日記:郷土やその伝統と文化を大切にしたり学ぶというよりも、stateに従順で反論しない人間育成としての道徳科「愛国」教育という中身
木曜日(2月12日)の『朝日新聞』の声の欄に「道徳を愛国心に絡めないで」という意見が掲載されていました。
サミュェル・ジョンソンの有名な言葉「愛国心は、ならず者の最後の避難場所である」を引かれながら「道徳と愛国心は全く無関係であり、幼い子に教室で愛国心を押し付けるのはいかがなものかと思います」と明快に喝破しております。
そもそも論とこの国の受容の歪曲を考えると、「道徳」は教え込まれて受容されるものではありませんし、道徳をもって生きると言うことは、特定の伝統やコードを受容してそのデッドコピーとして生きることではありません。
ですから、そもそも「道徳」教科化自体がちゃんちゃらおかしい話ですけど、まあ、それは横に置きまして、形而上的な規範とイコールされるものではなく、「~にすぎない」というこの世の相対的な規範の一つに過ぎないものという意義で……ものすげえ譲った議論ですが……道徳を捉えたとしても、「道徳と愛国心」は全く無関係であり、幼い子どもに愛国心を押し付けるものはいかがなものかとなってしまいます。
さて……。
くだんの文科省の学習指導要領をひもとくと、つぎのようにあります。
[http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/dou.htm:title]
いわく「郷土や我が国の伝統と文化を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ」ことを目指すそうな。
しかし、その郷土や国を愛する心というベクトルの現在がどうかと誰何すれば、そこに違和感をおぼえる議論や異なる方向性を前に、「売国奴」「非国民」「ブサヨ」といった言葉の脊髄反射ばかりじゃありませんか。
言葉としては、郷土やその伝統と文化を大切にしたり学ぶという「フレコミ」でしょうが、その実は、stateに従順で反論しないというのが「愛国」の中身なんだよと思わざるを得ませんし、「統治する側」の眼差し……すなわちそれは文部行政という「権力」の眼差しでありますが……からすれば、それほど統治に便利な人間育成は他にはありえないというお話でございます。
加えて我が国の歴史や文化は、個人を尊重しようという思想とは相容れないだとか、立憲主義は古くさい、男女平等は西洋の思想云々という喧噪が民間だけでなく一国の指導者や為政者からつぎつぎにまことしやかにささやかれるのが今の日本ですよ。
彼らの言う「内」へ求心力は「西洋はいかんぞゴルァ」というISILとどれだけ違うのかしらんと思ったりします。
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声:道徳を愛国心に絡めないで
2015年2月12日
翻訳者 東京都 50
文部科学省が発表した「道徳科」の指導内容を見ました。小学1、2年生の授業について「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つこと」とあります。冒頭の「我が国」が気になりました。過剰で排他的な愛国心教育につながるのではないかと思ったのです。
愛国心という概念のもとで人々は昔から戦争や対立に陥ってきました。18世紀の英国の文学者サミュエル・ジョンソンは「愛国心は、ならず者の最後の避難場所である」と名言を残しています。道徳と愛国心は全く無関係であり、幼い子に教室で愛国心を押し付けるのはいかがなものかと思います。
私は20年以上前から日本に住んでおり、日本と日本人が大好きで、故郷の英国に帰る気はありません。でも、私が英国を捨てたことで私は道徳に背いているとは思わないし、そう言われたら困ります。
愛国心は、あくまでも個人の自由な考えに基づくべきものだと考えます。道徳を日常生活に取り入れていけば、誰に言われなくても、日本人は誰もが自分の国を愛するように自然となっていくでしょう。
--「声:道徳を愛国心に絡めないで」、『朝日新聞』2015年2月12日(木)付。
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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11597505.html:title]
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