哲学・倫理学(近代)

日記:良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている


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 しかし、闇の中をただひとり歩く人のように、そろそろ行こう、そうしてあらゆることに周到な注意を払おうと私は決心したので、まことにわずかしか進まなかったとしても、少なくともつまずき倒れることだけは幸いにまぬかれたようである。のみならず、いつとはなく私の信念のうちに、理性に導かれずに滑りこんだらしい意見などを、根こそぎ抜きすてることから始めようとはしなかった。それを始めたのは、企てつつあった仕事の腹案を練ろうとして、また私の知力の果たしうるかぎり、あらゆる事の確認に達するための真の方法を求めようとして、私が存分の時をあらかじめ費やしたのちのことである。
    --デカルト(落合太郎訳)『方法序説』岩波文庫、1967年、28頁。

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金曜日は、月に1度の勉強会(コロンビア大学のコア・カリキュラムで読むべきとする哲学的古典を読む)で、今月はデカルトの『方法序説』が課題図書でした。

100頁に満たない短著ですが、ひさしぶりに通読しますと、まさに私たちはデカルトを『誤読』してはいなかったかと、気付かされます。

今でこそ、悪しき近代主義や二元論の元凶、という通評でデカルトを「理解」し、すでに「超克」されているという錯覚を覚えてしまいますが、デカルトを「読む」と、ちょっと待てよ! と思わざるを得ません。

デカルトは本書の冒頭を「良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている」という文章から始めますが、その根拠はどこにあるのかといえば、それは「神」に置かれております。そういう認識が疑うべきもないスタンダードという認識ですから、近代の「端緒」ではなく、むしろ「スコラ学」の完成者といった方が正確ではないか、そいう感慨すら抱くばかりです。

さて……。
「良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている」。
根拠をデカルトの如く「神」に置く必要はありませんが、考え方が全く異なる人間が話し合いをしようとテーブルについたとき、在る意味ではなんらかの共通理解、前提、ルールといったものが必要になります。それを「建前」といってもよいでしょうが、この良識という前提もその良質な「建前」の一つであることは言うまでもありません。

しかし昨今は、良質な建前よりもどす黒い本音を語ることの方が、何か真実を語っていることと錯覚される風潮が非常に強いように感じられます。

良質な建前など、何の役にも立たない、本音こそ真実だ!と。

確かにそれは字義通りそうなのでしょうが、しかし、どす黒い本音ばかりで公共空間が満たされた場合、人間は異なる人間と向かいあったり、話し合ったりすることは不可能になってしまいますよね。

そのことを踏まえておく必要があるように思われます。

哲学史上においても、例えば、デカルトの「良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている」といった議論は、現実には、良識は公平に配分されていないじゃないかと、現代思想あたりからの反駁は非常に多くあり、まあ、たしかにそのことを否定しようとは思いません。しかし、別にデカルトは「良識は公平に配分されていない」ことを否定するために、そのテーゼを掲げた訳ではないですよね。

だとすれば、ちょと思想に触れた中学生があらゆるものを相対的に眼差すことをもってして、何かを「知る」ことの如く錯覚するような在り方というのは、柔軟に退けていく必要があるでしょう。それこそが「批判」(クリティーク)という精神ですし。

風前の灯火の如く萎縮する「建前」の復権こそ、厨二病の如き「否定」精神より優先すべきなのではないか……などと思ったりです。

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否定的自由のもたらす破壊の凶暴

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 否定的自由にとっては、あらゆる特殊化と客観的規定を絶滅することからこそ自由の自己意識が生じる。そこで、否定的な自由が欲すると思っているものはそれ自身すでに抽象的な表象でしかありえず、これの現実化は破壊の凶暴でしかありえないのである。
    --へーゲル(藤野渉ほか訳)「法哲学」、岩崎武雄編『世界の名著 ヘーゲル』中央公論社、1978年。

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少し、仕事の都合でへーゲル再読していたので少しだけ覚え書。

デカルトに端を発する「考える我」に根拠をおくものの見方は、個人を尊重しようという個人主義の考えをもたらすことになるが、展開の過程で、いわば、孤人主義とでもいうべき質的な変貌を遂げたことは疑いようのない事実。

問いが「なぜ」よりも「いかに」にウェイトがおかれてゆく中で、アトム的な人間観が誕生する。そこでは、本来、代換不可能である個々人の主体を中心にという考え方が、実体的な概念として受容され、その結果、動的なものから静的なものとして人間をまなざすようになってしまう。

人間が実体として扱われるということは何を意味するのか。本来、個人を個人として扱おうとする考え方が、単なる空虚な自己主張へと転落することを意味する。

おそらくこうした時代の流れに抵抗したのがカントやへーゲルなのだろう。
とりわけへーゲルは多感な時期にフランス革命からナポレオンの出現という「世界史」を経験し、動向に注視した。

本来「人間のために」というフランス革命が、革命後、一転して暴力的傾向を帯びてくる状況の原因を、悪しき個人主義、悪しき自由主義に見抜くこととなる。

へーゲルはフランス革命の負の側面を「否定的自由」の原理が跋扈した時代として把握したのである。

悪しき個人主義とは否定的な自由のことである。それは真の自由ではない。真の自由とはへーゲルにおいては、社会と歴史を自己として生きる個人のものである。

何かと切り離されて自存する自由や個とは、静的であるがゆえに、恣意的に振る舞ってしまう。だからこそ関係性に絶えず注視したのであろう。もちろん、後期へーゲルは、その関係構造とその具体的構築物へ傾斜してしまうことは事実であり、残念な展開といってもよかろうが、デカルトに端を発する近代哲学の終結といわれるそのとらえ方は、自由の劣化への抵抗と受け止めることも可能である。

このへーゲルのとらえ方は、今の時代においても今なお色あせるものではないと思う。

さて……。
千葉の大学で担当する倫理学の講座、先の水曜の授業で、とりあえず倫理学の観点を紹介することが終了。最終的なまとめを経て、次から具体的な課題へ進む予定。

ともあれ、象牙の塔の学者と評されがちなのがいわゆる「哲学者」と呼ばれる人々でしょうが、ヘーゲルもそうですが、実際は、毎日、長時間、新聞を熟読するに費やしたともいわれております。現実のなかにこそ理性的なものがあるとしたヘーゲルの思索は、単なる概念の上の遊戯ではなく、「否定的自由」の議論に関しても、時代との格闘のなかで思索が遂行された点は失念してはなりませんね。まあ、そういうことを話した訳ですが、次の準備もしませんと・・・いけませんね(涙


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真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。

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一 (真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。)
 我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。これらの先入見から解放されるには、そのうちにほんの僅かでも不確かさの疑いがあるような、すべてのことについて、生涯に一度は疑う決意をする以外にないように思われる。
    --デカルト(桂寿一訳)『哲学原理』岩波文庫、1964年、35頁。

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「疑う」というフレーズを耳にすると、どうやら「何かうしろめたい」「できれば避けたい」と意識してしまう人が多いようだし、できることなら、そうした面倒な手続きを割愛したいという人情もわからなくはない。

しかし、そもそも「疑う」ということは、「疑うために疑う」訳ではく、「確実性」を手に入れるために「疑う」ということが哲学的思索の出発点であることは明記すべきなんじゃないかと思う。

人は様々な知識や伝統、そして常識というものを、ほとんど無意識に身につけることによって、無反省的に社会のなかで生きていくことができるようになる。

それを悪い方向から示唆するとすれば「惰化」といってもよいでしょう。
*もちろん、だからといってそのすべてをぶっ壊せという脊髄反射はよくないのだけどね。

しかし、ときどき点検していかないと、「本当は○○なんじゃないのかな」ってことから大きく逸脱し、時としては、自覚なしに他者を否定したり、またされたりすることになってしまう。

だからこそ、「生涯に一度」ぐらいは、「疑う決意をする以外にないように思われる」。


そのことによって、これまでは海に浮かぶ水面の氷山を見ていなかったにすぎなかった前日から、今度は水面下の氷山をも見ることのできる今日、そして明日という複眼的なまなざしをみにつけ、そのものへ近づいていくことができるはずですからね。

「確実性」を求める「疑い」は、「確実性」と「思いこむ」感性(=陥穽)よりは、少し彩り豊かな世界を、僕たちのまえに見せてくれるものですから。


既成の制度やら概念といったものが制度疲労から音を立てて崩れだした昨今、柔軟に対応したいものです。

まあ、からくりを理解したからといって単純に全否定するのも早計かも知れませんが、「そういうことなんだよね」っている理解があるとないでは大きな違いになりますから。

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人間の知性は一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のことを引き寄せるものである

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 人間の知性は(或いは迎えられ信じられているという理由で、或いは気に入ったからという理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のことを引き寄せるものである。そしてたとい反証として働く事柄の力や数がより大であっても、かの最初の理解にその権威が犯されずにいるためには、〔ときには〕大きな悪意ある余談をあえてして、それら〔反証〕をば或いは観察しないか、或いは軽視するか、或いはまた何か区別を立てて遠ざけ、かつ退けるかするのである。それゆえに、海難の危険を免れたので誓いを果している人々の図が、寺に掲げられているのを示して、さて神の力を認めるかどうかと、尋ねつつ迫られたかの人は、正しくもこう応じた、すなわち彼は「だが誓いを立てた後に死んだ人々は、どこに描かれているのか」と問いかえしたのである。占星術、夢占い、予言、神の賞罰その他におけるごとき、すべての迷信のやり方は同じ流儀なのであり、これらにおいてこの種の虚妄に魅せられた人々は、それらが充される場合の出来事には注目するが、しかし裏切る場合には、いかに頻度が大であろうとも、無視し看過するのである。ところがこの不正は哲学および諸学のうちには、極めて抜け目ない形で忍び込んでいる。そこでは一旦こうと認められたことが、残りのものを(それがはるかに確かで有力なものであろうとも)着色し〔自分と〕同列に帰してしまう。それだけではない、かりに我々のいま言った魅惑や虚妄がなかったとしても、人間の知性には、否定的なものよりも肯定的なものに、より大きく動かされ刺激されるという誤りは、固有でかつ永遠的なものである、未来正当には、両者に対して公平な態度を取るべきであるのに。いや逆に、すべて正しい公理を構成するには、否定的な事例のもつ力のほうがより大きいのである。
    --ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム 新機関』岩波文庫、1978年、87-88頁。

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お金がないので新刊をなかなか買うことができないので、古典ばかりを読み直しておりますが、イングランド近世の思想家フランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans、1561-1626)の『ノヴム・オルガヌム』の叙述に瞠目するばかり。

教科書的に紹介すれば、人間の陥りやすい偏見や先入観、誤謬といったものを四つのイドラ(idola:幻像)として指摘し、観察や実験を重んじるイギリス経験論への筋道をつけたマニフェストのような作品です。

ただ、それは勢いをつけて鉈を振り下ろすようなマニフェストというよりも、人間のドクサを指摘していくその繊細な筆致は、薄皮をはぐような鋭利な職人芸。

確かに「人間の知性は(或いは迎えられ信じられているという理由で、或いは気に入ったからという理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のことを引き寄せるものである」。

人間の情報選択の恣意性は、その人の都合のいい形で遂行されるわけですけれども、まさにこれはベーコンが500年前に指摘したとおり。

最近、様々な議論において「ちょっと待てよ!」……っていう暴論が割合に大手を振って歩いている様を見るにつけ、冷や汗をぬぐう暇なしという情況でしたので、綿密に人間の億見をじわりじわりと突くベーコンに拍手喝采!

ホント、最近、イドラだらけ(涙

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少年が認識したり模倣したりするように努めている理想を形成しているものは、この大人およびあの大人である

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 子供は遊戯から学習という厳粛な行為へ移行することによって少年になる。子供たちはこの時代に、好奇心、とくに歴史に対する好奇心、にもえ始める。子供たちにとって彼らに直接には現われない諸表象が問題になる。しかし主要な問題はここで、彼らの心のなかに、彼らがそうあるべきものに実際まだなていないという感情が目ざめるということである。彼らがかこまれて生きている大人のようになりたいという願望が生き生きとしているということである。ここから子供たちの模倣欲が発生する。両親との直接的統一に関する感情は、精神的母乳であって、子供たちはこの母乳を吸飲することによって成長するのである。それに対し、大きくなりたいという子供たち自身の欲求が子供たちを育てるのである。このように子供たち自身が教育を求めて努力するということがあらゆる教育の内在的な契機である。しかし、少年はまだ直接性の立場に立っているので、少年にとっては彼がそこへ高まって行くべきいっそう高い者は一般性または事象の形態においては現われず、与えられたもの・個別的なもの・権威の形態において現われる。少年が認識したり模倣したりするように努めている理想を形成しているものは、この大人およびあの大人である。子供はこの立場においてはもっぱらこの具体的な仕方で自分自身の本質を直感するのでえある。それ故に、少年が学ぶべきものは、彼に対して、権威に基づき且つ権威といっしょに与えられなければならない。
    --ヘーゲル(舟山信一訳)『精神哲学 上』岩波文庫、1965年、128-129頁。

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最近、小学2年生の子供が歴史に興味を持ち、世界の歴史や日本の歴史……といっても本格的な何ではありませんが……を漫画や子供向けの読み物ですけどね、よく読んでおります。

時間軸から「人間とは何か」という問いを学び始めたということでしょうか。

大いに応援したいと思います。

それから、将棋にも興味が出たようです。

小学校の高齢者交流教室?のようなところで「将棋入門」のような企画があり、それに参加したのがきっかけです。先月から、地域の将棋教室にも参加して、「腕を磨いている」ようです。

自宅でも時々「指す」のですが、まあ、へたくそな僕よりも「ヘタクソ」なので、木っ端みじんに粉砕してしまいますが、たまに「手を抜いてくれ」と懇願されるのでわざと負けることもあります。

おそらくこの場合、「勝利を味わう」という醍醐味の体感よりも、親と一緒に遊びたいというのが先にきているのでしょう。週に1、2度、それぞれたった10数分ですけど、少し大事にしたいなとも思います。
※勿論、「勝ち」「負け」に執念をもって取り組むことが生きる上では必要な一方で、その価値だけを絶対のものとして捉える落とし穴も存在することは言うまでもありませんが、ここではそれが本論ではありませんので割愛します。

しかし、子供の成長してゆくさまを見るにつけて、学びは模倣から始まると言われますけども、その「お手本」となる「大人」の在り方っていうのは、実際のところ「大事だな」と痛感せざるを得ません。

2日に帰省先から東京へ戻ってきたのですが、そんなことを少々考えながら……、「在り方」をもう一度点検しないとね……などと、通俗的な話ですけどもねw

別に懐古的な道学を講釈しようなどとは思いません。

ただ……、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)は『精神現象学』を魂の発展のドラマとして構成しておりますけども、「少年が認識したり模倣したりするように努めている理想を形成しているものは、この大人およびあの大人である」というこの意義を、ときどき点検していかないとネ。

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すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯

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 公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの共同体でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそ、その本来の姿で存在するのだからである。まったく、公衆に属する人はだれ一人、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。一日のうちの幾時間かは、彼はおそらく公衆に属する一人であろう。つまり、ひとがなにものでもない時間には、である。というのは、彼の本来の姿である特定のものであるような時間には、彼は公衆に属していないからである。このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにかある奇怪なもの、すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯なのだ。
    --キルケゴール(桝田啓三郎訳)『現代の批判 他一篇』岩波文庫、1981年、77-78頁。

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人間を抽象的に扱うとは、具体的にいえば、おそらく人間を「手段」として扱うことになる。人間を「手段」として扱うということは、人間を人間として扱わないことに他ならない。

だとすれば、個人と個人の相互尊重をうち破るものであり、そしてそれは単なる利己主義の所作に過ぎなくなってしまう。

一人の人間の具体性からかけ離れてその人を抽象的に扱うということは利己主義を招くということなんだろう。

そしてこれは共同体に関してもおそらく同じである。

一人一人の人間の具体性からかけ離れて共同体を「さも分かったかのように」論じてしまう抽象的な立場というのは、単なる全体主義の所作に過ぎないものである。

共同体を抽象的に扱ってしまうということは全体主義を招くということなんだろう。

そしてその両者に共通しているのが「抽象化」という立場である。

ものごとを「抽象化」してしまった扱うことは確かに「便利」だし「スピーディー」である。しかし、その便利さや高速さに馴れてしまえば馴れてしまうほど、現実の人間ともそしてその人間の居住する共同体からも遠くかけ離れていってしまう。そしてそのあげく現出するのは「すべての人であってなんびとでもない抽象的な荒野であり真空帯」に他ならない。

このことに対して警戒的であるべきなんだろうと……思うんだけど。。。


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一言で言えば、--私の意志の根本的改善によってのみ私の現存在と私の使命の上に新しい光が射す

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 一言で言えば、--私の意志の根本的改善によってのみ私の現存在と私の使命の上に新しい光が射す。この改善なしには、私がたといどんなに省察しても、また優れた精神的賜物を授けられていても、私のうちにも私の周りにもただ暗黒が存在するだけである。心の改善のみが真の智慧に至るのである。さあ、実際、そのように止ることなく私の生全体がこの一つの目的を目指して流れていくように。
    --フィヒテ(岩崎武雄訳)「人間の使命」、『世界の名著43 フィヒテ シェリング』中央公論社、1980年、224頁。

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はっきり言えば、フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte,1762-1814)のみならず、ドイツ観念論の手合いと、そのお零れに預かるショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788-1860)は大嫌いなのですが、このフィヒテの言葉にだけは、首肯してしまいます。

結局の所、「評論家」を気取った他人事としての批評は、糞の役にも立たない……。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)を援用するまでもなく、批評(Kritik)することはいうまでもなく必要なんです。

だけど、他人事として批評することは、客観性を担保することができないってヴェーバー(Max Weber,1864-1920)が指摘した訳じゃないですか!!!

準拠する価値観を自覚しながら、何事かを遂行するしかできませんし、その過程でその訂正もありうるわけですから、その辺に盲目になってしまい、「まあ、そうなんですヨ」……なんて嘯いても、「説明」したことにはならないし、それは「解説」ともほど遠いし、結局の所、その負荷を承知のうえで、「私は……」っていうところのアカウンタビリティーを欠落してしまうと、ホント、意味がないのだけれども……。

「自分自身は……」っていうのが抜きになったコピペの言説ほどイミフなものはないんですけどネ。

ううむ。

呑んでねよ。

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真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。

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一 (真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。)
 我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物についてさまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。これらの先入見から解放されるには、そのうちにほんの僅かでも不確かさの疑いがあるような、すべてのことについて、生涯に一度は疑う決意をする以外にないように思われる。

二 (疑わしいものは虚偽と考えるべきである。)
 否それどころか、何が最も確実で容易に認識されるかを、いっそう明白に見出すためには、我々が疑うすべてのものをば、虚偽と考えるのが有用であろう。

三 (しかしこの疑いは実生活には及ぼさるべきでない。)
 しかしこの疑いは、ただ真理の観想に限られねばならない。何となれば、実生活に関しては、我々が疑いから抜け出すことができる前に、しばしば事を為すべき機会の過ぎ去ることがあるから、我々は余儀なく、単に尤もらしく見えない場合にも、時にはいずれかを選ぶことが珍しくはないからである。
    --デカルト(桂寿一訳)『哲学原理』岩波文庫、1964年、35-36頁。

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日本では、「疑う」ということに関してどちらかといえば否定的なイメージがつきまといますし、「疑う」ということは、疑いの堂々巡りというジレンマに陥りがちなきらいもありますから、できることならば、そういう無益な労力はさきたくない……というのが人情かもしれません。


しかしながら、公定言説によって「全てが説明される」わけでもありませんし……当局としては「それで済ませよ」っていうのが一番楽でかつ管理しやすいわけですが……、ある程度は、やはり自分で苦労して、「それがどうなのか」っていうところは探求しないことには始まりません。

……そこにどれだけ知的リソースを意識的に注ぐことができるのか、これは自分自身をふくめてホント、一つの課題だと思います。

だからこそ「それがどうなのか」って素朴に「疑う」ことは人間が生きていくうえで必要不可欠なんです。

しかし、「疑う」ということは「疑う」ために「疑う」わけではありませんから、この部分は失念しない方がよいかと。

揺るぎない確信、真実を手にいれるために人間は「疑う」わけですからネ。

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善意の努力を完成してくれるであろうと希望しながら生きる

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 道徳的な神の民を建設するということは、それゆえ、その実施が人間にではなく、神そのものにのみ期待されうる業である。だがそれだからと言って、人間はこの仕事に関して何もしないでよいとされはしないし、また各人はただ自らの道徳的な私事だけに専念すればよいので、人類の出来事全体は(その道徳的規定に関して)ある一段と高い知恵に委ねておけばよいといった具合に、摂理に任せきりでよいとされもしない。人間はむしろ一切が彼にかかっているかのように振舞わなければならない。そして彼はこの条件の下でのみ、一段と高い知恵が彼の善意の努力を完成してくれるであろうと希望してよいのである。
    --カント(飯島宗享・宇都宮芳明訳)「単なる理性の限界内における宗教」、『カント全集 第九巻』理想社、1974年、143頁。

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哲学を学ぶと言うことは、機能主義的に「おれはコレができるゼ」(キリッ……だとか、ドグマちっくに「これしかないんだよ」(ゴルァ……だとかという態度とは無縁の「境地」にでも似たものがあるのじゃないかと思います。

今日は、授業でその辺を少しお話させて頂いた次第ですが、その意味では、少し一方的にこちらが話し込んでしまった⇒演説してしまったわけで、履修者の皆様申し訳御座いませんでした。

ただ熱心に聞いてくださっていたようであり(リアクションペーパーなんかを見ると)、少しくさび?を打ち込むことあできたのではないかと思います。

哲学とは、実際のところ、「おれはコレができるゼ」(キリッって式に就活に直接役立つわけでもアリマセンし、その人の生きる確信として「これしかないんだよ」(ゴルァというのともちがう、ある意味では「慎ましく生きる」流儀なのではないかということです。

この世の中をどのように見て、そしてどのように関わっていくのか……ということに関して、「人間はこの仕事に関して何もしないでよいとされはしない」わけですが、だからといって「各人はただ自らの道徳的な私事だけに専念すればよいので、人類の出来事全体は(その道徳的規定に関して)ある一段と高い知恵に委ねておけばよいといった」お任せでもありません。

そのなかで、流れず・流されず、押さず・押し出さず「佇んで」歩む……。

そこでしょうか。

「人間はむしろ一切が彼にかかっているかのように振舞わなければならない。そして彼はこの条件の下でのみ、一段と高い知恵が彼の善意の努力を完成してくれるであろうと希望してよいのである」。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)が「理性の限界内の宗教」の末尾を「希望してよいのである」と結びますが、あてにするのでもなく・放置するのでもなく、たんたんと歩み続けてゆく「慎ましさ」としての「希望」……ここがおそらく人間が生きていくうえで一番大事なんじゃないかと思うんですが……。

ともあれ、今日は非常糞暑い一日でした。

熱血?教室の後は、少しひとりで暑気払い。

しかし、希望とは夢想でも確信でもなく、そこへ自らが到達していくという深い決意にも似た慎ましさがあるんだろうと思うのですけれどもねぇ~。

どうなんだろw

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L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.

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 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
    --パスカル(前田陽一、由木康訳)「パンセ」『世界の名著 24 パスカル』中央公論社、1967年、562頁。

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ツイッターで少し連投した内容ですが、メモとして加筆して残しておきます。

学生さんからパスカル(Blaise Pascal,1623-1662)の有名な「“人間は考える葦である”とはどういう意味なのですか?」という質問があったので、少しだけ紹介します。

一般的には次の二点が比喩されたものとみてよいかと思います。
すなわち……

(1)無限な宇宙に比較すると人間は葦のようにか弱い。
(2)しかし、同時に、そのことを知っている・自覚する人間は「考える葦」として全宇宙の力よりも偉大である、

……という意味で受け取って大丈夫かと思います。

いわゆる人間の「考える力」に人間の人間らしさを見出したパスカルの洞察といってしまえばそれまでで、言い古されたネタですが、その公定解釈よりも「葦」で比喩したことには注意すべきかもしれません。
※ただし、パスカルの場合は最終的に、その「道徳の原理」はジャンセニストの立場からキリスト教信仰へと収斂しますが、ここではひとまず措きます。


さて……、
湖畔に群生する葦は、涼を送る微風にすらゆらぐ心許ない存在です。
強風の前ではそれこそ抵抗することすら不可能で、ぐわ~んとその姿を大きく風のなされるままに曝してしまいます。

それに対して森林の様々な大木はどうでしょうか。
葦が前後するような微風はおろか、強風にも揺らぐことなくその勇姿を示すことがほとんどです。
しかし大木には弱点があります。強風が続くと大木とは、時に「折れ」てしまうことがあるんです。

葦は風のなされるままです。しかしめったに「折れ」てはしまいません。

弱き自らの存在を自覚する葦は、風が吹くとそれに身をまかせます。
一見すると逆境に屈服したようにその姿は見えるかもしれません。
しかし、一旦、風や荒が収まると、葦は徐々に身を起こし、再び元の姿に戻ってゆく……。これが人間への比喩とされている点です。

この葦のように人間は、自然や運命の暴威に対しては無力です。これは否定できない事実です。だからそれに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずから立ち上がることができる……。

では、その柔軟性の根拠は人間の場合どこに存在するのでしょうか……。
パスカルは「考えることができる」ことにそれを見出しました。

たしかにこのことが後の知識主義的錯覚としての知性偏重への端緒を切り開くことになったことは否定できないけれども(しかもそれはパスカルの意図とはかけ離れたものですから、「パスカルの」というよりも悪しき「パスカル主義」とでも言った方が正確でしょうが)、知識にせよ知性にせよ、本来的にはそれは、人間をより柔軟なものたらしめるものとして存在しているのではないかと思わざるを得ません。

考えること・知性・知識といったものが、その人をして柔軟たらしめることができるかどうかで大きな違いには多分なるでしょうね。

パスカルの知性に対する信頼と知が人間を自由にするという発想(良心の内発性)は、もっと顧みられてもよいと思います。

今日日は、どちらかと言えば、パッケージ化された「知」なるものが人間を雁字搦めにしてしまうものですから。

思えば、この「葦」という比喩は、パスカルその人の人生そのものの表象かもしれません。病弱なパスカルは39歳という短い生涯ですが、理不尽な病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、信仰を深めてゆきます。

そのなかで、状況に「折れる」のでも「負ける」のでもなく、左右されない生き方を人間の知性に見出した……そういっても良いかもしれません。

だからこそ「知性」がパッケージ化されてしまう……、例えば、ジャンセニストの立場からイエズス会風の良心の内発性を阻む「良心例学」に関しては、断固として立ち向かうその勇姿と雄弁には、どうしてもそれを承認できない、その熱い魂というものを観じざるを得ません。

人間の生活世界において、パッケージ化された知が提供する「模範解答」と、自分自身が逡巡・熟慮・決断を下して導いた「そのひとの血と汗の解答」というものは往々にして、文言は同じかもしれません。

しかし、人間は限界をふりしぼって、それを自分で手に取るべきである……そのことによって人間は、葦であり葦でない存在になる……。

そのへんを丁寧に見極めていかないと……知なるものは、どこまでもそのひとのものにはならないとはおもいますよw

最後に、いちおー、フランス語の「パンセ」の原文も紹介します。

 L'homme n'est qu'un roseau,le plus faible de la nature;mais c'est un roseau pensant.


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