趣味(時計・カメラ・万年筆・ライター)

タイガーI ミヒャエル・ビットマン仕様

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 第三帝国の十二年間にわれわれに与えられたあの恐ろしい体験を、人々はいつか完全に理解するであろうか。われわれはそれを体験してきたとはいいながら、だれ一人として、これまでそれを完全に理解したものはなかったのだ。なるほどわれわれの運命のあれこれの側面は、しばしばまぶしい照明をあびて、いっけんまったく確実に、われわれの眼前にあらわれてくる。しかし、それらすべてがたがいにどのような関係にあり、またいっそう深いもろもろの原因とどんな関係があるかを、そしてまた、第三帝国の初期にあれほど多くの人々を酔わせたはてしない幻想から、末期の同じくはてしない失望と崩壊にどのようにして移っていったか、また移っていかねばならなかったかを、だれがわれわれにこんにち完全に説明できるであろうか。ドイツの歴史は、解きがたいなぞと不幸な方向転換にとんでいる。しかし、われわれにこんにち提出されているこのなぞと、われわれがこんにち体験している破局とは、われわれの感じからいって、以前のあらゆるこの種の運命を凌駕するものである。
    --マイネッケ(久保俊隆訳)『ドイツの悲劇』中公文庫、1974年。

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仕事の必要上から、ドイツを代表する伝統的な歴史学者・フリードリヒ・マイネッケ(Friedrich Meinecke,1862-1954)の『ドイツの悲劇』を再読しておりますが、この書は、同時代人として第二次世界大戦での悲劇を体験したマイネッケの歴史論とでも表現してよろしいのでしょうが、読み直すたびに実感するのが、記述としての歴史とか、史料批判としての歴史から洩れだしてしまう時代の実相とでもいえばいいのでしょうか……そのあたりの迫力を感じてしまいます。

マイネッケは同書で、ヒトラー(Adolf Hitler,1889-1945)を台頭たせたひとびとの欲望と幻想に注目しながら、その成立と崩壊を読み解いていきますが、同時代人の証言の重さを保ちつつ、自己自身に対する深い内省として吐露された文章には、ものごとをあれか・これかで分断できない、そしてすくいあげることのできない、息吹というものを感じてしまうのは宇治家参去一人ではないのかもしれません。

ここに近代的な歴史学の祖として知られるランケ(Leopold von Ranke,1795-1886)とは異なるマイネッケのマイネッケらしさがあるのでしょうが、やはりそのきっかけは若い頃に影響をうけた、哲学的解釈学者・ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)の感化が大きいのかも知れません。

……そのようなことをぼんやりと考えていると、キャンセルをし忘れたPCが配達されてしまい、まず、財布から大枚が飛んでいくという始末です。

10月あたまに、プレゼン向けには使いにくい!ということで、ポケットにはいる「手放せないPC」と呼ばれvaio type Pを売却し、次のPCを物色していたのですが、出荷のタイミングなど問い合わせるなかで、最初に注文したLenobo(旧IBM)のThinkPad X200s……windows7のからみとBTOで細部をオーダーしたのが原因ですが……がなかなか届かなく、これはまずいということで、ネットブックとかUMPCと呼ばれる部類ですが、高解像度で知られるsonyのwシリーズを保険で予約していたのですが、スクーリングでの使用直前にX200sが到着し、そのまんまセットアップはしたのですが、sonyのwをキャンセルするのを忘れてい、猶予期間もとっくに過ぎていたようで……、到着した次第です。

がっくししながら、お金を払い、それでも新しいものをいじくるのは大好きなので、やはり電源を入れて立ち上げておりますと、またしても、

「ぴんぽ~ん」

……ということで、

「また、金が飛んでいくアレか?」

……ってインターフォンに出てみますと、単なる、ポストに入らない郵便物のようでしたが……。

手にとってちょいと驚きです。

昨年末に、懸賞といいますか……、応募シールを集めて送ったプレゼントが当選したようです!!!

F-toysという食玩メーカーが展開している「モータータンクコレクション」というシリーズの第2弾なのですが、電池で動く第二次世界大戦の独ソの戦車のフィギュアなのですが、販売されていないレアなモデルが景品でしたので、エントリーしたわけですが・・・

「タイガーI ミヒャエル・ビットマン仕様」

・・・というマニアには真涎もののアイテムがあたっちゃいました!!!

お陰様でPCの二重打刻とでもいえばいいでしょうか、そうした事態に頭を悩ませていた心痛が、タイガー戦車の到着によって、雲散してしまうものですから、人間の心とは不思議なものです。

タイガーIとは、ご存じ、第二次世界大戦下のドイツを代表する戦車(Panzerkampfwagen VI Ausf. E [Sd Kfz 181] )で、重装甲・重装備で、戦車の代名詞といっても過言ではありません。

発音としては「タイガー」と読むよりもむしろ「ティーガー」と読む方が原語に近いわけですが、な、な、なんと、その「ミヒャエル・ビットマン仕様」ではありませんか!

ヴィットマン(Michael Wittmann,1914-1944)とは、第二次世界大戦中のドイツ第三帝国を代表する対戦車戦闘の撃墜王で、武装親衛隊の第1SS装甲師団に所属した戦車兵のことです。

撃破数は戦車138両とは、マア、ありえない戦果なのですが、その最後に乗っていた007号のモデルということで……細部まで堪能させて頂いた次第です。

……ってところで?

また、してもハッとしてしまいました。

つねづね、平和と非暴力の伝道師?として活躍しそうした言説をはいているのですが、現実には二律背反におちいっているのかもしれません。

ネオ・ナチでもありませんし、ミリタリストでもありませんし、戦争にはいきたくもありません。

しかし、男はどうしても……

……この手のカルチャーに弱いのかもしれません。

ディテールを堪能しつつ、一喜一憂していた様を観察していたのが細君ですが……

「こんどは何が来たの?」

……というので、

「聞いて、腰を抜かせ! 手に入らない限定モノの、故ミヒェエル・ビットマン武装親衛隊大尉が最後に乗っていたティーガーIだぜ」

「は?」

「は? ぢゃねえだろう」

「くだらない……。いい年こいたオッサンが、なにを玩具に、そこまで知的リソースを注いでいるの?」

細君には理解不可能な世界のようでした。

しかし、細君には理解不可能な世界であるということは、女性の力が、平和構築に関しては根柢として必要不可欠なのかもしれません。

……ということで、本日10月30日は、マイネッケの誕生日のようでした。

いやぁぁ、この食玩……よくできている。

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さらば GR Digital 2

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 「哲学的」な思想群は、日常生活の諸観念や立法家および宗教的始祖たちの諸原則とは区別されうるその最終の文献的源泉を、ギリシャ古代に持っている。しかしそれは単にギリシャの思想家たちが、後代になって改めて独立して構成されたような経済的性質の認識を発表したのを意味するものえはない。むしろこれらのギリシャ思想家たちが次代に影響を与え、彼らの不断の、あるいは少なくとも常に復活してくる関係の鎖が、アダム・スミスの著作に役だった著者たちの大多数に、そうしてまたアダム・スミス自身にまで及んでいるという意味においてである。われわれにとって最も注視されるべきギリシャ影響は、その重要さの順序に配列するなら、アリストテレス(Aristoteles)、プラトン(Plato)、ストア学派(Stoiker)およびエピキュール学派(Epikuräer)からのものである。歴史的役割をしばらく別とすれば、彼らの提供したものの価値自体はもちろん過重に評価されるべきではない。彼らの折にふれての表現のなかから、後世の人が類似の響きを与える命題に結びつけたすべての内容を読み取ろうとするのは間違っている。それのみならず、経済的思考過程の域に達した若干の基本的命題といっても、はなはだ簡単なもので、経済過程の実際上の、半ば本能的な認識から自ずと生まれたものであるから、定式化されたことは特に記すにたるほどの業績ではない。最後にこれら古代人は一方において経済的問題を、例えば国家論の問題に較べて遙かに僅かしか考慮していなかった。また他方において次代のものは、これらの古代人が表面に立てていた諸問題よりも、経済問題に対しては相対的に遙かに多くの精力を注いできた。従ってこの二重の根拠からして経済学に対するギリシャの遺産は他の領域に対するものよりもいっそう僅かな役割しか演じていないのである。かの家計の自給自足を内容としているオイコスの経済(Oikenwirtschaft)が、しばしば言われるように、なんの「国家経済的」問題をも提供していないというのは正しくないし、またオイコスの経済は決定的な時期において、既にかかる議論が前提としているほどに支配的ではなかったのではあるが、いずれにせよ経済生活の問題における科学的思考がそれほど前進してはいなかったことも事実である。
    --シュムペーター(中山伊知郎・東畑精一訳)『経済学史 学説ならびに方法の諸段階』岩波文庫、1980年。

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こんばんわ。
宇治家参去です。

ちょいと一昨日、慶應キャンパスを訪問してからひらめき、古典派と異なり「均衡は沈滞なり!」と論じたシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter,1883-1950)を繙いております。

大学時代の一般教養の社会科学分野では「政治学」「社会学」「地理学」にてスルーしましたので、経済関係をまったく履修しておりません。

ですが、一緒に5年生?まで頑張ってくれた学友(商学部)……それはお互いの怠惰によるわけですが……が4年目(3年生)のときに、それまでおつりがくるほど遊んでいたにもかかわらず、学問に刮目してしまい、最後はゼミ長までやっていた友人から、「これ読めよ~」とか「マクロはなア~」とか「ミクロはなア~」などと経済のイロハを教示してくれる中で、勧めてくれた一冊があり、本日まで読んでおらず、これはマズイわな……ということで繙いた次第です。

まあ、遊びも後になって振り返ってみれば勉強ということで……それはそれで実に大切なのですが、その友人、就職してからも……大手メーカーですが……「おれはサラリーマンの営業が天職だ!」といって憚らない不思議な友人で、いまもって大切な友の一人であります。

でシュンペーターをひもとくとぎくり!

自分が経済感覚に疎いことはもとより承知しておりました。
数式が出てくるとまずアウトですし、勘定ができない。
そんで、なんとかなる……そうした憶見がかさなり、うまく経済状況を支配することができなかったのですが、その理由がわかった次第でして……。

もともとeconomyという言葉は、ギリシア語のοικονομία(家計)を起源としております。古代ギリシアの哲人たちの言葉は腐るほど、暗唱できるほど読んでおりますが、ちと誤解しておりました。

シュンペーターが「彼らの折にふれての表現のなかから、後世の人が類似の響きを与える命題に結びつけたすべての内容を読み取ろうとするのは間違っている。それのみならず、経済的思考過程の域に達した若干の基本的命題といっても、はなはだ簡単なもので、経済過程の実際上の、半ば本能的な認識から自ずと生まれたものであるから、定式化されたことは特に記すにたるほどの業績ではない。最後にこれら古代人は一方において経済的問題を、例えば国家論の問題に較べて遙かに僅かしか考慮していなかった。また他方において次代のものは、これらの古代人が表面に立てていた諸問題よりも、経済問題に対しては相対的に遙かに多くの精力を注いできた。従ってこの二重の根拠からして経済学に対するギリシャの遺産は他の領域に対するものよりもいっそう僅かな役割しか演じていないのである」という通りかもしれません。

たしかに古代ギリシアにおいては、家庭内経済=家計を論じるタームとしてオイコスという言葉が創案され、それが経済(学)の原語となっております。しかし、そこに由来した経済学とは、古代ギリシアにおける探究とは繋がりはまったくないことはないももの、似ても似つかぬものですから、……古代ギリシアの哲学者ばかりを熟読していた宇治家参去は、それをもって経済を論じていたわけですから、現実に自分自身が運用している経済感覚が麻痺してしまう……というのも筋道です。

とわいえ、いつになっているのも共通しているのは貧乏暇なし、ワーキングプアというところでしょうか。

ちょうど7月の頭に広角搭載のズーム有りのコンパクトデジカメが必要になり、PanasonicのFX-40というのを購入したのですが、3日目に紛失でがっくし。

その前に、半年前から使っていたCanonのIXY Digital L3というコンパクトデジカメは売却済みにて、手元にあるのが、自称勝負カメラとしていたRicohのGR Digital 2のみでして、この勝負カメラ、写りは最高なのですが、単焦点……つまりズームのきかない……広角28mmオンリーという通向けのカメラにて、仕事で使うにはどうも……という状況で、8月のあたまに、買っちゃいました。

それがCanonのIXY Digital 920ISという中堅コンパクトです。
昨年のモデルですが、広角からズームもOK。画像処理プロセッサーも最新のDIGIC 4 で価格もこなれていたので買っちゃいましたが……これが実に活躍しております。

しかし、勝負カメラのGR Digital 2と較べると、やはりかゆいところに手が届かず、趣味で使うには自分的にはNGで、仕事カメラとしては最高だな……というところです。

……しかし、貧乏なわが家において、一人でデジカメを何台も使うのは難題だと、匂いをかぎつけてきたのが細君です。

「使わない方を売りなさい」

……とのことだそうにて、

趣味よりも仕事の必然があるために、GR Digital 2 を売却することにしました。
たった1年しか使っていないのに!

いずれにしましても形而上学としてのオイコスは理解していましたが、エコノミーを理解していないが故の難事です。

さようならGR Digital 2 !

ちょうど後継機(Digital 3)が出たところなので、後継機を絶対買うからねぇ~(細君には内緒)!……とさよならした次第です。

むかし、デジタルマニア?の友人からいわれたことがあります。

「デジタル機器に資産的価値はないから、1年ぐらいで更新した方がいいよ」

そのときはぴんと来ませんでした。

が……ここ数年の生活を見ていると、やはり1年ぐらいで売却しては新しいのを買う!というのを続けておりますが、その意味では彼の予言は正しかったのでしょうか……。

いずれにしましても、売却したGRカメラに搭載されていたレンズは、実は銀塩カメラのライカ用に90年代末期供給されたGRレンズに端を発するレンズです。

こちらのアナログ機器は幸いに今のところ生活費の足しにと売却せずに済んでおりますが、デジタル版のGRは生活費の足しになってしまいそうです。

はやく貧乏から脱却したいものです。

実際にはグレート貧乏なのですが、あまり貧乏に見えないところは……人徳のなすところでしょうか。

いずれにしましても、経済学……シュンペーターから始めましたが丁寧に読んでいくとかなり面白いですね。

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勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません

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 ト伝は、義輝にせがまれるままに、この冬を京で越すことにした。義輝がせがむままに、自ら木刀をとって教えつづけた。
 当時の剣法というのは、まだ原始的なもので、戦場での活用を主眼としているから後年のような複雑な太刀筋がまだ生まれてはいない。
 ト伝は、ただ一撃の打込みにこもる気力と、この気力に伴う肉体の自由自在な活動が、いざというとき充分に発揮されるべく鍛錬をかさねてきた。これを義輝に伝えるのである。
 それともう一つは--いかなる場合にあっても、燃え上がる闘志を押える冷静な心と、立合いの駆け引きである。
 「勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません」
 と、ト伝は義輝に言った。
 「勝てぬと思うときは逃げるのです。恥ではありません。よろしゅうございますか、私は、あなたさまが自らをお守りになる為に剣をお教えしたのでございますぞ」
 年があけて永禄五年となった。
    --池波正太郎「ト伝最後の旅」、『上意討ち』新潮文庫、昭和五十六年。

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ひとつだけ自慢できることがあります。

それは何かと申しますと、「喧嘩をしたことがない」という……ただそれだけのことです。

勿論乳幼児期の記憶は定かではありませんので、学齢期以降ということですが、喧嘩を一度もしたことがありません。

……などというと、「男は拳と拳で勝負じゃああ」的な発想からすると……言語が若干差別的表現を伴いますがリアルな状況を表現できますので臆面もなく表現するならば、いわゆる「女々しい奴」「男らしくない奴」……などといわれてしまいますし、そのことを否定しようとも思いませんし、それはそれで当を得ていると思わざるを得ません。

いずれにしろ喧嘩だけはしたことがなく、それは裏っ返せば、憶病の誹りをうけてしまっても、反論することができません。

しかし喧嘩だけはしたことがないんです。

憶病ですし、怖いからですし、ついでにイタイからです。

「やっぱ弱虫かよっ」

……って言われてしまうと、それまでなのですが、そのことは否定もしませんし、逆に言えば、批判のまさに的となってしまう全方位外交こそが、自分自身のレゾン・デートルを形成してきたのだろうと思います。

ですから、小学生の頃から、どのようすれば、そうした縁に紛動されないですむのか……丹念に取り組み?、オトラント公ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, duc d'Otranto,1759-1820)も驚くばかりの権謀術策に知的リソースを注ぎ込んできたようなチキン野郎です。

ですから、大声でなにかをやられるとか、リアルな拳法をやっちゃうとか、その類が極めて苦手でございます。

剣道を小学1年生のころから、都合12年ほどやっておりましたが、試合で勝ったことも通算2度ほかしかなく、……それはアンタがヘタクソなのだろうといわれればそれまでですが……、剣道で学んだのはなにか「力」によって「伏せる」ということよりも、それ以外の方が多かったのかも知れません。

いずれにせよ、力量・技倆・気迫の問題もありますが、「諍う」ことに憶病になってしまう宇治家参去です。

ですから細君などからは、「闘うときに役に立たない」などとのたまわれてしまいますが、そこに、宇治家参去の「非暴力の聖者」としての止めどない人類に対する愛を感じて貰いたい次第なのですが、話がずれてきました……ので、本論?にもどりましょうか。

……ということで?

市井の職場6連勤の最終日、マア、例の如くありえないレジ地獄ではありましたが、ちょいと別件のしごともしなければならず、やっている最中に、お客様との応対をしながら……、聞こえてきたのが、大人“たち”の“怒声”でございます。

……ひょとして“危ない人”が騒いでいるのか?

応対しているお客様に、怒号の情勢を“察して”もらい、手短に要件をすませ、現場?へ急行すると、お父さんとお父さんがガチ喧嘩をしていた次第です。

「“あ”んだ、テメエ」
「“い”いかげんにしろよ、こんにゃろぉぉ」
「“う”ぜえぇぇんだよ」
「“え”えかげんしろやぁぁぁ」
「“お”い、なぐりたけりゃぁぁ、なぐれやぁぁ」

……ってご様子で、買い物に訪れた他のお客様も怯えるばかりでございます。
ちょうど時間帯が夕刻のピークタイムですので、ふぁみりーなひとびともおおく、

「うぉっぷ、まじですか」

……って式に「驚く」というよりも「おびえている」わけですから、

誰がどうすんの?

……って式に宇治家参去さん、チキン野郎でしょうが、収めろや……って内面の声とともにフロアに対する職業倫理的@ヴェーバーの“責任倫理”から……、

声をかけた次第です。

ひさしぶりに心臓が爆裂した次第です。

興奮した2人をなだしつつ、状況を把握すると、どうやら、肩と肩がふれた……というような……実際は違いますが措きますが比喩で……“ささいな”突発事が発端であったようですが、一度火がついたおふたりのお父様は、なかなか矛を収めてくれません。

どちらかといえば、ますますエスカレートする様子で、そこには仁義も公共精神もへったくれもあったもんではりません。

やるなら外でやってくださいましよ……とは思うのですが、不特定多数のひとびとが集うGMSという、公共空間@ハーバーマスであるわけですから、放置プレイもできず、補佐のバイト君……こうした場合は複数人対応が原則です……に「警察でも呼ぶか」って声をかけると……、

「薬が効いた」……のかしら?

……一方のかたが、鉾を収め初め、三々五々に当事者およびギャラリーが雲のを子を散らすように退散した次第です。

これ以上、ことをあらげるつもりもありませんでしたので、

「もうしわけございませんが、ここは、いろんなひとが集まる場所ですから、ほんと、もうしわけございませんが、ここはひとつおだやかにできませんでしょうか……」

……って最後に声をかけると、すこし冷静さを取り戻したお二人が、「いやいや、あんたが“あやまる”必要はないんだよ」

……などと、一方のかたが声をかけてはくれたのですが、

「あんたが“あやまる”必要はないんだよ」

……っていうのは、「わるいのはおれと喧嘩しているおめえだ」……っていう言語の表裏に隠された「夏への扉」という余韻がふくまれいることが濃厚でしたので、

「では! これでよろしいでしょうか。警察も呼びません。種々誤解があったようですが、他のお客様も“怖がって”おり、“迷惑”しております。おわりにしましょうか」

……って“びくびく”で案内し、ようやくクローズです。

言語として記述すると長くなりますが、1分足らずの出来事です。

ひやぁぁ、なんとかおさまてくれて幸いです。

ある意味では……処理するという意味では……クレームの方が楽であり、諍いの仲裁ほど生命力を使う事例はありません。

ともかく無事に案件終了で“幸い”です。

しかし……“怖かった”です。

この手の事案に“介入”すると、正直なところ、「あんだ、テメエ」って“ぶん殴って”もらったほうが楽なんです、司直的には。しかし、「易き」への「阿(おもね)り」を排した極限状況?の提示というものは、まさに、人文学者としての本業の枠を拡げてくれているようで実にありがたいものです。

しかし……“怖かった”です。

……といわざるを得ない、まさに“チキン野郎”宇治家参去でございます。

接客の問題、品質の問題を含め、クレームとか事故が一番多いのがこの季節です。

それはそうですよね!
これだけ暑くてゲレってきてしまいますと、ぶち切れてしまう……というものでしょう。

しかし、宇治家参去は“ぶち切れ”ることが許されていないんですよ、……トホホ。

だから……喧嘩をしません。

「勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません」

負ける相対というのが“喧嘩”なのでしょうねえ。

そして必ず勝つとというのが“勝負”なのでしょうねえ。

どこに生命力を“注ぐ”のか、ひとつ学ばせて頂いた次第です。

しかし蛇足ながら、喧嘩を収める……これはチキンの蛮勇にしかできないかもしれません。

つうことで、帰宅すると、注文していたデッドストックのシェーファー(SHEAFFER)の「スクール万年筆」が届いておりました。

今はつくっていない80年代のラインですが、ネットオクで易く入手できました。

スクール万年筆とは、学齢期の児童にもつかってもらおうという簡易な万年筆ですが、やはり老舗の作った物は、書き心地が、使い捨てアイテムとは全く異なります。

お子様向けですから自重はほとんどなく、かるく、まさにライトな万年筆ですが、お子様向けなのでしょうか、細字ののりもよく、これはひとつめっけもんでございます。

このライン、すなわち「スクール万年筆」は、ペリカン(Perikan)なんかも出しているのですが、未使用のデッドストックになかなか出会えず、ペリカン党としては是非ペリカンなどと思っては居たのですが、ぼちびち学齢期にさしかかる息子殿にも1本と考えていた矢先、シェーファーもそうなのですが、なかなか手に入らない奴が手に入ったのは幸いです。

来月あたりに、なんとなく「勉強をがんばったご褒美」ということでプレゼントしてみようかと思います。

宇治家参去自分自身もネズミのはったような文字しかかけません。
しかし忘れがたいのは、自分自身も小学校に入学した折り、父母からもらったのが万年筆です。

今は手元にありませんが、ドイツのラミー(Lamy)の“サファリ”ラインだったかと思います。いわゆる「スクール万年筆」ではありませんが、初学者向けの一品で、なんだかんだといいながら6年間使い倒した思い出があります。

うちの息子殿も、親である宇治家参去以上にグレート“チキン野郎”でございます。

しかし、“諍う”ことに専心できるよりも、“諍う”ことを調停できるひとになってもらいたい……などと思うのは、親ばかでしょうか。

……っていうことで、寝ますワ。

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「あれね? あれ、実は、失敗しちゃってさぁ……写っていなかったんだよ……」

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 私にとって、クラシックカメラは、
不便=使い倒す楽しみ、であり、
不便=悪い、ではない。
 その他、みんなあまり気づいていないが、失敗する楽しみもある。フィルム装填をきちんとやらないと必ず失敗して、
 「あぁ、畜生! この野郎、バカヤロー!」
と悔しがって地団駄踏むことになる。大事な写真を撮ろうとして写っていなかったりしたら、後で訊かれたときに、
 「あれね? あれ、実は、失敗しちゃってさぁ……写っていなかったんだよ……」
と恥をかく楽しみもある。
 あまり楽しみになっていない、と思われるかもしれないが、何の苦労もせずにきちんとした写真が撮れるこのご時勢、昔ながらに失敗するなんて貴重な体験だと思うよ。散々失敗を繰り返して、その後うまくいったときの喜びはまた格別なんじゃないかなぁ。失敗しながら試行錯誤して身につけたことは忘れないし、失敗を糧としていろいろなことが自然に覚えられることはいいことだと思う。
 「總是人們話説青春…酸甜苦辣、滋味難分」
 青春は「酸っぱい、甘い、苦い、辛い」、すべて渾然一体で分けがたいものだ。
 その証拠に、私の友人でAF一眼レフに高倍率ズームレンズという組み合わせをこの五年間使っているものがいるが、被写界深度、絞りの効果、などなーんにも理解していない。写真もちっとも上達しないので、本人もイヤになって、最近はオートボーイしか使わなくなった。これはある意味正しい選択かもしれない。
 道楽で写真を撮っているなら失敗はいくらでも許されるんだから、ちょっとぐらい苦労したって、失敗したっていいじゃないか、と大きな気持ちで写真を撮っていただきたいところである。
 それでは、成功を祈る。
    --中村陸雄『ソビエトカメラ党宣言』原書房、2001年。

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道楽で写真を撮る宇治家参去ですが、先月末、宮城県の「吉野作造記念館」への調査旅行の帰路、新幹線車中に、デジカメを置き忘れてしまったので、それ以来、その代換写真機を物色していたのですが、ヤフオクにてちょうど手頃な機械が出品されておりましたので、運良くゲットしました。

紛失したカメラの後継機になるのですが、今から四年前に発売されたCanonの「IXY Digital L3」(2005年)というのがそれです。最初に使っていたのは、このシリーズの初号機となる「IXY Digital L1」(2003年)というものですが、これは単焦点(光学ズーム不可)ですが、接写がかなりできるので、それなりに遊ばせて貰ったものです。サイズ的にも煙草一箱より小さめというのが使いやすく、何処にでも持ち運べ、軽快につかえるところがいい機械です。

さて……
今回手に入れたモデルは、紛失したモデルの後継機ということで光学ズームが付くようになった機械ですが、最新のモデルからするとスペックはおちるものの、「遊んで写真を撮る」というニーズにはおつりが出るほどで、状態はよくありませんが、撮る機能には全く問題なく、付属品含め、5000円程度。サイズ的にも写真の通り、コンパクトでどこへでも連れて行ける相棒になることは間違い有りません。

そしてこれが大切なのですが、大枚はたいて手に入れた高級品でもありませんので、また「紛失」しても「痛く」はありませんし、仕事や研究で使うわけではないので、これで少し遊んで見ようと思います。

まずは、試写ということで、午前中、1時間ばかり、100枚近く撮ってきましたが、なかなか動作も機敏で、機能的には全く問題なくいい写真が撮れています。接写のやり方が紛失したL1とは微妙に違うのでその「馴れ」が必要ですが、このもどかしさがなんともいえません。

最新機種と比べると、液晶も小さく、まさに……「不便」です。
しかし……

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不便=使い倒す楽しみ、であり、
不便=悪い、ではない。

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ですから、また紛失?するまで「使い倒していこう」と思います。

銀塩で始めたカメラ道楽ですが、最近、ライカやコンタックスも全然さわらなくなってしまったのですが、また時間を見つけては、フィルムをいれて楽しみたいものです。
しかしながら、そこで「培われた」写真を撮る「楽しみ」の心は、機械としてはデジタルカメラになっても「健在」のようですので、またフィルムをいれるまで時間がかかりそうですが、銀塩にせよ、デジタルにせよ共通するのは「あぁ、畜生! この野郎、バカヤロー!」とか、「あれね? あれ、実は、失敗しちゃってさぁ……写っていなかったんだよ……」と恥をかきつつ、楽しんでいる自分自身でありまして……「そこが、マア写真道の奥の細道なんだよな」とひとり、悦に浸っております。

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 道楽で写真を撮っているなら失敗はいくらでも許されるんだから、ちょっとぐらい苦労したって、失敗したっていいじゃないか、と大きな気持ちで写真を撮っていただきたいところである。

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写真に限らず、道楽に関しては、まさにうえのような部分、余裕とでも言えばいいのでしょうか……そういうところがないと、なかなか長続きしないものです。

道楽やるのに「眉間にしわ寄せる」必要は全くないのですが、そこを勘違いしてしまうと、道楽が道楽でなくなってしまうのでしょうね。

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思考の幼年時代をどこにでも見出すこと

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……思考は、おそらく、人が一八歳のときよりも三五歳のときのほうが、そして学校の課程の内よりは外でのほうが、より大きな幼年時代を手に入れることができる。教育的思考の新しい努めは以下のようなものだ。思考の幼年時代をどこにでも見出すこと、実際の幼年時代の外にさえも。
    --J・F・リオタール(管啓次郎訳)『こどもたちに語るポストモダン』ちくま学芸文庫、1998年。

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今日は年末に僅かに残された貴重な休日の一日で、朝から、「さあ、仕事をしよう」と思っていたのですが、「仕事をするまえに、掃除だよな」ってところで、自室の資料を整理して、机の上を片づけていると、『八甲田山』(東宝・シナノ企画,1977年)のDVDが出てきたので、「見ながら掃除だよな」って掃除をしておりますと、見いってしまい、掃除はおわりましたが、仕事をすることなく一日が終了してしまいました。

青森歩兵第5連隊・神田大尉のせりふ「天は我々を見放した」は渋かったです。

ただし古今東西の賢者が予見したごとく、凡人が「何かをしながら何かやる」というのはあまりよくないことだなと学習させていただいた次第です。

「何やってんだか」と反省する暇はあったのですが、せっかくのクリスマスイブでしたが、夫婦ふたりでは、ケーキを買っても食べきれないと思い買っておりませんでしたので、夕方からちょい外出し、近所の喫茶店にてささやかにケーキを戴きました。

で……。
この店、基本的には、カップはウェッジウッド。
宇治家参去としては、ウェッジウッドよりも、マイセンかアラビアのほうが品があってよいよな……といつも思うのですが、使いこなれたウェッジウッドの柄もなかなかよいものだなと、ウェッジウッドの美を再確認です。

この手の陶器は使わないと「栄(は)える」色彩なのですが、使い込んでいけばいくほど「馴染む」という部分があるのではと思います。

……と、とやかくやっていると、もう夜で……。
仕事は明日、頑張ります。

今日は、思考を解き放つ幼年時代の休日ということで。

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Tiffanyで日本酒を

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五一
 いかにして仮象が存在になるか。--役者はしまいにはもっとも深い苦痛にさいしても、自分の役の印象や全体の舞台効果など考えるのをやめられなくなる、たとえば自分の子供の埋葬にさいしてすらそうである、彼は彼自身の苦痛やその現われをみて、自分自身の客観として泣く。いつも同じ役割を演じている偽善者は、しまいには偽善者たることをやめる--たとえば牧師は、青年のころは通常意識的にまたは無意識的に偽善者であるが、しまには自然らしくなり、そのときには本当に、全然気取らなくても、まさしく牧師となり、あるいは父親がそこまで達しないときは、その場合には父親の進み出た距離をりようしてその習慣を受け継ぐ息子が、おそらくそこまで達するであろう。きわめて長い間執拗になにかに見えようとするとき、なにかその他のものであることがしまいに困難となる。ほとんどどんな人の職業も、芸術家の職業すら、偽善というもので、外からの模倣で、効果のいちじるしいものを模写することではじまる。いつも親しげな表情の仮面をつけている者は、しまいには、親しさの表情をとってつけるのにないではすまぬ好意的気分というものを左右する威力を獲得するにちがいない、--そしてしまいにはまた、こういう気分のほうが彼を左右する威力を獲得する、彼は好意的な存在である。
    --フリードリッヒ・ニーチェ(池尾健一訳)『人間的、あまりに人間的I (ニーチェ全集5)』(ちくま学芸文庫、1994年)。

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仮象を実体化させ、その物自体に籠絡されている、道学者とはほどとおい宇治家参去です。

さて今日は、アクセサリーの話でもしましょう。ちょうど、修理に出していた手巻きの腕時計が直って戻ってきたので……日常ネタでもひとつ。

機械式の時計を集めているわけですが、そのひとつのが50年代のTiffanyの手巻腕時計です。昨今は、大振りな腕時計が流行っていますが、こ振りでかわいらしい男女兼用の腕時計です。もちろんROLEXやOMEGA、SEIKOの上位機種のようなウン十万円もするような時計ではありませんが、いやらしさを感じさせず、かといってチープではなく、それとなく品性のある腕時計です。

Tiffanyらしいとでもいえばいいのでしょうか--。
オーナーの満足度を充たしつつ、それなりの実用性があるところが気に入っています。そういうTiffanyが比較的、好みですので、アクセサリーは、なるべくTiffanyを使うようにしています。

「男がアクセサリーとは何事ぞ!」

男性諸子の誹りを承知ですが、アクセサリーと言っても、カフスとかボールぺン、キーリングに、本の栞程度です。

なんだかんだほめていますが、Tiffanyでよいところは、数千円から購入可能というリーズナブルさかもしれません。ボールペンなんか何千円で買えますし、ペン軸を交換すれば、何年もつかえる。まさに「物を大切に!」を先取りしたような(?)「お買い得」な買い物です。

さて、そんな中で一番気に入って常用しているのが、Tiffanyのビーンズライターです。

「Tiffanyといえばシルバー925だろ!」

またまた誹りを受けそうですが、珍しい(?)ブラスです。
最初はシルバーを使っていましたが、実は酔っぱらって、どこかに放置してしまったため、シルバーではなく、二号機は、一段劣るブラスです。

でも持ちやすく大変使いやすい一品です。これも2万円はしなかったと思います。

Tiffany宣教日記のようで恐縮ですが、Tiffanyは良いですぞ、世の男子諸君。

さ、今日は、Tiffanyの時を刻む音を肴で、「玉の光」(酒魂 純米吟醸)で酩酊のひとときに入ります。

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用にも堪えず、美にも堪えぬ

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趣味とまではいかなくても、ひとは何かを集める楽しみを知っている。
小学生のときは、切手を集めていた……
昆虫採集も、集める作業だった……
ひとつひとつの切手なり、昆虫が増えることに、喜びを覚えたものである。
人間という生きものは不思議なもので、どうやら何かを集めることがすきのようだ。

前置きはさておき……

コレクションというほどではありませんが、ここ数年、根付を集めています。もちろん高価な時代モノまで手はまわりませんが、既製品から手作りまで手頃なものを集めています。

今月購入したのが、麒麟の根付。
ちなみに一緒に写っているキングショー(ウルトラセブンの怪獣)は子供のコレクション。私と同じで集めて、並べて、眺めて、さわることに快楽を感じているようです。

さて、麒麟の根付……。
気に入って飾っていたのですが、ある日見てみると、ツノが1本おれていた……。
麒麟の根付を“シーサー”と呼び、可愛がっていた息子さんの仕業ではないかと思われるが、確認のしようがない。

「大切なものなら、手の届かないところに置いておかない貴方がバカよ」
細君に叱責される。

しかしそもそも考えてみれば、今手に取っている根付ももともとは実用品。
江戸時代に煙草入れ、矢立て、印籠などを紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具が根付けである。ポケットのない着物に小物を携帯する際、使われた留め具である。だとすれば、生活の中で、擦れたり落っことしたり、欠けたり、疵がついたはず。

そう考えれば、(たぶん・息子さんにツノを潰された)麒麟の根付も、宇治家さんの生活のなかでのオリジナルなんだと思えば、すっきりする。
ただ、これ以上、投げたり噛んだりはしてほしくないが……。

さて最後に、そうした民芸に注目した柳宗悦の言葉から。

国家は少数の異常な人々を挙げて、その名誉を誇るかも知れない。しかし一国の文化程度の現実は、普通の民衆がどれだけの生活を持っているかで判断すべきであろう。その著しい反映は、彼らの日々の用いる器物に現れる。

偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美にも堪えぬ。
    --柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫、1984年)。

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進吾往也

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Kousi

市井の仕事、そして大阪出張、短大での授業、そして市井の仕事--この連続勤務がようやく終わり、火曜日は久し振りの休日。本当に休みがないですが、粛々と歩み続ける宇治家参去です。

今日、注文していた万年筆が到着した。
趣味と実用で万年筆を集め、使用していますが、2月より、通信教育部のレポート添削業務が開始されることが決まりましたので、添削用に1本新調しました。

Parkerよりは、Perikan派なのですが、軸が太めで、柔らかな文字が書きやすい手頃な1本となると、Parkerのデュオフォールドモデルが一番いいかと思い、1本使っているにもかかわらず、もう1本購入しました。
現在使用中のデュオフォールド(PT)はブラックインクですが、今回の万年筆(GT)には、レッドブラウンのインクを注入。試し書きをしてみましたが、インクのノリがよく、書きやすい。これで、レポートに朱を入れていこうと思います。

スクーリング(対面講義)と異なり、いわば通信教育部の要となるのが、レポート作成。科目によってはレポートだけでも単位がとれると聞いている。学生さんたちにとっては、いわば学習の中心であり、自己との闘いの現場である。しかも闘いは、レポート課題だけではない。仕事や生活といった現実との闘いが主軸に存在した上での、レポート作成となる。がんばってほしいとエールを送りつつも、こちらも、剣豪の如き真剣勝負で望まなければならないと実感する。

だからこそ、〔カタチから入る宇治家参去としましては〕万年筆の新調という事態に到ったわけであります。

さて、そうした現実の積み重ねに関して、古代中国の賢者・孔子がいい励ましを『論語』のなかで述べていますのでひとつ。

子曰、譬如為山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也、
子の曰く、譬えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止(や)むは
吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆(ふく)すと雖ども、進むは吾が往くなり。

先生がいわれた、「たとえば山を作るようなもの、もう一もっこというところを完成しないのも、そのためたのは自分がやめたのである。たとえば土地をならすようなもの、一もっこをあけただけでも、その進んだのは自分が歩いたのである」
    --金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1999年)。

一もっことは、掘った土をはこんだりする入れ物という意味か。
たとえば、山を作る際、最後の1杯というところまでできながらも、一もっこを運ばず完成させないのも自分自身であるが、土地を開拓する際、はじめの一もっこ分をほり、開拓を開始するのも自分である。
「進むは吾が往くなり」(その進んだのは自分が歩いたのである)。

ときには、休憩したり、ときには打ちひしがれたり、そしてときには、溌剌と歩み始めたりするのが生きている人間だ。ただ、時間がかかろうとも最初の誓いを忘れず、歩み続けた者が勝利者となる。また最後の一杯まで到着しながら、そこで辞めてしまうのも人間だが、そういうあり方にはなりたくないものである。

境遇は千差万別ですが、共に励まし合いながら、前進しつづけるのみですね。そうしたところに、社会という共同体の原初の出発点があるのだと思います。

ただ--
今日は久し振りの休日でしたので、試験の採点後、ゆっくりとやすませてもらいました。飲むなよ!って細君にいわれましたが、夕食が、すき焼きでしたので、ビール飲んじゃいました。

そういえば、本物のすき焼きとは、字の如く、肉を焼いて食べるものだが、家庭ではどうしても難しい。鉄鍋と行火でも買うべきか--。

ま、そこまでしなくても、鍋はいいですね。
鍋を囲んで、ゆっくりとひさしぶりに細君とか、お子さまとゆっくりと話し合う時間をもてました。こうした時間がひとには大切なのかもしれませんね。

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以上も以下も不可

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所属の研究所から紀要掲載用の論文の掲載可のメールが来ていた。
今回は、(いつもながら)所定の枚数を超過してしまったため、規定分を今回用にリライトし、超過分を次回掲載ように分轄した。

当初は今回分その2で終わる予定であったが、調査過程ですでに今回分をオーヴァーしてしまったため、超過分含めその後に続く部分をその3として来年掲載するようにしてしまった。

短くても駄目、長すぎても駄目……こうした一つ一つの決まりをきちんと守らないと自分以外の関係各位に迷惑をかけてしまうので、今回もすいません。

とりあえず、本日は、休み最終日。
家族のために、ちゃんこ鍋をつくった(大学時代、体躯会相撲部にいたので)。
市販の出汁をつかったが、ちょっと今ひとつ。本当は半日かけて鶏ガラから出汁をつくると旨いのだが、今回はそれで辛抱してもらった。

でも、ま、それなりにうまかった。

写真は、LeitzIIIg+Summitar 50mm f2.0 で写した連合艦隊の勇姿。
手前は竣工中の重巡・高雄、ピントは戦艦伊勢・扶桑の艦橋に合わせていますが、手前と奥のぼけ具合はさすが、ライツレンズ。

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Photoブログ始めました

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えー、お疲れさんです。

表題通り、フォトブログ始めました。
実は趣味が写真(クラシックカメラ収集)なので。
宇治家さん、新しいモノもすきですが、実は古いモノが大好きです。
時計も銀塩カメラも基本はマニュアルしか使いません。
といってもカメラはデジカメですませることが多くなりましたが。

興味のある方はどうぞ。

【Photo】 Essais d'hermeneutique
http://aquinas.exblog.jp/

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