趣味(時計・カメラ・万年筆・ライター)

日記:キャンパスの紅葉 2014年。


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Xマウントのカメラを使ってみたく、ミラーレス一眼レフをエントリーモデルですが富士フィルムのX-A1に更新してみました。標準のズームレンズ(16-50mm f/3.5-5.6)の出来合いが抜群と聞いておりましたが、非常によく写ります。

近いうちに単焦点の広角を使ってみたいと思いますが、非常にすばらしいカメラですね。

まずはキャンパスの紅葉で試し撮り。 

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わたつみの豊旗雲に入日さし こよひの月夜さやけくありこそ

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「わたつみの豊旗雲に入日さし こよひの月夜さやけくありこそ」(天智天皇・万葉集)。

先月と同じようなエントリーで恐縮ですが、またしても葬儀にて、瀬戸大橋を渡る機会がありましたので、その寸描を残しておきます。

日が沈む前なので、紅くは染まっていませんけれども。


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夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

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大君の遠の朝廷みかどとあり通ふ島門しまとを見れば神代し思ほゆ(柿本人麻呂)


個人的には、瀬戸大橋を通る際は、夕暮れか早朝がベストではないかと思うのですが、葬儀で帰省した折り、ちょうど夕刻に通過することができましたので、いくつか写真を撮ってみました。

岡山駅についたときに雨があがったようで、陽の光がもどりはじめました。

Nikon COOLPIX P300。少し前のモデルですが、コンデジでは割といい絵のとれるカメラではないかと思いつつ。


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旨いもの・酒巡礼記:東京都・国分寺市編「もつやき処 い志井」

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 我々は右のごとき学の事実に代えて、日常的実践的なる経験の事実を捕らえようとする。かかる経験は、単に観照的なる対象の認識ではなくして、実践的行為的なる連関そのものの内に与えられている。だからそこでは対象は常に人間存在の表現である。たとえば我々は日常的に物を買うことにおいてすでに商品を経験している。が、この商品は単なる対象物でもなければまた経済学的観念でもない。それは衣食住としての人間存在それぞれの契機を表現せるものであって、食料品、飲料、衣服、家具等々として取り扱われ、それぞれの商品あるいは部門において商われる。さらに細かく言えば食料品は家庭の日常必需品、料理屋の消費品、あるいは贈り物、祝い物等々として性格づけられている。同様に衣服も礼服、訪問着、ふだん着、制服、子供服、赤ん坊の着物等々として商われる。家具もまたあらゆる生活の仕方を表現している。すなわち商品にして人間存在を表現せざるものはない。そうして我々はこの表現に即して商品と交渉し、表現なきものを商品としては扱わない。しからば我々は商品の経験においてすでに人間存在の表現を理解しているのである。かかる経験を通路としてこそ我々は人間存在に達し得るであろう。
    --和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、2007年、217-218頁。

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月曜日に最終講義を終えてから、さて、少し「自分にご褒美をだすか」ということで、「いつものところに逗留するのもナニだし」と思いつつ……、

「そういえば、国分寺に、『い志井』があったような……」

……ことを思い出してぶらりと訪れたのが、「もつやき処 い志井 国分寺店」。

哲学・倫理学を講じながら「また、酒かいな!」って言われそうですが、哲学にせよ倫理学にせよすべて「身近なものごとに注目する」ことから、その学派始まるわけですから、「モノ」を「所詮、モノに過ぎない」として扱うのではなく、「人間存在を表現」するものとして向かい合う「矜持」というものが必要なわけです(キリッ

日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)曰く「すなわち商品にして人間存在を表現せざるものはない。そうして我々はこの表現に即して商品と交渉し、表現なきものを商品としては扱わない。しからば我々は商品の経験においてすでに人間存在の表現を理解しているのである。かかる経験を通路としてこそ我々は人間存在に達し得るであろう」……ということです。

酒を通して「人間存在に達し得る」ことほどすばらしいことは他にはないでしょう。

さてJR国分寺駅で降りて、北口から線路沿いにあるいて5分ぐらいでしょうか。

もともと確か「日本再生酒場」関係の「い志井」グループから誕生したような記憶があり、「日本再生酒場」は博多駅で4月にお世話になりましたので、いわゆる「スタンド式」の「立ち呑み」を想像していたのですが、まずは、その立派な店構えにびっくり。

引き戸をくぐって、なかへ誘われると、さっぱりと清められた老舗の蕎麦やかウナギやのような雰囲気。落ち着いてゆっくり本格の味わいを楽しめるお店のようですね。

カウンターに坐ってから瓶ビールを注文して、何にしようかしらんと思案しつつ、先ずは「牛串」をお願いした次第。

汗をぬぐい、ビールで涼をとりながら、しばらく待っていると運ばれてきましたが……。

いやはや……。
「串」とは銘打たれておりますが、芥子をまぶして口に運ぶと、ジューシーな肉汁と相まって、もはやこれは、上等なステーキのような塩梅。

塩梅かげんで、梅きゅうりでさっぱりしてから、ハラミとハツを塩でお願いしましたが、こちらも常識を覆すような、立派さといいますか、チェーン店などでやるものよりも数倍大きな塊にもはや脱帽です。

となりで、これまた一人でやっているおねいさんが、「八海山」(冷や)をお願いしてので、つられてこちらも「はっかいさーーん」。

ほどよく冷えた日本酒の旨みが、串によって際だつ次第です。

長居したいところですが、そのあとも少し所用がありましたので、最後は、たたき(軟骨)をお願いして、ハイボールで締め。

確かにがやがやした「日本再生酒場」には喧騒のにぎわいがなんともいいのですが、落ち着いて・ゆっくり……といっても決して長っ尻でないレヴェルで……ひとりで、味わうというのも乙なものです。

ビールは麒麟ラガーのみ(生ビールも)で少々高い値段設定(瓶で600円)かなあと思いますが、日本酒、焼酎は平均レベル。串は、100数十円からですから、3000円もあれば、ひっそりと羽を伸ばすことのできる名店ですね。

あ……。
そういえば名物の「もつやき(串)」を頼んでおりませんでしたね。またよらせて頂こうかと思います。

■ もつやき処 い志井 国分寺店
住所 国分寺市本町4-1-7
電話番号 042(323)4387

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東京の夜桜:「一つ一つの対象がそれ固有の色調をもっているという従来の伝統的な考え方の全面的な否定」!

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 太陽の光によって、明るさのみならず、対象の色調も変化するというこの認識は、別の言葉でいえば、一つ一つの対象がそれ固有の色調をもっているという従来の伝統的な考え方の全面的な否定であった。(中略)一見白色光のように見える太陽光線が実は七彩の虹の色を含んでいるように、太陽の光に照らし出された自然の姿も、その多様な色の変化をそのまま繁栄している。伝統的な約束事に曇らされていないモネたちの鋭敏な眼は、自然を彩るその微妙な色彩の輝きをはっきりと見てとったのである。
    --高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年。

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4月6日に東京では櫻の満開宣言が出されました。
遅い通勤途上、自転車道で夜桜を撮影してみましたが、やはりなかなか難しいものですね。

櫻は薄いピンクのように見えますが、夜は白い花びらのように見えます。

漆黒の夜空とのコントラストが強いからでしょうかね。

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「もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである」

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   三一五
 放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、--もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。
    --F.ニーチェ(茅野良男訳)『ニーチェ全集7 曙光』筑摩書房、1993年。

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とうとう壊れてしまいました。
使い続けることを“放棄”せざるを得ません。
いつも自宅ではデスクトップのPCを利用しております。
ちょと前の型ですがHpのワークステーションなのですが、これにVistaをぶち込んで使ってい、そのうち、windows7に入れ替えればまだまだ使えるかな……と思っていたのですが・・・。

朝、PCの画面に電源をいれると、固まったまんまにて、再起動させようとリセットをしたのですが、それっきりたちあがらず……。

Bios画面を調べると、マザーボードの不具合のようでした。

幸いハードディスクに異常はありませんでしたので、データなどには問題はないのですが……、ちょいとふうう~ってところでしょうか。

ちょうど3年ぐらい使っていたのですが、基本的には電源を入れっぱなしで、使わないときはモニターだけ切って利用するというスタイルでしたが……、これになれてしまうと、電源を切ったりつけけたりする生活へもどるのが少しおっくうというやつです。

自宅には息子殿用のDELLのデスクトップと、細君のノートブック、自分の出張用のネットブックしかありませんので、いまはネットブックで作業をしているところです。

ちょうど夏に液晶もフルHD対応の21インチのモニターに切り替えたところですので、出張ぐらいでしか使わないミニノートの液晶で作業をすると、まあ、これが“机が狭い”……というところでしょうか。

先月末に、自分へのプレゼントとして、SharpのLinuxのネット端末を購入したのですが、そんなものを買わずに、デスクトップを買い換えた方が良かったかもしれません。

ただ、あまりそのことにひっぱられると、前進できませんので、また仕事をがんばって自宅の不眠不休PCを購入できるようにがんばることにいたします。

権利の断念は、まさに、「もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである」というニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉に背中を押されつつ……、3年間不眠不休でがんばってくださいましたぶっ壊れたPC殿、ありがとうございます。

ゆっくりお休みくださいまし!

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進歩。--だまされてはいけない!

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 進歩。--だまされてはいけない! 時間は前方へと経過する、--だから私たちは、時間のうちにあるすべてのものが前方へと経過すると、信じたがる、--発展とは前方への発展であると・・・これは、最も思慮深い者もまどわされる見かけだおしである。しかし一九世紀は一六世紀にくらべて進歩ではなく、また、一八八八年のドイツ精神は一七八八年のドイツ精神にくらべて退歩である・・・「人類」は前進せず、それは現存してすらいない。相対的様相は、巨大な実験工房のそれであり、そこでは、或るものは成功するが、それも全時代をつうじて散乱しており、言いようなく多くのものは失敗し、そこには、秩序、論理、結合、拘束力が、まったくみられない。キリスト教の到来は一つのデカダンス運動であるということを、どうして私たちが見誤ってよかろうか? ・・・ドイツの宗教改革はキリスト教的野蛮の再発であるということを? ・・・革命は社会の大衆組織化への本能を破壊してしまったということを? ・・・人間は動物にくらべて進歩ではない。文化に甘やかされた者はアラビア人やコルシカ島人にくらべれば畸形児である。シナ人は、ヨーロッパ人よりも出来のよい典型である。すなわち、長持ちのする典型である。
--ニーチェ(原祐訳)「権力への意志 上」、『ニーチェ全集』13巻、筑摩書房、1993年。

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産業革命以降、人間の歩みを決定づけたのが、(啓蒙思想ではなく)啓蒙〝主義〟に基礎づけられた「進歩」史観ではないかと思います。

科学技術の進展を目の当たりにした人間は、科学が魔術からひとびとを解放し、快適な楽園を演出すると夢想したわけですけれども、実際にはどうでしょうか。

科学無用論を説くわけではありません……いうまでもなく必要不可欠です……が、進歩の思い描く「人間像」に対して「人間」そのものが付いていけなかったのは否定できない事実であることは間違いないでしょう。

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の箴言は、そうした楽天的進歩史観に苦渋する世紀末の呻吟のようなものが感じられます。

さて……。
iPhoneネタで恐縮ですが……先週から使い始めたiPhoneだいぶ慣れてきたところです。
たしかに、クラウドコンピューティングを先取りする、ネットワーク端末して現時点でよくできていることとその使いやすさは体感したわけですけれども、問題も実感です。

バッテリーのもちが悪い!

……そのことです。

通話とメールはひとまず措きますが、なにをするにも、ネットワーク接続が開始されるますので、バッテリーの消費がおどろくほどはやいということです。

満充電で省電力設定をせずに、他になにもやらずにインターネットの接続(閲覧)がだいたい5時間いくかいかないかくらいですので、バッテリーのもちということに関しては、これまで使っていたNokiaのX01Nkのほうがトータルではよかったのではないか……そう思う次第です。

クラウドコンピューティング端末としては確かに、Nokiaの端末よりiPhoneの方がよくできていることは否定できませんし、数々の魅力的なアプリケーションの前ではiPhoneに軍配を挙げざるを得ませんが、バッテリーのもちに関しては、iPhoneVSnokiaだけでなく、ちょいと以前の携帯端末の方がよかったのかもしれません。

もちろん、ちょいと以前の端末では、iPhoneでできるようなことができなかったわけですので、「もちがよい」のは最もなんですが、ファーストインプレッションとしてはそうしたところを抱かざるを得ません。

その意味で、まさに進歩とは、完膚無きまでの「前方への発展」とイコールではなく、「巨大な実験工房のそれ」に〝すぎない〟ところを自覚しておきませんと、〝なんでやねん〟となってしまうのかもしれません。

しかし、とやかくいいながら、新しいガジェットに満足しつつ、面白く楽しんでいるのが、内蔵カメラ+アプリの構成です。

トイカメラ風、70年代のフィルムカメラ風(しかも一眼とかではなくチープなAEカメラ)に撮影できるアプリケーションがいくつかあるのですが、LOMO風に撮影できるアプリケーションでこのところ楽しんでおります。

LOMOとはロシアのAEコンパクト・フィルムカメラのことですが、90年代後半からその画風でブレイクしたトイカメラのことですが、「MORE LOMO」という無料のアプリケーションをつかうと、そうした雰囲気で撮影することが可能です。

LOMOはチープなカメラのため、周辺光量が極端におちてしまう画風になってしまうのですが、それがなんだかノスタルジアを誘うというわけで、今でも愛用者の多いカメラです。

最新のiPhoneで前世紀のフィルムカメラ風に撮影する。

ここにもひとつの「進歩」と「退歩」を痛感させる一コマが潜んでそうですね。

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ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

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今更ながら……iPhone~

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こんばんわ。宇治家参去です。

今更ながらですが、iPhone3G〔S〕に機種変更しました。

これまではnokiaのQWERTYキーボードのついたスマートフォンを使用していたのですが、機種変更のタイミングがきましたので、今更ながらですが、iPhoneにした次第です。

なかなかよいですな。

ついでに……。

明日、カメラマンとなる必要があるんですが……。
実は、実は……
12月に購入したばかりのCanonのハイエンドデジカメPowershot S90を先々週、紛失してしまったので、予備のLumixで撮影しようかと思ってはいたのですが、ええぃ~ままよってことで、S90には劣るのですが、SonyのDSC-WX1という、解放値F2.4、広角24mmの中堅機を用意しました。

ちょいとふたつをこれからいじって頑張ります。

……ということで、

以上。

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タイガーI ミヒャエル・ビットマン仕様

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 第三帝国の十二年間にわれわれに与えられたあの恐ろしい体験を、人々はいつか完全に理解するであろうか。われわれはそれを体験してきたとはいいながら、だれ一人として、これまでそれを完全に理解したものはなかったのだ。なるほどわれわれの運命のあれこれの側面は、しばしばまぶしい照明をあびて、いっけんまったく確実に、われわれの眼前にあらわれてくる。しかし、それらすべてがたがいにどのような関係にあり、またいっそう深いもろもろの原因とどんな関係があるかを、そしてまた、第三帝国の初期にあれほど多くの人々を酔わせたはてしない幻想から、末期の同じくはてしない失望と崩壊にどのようにして移っていったか、また移っていかねばならなかったかを、だれがわれわれにこんにち完全に説明できるであろうか。ドイツの歴史は、解きがたいなぞと不幸な方向転換にとんでいる。しかし、われわれにこんにち提出されているこのなぞと、われわれがこんにち体験している破局とは、われわれの感じからいって、以前のあらゆるこの種の運命を凌駕するものである。
    --マイネッケ(久保俊隆訳)『ドイツの悲劇』中公文庫、1974年。

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仕事の必要上から、ドイツを代表する伝統的な歴史学者・フリードリヒ・マイネッケ(Friedrich Meinecke,1862-1954)の『ドイツの悲劇』を再読しておりますが、この書は、同時代人として第二次世界大戦での悲劇を体験したマイネッケの歴史論とでも表現してよろしいのでしょうが、読み直すたびに実感するのが、記述としての歴史とか、史料批判としての歴史から洩れだしてしまう時代の実相とでもいえばいいのでしょうか……そのあたりの迫力を感じてしまいます。

マイネッケは同書で、ヒトラー(Adolf Hitler,1889-1945)を台頭たせたひとびとの欲望と幻想に注目しながら、その成立と崩壊を読み解いていきますが、同時代人の証言の重さを保ちつつ、自己自身に対する深い内省として吐露された文章には、ものごとをあれか・これかで分断できない、そしてすくいあげることのできない、息吹というものを感じてしまうのは宇治家参去一人ではないのかもしれません。

ここに近代的な歴史学の祖として知られるランケ(Leopold von Ranke,1795-1886)とは異なるマイネッケのマイネッケらしさがあるのでしょうが、やはりそのきっかけは若い頃に影響をうけた、哲学的解釈学者・ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)の感化が大きいのかも知れません。

……そのようなことをぼんやりと考えていると、キャンセルをし忘れたPCが配達されてしまい、まず、財布から大枚が飛んでいくという始末です。

10月あたまに、プレゼン向けには使いにくい!ということで、ポケットにはいる「手放せないPC」と呼ばれvaio type Pを売却し、次のPCを物色していたのですが、出荷のタイミングなど問い合わせるなかで、最初に注文したLenobo(旧IBM)のThinkPad X200s……windows7のからみとBTOで細部をオーダーしたのが原因ですが……がなかなか届かなく、これはまずいということで、ネットブックとかUMPCと呼ばれる部類ですが、高解像度で知られるsonyのwシリーズを保険で予約していたのですが、スクーリングでの使用直前にX200sが到着し、そのまんまセットアップはしたのですが、sonyのwをキャンセルするのを忘れてい、猶予期間もとっくに過ぎていたようで……、到着した次第です。

がっくししながら、お金を払い、それでも新しいものをいじくるのは大好きなので、やはり電源を入れて立ち上げておりますと、またしても、

「ぴんぽ~ん」

……ということで、

「また、金が飛んでいくアレか?」

……ってインターフォンに出てみますと、単なる、ポストに入らない郵便物のようでしたが……。

手にとってちょいと驚きです。

昨年末に、懸賞といいますか……、応募シールを集めて送ったプレゼントが当選したようです!!!

F-toysという食玩メーカーが展開している「モータータンクコレクション」というシリーズの第2弾なのですが、電池で動く第二次世界大戦の独ソの戦車のフィギュアなのですが、販売されていないレアなモデルが景品でしたので、エントリーしたわけですが・・・

「タイガーI ミヒャエル・ビットマン仕様」

・・・というマニアには真涎もののアイテムがあたっちゃいました!!!

お陰様でPCの二重打刻とでもいえばいいでしょうか、そうした事態に頭を悩ませていた心痛が、タイガー戦車の到着によって、雲散してしまうものですから、人間の心とは不思議なものです。

タイガーIとは、ご存じ、第二次世界大戦下のドイツを代表する戦車(Panzerkampfwagen VI Ausf. E [Sd Kfz 181] )で、重装甲・重装備で、戦車の代名詞といっても過言ではありません。

発音としては「タイガー」と読むよりもむしろ「ティーガー」と読む方が原語に近いわけですが、な、な、なんと、その「ミヒャエル・ビットマン仕様」ではありませんか!

ヴィットマン(Michael Wittmann,1914-1944)とは、第二次世界大戦中のドイツ第三帝国を代表する対戦車戦闘の撃墜王で、武装親衛隊の第1SS装甲師団に所属した戦車兵のことです。

撃破数は戦車138両とは、マア、ありえない戦果なのですが、その最後に乗っていた007号のモデルということで……細部まで堪能させて頂いた次第です。

……ってところで?

また、してもハッとしてしまいました。

つねづね、平和と非暴力の伝道師?として活躍しそうした言説をはいているのですが、現実には二律背反におちいっているのかもしれません。

ネオ・ナチでもありませんし、ミリタリストでもありませんし、戦争にはいきたくもありません。

しかし、男はどうしても……

……この手のカルチャーに弱いのかもしれません。

ディテールを堪能しつつ、一喜一憂していた様を観察していたのが細君ですが……

「こんどは何が来たの?」

……というので、

「聞いて、腰を抜かせ! 手に入らない限定モノの、故ミヒェエル・ビットマン武装親衛隊大尉が最後に乗っていたティーガーIだぜ」

「は?」

「は? ぢゃねえだろう」

「くだらない……。いい年こいたオッサンが、なにを玩具に、そこまで知的リソースを注いでいるの?」

細君には理解不可能な世界のようでした。

しかし、細君には理解不可能な世界であるということは、女性の力が、平和構築に関しては根柢として必要不可欠なのかもしれません。

……ということで、本日10月30日は、マイネッケの誕生日のようでした。

いやぁぁ、この食玩……よくできている。

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 ドイツの悲劇 ドイツの悲劇
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さらば GR Digital 2

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 「哲学的」な思想群は、日常生活の諸観念や立法家および宗教的始祖たちの諸原則とは区別されうるその最終の文献的源泉を、ギリシャ古代に持っている。しかしそれは単にギリシャの思想家たちが、後代になって改めて独立して構成されたような経済的性質の認識を発表したのを意味するものえはない。むしろこれらのギリシャ思想家たちが次代に影響を与え、彼らの不断の、あるいは少なくとも常に復活してくる関係の鎖が、アダム・スミスの著作に役だった著者たちの大多数に、そうしてまたアダム・スミス自身にまで及んでいるという意味においてである。われわれにとって最も注視されるべきギリシャ影響は、その重要さの順序に配列するなら、アリストテレス(Aristoteles)、プラトン(Plato)、ストア学派(Stoiker)およびエピキュール学派(Epikuräer)からのものである。歴史的役割をしばらく別とすれば、彼らの提供したものの価値自体はもちろん過重に評価されるべきではない。彼らの折にふれての表現のなかから、後世の人が類似の響きを与える命題に結びつけたすべての内容を読み取ろうとするのは間違っている。それのみならず、経済的思考過程の域に達した若干の基本的命題といっても、はなはだ簡単なもので、経済過程の実際上の、半ば本能的な認識から自ずと生まれたものであるから、定式化されたことは特に記すにたるほどの業績ではない。最後にこれら古代人は一方において経済的問題を、例えば国家論の問題に較べて遙かに僅かしか考慮していなかった。また他方において次代のものは、これらの古代人が表面に立てていた諸問題よりも、経済問題に対しては相対的に遙かに多くの精力を注いできた。従ってこの二重の根拠からして経済学に対するギリシャの遺産は他の領域に対するものよりもいっそう僅かな役割しか演じていないのである。かの家計の自給自足を内容としているオイコスの経済(Oikenwirtschaft)が、しばしば言われるように、なんの「国家経済的」問題をも提供していないというのは正しくないし、またオイコスの経済は決定的な時期において、既にかかる議論が前提としているほどに支配的ではなかったのではあるが、いずれにせよ経済生活の問題における科学的思考がそれほど前進してはいなかったことも事実である。
    --シュムペーター(中山伊知郎・東畑精一訳)『経済学史 学説ならびに方法の諸段階』岩波文庫、1980年。

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こんばんわ。
宇治家参去です。

ちょいと一昨日、慶應キャンパスを訪問してからひらめき、古典派と異なり「均衡は沈滞なり!」と論じたシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter,1883-1950)を繙いております。

大学時代の一般教養の社会科学分野では「政治学」「社会学」「地理学」にてスルーしましたので、経済関係をまったく履修しておりません。

ですが、一緒に5年生?まで頑張ってくれた学友(商学部)……それはお互いの怠惰によるわけですが……が4年目(3年生)のときに、それまでおつりがくるほど遊んでいたにもかかわらず、学問に刮目してしまい、最後はゼミ長までやっていた友人から、「これ読めよ~」とか「マクロはなア~」とか「ミクロはなア~」などと経済のイロハを教示してくれる中で、勧めてくれた一冊があり、本日まで読んでおらず、これはマズイわな……ということで繙いた次第です。

まあ、遊びも後になって振り返ってみれば勉強ということで……それはそれで実に大切なのですが、その友人、就職してからも……大手メーカーですが……「おれはサラリーマンの営業が天職だ!」といって憚らない不思議な友人で、いまもって大切な友の一人であります。

でシュンペーターをひもとくとぎくり!

自分が経済感覚に疎いことはもとより承知しておりました。
数式が出てくるとまずアウトですし、勘定ができない。
そんで、なんとかなる……そうした憶見がかさなり、うまく経済状況を支配することができなかったのですが、その理由がわかった次第でして……。

もともとeconomyという言葉は、ギリシア語のοικονομία(家計)を起源としております。古代ギリシアの哲人たちの言葉は腐るほど、暗唱できるほど読んでおりますが、ちと誤解しておりました。

シュンペーターが「彼らの折にふれての表現のなかから、後世の人が類似の響きを与える命題に結びつけたすべての内容を読み取ろうとするのは間違っている。それのみならず、経済的思考過程の域に達した若干の基本的命題といっても、はなはだ簡単なもので、経済過程の実際上の、半ば本能的な認識から自ずと生まれたものであるから、定式化されたことは特に記すにたるほどの業績ではない。最後にこれら古代人は一方において経済的問題を、例えば国家論の問題に較べて遙かに僅かしか考慮していなかった。また他方において次代のものは、これらの古代人が表面に立てていた諸問題よりも、経済問題に対しては相対的に遙かに多くの精力を注いできた。従ってこの二重の根拠からして経済学に対するギリシャの遺産は他の領域に対するものよりもいっそう僅かな役割しか演じていないのである」という通りかもしれません。

たしかに古代ギリシアにおいては、家庭内経済=家計を論じるタームとしてオイコスという言葉が創案され、それが経済(学)の原語となっております。しかし、そこに由来した経済学とは、古代ギリシアにおける探究とは繋がりはまったくないことはないももの、似ても似つかぬものですから、……古代ギリシアの哲学者ばかりを熟読していた宇治家参去は、それをもって経済を論じていたわけですから、現実に自分自身が運用している経済感覚が麻痺してしまう……というのも筋道です。

とわいえ、いつになっているのも共通しているのは貧乏暇なし、ワーキングプアというところでしょうか。

ちょうど7月の頭に広角搭載のズーム有りのコンパクトデジカメが必要になり、PanasonicのFX-40というのを購入したのですが、3日目に紛失でがっくし。

その前に、半年前から使っていたCanonのIXY Digital L3というコンパクトデジカメは売却済みにて、手元にあるのが、自称勝負カメラとしていたRicohのGR Digital 2のみでして、この勝負カメラ、写りは最高なのですが、単焦点……つまりズームのきかない……広角28mmオンリーという通向けのカメラにて、仕事で使うにはどうも……という状況で、8月のあたまに、買っちゃいました。

それがCanonのIXY Digital 920ISという中堅コンパクトです。
昨年のモデルですが、広角からズームもOK。画像処理プロセッサーも最新のDIGIC 4 で価格もこなれていたので買っちゃいましたが……これが実に活躍しております。

しかし、勝負カメラのGR Digital 2と較べると、やはりかゆいところに手が届かず、趣味で使うには自分的にはNGで、仕事カメラとしては最高だな……というところです。

……しかし、貧乏なわが家において、一人でデジカメを何台も使うのは難題だと、匂いをかぎつけてきたのが細君です。

「使わない方を売りなさい」

……とのことだそうにて、

趣味よりも仕事の必然があるために、GR Digital 2 を売却することにしました。
たった1年しか使っていないのに!

いずれにしましても形而上学としてのオイコスは理解していましたが、エコノミーを理解していないが故の難事です。

さようならGR Digital 2 !

ちょうど後継機(Digital 3)が出たところなので、後継機を絶対買うからねぇ~(細君には内緒)!……とさよならした次第です。

むかし、デジタルマニア?の友人からいわれたことがあります。

「デジタル機器に資産的価値はないから、1年ぐらいで更新した方がいいよ」

そのときはぴんと来ませんでした。

が……ここ数年の生活を見ていると、やはり1年ぐらいで売却しては新しいのを買う!というのを続けておりますが、その意味では彼の予言は正しかったのでしょうか……。

いずれにしましても、売却したGRカメラに搭載されていたレンズは、実は銀塩カメラのライカ用に90年代末期供給されたGRレンズに端を発するレンズです。

こちらのアナログ機器は幸いに今のところ生活費の足しにと売却せずに済んでおりますが、デジタル版のGRは生活費の足しになってしまいそうです。

はやく貧乏から脱却したいものです。

実際にはグレート貧乏なのですが、あまり貧乏に見えないところは……人徳のなすところでしょうか。

いずれにしましても、経済学……シュンペーターから始めましたが丁寧に読んでいくとかなり面白いですね。

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