哲学・倫理学(中世)

つまりこのあたりで日本人は、宗教アレルギーから脱していくためのまじめな学習を必要としているのではないか

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 日本人はたしかに宗教に対してアレルギーをもつところがある。昨今のカルト的事件によってそれはあからさまになってきている。だから、キリスト教の説明もまともに聞いたことのある人は少ない。そしてたぶん、仏教についてもである。だから宗教に対する無関心は、一時的な現象なのかもしれない。しかし、実はキリスト教について何もしらっずに、中世はもとより近代ヨーロッパを学ぶことには思わぬ限界も出てくる。実際、近代哲学の父デカルトも、進行を捨てていたわけではないし、かれの哲学の概念には、プロテスタントの教義との一致も一部で言われている。哲学のなかに宗教をもち込むことは注意すべきではあるが、人間が生きていく思想の全体を考えるなら、一応の理解が必要なことも常識であろう。
 もしかしたら、日本人には、宗教が非近代的だ、という観念があるのかもしれない。だからそれを知ることは、自分が古くさい考え方に左右されることになるまいかというおそれがあるのかもしれない。たしかにヨーロッパの民衆は、キリスト教会のなかでも布教に熱心だったカトリックの権力から離れて(信仰からは離れていないが)、近代技術を手に入れた。そしてその力を移入して近代化した日本人は、宗教の価値を世界で一番否定する理由を、そんな歴史からもつのかもしれない。つまり生半可な知識で日本人は、ヨーロッパが政治権力を教会から引き離したことを見て、信仰を生活の全般から引き離すことが近代であるのだと、勘違いしているのかもしれない(たしかにヨーロッパでも、現代では信仰から離れてしまった人が多いのだが)。しかし、技術の力で経済力をつけた日本は、今や精神の空洞化に悩んでいる。カルト的な宗教はますます日本人の宗教不信を増している。このままでは出口の見えない状況となってしまうだろう。
 つまりこのあたりで日本人は、宗教アレルギーから脱していくためのまじめな学習を必要としているのではないか。
    --八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』平凡社新書、2000年、12-13頁。

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僕はくどい男だから何度でも書く。

宗教を信じるも・信じないも自由だ。

しかし、宗教をきちんと理解しないことには他者を十全に理解することは不可能だし、安易なスピリチュアルに流れてしまうのが実情だ。

宗教をきちんと学ぶことは21世紀を生きる人間のパスポートなのだがorz


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反省とは後ろめたさではなく……

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 一括して言ってしまうならば、ギリシャ、ロオマの文学には後めたさというものがない。それはギリシャ人やロオマ人が反省するなどということがなかったということではないが、その反省する自分というものの正体が解らなくなったり、自分と呼ぶに堪えない忌しいものになったりするというのは彼らの間で見られないことだった。彼らの精神の透徹した働きが自分というものを隈なく点検することがって人間というものがそこに確かに生きている感じがしても、それは彼らにはその通りに生きていて忌まわしいものでも疑わしいものでもなくて、そこにそれがあることは地中海の日光を浴びた白い大理石の柱が土に真っ黒な影を投げているのと同じだった。いつも自分がいて嘆き、悲み、あるいは喜び、愛し、憎しみ、それで自分の眼の前にある景色もそこにあるからペロップスの土地の全部もお前の愛には換えられないとテオクリトスとともに言い、ルキアノスが冥土で見るヘレナの白い頭蓋骨は自分もいずれそうなるから死は恐しいものなので、ルクレチウスの哲学での神々は人間のことになど無関心に存在しているのであっても神々とこうして縁を絶たれてのた打ち廻る人間でなくなるのではなかった。
    --吉田健一『ヨオロッパの世紀末』岩波文庫、1994年。

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2-3日、まったく本を読むことができておりません。
基本的には活字中毒のような状況なのですが、ちょいと諸事もたちこんでい、その隙間でもよむことはできるのですが、どうも本を手に取ることが億劫で、2-3日読むことができておりません。

反省する次第です。

悩む<自我>としての近代的個人はこの「反省」の行為がとても大好きです。
しかしその反省を契機に次にどのようにしていくのかという展開よりも、反省そのものに惑溺してしまいことの方が多いような気がします。

ですから、その惑溺する自己に対して反省をして……ってやりはじめますと、反省が無限遡上していくものですので、ここはひとつ、ギリシャ人、ロオマ人の反省として転換していこうかと思います。

すなわち……

「その反省する自分というものの正体が解らなくなったり、自分と呼ぶに堪えない忌しいものになったりするというのは彼らの間で見られないことだった。彼らの精神の透徹した働きが自分というものを隈なく点検することがって人間というものがそこに確かに生きている感じがしても、それは彼らにはその通りに生きていて忌まわしいものでも疑わしいものでもなくて、そこにそれがあることは地中海の日光を浴びた白い大理石の柱が土に真っ黒な影を投げているのと同じだった」……というこれで行きましょう!

ただしかし、晩冬の日本は地中海の陽光とまったく逆の陰鬱した陰影空間なのですが、はやいもので、春の草花は咲き始めております。

その生命力でいきましょう!

……ということで、はやいもので、大学の入学式の案内がとどいておりました。

3月は恐ろしくはやく過ぎ去っていく月です。

では、本を抱えて仕事へ行って参ります。

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“天使に重さがあるのかどうか”

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ちょうど知己とトマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225-1274)の「忘恩論」を話し合う機会があり、ついついうれしくなってしまい、トマス・アクィナスを再読しております。

トマスと聞けば、中世神学、スコラ学。
高等学校的な世界史の記述にひっぱられすぎると、

「中世神学とかスコラ学というのはカビ臭いナンセンスで、不要な議論を積み重ねたアレでしょ?」

「“天使に重さがあるのかどうか”真剣に議論したあれでしょ? なにやってんだ!」

「“哲学は神学の婢”って思い上がるな!」

……など怒られそうですが、そのように早計するのもなんだかなというのが実感です。

たしかに、キリスト教の教義を保管・強化していくために、丁寧に議論を積み重ねていく姿はある種の荘厳・壮大な体系を予期させますが、それと同時に難解なそれは初学者を当惑させてしまいますし、数々の議論は、現実に何の意味があるの?などと思ってしまわなくもないですが、そうやって丁寧に対象に向かい合った先達たちの知的営みを全否定することに対しては宇治家参去はなにか違和感を感じてしまいます。

そうした中世=暗黒時代、そして暗黒時代の講壇哲学という評価に関しても、それと対をなすルミナスのルネサンスの光明、そしてそこに基盤を置く近代的進歩史観の反射が、中世=暗黒と断じているわけであって、そうした億見を乗り越え、ひとつひとつの言葉や息吹、文物に向かい合っていくと決してそうではなく、そこに同じ様な人間の息づかいや喜び、苦悩をみてとることができるというものです。

どちらの時代が偉いのか?などという設問自体が甚だナンセンスであり、中世そのものを「考えるに値しない」とする現代社会の常識こそ問題を大きく孕んでいるのだろうと思う宇治家参去です。

さてトマス・アクィナスに戻ります。
専門でやっている神学は近現代の神学思想史と個人研究になりますが、神学をやろうというきっかけのひとつがやはりトマス・アクィナスの影響が多いかと思います。ちょうど、倫理学徒のころ、演習か何かの教材でトマスの一節(たぶん『神学大全(Summa Theologica)』だと思う)を研鑽したことがあるのですが、「ほぉぉ~おもしれえ!」と感嘆した思い出があります。

人から聞くのと自分で見るのでは大きなちがいというところです。

いずれトマスについても後日、論考を残したいとは思うのですが、なにぶん中世ラテン語が達者ではありませんので、そこに挑戦していくための仕込に時間がかかりそうですが、これはひとつの自分自身の大きな課題としていつもあたためている対象であり問題です。
トマスはいいです、実に。

さて、
デカルト(René Descartes,1596-1650)やカント(Immanuel Kant,1724-1804)のような近代の哲学者に比べれば、いわば遙かな時代の祈念碑であるかのようにトマスを眺め、近づいてその生の声に耳を傾けるひとびとは確かに稀であります。

トマス・アクィナスは中世ヨーロッパに生きた人物であり、まさに洋と時間を隔てた遙かに遠くに、かすかに存在する人物であり、なじみもなく、一種近づきがたいところが現実には存在します。だからトマスは、学問の世界から外に一歩も出たこともなく、近代的言い方をするならば「象牙の塔」から世界を冷徹に眺め、神と人間について思いをめぐらした人物だろう……などと思いがちです。

しかし実際はどうだったのでしょうか。
書斎に引きこもり学問に専心した学者ではありませんでした。
トマスの生きた13世紀とはまさに激動の時代であります。

アラビアからの新しい知識が次々と流入してくる。
修道院の附属学校としてスタートした萌芽期の大学(Universitas)が制度化されてくる。そして都市の形成は貧民の増加を招き、帝国と教会の政治的緊張もくすぶり始めます。
教会が社会を支配した暗黒時代というものの見方は、うらをかえすと、それだけ何もなかった時代と思いがちですが決してそうではありません。平穏無事な世の中では決してなく、どちらかといえば、時代の転換期だったといえましょう。

トマス自身も、教会刷新を目指し、新しい民衆に説教する目的で創設された托鉢修道会に実を投じ、一所に安住することなく、ナポリ、ケルン、パリと放浪しつづけた学者でりました。

またダンテ(Dante Alighieri,1265-1321)が巻き込まれた苦く重い政争体験を思い起こせばリアリティがあるものですが、トマス自身も様々な紛争に翻弄され、命の危機すら死ぬまできえなかったのが現実です。

そうした泥沼のなかで、真摯に現実を生き、そして「言葉」に注目しながら真理探求を丹念にあきらめずに追求したのがその実だろうと思います。

「初(はじ)めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とはじまる『ヨハネによる福音書』を繙くまでもなく、キリスト教信仰においても徹底的に「言葉」を重んずる伝統がどっしりと存在します。それを限界まで探究したのがトマスの営みであり、そしてその信念・共同体を破壊せんとする異教徒・分派主義者たちに対して徹底的に「言語による闘争」を果敢にしかけ、のこされたのがその業績だろうと思います。

ですから、トマスの議論は実に丁寧です。

ひとつの命題をめぐり、それが正か偽か、気が遠くなるほど検討し、それがおわると次の命題へ進んでいく……という「気の遠くなる」ような積み重ねを実に丁寧に遂行しております。

ここには、近代人の驕りも不平も愚痴もなく、自分自身で決めた使命の歩みを、なにがあろうとも歩み抜く知の勇者の足跡がみてとれるようで、実に考えさせる側面がおおくございます。

トマスはいいです、実に。

……ということで、トマスの議論の仕方?でもひとつ最後に紹介しておきましょう。

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〔序文〕
 (1)『天体宇宙論』第一巻で哲学者〔アリストテレス〕が言っているように、最初の小さな誤謬も最後には大きなものとなるのであり、また、アヴィセンナがその『形而上学』の冒頭で言っているように、最初に知性によって捉えられるものは存在者と本質とである。それゆえ、この両者について無知であるために〔最後に大きな〕誤謬に陥るということがないように、この両者の難解なところを明らかにしよう。そのためには、本質とか存在者とかいう名称によって何が意味されているのか、また、それ〔本質〕がさまざまなものの内にどのように見出されるのか、さらに、類と種と種差という論理学的諸概念(intentiones logicae)に対してそれ〔本質〕がどのような関係にあるのか、といったことを述べなければならない。
 (2)ところで、より容易な事柄から出発することが学問にはよりふさわしいのであるから、われわれは合成されたものから単純なものの認識を得るべきであり、〔本性上〕より後のものから〔本性上〕より先のものへと遡るべきであろう。それゆえ、存在者の意味から本質の意味へと、話を進めなくてはならない。

第一章
 (1)そこでまず、哲学者が『形而上学』第五巻で言っているように、存在者それ自体は二通りの仕方で語られる、ということを知らなければならない。すなわち、一つの意味では一〇の類〔範疇〕に分けられるもの、もう一つの意味では命題の真理を意味するもの、である。しかるに、この両者には次のような違いがある。すなわち、第二の意味では、すべてのものが、それについて肯定命題が作られうる限りは、たとえそれが実在的には何ものをも措定しないとしても、存在者と言われうるのである。そのような意味では、もろもろの欠如やもろもろの否定も存在者と言われるのであって、実際われわれは、肯定は否定に対立しているとか、盲目は目の内にあるとか言っている。しかし、第一の意味では、実在的になんらかのものを措定しているものだけが存在者と言われるうるのであって、したがって、第一の意味では、盲目とかそのたぐいのものは存在者ではないのである。
 (2)それゆえ、〔明らかに〕本質という名称は、第二の意味で使われている存在者から獲られたのではない。というのは、もろもろの欠如において明らかなように、本質を有していないようななんらかのものが、この〔第二の〕意味で存在者と言われているのだからである。そこで、「本質」は、第一の意味で言われている存在者から取られていることになる。それゆえ、註釈者〔アヴェロエス〕は同じ個所で、第一の意味で言われている存在者こそが事物の本質を意味するものである、と言っている。そして上に述べたように、この意味で語られる存在者は一〇の類〔範疇〕に分けられるのであるから、さまざまな存在者がさまざまな類と種の内に配置されるのはそれらの自然本性によってである以上、「本質」がすべての自然本性に共通な何ものかを意味しうるのは当然であろう。たとえば、人間性は人間の本質であるし、その他のものについても同様である。
    --トマス・アクィナス(須藤和夫訳)「存在者と本質について」、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成14 トマス・アクィナス』平凡社、1993年。

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