覚え書

覚え書:「あの人に迫る:六車由実 介護民俗学者 人生の豊かさを聞き書きで知る」、『東京新聞』2015年03月22日(日)付。

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あの人に迫る
介護民俗学者 六車由実さん
人生の豊かさを聞き書きで知る

[あなたに伝えたい]その人の人生を知ることで、絶対にケアの仕方が変わります。互いに互いを認め合えるようになります。

 民俗学者であり、デイサービス「すまいるほーむ」(静岡県沼津市)の職員でもある六車由実さん。大学職員を辞して飛び込んだ介護現場を「民俗学の宝庫」と称し、施設の利用者の人生を聞き書きする。利用者が生きてきた軌跡に目を向けることで、介護する側、される側の意識も変わると説く。(橋詰美幸)

--準教授を辞め、なぜ介護の世界に飛び込んだのですか。
 大学では、常に研究をして論文を出してと、成果を出さなきゃいけなかった。競争社会で、気持ちも体もついていかなかったんですね。実家に戻って三カ月くらい静養をしていたのですが、しばらくして次に何の仕事をしようかと考えたときに、ハローワークでホームヘルパーの資格を取る講習があることを知りました。資格を取ったら現場で働いてみたいなと思って飛び込んでみました。

--実際に飛び込んでみて、感じたことは。
 介護する側、される側という関係にとても違和感を持ちました。以前の職場は特別養護老人ホームで重度者が多かったせいもあってか特に強く感じました。やることがいっぱいあって、利用者の人生に耳を傾ける時間も取れなくて、「してあげる」という立場でしか関わることができずにいました。利用者の方にとっても常に介護されている状況では、生きている意味や役割がわからなくなってしまうのではないかと感じました。不自然な場所だなと。
 スタッフが少ない上に、時間内に終わらせなくてはいけない仕事がありすぎて消耗してしまう。いかに安全かつ時間内に利用者に食事を取らせるかや、気持ちよく排便を処理できるかなど、介護が作業になって、人と関わっているという感覚がまひしてしまう。

--どう抜け出したのですか。
 ある時、女性が突然、歌を歌い始めたんです。しかも踊りつきで。初めて聴いた歌だったので、忙しいにもかかわらず、思わず「なにそれ」「どこで覚えたの」と聞いてました。救ってくれたのは利用者さんでしたね。


--「介護民俗学」を実践する中で、どんなことを感じますか。
 介護を受ける人たちがこんなにも昔の記憶が確かで話ができることに驚きました。研究者時代の調査では会う機会のなかった大正一桁生まれの人もいる。
 関東大震災の話を聞いたときには、知っている人がいることが衝撃で、沼津周辺もすごく揺れて大変だったという話から始まって、おばあさんたちが狩野川の方に向かって念仏を唱えていたとか。そんなことを言われたら、民俗学者としてメモを取らないわけにはいきませんよね。デイルームの片隅でメモを片手に熱心に話を聞いている姿は、他の職員には奇異に映ったみたいですが。
 介護する立場で利用者の話に身を任せていると、自分が全然想定していなかった話しが飛び出してくるんです。農耕が機械化されていなくて牛馬が家畜として飼われていた時代に、牛馬の鑑定や仲買をした「馬喰(ばくろう)」という商売人がいたことや、発電所から電線を引くために定住地を持たずに村々を渡り歩いた高度経済成長期の「漂泊民」など。人の人生はこんなにも豊かなものなのだと感じます。

--聞いた話は、記録として形に残すのですか。
 以前いた施設では、利用者に聞かせてもらった話を文章に起こして、「思い出の記」として本因や家族に渡していました。
 ある男性から太平洋戦争中にガダルカナルで戦った体験を聞いて、思い出の記を作ったことがありました。その方のお婿さんは大学を出て役所に勤めていたのですが、男性はずっと農業をやっていて「自分は学がない」と、お婿さんに対して引け目を感じていました。でも、お婿さんが思い出の記を読んだらすごく感動してくれたらしく、「自分のことを見直してくれた」と喜んでいました。
 家族でも親の若い頃の話って、実はあまり知らないんですよね。思い出の記は親の人生を受け止め、認める一つのきっかけになったのかなと思います。


--話を聞くことで利用者の気持ちや体調も上向きになるのでしょうか。
 聞き書きをしているときに、常に相手が気持ちよく話しているかといえば、そうではありません。語ることによって、苦い思い出も含めていろいろなことを思い出します。介護やカウンセリングの世界では、危険なことと言われかねません。ですから、話を聞くのはお互いに真剣勝負です。
 私たちの日常の中で、怒ったり泣いたり不愉快に思ったりと、いろいろな感情が湧き起こるのは普通のことですよね。それが介護現場では感情の変化に乏しくなりがち。認知症に人が泣きだしたり、笑いだしたりすると「感情失禁」と言われる。そもそも感情に失禁という言葉をくっつけるな、と思うのですが。私は聞き書きをしているときに利用者さんが急に涙が出てしまったりするというのは、人と人の普通の関係の中で日常性が回復しているのだと考えています。
 それに私たちよりも倍、人生を生きてきた人たちですよ。多少何があっても強いです。確かに注意しなくてはいけないことはあるかもしれませんが、真剣に話を聞くのが礼儀ではないでしょうか。

--聞き書きをする上で必要なことは。
 大切なのは、知らないことを知る喜びを感じること。知らないことは武器というか、意味があることだと思います。例えば、私はあまり料理が得意でなくて、知らないことばかりなんですね。思い出の味を再現するときには、利用者の方が「そんなこともわからないの」と言いながら一生懸命教えてくれるんです。
 「すまいるほーむ」には、親戚が浅草の置き屋にいて踊りをよく見ていたという女性がいて、他の利用者さんや職員に踊りを教えてくれました。常に介護されるだけでなく、あるときは教える立場になって、私たちが学ばせてもらう。常に関係が入れ替わることで、対等な関係を築くことができたのも、利用者さんの人生に目を向けて、聞き書きを続けてきた結果だと思っています。


--聞き書きを通して、介護する側、される側の関係性が変わってくるのですね。
 多くの介護職員は、利用者さんの日常生活で必要な動作の自立度や病歴は知っていても、どんな人生を歩んできたかは知りません。その人の人生を知ることで、絶対にケアの仕方が変わります。介護する側、される側という関係性が変化して、互いに互いを認め合えるようになります。
 聞き書きをしていると、人の人生はすごく豊かなものなのだと実感します。だから、たとえ認知症になって自分で自分のことを決めることが難しくなったとしても、人は最期まで人として生きるべきだと強く思います。それがどんなに大切で、どんなに難しいかというのを、私たちは常に意識していかねばなりません。

[インタビューを終えて]取材に訪れた日。「すまいるほーむ」の皆さんが、沼津周辺では昔ながらという「なべやき」を作ってくれた。小麦粉に砂糖と重曹を混ぜて焼く素朴なおやつだ。
 「あんたそれじゃ砂糖が少ないよ。もっと入れて」。利用者のおばあちゃんが遠慮のない物言いで、六車さんに指示を飛ばす。「料理が経たで、いつも怒られるんです」。笑いながら話す六車さんは楽しげだった。
 介護の現場でお年寄りの人生に向き合う大切さを思う。それにはまず、職員が利用者に向き合うことができるだけの余裕がいる。そんな環境を介護現場に広げないといけない。
    --「あの人に迫る:六車由実 介護民俗学者 人生の豊かさを聞き書きで知る」、『東京新聞』2015年03月22日(日)付。

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覚え書:「野坂昭如の『七転び八起き』 第200回『思考停止』70年 命の危機 敗戦から学べ」、『毎日新聞』2015年03月24日(火)付。


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野坂昭如の「七転び八起き」
第200回「思考停止」70年 命の危機 敗戦から学べ

(写真キャプション)「戦争は気づいた時にははじまっている」
 たとえ無責任、出まかせといわれようが、物書きの端くれとなって以後、お上のあやかしに取り込まれてはいけない。日本が現状のまま推移すれば駄目になる。やがては沈没してしまうなどと言い続けてきた。食い物しかり、原発しかり。これすべて勘によるもの。そして残念ながらこの勘はほぼ当たってしまった。もう一つ、日本は再び戦争に巻き込まれようとしている。昭和20年、戦争が終わった年、ぼくは14歳。あれから70年、ずっと敗け戦の日々である。70年前、一面の焼け野原だったあとに、たちまち屋根が並び、昭和30年にもなると、飢えの恐怖も遠ざかった。つれて日本は高度経済成長の波に乗り、これでめでたしめでたし。民主、平和、自由など各種の主義がデカイ顔をしてまかり通った。物質的豊かさの良いとこ取りを決めこんだ。ぼく自身、時代に身を合わせて生きのびてきた。だが一方で、言いようのないいらだちが失せない。違和感がある。これは世間に対してと自分についてのこと。すべて上っ調子で前進あるのみ。日本はあの戦争で立ち止まって考えることをしなかった。まさに着の身着のまま、食うや食わずの混乱の中で今日を精いっぱい生きのびるのがやっとのことだった。それにしても、やや落ちついたところで、あの戦争は何だったのか、振り返るゆとりはあったはず。お上の暴走、それを許した世間。仕方がなかったで片づけて、空襲は天災の一つの如く受け止めて、戦争を人ごとのようにみなす。戦中は「一億一心」「挙国一致」「忠君愛国」をスローガンに掲げ、戦後は「平和」さえ唱えていえればそれでよし、考えることをやめてしまった。どこかで抱く違和感はあっても、誰かがどうにかしてくれると考えておしまい。お上を筆頭に誰も矛盾に向き合わなかった。ぼくにしたってエラそうなことは言えない。結局は時代に身を合わせて生きてきた。
 14歳の夏、突然戦争が終わり、世の中が一転、何もかもすべてガラリと変わってしまった。もの心ついた頃は戦時下。お国のために命を捧げることがあたり前。成長盛りにロクな物を口にせず、授業も満足に受けられなかった。ぼくら昭和ヒトケタ世代はかなり特別な少年時代を過ごした。やがてウロウロするうちに経済大国、戦後はその繁栄の恩恵を十分に受けて、ギクシャクしながらも生きてきた。ぼくらの世代にも責任はある。70年前の今頃、大日本帝国は瀕死の状態だった。3月10日の東京大空襲で10万以上の命が失われ、それでもまだお上の暴走は続く。4月、ひたすら本土防衛のための沖縄線がはじまる。沖縄県民の命を盾として、いたずらに死者を増やし、約20万の命が棄てられた。この唯一の地上戦によって沖縄は本土の捨て石とされた。今なお、それは続く。5月24、25日東京空襲、山の手が焦土と化した。6月5日神戸に空襲、これによってぼくの家族、言えも焼失。人生が大きくかわった。70年前、昭和20年の今頃に生きていた大人達は何を考えていたのだろうか。子供だったぼくの目にうつる身近な大人は、上辺平静だったように思う。列島は空襲の嵐、戦争が迫っていた。お上の制度は猫の目の如く変転、代わりないのは強気な大本営発表だけ。普通に考えれば日本の敗け、と見当つくはずだが、大人達に焦燥の色も諦めた感じもうかがえなかった。今の日本がどんな状態なのか、ぼくにはよく判らない。ただぼくなりに冷え冷えと眺めている。この歳では眺めるしかない。あの命の危機を目前にしていた時代とはまるで違う。だが今日あるが如く明日もあるとみなして、具体的に破滅を回避する手段を講じない。今も昔も同じ。大人達は思考停止じゃないのか。
 飢えに苦しんだ経験をあっさり忘れ、食い物は他国にまかせ、その食い物の大半を廃棄し続けている。危なっかしい原発、安心、安価、クリーンは嘘だった。ツケは子孫にまわす。年金、健康保険もそう長くないだろう。
 日本には金があるという。債権国だといったところでドルという紙切れ。1000兆を超えた国公債の利子払いもある。これを免れるには極端なインフレしかない。モノ不足の再来は遠くないだろう。現状維持を最優先、後はすべて先送り。危機感を持たず、リスクを避けてきた日本。敗戦から何を学んだか。震災、原発事故から何を学ぶのか。戦後70年、平和は奇跡的に続いた。安倍首相悲願の憲法改正は日本を破滅に追いやるだろう。戦争というものは気づいた時にははじまっている。今、戦後が圧殺されようとしている。(企画・構成/信原彰夫)
    --「野坂昭如の『七転び八起き』 第200回『思考停止』70年 命の危機 敗戦から学べ」、『毎日新聞』2015年03月24日(火)付。

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覚え書:「特集ワイド:続報真相 戦意発揚スローガン『八紘一宇』国会発言 問題視されない怖さ」、『毎日新聞』2015年03月27日(金)付夕刊。


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特集ワイド:続報真相 戦意発揚スローガン「八紘一宇」国会発言 問題視されない怖さ
毎日新聞 2015年03月27日 東京夕刊

 16日の参院予算委員会で、自民党の三原じゅん子議員が戦争遂行のスローガンに使われた言葉「八紘一宇(はっこういちう)」を肯定的に紹介してから10日余り。大きな問題にはなっていないが、戦後70年を迎える折も折、「良識の府」参議院で飛び出した発言を忘れ去っていいのだろうか。

 「ご紹介したいのは、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。初代神武天皇が即位の折に『八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)さむ』とおっしゃったことに由来する言葉です」。三原氏は国際的な租税回避問題に関する質問の中で、この言葉を持ち出した。「現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかが示されている」というのが、その理由だった。

 しかし、言うまでもなく「八紘一宇」は、日本を盟主とする世界統一の理想を表すものとして、戦意発揚に用いられた言葉だ。日本書紀の「掩八紘而為宇」という漢文から「八紘一宇」を造語したのは戦前の宗教家、田中智学(ちがく)とされる。

 一方、三原氏が事前に参院予算委員全員に配布した説明資料には、八紘一宇について<日本は一番強くなって、そして天地の万物を生じた心に合一し、弱い民族のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであろう>と記されている。出典は1938年に出版された清水芳太郎著「建国」という書物だ。

 国会図書館に出向き、デジタル保存されている同書を閲覧した。すると、三原氏の配布資料に含まれていないページにも、気になる記述があった。日本書紀の「掩八紘而為宇」の直前にある「兼六合以開都」を、こう解釈しているのだ。<六合を兼ねて以(もっ)て都を開き=とあるのは、思うにその時は大和を平定したに過ぎず、まだ奥の方に国はあるけれども、それは平定していなかった。(中略)大和が皇化されるならば、更に進んで全世界を皇化せねばならぬと仰せられたのであろう>

 「六合」とは天地と四方。田中智学は、この「兼六合以開都」からも「六合一都」(世界を一国に)を造語したとされる。戦前や戦中には「八紘一宇」とセットで用いられることも少なくなかった。

 学問的な評価はさておき、三原氏が今回の質問にあたって依拠した書物ににじむ思想は、三原氏の言う「日本がどう立ち振る舞うべきかが示されている」と言えるのか。首をかしげざるを得ない。

 清水とはどんな人物だったのか。鹿児島大の平井一臣教授(政治史)が2000年に著した「『地域ファシズム』の歴史像」によると、1899年、和歌山県に生まれた。早稲田大卒業後の1928年から西日本新聞の前身の一つである九州日報の主筆。のちに健康食品などを開発、販売する清水理化学研究所を設立。同研究所を母体に国家改造運動団体「創生会」を結成し、農村救済などに取り組む。41年に飛行機事故で死亡するまでジャーナリスト、発明家、活動家と目まぐるしく職業を変えた生涯だった。

 平井教授は「清水は主に九州北部で活動したため知名度は高くありませんが、『日本的ファシストの象徴』といわれた北一輝の流れをくむ国家主義者です。体系的思想よりも、時事問題を分かりやすく文章にまとめるのが得意だったようです」と語る。

 清水が注目されたのは37年7月の日中全面戦争の勃発以降だ。同年内に2回も中国戦線を視察し、九州各地で大規模な報告会を開いた。清水が率いる創生会はその後、日独同志会結成や排英運動でめざましい活動を続け、軍部からも、その大衆動員力を注目されたという。「『建国』は日中全面戦争勃発の前後に書いた文章をまとめた本です。この時期から創生会は農村救済から軍部への協力に軸足を移し、運動を変質させていった」と平井教授。本の扉には「八紘一宇 陸軍中将 武藤一彦」と大書されている。

 「満州出兵は日露戦争の権益を確保するためと説明できたが、権益を持たない中国全土を相手にした戦争は国益論では正当化できなくなった。このため軍部は、他民族に優越した日本民族を中心とした東亜新秩序の構築のためという虚構をつくり上げた。八紘一宇は、その虚構を支えるスローガンだった」。平井教授はそう指摘し、三原氏の発言については「今の時代に、国会で『八紘一宇』や清水芳太郎の名前が出るとは思わなかった」と驚きを隠さない。

 三原氏は毎日新聞の取材に文書で回答を寄せた。数多くの文献の中から「建国」を選んだ理由については、同書の一節に<現在までの国際秩序は弱肉強食である><強い国が弱い国を搾取する>などの表現があり「現在のグローバル資本主義が弱い国に対して行っているふるまいそのままだと思い引用した」と説明。「時代状況を踏まえぬ言葉の解釈だ」との批判に対しては「八紘一宇の元々の精神は、少なくとも千数百年もの間、『我が国が大切にしてきた価値観』だったわけで、戦前はその精神から外れて残念な使われ方がされたものであり、だからこそ元に戻ろうということ」としている。

 ◇象徴の塔が物語る侵略の歴史

 「今でも宮崎県に行くと、八紘一宇の塔が建っております」。租税回避問題に絡んで「八紘一宇」を持ち出した三原氏に対し、麻生太郎財務相はこう応じた。神武天皇即位からとされる「紀元2600年」を祝って1940年に建てられた高さ37メートルの塔は、今も宮崎市平和台公園にそびえる。記者は宮崎に飛んだ。

 満開の山桜。春らんまんの公園には家族連れのほか、シンガポールや台湾のツアー客が訪れ、塔に続く階段で記念撮影を楽しんでいた。

 県職員立ち会いの下で塔内部に入った。正面には秩父宮(昭和天皇の弟宮)の真筆「八紘一宇」が納められていた「奉安庫」。周囲には軍用機や戦艦が描かれた「大東亜の図」や移民船が描かれた「南米大陸の図」、神話の「天孫降臨」「紀元元年」など8枚の石こうのレリーフがかかる。

 また、塔の基礎には世界各地の石が使われている。中国本土、台湾、朝鮮半島、シンガポール、フィリピン、パラオ、ペルーなど世界中の派遣部隊や日本人会から送られたものだ。「多田部隊 萬里長城」と刻まれた石もあった。送り主が刻まれている石だけで1789個あるという。毎日新聞の前身の一つ「東京日日新聞」と刻まれた石もあった。冷たい石肌をなでながら戦意高揚に協力した戦前の新聞業界の責任を思う。宮崎県が71年、塔の前に設置した石碑には<友好諸国から寄せられた切石>とあり、<(塔には)「八紘一宇」の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれている>とも記されていた。

 歴代内閣は八紘一宇に否定的な見解を示してきた。中曽根康弘首相は83年1月の参院本会議で「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った。それが失敗のもとであった」と述べている。

 実は、塔の正面の「八紘一宇」と刻まれた石板は戦後の一時期、外されていた。連合国軍総司令部(GHQ)が45年12月に「八紘一宇」を公文書で使用することを禁じた。県内の財界人らが動いて「八紘一宇」の文字が復活したのは65年だ。

 この塔の話は65年のNHK連続テレビ小説「たまゆら」にも出てくる。文豪・川端康成が初めてテレビのために原作を書き下ろしたドラマだ。川端が訪れた時、まだ石板は外された状態だった。原作にこんな一節がある。<見る人によっては、それが立った時の誇りを思ひ起し、塔の名のもぎ取られた時のかなしみを思ひ出し、また、ただ奇妙な形の塔とだけ眺めるのもよいのではあるまいか。すべて、古跡とか記念の建物とかは、見る人のこころごころであらう>

 「川端先生は当時の県民感情を的確に書いてくれた」。当時、川端を案内した渡辺綱纜(つなとも)・宮崎県芸術文化協会会長はそう話す。

 「この塔は戦時中に国民を戦争に一致団結させるための精神的な支柱だった。宮崎県には、その史実を正しく伝える碑などを建立するよう求めています。三原さんの発言を聞くと、再び国民を戦争に駆り立てる支柱としてこの塔が利用されるのではないかとの懸念を拭えません」。91年から塔の史実を研究している市民団体「『八紘一宇』の塔を考える会」の税田啓一郎会長は表情を曇らせる。

 公園を管理する宮崎県都市計画課の担当者は、現在の碑文について「さまざまな意見があろうかと思いますが、現状のまま大切に保存してまいりたい」と語るのみだ。

 世界各地から石を集めて築かれた巨大な「八紘一宇」の塔。それは、アジア諸国を踏みにじり日本を破滅に導いた戦争を象徴するモニュメントだ。三原氏の発言と共に胸に刻みたい。【浦松丈二】
    --「特集ワイド:続報真相 戦意発揚スローガン『八紘一宇』国会発言 問題視されない怖さ」、『毎日新聞』2015年03月27日(金)付夕刊。

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[http://mainichi.jp/shimen/news/20150327dde012010022000c.html:title]


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覚え書:「松尾貴史のちょっと違和感 『八紘一宇』持ち上げる与党銀 言葉のチョイスは生命線では」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付日曜版(日曜くらぶ)。

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松尾貴史のちょっと違和感
「八紘一宇」持ち上げる与党議員 言葉のチョイスは生命線では

 元女優の与党議員が、予算委員会で質問をしている様をぼんやりと見ていた。先日、新幹線からホームに降り立つ彼女と出くわしたばかりだった。その時にも感じたのだが、いろんな意味で顔つきが変わってきたなあ、などと思いつつ(人の人相をとやかく言えたものではないが)聞くともなしに、しかし耳に入っては来ていた。滑舌はいい、もちろん国会議員にしては、といったレベルだが。だがそこに実感というか、現実感というものが伴っていない空々しさが常に漂っていて、あまり上図ではない役者が、2時間ドラマの法廷ものか何かで弁護士か検事の役を力んでやっている雰囲気だった。当然だが、政権に対する礼賛ばかりを並べていて、首相に語りかけるときはまるでハニーがダーリンに語りかけるように甘く呼びかけていた。
 よかったねえ、巨大与党だからこそこういう見せ場を与えられて、などと思いつつチャンネルを変えようかというときに、なぜか税制の話の中だったかと思うが、「八紘一宇」という四字熟語を持ち出した。前時代的というよりも、今時この言葉を前向きな意味合いで使う、私よりも若い女性がいるのだなあと思ったが、話の流れからこの言葉を持ち出す意図が全く読めなかった。というよりも、この熟語を使いたいのでどこかに入れられないか探してこじつけて入れたような違和感があった。
 この言葉の由来は日本書紀の「掩八紘而為宇=八紘を掩いて宇にせむこと亦可ろしからずや」という文言をもとに、思想家が大正時代に短縮した造語らしい。
 この議員は、「ご紹介したいのは、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べていた。そうすると日本の建国は大正時代ということになってしまうが、それは勘違いだとしても、彼女にこの言葉を使わせようとアドバイスなりレクチャーをした人がいるのではないかと想像してしまった。
 あの中曽根康弘首相(昭和58<1983>年当時)ですら、衆議院の本会議で「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った。それが失敗のもとだった」と、反省材料として否定的に使っているし、もちろん他の多くの政治家たちもそのようにこの語を扱っていた。
 私も、国民を間違った方向に向かわせる標語として大活躍した、どちらかといえば好ましくない言葉だという認識だった。しかし、今回は建国以来の美徳としてご紹介してくださっている。建国以来大切にしてきたのなら、彼女が首相や多くの国会議員、そして多くの国民に「紹介」する必要はないだろうが、ここで「紹介」することによって、憲法と同じくこのスローガンも既成事実として「解釈変更」をしようとしているのでは、と被害妄想的になってしまう。
 この言葉のそもそもの意味をあれこれ文句をつけるつもりはないのだけれども、この言葉をあえて紹介するならば、どういう使われ方、扱いをうけてきたかを調べなかったとは思えず、であれば、戦時中はこの標語を批判するだけで治安維持法などの戦時法制の取り締まり対象となって、非国民の扱いをうけてしまうようなセンシティブなものだったということに気がつかなかったのだとすれば、あまりにも迂闊ではないか。
 本来の意味は道徳的なものなのだとか、そういうことは関係なく、言葉というものが持つ性質か、その言葉がどう使われてきたかということが大きな問題で、放送や新聞で使われないようになったりした言葉にも、それぞれの語源ではなく、伝来、来歴でまとわりついた因縁が大きく影響している。
 政治家の仕事は語り合うことだ。その時、大切な道具としての言葉のチョイスは、生命線なのではないだろうか。(放送タレント、イラストも)
    --「松尾貴史のちょっと違和感 『八紘一宇』持ち上げる与党銀 言葉のチョイスは生命線では」、『毎日新聞』2015年03月22日(日)付日曜版(日曜くらぶ)。

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覚え書:「こちら特報部 侵略戦争を正当化 八紘一宇国会質問」、『東京新聞』2015年03月19日(土)付。


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こちら特報部
侵略戦争を正当化 八紘一宇国会質問

 戦後七十年の国会で、こうした言葉が飛び出すとは思いもしなかった。「八紘一宇」だ。自民党の三原じゅん子参院議員(五〇)が十六日、参院予算委員会で「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。この言葉は戦前・戦中の日本のアジア侵略を正当化する標語として使われた。発言後、自民党内、国会でも大きな騒ぎにはなっていない。その静けさが問題の根深さを示唆している。(篠ケ瀬祐司、林啓太)

(写真キャプション)参院予算委で「八紘一宇」を紹介しつつ、質問する自民党の三原じゅん子議員=16日、国会で。

*国会での主なやりとり
三原じゅん子議員 今日紹介したいのが、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇だ。(略)八紘一宇という根本原理の中に現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかが示されている(後略)
麻生太郎副総理兼財務相 戦前の歌の中でも「往け八紘を宇となし」とかいろいろある。(略)こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感だ。
三原議員 八紘一宇の理念の下に(略)、そんな経済および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍首相がイニシアチブを取って世界中に提案していくべきだと思う。


「世界を一つの家と見立て天皇が統治
「満州」支配で理念復活

 まず、「八紘一宇」の意味と歴史を確認したい。
 この言葉の水面のとは八世紀の歴史書「日本書紀」の記述だ。初代天皇とされる神武天皇が即位直前に「八紘を掩いて宇にせん」と抱負を述べたとある。
 八紘とは発砲の地の果て、つまり世界のこと。宇は家のことだ。天皇が世界を一つの家と見立てて統治しようとの理念が示された。
 ただ、これは日本書紀の編纂者による創作というのが通例だ。それ以前にあった「文選」など中国の書籍に類似した表現がある。
 専修大の荒木敏夫教授(日本古代史)は「導入されたばかりの律令制の下で、天皇の支配原理や正統性を証明するための理念として持ち出した。国を家にたとえるのは徳のある君主として人民を慈しまなければ、王朝が滅びるという思想に基づく。近代の平等で民主主義的な家族観とは異質の考えだ」と解説する。
 律令国家のイデオロギーの「亡霊」が復活するのは近代になってから。日本書紀を基に「八紘一宇」を造語したのは日蓮宗系の宗教家、田中智学(一八六一~一九三九年)とされる。一九一三年、自身が主宰する信仰団体の機関紙に記した。
 千葉大大学院の長谷川亮一特別研究員(日本近現代史)は「田中は日蓮宗の教義を独自解釈し、日露戦争前から天皇が世界統一の使命を負っていると主張していた」と説明する。
 ただ、田中の思想は一部軍人らに影響を与え、三〇年代前半から軍部が八紘一宇を使い始めた。陸軍省のパンフレットや二・二六事件の青年将校の「蹶起趣意書」にも引用された。
 背景にあるのが、三一年の満州事変と翌三二年の満州国の建国だ。長谷川氏は「満州は朝鮮や台湾のように併合できなかった。第一次大戦後、民族自決の風潮が国際的に浸透していたためだ。そこで、日本が満州国に対して支配的な地位に立つことを正当化する狙いで、天皇の威光が世界を覆うという八紘一宇の理念を主張した」と語る。つまり、アジア侵略を正当化する理念だったといえる。
 政府は三七年、戦意発揚のために「八紘一宇の精神」と題する冊子を発行し、四〇年にはこの言葉を含む「基本国策要綱」を閣議決定した。宮崎市に「八紘一宇の塔(現・平和の塔」が建てられるなど、草の根にも浸透していった。
 文部省が学校に配布した「大東亜戦争とわれら」(四二年)という冊子も「戦争完遂の大目的」が「万邦が各々その所を得て、あひともに栄えゆくやうにすること」で「八紘為宇」の精神に基づくと説いた。
 やがて、敗戦。連合国軍総司令部(GHQ)は四五年、八紘一宇を「軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノ」として公文書での使用を禁じた。
 

戦後中曽根氏ら否定
「アジア民衆の心を刺す」
「歴史的文脈無視は危険」

(写真キャプション)1940年、岐阜県高山市での仮装行列、ノボリに「八紘一宇」などの字が見える
(写真キャプション)宮崎市の平和台講演にある「八紘一宇」の文字が刻み込まれた平和の塔

 その後、戦後は一貫して時の閣僚たちが「八紘一宇」を否定している。
 五三年八月七日の衆院文部委員会では、大達茂雄文部相が「八紘一宇などという歴史教育のやり方を復活する考えは毛頭無い。(略)やはり偏っていた」と明快に否定した。八三年三月十六日の参院予算委でも「八紘一宇を平和主義のシンボルと考えるか」と問われた中曽根康弘首相が「(略)戦前の限定された意味が非常に強くあり、私自体はそういうものはとりません」と答えている。
 三原議員は「こちら特報部」の取材に対し、文書で回答を寄せた。「八紘一宇という言葉が、戦前に他国への侵略を正当化するスローガンや原理として使用されたという歴史的事実は承知しているし、侵略を正当化したいなどとも思っていない。良くない使い方をされた経緯を認めた上で、この言葉は、戦争や侵略を肯定するものではないことを伝えたかった」と説明。
 さらに、この言葉との出会いは「一三年二月十一日の建国記念日に、神武天皇の『建国のみことのり』をブログで紹介するにあたって勉強した」際という。
 一方、自民党の谷垣禎一幹事長は十七日の記者会見で、「必ずしも本来、否定的な意味合いばかりを持つ言葉ではないと思う」と、三原議員を擁護した。
 しかし、党内にはとまどいの声もある。ある閣僚経験者は的を交わした麻生太郎副総理兼財務大臣の答弁を「バランスがとれていて良かった」と評価。別のベテラン議員も「普通なら三原議員の世代は使わない単語。誰かに知恵をつけてもらったのか」と苦笑した。
 若手議員は党の印象悪化を心配する。「さすがに党が使うよう指示したとは思えない。仲間内では『元の意味は良くても、戦前、戦中の単語を持ち出すのは勘弁して』と話している」
 三原議員は、委員会で清水芳太郎(個人)が書いた八紘一宇に関する抜粋を配布した。清水は戦前に国家主義思想団体を主宰した人物で「一番強いものが弱いものをまもるために働いてやる制度が家」「世界で一番強い国が弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができた時に、世界は平和になる」などと記されている。
 結局「一議員の発言で、表現の自由もある」(ベテラン野党議員)などの理由で、三原議員の質問は委員会理事会などでは問題化されていない。だが、参院予算委で質問を聞いた福島瑞穂議員(社民)は「上から目線の歴史修正主義だ。次々と類似の発言が出てきたら、大変なことになる」と警鐘を鳴らしている。
 前出の荒木教授は「八紘一宇は侵略に苦しんだアジア民衆の心を刺す言葉。三原さんは政治家でありながら、他者の痛みへの想像力を欠いている」と話す。
 長谷川氏も「歴史的な文脈を無視した安易な使用が一般化するのは極めて危険だ。八紘一宇の理念の下に押し進められた侵略戦争の正当化にもつながりかねない」と危ぶんだ。
[デスクメモ]その共同体は信徒たちから「イスラムの家」とみなされ、カリフを頂点に統治される。その家では、肌の色や出自などによる差別はない。野蛮な異教徒たちの侵略から、聖戦を戦う戦士らが防衛する。以上が信奉者たちから見た「イスラム国」の姿である。いつの世もどこにでも似たような話は浮かんでくる。(牧)
    --「こちら特報部 侵略戦争を正当化 八紘一宇国会質問」、『東京新聞』2015年03月19日(土)付。

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覚え書:「ニュースQ3:『八紘一宇』戦時中のスローガンを国会でなぜ?」、『朝日新聞』2015年03月19日(土)付。


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ニュースQ3:「八紘一宇」戦時中のスローガンを国会でなぜ?
2015年03月19日

(写真キャプション)「八紘一宇」について触れる自民党の三原じゅん子参院議員

 「日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)」――。三原じゅん子・自民党参院議員(50)の発言は唐突だった。戦後70年の国会で、かつての戦争遂行のスローガンがなぜ?

 ■三原議員が質問中に発言

 16日の参院予算委員会。三原氏は国際的な租税回避問題についての質問で、八紘一宇とは「世界が一家族のようにむつみ合うこと」だとし、グローバル経済の中で日本がどう振る舞うべきかは「八紘一宇という根本原理の中に示されている」と語った。

 そもそもどんな意味なのか。田中卓・皇学館大元学長(日本古代史)によれば、由来は日本書紀にある。神武天皇が大和橿原に都を定めた時に「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)に為(せ)んこと、またよからずや」と語った。地の果てまで一つの家とすることは良いことではないか、との意だ。

 ■大正時代に宗教家が造語

 ここから「八紘一宇」を造語したのが、国家主義的な宗教団体「国柱会」の創設者、田中智学だった。

 大谷栄一・佛教大准教授(近現代日本宗教史)によると、田中は1913(大正2)年、機関紙「国柱新聞」で初めて八紘一宇に言及。著書「日本国体の研究」で「悪侵略的世界統一と一つに思われないように」としたが、やがて「日本が盟主となってアジアを支配する」という文脈で使われるようになる。

 第2次近衛文麿内閣は40(昭和15)年、「基本国策要綱」を決定。「八紘を一宇とする」精神にもとづき「先(ま)づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」とした。当時、日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争に突入する。

 戦争推進の国民的スローガンの一つとして「八紘一宇」も使われ、当時の小学生は習字で書き、朝日新聞も「八紘一宇の大理想のもと父祖の大業を継ぎ……」などと戦争を支持した。

 こうした歴史を背景に、この言葉に複雑な思いを抱く人は少なくない。

 ■複雑な思い、昭和天皇にも

 昭和天皇は79年10月、国体開会式出席のため宮崎県を訪問。当初、県立平和台公園にある「平和の塔」で歓迎を受ける予定だったが、広場に変更された。40年に建立された塔には「八紘一宇」と刻まれていた。

 当時の侍従長による「入江相政(すけまさ)日記」の同年9月の記述には「八紘一宇の塔の前にお立ちになつて市民の奉迎にお答へになることにつき、割り切れぬお気持がおありのことが分り……」とあり、昭和天皇の意向が場所を変えた理由だったことを記している。

 中曽根康弘元首相も83年、国会で「戦争前は八紘一宇ということで、日本は独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と述べた。

 三原氏は取材に「侵略を正当化したいなどと思っていない」と文書で回答し、「『人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう』という和の精神」を伝えたかったとした。

 前坂俊之・静岡県立大名誉教授(ジャーナリズム論)はこう指摘する。

 「八紘一宇は侵略のキーワードで、三原氏の質問は全く関係ない問題に誤用した発言だ。終戦70年の首相談話が問題となっている時期に、グローバルな政治情勢の判断を欠いている」
    --「ニュースQ3:『八紘一宇』戦時中のスローガンを国会でなぜ?」、『朝日新聞』2015年03月19日(土)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11657505.html:title]

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「野坂昭如の『七転び八起き』 第199回 大震災から4年 危機感を取り戻せ」、『毎日新聞』2015年03月10日(火)付。


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野坂昭如の「七転び八起き」
第199回 大震災から4年 危機感を取り戻せ

 東日本大震災から4年。福島原発事故から4年。上辺の復興がいわれながら、すべてがうやむやのまま5年目を迎えようとしている。今の上っ調子なお上、これに対し違和感を覚えている人は多いはずだ。息苦しさが世間を被いはじめている。それでもなお、立ち止まって考えようとしない。向き合わなければならぬ現実から目を逸らし、戦後豊かさに向かって1億総邁進を善しとしたあの頃と似た空気。お上は棄民政策を続けている。
 福島でいえば、いまだ避難を余儀なくされている人が大勢いる。復興という言葉の空々しさに気がついている人はいても、その原因を問うことはしない。新天地で精いっぱい生きていこうとする人がいる。一方、原発事故以来、いまだ先行きの見通しないまま、常に不安定な生活を強いられている人もいる。福島に限ったことではないが、同じ被災者という立場でも、被災者同士で溝が深まる。強制的に避難させられている人と、自主的に避難している人の間に、賠償額などで格差が生じ、地域の和が乱れ、これが復興のさまたげにもなる。上辺活気を取り戻したようにみえて、その陰に、いったい何人の自殺者がいるのか。
 4年を経た今、被災地以外に暮らす人間はといえば、まだ復興は半ばではあるものの、被災者の多くに普通の生活が成り立っていると思い込んでいる。そう思い込むことで、自分たちの日常が確立され、まともだと思えるのだ。それまでの暮らしを断ち切られ、追い出された人の多くは、いまだ絶望感から抜け出せないでいる。そこには置き去りにされたまま。被災者たちの声は届かない。かわってお上の調子のいい号令ばかりが響く。その筆頭は、福島原発はコントロールされているという嘘。これは大本営発表よりひどい。
 汚染水の問題は何も解決していない。4年も経って、処理システムもメドが立たず、そもそも原発をつくる上で、原子力のタブーについては触れないできた。わが国は資源小国、やがて油田枯渇をいい、発展するために必要と、その危険性や矛盾は考えないことにして、ギリギリの綱渡りを続け、自己は想定外だと宣う。想定外という言葉は人間の驕りである。先日も汚染水の外洋流出という事件が起きている。汚染水の濃度が低いからコントロール出来ているというが、問題は数値の高い低いではない。10カ月もの間、隠蔽を続ける東電。この体質、昨日今日にはじまったわけじゃなく、かつてよりひどくなっている。放射性物質への風評被害と戦い、ようやく明るい兆しが見えたところで、大本がこれではどうしようもない。
 東電はもはや民間企業じゃない。つまり東電の隠蔽体質はお上の体質そのものといえる。お上は五輪招致のもと、福島の問題はないものとして、不都合な事実を隠す。また原発再稼働ありき、これを前進させるため、国は原発事故によって、当たり前の生活を奪われた被災者たちを見棄て続けている。廃炉に向けての除染廃棄物の行方も決まらぬまま、国も原子力規制委員会も、原発再稼働、つまり利害関係の継続を優先、震災後には、言われていた脱原発について、その過程すら考えることをやめた。
 廃棄物の仮置き場の土地が決まっても、このシロモノの管理には、今後長期にわたって、膨大な金が要る。かつてのゴミはやがて土にかえった。自然から得たものを、自然に戻すサイクルだった。原子力のゴミは永久に生活環境の中にとどまる。日本人は震災後の今をその足元から見直すことをしていない。直視することを避けながら元通りの暮らしに戻ってしまった。上辺元通りになったことで被災地は復興し続けていると思い込み、やがてクルであろう地震にも教訓が生かされ、あんな目にはもう遭わないと信じて疑わない。誰かがどうにかするだろうと深く考えない。楽観主義ではない無責任そのもの。


 福島原発の現実が人間に問うている。いつか再び震災は起こる。人の手で制御出来ない原発が列島に点在している。このまま再稼働を許していいのかと。成長、成長というが、実はぼくらは退化しているのではないか。あれから4年、生物としての危機感を取り戻せ。(企画・構成/信原彰夫)
[訂正]2月10日の「対テロ策 首相の言葉 軍部に似て」の記事で、「川西航空機明石工場」とあるのは「川崎航空機明石工場」の誤りでした。
    --「野坂昭如の『七転び八起き』 第199回 大震災から4年 危機感を取り戻せ」、『毎日新聞』2015年03月10日(火)付。

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覚え書:「戦争『物語化』への危惧 寄稿 笠原十九司」、『毎日新聞』2015年03月09日(月)付夕刊。


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戦争「物語化」への危惧
実態を知り本当の鎮魂を
寄稿 笠原十九司(都留文化大名誉教授・日中関係史、中国近現代史)

 「いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、尊い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりともわすれません」
 これは、2013年8月15日の全国戦没者追悼式における安倍晋三首相の式辞である。そしてこの年の12月26日、安倍首相は靖国神社へ参拝、「愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります」という談話を発表した。
 中曽根康弘首相「公式参拝」に始まり、小泉純一郎首相が繰り返し、安倍首相が受け継いだ、政府指導者による靖国神社参拝の儀式は、侵略戦争に動因され、犠牲にされた兵士と遺族、そして国民に対して、天皇と軍部指導者と政府の戦争責任を棚に上げたまま、国民が将来の戦争にも犠牲になるよう、だまし続けるための、政治的セレモニーであると、私は思う。安倍首相は、戦死者が家族と故郷と国を守るために命を捧げたという「美しい日本の兵士」像を作りあげるために、戦争「物語化」の言説を折りあるごとに繰り返しながら、マスコミを操作してその浸透をはかろうとしている。それに策応する保守系メディアもあり、現在の日本のマスコミ界において、日本の侵略戦争を批判し、日本軍の加害・虐殺の事実を報道することをタブー視する傾向が強まっている。

■ ■
 3次にわたる長期の安倍政権下に、愛国心を強調した教育基本法に改正し、それにもとづいて、愛国心教育を柱とするように学習指導要領を改正し、それにそぐわない歴史教科書叙述を排除するように教科書検定基準を改定し、現在は愛国心を教える「道徳」の教科化をはかっている。
 安倍政権の戦争「物語化」への世論操作にとっては、日本軍による侵略・加害の事実、とくに残虐事件・虐殺事件の歴史事実は不都合である。とりわけ、歴史教科書に記述され、学校の歴史教育で教えられるのは、不都合きわまりない。安倍氏は、1997年に自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(後に「若手」を削除、教科書議連)を結成して事務局長となり、その時に事務局次長についた下村博文氏が、長期にわたり文科相を努め、教科書から「従軍慰安婦」問題や南京事件をはじめとする侵略・加害の記述を削除、修正させるためにさまざま教科書攻撃をおこなってきた。
 安倍首相の戦争「物語」化の言説と策動の目的は、首相が「命を懸けても」と執念をもやす、日本国憲法を改正し、憲法9条を放棄し、将来の日本の戦争に犠牲になる者とそれを指示する国民を育成することにある。

■ ■
 戦争は国家による「大量殺人」であるから、日本が15年間にわたり中国大陸でおこなった戦争において、日本軍は膨大な中国兵と民衆を殺した。日本の歴史書では約100万の中国郡民が犠牲になったと記され、中国側の公式見解で約300万の中国人が死傷したとされる。
 日本政府と国民が、外務省ホームページ(アジア・歴史問題Q&A)にあるように「多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ」、膨大な日本軍が長期にわたり中国戦場においておこなった加害の歴史を知ることが、歴史認識をめぐる日中の齟齬と対立を克服するために不可欠である。

■ ■
 殺し、殺されるのが戦争であるから、日本軍兵士の戦死者も膨大で、日中戦争・アジア太平洋戦争をふくめて日本軍人・軍属の戦没者は230万人といわれる。
 藤原彰『飢死した英霊たち』(青木書店)は、これらの戦没者の過半数が戦闘行動による戦死ではなく、食糧補給の途絶に由来する飢餓地獄の中で野垂れ死によるものだった実態を告発している。膨大な戦没者への鎮魂とは、われわれ戦後世代の国民が、若き兵士たちが餓死・病死さらに魚草津、自決など無謀な戦死を強制された戦場の実態と戦争の現実を知り、無念の気持ちに思いをはせ、そのような戦争の愚考を再び許さない国民になることである。(かさはら・とくし)
    --「戦争『物語化』への危惧 寄稿 笠原十九司」、『毎日新聞』2015年03月09日(月)付夕刊。

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アジアの中の日本軍―戦争責任と歴史学・歴史教育
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覚え書:「松尾貴史のちょっと違和感:『知らなければ問題なし』 把握できない人から金もらっていいのか」、『毎日新聞』日曜版(日曜くらぶ)2015年03月08日付。

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松尾貴史のちょっと違和感
「知らなければ問題なし」
把握できない人から金もらっていいのか

 政治とカネの問題がじわじわと不健康な広がりを見せてきた。
 西川農林水産大臣が不承不承辞任し、下村文部歌学大臣、望月環境大臣、そして上川法務大臣にさまざま疑惑が取りだされている。今度は安倍総理大臣側にも、補助金交付先から寄付が渡っていたことが発覚した。
 予算委員会で「カネまみれ政権」などと言われて気色ばみ、総理大臣が語調を荒げて言い返していたのは、こういうことが発覚したときの布石だったのではと勘ぐりたくもなる。挑発的な物言いをしたり、売り言葉に買い言葉のようなことを言ったり、総理席から「日教組はどうする!」などとヤジを飛ばしたり、なかなか「活発」な状態のようで、そのこと自体の危うさも少なからず感じてしまう。
 政治化が知らなかったら罪にならない、という政治資金規正法にも問題があるのではないか。条文にある「知りながら」という言葉を入れたのは、つまりはこういうときのためだったのかと気づかせていただいた。だいたい、国会議員の皆さんは、「政治化がどういう相手から金をもらっているかを把握できない」という状態が正しいとでも思っているのだろうか。把握できない相手から、把握できない組織や団体へカネが渡るという形を禁止するしかないだろう。
 「法的に問題ない」と言い逃れているが、法的に問題がなくとも構造的には問題が大きいのではないか。法的に問題がないというなら、法的に問題が見つからなかった小沢一郎議員への攻撃と社会的制裁は一体何だったのか。
 大企業や金持ちだけがさらに優遇される社会を構築しようとしている流れも異様だ。出で責められるべきではないが、なんの苦労も知らずに育った皆さんが、高見で高笑いしながらさまざまなルールをいじくっているようにしか見えない。
 国にとって一番の骨格となる、権力者に歯止めをかけている憲法すらいじろうとしている。時代に合わなくなった法律は、適正な手続きで適正な内容に変えられるなら、今の形にこだわることはないかもしれない。しかし、今の動きは、明らかに今の憲法が持っている優れた要素を改憲しようとしているようにしか思えないのは、私がぼけているからなのだろうか。
 川崎で、13歳の少年が殺害された事件の報道が大きく扱われ、関与していない少年の写真まで拡散し、事実ではない情報が垂れ流されている。一度流れ出した名誉毀損情報やデマは、もしも同じ人物が謝罪、訂正したとしても消えることがない。手軽にネットを通じて、実名や鮮明な顔写真が見られる状態で、しかし新聞記事やテレビのニュースでは「少年」であることを理由に、隔靴掻痒の状態が続いている。隔靴掻痒と書いたのは、見たい、知りたい、というわけではない。見たくなるような前提を整えられてから、そこであえて隠すという状態が気色悪いのだ。
 痛ましい事件で、何とも救いのない展開に暗澹たる思いだ。被害者の少年の母親が出したコメントを読むと、どうにもしてあげられなかった沈痛な思いがストレートに伝わってくる。
 少年たちが深夜にたむろして酒を飲んだり、だれかが虐殺したりしているのを、地域の大人たちや警察は気づいていなかったのだろうか。子供たちの社会に、暗い闇が広がっているのを、大人は「ないことだ」と思うとして見過ごしているうちに、こんな悲劇が起きてしまったのではないかとも考えさせられる。(放送タレント、イラストも)
    --「松尾貴史のちょっと違和感:『知らなければ問題なし』 把握できない人から金もらっていいのか」、『毎日新聞』日曜版(日曜くらぶ)2015年03月08日付。

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覚え書:「メルケル独首相、講演全文」、『朝日新聞』2015年03月10日(火)付。


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メルケル独首相、講演全文

2015年03月10日

写真・図版講演するドイツのメルケル首相=9日午前11時54分、東京・築地の浜離宮朝日ホール、西畑志朗撮影

 まずは何よりも本日はこうしてお招きいただき、ご紹介いただいたことに感謝申し上げます。大変温かいお言葉をいただきました。私にとって、朝日新聞に招かれたということは大きな光栄です。朝日新聞は世界でもっとも発行部数の多い新聞の一つであるのみならず、大変伝統のある新聞社でもあります。その歴史は独日の交流の初期の頃にまでさかのぼるほどです。

 ■日独関係の歴史

 142年前のきょう、1873年3月9日、岩倉使節団がベルリンに到着しました。岩倉具視が特命全権大使として率いる使節団がヨーロッパ諸国を訪れ、政治、経済、社会など様々な分野で知見を深める旅行をしたのです。岩倉使節団は、私が考えるに、日本の世界に向けて開かれた姿勢、そして日本の知識欲を代表するものだと思います。そしてこの伝統は、この国において今でも変わらず守られています。

 そして日本人とドイツ人の間には、この間に多様なつながりが生まれています。経済や学術であれ、芸術や文化であれ、私たちはアジアのどの国ともこれほど熱心な交流はしておりません。60の姉妹都市提携があり、わが国に110を超える独日協会が存在していることも、そのよい例です。また、独日スポーツ青少年交流や、JETプログラム(外国語青年招致事業)で日本を訪れる若いドイツの学生も特別な懸け橋をなしているといえましょう。

 こうした長い活発な交流のリストの中で、一つ取り上げて紹介したいのが、ベルリン日独センターです。ベルリン日独センターは30年前に、当時の中曽根康弘首相とヘルムート・コール首相によって設立されました。今日にいたるまで、様々な会議、文化イベント、交流プログラムなどが開催されてきました。本日の講演会も朝日新聞とベルリン日独センターの共催で行われています。日独センターにおいて、日独間の対話のために尽力されている皆様に、ここで心からの感謝を申し上げます。

 ■大震災と復興

 明後日、2011年3月11日に発生した東日本大震災からちょうど4年になります。この地震は、巨大な津波、さらには原子力発電所事故、すなわち福島での大きな原発事故を引き起こしました。この地震と津波と原発事故の三重の災害による恐ろしい破壊と、人々が悲嘆にくれる姿の映像は、私の目にはっきりと焼き付いています。私たちの心は、愛する人々をこの震災で亡くした皆様の気持ちとともにあります。生き延びはしたものの今も故郷に帰ることのできない人々とともにあります。そして日本国民の皆さんが復興に立ち向かう際に示している共同体意識には大きな感銘を禁じ得ません。

 ■戦後70年とドイツ

 破壊と復興。この言葉は今年2015年には別の意味も持っています。それは70年前の第2次世界大戦の終結への思いにつながります。数週間前に亡くなったワイツゼッカー元独大統領の言葉を借りれば、ヨーロッパでの戦いが終わった日である1945年5月8日は、解放の日なのです。それは、ナチスの蛮行からの解放であり、ドイツが引き起こした第2次世界大戦の恐怖からの解放であり、そしてホロコースト(ユダヤ人大虐殺)という文明破壊からの解放でした。

 私たちドイツ人は、こうした苦しみをヨーロッパへ、世界へと広げたのが私たちの国であったにもかかわらず、私たちに対して和解の手が差しのべられたことを決して忘れません。まだ若いドイツ連邦共和国に対して多くの信頼が寄せられたことは私たちの幸運でした。こうしてのみ、ドイツは国際社会への道のりを開くことができたのです。さらにその40年後、89年から90年にかけてのベルリンの壁崩壊、東西対立の終結ののち、ドイツ統一への道を平坦(へいたん)にしたのも、やはり信頼でした。

 そして第2次世界大戦終結から70年がたった今日、冷戦の終結から25年がたった今日、私たちはドイツにおいても日本においても、振り返れば目を見張るような発展を遂げてきました。繁栄する民主主義国家として、独日両国そして両国の社会には、権力分立、法の支配、人権、そして市場経済の原則が深く浸透しています。両国の経済的な強さは改革、競争力、そして技術革新の力に根ざすものです。通商国、貿易輸出国として、両国の自由で開かれた市民社会はグローバル経済に支えられています。したがってドイツと日本は、自由で開かれた他の国々や社会とともに、自由で規範に支えられる世界秩序に対して、グローバルな責任を担うパートナー国家なのです。

 ■ウクライナとアジア情勢

 しかし、この世界秩序は当たり前のものではありません。むしろ危機にさらされていると言えましょう。国際法に反してクリミア半島を併合し、ウクライナ東部での分離主義者を支持することによって、ロシアは、94年の「ブダペスト覚書」で明確に認めた領土の一体性を守るという義務をないがしろにしました。ウクライナは、他の国々と同様、完全な主権に基づいて自らの道を決定する権利を持っているのです。私は日本政府が同じ立場を共有し、必然的な回答として経済制裁をともに科していることに感謝しています。しかし、私たちはともに外交的な解決策をも模索しています。だからこそ私はフランスのオランド大統領やヨーロッパと環大西洋のパートナーとともに、そしてもちろん日本とともに、数週間前にミンスクでまとまったウクライナ危機を乗り越えるための合意が実際に実行されることに力を注いでいるのです。ウクライナ東部での自由な地方選挙とどこにも妨げられることのない自国の国境管理は、ウクライナが領土の一体性を取り戻すのを助けるのみならず、ロシアとのパートナーシップに対しても新たなはずみを与えることになります。また、クリミア半島も、未解決のままにしておくことは許されません。

 日本とドイツは、国際法の力を守るということに関しては共通の関心があります。それはそのほかの地域の安定にも関連しています。たとえば東シナ海、南シナ海における海上通商路です。その安全は海洋領有権を巡る紛争によって脅かされていると、私たちはみています。これらの航路は、ヨーロッパとこの地域を結ぶものであります。したがってその安全は、私たちヨーロッパにもかかわってきます。しっかりとした解決策を見いだすためには、二国間の努力のほかに、東南アジア諸国連合(ASEAN)のような地域フォーラムを活用し、国際海洋法にも基づいて相違点を克服することが重要だと考えます。小国であろうが大国であろうが、多国間プロセスに加わり、可能な合意を基礎にした国際的に認められる解決が見いだされなければなりません。それが透明性と予測可能性につながります。透明性と予測可能性こそ誤解や先入観を回避し、危機が生まれることを防ぐ前提なのです。

 ■テロとの戦い

 ただし、私たちは今、そうした対話の可能性が明らかに限界に達しているという状況にも直面しています。基本的な価値と人権が極めて残酷な形でないがしろにされているからです。とりわけ、シリア、イラク、リビアとナイジェリアの幅広い地域で荒れ狂う国際テロが私たちの前に立ちはだかっています。「イスラム国」(IS)、ボコ・ハラムは、自分たちが信奉する狂気じみた支配欲を満たそうとしないあらゆる人、あらゆるものを破壊しようとしています。ISによる日本人人質2人への残虐な殺害行為、フランスの週刊新聞シャルリー・エブドの風刺画家と記者への暗殺事件、それに続くパリのユダヤ系スーパーの客たちへの襲撃事件。こうした野蛮な出来事は、自由と開かれた世界のために断固としてみんなで手を取り合って立ち向かわねばならないという信念を、かつてないほど固くさせるものです。そして、この点において、ドイツと日本は手を携えて立ち向かっており、憎しみや人間性を無視する行為に対する闘いの中で、私たちはさらに強く結びついていくのです。

 私たちは、ドイツが議長国を務める今年のG7(主要7カ国首脳会議)でも、国際テロへの資金の流れ、人の流れを一つずつ断っていくことに力を注ぎます。これには、各国の財務大臣が取り組むことになります。そして、私たちは、現地でISのテロに立ち向かうすべての人々に対し、政治的、軍事的な支援を惜しみません。とくに、イラクの新政府とクルド地域政府がその対象となります。その他にも、私たちは日本とともに、ISのテロが生み出した難民の苦しみを軽減するための支援をしていきます。これは、私たちの人道的な責務であり、私たちの安全保障上の利害とも強く結びついています。

 この二つの要素は、ドイツと日本がアフガニスタンで展開してきた積極的な活動についてもいえることです。両国で一緒にこの国の治安部隊をつくり上げ、支援してきました。教育制度と保健制度を設け、新しい道路を造りました。その結果、01年以降、アフガニスタンの人々の生活はずいぶんと改善されています。日常的な治安は必ずしも十分ではないとはいえ、この国から国際テロの脅威を発生させないという最も重要な目標は達成されています。

 ■核不拡散の努力

 日本とドイツは、核兵器による脅威を抑え込む点で協力することでも一致しています。15年は、広島と長崎に原爆が投下されて70年になります。その記憶からは、未来への責任が生まれます。このようなことは二度と起きてはなりません。日独両国は常に全力で軍縮と軍備管理に取り組んでいます。

 その一環として、イランの核武装をくい止めるという共通の目標を追求しています。平和利用に疑念が生じるような核の利用はいっさいあってはなりません。そのための協議は今、重要な段階にさしかかっています。

 私たちが目指しているのは、単に地域紛争の火種を消すことではありません。軍拡と核拡散を阻止するという、より高次の課題があるのです。その意味で、北朝鮮の名前もあげないわけにはいきません。

 ■国連安保理の改革

 こうした根本的な問題が示しているのは、国際協力と国際的な組織が持つ信頼性と解決能力がいかに重要かということです。だから、日独両国は、ブラジル、インドとともに国連の強化と安全保障理事会の改革に尽力しています。

 その歩みは非常にゆっくりとしか前には進んでいませんが、世界の平和、安定の機会を逃さないためには、世界のすべての地域が、現実にふさわしいあり方で安保理の重要な決定に参画せねばならないと確信しています。

 ■G7の重点課題

 そして、G7もまた、世界の課題に挑戦しています。G7は、共通の価値観と確信に基づいて行動しています。日本は来年、G7の議長国をドイツから引き継ぎます。だから、両国は手に手を携えて、緊密に協力していきます。

 ドイツが、議長国としてとくに重点を置くのは地球温暖化防止問題です。この問題をあえてあげるのは、15年が温暖化防止への重要な年になるからです。12月にはパリで開かれる国連の会議で、野心的ともいえる防止策を20年から拘束力のある形で発効させられるかどうかが問われます。だから、G7では、低炭素社会の開発に向けて参加各国が主導的な役割を果たしていくように取り組んでいくことを考えています。なおかつ、それが豊かな暮らしを犠牲にするものではないことをはっきりと示すつもりです。豊かな暮らしは、これまでとは違う方法でもたらされねばなりませんが、放棄すべきものではありません。そのための技術革新を世界中で推し進め、とくに途上国を支援していきます。いずれにしても、私はドイツで6月に開かれるG7で、パリの温暖化防止会議で大きな成果があがるように強力な発信をしたいと思っています。

 この温暖化防止問題と緊密に関係しているのは、いかにしてできるだけ持続可能なエネルギーを確保するかという問題です。従って、私たちはG7としてのエネルギー安全保障をもっと発展させていきたいと思います。エネルギー市場の透明性と機能をできるだけ高めることが重要です。とくに、エネルギーの効率を高めることで、そのコストを下げることができます。

 G7の他のテーマには、保健に関わる問題もあります。例えば、エボラ出血熱の問題から私たちが学んだことをどうするかです。さらには、女性をめぐる問題も取り上げたいと思います。とくに途上国における女性の自立と職業教育に関わる問題です。

 ■ドイツと日本、共通の挑戦

 多国間の枠組みでのドイツと日本の協力は重要な側面を持ちますが、二国間のパートナーシップももちろん、重要な側面になります。私ども両国は同じような挑戦に直面しています。それゆえ私たちは向かい合って互いに多くの事柄を学ぶことができるのです。顕著な例としては、私たちの社会の人口統計学的な変化に対し、どんな答えを見いだすのか、ということが挙げられます。

 私たちには似通った課題があります。若い世代に過剰な要求をせずに社会保障制度をいかに安定的に維持できるのか、人口流出が著しい地方の生活条件をどう改善するのか、高齢化社会の中で活力と創造的な力をどうやって保持するか。

 私はつい先ほど、独日研究に深く関わっている研究者の方々と、このようなことを話しました。私たちの豊かさを維持するために必要な専門家の基盤をどう守っていくか、も大切です。

 ドイツでは連邦政府の人口動態に関する戦略の枠組みの中で、私たちはこうした様々な課題に取り組んでいます。

 たとえば、女性の就労の改善や仕事と家庭の両立、ライフワークを長く持つことに加え、私たちは外国からの熟練労働力にも重きを置いています。欧州域内には移動の自由があり、私たちは、欧州諸国からドイツへの労働力を手に入れることができます。欧州以外の国からの労働力についても関心は高いので、私たちは移住の条件を改善していきます。日本では、「Let Women Shine」のスローガンのもと、政府が女性の就労を推進しています。一連の法案によると、企業や行政機関で女性のクオータ(割り当て)制の導入を検討しているということですが、先週、長い討議の末に、ドイツの連邦議会でも同様の法案が可決されました。

 統計を見ると、企業の幹部の地位にある女性は、まだまだ少ない状態です。明日(10日)は日本の女性リーダーたちと意見交換する機会があり、大変楽しみです。

 ■人口減と経済・社会の課題

 人口動態の変化に直面している今、専門家の確保を促進することは、私たち両国の経済が将来的に成功するのに中心的な要素になります。それによって私たちの高い生活水準も維持できます。日本もドイツも長い間、経済的に成功しています。そういった背景からも、独日の協力は大変に意味が大きい。独日の企業はすでに、多くの協力をしていますが、同行の経済代表団は新たな協力が始まることを期待しています。

 私たちの現在の経済活動を今後も維持していくためには、非関税障壁など、貿易の障害になるようなものを取り除かなければなりません。日本と欧州連合(EU)との自由貿易協定(FTA)は、経済に価値ある貢献ができるので、可能な限り早く交渉を進め、調印する必要があります。そのことで、多くの雇用を創出することもできます。

 両国での高度な技術分野での協力は揺るがないでしょう。たとえばデジタル化の分野には多くの可能性があります。また、技術革新力と経済的な成功は、教育や科学、研究に密接に関わっています。今後、この分野での交流も深めていきたいと思います。これに関しては、今日の午前中に研究者とも意見交換することができました。

 また、日本の周りには韓国、中国、ベトナムなどのダイナミックに発展している国々があります。私たちは、この地域だけで研究、教育などの協力をするのではなくて、周りの地域にも交流を広げていく可能性があるのではないかと思います。現在、独日の交流は非常に良い状態にありますが、良いものもさらに良くすることもできます。

 特に再生可能エネルギーや海洋、地球科学、環境の研究などで今後もさらに可能性があるでしょう。ドイツは外国の学生に、留学先として人気がある国ですが、もっと日本の学生や研究者がドイツに来てくれたらうれしいし、そのような学生のために、英語で勉強できるような環境を拡充しようと思っています。そして日本の経済界の方々が、日本の学生や、仕事を始めたばかりの若い人々をドイツまたは外国にもっと送り出してくれるような、そういう態勢をつくってもらえるようにお願いしたいと思います。

 そのことによって、キャリアにプラスになるように、つまり、外国にいたからといってキャリアにマイナスにならない環境づくりが必要です。EUの中には、「エラスムス」というシステムがあって、学生に教育期間の一部を外国で過ごすよう促しています。外国で過ごした時間は無駄ではなくポジティブな時間です。

 日本の学生、研究者をドイツで心から歓迎したいと思います。1873年に岩倉使節団がドイツに来た時と同様、皆さんを歓迎したいと思います。両国は当時のように互いに、そして世界に対して、好奇心を持ち続けたいと思います。本日は皆さんにお話しできただけでなく、今から意見交換ができることを喜ばしく思います。お招きに心から感謝します。

 【質疑応答の主なやりとり】

 講演後の質疑応答の主なやりとりは次の通り。

 ■隣国との関係

 ――歴史や領土などをめぐって今も多くの課題を抱える東アジアの現状をどうみますか。

 「ドイツは幸運に恵まれました。悲惨な第2次世界大戦の経験ののち、世界がドイツによって経験しなければならなかったナチスの時代、ホロコーストの時代があったにもかかわらず、私たちを国際社会に受け入れてくれたという幸運です。どうして可能だったのか? 一つには、ドイツが過去ときちんと向き合ったからでしょう。そして、全体として欧州が、数世紀に及ぶ戦争から多くのことを学んだからだと思います」

 「さらに、当時の大きなプロセスの一つとして、独仏の和解があります。和解は、今では友情に発展しています。しかし、隣国フランスの寛容な振る舞いがなかったら、可能ではなかったでしょう。ドイツにもありのままを見ようという用意があったのです」

 「なぜ私たちがクリミア半島の併合の問題だとか、ロシアによるウクライナ東部の親ロシア派への支援にこんなにも厳しい立場をとっているのか。領土の一体性を受け入れることが、過去、現在とも、基本秩序だからです。これが、いわば欧州の平和秩序の根幹をなす柱だからです。数百年の欧州の状況をみると、国境はいつも動いていました。今日の国境を認めず、15~18世紀の状況を振り返る限り、決して平和をもたらすことはできない。アジア地域に存在する国境問題についても、あらゆる試みを重ねて平和的な解決策を模索しなければならない。そのためには、各方面からのあらゆる努力を続けなければならないのです」

 ■脱原発の決定

 ――日本では女性の政治家が少なく、女性の職業としての政治家は大変だという印象を持っています。今までの政治家人生で大変だったこと、とりわけ原発廃止を決定した際のことを聞かせて下さい。

 「例えば、脱原発の決定という場合には、男性か女性かという違いは関係ないと思います。私は長年、核の平和利用には賛成してきました。これに反対する男性はたくさんいました。そうした男性たちは今日では、私の決定が遅すぎたと言っています」

 「私の考えを変えたのは、やはり福島の原発事故でした。この事故が、日本という高度な技術水準を持つ国で起きたからです。そんな国でも、リスクがあり、事故は起きるのだということを如実に示しました。私たちが現実に起こりうるとは思えないと考えていたリスクがあることが分かりました。だからこそ、私は当時政権にいた多くの男性の同僚とともに脱原発の決定をくだしたのです。ドイツの最後の原発は2022年に停止し、私たちは別のエネルギー制度を築き上げるのだという決定です」

 「ですから、男性だから、女性だからという決定ではありません。あくまでも政治的な決断であり、私という一人の人間が、長らく核の平和利用をうたっていた人間が決定したことなのです」

 「私はたくさんの方に支えられてきました。一方で、最初は私への疑念もありました。最初の選挙が一番大変でしたが、一回踏み出して女性でもうまくいくと分かると、それがだんだんと当たり前のことになるのですね。やはり前例をつくることが大事。前例ができれば、それがいつか当然のことになります」

 ■格差の問題

 ――社会格差の問題が、移民と結びつき、欧州での一連のテロ事件の背景になっています。経済や教育の格差が過激派につながる懸念が広がる中で、ドイツ政府はどういう対策をとる方針でしょうか。

 「1960年代初めになり、ドイツの奇跡の経済成長で労働者が不足するようになりました。このため、一時的な安い労働力を外国から招きました。イタリアやスペイン、もっと安価なトルコから労働力を受け入れることになりました」

 「一方で、移民社会の構造的問題としては、平均的な教育水準が低く、学校の成績もどうしても上がらないということがあります。私たちはその社会的統合に尽力しました。まずドイツ語を学んでもらい、統合に努めました。かなり多くのイスラム教徒のマイノリティーもいるし、いろいろな宗教の存在が新たな課題をもたらしています」

 「大きな課題は、北アフリカやシリア、イラク、アフガニスタンなどからの難民です。昨年は20万人の難民申請があり、今年はさらに多くなるかもしれません。これが私たちの直面している一番大きな課題と言えるでしょう。ただし、ドイツ人の間では、これまでになかったような移民受け入れに肯定的な姿勢も出てきています。ドイツの労働市場は非常にいい状態で、この何十年と比べて失業率が低いこととも関連しているでしょう」

 ■言論の自由

 ――表現の自由にメルケル首相は関心を持っていると思います。言論の自由が政府にとってどのような脅威になり得るでしょうか。

 「私は言論の自由は政府にとっての脅威ではないと思います。民主主義の社会で生きていれば、言論の自由というのはそこに当然加わっているものであり、そこでは自分の意見を述べることができます。法律と憲法が与えている枠組みのなかで、自由に表現することができるということです」

 「34~35年間、私は言論の自由のない国(東ドイツ)で育ちました。その国で暮らす人々は常に不安におびえ、もしかすると逮捕されるのではないか、何か不利益を被るのではないか、家族全体に何か影響があるのではないかと心配しなければならなかったのです。そしてそれは国全体にとっても悪いことでした。人々が自由に意見を述べられないところから革新的なことは生まれないし、社会的な議論というものも生まれません。社会全体が先に進むことができなくなるのです。最終的には競争力がなくなり、人々の生活の安定を保障することができなくなります」

 「もし市民が何を考えているのかわからなかったら、それは政府にとって何もいいことはありません。私はさまざまな意見に耳を傾けなければならないと思います。それはとても大切なことです」
    --「メルケル独首相、講演全文」、『朝日新聞』2015年03月10日(火)付。

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[http://www.asahi.com/articles/DA3S11641455.html:title]


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