ウロコをとったりするような作業になるわけですが、部門の垣根の超えて、まあ挑戦してみよう!そういう疾風怒濤のなかでもまれているある日の宇治家参去です。

こうした業務改革……すなわち人件費の圧縮……が成功するのかどうかは早計できませんが、業務スタイルとして定着すると、ある程度の経費削減にはつながっていくのでしょうね。

さて……。
最近、そうした横断的作業のひとつとして取り組んでいるのが、青果部門の展開商品の補充です。

一番回転のはやいバナナや瑞々しいレタス、仕事をやめてかぶりつきそうになってしまうトマトなんかを並べてはおりますが、これがまた結構な重労働でございまして……。

作業スケジュールは分単位でタスク化されておりますので……、これをだしたら、ハイ、次はこれ!ってかたちで、売り場への登場を今か今かと待ちわびる野菜さんたちが待っております。

が、メタボな痛風の素浪人ですから、なれない作業にひいいひいいいながらやっておりますが、野菜を運んでいると、「宇治家参去さぁ~ん、4番レジお願いしますぅぅぅ」って店内放送が入ったりして、「さあ、出そうか」と思って売り場へ持ち出したすいかを、またもと着た青果厨房へがらがらがらって戻してきてからレジへ向かったりするわけで……。

ときおり、ふと我にかえって「オレ、今何やってたんだっけ?」などと自問することもまれではありません。

さて……そんなことが書きたい訳ではないのですが、

生鮮野菜の商品に関する業務に従事するようになって……生鮮野菜に関してはアマチュアなんですが……悩むようになったことがひとつ出てきました。

「ワタクシ、専門家ぢゃないんですが!」

……という部分です。

「テネシー・ウイスキーとバーボン・ウイスキーって何が違うの?」

……などと聞かれたときには、

「はい、テネシーとバーボンは材料や蒸留方法に違いは全くありませんが、前者は、蒸留後に燻蒸をして風味をつけるのですが、後者は、蒸留後に燻蒸を行ないません。燻蒸された樽によって風味付けするのがバーボンなんです。そこに“風味”の違いがあるんですよ」

「ほお」

「ですから、違いをためすには、そうですねエ、こちらのジャック・ダニエルズとエライジャ・クレイグの両方をお買い求めになって、実際に違いを確かめた方が確実“カモシレマセン”」

……などと、たいていのご質問にお答えすることができるのですが、こと商品が生鮮野菜になってくると、まさに

「ワタクシ、専門家じゃないんですが!」

……と貝になりたくなってしまうことに多々遭遇します(「貝になりたい」というネタが古いですが)。

「メロンってどういうやつが熟したやつなの?」
「アボガドってどう料理するといいわけ?」
「ねぇねぇ、この胡瓜、群馬県産と茨城県産ってあるし、値段もちがうけど、どう違うの?」

……ん、ん、ん!

高校時代は数学が苦手でした。
微分計数や導関数、リーマン積分……やるのはやりましたが、まったく解析不可能でした。200満点の3点(どうやったら取れるの?)をとって、職員室で追試を受けたこともあります。

しかし「メロンがどうよ」「アボガドがどうよ」「キュウリがどうよ」っていう質問は、その難解さを遙かに凌駕してしまうようで……、数学の方が楽だったかもしれません。

「アマチュアの宇治家参去に、そんなことを聞かないでくれ」

……とは思ってしまいますが、お客様から見れば、青果商材に対する商品知識がつぶらな瞳の幼子と同程度のアマチュアである宇治家参去であろうが、野菜に関する知識においてはアインシュタイン(1879-1955)ですら敵うことのできない専門家たる青果マネジャーであったとしても、おなじ「専門家」として見られてしまうところが、実に辛いところです。

ですから、チト青果商材に関する基礎知識およびかんたんな応用知識程度は身につけた方はよかろうか……などと悩む昨今です。

……ということで、レタスが「春」の「季語」だったことを本日会得しました!

わ~い、ぱちぱち!

……って、

「このレタスと、あのレタス、どちらがおいしいかしら」

……などと洒落た御婦人に質問されたとき、

「そうですねエ、レタスは春の季語ですからねえ~、春にやるのが一番よろしいとは思いますよ」

……などと返してみたいものですが、そんなことは全く出来ない宇治家参去です。

……って飲みながら書いておりますので、何が書きたかったのでしょうか?

そう!

知識人としてのアマチュアと専門家の問題を、ポスト・コロニアル批評の論者として知られるサイード(Edward Wadie Said,1935-2003)の言葉をたよりに考察してみようかと思ったわけですが……すこしだけ書いておきましょうか。

「専門が違いますから」

……この言葉は市井の職場よりも本業でよく耳にする言葉です。

しかし、「専門がちがいますから」って言い方はある意味では謙遜な言い方を代表する表現に他なりませんが、それだけではないのかもしれません。

やんわりと議論のテーブルから降りる恰好な「言い方」なんですね。

「専門がちがいますから」

たしかに専門研究においては「専門がちがう」ということは容喙できない、そして容許を拒む分厚い壁があることも承知ですが、こと「人間の世界」に関する議論においては「専門」も「非専門」もヘッタクレもあったもんじゃない!というのが実情ではないでしょうか。

やんわりと議論からおりて安全地帯へと後退してしまうあり方よりも、「おめえ、青いんだけど、その熱意はわるよ!」などと違う専門同士が胸襟をわって語り合えるあり方のほうがチト素敵だとは思うわけですが……。

……といことで、A Cup of Happiness の大関(株)「ワンカップ 大関」でも飲んで寝ますワ。

ちなみに、いろいろなカップ酒を“ワンカップ”とグルーピングしてしまうことがありますが、「ワンカップ」とは大関(株)の商標登録であり、他社が名乗ることは不可能だそうでございます。

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知識人とは何か (平凡社ライブラリー) Book 知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

著者:エドワード・W. サイード
販売元:平凡社
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人をだますってことはこれはいけないことだけれどもね、堀君。だまされるということもけしてほめられたことじゃないですよ

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……私が助手になってすぐですから、まだこの舎のあそこの元の部屋におって下宿を決めないでおった時に、夜あれは十時前だったと思いますが、先生がコソコソと来られたんです。であけてみたら先生がおられるんですね。それで入って来られて、「堀君一寸困ったことができた。」と。吉野先生よくその辺までお歩きになってそしてどうするかと呑喜で一寸こう、やって、そしてまた電車でお帰りになるんですね。で、「困ったことが堀君起こった。」と。「何ですか。」って言ったらね--その前にその神田の古本屋で探すように命令を私と奥平助手とが受けておったんです。あれがいっこう我々が見つけんものですから、あれは催促に見えたと思ってねおったところが「いや堀君、ちょっと電車代を六銭貸してくれないか」とこうきた。あの時は六銭でした。六銭貸してくれないかと。でどうなすったんですかと言ったらね、「こういうことなんだよ、」てね。この会館(引用者註--この思い出を書いている吉野作造門下の堀氏が当時寄宿していた東京帝国大学学生基督教青年会=当時のところ)のところのロビーに引っぱって来てね、「実は歩いて帰っていたところが今の農学部あたりのあの辺からね、四十ちょっと過ぎた位の婦人がついてきた。何だろうと思っていたら声をかけられた。先生は吉野作造先生でいらっしゃいませんかと言うので、はいと言ったと。そうしたらね、どうか先生私の話をちょっと聞いてくださいと言われた。」そして今の農学部の門の所に先生はいらした。そしたら縷々とその身上話をした。非常に悲しい話だったと。彼女は自分の体を売って暮らしているというのです。こういう人間は本当に立ち直れるか。先生は立派なクリスチャンでいらっしゃると聞いています。どういうものでございましょう、と言ったんです。すると吉野先生はね、「それは誰でも罪人だけど、だからねえ私だって同じだよ」と。そしたら、有難うございましたと涙を流して、「どうか私のために祈って下さい」とこう言ったんです。で先生はあの農学部の門の凹んだ所がありますね、あそこへ行ってお祈りをしたんです。一所懸命やった。そして目が覚めたら婦人がいなかった。そしてきれいに金を取られてしまったとこういう話だ。こうまあいかにも吉野先生のある面を表す。そして私に曰く、「人をだますってことはこれはいけないことだけれどもね、堀君。だまされるということもけしてほめられたことじゃないですよ」と。特に注意しなきゃならんのは、「ああ大学の先生ですね」とか「立派なクリスチャンでいらっしゃるそうですね」とかまあいろいろ言う。その時にね、人間ていうのはやっぱりね、いい気になって調子に乗るもんだ。それがいかん。その間にシャッとやられる。それはね、気を付けたまえと、それは吉野先生の非常な御教育のやり方であって、私はそれをあれから何十年と忘れたこともなく思い出すのであります。こういう事を限りなく私は思い出しております。
    --東京大学学生基督教青年会編「追想談 堀豊彦氏」、『吉野作造先生 五十周年記念会記録』東京大学学生基督教青年会、1984年。

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今日もがっつり市井の仕事でレジを打ちながら、足の痛風が痛いわナ……と嘆きつつ現実世界に翻弄されるある日の宇治家参去です。

さあぼちぼち休憩に行くか!

……と気合いを入れて気分を入れ直しておりますと、サービスカウンターから、

「宇治家参去さん、ちょいと難しい案件がありますので応答して頂けませんか」

……とのことだそうな(池波風ですねエ)。

これから休もう!と思っていた矢先にこうした事態が出来すると、「うえっぷし」とカトちゃん@ドリフターズばりに、くしゃみをしてひとりバックドロップを展開したいところですが、そうした時間もないので、そのまま伺うと、……ふ~む、またまた久し振りにアリエナイ展開が現出し、……池波正太郎(1923-1990)の描く『鬼平犯科帳』の長谷川長官でしたら、「人間という生き物は不思議な生き物よ……」って語れそうですが、そう含蓄深く味わっているほど時間もないので、手短に要件を伺うと……、

宇治家参去の勤務しているGMS店舗はマア駅前にあるわけなのですが、
要は駅前で転んで怪我をした……ということで、なんとか、最寄りの?当店までたどり着けた……そこでスイマセンが、病院へ行きたいので、そこへ行くまでの金を貸してくれないか!

……との申し出のようで。

この手の商売に携わっておりますと、いろいろな事案……すなわちまともなクレーム(それはまさに宝の山なんです、そこから改革できるので!)から、過剰請求、意志喪失者まで様々な問題と格闘させて頂き、マア、まさに「人間とは何か」という極めて倫理的命題を深めさせてくれる事件に直面させられてきましたが、この手の事案ははじめてで……。
たしかに地域に密着した小売業としては、利用されるお客様以外にも地域に住まわれている人々に対する密着したサービスをどのように展開してくのか……という命題は極めて重要な問題です。

たとえば、やすらぎ・小休止用のベンチを店舗の周辺に設置したりだとか、不審者につけまとわれる方々に対するSOS的な窓口を提供したりだとか、地域の祭だとか催事があるときには、こちらも協力したりだとか……。

しかし、今回の「申し出」は遙かにそうしたキャパシティを凌駕する事案のようで……。

また、チトその御仁、お酒の匂いもぷんぷんしているようで……。

……手っ取り早くまとめました。

話を聴いていると、確かに駅前で転倒したとのことですが、話が二転三転しますので、「自分で転んだのですか」と伺ったところ、

「いや、タブン、誰かに押された」……

と本人がいいますから、

結局の所、こちらとしては医療費を出したり、病院まで交通費をだしたりすることもできません。店内での転倒・事故であれば、もちろん対応をしますが、今回は話が別になってきます。

ですから……、

「“押されて転んだ”ということであれば、警察を呼びますし、刑事事件にする必要がないのであれば、救急車を呼びますか?」

……と最終確認をしたところ、

「救急車を呼んでくれ」

……とのことで、119番通報して、到着するまで一緒に待機です。

ぼんやり待っていると、

「警察は、おれの話を信用してくれないんだ。転んだのはオレだけど、タブン、ダレカに押された!“ハズ”っていっても……信用してくれないんだ」

「そうですよねえ、たぶんじゃア、まずいでしょう」

……などとやり取りをしていると救急隊が到着です。

電話でも詳細を通知しておりましたが、隊の責任者と話をしていると、

……どうやらその筋では有名人のようでして……、ガックシ。
実弟が救急救命士ですし、東京消防庁に限らない問題です。
本来出動不要の軽微の出動がかさなってしうまとどうなるのでしょうか。
本来駆けつけなければならない要件がスルーされてしまうという二律背反の到来です。

「申し訳御座いません!」
……そこに尽きます。

そしてその御仁、隊員たちに誘われ病院へ向けて出発された模様です。

さて、ちょうど昨日になりますが、博論の追い込みをかけているなかで、ひとつ珍しいと言いますか、なかなか手にすることの出来ない資料を入手することができたので、昨日も読み、本日もその解読をしていたところですが……。

宇治家参去ただひとりだけでなく、かの吉野作造先生(1878-1933)も苦労していたんだよな……などと事案解決?後、休憩時間を利用して読んでいるときに、今は亡き吉野作造先生となにやら健闘をたたえ合った次第です。

何度も紹介している通りですが、吉野の盟友・内ヶ崎作三郎(1877-1947)は吉野の死後、「(吉野作造は)無限の親切の人」だったと語っておりますが、その無限の親切とは悪なるものを容認するようなフリーハンドの、作業仮説上の無節操な「価値中立」ではなかったのかもしれません。

冒頭に引用した文章を読んでおりますと、何をはげまし、何と戦っていくのか考えさせられてしまいます。

積極的に善をなしていくということは職業革命家の専売特許でもありませんが、無節操な博愛家とも無縁の理想を抱いた現実主義者の一歩一歩の歩みかも知れません。

……ということで?
最近、またまた痛風で足が痛いので、いっぺえ飲んで寝ます。

しかし東大YMCAの私家版的なたった数十頁の希少な資料でしたが、お陰で200枚ぐらい書き直しになってしまいそうです。

マア、この時点で邂逅できたというのは不幸中の幸いということでしょうか?

……ということにしておきましょう。
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「人間的な生の関係がふくむ構造は、人間が互いにふるまうことによってかたちづくられ」ているはずなのですが……

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……人間的な生の関係がふくむ構造は、人間が互いにふるまうことによってかたちづくられ、そのふるまいは人間の根本的-態度、すなわち一箇の「エートス」をふくんでいる。エートスとは倫理学の根源的な主題であり、エートスがエートスとして妥当するにいたるのは、人間が互いにふるまうこと、つまり共に在る人間として共に在る人間に対してふるまうことによってのみである。人間のエートスによって、それが明示的に「拘束的」なものであろうと「非拘束的」なものであろうと、あるいはまた道徳的なものであれ非道徳的なものであれ、人間の生の関係にぞくする意味と心情が規定される。人間を人間として、したがって同時にまた共に在る人間として規定するこのようなエートスを、いっさいの哲学はそなえている。それぞれの哲学が道徳や倫理についてなにも語らず、そうしたことばを避けようとしている場合であっても同様である。哲学が使用する概念的な規定は--それが人間的現存在にかかわるかぎり、さらにまた人間的現存在を超えでようとする場合であっても--純粋に概念的な本性を有するものではなく、むしろ「人間の規定」についての一定の概念を前提し、それに表現を与えようとする。以下の議論は倫理的「諸価値」や「道徳の系譜学」や「善悪」を取りあつかうものではなく、共同存在の形式的な構造を論じようとするものである。けれども、あらゆる倫理学が前提としているこの地盤は、それが人間学的な基盤であることで、それ自身として(eo ipso)倫理学的に重要な基盤となるのである。
    --K.レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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いつもより遅めの出勤だったので出社前に、せんだって借りていた本を神学校へ返しにいき、その帰路、駅へとむかっていると細君からメールが1件。

「金魚の餌がなくなったので、どこかで買ってきてくれ」

……とのことだそうです。

たしかちかくにホームセンターがあったよな……ということで、「金魚の餌」を買い求め、レジで並んでいると、ひとりまえの中年のオジサンが激怒りはじめまして……。

要は、その御仁の前に並んでいた、かなり高齢の婦人が、レジでの清算後、レジサークルから荷物をもって退去するのにかなりもたついていた……これは傍目からもそうですがそんなことを言ってもはじまらないというのが大人(これは“おとな”とよむよりも“だいじん”とよんだ方が精確でしょうか)のエートスというもんだよな……と並んでいたわけですが、宇治家参去の前の御仁が急にそのことを声を荒げて騒ぎ出したので、……辟易とした次第です。

その高齢の御婦人が清算するまえから結構な列になっていたので、イラッってきたのかもしれません。

しかし、声を荒げるほどでもないだろう……そう思われて他なりません。

混んでいたのは混んでいたわけです。
そして高齢の御婦人ですから、若い衆のようにさっさと退去することもできず……。
御婦人一人にまかせているともちっと時間がかかりそうな気配を察したレジ担当者は、その介助といいますか、レジサークルから出てきて、袋をわたし、退去を誘おうとしたわけですが……。

そうした一連のチマチマ動作に、イラッってきたのでしょう。

中年のオジサン、矛先をレジ担当者に向けると、

「清算がすんでいるんだから、なんではやくこっちのを打たねえんだ」

「もうしわけございません」

退去しつつある高齢の御婦人も顔面蒼白で……

終いには、「責任者だせ」

……という始末でして、げんなりと辟易とした次第でございます。

結局、本当は「はやく清算して帰りたい」中年のオジサンそのものが、レジに並んだ長蛇の列を止めてしまうというわけで……いわゆる本末転倒という次第です。

たしかにげんなりと辟易しましたが、それと同時にあたまのなかで、「It's a good day to die When you know the reasons why Citizens we fight for what is right」が魂を鼓舞する歌声としてループするというやつで、同時に昨日、息子殿に教えたcitizenの生きる流儀(エートス)としての「Courage,Duty,Honour」が、目の前の驚愕すべき事態に対して「ドン引き」する宇治家参去自身の背中を押すようで……。

「あの~、騒いでいる貴方が、一番の問題ではありませんか? レジの動きを貴方がすべて止めましたヨ!」

声をかけ、その御仁が振り返り、次に並んでいる宇治家参去とそのまた後ろに長蛇でつづく列を示して見せたわけですが……

……言ってしまいました。

性根としてはシャイでナイーヴなチキン野郎というのが宇治家参去を規定するレゾンデートルです。

しかし、時折、休火山がいきなりマグマを放出するように、「言霊」が「迸って」しまうことがあるようで……。

言霊を放ってから、ようやく思い出したかのように兎のような心臓がばくばくし始めた次第です。

「あんぅ?」

「いえ。ですから事実を解説しただけですけど……。……ネ」

「あんだア」

「いえ。ですから。ああ、そうですか。出るところへでます? 勘違いしないでくださいよ。 店の外へ出てストリートファイトとか御免ですよ。ええ、そうです。なんなら警察呼んで、弁護士呼んで、出るところへでます?」

……って名刺入れを出し始めると、

「あんだア!」

……って、持っていた商品を壁に投げつけ

「二度とこねえゾ、ボケぇぇ」

……って、買い物されずに帰って行かれました。

早く清算したくて騒いだわけですが……。

人間とは摩訶不思議です。

レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)が指摘するとおり、「人間的な生の関係がふくむ構造は、人間が互いにふるまうことによってかたちづくられ」ているはずなのですが、なにやら「共同存在」としての「人間」という自己自身の「ふるまい」を忘却し、他人の「ふるまい」だけを弾呵することが「かっこいい」という勘違いが甚だしいんだよな……と思いつつ、ばくばくする心臓をおさえつつ、痛風で痛い足をひきずりつつ、何処かで「待ち伏せ」してないよな!……と革命的警戒心を張り巡らしつつ、仕事へ向かった次第です。

……とわいえ、そのオジサンと同じ命が自分自身にも冥伏することは忘れてはいけない!と自戒しつつ、サア、これから大好きな「鳴門鯛」(本家松浦酒造販売・徳島県)でいっぺえやって、心臓をおちつかせてから寝ますです。

ホンマ、citizenとして生きるのは大変です。権利主張も大切ですが、それを裏打ちする「Courage,Duty,Honour」が欠如してしまった場合、そこには不毛な「モノ取りゲーム」しか存在しないはずなのですが……。

ですから……

These are the words I march by,Duty,Courgae,Honour
Every single day and i've been trying

……って試行錯誤しながら人間共和の世界を目指すしかありません。

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「学ぶ」とは「自分をつくる」戦いにほかなりません

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 中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。盲従すべきものでないと思う。そういう風に青年たちはいう。つまり青年たちは知を求めているのだ。そうして知を求めるのは正しい。これは善いことだ。すくなくともこの一善はかれらもまた善と知っているのだ。だが道徳的善は先ずこれを実践してからでないと、善が善とはっきり分からないような性質のものなのである。何故なれば善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がないからである。例えば水泳を学ぶようなものである。水泳についての理論的知識は単に水泳の可能性について議論し得るに過ぎない。そういう議論をいくら重ねたところで、水泳の現実は会得できるものでない。現実の水泳は、現実の水に現実に飛び込んで泳ぎを実践してみるのでなければ、他にこれを会得する方法がないのである。畳の上の水練では現実の水を泳ぐことはできないのである。善もまたかくの如し。善はただ善の実践を通してのみ知らるるのである。そうして人生の究極の善はいさ知らず、日常茶飯の現前の小善事がひとつもわからぬということはない。盗むなかれ。欺くなかれ。姦淫するなかれ。懶(なま)けるなかれ。虚心にして善を追求すれば、足前数歩の光明を得られぬということはない。得られぬとは言わせない。得ようとしないのだ。足前数歩の光明を頼りに先ず立って歩くが良い。歩いて躓くなら躓いてみるが良い。かくして真摯に実践するものは、進むも躓くも必ず得るところがあるのである。それによって善を把握し進むのである。
 だからわれらの実践生活における最も根柢的な問題は知識ではないのである。悪は無知の生むところではないのである。そもそも善を追い求めようとする熱心がないのである。熱心がないから善を追い求めず。追い求めないから善を知らず、知ろうともせず。随って又善を為さず、為そうともしないのである。即ち人間の悪の根柢にあるものは、善知識の貧困であるよりは、善意志の欠乏である。カントのいわゆる根元的悪性である。
    --三谷隆正「パウロとニコデモス」、『三谷隆正全集 第2巻』(岩波書店、一九六五年)。

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戦前日本の旧制高校で教鞭を執った法学者のひとりが、敬虔なクリスチャン・三谷隆正(1889-1944)です。
無教会主義の内村鑑三(1861-1930)門下のひとりといってよいのですが、不思議なことに教会に留まり続けた人物です。
しかし内村のうえをいく敬虔な人物であり、自己に厳しく他者に暖かいその思索と実践から「群鶏中の鶴」と評されたものですが、三谷の言葉や人生を振り返ってみると、真のモラリストとは何かをいつも考えさせられてしまいます。

屹立として「闘う」人物という風貌ではありませんが、丹念に「説得し続ける」人物と表現できましょうか……その意味では、説得し続けることが三谷の「闘い」であったのかもしれません。

三谷は内村鑑三からの影響だけでなく、新渡戸稲造(1862-1933)の薫育に負うところも多く、そうしたところに「対話の達人」「現代のソクラテス」と評された新渡戸の精神が面目躍如するといったところでしょうか。

さて……話がすっとびますが、

短大での初めての補講無事終了です。
半期15回授業がいわば義務づけられておりますので、休講した場合、そのフォローを必ずしなければならないのですが、だいたい週末に向かう最終コマになりますので、金曜の5時限目、月曜の講義からほとんど日をまたいでおりませんが、前回のつづきのところから授業です。

さて……
なんで哲学?
……と突っ込まれそうですし、三谷隆正ほどモラリストでもないことを自覚している宇治家参去ですが、ワタクシも同じ様な質問をよくうけます。

どちらかといえば、哲学というよりも倫理学が対象とする、善悪の問題です。
善悪が何かと指示することはここでは措きますが、熱意のある善意の青年たちのフラストレーションとでもいえばいいのでしょうか……要は何をやればよいのか、その問題をよく投げかけられることが宇治家参去にもあります。

まさに三谷が直面した問題と同じです。

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中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。

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真剣に考え悩んでいる人ほど、そうした熱意と現状との乖離……これは世界状況だけでなく、直接的に何も関われない・為していないということとの乖離……に悩んでしまうものです。

たしかに、世界の状況を振り返ってみると、戦争や流血の惨事はなくなりませんし、平々凡々とこの地で生きている自分がいるとともに、同時に死に行く人類も存在します。

だから、何かをなしたい……いうなれば善をなしたい……というわけです。
これまでこうした問題に関して有効と思われてきたアプローチのひとつが職業革命家たちの「先導」(実は扇動)だったのでしょうが、詳述するまでもなく、それは善をなすどころか、悪をなすことに転換してしまったのがその歩みであることは疑いもありません。

これは職業革命家の言説に限定された問題ではなく、あらゆる流派のテロリスト、政治的デマゴギーなど幅広くみられたリードの仕方でありますが、共通しているのは、「一気に」「完全転換」が「可能」だという御旗の存在なのだと思います。

しかし冷静になって霊性に考えてみればわかるものですが、複雑な世の中は、「一気に」「完全転換」が「可能」なほど単純な問題ではありません。
複雑な世の中を、「あれか」「これか」に分断してしまうそうした発想こそ、理性の二律背反にほかならず、必ず「血」が流れ、問題解決を導くどころか、「怨念」と「復讐」を拡大再生産させてしまうのがその歩みではなかったかと思わざるをえません。

ではどのように生活者として対処していくのか。
その道筋としては、これまで何度も論じておりますので、議論の組み立て方は割愛し、ファイナルアンサーとして呈示するならば「(ダブルバインドを承知のうえで)責任をもってちゃんと生きるしかない」という結論に達せざるを得ません。

自分の生きている現場を離れて世界も人類も存在しません。
そこからどのように世界や人類につながっていくのか、善の歩みをなしていくのか、問われているのはそこなのだろうと思います。
しかし、生きている現場には、世界も人類も存在しない……それが人間が陥ってる強烈な錯覚なのだろうと思います。

だからこそ、そこを自覚して、あきらめずに生きていく……そこが肝要なのだろうと思います。

で……。
同じことを再論しても他ならないので、学生としては何ができるのか……ついででしたので、試しにと、授業の中で学生さんたちと語り合ってみましたが……、こうした語り合いというのがやはり一番いいもんです。
たしかに哲学に関する基礎知識をお話し、説明することも必要不可欠ですが、それだけでは、カント(Immanuel Kant,1724-1804)のいうとおりで、「哲学は学ぶことができない、ひとができるのは哲学することを学ぶことだけだ」にはなりませんので、

「善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない」というのであれば、学生として何ができるのか、ひとつ考えあってみた次第です。
※「善」そのものには三谷が指摘するとおり、「善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がない」ように、所与の固定化した何か天空に煌めくような概念ではないと宇治家参去自身は思うところがあり、「善を問う」ことに関してプラトニズム的アプローチはどうしても避けたかったものですから、ここではひとまず起き、善悪論は次回の宿題へとしました。
たしかに、プラトン(plato、BC.427-BC.347)が言うとおり、個別の善の行為はたしかにありますし、そうした個別の行為から、種へ、類へ、そして普遍へと拡大していくと、なにやら、個別の行為を包括するような「善のイデア」なるものが「想定」できなくはないですが、現実にはその「想定」された「善のイデア」なるものが、善をがちがちに規定してしまうと、本来実践的性格である「善」なるものが、骨抜きにされてしまうような感があり、そしてヘア(R.M.Hare,1919-2002)以降のメタ倫理学で見られるアンチプラトニズムとしての倫理の機能主義にもなんだか違和感がある中で……。

……って脱線したのでもどりましょう。
はい、そうです。
これが非常に生産性の高いひとときになったのではないかと思います。
悩み抜き、考え抜くなかで、種々、こういうあり方があるんじゃないかと議論してみましたが、実にこちらが学んでしまうという状況でして……。

……って話題のずれをもう一度ただします。

「善をなせといわれ、具体的に何ができるのか、ひとりの学生としての人間として」。

宇治家参去は学生にしかできないことがあると思っております。
そして学生時代にしかそれはできないことなんだろうと思っております。

国連をはじめとする国際機関で活躍するために仕込むのもそのひとつでしょう。
また具体的なスキルをもって、その分野の最前線で活躍するために仕込むのもそのひとつでしょう。

しかしすべての人がそうしたところで活躍するわけでもありませんし、大学という教育機関は国際機関職員訓練養成所でも訓練機関でもありません。

そう思うひとは、その想いを真剣に使命に転換してゆけばよいのです。

では、そこにのっかれないひとは、善をなすことができないのでしょうか。
早計してはなりません。

でもそうした想いを使命に転換しそうなっていく人も、そして生活者として例えば、住んでいる日本で懸命に賢明に努力していく人も、すべての学生さんにしかできないことが実はあるはずなんです。

古来の人はうまくいったものです。
「灯台もと暗し」

学生さんにしかできないこと……それは「学ぶ」ということです。

あせってはいけません。
学ぶことが最も大切なんです。

善への熱意があるからこそあせるのは承知です。
しかし、あせってはいけません。
60年代の学生運動を証示するまでもありません。
そこにつけこんでくるのが「一発解決!」を謳うデマゴギーなんです。

だから、あせらず、ただ黙々とその熱意を抱きながら学ぶことが大切なんです。
学ぶとはどういうことなのでしょうか。

すなわち、それは、「自分をつくる」戦いにほかなりません。
「心を鍛える」「頭脳を鍛える」「体を鍛える」戦いこそ学生として学ぶということなのだろうと思います。

いうなれば土台をつくるといっても過言ではないでしょう。土台なくしては、どんな家も、どんなビルも建ちません。ひとの一生も同じです。
その土台を建設するのがまさに「学ぶ」という作業なのです。

ぐっとこらえるしかありません。
そして、黙々と学ぶしかありません。
しかし、それと真剣に取り組むことによって、一挙手一投足が善を成そうする着実な歩みになるはずなんです。

休学して一目散にイラクへいく必要もなければ、退学してチベットへいく必要もありません。

まずは「ちゃんと生きること」。
そしてそこから自分のできる善を着実にこなしていくこと。
そのために「学ぶ」「学生」なんだと思います。

福澤諭吉(1835-1901)が自伝でおもしろいことをいっているので一つ紹介しましょう。

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……私はその戦争の日も塾の家業を罷(や)めない。(中略)世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ會(かつ)て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな
    --福澤諭吉(富田正文校訂)『福翁自伝』岩波文庫、1978年。

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江戸崩壊の前夜、ちょうど上野の山で彰義隊と新政府軍が戦いの火ぶたを切った、幕府崩壊のその日も福澤諭吉は講義を止めなかったそうです。

そして、めまぐるしく騒動する世間に一喜一憂し、ソワソワとする学生たちを前にうえのような言葉を語ったそうです。

すなわち「世間に頓着するな」。

これは世間を無視して、学問の世界へ隠遁しろ、との言葉ではありません。
福澤ほど、日常生活世界の有為転変する状況を綿密につぶさに追跡した人物は同時代ではまずいないでしょう。ですから、むしろ「世間の事件のふりまわされるな」との諫言に他なりません。

力のないまま、世間へ出陣しても負けるのがおちで、それこそ、その恨み節からひきこもってしまうのがその実です。

そうではなく、世間の事象に幅広く耳を傾けながら“も”、学びぬく……そうした相関的な関係が必要だ……福澤の諫言は今の世界にも「あせるな、がんばれ」との励ましに聞こえて他なりません。

……とここまで書くとなにやら道学者風で恐縮ですが、そこにしか繋がっていく道はないんです。

だからこそ、「あせるな」!
真剣に学べ!

それこそ遠いように見えても「善をなす」において一番の早道なのだから。

……ということで、「一ノ蔵」(宮城県)でも呑んで寝ますワ。
全く反省がないといいますか、歴史は繰り返すといいますか、昨日かったのですが、一升瓶が残り少ない状況のようで……ですが、善をなすために、ぼちぼち本日は沈没します。

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新訂 福翁自伝 (岩波文庫) Book 新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

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「音読」から「黙読」へ--近代読者の成立を言祝ぐ?

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 現代では小説は他人を交えずひとりで黙読するものと考えられているが、たまたま高齢の老人が一種異様な節廻しで新聞を音読する光景に接したりすると、この黙読による読書の習慣が一般化したのは、ごく近年、それも二世代か三世代の間に過ぎないのではないかと思われてくる。こころみに日記や回想録の類に明治時代の読者の姿をさぐって見るならば、私たちの想像する以上に音読による享受方式への愛着が根づよく生き残っていたことに驚かされるのである。
 無政府主義の指導的理論家として知られている石川三四郎(明九年-昭三十三年)は、戦後執筆した『自叙伝』の中で、少年の頃祖母の寝物語に聞かされた楠公記や大岡政談から受けた感銘を記し、つづいて父と兄との睦まじい読書風景に触れて、文明開化の風潮が中仙道筋にあたる地方豪家の知的雰囲気を革めてゆく状況を興味深く語っている。

 父なども兄にいろいろな本を読ませて聞くことを楽しみにして居り、例えば昔の漢楚軍談とか三国志とか言うものを読ませて居つたのを記憶しています。後には福沢諭吉の『学問のすゝめ』という書物を東京から買つて来て読ませたこともありました。(同書、上、三一ページ)

 この漢楚軍談や三国志は貸本屋から借りたものかもしれない。この時代には大部の読本や軍記物を所蔵している一般家庭は異例に属し、それだけに貸本屋や知人から借り出した際には、家族こぞって読書の娯しみを頒ち合うのが、ふつうの事だったらしい。山川均(明十三年-昭三十三年)の『ある凡人の記録』にも、このような小説の読まれ方が示されている。

 私の少年時代には、子供の読みものは少なかったし、(中略)木版時代の本屋が消滅したあとに、田舎ではまだ活版時代の新しい本屋は生まれていなかった。それで小学校のころ、私は新聞の広告を見て、博物の書物がほしくなり、わざわざ東京の冨山房(?)から取りよせたこともあった。なにか特別の家でもないかぎり、どこの家庭にも蔵書というほどのものはなく、私のところでも『論語』や『孟子』『唐詩選』とか『日本外史』といったたぐいのものがいくらかあったにすぎなかった。懇意な家に『八犬伝』があったので、一と冬『八犬伝』を借りて来て、毎晩、父がおもしろく読んでくれるのを、母は針仕事を、姉は編物をしながら、家内じゅうで聞いたことがあった。ところが一二年すると、久しぶりにまた『八犬伝』でもというので、また借りて来ておさらえをするというありさまだった。(『山川均自伝』一五七~一五八頁)

 一葉の日記には明治二十四年から二十五年にかけて、彼女が母親の滝子に小説を読み聞かせている記事が数ケ所現われる。ちなみに二十五年三月は一葉の処女作『闇桜』が桃水の紹介により「武蔵野」誌上に発表された月にあたる。

 日没後母君によしの捨遺読みて聞かせ奉る。(明治二十四年九月二十六日)
 此夜小説少しよみて母君に聞かし参らす。(明治二十五年三月十二日)
 夕飯ことに賑々しく終りて、諸大家のおもしろき小説一巡母君によみて聞かしまいらす。(明治二十五年三月十八日)

    --前田愛「音読から黙読へ--近代読者の成立」、『近代読者の成立』岩波現代文庫、2001年。

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音読すると家族から大ブーイングをいつも受けてしまう宇治家参去です。
語学力が落ちてはいけない!と定期的にフランス語やドイツ語の文献を紐解きますし、語学には音読が必要不可欠です。

ですからときどき「Es ist……」「Je n'ai rien……」なんてやると、それを聞き慣れぬ家人にとっては「たまたま高齢の老人が一種異様な節廻しで新聞を音読する光景に接した」気分なのでしょう。

たしかに現代世界は音読文化ならぬ黙読文化であり、そこに黙々と読む「近代読者」が成立するわけですが、宇治家参去に似て?本が大好きな五歳の息子殿は、本に限らず、目につく活字はすべて「音読」しております。

「あ・さ・ひ・すうぱあどらい、ひゃく・はち・じゅう・えん」

ただ、宇治家参去が寝ているときに、その横でやられると始末に負えないものがあり、いやな寝返りをうってしまうのですが、まさに目につく活字はすべて「音読」して「読んで」「理解」しているようです。

で……。
本日、驚いた訳ですが、息子殿が、アニマルカイザーか何だかの絵本と向き合っているのですが、一向に「音読」する気配がなく……。
絵だけ追ってさやさやとそそくさにページをめくるわけでもなく、じっくり一ページ、一ページと向き合っているようで……。

不思議に思い細君に伺うと、

「声に出さずに読むことができるようになったみたい。最近ときどき、音読せずに読んでいるみたいよ」

……とのことだそうです。

もちろん、音読/黙読の比率は圧倒的に音読が大多数を占めるのは承知ですが、「ああ、これで息子殿も『近代読者』になってしまった!」かと思うと一抹の寂しさがよぎる宇治家参去です。

さて、音読から黙読へという転換に関しては先行研究は種々存在します。
活版印刷というテクノロジーは必要不可欠なのですが、それだけではないようです。
東洋文化圏よりもいちはやくその変化を蒙ったヨーロッパにおいてさえ、グーテンベルグの技術革新から、現代の読書の方式が一般化するまでにはおよそ300年近くの歳月を要します。

筆写された書物から活字の書物へと流通が変化したにもかかわらず、長い間、書物は独りで読まれるときであっても、声をあげて朗読されたものだそうです。

その意味では、技術革新だけでは転換は発生しなかったのでしょう。
技術革新とともにエートスとか時代を規定するエピステーメーといったものの変容が実は大きく影響していることは疑いようもありません。

ではそれが何かといった場合、議論は別れるわけですけれども、例えば、ヨーロッパ世界においては、デカルト(René Descartes,1596-1650)によって個の立場の哲学的立脚点が整備もひとつの契機なのでしょう。

そして、それと同時に、信仰を極限的な<個>へと還元するプロテスタンティズムの発想が定着してきますが、その両者が腕組みをして時代を規定する発想を変革したことは疑いようのない事実なのかと思います。

とくに後者は、内面世界への沈潜--すなわち他人の存在という喧噪から離れ“かけがえのない”わたしを内省する--を促す個人への集中ととらえることも可能ですから、そうした宗教改革やピューリタニズムの伝統も、エートスの転換を促す大きな後押しになったのでしょう。

息子殿の文化変容は、「音読」から「黙読」へのコペルニクス的転回というわけですが、そこでふと思いついたのが、エクリチュール(écriture)とパロール(parole)の問題です。

息子殿がやっているのは、エクリチュールをパロールしているわけですので、それを同一視することはできませんが、

すこし補足しますが、言葉には、「書き言葉」と「話し言葉」が存在します。前者が、「エクリチュール(écriture)」であり、後者が「パロール(parole)」です。

ですから息子殿がやっている音読とは完全なパロールではありませんが、何かそうした概念が頭をよぎりますものですから、細君に、

「いよいよ、息子殿も『近代読者』に成長し、音声優位主義から脱却したのでしょうか?」

……などとふると、

「だから、哲学とかワケノワカラン学問をやっている連中は、小難しい“解説”に奔走するからウザイ」

……とクローズされる始末です。

「授業でも、そうした専門用語で学生さんたちを翻弄しているのでしょう?」

……などと追い打ちをかけてきますので、

「いやいや、授業では、インテリやくざな雰囲気で、地の言葉で、オープンに話しておりますよ!」

……って返しましたが信用してくれず。

で……戻りましょう。
言葉には「書き言葉(エクリチュール)」と「話し言葉(パロール)」という区別が存在しますが、伝統的な西洋哲学では言語を考察の対象とする場合、実は「書き言葉」よりも、「話し言葉」としての言語に特権的な座席が与えられておりました。

通俗的な対比ですが、絶対的な境位を象徴する言葉「言語道断」にみられるように、東洋的な文化においては「言語」を「超えた」(メタ・言語?)ところに真理とか真実を求める傾向が強いですが、それにくらべると、西洋的な文化においては、徹底的に「言語」にこだわる傾向が顕著です。それはまさにヨハネ伝の冒頭に記された「初めに言(ことば)があった」(新共同訳)の示すとおりです。

しかしその言葉そのものを丁寧に点検していくと、まさに「書き言葉」なのか「話し言葉」なのかという問題が生じてきますが、しかしそれではどうして伝統的な西洋哲学は、文章化された「書き言葉」よりも「話し言葉」が重視されてきたのでしょうか。

単純にその根拠を尋ねるならばそれは「話し言葉」のほうが「書き言葉」よりも、語を発する主体の意識内容(思考・意志・感情・欲求)をなまなましく「ありのまま」に表現できると考えられてきたからでしょう。

「話し言葉」と違って「書き言葉」とは、まさに「話す」「主体」が表象するコンテンツを代理的に再現する「記号」として機能しますから、結局の所、「話す」「主体」が表現したいそれを、いわば間接的にしか再現できません。

「話す」「主体」が言葉を用いて話したい、表現したいと思う対象をその「根源」とするならば、「書き言葉」は「根源」たる「話し言葉」よりも「根源」から遠いわけですから、「話し言葉」の方が特権的ということでしょう。

話し言葉によって指示されたものと、指示される対象の同一性の優位こそ特権的というわけです。

同一性とは、同一性から乖離していく対象に対して時として「暴力」的にならざるを得ません。この同一性批判が現代哲学の中心的課題となってくるわけで、その文脈で、例えば西洋形而上学の暴力性を鮮烈に暴露するジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の音声優位主義批判なんかがでてくるわけです。
※それをひっくりかえして、では「書き言葉」が優先されるべきか--といわれると、それこそがまた二項対立ですから、いうまでもなくデリダは許容しませんけれども。

その意味では、根源(なるもの)との同一性の探究が西洋形而上学の伝統であり、歴史であるといっても過言ではありません。

……このへんまで、補足をしたところで、細君は御就寝あそばされたようにて、人文科学の無力にさい悩まされる宇治家参去です。

さて、息子殿が「近代読者」へ変貌した理由は何でしょうか。
今度息子殿に伺ってみようかと思いますが、自分自身の行為に関して詮索されることを極度にいやがる質ですので、教えてくれるでしょうか。

しかし、エクリチュールをパロールすることによって、人間は「自分の聞いている声を自分自身で確認したい」という欲求を持つとよく言われますが、それからひとつステップアップしたということは、淋しい話ですが、息子殿も大人の階段を上っているというなのでしょうか……ねえ。

ただ最後の蛇足……というか自分自身に対する研究覚え書。

日本の場合、明治期に「音読」から「黙読」へと大きな文化変容を蒙ります。その渦中で、二葉亭四迷(1864-1909)に代表されるような「言文一致」運動が勃興しますが、この「言文一致」運動とは、「書き言葉」として本朝の場合、伝統的に「文語文」が尊重されてきたわけですが、明治期の文芸運動のなかで、文語文にかわって日常語を用いて口語体に近い文章を書くことの主張が登場し、その実践が「言文一致」運動というわけです。もちろん、「話した(パロール)通りに文章として書く(エクリチュール)」わけではありませんが、そのあたりの接点も丁寧に探究すると面白そうですね。

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「他者に対する配慮が自己への配慮に勝る」からこそ人間か……

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 --倫理とは何なのでしょうか。

 倫理とは「聖潔」を識別することです。説明しましょう。存在というものの根本的な特徴は、個々の存在者のすべてが自分の存在そのものに専念するということです。植物、動物、すべての生き物は自分の実存にしがみついています。それぞれの生き物にとって、それが生存闘争なのです。そして物質とはその本質的な苛酷さのゆえに閉鎖であり衝撃ではないでしょうか。ところが、人間的なもののなかでは、存在論的には不条理な事態が出現する可能性があるのです。つまり、他者に対する配慮が自己への配慮に勝るのです。これこそ、私が「聖潔」と呼ぶものです。他なるもののこの優位を識別できるという点に、私たちの人間性は存しています。私たちの対話で最初に言われたこと、なぜ私があれほど言葉に関心を寄せているかということを、今はあなたも理解できるでしょう。言葉はつねに他者に向けられています。まるで、他者のことをすでに心配しているのでなければ思考することなどできはしない、とでもいうかのようです。すでに最初から、私の思考は語ることのうちにあるのです。思考のもっとも深いところで、「他者のために」が、言い換えれば、善性が、科学よりもより精神的な他者への愛が結節するのです。

 --そのような他者への関心は教えられるものなのでしょうか。

 私の考えでは、他者の「顔」を前にして、それは目覚めるのです。
--エマニュエル・レヴィナス(合田正人・谷口博史訳)「不眠の効用について(ベルトラン・レヴィヨンとの対話)」、『歴史の不測 付論:自由と命令/超越と高さ』法政大学出版局、1997年。

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市井の仕事へ行くまで、一日中レポートを見ていたおかけで、残り14/57通。月曜には返却しないと間に合わないので、思想的格闘戦をやっておりましたが、ようやくその目処がついたと、安心した宇治家参去です。つぎの〆切分もおくられてきているので、はやめに添削しないといけないのですが、ナイーヴな?私の場合、一日十通が限界のようでして、なかなか進みません。

ときおり気分転換!と称して読書を挟みつつ、1通1通見させていただいておりますが、皆様方の薫陶には、本当に最敬礼するばかりです。

が……ベテランの石神先生もやはり「1日10通以上添削するとチト辛いですね」とこぼしておりましたので、同水準は維持しているのだろう……ということにしておきましょう。

さて……。
市井の職場へ出勤すると、マアこれがまたアリエナイ苛酷な状況で、「人間とは何か」をつくづく、実践の教科書として、瞬間瞬間に考えさせてくれるわけですが、接客業とは、まさに「むき出しの人間性」をまざまざと見せつけてくれるものだよな……そう思わざるを得ません。

詳細は措きますが、レジを打っていても胸ぐらを掴まれそうになったり、クレームだかゴネ得だかその境界が結合したような電話もかかってきたり……と、実に「スリリング」な毎日です。

本日は、夜になって雨が降り始めましたので、お客様の出入りもすこし引きましたので、ゆっくりと休憩できるな……などと思っていたところ、

事務所から電話が1本!
「宇治家参去さん、クレームの電話のようなんですが、内容はおっしゃらず……※通常は概略を伺い担当者へ転送なんですが……ただ、“クレームなんです”とのことで、対応していただけませんか?」

この手の概略がまったく不明な電話が一番、恐ろしいのですが……。

借りてきた猫100匹分の生命力を1匹の猫に凝縮させたが如くの、すんばらしく丁寧かつ朗らか?な応対にて対応交替しますと……、

要は、先ほど来店した際のレジ担当者の応対に頭に来たので電話をしてきたとのご様子。

商品をスキャンするスピードが遅いのと接客言葉のトーンが「あれはないだろう!」ということで……、

「このまま、そうした現状を放置しておくと、店の看板に傷がつくだろう。老婆心ながらとはいわないけれども、あなた方のためと思って……」

……とのことだそうで、びくびくもんの破裂しそうな心臓も収まった次第でございます。

……ただ、入電の際、すこし内容に関して声をかけてもらいたかったものでございます。
電話を終える直前には、穏和な?ムードで終話で、よこで様子を伺っていた店長も安堵したご様子で終了です。

ふり返ってみれば、「(コンテンツ不明の)クレームだ!」というひとつの言葉にあわてふためいた……しかしその様子は他者にはわからないように振る舞っておりましたが……自分自身に恥じ入ると同時に、物質的な実態はもたない言葉のもつ摩訶不思議なる拘束力に今更ながら、魅惑された宇治家参去です。

たしかに、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)のいう通りで「言葉はつねに他者に向けられています。まるで、他者のことをすでに心配しているのでなければ思考することなどできはしない、とでもいうかのようです。すでに最初から、私の思考は語ることのうちにあるのです。思考のもっとも深いところで、「他者のために」が、言い換えれば、善性が、科学よりもより精神的な他者への愛が結節する」言葉が歴然と存在するのでしょう。

恒河沙、那由他の勢いで「言葉」が流通している現在ですけれども、善きにせよ悪しきにせよそこには「言葉」を発している存在者が必ず存在するわけで、その原初の意味を確認させていただいたように思えます。

言葉を発する人がいるからこそ、その言葉を耳にする人も同時に存在します。

そして時によっては、その「言葉」とか、その言葉を発する「人間」を、不思議なことに我知らずと、自分自身よりも優先してしまう局面が存在します。

そこに倫理の原初が存在するのだろうと思うわけですが……。
だからこそ、心がちぎれそうになる弱肉強食の「生存闘争」の血飛沫がとびちるこの世の中ですけれども、自分自身が向かい合い、出会うひとつひとつの局面と丁寧に向かいあっていきたいものでございます。

本論からずれるかもしれませんが、最近またひとつ実感することをひとつ。
現実には「人間とは何か」という問題に関して「人間とは○○だ」と定義してしまうと、必然的にそのカテゴリーに当てはまらない人間なるものを「非人間」と断じてしまう不可避の陥穽が存在します。

その意味で「人間とは何か」という議論において、概念の固定化に関しては緊張感をもってそれを避けていかなければならないなということが必要不可欠です。

固定化とはいいませんが、そして同時に、その探究は不断に探究されつづけなければなりません。そんなもん考える必要はないよ、ケ・セラ・セラさというのは、固定化の裏返しにほかなりません。その両極端を避けつつ、あきらめず対峙し続けることが肝要なのでしょう。

しかしながら、それと同時に、人間を人間としてその内実たらしめる、範型としての「人間的」と称されるコンテンツも不断に吟味・探究され続けなければならないのだろうと思います。

動物との対比で恐縮ですが、人間は動物の一員であるにもかかわらず、動物ではありません。だからこそ古来より人間を人間として称する言葉として「人間的」なる言葉が造られてきたのだろうと思います。しかしその人間の人間らしさを表象する「人間的」なる概念も固定化されたドグマとして陥ることを不断に避け続けなければならず、まさに倫理学的探究とは、「これがファイナル・アンサーだ!」という完全模範解答がないゆえに、苦悶するわけですけれども、マア、この苦悶が、人間を人間にさせるわけで、まさに、その苦悶が心地よいというところでしょうか……。

チト疲れましたが、カント(1724-1804)を少し読んで寝ます。
最後の「白い憎いヤツ」がまだ少し在りましたので……。

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ご自分の小心さをけっして恐れてはなりませんよ。

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 「だいぶ以前のことですが、それとよく似たことをある医者がわたしに話してくれましてね」と長老が口をはさんだ。「すでに年もいっていて、文句なしに頭のよい人でした。その方が、あなたと同じように率直に話してくださったのです。冗談まじりに、といっても、けっして笑える話ではありませんでしたがね。その人が申すには、わたしは人類愛に燃えているが、自分に呆れることがある。というのも人類一般を好きになればなるほど、個々の人間を、ということはつまり一人一人を個々の人間として愛せなくなるからだ、と。自分は夢のなかで、人類への献身という狂おしい考えにたどりつき、何かの機会に不意に必要が生じれば、じっさいに人々のために十字架にかけられてもいいとまで思うと申すのです。そのくせ、同じ部屋でだれかとともに過ごすことは、たとえ二日でも耐えられない、それは経験でわかる。だれかが自分の近いところにいると、それだけでもその人の個性に自尊心をつうされ、自由を圧迫されてしまう。どんなによい人でも、自分は一昼夜のうちに相手を憎みだしてしまうかもしれない。ある人は食事がのろいから、またある人は鼻かぜをひき、しょっちゅう鼻をかんでばかりいるからといって。
 また、こう申すのですよ。人がわたしに少しでも触れるがはやいか、自分はその人の敵になってしまう。でもそのかわり、個々の人間に対する憎しみが深くなるにつれ、総じて人類に対する愛はいよいよはげしく燃えさかるとね」
 「でも、いったいどうしたらよいのでしょう? そういう場合、どうすればよいのでしょう? だとしたらもう、絶望するほかないでしょうか?」
 「いいえ、そんなことはありません。あなたがそれを嘆いているということだけで十分なのです。できることをなさればよいのです。そうすれば、それだけの報いはあるのです。あなたはもうたくさんのことをなさっている。なにしろ、それぐらい深く真剣に自分のことを知ることができたのですからね! あなたがさっき、あれほど心をこめてわたしに話したことが、もしも自分の誠実さをわたしに褒めてもらうためだけのものだとしたら、実践的な愛という行いの点で、むろん達成できないでしょう。結局のところ、何もかもたんなるあなたの夢で終わり、人生はまぼろしのように過ぎ去ってしまいます。そのうち、来世での生活のことも忘れ、しまいにはなんとなく自分に安住しておしまいになることが目に見えています」
 「返すことばもありません! いま、この瞬間になってわたしはやっと悟りました。感謝されないことに堪えられないとさっき申し上げたとき、わたしはじっさい、あなたがおっしゃったとおり、自分の誠実さを褒めていただくことばかり期待していました。あなたはわたしに、自分がなんであるのか教えてくださいました。わたしをとらえ、わたしにわたしの正体を説明してくださったのです!」
 「本心でそうおっしゃっているのですね? あなたがそれだけ告白なさったのですから、わたしも信じることができます。あなたが真摯な方で、善良な心の持ち主であるということです。たとえ幸せにたどりつけなくても、自分の道はまちがっていないということを、忘れずにいるのですよ。そして、その道からはずれないように努力するのです。大切なのは嘘を避けることです。どんな嘘も、とくに自分自身に対する嘘は。自分が嘘をついていないか観察し、一時間ごと、いや一分ごとに、自分の嘘を見つめるのです。そして相手が他人であれ自分であれ、人を毛嫌いするということは避けなさい。自分のなかで忌まわしいと思えるものは、それに気づくだけでも浄化されるのですから。恐れるということも避けなさい。もっとも、恐怖というのはありとあらゆる嘘の結果にすぎませんがね。
 実践的な愛を成就しようというときに、ご自分の小心さをけっして恐れてはなりませんよ。そのとき、あなたがよくない行いをしても、さして怯えるに足りないことです。あなたに何ひとつ慰めとなる言葉をかけられないのが残念ですが、実践的な愛というのは空想的な愛とくらべて、なにぶんにじつに残酷で恐ろしいものだからですよ。空想的な愛は、すぐに満たされる手軽な成功を求めて、みんなに見てもらいたいと願うものです。そうなると、成功に手間ひまかけないで、舞台みたいに少しでも早くなしとげてみなの注目を浴び、褒められたい一心から、自分の命まで投げ出してしまうことになりかねません。
 それに対して実践的な愛というのは、仕事であり忍耐であって、ある人に言わせれば、これはもう立派な学問といえるものかもしれない。しかし、あらかじめ申しておきますよ。どんな努力にもかかわらず、たんに目標に近づけないばかりか、むしろ目標が自分から遠のいてしまったような気がして、ぞっとする思いで自分を省みるような瞬間さえ、--いや、まさにその瞬間に、もういちど申し上げますよ、あなたはふいに目標に到達し、つねにあなたを愛し、ひそかにあなたを導いてきた神の奇跡的な力を、自分の身にはっきり見てとることができるのです。お許しください、向こうで人が待っておりますもので、これ以上あなたとご一緒できません。ではまた」
 夫人は泣いていた。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟 1』光文社、2006年。

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少しふり返ります。

札幌から深夜に帰宅しそのまま始発で羽田に向かい、ひさしぶりのANAにて朝一番のフライトで葬儀場へ直行してまいりました。
ANAを利用するのは本当に久し振りでしたので見るモノ新しく、ラウンジでホットコーヒーをいただき、フライトまでの時間を待っておりましたが、どうも小腹がへるので(クロワッサンは頂きましたが)、モーニングセットのあるカフェをさがしに、3Fまでおりると、「カフェ&スモーキングラウンジ」という“まんま”のなまえの愛煙家?にやさしいカフェを発見し、そこで少々頂き、7:40の飛行機で出発です。

ANAで羽田を利用される方にはお薦めです。

高松空港へ到着後、タクシーをすっとばして……8000円かかりました(涙)……葬儀場へ向かい、告別式の1時間前に無事到着です。

実弟がすべてをコーディネイトしてくれ、無事告別式を終えました。

ま、いつもながらありがとうございます。
そして、いつもながら「おめぇ、ホント、大事なとき、役に立たねえな」とのありがたいお言葉を頂戴しつつ、参列です。

実際には実弟が寝る間もなく準備してくれたわけですが、日本の精神風土は残酷です。
宇治家参去が長兄であるため、順列が異なりまして……申し訳ないと思うわけですが、無事開始というわけで……。

読経、焼香……。

「生も歓喜、死も歓喜」とはよくできた言葉です。
法華経の死生観を象徴した言葉であり、その文字っ面だけは理解しておりますたが、今回、その深義の側面のひとつを垣間見たような気がします。

悲しくもなく、
寂しくもなく、
かといってその逆でもなく、
表層的な喜怒哀楽より深い次元の感情の根のような感情の一日でした。

誤解を招くような表現で恐縮ですが、とくに寿量品を読誦しているおり、自分までも霊山会に参列したような不思議な感覚にとらわれたものです。

「衆生所遊楽」

……そのフレーズが頭から離れず、なんとなくリアルに実感できたようで。

で……。

骨揚げを終え、夕刻より初七日の法要を執り行い、実家で一泊後、東京へとんぼ返りで、そのまんま市井の仕事へレッツラ・ゴー!

それを淡々とこなす宇治家参去はまだ若いな!と実感です。

さて……、
それは本論ではなく……。

ヘロヘロになって市井の仕事から帰宅すると、ちょうど札幌で授業を受けて下さった茨城の学生さんからメールが届いておりました。

「先生がオープンに話してくれたため、わたしも元気をもらうことが出来ました。
自分の道をまっすぐに進みたいと思います」

なんと、ありがたいことでしょうか!
「元気をもらった」のはその実、こちらのほうではないかと思います。

さて、ちょうどスクーリング最中に上述の難事がふりかかるなかで、今回は、以前にもまして、ひとつ「人間観」を深めることができたのではないだろうかと思う宇治家参去です。

私見というよりも、生きている実感として……という表現の方が相応しいかも知れませんが、人間本性論に関しては、孟子(B.C.372?-B.C.289)は「性善説」を説き、荀子(B.C.313-B.C.238)は「性悪説」を説いたわけで、その発想は洋の東西を問わず、あちらこちらに散見できる人間観なのですけれども、実情としてはそれは極端なものの見方ではないだろうか……そう実感する宇治家参去です。

前者も後者もタブラ・ラーサ(tabula rasa)といういうわけで、人間は生まれたまま何も書かれていないような板……後者の場合、その板自体、悪なる本性だと捉えて宜しいのでしょうが……であるとする発想ですが、そんなに簡単なものでもないのだろうという実感です。

そうした共時的・通事的な善悪内在論を見事な形で体系として浮かび上がらせたのが、智者大師・智顗(538-597)の一念三千論になるわけですが、一念三千論に限られるわけでもなく、こうした発想も洋の東西を問わず、ひろく散見できるものの見方です。

そして宇治家参去としては、善悪の内在に関しては恐らく、共時的・通事的な両者の内在がその実情であろう……などと思うわけですけれども、そのことは字面では理解しておりますし、倫理学なんかを講じるなかでも、そのことを、「ひとつの人間観、ものの見方ですが」と断りを入れた上で、紹介しております。

性善説の立場を取ろうが、性悪説の立場を取ろうが、その両者に共通している問題は、「人間とは何か」という問いに対して、ある意味では固定化した定義しか提示できないという陥穽が内包されているのだろうと思います。

しかし、現実の人間は、固定化した定義化からすり抜けていく、定義不可能な対象です。

そうした定義から漏れていく・溢れ出してしまう、「人間とは何か」という一様な定義を拒む人間をみてみると、その全体性をうまく察しているのが、こうした全体論(ホーリズム)なのだろうと思うわけですが、繰り返しになりますが、そのこと自体は、文字面・言葉としては理解していてハズなのです。

そうした両者の葛藤・対立を、文字っ面だけで理解してはいたのですが、それを自分自身の体験として理解する・そのことを観察してしまうと、まさに世の中とか人間という世界は、あれか・これかに単純化することはやっぱり不可能なんだなと思うところです。

誤解を招くような表現で、宇治家参去自身の人格を疑われるかも知れませんが、一応記録として残しておきます。

どこかで書いたかも知れませんが、葬儀に対して哀悼の意が出てくると同時に、そこへ向かうためには往復の交通費も必要になりますし、仕事も休まなければならない……そうした雑念が同時に出てくるものです。

それがたとえ肉親であったとしてもそうなのが不思議なものです。

また葬儀に参列するなかでも、哀悼すると同時に、さまざまな対極にある雑念が出てくるわけで……、きちんと正座できているかとかetc。

こうした相反する人間の感情をリアルに内観すると、やはり、人間とは矛盾に満ちたその当体であり、簡単にあれか・これかとは「断言」「断定」することは不可能なのでしょう。

人間論の文脈ではありませんが、ポストコロニアル批評のスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)のいうダブルバインド(矛盾した心理的拘束による葛藤)もこうした人間世界の実情を表現した言葉であり、理論や概念化によってダブルバインドそのものを回避することは可能であったとしても、そうした単純化・抽象化の方向性では、現実の構造に組み込まれ得ないのでしょう。

やはり人間とは複雑な矛盾に満ちた存在であることを、まず「自覚」することから始めるしかないのだろうと思います。

宇治家参去の場合、どうしても、人間の光の側面よりも、影の側面に注視してしまうわけで、現実の善悪の問題に関して力強い革命家的言説を吐くことができません。

その意味では積極的な公正主義からほど遠いわけですが、だからといって「肯定」しているわけでもありません。

ここでいう「自覚」とは「肯定」ではありません。
「自覚」とはすなわちソクラテス(Sōkratēs,B.C.469?-B.C.399)の言う意味での「汝自身を知れ」ということに他ならないかと思います。

矛盾に満ちた当体であることを理解して初めて、そこからどのように「歩む」のか。
そうした現実的な議論がたちあがるためにはやはり「自覚」が必要なのでしょう。

そして、こうした雑念は歴劫修行によって灰身滅智することは不可能です。
だからこそ、一念を自覚しながら、ときには喜び、怒り、哀しみ、楽しみながら、現実の我が道をもくもくと歩み抜くしかないのだろうと思います。

光も闇も自分自身を離れては存在しませんし、光があれば闇がある。そして闇があれば光がある。光だけの存在など存在しないし、闇だけの存在も存在しないのでしょう。

雑念との対峙から、なにか自分自身の人間理解がひとつふかまったようには思います。

だからこそ努力は無駄ではありません。
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)は畢生の大著『ファウスト』のなかで「努力する限り迷うもの」と意味深な言葉を残しております。
迷いがないということは努力していないことでしょうし、迷いがあるということはなにかをなそうと努力していることなのでしょう。そしてこの問題に関しても、迷いがまったくない状態とか、迷いしかない状態というのも現実には存在しないのだろうと思います。

だからこそ「どんな努力にもかかわらず、たんに目標に近づけないばかりか、むしろ目標が自分から遠のいてしまったような気がして、ぞっとする思いで自分を省みるような瞬間さえ、--いや、まさにその瞬間に、もういちど申し上げますよ、あなたはふいに目標に到達し、つねにあなたを愛し、ひそかにあなたを導いてきた神の奇跡的な力を、自分の身にはっきり見てとることができる」のでしょう。

これは神信仰に限られた狭くるし教派主義にとらわれた人間理解の言説ではありません。
「自分のなかで忌まわしいと思えるものは、それに気づくだけでも浄化されるのです」から、そのことを実感しつつ、人間を対象化しようとするあらゆる試みと対決していきたいと決意するある日の宇治家参去です。

……と書いていると、フト、小津安二郎(1903-1963)の『東京物語』(1953)か『麦秋』(1951)が見たくなりました。

両者とも、家族における完成と崩壊の悲喜劇をうつくし歌い上げた名作なのですが、前者では、終盤、実母の葬儀に集まった子供たちが、葬儀が済むや否や、めいめい勝手なことを言い始め、実母と一緒に暮らしていた末の娘(香川京子だったかな)が義憤するシーンが描かれておりますが、どちらが正しいなどとは言い切ることはできません。

ただ、そうした人間を遍く照らす夏の太陽が、まぶしいです。

カミュ(Albert Camus,1913-1960)の描く北アフリカの太陽にどこか似た白い陽光です。

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幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。

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 私は前の段落で、私のいわゆる物に対する友好的な興味についても触れた。こういう言い方は、あるいはこじつけと思われるかも知れない。物に友情を感じることなどできっこない、と言われるかもしれない。にもかかわらず、地質学者が岩石に対し、考古学者が廃墟に対していだく興味には、どこか友情に似通うものがあるのであって、こういう今日意味こそ、私たちの個人や社会に対する態度の一要素でなければならない。物に対して友好的というよりも、むしろ、敵対的な興味を持つこともないわけではない。ある人は、クモが大きらいで、クモのあまりいないところで住みたいばかりに、クモの棲息地に関する事実を集めるかもしれない。この種の興味は、地質学者が岩石から得るのと同じような満足を与えてくれはしないだろう。人間以外の、物に対する興味は、日常的な幸福の要素としては、あるいは仲間の人間に対する友好的な態度ほど価値あるものではないかもしれないが、やはり、きわめて重要である。世界は果てしなく広く、私たち自身の力は微々たるものである。もしも、私たちの幸福のすべてがまったく個人的な環境と結びついているのであれば、どうしても、人生に与えられる以上のものを人生に求めるようになる。そして、あまりに多くを求めることは、得られるものも得られなくなるいちばん確かな方法である。たとえば、トレント公会議や、星の生活史などに本物の興味を持つことで、おのれの心配ごとを忘れられる人は、非人間的な世界への旅から帰ってきたとき、ある種の落着きと平静さが身についていることに気づくだろう。その落着きと平静さによって、彼は、自分の心配ごとを最善の方法で処理することができるし、その間、たとい束のまにせよ、本物の幸福を味わったことになるだろう。
 幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好なものにせよ。
    --ラッセル(安藤貞雄訳)「幸福はそれでも可能か」、『ラッセル幸福論』岩波文庫、1991年。

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終わった!
ようやく怒濤の市井の職場6連勤が無事終了です。

今日はがっつり飲んで、明日は一日中寝て、起きてからまた一杯やろう……ということは夢物語かも知れません。

暦通りの休み中、こちらは仕事であったわけですが、ワタクシが不在のため、家族でどこへ出かけることもなかったら……息子殿には不幸だろう!ということをくどくどと細君より、連日のごとく言われてきた=刷り込まれてきたため、GW最終日の本日、チト朝から出かけてきます。

朝から出かけるということは、当然、深酒ができないといことで、仮に深酒をしてしまうと、睡眠時間がすくないので、極めて体調不良になってしまいますので、今日はかるくひっかけて寝ることにしようかと悩んでおります。

なぜなら、ラッセル卿(Bertrand Arthur William Russell,OM,FRS,1872-1970)がおっしゃるとおり、「いわゆる物に対する友好的な興味」というのは大切なモーメントであります。

いくら辛い現実でありましても、様々なアンティークなアイテムや飛行機の模型をコレクトすることで日夜楽しませていただいているとおりで、そうしたそうした物収集だけでなく、様々な書物と向かい合うことも幸福の一つであり、付け加えて言うならば、大人用の飲用アルコールの類とも「友好的な興味」の、「オレお前」@江田島という間柄を構築しておりますので、まさに「人間以外の、物に対する興味は、日常的な幸福の要素としては、あるいは仲間の人間に対する友好的な態度ほど価値あるものではないかもしれないが、やはり、きわめて重要」なのだと思います。

ただ、今日はいつもより、黄金色の麦からできた大人用の炭酸飲料とか、厳選された米から抽出された、透き通るような大人向けのミネラル・ウォーターの摂取量をひかえないといけない……というのは、やはり忸怩たるものですが、なんとか我慢しようかと思います。

今回は、また例によって水族館探索になりました。
思えば、昨年のGWも新・江ノ島水族館にいっており、今回は別のところですが、わが家?のGWは何故か水族館になることが恒例時となりつつあるようです。

ただ、一応、明日は昼も夜もないにもないので、今から我慢する分、「昼ビール」させていただこうかと思います。

しかし、ラッセルもうまいことをいうものです。

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 幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好なものにせよ。

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たしかに子供は何にでも興味をもつようで、そこから更に興味が出たものを大人以上に徹底的に追求する傾向が顕著なようなに思われます。もちろんそれは、「何」という問いの連呼や「なぜ」という問いの連呼によって、大人の側は辟易としてしまうわけですが、その意味では、大人は無意識のうちに、世界を問い・関わろうとする姿勢を自省しているのではないだろうかと思うことがしばしばあります。

しかし、そうした場合、自分自身から「世界を狭くしている」わけであって、結局は世界に置かれた箱庭の中だけで、世界全体を論じ、ぶつぶつ文句をいってしまうルサンチマンに陥りがちな事例を多分に散見しますので、ま、今回もひとつ、自分自身も水族館譚法において、「興味をできるかぎり幅広く」もち、「できるかぎり有効なもの」にしていこうかと思います。

……だとすれば、昼ビールの量も減らした方がいいのかしら?

そうすると、何か禁酒スパイラルに陥っていくような感じもしなくはないのですが……。

しかし、何故なのだろうか……「缶ビール」よりも「瓶ビール」の方が旨いのは?
そして、何故なのだろうか……「寝前ビール」よりも「昼ビール」の方が旨いのは?

すこし探究心がふくらんできました。ここに一つの幸福があるのでしょう。

こうしたところから探究が始まるわけですが、あまりここで探究してしまうと数時間後がキツイので、今日はすこしだけの探究にしておこうと思います。

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ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している

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 過去と現在とを見回して、われわれと同じキリスト教の伝統には属さない諸民族の文化と伝統を知るようになればなるほど、そこに見てとれるのはますます、たとえ繰り返し異なった厳護で語られるとしても、しかし、常に人間的で拾得可能な厳護において語られる語らいなのである。フェルディナント・エブナーが述べたように、人間は言葉を「もつ」、そしてまさにそのことこそが人間を他のあらゆる自然的存在から際立たせるものなのである。人間が言語を「もつ」ということは、哲学というギリシア人に最も固有な創造物--そこから「学問」が始まったのだが--において、そして最初はアリストテレスの『政治学』において見出される命題なのである。そこでは<人間はロゴスをもつ生物である>、と言われている。われわれはここで一挙に事柄の中心に置かれることになる。すなわち、文化の根源語、つまり言葉のまったき近みに置かれるのである。
 たしかに、ロゴスとは単語を意味するものではなく、話、言語、弁明、そして結局のところ話のなかで話されるもののすべて、思惟、理性を意味している。それゆえ、人間を<<理性的動物(animal rationale)>>、理性をもつ存在であるとする定義は、数百年を経過して存続し、ずっと後の理性を誇る態度を確証するものなのである。しかし、ロゴスとは「理性」のことではなく、むしろ「話」、すなわち人々がお互いに向けて語り合っている他ならぬその言葉なのである。その言葉は、語句の断片のように断片化されて分類可能となり、そしていわゆる辞書を形成するような個々の単語の堆積のことではない。むしろすでにロゴスとは語句を意味への統一(アインハイト)へ、語の意味の統一へと組み上げることなのである。われわれはそのことを文の統一性[単位]と呼んでいる。しかし、それはまた言語の断片化でもある。たとえそれがまったく技巧的な単位(アインハイト)[統一性]ではないとしても、しかし、結局のところ恣意的な単位だからである。語られるべき言葉は、いったいいつ完全に語られるのか。どこで意味は終わるのか。文という単位においてであるのか。いやむしろすでに、沈黙のうちで終わる話という統一においてである。しかし、言われたことの意味はそれ自身が沈黙において初めて立ち現れてくるのであって、言われていることの静止のなかで初めて広がり始めるのではないか。結局のところ、言語は応答のうちで初めて現存するのではないのか。言葉は、ある人に向け語られ、人がそれに応答しなければならないときに初めて、言葉なのではないか。あるいは、こうした言い方もまたなおひとつの抽象、すなわち[ヘーゲル流に]この言葉といわれるものなのか。結局、すべての言葉は応答なのか。われわれが敢えてある言葉を口にするとき、われわれは常に応答しているのではないのか、すなわち、われわれは他の人に、機会に、事柄に、<<原因(causa)>>に対応しようとしているのではないのか。「ロゴス」というギリシア語の表現はいずれにしてもそのような対応の領域を指示しており、上述の定義が『政治学』のなかに記載されているのは理由のないことではない。というのも『政治学』は人間の政治的根本構成と形態形式において彼の天才的な観察の対象としていたからである。
    --ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二訳)「文化と言葉」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年。

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そもそも学問は、言葉……言語といってもよいかもしれませんが……を大切にします。なぜなら、それが学問自身であるからです。

とくに“諸学の王”と称される哲学……って書きますとポスト・モダニズムの批評家からは手厳しい批判が出てくるのは承知ですが、歴史的経緯をふり返ると、アリストテレス(Aristotle,BC.384-322)の時代においてそうであったように、現状としてはたとえそうでない、否むしろその玉座から退場すべきだという評価は百も承知ですが、それはひとまず措きます……何の話をしていたんでしたっけ?

そうそう、言葉の問題から、哲学が“諸学の王”ということへすっとんでいったわけですが……という感じで授業もかなりすっとびます。

ですので、わたしの授業を受ける場合、そのすっとびに耐えうる集中力と引き出しの多彩さが必要かも知れません。

……ってまたすっとびました。

で言語と学問(諸学の王としての哲学)ですが、学問は一般的に言葉の運用に対して慎重になる(精緻を期す)ことにその特徴があるわけですが、そうした万学の王たる哲学は、その他の学問以上に言葉の問題を丁寧に扱わざるを得ません。

なにしろ、実験を行うこともできませんし、調査を行い報告をおこることもできません。そして、現状のデータから明日の動向を予測することもできません。しかし、言葉を丁寧に扱うことによって、対象と向かい合い、自己自身を吟味していく、そして、過去から学び、現在を認知し、明日を展望する……そこに哲学の首尾一貫性と、その営みの醍醐味があるところだろうと思います。

哲学とは何か。
私家版ですが、つぎのように「暫定的」に定義して運用しております。
※「暫定的」というのは宇治家参去の学知の伸展によりその後、発展的解消?が見込まれるということを想定しての「暫定的」という意味であります。書く必要もありませんが、「うぉゐ、これが決定版だ」などと啖呵を切れないチキン野郎に由来するのがその実ですが……。

すなわち……

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哲学とは、人間が世界について、自分について考えるということ。その際、哲学とは、人間が言語を通して徹底的かつ精確に、合理的に考えようとする試みである。その営みは、自分の考えを“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとするものではない。その反対に、自分の考えを他者の吟味に委ね、相互批判を通して、多くの人を納得せしめるような強い考え方(普遍的な考え方や原理)を作り出そうとするものでなければならない。    --宇治家参去『哲学入門』私家版、2009年。

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言葉と向かい合いながら徹底的に自己自身で考え抜き、問題を吟味していくのが哲学です。しかしその際、自分の思索を“普遍的真理”と思い込んで他者に押しつけようとする営みに終始してしまうと、そこに暴力性が発揮されるわけで、批判の焦点としての独我論に陥ってしまいます。たしかに哲学史をふり返ってみますと、そうした独我論先行という嫌いがなくもありませんので、そこをどのように乗り越えていくのか課題になるのでしょう。だからこそ車輪の両軸のもうひとつの和としての相互批判・自己吟味・他者吟味という労作業が必要になるのだろうと思います。

それこそが、古代ギリシアで始まった哲学という営みの原点に存在する「対話」という営みに内在するのでしょう。ソクラテス(Sokrates,BC.469?-399)は他者とのすりあわせをによってのみ、自己自身とは何か(「汝自身を知れ」)の探究は可能になる……それによって他者とは何かも同時に浮かび上がる……として、対話にあけくれたわけですが、まさにその歴史の原点が物語っているように、徹底的な自己自身による探究と、そのコンテンツの摺り合わせとしての対話という実践理性は、ひとつもののうらおもてなのが実情だろうと思います。

徹底的な内省は独我論に傾いてしまうし、対話のための対話には生産的な議論が全くありません。

しかし、言葉を扱う自己自身が謙虚に自己内省をしつつ、そこにおいて「対話」という契機で説明と了解という吟味の場を持つことできれば、それ以上に豊かで幸福なことはないのかもしれません。

ともすれば、そのどちらかに傾きなのがその実です。

「おれは考え抜いたんだゼ」とコンテンツだけを示されても辟易としますし、
「おれは相手を吟味しまくったゼ」とためにする批判だけを提示されても辟易としてしまいます。

言葉はひとをいかすこともできれば、ころすこともできます。
その両極端をさけながら、説明と了解を心がけることが大切なのでしょう。

まさに「ロゴス」を他者と使いこなしていくことが人間の課題なのだと思います。

アリストテレスは、『政治学』において「人間はロゴス的動物である」と人間を定義しましたが、その消息をふり返ってみると、そのロゴスとは、通常「理性」と約されますが、その「理性」とは、孤立した個人の内省的理性ではなく、他者と関わる中で共通了解を目指す人間の性質ととらえたほうがよいのかもしれません。

理性と聴くと、何か、徹底的な個人の内省、ないしはその逆の、自己から超脱した規範としての命題との印象が強いですが、決してそうではないのでしょう。

その意味では、まさに「ロゴスとは「理性」のことではなく、むしろ「話」、すなわち人々がお互いに向けて語り合っている他ならぬその言葉なのである。その言葉は、語句の断片のように断片化されて分類可能となり、そしていわゆる辞書を形成するような個々の単語の堆積のことではない。むしろすでにロゴスとは語句を意味への統一(アインハイト)へ、語の意味の統一へと組み上げること」なのでしょうね。

できあがった普遍的エトヴァスではなく、他者と説明と了解という対話の契機によって「紡ぎ上げていく」のがユニヴァーサルなものであり、それによって内省的理性が、普遍的理性へと階段をのぼっていくのでしょう。

そうとらえるならば、理性もなかなかすてたものではありません。

……ということを勤務している短大の「哲学入門」のなかで、実践的にやってみたいな~と目論んでいてこれまでその契機を欠いてやっていなかった取り組みがあったのですが、今回それを見事にやってみせることができました。

何も特別なことではございません。

特別なことに哲学は存在しませんし、哲学そのものが特別でもありませんから。

実はこのネタ、ここ数年あたためていたのですが、まさに契機をかいて提案できず、繰り越しになっていたのですが、今年度の講義ではうまく注ぎ込むことできた自分に乾杯です。

すなわち……それがまた飛躍だぜなんて突っ込むことあるまじ!と捨て置き……、

つまり、自分自身の実感として顧みることすらない「アタリマエ」の状況を、他者の面前で言葉を使って説明しなさい……というディスカッションという作業です。

今回のお題は「リンゴとは何か。他者が理解できるようにあなた自身の言葉で説明してみてください。リミット1分で」

……授業終了後、学生さんがたが感想を記入したリアクション・ペーパー(出席カード)を読んでみると、こちらが驚きましたが……いい刺激になったみたいです。

「リンゴとは何か」

求めているのは、wikiにあるような「リンゴ(林檎、苹果、学名:Malus pumila)は、バラ科リンゴ属の落葉高木樹。また、その果実のこと。植物学ではセイヨウリンゴと呼ぶ。原産地はカザフスタン南部、キルギスタン、タジキスタン、中国の新疆ウイグル自治区など中央アジアの山岳地帯、カフカスから西アジアにかけての寒冷地だといわれている。現在、日本で栽培されているものは、明治時代以降に導入されたもの。病害抵抗性、食味、収量などの点から品種改良が加えられ、現在7500以上の品種が栽培されている。亜寒帯、亜熱帯及び温帯で栽培可能だが、暑さに弱いため熱帯での栽培は難しい。」ではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4

あなたのリンゴ像を他者に精確に、自分のことばで説明し、了解を得ることができるのかが焦点です。

皆、どぎもをぬかれたようで、

難しかった!……ひとこといって終了です。
難しかった!……けど、自分の思いを伝えるのではなく理解してもらえる訓練になりました!
マジで、面白かった!

……様々なしげきになったようです。

「リンゴとは何か」

別にリンゴでなくても結構です。
自分が顧みることもなかった対象を自分の言葉で説明し了解を得る練習をしてみると面白いものですヨ!

「じゃあ先生は、どう答えるのですか」

……って野暮な質問がなかったのが幸いです。

で……言葉の運用!

4月初頭より、毎週大学で講義する月曜日の宇治家参去の餌は、武蔵野うどんと相場が決まっていたのですが、ほぼほぼメニューを制覇したことにより、今週より「蕎麦」編へ移行するぞ!とアナウンスしたにもかかわらず、また「うどん」でした。

単なる天ぷら蕎麦系では面白くないだろう!

……ということで、券売機にて「肉ねぎ蕎麦」のボタンを押し、オーダーしたわけですが、出されたのが「武蔵野うどん にくねぎうどん」のようで……。

「オイラが注文したのはそれじゃねえゼ」などと事を荒げることを潔しとしない……潔しとしないといえば響きは善いですが……(しらふ拳では)要はナイーヴでシャイなチキンボーイですから、「ありがとさん」とさも何もなかったかのように受けとってしまいました。

オイラ、蕎麦を注文したのですが……。

それはそれでよしとしましょうか。

このような場合には、説明と了解という対話は不必要の方が「大人の男」なのでしょう。

……って日本的?

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手なれたこと以上にましなことなど、まったくない

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 七五(845-46)
 有能な職人や学者が、おのれの技術に誇りをもち、満ちたりたまなざしで生をながめるときには、立派にみえる。これに反して、靴屋とか教師が、じつは自分はもっとましなことをするように生まれついているのだと、悩ましげな顔つきをしてわからせようとするのを眼にするときにもまして、傷ましいことは何ひとつない。手なれたこと以上にましなことなど、まったくない。そして手なれたことは、なんらかの有能さを身につけ、それから創造すること、ルネサンスのイタリア語の意味での徳virtuのことである。
 国家が馬鹿げてふくれあがった今日の時代には、すべての分野や専門において、本来の働き手のほかに、なお「代表者」がいる。たとえば、学者のほかになお文筆家が、苦しんでいる民衆層のほかになお、その苦しみを「代表する」饒舌なほら吹きの無能者がいる、--おのれは裕福な暮らしをしながら、厚かましくも議会では困窮状態を「代表する」職業政治家は言わずもがな。私たちの現代生活は、一群の仲介者たちによってこのうえなく高価につく。これい反して古代都市では、またその名残をとどめているスペインやイタリアの多くの都市でも、自分みずから打ってでて、現代のようにそうした代表者や仲介者をなんら重んじなかった--足蹴にすることはあったとしても!
    --ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 上 ニーチェ全集 12』筑摩書房、1993年。

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その筋の緻密な専門家とかオーソリティーから表現するならば、「それは誤読にほかならない」と弾呵されてしまうのは承知ですが、不思議なもので、ワタクシの場合、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)を読むと、盛り上がってしまいます……といいますか、元気になってしまいます。

譬えは変ですが、マアこれは太宰治(1909-1948)を読んで「生命力充填!」という読後感の状況に近いものかもしれませんが、両者がニヒルなものを超越した地平を目指していたものであるとすれば、あながち間違ってもいないよな!……などと思うこと屢々です。
これはニーチアンでもアンチ・ニーチアンでもないからなのかもしれませんが、ニーチェのニヒリズムへの超克への志向を「ぼそっ」とその華麗で苦渋に満ちたアフォリズムから聞きとると、そう思えて他なりません。

よくある話ですが、現状も大切にしながらも、目指すべき範型をも大切にする人間の顔とは美しいものだよなと実感します。

しかし、現状をそれなりには「こなしながらも」、「本当のおれは違うんだゼ」と範型も理念もなにもなく、うだうだやってしまう顔は、単なる恨み節にほかならず、そこには現実を陶冶する生命力もなければ、気力もないのでしょう。

その心根がニーチェのいうルサンチマンにほかならないと思います。

勝他に走ると恨み節に流れがちです。
勝自をもくもくと積み上げていくしかありません。

しかし、それが支配-被支配の構造(的暴力)の所与の価値観に組み込まれているそれであればその成就は難しいのかも知れません。

手なれたこと以上にましなことなど、まったくない。
手なれたことをけなす・引いてしまう・恥ずかしがるところには、「展望」は存在しないのでしょう。

人間よ!
胸を張れ!

……仕事をしているなかでつくづく実感します。
それが今、性(しょう)に会わないことのほうがほとんどです。
であるとしてもそこにしかその足下を突破する翠点は存在しません。
「悩ましげな顔つきをしてわからせようとする」ことなんか必要ありません。
一瞬一瞬の実存の中にこそ、自己自身の過去・現在・未来が内在するのでしょう。
そのへんを「丁寧」に生きていくしかありません。

よく宇治家参去は他者から云われます。

「宇治家参去さんは、“丁寧”ということば大好きですよネ」

「ハイ、その通りです」

……なぜなら、その一挙手一刀足のなかにしか自分自身は存在しませんから。

感情として恨むことは人間ですから払拭できません。
だからこそ、恨みの念はあったとしても、その地平に輝く自己自身を雄々しく見つめながら、現実を薫陶していくほかにありません。

だからこそ「丁寧」に生きていくしかないのです。

なぜなら「手抜き」の仕事よりも「丁寧」な仕事の方が気持ちいいでしょ!

そこに生命力は宿るのかも知れません。

今の生活がいやだ!

そんなことはどこにでもある話です。

しかしその舞台(部隊でもイイデスヨ)から降りることは不可能です。

であるならば、「丁寧」に生きていきましょうヨ!
そして、自己自身の理念とか想念を他者に「代表」して、ルサンチマンする必要なんかないんですヨ。

「代表」されるということは「代表」という存在者はあったとしても、それこそが「自己自身」ですから、そこに愚痴とか恨みを挟む方が、反価値なのではないでしょうか……。

そんなことを、ニーチェの言葉からよく考えさせられます。

……などとやっていると、いい時間です。
明日……もとい……今日ですネ!……は、また朝一番で大学です。
大学の講義が終えるとそのまま市井の仕事というハードな一日なので、早く寝ないとまずく、そして運悪く、最近、結構寝ないと体力・精神力が回復しないというジレンマに陥っていますので……なおさら早く寝ないといけないのですが、卒業生より頂いた「箱根のしずく」(本醸造生貯蔵酒・石井醸造株式会社・神奈川県)を飲んでいると、ひさしぶりの「甘口・濃厚」のようにて……いい感じ!で目が冴え、もうひとふんばりできそうです。

箱根系の初しぼりとか冷やおろしは何度か頂いたことがあるので、イメージ的には「鮮烈・淡麗」というイメージでしたが、そうした想念を破壊する一酒のようにて、ひとつの対象を多角的にアプローチできる契機として実にアリガタイものでございます。

……ともあれ、箱根といえば伊豆半島と一体化した温泉地との印象が強く、「場合によっては、静岡県?」などと夢想しがちな部分が強烈にあるのですが、よくよく銘柄をみると「神奈川県」のようにて、「神奈川県」の「温泉」に、チト足を伸ばしたくなった次第です。

そのうち、暇ができればだれか逝きます?

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Book ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

著者:フリードリッヒ ニーチェ
販売元:筑摩書房
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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない

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 日常的実存のなかで、世界のなかで、主体の物質的構造は、ある程度、乗り越えられている。自我(モワ)と自己(ソワ)とのあいだに、隔たりが生じるのである。自己同一的な主体は、直接的に〔無媒介的に〕自己へと回帰するわけではない。
 ハイデガー以来、われわれは世界を道具の総体とみなすことに慣れている。世界の内に存在するとは、行動すること、それも、要するに行動がわれわれの実存そのものを目的とするようなかたちで、行動することである。諸々の道具は、最終的には実存することへのわれわれの配慮を指示するために、相互に他を指示するのである。浴室の灯りのスイッチを押すことによって、われわれは存在論的な問題を全面的に開示する。ハイデガーの目を逃れているように思われること――もっとも、こうした問題に関して、ハイデガーの目を逃れ得たものが実際に何かあるとすればの話だが――は、世界は道具の体系(システム)である以前に糧(かて)の総体である、ということである。世界の内での人間の生は、世界を満たしている対象〔オブジェ・事物〕の彼方に到ることはない。われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でのわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存――自己の外にあること――ということであり、しかも、それは対象によって限定される。

    ――E・レヴィナス(原田佳彦訳)『時間と他者』法政大学出版局、1986年。

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ハイデガー(Martin Heidegger,1889-1976)は、人間の存在(現存在,Dasein)の特異な性格を浮き彫りにするなかで、人間以外の存在を丁寧に分析しておりますが、そこで出てくるのがキー概念としての道具的存在というあり方だと思います。「~のために」「~として」対象としての事物は確かに存在しております。

アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)を引くまでもなく、すべての事物の存在根拠としての「目的因」は確かにすべての事物に、いわば、内在するのは事実なのでしょう。

だからこそ、人間という生き物は、対象を道具として取扱うことで生活を展開してきたわけで、「世界の内に存在するとは、行動すること、それも、要するに行動がわれわれの実存そのものを目的とするようなかたちで、行動することである。諸々の道具は、最終的には実存することへのわれわれの配慮を指示するために、相互に他を指示する」ように知らず知らずに自覚することなく生きているのがその実情かも知れません。

たしかに「浴室の灯りのスイッチを押すことによって、われわれは存在論的な問題を全面的に開示」していることは理解できます。

しかしながら、事物が存在するとは「道具の体系(システム)」としてだけ存在しているわけでもないのももう一面の自然なのだと思うところで……。

その存在論的な違和感がなにかここちよく、そのずれに人間の存在と事物の存在の奇妙な縁を感じる宇治家参去です。

さて……金曜日。
大学の仕事も、市井の職場も休みでしたので、大学へ行って来ました?

細君はわたしが教鞭をとっている短期大学の卒業生になるわけですが……と書くと時々「先生が生徒に手をだしたのか?」などと誤解を招く訳ですが、ソクラテス(Socrates,469.BC?-399.BC)のように弁明?するならば、勤務する以前に結婚しておりますし、教師-学生の間柄@和辻哲郎というわけではありません……ずれました。

はなしを戻します。
で……、卒業生なのですが、ちょうどゼミの先生が、本年度より学長に就任されましたので、先週、細君がお祝いの電話をしたところ、「大学の桜も綺麗に咲きほこっていますから、一度、遊びにおいでなさいな」

……というわけで、二日酔いのところ、早朝よりおこされ、「ワタクシ、今日休みなのですが……」とぼやきつつ、家族で大学へ。

八王子駅でれいの「いちょう庵」を見出しましたので、「朝食べていないのでチト……」と所望するとすぐさま却下され、そのまま、先ずは短大へ。

ゼミの先生……ちょうど大学へ賓客の訪問があり、それが終わるまでちょいと待ちながら、新装された学生食堂にて昼食をとり、しばしまっていると、ひさしぶりのご対面ということで、少々懇談し、それからキャンパスを散策です。

息子殿も何度も連れてきているのですが、学生ホールでポップコーンを買い求め、そのまま、文学の池へ向かい、鯉に餌をやるという定番コースでスタートです。

そして、山野?をかけめぐりながら、新設された門をめぐってから、本部棟へ向かい、13階のカフェテリアにて、休息。

眼下の遠望は、絶景で、疲れが吹き飛ぶというのはこのことなのでしょう。

息子殿も13階のカフェテリアが気に入ったご様子にて、

「ここで、毎日昼食をとりたい」

……とのことで、そのために、

「この大学で教師をする」

……などと決意しておりました(すこし親バカですが)。

ちなみに、「何を教えるのか?」と誰何したところ、

「あにまる」

……とのことだそうです。

理学部・獣医学部系の「動植物」に関連することか!と思ったわけですが、そうではなく、どうやら……

「アニマル・カイザー」とのことだそうです。

その強いカードの組み合わせとか、キャラクター動物の特徴を講義するとのこと。

「ん~、哲学とか神学ではなかった」のが残念です。

ただ……、散策をふり返ってみますと人間という生き物はたしかに対象としての事物を「道具」としては取り扱うことが現実には多いのですが、それだけではなく、「糧」として向き合っている側面も実はあるんだよな……などと桜の木の下で思うばかりで、理由はどうであれ、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が「花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである」と散歩を評しているような向かい合い方というのは、単なる道具的連関の「外にある」ありかたを絶妙に表現しているばかりだな……と思う次第です。

イヤサカ……ではなく、いやしかし、

疲れました。

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われわれは食べるために生きている、ということは、おそらく正しくないが、だからといって、われわれは生きるために食べている、ということもまたやはり正しくない。食べることの窮極的目的性は、食糧のうちに含まれている。花の匂いを嗅ぐとき、その嗅ぐという行為の目的はまさにその匂いに限定されるのである。散歩するとは、健康のためにでなく、大気のために、大気を吸いに出ることである。世界の内でのわれわれの実存を特徴づけているのは、まさしく糧なのである。脱自的実存――自己の外にあること――ということであり、しかも、それは対象によって限定される。
    --レヴィナス、前掲書。

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で……、きわめて、蛇足。

以下のフォトもおまけまでに。

本部棟13Fのカフェテリアからの眺望。

バス停でバスをまっていると、陽気にさそわれ、蜥蜴の登場。

家までビールを我慢した偉い子・宇治家参去。
このあと、飲みに出かけたので、出かける前に「お試しに!」ということでノンアルコール・ビールにチャンレジ……すげぇぇ、不味かった。

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Book 時間と他者 (叢書・ウニベルシタス)

著者:エマニュエル・レヴィナス
販売元:法政大学出版局
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「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」

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 友情とは何か。ギリシア人は友情を表わすために<<フィリア>>という言葉を使う。この概念は何と多くの次元にまで広がっていることだろうか。この概念は、人間的な共生の全形態を包摂している。取り引き上の信頼関係も戦場における友情も、そして労働における共同作業も、結婚や社会的な集団形成や政治的党派形成から生ずる様々な生活形態も、要するに人間的な共同生活全体がこの概念に包摂されている。われわれが今日でもなお政治的な友情とか、党派的な友情と読んでいるものは、この古いギリシア的な全体概念の最後の残響なのである。友情の本質には、ピタゴラス学派の古い言葉が述べるように、<<友人たちはすべてを共有する(koina ta ton philon)>>ということが属する。したがって友情は連帯感に根拠を置いている。友情という言葉の語感に惑わされて、消え去って久しい過去の生き生きとした生活状態の美しさがここで呼び覚まされているのだなどと考えないでいただきたい。真相はその反対である。人間の共同生活は、有効な連帯感という基盤以外のいかなる基盤のうえにも打ち建てられえないであろう。だから、あらゆる連帯感の喪失は孤独化の苦しみを意味するし、逆にいえば、連帯感は、ギリシア人が自分自身との友情と名付けたものを常にすでに前提している。このギリシア的友情は、すでに上で明らかにしたように、<孤独の高い評価を生み出し一人でいることができることを可能にしているもの>なのである。たしかに孤独という言葉には、無機的に働く文明のメカニズムを拒絶して、人間的な悪癖をまったく知らない自然に共鳴するという[友情とは]別の響きが込められているのであって、これこそが、ルソーが孤独という言葉に与えた響きであった。けれどもギリシア人たちが友情と呼んだもの--そして彼らはまさしく自分自身との友情という言い方すらするのだが--は、依然としてひとつの深い真理をもち続けているのである。プラトンは、自分のユートピア的国家構想の全体を、国家は[個人の]魂の大規模な模写であるという思想の上に基礎づけた。国家の成員を三つの固定した階層に区分したり、知的洞察によって全体の命運を導く国家管理者層を設定したりすることによってプラトンは、奇妙な国家機構を論述したのだが、それは、人間の魂が何でありまた何でありうるかを解明しようとしたためである。内的な不和を排除し国家の全成員を統一して団結した活動力を生み出すような国家構制というプラトンの理念は、人間の魂も自己分裂を含んでいるにもかかわらず内なるあらゆる葛藤や欲動の緊張を支配することができるし、自らを一なるものへと統一することができるということを、映しだしているのである。人間の内的構成と人間の社会的能力は、根本においてひとつである。したがって自分自身の友である人だけが、共同敵なものに適合できるのである。
 語の狭い精神病理学的意味における非社交的な人の症例がどんなものかわれわれは知っている。この患者の特色をなしているのは紛れもなく、自分自身との親密さや共同生活、つまり自分自身との一致が抜け落ちたり破壊されたりしていることである。したがってこの場合、友情はひとつの人間的根本構成であることになる。私はこの根本構成をヘーゲルとともに「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」と呼びたい。若者たちが老人の<自分への馴れ合い(ジイツヒ・アインハウゼン)>に反旗を翻すことは、今に始まったことではない。われわれが若かった頃も、似たようなものだった。市民生活において余りにも早く自分と馴染む(ジイツヒ・アインハウゼン)ことは、われわれには、自由と理想主義の喪失のように見えた。けれども、自分自身との友情は、安定した生活において自分と馴染む(ジイツヒ・アインハウゼン)そのような外面的な形式とは結びついてはいない。むしろこの友情は、順応主義を拒否するわれわれがその当の順応主義に屈服することなしに今日でも獲得することができる自由の経験の根底に存在するものなのである。人間が労働の中に見出すことができる各人固有の意味に注意していただきたい。われわれが現代文明の強制的性格とますます高まる抑圧とを感じるときでも、労働やそれとともに形成される自分固有の能力の意識は、自由の一種神秘的なあり方を意味する。いやそれどころか、この能力の意識こそがわれわれの世界のあらゆる強制にもかかわらず安全に保持されている自由の唯一の形式なのだと思う。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(須田朗訳)「自己疎外の徴候としての孤独化」、本間謙二・須田朗訳『理論を讃えて』法政大学出版局、1993年。

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ちょうど、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)の著作を紐解いていると看過できぬ一文とくだらぬ閃きがほとばしりましたのでひとつ。

アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)は、『ニコマコス倫理学』のなかで、正義(ικαιοσύνη)とは何か、そしてその必要性に言及する中で、最後に一つぽつりと言葉を発しております。

すなわち次の通りです。

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事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』岩波文庫、1973年。

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人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ないとの言葉であります。倫理とは、私自身とは何か、そして私は全体のなかではどのようにしておいたほうがいいのか……そのへんを問うわけです。

だからこそ当然「正義」が問題になってきます。
しかし、その局面において、つまり、その個と公共空間の関係において、正義よりも友愛を選択したアリストテレスには、おどろくばかりで、近代以降の倫理学において「友愛の感覚」がほとんど顧みられなくなった事実はすこし淋しいもんだよなとおもったことがあります。

うえのガダマーの文章では、この友愛としてのフィリア、「友情」と訳されておりますが、ひろくは、同じ意味合いとしての友愛、友情としてとらえてよいでしょう。

ガダマー自身は倫理学者ではありませんし、いうまでもなく道学者でもありません。テクスト解釈の技術と可能性を論じた哲学的解釈学者でありますが、その彼からこうした「フィリア」の感覚に言及があることにおどろくとともに、これも通俗的な表現ですが、ガダマーの「人間の人間らしさ」(=人間くささ)を実感してしまいます。

ちなみにガダマーは久し振りの?百歳オーヴァーの哲学者ですが、若き日のイタリア旅行以来、ネスレ(Nestlé)の製造する「ネスカフェ(Nescafé)」のコーヒーにはまってしまい、生涯愛飲したことで知られておりますが、そのエピソードも大好きです。

話がずれました……。

で……。

注目したいのは、ガダマーがフィリアに言及したことよりも、そのフィリアの扱い方においてです。

アリストテレスは上述したとおり、個と個の関係における相互概念としての「フィリア」について言及しているわけですが実はそれは個と個の関係におけるスフィアに限定される問題ではないというところです。

その神髄をまさにガダマーが「解釈」するところによれば……そしてそれがギリシア的エトスの伝統になるわけですが……それは対他関係だけなく、対自関係においても発動するというところです。

すなわち……キーワードを引っ張るならば次の通りです。

「人間の共同生活は、有効な連帯感という基盤以外のいかなる基盤のうえにも打ち建てられえないであろう。だから、あらゆる連帯感の喪失は孤独化の苦しみを意味するし、逆にいえば、連帯感は、ギリシア人が自分自身との友情と名付けたものを常にすでに前提している。このギリシア的友情は、すでに上で明らかにしたように、<孤独の高い評価を生み出し一人でいることができることを可能にしているもの>なのである。たしかに孤独という言葉には、無機的に働く文明のメカニズムを拒絶して、人間的な悪癖をまったく知らない自然に共鳴するという[友情とは]別の響きが込められているのであって、これこそが、ルソーが孤独という言葉に与えた響きであった。けれどもギリシア人たちが友情と呼んだもの--そして彼らはまさしく自分自身との友情という言い方すらするのだが--は、依然としてひとつの深い真理をもち続けているのである」。

「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」

はあ、なるほど!

……というわけで、フィリアの問題とは対他関係でなく、対自関係をも射程にひめているというわけです。

まさに倫理学が「人間とは何か」と問うわけですが、それは「自分とは何か」という自分と自分自身の関係をフィリアというキーワードで内実を問い、そのあり方をたゆまず吟味せよ……そのことをマア、ウマク表現しているわナ……などと思う次第です。

「自分に馴染むこと(ジイツヒ・アインハウゼン、sich-einhausen)」とは「馴れ合い」とか「妥協」を許さない俊敏な瞬時瞬時の関係性なのかもしれません。

このあたり、チト追求する必要がありそうです。

……が、このママ追求してしまうと、休日の本日が無駄になってしまうので、このあたりで永眠したほうがよさそうです。

今日は家族で花見?……といっても、宇治家参去の勤務する大学の桜が見事ですので、子供も幼稚園が休みなので一緒に行くか!と私がふったのではなく、「一緒に行け」と訓辞の発令がありましたものですので、早起きが要求されているようです。

まったく!……と思わず、フィリアの練習とさせていただきます。

ただ、花見といえば、自分的には「酒」だよなと短絡的想起しかなく、その貧しい発想に辟易とするわけですが、「アルコール0.00%で、飲酒運転のない世界へ」をキャッチコピーにしたノン・アルコール・ビール「KIRIN FREE」が出ましたものですから、チト試してみようかなア……ですが、やはりそんなものを神聖なキャンパスに持ち込むと「ボコボコ」にされてしまうよなア……だけどチャレンジ精神も大切だよなア……悩みで眠れなくなってしまいましたデス。

しかし……くどいのを!

一緒に購入した新製品「The STRAIGHT」(サントリー)は、あまり「ぐっと」こず、これなら無難に「金麦」のようが旨いよな……などと思うわけで。

しかし……くどいのを!!

日中の桜吹雪は「美しかった」です。
写真ではあまりウマク取れませんでしたが……。

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ニコマコス倫理学 下    岩波文庫 青 604-2 Book ニコマコス倫理学 下  岩波文庫 青 604-2

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まだ生きている人間にとっては、生きている人間として行動をなし続ける以外の策はない

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……まだ生きている人間にとっては、生きている人間として行動をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ。死ぬのはひとりだが、生きるのは他人と共にであり、われわれとは他人がわれわれについて作り上げるイメージであり、彼らがいるそのところにわれわれもまたいるのである。
    --M.メルロ=ポンティ(海老坂武訳)「英雄、人間」、滝浦静雄ほか訳『意味と無意味』みすず書房、1983年。

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「哲学」半期15回授業の初日がようやくスタートです。
初回はガイダンスということですので、講義の概要・全体の見通し、成績の評価方法やレポートなど講座のフレームワークの解説で終わらせることができるのですが、やっぱりちょいと授業やっておこう!ということで、20分ばかり序の序を講義してきました。

今年でちょうど7周目に入りましたが--その間、教養関係の講座数が短大でも縮小傾向にあるのですが、その意味ではよく“生き残ったな!”という実感ですが--これだけ積み上げていきますと、どうしても最初の時よりも、内容が積み重ねられていき、補足の補足や修正や追加が多くなってしまい、とてもとても規定の回数ではこなせなくなってしまいますので、少しでも、最初からやっておこう--ということで、授業の内容にはいる前の準備運動……ということで、教材を開かせる前に、自分自身のもっている「哲学」に対するイメージを確認させました。

やはり……

固い、難しい……というイメージが大半ですが、それでも、「固い、難しい」からこそなのでしょう……「それでも、なんか大切な気がしなくもない」という+α(それが何かは指示できないとしても)があるようで……ひとつ安堵。

現状ではそれを指示することのできない+αを明確にし、ひとりひとりの哲学“性”を薫育していくのが、今後の講義のキーポイントになってくるのだろうと思います。

たった15回ですが、履修された皆様、どうぞ宜しくお願いします。

昨年に引き続き、シラバスの内容に記された文面の「裏課題?」として本年も引き続き「人間とは何か」をひとつの課題にしております。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)は哲学を定義して次のように語っております。

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 理性の一切の関心(思弁的および実践的関心)はすべて次の三問に纏められる、
1 私は何を知り得るか
2 私は何をなすべきか
3 私は何を希望することが許されるか
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判』岩波文庫、1962年。

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この3つの問いとは、認識・実践・信仰に関わる議論ですが、哲学とは何かと纏めて言うならば、それはつまり「人間とは何か」という探究なのでしょう。

己の限界をはっきり見定めたい。
そのことによって、無限の成長もあるからでしょう。

ともすれば、独我論に陥りがちなのが哲学の議論ですが、徹底的な個々人の探究は深めながらも、独我論をさけつつ、他者に開かれた議論の展開を心がけていきたいものです。

ともすれば、「人間なんてケ・セラ、セラ」という風潮がいやまして強い昨今ですが、だからこそ、あらためて徹底的に「人間とは何か」を真面目に探究していかないかぎり、議論を唾棄するにせよ、進展させるにせよ、自己自身の「立ち位置」を見定めることはできないのだろうと思います。

生きている自分自身を参考にしながら、そして共にいきている隣人と対話を重ねながら歩んでいくほかありません。

そのことによって、哲学が手垢にまみれた通俗的な人生訓とか処世術に陥ることをさけつつ、かびくさい繙かれることのない古書のなかの活字にとどまることを避けることが出来るのかも知れません。

なぜなら、「まだ生きている人間にとっては、生きている人間として行動をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ」からなのでしょう。

大学の桜……一斉に花びらをひらきはじめました。
今週末ぐらいまで見頃だと思います。

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「うっ、ポッ~ん!! げふっ、げふ、ぽよよろ、ロ~ン!」

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ポワリエ あなたは他者の顔との関係は、はじめから倫理的なものであるとおっしゃっておられますが、なにゆえそうなのでしょうか?

レヴィナス 倫理、それはあなたにとって異邦人であり、あなたに関係ない他者が、あなたの利害にかかわる秩序にもあなたの感情にかかわる秩序にも属さない他者が、それにもかかわらずなお、あなたに関係する場合の身の処し方をいうのです。他者の他者性があなたにかかわるのです。それは対象が知によって聖人されるような認識の秩序(それは諸存在者との関係の唯一の様態とみなされていますが)とは別の秩序に属する関係です。純粋な認識の一対象に還元されることなしに、私たちは一個の自我にとって存在しうるでしょうか? 倫理的関係のうちに置かれたとき、他の人間は他のものにとどまります。そこにおいては、他者とあなたを倫理的に結びつけるのは、まさしく他人の違和感であり、こう言ってよければその「異邦人性」(étrangereté)なのです。これは平凡なことです。けれどもこの平凡さに驚愕しなくてはなりません。超越という観念が立ち上がってくるのは、おそらくここにおいてであるからです。
    --エマニュエル.レヴィナス・フランソワ.ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性 --レヴィナスは語る--』(国文社、1991年)。

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ひさしぶりに“取るに足らない”“反省するには及ばない”日常生活の“平凡”なひとときに、他者の顔から発せられる「異邦人性」(étrangereté)に驚愕してしまったある日の宇治家参去です。

その驚愕を稚拙な擬態語で紹介するならば・・・

「うっ、ポッ~ん」

・・・という感じです。

さて……
仕事場がどうしてもGMSになりますから、新商品なんかが発売されますと、その試食販売員さんとか販売促進員さんがメーカーから店舗に派遣されてきます。

いらっしゃる販売員さんたちは、そうした人材を確保する派遣会社からの人財さんたちで、応援販売が終了すると、日報のようなものに、サインと本日の評価などの記入をもとめられます。

本日は、麒麟麦酒のキャンペーンの応援販売員さんが来ており、終了後、

「すいませんが、印鑑頂けませんか」

……とのことで、バックヤードの台車のうえで、店舗担当者という箇所に印鑑を押し、

「お疲れ様でした!」

……って書類を渡そうとすると……

「ヒョットシテ、宇治家参去先生デハアリマセンカ?」

「へ?」

「先生……ああ、ワタシ、何かの先生でしたっけ?」

「短大で、哲学教わっていました!」

「うっ、ポッ~ん!! げふっ、げふ、ぽよよろ、ロ~ン!」

「どっかで見たことある人だよなって思っていたんですヨ」

「マジッすか」

「書類に名前もらったら、やっぱり……っていうかんじで声かけました」

「現役生ですか?」

「卒業しました!」

「いつ?」

「今年です」

「……っつうことは、先週だよね」

「はい」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます。で、先生、ここでも仕事しているんですか。Mgrって大変ですよね」

「学問で喰っていけなくてねェ~。マア、世を忍ぶ仮の姿という訳デスヨ」

……という一コマです。

先だっても細君&息子殿に職場でおちょくられたばかりですが、マア家からも近所ですから近所の方とお目にかかることはあるので、それはそれでなんともない……こともない……わけです。

しかし、しかしです。
「短大にせよ、大学の通信教育部にせよ、自分が教えた人間に、こんな場所でお目にかかることはあるまい」……などとタカをくくっていると、自分がアリエナイと思っていたことがアリエタ事態として現出することに当惑するとともに、平凡な日常生活こそまさに恐るべし……などと冷や汗がここちよい?ひとときです。

平凡さ、そして他者の顔とは実におそるべしです。
前にも書いたかもしれませんが、今般の金融恐慌を「百年に一度」だとメディアや事情通なるひとびとは喧騒しておりますが、それはまさにそうなのでしょうが、そもそも人間の生活においては、昨日と同じ一日などハナから存在するわけではなく、一日一日がまさに「百年に一度」であって、そのことを自覚していない、すなわちその実は「見過ごしてしまっている」だけにすぎないのかもしれません。

うっかりと忘れそうになったその事実を目の前に突きつけられた思いで一杯です。

で、そのお嬢さん、一昨年の前期の授業を履修していたようで……ありがとうございます。
顔を覚えていなくてごめんなさい!
でもお陰様で覚えてしまいました!

で……
彼女は九州の出身だそうですが、この4月から東京で社会人を始めるとのこと。
運送最大手の事務で採用されたとのことですが、がんばってほしいものです。

今回は、「社会人になるまえに、できるだけ稼いでおきたいのでバイトで来ました!毎日忙しいですヨ」とのことだそうです。

いや、それでも、しかし、しかし、しかし……くどいのを!……しかしです。

こんなところで会うはずがないと思っていた全ったき他者と直面し、倫理・顔・有責性の重要性とはこんなフトしたところから発していくもんなんだな……と我ながら驚くばかりです。

レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の言葉は学生時代から何度も読んでおります。

しかしなかなか、それが「手足のように」自分自身の思想となることはなかなかなかったのも実情です。

ストレートに学問だけでやっていくようになっていれば……これはそれで好意的解釈というヤツですが……、結局は言葉としては流通させても「手足のように」自分自身の財産として語ることはできなかったのかもしれません。

そのうち(おそらく!)仙人……もとい……専任なんかになったときもレヴィナスの思想を扱い・語るのでしょうが、ストレートに専任にならず(これはこれで忸怩たる部分で家族に迷惑かけていてゴメンナサイですが)、横道でモタモタしているのが現状ですが、そうした書物の言葉が横道でモタモタしているときに、何かリアルなものとして血肉化しているようなので、それはそれで貴重な体験をこの「百年に一度」の「今」ありがたくもつませていただいているのであれば、それはそれで幸福な一瞬なのかもしれません。

しかし、まあ~なんですねエ(できれば「探偵ナイトスクープ」の桂小枝風に)、世の中とはほんとうに面白いものです。

よく、世間とかこの社会はつまらないというひとが多々散見されますが、「丁寧」に生きていると、なかなか「すてたものではありません」。

そのように平凡さに素で敏感になることで、「他者とあなたを倫理的に結びつけるのは、まさしく他人の違和感」が恐怖の対象ではなく、自分自身の課題としての対象に転移するのかもしれません。「他の人間は他のものにとどまります」から還元なんかできないんですよね。しかしともすれば、自分流に還元して他者を操作してしまうのが日常生活を深く省みないあり方なのかもしれません、だから恐怖するのでしょう。

まさに……

「これは平凡なことです。けれどもこの平凡さに驚愕しなくてはなりません」。

顔を見たことがある、
顔を知っている、
顔を見た……

「これは平凡なことです。けれどもこの平凡さに驚愕しなくてはなりません」。

しかしながら、Tさん、がんばってください!
草葉の陰から応援しております。

今日は地酒ブームの火付け役のひとつ、美少年酒造(株)の珍しい(東京ではという意味ですが)パック酒『宵美人』でも飲んで寝ます。

くぅぅ~味が濃い!!

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人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない

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 しかしながら、自分は自由たるべく生をうけたと人間が感じることを、世界のなにものも妨げることはできない。断じて、なにがあろうと、人間は隷従をうけいれられない。懲罰によって奪いさられた過去の至福にせよ、神秘的な摂理との一種の盟約によって到来すべき未来の至福にせよ、人間は限定/限界なき自由を夢想することをやめはしなかった。マルクスが想像した共産主義はこの夢想の最新型である。すべての夢想とおなじく、この夢想もやはり実現されずに終わった。たとえそれが慰めになりえたとしても、阿片としての慰めにすぎない。自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期がきている。
 完全な自由を明瞭に思いえがく努力をすべきである。ただし、それに到達する望みをもってではなく、現在の状況よりも些かでも不完全ではない自由に到達するという望みをもって、より善き状況は完全な状況との対比でのみ構想しうる。めざすものは理想(イデアル)をおいてほかにない。理想は夢想とおなじく実現不可能であるが、夢想とちがって現実との関連がある。限定/限界としての理想があれば、現実的もしくは実現可能な諸状況を、さまざまな価値の序列にそって並びかえることができる。
 われわれが恒常的に重圧をこうむる必然の消滅のみをもってしても、完全なる自由を構想することはできない。人間が生きていくかぎり、つまり人間がこの無情な宇宙の微々たる断片でありつづけるかぎり、必然の重圧は一瞬たりともゆるむまい。最小限の労苦で最大限の見返りを享受するなどという状態は、たんなる虚構としてでなければ、われわれの生きる世界に場をみいだしえない。たしかに、自然は人間の欲求にたいして、風土やおそらくは時代によっては寛大なことも厳格なこともある。しかし時と場を問わず、自然を決定的に寛大にする奇蹟敵な発明を期待するのは、かつて千年紀の当日によせられた希望とおなじく、およそ合理的とはいえない。そんなものは仔細に検討すれば、虚構であることを惜しむ価値すらないとわかる。人間の弱さを考慮するならば、労働の観念すら喪失したような人生が、さまざまな情念やおそらくは狂気にすらさらされるだろうことは、充分に理解できる。
 規律なしに自己の制御はない。そして人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない。有閑階級の連中がみずからに障碍を与え、学問や芸術や遊戯に精をだすこともあろう。しかしたんなる気まぐれが生みだす努力は、人間にとって気まぐれそのものを制御する手段とはならない。自己にうち克つ機会を与えてくれるのは、ぶつかって乗りこえねばならぬ障碍である。学問や芸術やスポーツのようにこのうえなく自由とみえる活動でさえ、労働に固有の精確さ、厳密さ、細心さを模倣し、ときには凌駕しさえするのでなければ、なんの価値もない。農夫や鍛冶師や水夫が、みごとに両義的な表現が示すごとく、「しかるべき立派に」かつ「必要に迫られてやむなく」働くとき、かれらが意識もせずに呈示してくれる手本なしには、自由と見える活動も純然たる恣意へと堕するだろう。
    --シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005年。

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思索と行動の思想家とは誰かといえば、やはりシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)の他にはおるまい……などとその難渋な文章と立ち向かうある日の宇治家参去です。

冒頭に引用したのはヴェイユの初期の著作からの一節ですが、近代社会の構造的な不正と暴力、そしてその抑圧の構造の原因とは何かを論じた和文で100頁たらずの小著ですが、そこで紡ぎ出されている言葉は軽く看過することができず、何度読んでも新鮮で読むたびにその理解が新しくなるのが不思議です。

ヴェイユはリセの教員となる傍ら、工場や農場での労働の現場で仕事をし、そのなかで思索を深め、政治活動に身を投じる中では、1936年のスペイン内戦では、人民戦線派義勇兵に志願した人物で、「労働する人間」にこだわっています。しかしながら、トロツキー(Lev Davidovich Bronstein,1879-1940)親子と深い親交があったにもかかわらず、マルクス主義(全体主義)に対する違和感も強烈に表明しており、そのへんをどのように理解すればよいのだろうか……そう悩んでいたとき?紹介されたのがこの一冊です。

余談になりますが、活字文化の衰退が危惧されるなかで、こうした「まとまな」本が文庫本で出版されるあたりに、かすかな光明をみる思いです。

さて……
人々は現実の、マア「どうしようもない」状況をなんとか脱却しようとして、理念とか理想とかを「仰ぎ見る」ことがしばしばあります。

ヴェイユはそうしたイデアルなものを仰ぎ見つつも、「どうしようもない」状況が諦めさせてしまう実態も熟知しております。

不幸とはまさに理不尽に人の世界に食い込んできます。

ヴェイユは工場労働の経験の中で、通俗的な表現ですが、「奴隷」へと堕ちたたくさんの人間を見ておりますし、ヴェイユ自身そのことをいやというほど経験しておりおます。理念へ向けて上昇しようとするのも人間ですが、それと同時に、「奴隷」へと引き下げられてしまうただ中にいるのも人間です。

その、そのどうしようもなくひっぱられる力のなかで、何が不幸なのかすら理解できない地平にまで引きずられてしまうことも多々あります。そのなかで人格まで存在の地平から退場を命じられてしまうわけですが、それでもなお、なんとかその「重力」@ヴェイユ『重力と恩寵』から脱していこうとするのも人間であります。

それでもなおヴェイユはイデアルなものを「諦め」ません。
そこに彼女の魅力と難解さを実感するわけです。
その意味で、ヴェイユ自身がイデアルなものを手放さない見本としての歩みを生き抜いた生涯であった……そう思わざるを得ません。自分自身が傷つきながらも、そして病みながらも、隣人へと向かい合おうとしつづけたヴェイユのそこ力には、実は諦めも不平も不満も何もありません。

ただ、大切なのは注意力かもしれません。

小さな声なき声に耳を傾ける、すなわち、存在していないものへの気遣いといっていいでしょう。

そんなことに裂く時間はねえ。

言うのはたやすいしですし、ヴェイユの真似もできません。

しかし、大切なことは、注意、気遣いであり、それは何かといえば、思想的には自らの思考を決して停止させない努力と忍耐なのでしょう。

ほんのすこしだけ、自分自身に気を遣い、そして目の前の人間に気を遣うだけで、大きく状況とは変化するものです。

不思議なもので、レジを打っていても……マア、今日もまたまたアリエナイ状況で、さすがに4時間を超えると足がしびれてくるのには参りましたが……ひとつ、今日は「丁寧にやってみよう」と久し振りだったので、そうした向かい合い方で注意しながらやってみると、1回1回のレジ打ちが、これもマア作業なわけですが、新鮮な人間と人間との向かい合いになることに驚きです。

脱線しました。

ヴェイユによれば、この世界とはひたすら下落へと向かう重力に支配されているのが実情です。その恣意性のなかで、ひとは迷い、過ちを犯していくのでしょう。

ヴェイユが一番注意したのは恣意性です。

その意味で、理念的なるものはどうしても必要不可欠かもしれません。

「人間とは何か」という議論において、理念的なるものが先行してしまうと、どうしても生きている人間を分断しているのも承知です。しかしどこかで現実を相対化させ、次のステップへと歩みを進めさせる理念的なるものはどうしても必要かも知れません。分断による血のにおいをかぎつつも、その血のにおいをかぐことによって、現実の生きている人間の存在を自覚し、その連帯のなかで、より善へとむかっていくしかないのか……というのが宇治家参去の実感です。

夢想は慰めにすぎないのでしょう。ここには現実を変革する本物の力を秘めてはおりません。

そして……

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理想は夢想とおなじく実現不可能であるが、夢想とちがって現実との関連がある。限定/限界としての理想があれば、現実的もしくは実現可能な諸状況を、さまざまな価値の序列にそって並びかえることができる。
    --ヴェイユ、前掲書。

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理想は夢想とちがって、現実の関連があるからこそ、現実の限界を乗り越える本物の力を秘めているのかも知れません。

さて……。
仕事が済んでから帰っても本日は食事がないということで、更級そばを買ってかえり、今からざる蕎麦で一杯です。

SAPPOROの出した新商品「冷製SAPPORO」が出ていたので、試しに!とのことにて、ざる蕎麦とのセッションです。

この時間から食べると、間違いなくメタボへ直行なのですが、その意味ではまだまだそうしたところへの予防を夢想にしか思っていない、れいの如くヘタレな宇治家参去です。この分では脱却通し!というのが実情ですが、またこれはこれで考えましょう(苦笑)。

とわいえ……「冷製SAPPORO」。
いわゆるその他の雑酒に分類されるアレですが、そのジャンルでいくと同社の「麦とホップ」のほうがウマイような……。

来月21日は、「道産素材」が同社よりリリースされますが、こちらに期待したほうがよいかもしれません。

ということで……。

末尾のヴェイユの言葉を今一度味わってみたいものです。

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 規律なしに自己の制御はない。そして人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない。有閑階級の連中がみずからに障碍を与え、学問や芸術や遊戯に精をだすこともあろう。しかしたんなる気まぐれが生みだす努力は、人間にとって気まぐれそのものを制御する手段とはならない。自己にうち克つ機会を与えてくれるのは、ぶつかって乗りこえねばならぬ障碍である。学問や芸術やスポーツのようにこのうえなく自由とみえる活動でさえ、労働に固有の精確さ、厳密さ、細心さを模倣し、ときには凌駕しさえするのでなければ、なんの価値もない。農夫や鍛冶師や水夫が、みごとに両義的な表現が示すごとく、「しかるべき立派に」かつ「必要に迫られてやむなく」働くとき、かれらが意識もせずに呈示してくれる手本なしには、自由と見える活動も純然たる恣意へと堕するだろう。
    --ヴェイユ、前掲書。

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人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険

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 言葉は最も純粋な形式での伝達〔分かちもち〕である。言葉は自然からいわば絞り出された苦痛の声でも叫びの声でもない。言葉は自由な一致に基づいている。規約によって<<kata syntheken>>とアリストテレスは言っている。そのとき彼の念頭にあったのは、何らかの仕方で決定される現実的な一致ではない。そしてまた、ある現代哲学者が言ったように、<言葉は意味を賦与する作用によって言葉になる>ということが考えられていたのでもない。言葉に関しては何ものも設立され、賦与されることはなく、われわれはすでに常に一致してしまっているのである。ただその一致によってのみ言葉は言葉になり、言葉は言語の使用において常に新しい実行のなかで確認されるのである。われわれは誰もが、子どもの最初の言葉〔単語〕、決して存在しない言葉を讃える両親のすばらしく感動的な幻想のことを知っている。最初の言葉など存在しえないのだ。存在することはただ<話すことが-できる>ということ、ただ言葉「というもの」であるにすぎないのである。子どもがよく回らない舌で最初に行う模倣の試みは、我と汝との間の交換--眼差しの行う沈黙の交換を越える交換--を開始するという現実的な歩みにはまだなっていない。
 言葉がはじめていわば共同性を言葉へと高める。そして実際そうなのであって、ある目的への正しい手段は単に適切なものだというだけではなくて、理解して使われるように作られている道具と同じように、適切なものとして選び抜かれたあるものなのである。そしてその限りで言葉は、正しい手段と同じように、共同の世界に属するものであり、そして、目的それ自体の世界はなおのこと、万人にとって共通に適切で有用なものとして、すなわち、ギリシア人たちが言ったように、万人に有用なもの<<koine sympheron>>として規定されるのである。良いことを有用なものという意味で示すことと、良いことを正あるいは不正という意味で示すことは、明らかに統一的な事態である。素朴なこと、「そしてまた正と不正」とはアリストテレスのテキストにおいては、有用なものという意味での良いものに自明なこととして結びつけられている。動物たちと違って人間が、家や町の中で自己の設備と家具調度を自分で作るように、人間を整え方向づけてきたものは、たしかに自然である。しかし、人間がそのようにして作ったものは自然ではないし、話も言葉も自然ではない。それらは規約に基づいて存在するものなのである。
 われわれが今まさに学んでいるアリストテレスは、広く知れわたっておりかつこの真理を表現している第二の言葉〔エートス〕を発見した。言語が共同に妥当するというこの領域に属しており、そしてその限りで、言葉が習慣(ノモス)<<syntheke規約>>であるというばかりでない。--むしろ人間の社会的生の全体がそのような妥当性に貫かれているのである。もっともこの妥当性は必ずしも法則ではないが、しかしおそらくは慣習のなかに見出される秩序なのである。アリストテレスはこのことを表現するために、倫理学(Ethik)という言葉の語源となった、エートスという言葉を見つけ出したのである。「エートス」とはさしあたって第二の自然となった慣習以上のことを意味してはいけない。それゆえわれわれは動物たちの生活習慣について語ることもあるが、これに対して、われわれがエートスについてそして倫理学の諸々の可能性について語るときには、われわれは単に「固定された諸習慣」以上のことを考えているのである。われわれはそのとき、自分自身について釈明することができ、自分自身について責任をもつことのできるような身の持し方と態度のことを考えているのである。人間は選択するものであるということ、しかも自分の全生涯をいわば「企てる〔先取りする〕」ほどに選択するものであるということは人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険でもある。
 <<Proairesis(あらかじめ選び出すこと)>>がそれに対するギリシア語の表現である。人は自分の生活を「送る」、しかも人は結局、良い生活、最も正しく、最も相応しい生活を自己の選択に基づいて実現できるように送るのである。それにもかかわらず、人間が秩序づけたり形態でありする行為が常にすでに嵌め込まれてしまっている自然の地平というものが存在し続けている。両親に対して初めて愛情を向けるということがあったとしても、よく舌の回らない子どもにとっては最初の言葉というものは存在しないのと同じように、人間の文化生成にとっては最初の一歩というものは存在しないのである。すなわち、われわれの個人的生活と社会的生活の全体の抽象的な投企というものは存在しないのである。
 プラトンのユートピア国家のなかに、決して争いではなく、満足させられない欲求というものの存在しないような牧歌的な自給共同社会の描写がある。すべてのものが驚くほど汚れのない状態で集まっており、ほどよい規律を保って協力し合っている。ところでプラトンと彼の描くソクラテスはそれを豚国家と呼んでいる。この「豚国家」という表現は言葉の完全な意味での下品さとお粗末な快適さということを必ずしも連想させるものではなく、教養の欠如、教育<<paideia>>の欠如を意味している。プラトンがこの牧歌的な国家を豚国家と蔑称するとき彼の言わんとしていることは、そのような国家が、支配権を行使し奉仕を尊敬するということのうちに成立する人間の本来の課題に未だまったく着手していないということである。人間の課題と政治の課題は、人々が権力をもちはするが自分の権力をよりいっそう益そうと濫用することのないようにすることのうちに成立する。<<paideia>>によってでなければ、すなわち教育によってしか人間のなかに根づいている攻撃の衝動は克服されない、というのがプラトン哲学の偉大な教えである。われわれはこのことがプラトンからフロイトに至るあらゆる政治学の課題だということを知っているし、それがわれわれのうちにあるこの攻撃の衝動を克服してキリスト教の愛の掟を現実化することができるかもしれないという、プラトンからフロイトに至るあらゆる思想家の希望だということも知っている。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二・須田朗訳)「文化と言葉」、『理性を讃えて』(法政大学出版局、1993年)。

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息子殿が春休みになりましたので、細君の御母堂様が東京まで迎えに来てくださり、卒業式のあった土曜日に帰省されました。宇治家参去にはいまだ実感できませんが、マアお孫様というのは、対象を孫と認識する主体にとっては「かわいい」存在なのでしょう。

こちらは朝から馬乗りにされることもない平凡な一日を送れることが束の間の休息です。

さて、そんな息子殿から朝夕電話がかかってきますが、応対するのはほとんど細君であり、わたくしではありませんが、ひさしぶりに声を聞いたところ、……うちの息子殿はその父親と同じく言葉を選択することに慎重・熟慮するタイプのようで……、ひとつひとつの言葉をえらびながら、帰省先でのエピソードを話してくれました。

エピソードといっても、犬の散歩に行った、アニマル・カイザーのゲームで○○のカードが出た、etc……。

ただ全般としては、対象を表現しきれない部分が多々あり、こちらが助け綱をなげるわけですが、それによって文意がはっきりし、お互いに共通了解にいたれるもんだよなアなどと実感する次第です。

その意味では、言葉とは「何らかの仕方で決定される現実的な一致ではない」し、「<言葉は意味を賦与する作用によって言葉になる>」わけでもないのでしょう。

伝達の過程で「記号」と「対象」を〔分かちもち〕することによってリアルな実感をともなってくるのかもしれません。

だから言葉とはアリストテレスが諭したように、孤絶した独白(独白にしても自己という対象が存在するわけですが)ではなく、エートスとかノモスと豊かな関係を持っている人間世界のキーワードなのだろうと思うところです。

ただしかしエートスと聞けば「固定化した」〝しきたり〟とか〝ルール〟を夢想しがちでありますが、それはたしかにそうであるのですが、どうやらそうでもないようです。

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「エートス」とはさしあたって第二の自然となった慣習以上のことを意味してはいけない。それゆえわれわれは動物たちの生活習慣について語ることもあるが、これに対して、われわれがエートスについてそして倫理学の諸々の可能性について語るときには、われわれは単に「固定された諸習慣」以上のことを考えているのである。われわれはそのとき、自分自身について釈明することができ、自分自身について責任をもつことのできるような身の持し方と態度のことを考えているのである。人間は選択するものであるということ、しかも自分の全生涯をいわば「企てる〔先取りする〕」ほどに選択するものであるということは人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険でもある。
    --ガダマー、前掲書。

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確かにエートス、すなわち「習慣」とは「固定化した」〝しきたり〟とか〝ルール〟なのですが、それでけでなく、「『企てる〔先取りする〕』ほどに選択するものであるということは人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険な営みです。

しかしそのことによって人間は、たわいもない省みることすらない永遠に続くだろう日常生活という習慣を維持しつつ、そのなかで彩り豊かな挑戦と感動を味わうことが出来るのでしょう。エートスがエートス自身を脱構築していくべき「企て」こそ人間のひとつの特質なのかも知れません。

電話でのやり取りを終話したあと、細君に、「どんな内容で電話してきているの?」と確認すると、「いつも同じ内容よ!」と返されましたが、額面通りにはたしかに「同じ内容」なのでしょう。

しかし、その言葉を耳にしていると、どうやら同じなようではなく、端から見れば「同じ事を無限反復している日常の報告」なのですが、彼自身にとっては「毎日が無限の展開」のようで、そのことを細君に確認すると、「そう思う」とのことのようで……。

昨年の秋からよく聞く言葉のひとつに「百年に一度」というフレーズがあります。
たしかに昨今の経済危機を評するフレーズとしては最適なのでしょう。

しかし、人間の一瞬一瞬すらが実は「百年に一度」の代換不可能な時間であり、ひとはひょとするとそのことを自覚していないだけではなかろうか……。

息子殿とそういうやりとりをするなかで切に実感する宇治家参去でした。

……ということで、

「この酒はいつ飲んでこの味なんだよな」

……ということで、「すっきりしすぎていて味が微妙」と自己評価していて「ウマイ」のは「ウマイ」のですが、あまり常用していない酒を今日はセレクト。

白瀧酒造(株)の「上善如水」がそれです。

ただしかし、舌の上で転がすように味わうと、すっきりとはしているのですが、鮮烈な味わいが実はあり、そのことを見過ごしていた自分自身を発見です。

これなら毎日飲んでいてもまさに「百年に一度です」。

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私を呼び求める声に対して「私はここにいます」(me voici)と答えること

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 おのれの存在する権利について責任を引き受けると言っても、それはなにか匿名的な法とか、なんらかの司法的実体といった抽象物に準拠してのことではない。そうではなくて、他者に対する恐れゆえに責任を引き受けるのである。私が「世界内部に」あること、あるいは私が「陽の当たるところに席を占めている」こと、私が自分の家にいること。それはすでにして私によって弾圧され、飢餓に追いやられた他の人間の所有に帰すべき場所を纂奪したことではないのだろうか。志向的にも意識的にもまったく潔白であるにもかかわらず、なお私が実存していることが原因でもたらされるかもしれない暴力や殺害のすべてについて私は恐れを抱く。この恐れは私の「自己意識」の背後を通って、心の安らかさ、すなわち繰り返しひたすら存在に固執することへと肉迫する。この恐れは他者の顔から私のもとに到来する。隣人の顔の極限的な直截性、それは現象の造形的な形式を引き裂く。死にさらされてあることの、無防備な直截性。あらゆる言語、あらゆる身振りに先立つ、絶対的孤独の奥底から私へと差し向けられるひとつの訴求。差し向けられた要求あるいは意味された命令、私の現前と私の有責性の審問。
 他の人間の死に対す恐れと有責性。他者の死に対するこの有責性の最終的な意味とは、逃れ得ぬものを前にしたときの有責性である。最初の最後において、他の人間をひとりで死に直面させてはならないという責務である。死に直面したとき--私を求める顔の直截性そのものが、無防備にあらわになり、死との直面をあますところなく示すとき、ぎりぎりの最後に「他の人間をひとりで死に直面させないこと」。それは、他者が死に直面しているとき、私にはどうすることもできないこの対面のときに、私を呼び求める声に対して「私はここにいます」(me voici)と答えることに他ならない。おそらくここに社会性の秘密がある。それはなんの見返りもなんの功利性も期待できないぎりぎりの場面で、なお隣人を愛することである。いかなる現世的欲望を持つことなく隣人を愛することである。
 他者に対する恐れ、隣人の死に対する恐れ、それは私の恐れではあるが、いかなる意味でも私のための(pour moi)恐れではない。その点で、この恐れは『存在と時間』が情状性について行ったみごとな現象学的分析とは、はっきり別のものである。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「心の疚しさと冷厳なるもの」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

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市井の仕事がマア準夜勤ですし、学問の仕事で家を空けることが多いので、ふつうのお父さんよりも実は子供との接点が少ないのは事実なのですが、それでもときどき子供の様子を観察しておりますと、驚きとか発見があります。

一緒に何かを別にしなくてもよい……それは一緒に遊ばなくてもよいという意味ではありませんが……とまではいいませんが、一緒に何かをしなくても、動物的な意味合いでの縄張りのような空間を共有することが彼にとってはどうやら大切のようです。

一番嫌なのが、そうした空間から誰かが離脱することのようで、それならば、一緒に怪獣ごっこだとかアニマル・カイザーごっこだとかを我慢してでも、私が仕事部屋で仕事をしていて、本人は居間でひとりで遊んでいる方が気分的には楽なようで、空間を共有するということは実は人間の世界において大切なあり方なのかも知れません。

哲学とか思想、はたまた法学とか経済学的見地まで、はば広く、いわば学問的なものの見方で、それを表現するならば、それは「人間の社会性」といってよいでしょうが、社会性と聞いてしまいますと、それは「何を共同してやること」という意味での「共同性」に注目しがちですが、人間の社会性を能動的な共同性のみに限定してしまうのは不幸かも知れません。それは何も能動的な共同性を否定しようとか一段低い価値体系に組み込もうとかそういう発想ではありません。

ただ、それだけではないだけであって、まさに共同というように、何かを為す前に「共に在る」という原初の事実を丁寧に見出す必要があるのでは……、子供の様子をみているとフト考えてしまいます。

これは倫理学、道徳〔学、道徳〝学〟として〝学〟を強調するのはカント(Immanuel Kant,1724-1804)ぐらいですが〕に関してもひょっとすると同じかも知れません。

両者とも人間の共同存在としてあり方に関する学問であり、前者がどちらかといえば、その命題を検討する立場とすれば、後者はどちらかといえばその命題を薫育する立場の嫌いがありますが、そうした性質の違いがあっても尚、共通しているのは、うえでみたような「何かを為す」という部分に注目しがちな発想ではないかと思います。

倫理学は道徳のように「~すべし」「~すること勿れ」と訓戒を垂れることはありません。しかしそれでも「~すべし」だとか「~すること勿れ」の妥当性を問う立場であるとすれば、そうした感性と深くリンクしているフシがあり、カントの定言命法を引くまでもなく、近代の倫理学ではそうした傾向が顕著ですから、あまり人気がない……教えていてなんですがといったところです。

カントは大好きでカントが悪いということでは決してありませんし、それはカントではなくカント主義者の問題なのだろうとみています。ちなみにそうしたあり方を全否定し、ケセラ・セラと囀り機能主義でかたづけてしまおうとする現代倫理学にもマア違和感があるわけですが〔ローティ(Richard Rorty ,1931-2007)は別ですが〕、いずれにしましても、そうした知見に耳を傾けながら、人間を見ていかないと、ものの見方そのものが生きてゐる人間そのものを矮小化させてしまうのかもしれません。

そうした声にならぬ声、表現にならない空間の匂いと責任……そうした問題を木訥な言葉で紡ぎ出しているのがおそらくレヴィナス(Emmanuel Lévinas