日記:降雪の東京。
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ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件 [著]杉山春
[評者]水無田気流(詩人・社会学者) [掲載]2013年11月03日 [ジャンル]社会 ノンフィクション・評伝 新書
■浮かび上がる有象無象の矛盾
2010年夏、大阪の繁華街近くのマンションで、3歳と1歳の子どもたちが遺体で見つかった事件は、記憶に新しい。当時23歳のシングルマザーだった母親の育児放棄(ネグレクト)による死と報道された。繰り返し映される子どもの元気だったころの写真と、風俗店勤務だった母親の宣伝写真。50日間にわたり子どもを放置した、その間遊びまわる姿をSNSにアップしていた、リビングの外から粘着テープを貼り、玄関に鍵をかけて出た……等々、身勝手な母親の姿を先鋭化する情報が、メディアに躍った。
彼女は、本当に子どもたちを殺す気だったのか? 重く複雑な問いを軸に、筆者は丹念に取材を重ねていく。「虐待」の一言で片づけられる問題の背景にある、有象無象の矛盾。浮かび上がるのは、母親の半生に詰め込まれた不条理だ。精神的に不安定な実母と実父は離婚、自分の問題と正面から取り組むために必要な精神的後ろ盾もなく、対処法も学べず、家出を繰り返した少女時代。彼女もまたネグレクトされた被虐待児である。おそらくそれに気づく機会さえ、与えられなかった。
19歳で結婚し、20歳で母になった彼女は、当初布おむつや母乳にこだわり手の込んだ育児をしていたという。だが、22歳で離婚。家族会議で彼女は、子どもたちを一人で責任を持って育てることを言い渡され、「家族には甘えない」「夜の仕事はしない」等の誓約書まで書かされていた。
浮き彫りになるのは、良い母であろうという理想と現実との落差。その間を埋める手段や問題対処能力の欠落。さらに就労も住居も不安定な親は、行政の救済網からも零(こぼ)れ落ちてしまうという問題。本件は、今春懲役30年の判決が確定した。積極的ではなくとも殺意が認められるとの事由からである。妥当か否かの判断も含め、虐待問題の複雑な位相を理解するために、ぜひ一読されたい。
◇
ちくま新書・882円/すぎやま・はる 58年生まれ。フリーのルポライター。著書『ネグレクト』など。
--「ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件 [著]杉山春 [評者]水無田気流(詩人・社会学者)」、『朝日新聞』2013年11月03日(日)付。
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[http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013110300008.html:title]
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設計者 キム・オンス 著
2013年6月9日
◆犯罪者の実存を描く
[評者]郷原 宏=文芸評論家
最近の韓国文学は韓流ドラマよりおもしろいとは聞いていたが、自分で読む機会には恵まれなかった。この隣国は文学的にはとても遠い国で、詩やドラマや映画はともかく、小説作品はあまり紹介されなかったからだ。その意味で、最近、クオン社から刊行された「新しい韓国の文学」シリーズは、干天の慈雨ともいうべき贈り物である。本書はシリーズ第六巻で、「韓国エンターテインメント小説の最高峰」という触れ込みの作品。
一言でいえば暗殺者を主人公にした犯罪小説なのだが、アメリカのクライム・ノベルやフランスのロマン・ノワールとはひと味違った東洋的な雅趣があり、五百五十五ページの大冊を一気に読ませる。
三十二年前、修道院のゴミ箱に捨てられていたレセンは、図書館という名の設計者に引き取られ、暗殺者として育てられる。設計者は暗殺のデザイナー、暗殺者はそれを実行する技術者である。ほかに調査専門の追跡者(トラッカー)と荒っぽい仕事を請け負う殺し屋がいる。
十五年間、命じられるままに人を殺してきた彼は、業界内部の対立がエスカレートするなかで次第に孤立し、世直しをめざす女設計者とともに起死回生の賭けを打つ。変貌する現代の韓国社会のなかに極限状況を生きる犯罪者の実存を描いて、「新しい文学」と呼ぶにふさわしい第一級のエンターテインメントだ。
◇
キム・オンス 1972年生まれ。作家。長編『キャビネット』が各国で出版。
(オ・スンヨン訳、クオン・2310円)
◆もう1冊
李垠(イウン)著『美術館の鼠』(きむふな訳、講談社)。アジア・ミステリー叢書の一冊。美術館での事件を描く韓国小説。
--「書評:設計者 キム・オンス著」、『東京新聞』2013年06月09日(日)付。
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[http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013060902000162.html:title]
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『暮らしのイギリス史』 ルーシー・ワースリー著
評・平松洋子(エッセイスト)
チューダー朝の男性の性的魅力はふくらはぎ(下着)。十七世紀、妊娠するには女性のオーガズムが必要不可欠とされた(セックス)。裕福な患者が貧困者から歯を譲り受け、口から口への移植が大流行(歯磨き)。
肉を焼くために、特別に品種改良された焼き串回し犬が活躍(料理)。朝食は賃金労働者の食事とみなされ、座って食べるのは男の沽券こけんにかかわった(食事時間)……全364ページ、中世以降あらゆる階層の人々が繰り広げるイギリス生活史は、おや、まあ、へえ! の連続。住まいの細部事情を覗のぞき見ながら、わたしは、過去に生きた人々が間近で動き回るような親近感と好奇心を覚えた。
著者はイギリスの主要な王宮を管理する組織の主席学芸員。その立場を生かした資料渉猟に止とどまらず、尿を利用するチューダー朝の染み抜きを試したり、秘薬を飲んでみたり、実体験の裏づけを厭いとわない。本書にリアルな生活臭が色濃いのは、身体と歴史との関係性を見落とすまいとする視点が通底しているからだ。図版も多数収録。眠れない夜の読書にも、きっと楽しい。中島俊郎、玉井史絵訳。(NTT出版、3600円)
--「書評:『暮らしのイギリス史』 ルーシー・ワースリー著 評・平松洋子」、『読売新聞』2013年2月24日(日)付。
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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130219-OYT8T01024.htm
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ところが両者の対立がなおいっそう顕著になるのは現世肯定の倫理についてである。プロテスタンティズムのばあいにはこの倫理は修道士制度と功績主義的な業(Überverdienstliche werke)とを除去したことから生ずるのであり、従ってまたあらゆる信者にとって信仰が精神的かつ内面的な性質を帯びるに至ったことの結果である。宗教的な行為は神のことばに献身する信頼にみちた個人的な心的態度以外のものではなく、しかも万人に対して平等に要求される。だとすると功績主義的な業という思想や特別の宗教的立場というものは全然ありえないわけである。ところでこうしたものがないとすれば、すべては一様に現世の生活のなかで証明ということにかかってきた。しかも現世の生活は自然にして神的秩序にかなったキリスト者の活動の場であると考えられざるを得ない。そのために世界と現世的生活とは信仰の実践に形式と内容を与えるものとしてたしかに高く評価されるようになったし、またここからしてたしかにプロテスタンティズムのパトスは、中世末期の新しい現世的基調やローマ教皇からの国民的離脱とも結びつくことが出来たし、また教会的かつ修道士制的生活秩序からの政治的・社会的解放の要求や、大衆のあらゆる経済的・市民的要求とも結合することができたのであった。さてしかしながらこのようなプロテスタンティズムの現世肯定は、キリスト教の禁欲と彼岸性とを解体させたルネサンスのそれと比較すれば、その本質上およそまったく別物なのである。プロテスタンティズムにおける現世肯定というものはつねにもっとも峻厳なる罪観念と確信不動の来世観とに深くも根ざしている。非キリスト者や未信者はすべてのわるべき放蕩堕罪の存在たること、つまり原罪は、プロテスタンティズムにおいてはカトリック以上に重大なことがらであるし、人生は天国のための試練と苦難と実証の場所であるという見方は、おそらくカトリック以上に強調されている。悪魔・悪霊の存在に対する信仰(Der Teufels-und Dämonenglaube)も従前にその比をみない程に鋭く強調されている。こうした事情のもとでは、被造物のなかに神の栄光をみようとするような態度は、--たとえばパウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt 1607-76)の歌などに内面からの敬虔にして真実な感情として表現されているし、カトリックのなかにも十分みとめられたが、--プロテスタンティズムの現世肯定にはごく稀に現れたにすぎなかった。罪の意識によるキリスト教的悲観主義、キリスト教的来世観、キリスト教的な悪魔の存在に対する信仰、は宗教改革によって高められた。しかも宗教改革が中世的カトリック的世俗化に対立して古代キリスト教を新しく獲得したのは、わけてもこれらの点なのである。高貴な芸術や天与の才能のなかに、また時として自然のなかにすら、神的な特徴がみとめられることがあるとすれば、それはキリスト教的創造観の基底に横たわる楽天主義の光が、かくのごとき罪悪の暗い雲をとおしてもれ輝くときにすぎないのである。とりわけ家族、国家、私有財産、商業、身分社会などあらゆる世俗的・社会的の諸秩序は、確かに理性と自然との表現にはちがいないが、しかしカトリックにおいてと同じく厳密に言えば、罪に汚された自然の表現にすぎない。従って理性の内容は、このような自然のなかにあっては、神の承認と摂理のもとに現世的秩序や規律を樹立することによって、原罪的自己追求に対抗するほかはないのである。これらのすべての事柄は、アウグスティヌスにとってと同様宗教改革にとっても、罪の現実を予想する施設(Stiftungen der Sünde)、いいかえれば罪の存在を前提した上で理性が建設したものであり、罪に対する罰と救済手段なのである。こうした思想の取扱いは、プロテスタンティズムの現世肯定のばあいには、排除されるどころかむしろ強調されているのである。このような事情であるから宗教改革における現世肯定とか現世聖化とかいっても、それは一種特別の性質の事柄なのである。宗教改革は現世的生を、神の言葉にしばられた良心にゆだねられたばかりでなく、現世的生それ自身およびその相対的理性内容にゆだねた関係上、宗教改革が現世を肯定し聖化せんとした意図は、根本的には、現世的生というものを祭司的・僧侶階層的の統治や支配から解放するという点に厳的されているのである。そのために宗教改革のこうした諸制限をついには破ってしまったようないっそう自由にして無拘束的な発展もみられたのであるが、そのような発展の流れは現世的生にとってなんら新しい意味をももたなかったのである。
--トレルチ(内田芳明訳)『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫、1959年。
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トレルチ(Ernst Troeltsch,1865-1923)を再読しつつ、入力しながら、いっぺえ始めたのですが、頭に入らず(>_<)
今日は、このへんで沈没します。
というか、覚え書き全般を「はてな」に引っ越そうかと思案ちう。
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仏像の相好はただ単純な人体の写実ではなく、非常な程度の理想化を経たものである。そうしてその理想化は、ギリシアの神像においては人体の聖化を意味しているが、仏像においては「仏」という理念の人体化を意味している。が、もとよりそれが造形美術である限り、芸術家は、この理念の人体化に際しても、必ずや彼自身の人体の美の観照を基礎としているに違いない。儀規(ぎき)によって明確に規定され、また絶えず伝来の様式を踏襲しているにかかわらず、東洋各国の各時代の仏像がおのおのその特殊な美をもつことは、単に造像の技巧の変遷のみならず、またこの芸術家の独自なる創作力を考えずには、理解し得られないであろう。自分はここに厳密な様式伝統の束縛にかかわらず、なお芸術家が自由に働き得た「余地」を発見し得ると思う。そうしてこの「余地」こそは、実はおのおのの国と時代の仏像を、その芸術的価値において根本的に規定するものである。
--和辻哲郎「仏像の相好についての一考察」、『日本精神史研究』岩波文庫、1992年。
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和辻哲郎(1889-1960)が仏像の相好の変遷や日本美術、文芸について、ヘーゲル的歴史主義の精神史(Geistesgeschichte)的立場から、絶妙な筆致で描いた『日本精神史研究』をふたたびひもといております。
たしかに仏像の相好は、「儀規(ぎき)によって明確に規定され、また絶えず伝来の様式を踏襲している」ようにがっちりとした枠組みによってその造像が規定されているわけです。しかしながら、それにもかかわらず、「自由に働き得た『余地』」があるからこそ、伝統と創作性の創造力が絶妙な握手を交わし、芸術的価値が枠組みや独創性から爆発していったんだよなあ……などと思う次第ですが、、、翻って現代社会を振り返ってみますと、芸術的分野に限らず、教育、政治、社会、生活などあらゆる分野で「自由に働き得た『余地』」がなくなりつつある……そう実感する宇治家参去です。
ま、そこに、限界と空転のひとつの原因があるのではなかろうかと推察される次第ですが、広く言うならば、社会全体としての余裕というものが喪失しつつあるというところでしょうか。
さて……。
仏像の相好を考察しておりますと、なにやら、造像の大国・中国の料理が食べたくなってしまいましたので昨夜は近所のバーミヤンにいった……手近な近所にキチンとした中華屋さんがないので(涙)……次第です。
ファミレスとはいえ、やはりキチンと火力をつかって調理された中華はいいなと思いつつ、同時に、そういいましてもかなり日本ナイズされているという意味では、中国式の造像が日本式に転換していく過程と同じだわなと思いつつ、家族で楽しんだわけですが、、、。
「激辛」仕様にした「本格四川マーボー豆腐」は辛かった!
自宅ではカレーにしろ、マーボー豆腐にしろ、おこちゃま向けの激甘仕様になりますので、ここはひとつ「激辛」にいたしましたが、「やみつきになる」辛さでした。
生ビールは2杯頂きましたが、辛さのお陰ですぐさま蒸発するわけです。
〆は何にしようか迷ったわけですが、激辛故に判断を迷わされたのでしょうか、梅酒ロックが100円でしたので、マアこれはお財布にも優しい!ということで、10年ぶりぐらいに頂戴しましたが、
「甘かった!」
ま、いずれにしましても、中華料理をうたいつつ、石仏とタリバンの破壊で名高い、アフガニスタンの都市の名前である「バーミヤン」が名前になっているのはなぜだろう……とひとつ考え込んでしまったわけですが、それはそれでひとつの「自由に働き得た『余地』」ということでしょうか。
ま、いずれにしましてもリーズナブルに楽しませて戴きましてありがとうございます。
日本精神史研究 (岩波文庫) 著者:和辻 哲郎 |
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……元来「ものの哀れ」なるものは、永遠なるイデアへの思慕であって、単なる感傷的な哀感ではない。それは無限性への感情となって内より湧き、あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感ぜしめる。しかし、この底知れぬ深みに沈潜する意力を欠くものは、安易な満足、あるいは軽易な涙によって、底の深さを遮断する。そこに感傷性が生まれて生活を浅薄化するのである。清少納言は時人とともに軽易な涙に沈溺することを欲しなかった。それをするには彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった。彼女もまた官能的享楽人として時代の子である。ただ彼女は、過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていたいのである。この点で彼女は、紫式部が情熱的であるのに対して、むしろ確固たる冷徹を持する。そうして彼女の全注意を、感覚的なるものに現われた永遠の美の捕捉の方に向ける。彼女の周到にして静かな観察には、右の意味で主観的情熱からの超越がある。
−−和辻哲郎「『枕草子』について」、『日本精神史研究』岩波文庫、1992年。
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憧憬をもって私淑する女性のひとりが清少納言(966?-1025?)です。
『枕草子』はよく読みましたが、様々な論者から指摘されているとおりその核心とは、「ものの哀れ」なのでしょう。
「ものの哀れ」に関してもこれまた様々な先達がその概要を指摘してやまないものですが、日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)の解釈によれば、それは徹底的な「惑溺」からの回避ということかもしれません。
俗流プラトニズムにみられるような真理への惑溺は真理への奴隷と化し、その対局にある官能的享楽への惑溺というのも、対象を物神化してしまう奴隷志向なのかもしれません。
それをうまく避けながら日常生活のなかで「確固たる冷徹」に徹したのがその生涯であり、その「ふみことば」のひとことひとことが千年を越えてわれわれを魅惑するだと思います。
真理を探究する修道僧のごとく「底知れぬ深みに沈潜」するわけでもなく、明日の風に感傷するケセラ・セラな「軽易な涙」を流すわけでもなく、、、。
そこが清少納言のすがすがしい薫風たるゆえんであり強さなのかも知れません。
こだわっているようで、こだわっていない。
そこが彼女のすばらしさの秘訣なのだと思います。
まさに和辻が指摘するとおりで、「彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった」わけですが、同時にその営みは「享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていた」からこそ、余韻の残る「主観的情熱からの超越」が可能になったのだと思います。
かくありたいものです。
「情熱」よりもすがすがしい「冷徹」さ。
そこに刮目してしまう宇治家参去です。
さて……。
この2-3日、東京は寒波到来で、2月のような極寒です。
フル防寒装備にて市井の職場へ出勤しますと、ひさしく欠品していた「辛そうで辛くない 少し辛いラー油」(株式会社桃屋)が納品されておりました。
〝食べるラー油〟として昨夏より販売されておりましたが、〝桃ラー〟との愛称で口コミでメガヒット!
気になっておりましたのでひとつ買い求め、試したみた次第です。
どえらく寒いので、これまた久しぶりにパック酒を熱燗にセットしてから、、、深夜ですので簡単なことしかできませんが、瀬戸内産のジャコ天を1分ほどチンしてから、九条葱を和え、そこに〝桃ラー〟をひとすくい。
通常ですと、生姜とポン酢でいただくところですが……。
なかなかいけますね……、というより、、、
「かなりいけるやん、コレ!」
……というところです。
「春はあけぼの」と筆を起こした清少納言でしたら、この味わい、どのように表現するのでしょうか?
気になるところです。
タンポポは咲き始めましたが「春はあけぼの」とはまだほど遠い東京でございます。
日本精神史研究 (岩波文庫) 著者:和辻 哲郎 |
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幸福だけの幸福はパンばかりのようなものだ。食えはするがごちそうにはならない。むだなもの、無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それがあたしは好きだ。
--ヴィクトル・ユーゴー(豊島与志雄訳)『レ・ミゼラブル(四)』岩波文庫、1987年。
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先週自宅用のパソコンがぶっこ割れて、出張用のノートPCで仕事をしているのですが、どうにも仕事にならないので、少し型落ちしたワークステーションを購入(予定)したのですが、明日といいますか本日配達されてきます。
ですので……。
すこし部屋の片づけをした宇治家参去です。
片づけと申しましても、たいしたアレではないのですが、せっかくやるならば、きちんと“道具”をつかってやろう!
……ということで、荒物屋!(こんな表現すら死語かもしれませんが)にて、“金太郎箒”なる一品をゲットです。
これにて……掃除はうまく完了!
……という一日でしたっ!
掃除機でやるのが常道なのでしょうが、なんでもかんでもメカニカルに杓子定規やっているようでは、文豪・ユゴー(Victor-Marie Hugo,1802-1885)が指摘するとおり、「幸福だけの幸福はパンばかりのようなもの」なんですヨ。
ですから、こうした余裕といいますか、存在における過剰な部分が必要なのが人間世界というものです。
まさに……。
“無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それがあわしは好きだ”
……を実感する宇治家参去です。
ただ……まさに“無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの”のようでして、掃除にはあまり役に立たなかった次第です。
ですけど、こうしたものがいいんですよねぇ~。
レ・ミゼラブル 全4冊 (岩波文庫) 著者:ヴィクトル ユーゴー |
レ・ミゼラブル〈4〉 (岩波文庫) 著者:ヴィクトル ユーゴー |
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三一五
放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、--もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。
--F.ニーチェ(茅野良男訳)『ニーチェ全集7 曙光』筑摩書房、1993年。
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とうとう壊れてしまいました。
使い続けることを“放棄”せざるを得ません。
いつも自宅ではデスクトップのPCを利用しております。
ちょと前の型ですがHpのワークステーションなのですが、これにVistaをぶち込んで使ってい、そのうち、windows7に入れ替えればまだまだ使えるかな……と思っていたのですが・・・。
朝、PCの画面に電源をいれると、固まったまんまにて、再起動させようとリセットをしたのですが、それっきりたちあがらず……。
Bios画面を調べると、マザーボードの不具合のようでした。
幸いハードディスクに異常はありませんでしたので、データなどには問題はないのですが……、ちょいとふうう~ってところでしょうか。
ちょうど3年ぐらい使っていたのですが、基本的には電源を入れっぱなしで、使わないときはモニターだけ切って利用するというスタイルでしたが……、これになれてしまうと、電源を切ったりつけけたりする生活へもどるのが少しおっくうというやつです。
自宅には息子殿用のDELLのデスクトップと、細君のノートブック、自分の出張用のネットブックしかありませんので、いまはネットブックで作業をしているところです。
ちょうど夏に液晶もフルHD対応の21インチのモニターに切り替えたところですので、出張ぐらいでしか使わないミニノートの液晶で作業をすると、まあ、これが“机が狭い”……というところでしょうか。
先月末に、自分へのプレゼントとして、SharpのLinuxのネット端末を購入したのですが、そんなものを買わずに、デスクトップを買い換えた方が良かったかもしれません。
ただ、あまりそのことにひっぱられると、前進できませんので、また仕事をがんばって自宅の不眠不休PCを購入できるようにがんばることにいたします。
権利の断念は、まさに、「もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである」というニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉に背中を押されつつ……、3年間不眠不休でがんばってくださいましたぶっ壊れたPC殿、ありがとうございます。
ゆっくりお休みくださいまし!
ニーチェ全集 第7巻 曙光 販売元:セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ) セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ)で詳細を確認する |
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