家族

日記:横浜ぶらり


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義父母と横浜観光……といっても、はとバスのツアーですがw……しましたので、その記録を残しておきます。

コースは、新宿・東京駅発~

1)港の見える公園
2)中華街
3)マリンタワー~山下公園
4)水上バスにて赤煉瓦倉庫街

 ~東京駅

わりと強行軍でした。

10年ぶりに横浜を訪れましたが、やっぱり住んでみたい街のひとつ。ただ、津波の時は怖いので、港の見える公園界隈に邸宅を構えるべきだろうけれども、とてもプレカリアートの身では不可能なので、あきらめした次第ですが(涙

学生時代に日吉に通っていた頃は、桜木町まで1本だったので、授業でないで、そのまま、横浜によく遊びに行ったけれども、港町というのは……これも外からそこへ物見遊山にいく人間の印象批評だけれども……外に開かれている感が強くて、船乗りの個としての際だった自立と確乎たる協同には憧憬してしまいますね。


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わが身を忘れて、心を浄めたときに、はじめて他人の心をも浄めることができた


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 この時、洗礼の子は、あのとき百姓女が手拭いをきれいに洗った時に、はじめて、テーブルがきれいにふけたことを思いだした。つまり、彼がわが身を忘れて、心を浄めたときに、はじめて他人の心をも浄めることができたのであった。
 なお、追剥ぎは言った--
 「だが、わしの心がかわったのは、おまえが死を恐れなくなった時からだよ」
 このとき洗礼の子は、百姓たちが台をしっかりと止めたときに、はじめて木をまげることができたのを思いだした。つまり彼が死を恐れなくなって、神のうちに自分の生活を見いだした時に、かたくなな心が折れたのであった。
 追剥ぎはまた言った--
 「わしの心がすっかり溶けてしまったのは、おまえがわしを憐れんで、わしの前で泣きだした時だった」
 洗礼の子は非常に喜び、追剥ぎを連れて、焼けぼっくいのおいてあるところへ行った。かれらがそばへ行った時には、最後の焼けぼっくいからもまた、りんごの木が芽ふきだしていた。そこで洗礼の子は、牛飼いたちのところで湿った薪が燃えついたときに、はじめて焚火が強く燃えだしたことを思いだした。つまり、彼の心が燃えだして、初めて他人の心に火を移したのであった。
 そして洗礼の子は--今こそ罪のつぐないのできたことを喜んだ。
 洗礼の子は、その一部終始をのこらず追剥ぎに話して、死んでしまった。追剥ぎはその亡骸を葬ると、こんどは自分が、洗礼の子からいいつけられたとおりの生活をはじめ、同じように人々を教えだした。
    --トルストイ(中村白葉訳)「洗礼の子」、『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』岩波文庫、1966年、148-149頁。

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日曜日は子供の10歳の誕生日。

小学生になってからは、私個人として……要するにおもちゃの類ではなくして……彼に書籍をプレゼントするようにしているのですが、昨年のレッシングの『賢者ナータン』は理解するまでに少し時間がかかりましたので、今年は『トルストイ民話集』をプレゼントしました。

長いものでも数10頁なので、読んでくれるのではないかと思います。

少し親ばかをすると、小さい時から、本は大好きで、「読んだほうがいいよ」と諭すまでもなく、本はしっかり読んでいます。

トルストイとの出逢いが、彼の世界観、人生観を転換するひとつのきっかけになればと思います。

ともあれ、10歳の君、おめでとう。

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父の日の散策。

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昨日は、青春を過ごしたw 中野区に所用があり、午前中に用事を済ませてから、子供がブロードウェイに用事があるとのことにて散策してきました。

少し懐かしい時間を過ごすと共に、心身共に充電することができたように思います。

また、その日は父の日ということもあり、昼からビールを頂戴した次第です。

みなさま、ありがとうございました。

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たまこ 20130521wed


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ちょうど1週間前に避妊手術をしまして、21日の水曜日に抜糸完了にて、一連の処置が終わりました。

術後2日ぐらいは、かなり疲れておりましたが、今週の頭から、だいぶ活動的になり、抜糸後は、本調子に戻りました。

これで、また宅内で大暴れしそうです(> <)


 

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たまこの帰還

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水曜の朝、珠子が入院して避妊手術を受けました。

午後に病院から電話があって無事終了したとの由。木曜日に迎えに行きました。

1日だけですが、帰宅して彼女がいないと寂しいものです(涙

病院に預けたその日、珠子を病院を連れてって検査して預けて帰ろう細君がしたとき、珠子ちゃんがつぶらな瞳で出てゆく細君を凝視していて、その眼差しに答えることに耐えかねたと細君が言っていた。そんな話を聞いてレヴィナスの議論を想起した。という話をしたら、あんたが連れてってといわれた。

木曜の夕刻、避妊手術を終えた珠子が帰宅しました。

手術は無事終わったようですが、気丈な珠子は、一言も鳴かず一睡もせす、小さな躰で迎えを待っていたとの由。

細君が迎えに行くと初めて「にゃー」と。帰宅してから安心して寝ています。人間のエゴとは故すまない。

昨日は疲れたようでぐっすり睡眠。動きがぎごちないですが、徐々に元の生活に戻っていくような感じです。


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「日本の航空技術100年展」の特別展示「零戦展示」への「旅」


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人はなぜ旅をするか
中村 インドの哲学者や行者には、どこかにこもり、じっと一か所にいて瞑想にふけり、真実を深めている人がいます。
 しかし、私はやはり旅をしたい。旅をしますと、非常に新鮮な感銘をうける。旅は自分がもっていないもの、あるいは自分が忘れたものを新たに思いおこさせてくれます。もう、旅をすること自体が感動です。
白川 そうですね。人間ってのは、元来、基本的に未知に対するあこがれがあるんじゃないでしょうか。だから、人は旅をするんです。そして、未知の世界を切り拓いていく強い精神によって、人間社会には文明が発達したんだと思います。ただその際、やはり、一人で旅をして異質の文化や風土と接触していただきたいですね。そうして異質なものと出会ったとき、猿人が人間になったような精神革命が、個人のなかにもおこり得るんじゃないでしょうか。私は旅の魅力、意味というのは、そういうところにあるのではないかと思います。
中村 それにしても、私のような老人は、もう、そんなに旅はできません。しかし、私はやはり、外界の実物を見たいという願いが強くある。
 だから白川さんのような方には、ますます、いいお仕事をしていただきたいものです。
白川 ありがとうございます。私のこれまでの仕事は、人間とは何か、人間が生きるとはどういうことであるのかということを考えたい、という仕事でした。これからも、人間の根源に迫る道をゆけるところまで歩いてゆきたいと思っています。

中村元、白川議員「仏教伝来の道を歩く」、『中村元対談集I 釈尊の心を語る』東京書籍、1991年、170-171頁。
※初出、『致知』竹井出版、1989年10月。

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引っ越しの片づけがまだ済まないのですが……、その手伝いに来ている岳父が、所沢航空発祥記念館にて開催中の「日本の航空技術100年展」の特別展示「零戦展示」(米国プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館所蔵の52型、唯一現存する飛行可能な機体)を見に行こうということで、予定を変更して、航空公園まで急遽「旅立つ」ことになってしまいました。

前日が雨で、翌日が曇天との予報。28日は汗ばむ陽気に包まれた快晴にて、訪問しました。

特別展示は閲覧時間が限定されていたため、2時間近く、記念館で時間を待ちながら、エンジンの音を聞いたり、間近で現物を見ることが出来ました。

戦争や暴力に関してはいかなる意義を付けようともその正当化は不可能だとは思っております。ただしかしながら、その現物に触れ、知っていくことは大切ですし、まあ、私自身もこの手のジャンルには人後に劣らないレベルの関心がありますので、……しょうじき、かなり疲れましたが……いい一日になったのではないかと思います。

ともあれ、部屋の整理……。

ひとつひとつやっていくしかないですね(><)

http://tam-web.jsf.or.jp/spevent/announce.html

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むかしの東京も、マドリードに劣らぬほどの緑に包まれていたのだよ


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緑陰

 数年前の晩夏に、スペインの首都マドリードへ行ったとき、同行の若い友人のS君が、石造りの大建築群を圧倒するような濃い緑にびっくりしていたが、私は、こういった。
 「むかしの東京も、マドリードに劣らぬほどの緑に包まれていたのだよ」
 「ほんとうですか?」
 「ぼくは東京の下町に育ったのだけれど、緑に不足はなかった。蝉や虫や蝶々や、蛍や蝙蝠とも友だちだったのだ」
 「まさか……?」
 「ほんようだよ。川の水と樹々のない町なんて、町としての機能がないも同然なのだ。むかしの政治家や役人は、よく、それを心得ていたのだろう」
 「まさか……?」
 「いまの東京の緑は、車輌とマンションとビルに追いはらわれてしまった。夏の涼風までも消えてしまった」
 「ほんとうに、風が来ませんねえ」
 「緑がある空間にこそ、風が生まれるのだからね」
 「もっとも、夏は冷房がありますけど……」
 「冷房は、夏に冬をむりやりによぶだけのものさ。人間の躰が狂ってしまう」
 「日本の都会が緑に埋まるようなことって、もう、ないんでしょうか」
 「木々の緑はカップ・ラーメンとはちがうよ。大自然が失ったものを取り戻すまでには二十年も三十年もかかる」
 「でも、東京にいる政治家や役人は、みんな田舎から出て来たんでしょうに……」
 「あの連中は、自分の故郷にさえ、緑があればいいという考えなのだろうよ」
    --池波正太郎『新 私の歳月』講談社文庫、1992年、26-27頁。

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祝日の11日は久しぶりに休日でしたので、たまった書類仕事を片づけて、資料を読み直すかと思っていたのですが、家人より、歴史好きの子どもをどこかに連れて行こうということで、

江戸東京博物館・開館20周年記念特別展「尾張徳川家の至宝」へ足を運びました。

http://www.tbs.co.jp/owari-tokugawa2013/

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/2012/01/index.html

http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/owari-tokugawa/


東京に長らく住んでいながら訪問するのははじめてでしたが(汗、ひさしぶりに「本物」を鑑賞できたように思います。

個人的に印象深く鑑賞したのは、茶器と火縄銃。

お茶をしていたのでアレですが、なかなかの逸品に驚くばかり。

火縄銃には、武器でありながら、徳川家の使用するそれには、漆塗りで葵の御紋が施されており、江戸時代の「形式化」の両方の側面を象徴する一品だと実感しました。

まず最初に特別展に足を運んでから、常設展をまわり、特集展へ。

江戸時代の風俗をその当時の生活道具とセット、それからミニチュアでの再現に子どもが喜んでおりました。水都“江戸”の息吹を感じることができのではないかと思います。

特集展は、「広重・東海道五拾三次」、「雑誌にみる東京の20世紀」。


http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/feature/2012/02/index.html

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/project/2012/02/index.html


前者は宿場順に広重の作品を紹介するもので、宿場を重ねるたびに、東海道を旅する気分が味わえ、後者は、明治から現在に至る「雑誌メディア」に表象される「東京」を概観する企画展。

近代日本思想史(キリスト教学)が専門ですから、明治維新以降の雑誌メディアには注目するのが「仕事」になりますので、わりとなじんだ雑誌が多かったのですが、やはりここでも「灯台もと暗し」。

明治・大正・戦前昭和の雑誌は目を通することが多いのですが、昭和後半の雑誌は未チェックが多く「目から鱗」のひとときでした。

パンフにも掲載されている『ステップ・イン新宿 創刊号』(新都心新宿PR委員会、
昭和50年10月10日)の表紙絵に時代を感じると共に、『月刊 光が丘』(協同クリエイティブ)では、原武史さんが、団地の自生的民主主義を近著『団地の空間政治学』(NHKブックス、2012年)をはじめとする労作で明らかにした、メディアと自治とはこういうものだったのかと驚くばかりでした。

入館料が少々高いかなと思いつつも、充実したひととき。

最初は面倒だなと思いましたが、家族に感謝です。

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一人の人間が同時に所属するすべての集合体がそれぞれ、この人物に特定のアイデンティティを与えている

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 単眼的なアプローチは、世界中のほぼすべての人を誤解するには、もってこいの方法となるだろう。通常の暮らしでは、われわれは自分がさまざまな集団の一員であると考えている。そのすべてに帰属しているのだ。一人の人間がなんら矛盾することなく、アメリカ国民であり、カリブ海域出身で、アフリカ系の祖先をもち、キリスト教徒で、リベラル主義者の女性であって、かつ菜食主義(ヴェジタリアン)、長距離ランナー、歴史家、学校の教師、小説家、フェミニスト、異性愛者、同性愛者の権利の理解者、芝居好き、環境活動家、テニス愛好家、ジャズ・ミュージシャンであり、さらに大宇宙に知的生命が存在し(でえきれば英語で)緊急に交信する必要があるという考えの信奉者となりうるのである。一人の人間が同時に所属するすべての集合体がそれぞれ、この人物に特定のアイデンティティを与えているのだ。どの集合体も、この人物の唯一のアイデンティティ、または唯一の帰属集団と見なすことはできない。人のアイデンティティが複数あるとすると、時々に応じて、異なる関係や帰属のなかから、相対的に重要なものを選ばざるをえない。
    --アマルティア・セン(大門毅・監訳、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力 運命は幻想である』勁草書房、2011年、3頁。
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市井の職場の都合で、指定休を出勤しなくならなくなったので、その振り替え休として18日の日曜日はお休みしました。ひさしぶりの日曜の休日でしたので……仕事柄基本的には祝祭日は出勤パターンorz……家族で少し、ぶらっと街を散策してきました。
ちょうど結婚して11年になったというのもあり、問題なく生活がつづいてきなあと思いまして、少し早い時間からですが、ささやかな祝杯を挙げてきた次第ですん。
そりゃ人間ですので、お互いに頭にくるような事柄もありますが、ということは、そうではない事柄もたくさんありますので、人間の全人性を一点を見て判断しないように心がけてはおりますが、今後も、そのことを留意しつつ、相対(あいたい)できればいいのではないかと思っております。
ともあれ、「ありがとうございました」
……って何じゃソレ。
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9歳になる君へ:あんたから見てわしがキリスト教徒なら、あんたもわしから見ればユダヤ教徒と申せますからな、宗旨は違っても人情は一つなのです。

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修士 ああ、ナータンさん! 貴方がキリスト教徒だ! いや、本当のキリスト教徒だ! 第一等のキリスト教徒ですよ!
ナータン 結構な話です! あんたから見てわしがキリスト教徒なら、あんたもわしから見ればユダヤ教徒と申せますからな、宗旨は違っても人情は一つなのです。しかしわしらはいま徒らにいたわり合ってばかりもいられません。ここでなんとか手をうつことが必要です。さて、それからというのものは忽ち七倍の愛が、わしをこのたった一人の、しかもよその娘に結びつけてしまいました。わしはあの娘のうちにいるわしの七人の息子達をまたしても失うことになるのかと考えただけでも、もう死にそうな気がします。--しかし摂理がこの娘をまたわたしから手離すようにと求めるのでしたら、わしは謹んで摂理に従いましょう。
修士 いや、ますますもって立派なキリスト教徒です! 実はそのことをたったいま貴方にお勧めしようと思っていたところでした。しかし貴方の心のうちに住む善い霊は、もうそうするようにと勧めていられたのですな。
    --レッシング(篠田英雄訳)『賢人ナータン』岩波文庫、1958年、166-167頁。

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今日は、我が子が9歳になった誕生日。

土曜日は仕事なので、「お祝い」ができませんので、前日に、お鮨を……廻るアレですが(涙……家族で楽しみつつ、「今日までぼくたちの子供として生まれてきてくれてありがとう」、そして「今日からまた自分自身の新しい歴史を創っていこう」と記念しつつ乾杯をさせて頂きました。

未来へ伸びゆく彼に対する責任を感じるだけでなく、本当に、ウンコみたいなわたしの子供してお生まされましてありがとうというのが正直なところです。

今年は「ケーキはいいや」っていうので宅ではなく、お鮨やさんでお祝いとなりましたが、彼がすくすくと成長するさまに、なにかが、そう、生命が輝きながら伸びていく……という事実に感動と感謝です。

さて、彼がこの世界に創造されてから、毎年のことですが、岩波文庫に収録されている本を一冊づつ贈っておりますが、9歳になったこの日は、レッシングの秀作『賢人ナータン』を寄贈しました。

たぶん、素で読んで理解できるかどうかおぼつかないところはあるのですが、明日から読み聞かせの一冊にエントリー!

概要だけは、お鮨やさんからもどって、彼に少し話したわけですが、わりと「うん、お話をくわしくしりたい!」とおしゃっていましたので、時間をかけてゆっくりと共有したいと思います。


ともあれ、以下は本とともに添えたメッセージ。


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これから、生きていくうえでは、あなたの判断を歪めかねないものの見方がたくさんでてくると思います。

たとえば、「彼はAだからBだ」と決めつけてしまうことがあるかもしれません。しかし
Aということが、その彼や彼女のすべてではありませんよね。ここに注目してほしいです。

何かを判断するうえでは、それにむきあうまえに、いろいろな情報を参考にすることは当たり前なことですし、それは必要不可欠な準備だと思います。

しかし、そこに囚われすぎて、あなたが向き合う人間を、簡単に「彼は人間ではない」などと判断しないようにしたほうが僕はいいと思う。

あなたが判断しようとする人間は、あたなと同じ人間であることを忘れないようにしたほうが、僕がいいと思う。

お父さんは、なるべく、そう心がけてきたし、これからもそうありたいと思う。人間が人間を否定しない世の中を創りゆく新しい戦友であるあなたに、僕は期待したい。

おせっかいで、無理強いで、余計なお世話の、親のエゴかもしれないけれども、そう歩んで欲しい。

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以上。


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意識とは、生きることが、Erleben〔体験〕が、経験が、自己へと現前すること

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……意識とは、生きることが、Erleben〔体験〕が、経験が、自己へと現前すること(プレザンス)なのである。経験は単純なものであって、本質的に、錯覚いよって触発されることは決してないのである。経験は、ある種の絶対的な近さ(プロクシミテ)の中にある自己としかかかわらないからである。
    --ジャック・デリダ(林好雄訳)『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年、128-129頁。

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朝から、子供の運動会。
蒸し暑い一日でしたが、近くでその様子を拝見しないと見えてこない部分がありますね。

しかし、疲れたおるず。

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