告白・独白・毒吐の日々

日記:信念を曲げないと柔軟さの相関関係へ成長すること

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どういう訳だか分からないのだけど、うちのお子さま(小5)が、割と生命尊厳の原理主義者。もちろん、肉も魚も「食べる」ので、その意義は十全に理解しているとは言い難いのだけど、目の前で、生命が「殺される」ことには断固として立ち向かう。これは在る意味では凄いと思う。

夏になってから虫が宅にはいってくるのだけど、猫の珠子ちゃんが、虫を見つけると……といってもものすごい小さい虫ですけど……目をらんらんと輝かせていたぶり、時には食べてしまう。自称・生命尊厳主義者のお子さまからすると、それがどうも許すことができないらしく、珠を厳しく暴力的に叱りつける。

(瑕疵ありながら)生命尊厳を大切に思いながらも、違反に対して暴力的に振る舞ってしまう……。そんなん、ガチムチのインドの修行者と比べるまでもな「ヘタレやないけ」と判断することはたやすいのだけど、忠実に生きようとすることは子どもにしては評価できる。けど珠子への叱りやめてほしいなあ、と。

日本社会では「信条に生きる」ことより皆さんの「心情に合わせて生きる」ことが美徳とされる。だからお子さまが「信条に生きる」ことに憧憬する。丸山眞男ではないけど、その負荷に対する逆ベクトルを強調することに吝かではないから。しかし、その瑕疵修正が日本的予定調和へ落ち着いてはいかんと思う。

すべての生あるものを尊重しようという感情と、それを毀損する子猫ちゃんをいたぶることは確かに同定しない。しかしながら、子猫をいたぶることをやめる(まあ、「やめろ」とはいいたけど、「やめろ」といってなぐりはしませんけど)のを、馴致されたパターナリズム的結末にだけはなって欲しくはない。

なので、とりあえず、昨日の仕事の休憩中に、とりあえず、特定秘密保護法のパブリック・コメントを出しました、締め切り日でしたので。凡庸な批判ですが。世の中には、「そんなん無駄無駄」とか「理想と現実は違うぜ」とか言われますけど、何か関わることができるチャンネルをふさぐことは遠慮したい。

まあ、馴致されて「むだ、むだ」というのはまだマシなんやけど、そんなぐだぐだ批判しても落ち着くところは決まっているんだから、公儀の手間を増やすな、などと言われると時々凹む。絶対的権力を批判すれば済むとはもとより思わないけど、そういう形での馴化つらい。

おそらく、これからお子さまも、生命尊厳の「実践」をスタイリッシュしていくこととは思う。しかし、今、生命を大切に思いながら、珠子をたたいたことの「感情」は忘れないで欲しいし、その珠子の痛みを分かった上で、叩かないけど、その信条を曲げない人間に「成長」して欲しいと思う。

俺さ、最近、この辺の文脈でものすごい面倒くさい人間になっていると思う。しかしその面倒くささっていうものをひきうけないと、人間が人間らしく生きることへ連動しないと思うのよね。

信念を曲げないと同時に、個々の判断においてマークシート式分岐チャートの末の解答と照らし合わせて安堵するが如き寛容さを同伴させるのではなく、結果は同じとしても、常に逡巡・熟慮・葛藤というプロセスを自ら引き受けて生きていきたい。そう我が子にも望む。だから珠子を叩く我が子を叩かない。 


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日記:人間を「無効化」しようとする仮象にすぎないマモンへの永続的な抵抗


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 貧困で、無智で、社会情勢に暗い日本の農夫が田畑から引き離され、仏教の本義を教えられることはなく、偶像に犠牲を強いられることを教えられている。一方、ロシアのツーラ地方もしくはニジニ・ノブゴロド地方の貧困で無教養な人々が、キリスト教の本義はただキリストを礼拝することにあると教えられた。これは、普通の人々にとってわかりやすいことである。そして、これらの不幸な人々が数百年の間に受けた暴虐と欺瞞のために、人類、同胞(はらから)同士の殺戮という世界最大の罪悪を徳行として認め、ついにこうした恐るべき大罪を犯してしまった。いつのまにか彼らは、自分に罪があることさえわからなくなる。
 おかしなことに、いわゆる知識人が先頭に立って人々を誘導している。それだけではない。ひどいことに知識人は戦争の危険を冒さずに、いたずらに他人を扇動することのみに努め、不幸で愚かな兄弟、同胞を戦場に送り込んでいるのだ。そんなことに耐えることができようか。こういった知識人は、これが必ずしもキリスト教の教えにあるとは言わず(彼ら自身はキリスト教徒であることを認めているにもかかわらず)、戦争一般の認識が、残酷で無益で無意味なことについては認識しているのに、すべてを無視することにしてしまったのだ。
    --レフ・トルストイ(平民社訳、国書刊行会編集部現代語訳)『現代文 トルストイの日露戦争論』国書刊行会、2011年、15-17頁。

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私がなぜ、執拗に歴史修正主義や拝外主義(→排外)を始めとする国民国家の悪しき原理を否定するのかということについて少しだけ書いておきます。

本来、宗教とは国家を超えるものであります。宗教は国家を超えるもの? え、宗教権力より世俗の権力が上位になるに従い、宗教って国家に迎合してきた歴史じゃないですか、と言われてしまえばそのことは否定しません。

もちろん、功罪はありますが、宗教がこの世のものを全て無効化してしまう性格を必然的に持つことはそれによって否定することはできません。

いわゆる世界宗教の始祖たち……世界宗教という表現自体が19世紀の宗教学やないけwと言われればソレまでですが、わかりやすいのであえて準拠します……は、まさにその時代の規範に無批判に隷属を強いられているひとたちの鎖を解き放ち、その所作が例えばひとつの民族とか共同体に収まらない根源的な射程を秘めていたことが、共感を呼び、その後の歴史になっていった訳ですよね。

さて、日本宗教史においては、「この世のものを全て無効化」する宗教の普遍性ないしは絶対的な規範はどのように展開したのかと誰何した場合、ごく少数の例外を除き、世俗権力との融和による保身がその歴史であったと思います。

僕はキリスト教が専門になりますが、近代日本宗教史を瞥見するに、キリスト教とてその例外ではありません。キリスト教は禁教から公認教へなることが第一の目的となりますので、三教会同によって皇運を扶翼するために国民精神を涵養することに同意します。しかし、キリスト教の説かれる三位一体の神は、国家宗教として頂点に位置する現人神を超越・批判する視座は内包しますので、内村鑑三をその嚆矢と見ることができますし、先の戦時下における批判と抵抗はキリスト者によって担われたといっても過言ではありません。

内村の言葉を借りれば、まさに、信仰者とは「警世の預言者」たるべし、ということです。よき市民としてあらなければならないことは言うまでもありませんが、仮象にすぎない世俗内での権力がそれを絶対的と錯覚して、良心と照らしてみるならば、その要求する「よき市民」像が相反するのであれば、普遍的な道理に従うほかありません。

歴史が示している通り、それはまさに命がけの業となりますが、キリスト教学を学ぶなかで、それを憧憬する私としては、それを私自身の倫理として生きていかなければならないと考え発信を続けています。

今長々と話したことは学問的な示唆によるものですが、もうひとつ、私の体験的な事柄についても言及しておきます。

それは何かといえば、青春時代において最大事件ともいうべき、宗教法人法の改悪の問題に関わったことです。改正する必要があったのかどうかをこれまた誰何すれば、改正によりより劣化してしまう法案であったがゆえにそれは「狙い撃ち」とも言うべきもでした。恩師との出会いもこの事件が契機ですが、そのなかで、思想やイデオロギー、宗教に関わりなく、いわば「人間」を「無効化」するものとは断固として対峙していかなければと思いました。その決意は未だに変わっておりません。

しかし、不思議なことに、そのとき、「平和のふぉーとれすと」を掲げる大学の教員は何をやっていたのでしょうか。ほとんどスルーというのが現実でした。

言論戦を展開するなかでも、ほかから呼んでこなければならない始末。お寒い状況でしたねー。これは当時も何度も話題になりました。そして自分はそうなってはいけないな、と思いましたですだよ。

現在の原発、秘密保護法、そして極右化する現在においても、これに抗うことは必要だと思い、私は私自身の研鑽と発信の往復は、学問に従事する人間だからこそ、それは責任だと思い、時には挑発するがごとき、厳しい言葉で、「虻」のように振る舞っております。

ブログとSNSだけやねん、ださーと言われればソレまでですが、何もしないことによって、気がついたら「軍艦マーチ」と歩調があってしまうのが、世の常です。

なので、私は、非常勤ですから発言に信頼性もありませんけれども、学問的理由とそれと関連しますが、その体験的由によって、誰がしなくても、人間を「無効化」しようとする仮象にすぎないマモンの批判は続けていくつもりです。

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日記:旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである

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 旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅に老いては誰も何等か解放された気持になるものである。或る者は実に人生から脱出する目的をもってさえ旅に上るのである。ことさら脱出を欲してする旅でなくても、旅においては誰も何等か脱出に類する気持になるものである。
    --三木清「旅について」、『人生論ノート』新潮文庫、昭和六十年、132頁。

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金曜日は授業が済んでから、若い衆と八王子で快飲しました。
社会情勢から文学についてまで--はば広く意見を交換できたのはなにものにも代え難いひとときでありました。

皆様ありがとうございました。

で……。

電車に乗って帰るはずが、気が付くと、「大月なう」。

始発まで、居酒屋で待機という悲劇という、とほほ。

不可抗力の如き「旅」となってしまいましたが、「旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである」と納得しておきましょう・・・とほほ。

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日記:人間は、一生を通じて「意識が低い」こともなければ、一生を通じて意見が違うとも限りません。


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 人間も「個体」とみなすべきではありません。あの人は活動家だ、あの人は意識が低い、あの人は××派だ、あいつは一度裏切った、あいつはあのとき来なかった、などなど。人間は、一生を通じて「意識が低い」こともなければ、一生を通じて意見が違うとも限りません。こちらから働きかければ、変わるかもしれません。
 おもしろいことに、弾圧する側は、よく運動の個体論的な考え方を利用します。ある程度広がりを持つ運動が出てくると、「穏健派」と「過激派」に分裂することをしむけます。
 たとえば目立つ運動があったときに、中心的に活動している人を、交通違反でも公務執行妨害でも、みせしめで逮捕する。それを見た人たちが、怖がって脱落したり、活動を手控えれば、残った人たちを「過激派」にできる。直接に逮捕しなくても、規制を厳しくしたりして、運動が思ったように発展しないという気分にさせるだけでも、こうした分裂をおこせます。
    --小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書、2012年、486頁。

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今日というか昨日の入浴介助は、史上最大の件数でしたが、息つく間もなく最短で終了。今回は、「2年ぶりですよw」という最古参の超ベテラン看護師とペア。

まじで凄かった。

「星の数よりメンコの数」(『兵隊やくざ』)というけど、これはどの世界にもありますね。

さて……。
それが済んでから夜勤に入りましたが、こちらはこちらで精神的に疲れました。

所謂、震災で目覚めたという同僚から、難癖というか、要するに、「真面目に」「純粋に」「自分に正直に」“生きること”が大事だと説教されたのですが、そんなん、言われんでも分かっている。

ただ、「真面目に」「純粋に」「自分に正直」に生きることを「意地」になってやっているとそれは違うワなと思った。

それまで、「眠っていた」という深い反省から、「真面目に」「純粋に」「自分に正直」に“生きよう”と決意したとのことですが、……それはすごいことだと思う……、それを眉間にしわを寄せて「やったるぞー」(→の返す刀でお前も真剣に生きろって話)って切り出されてしまうと、ちょと違うような感。

「真面目に」「純粋に」「自分に正直」に生きたらええと思うし、僕もそうありたいとは思う。ただし、それは「やったるでー」って「意地」になってやったら「真面目」は「真面目」だけど、純粋かとか自分に正直かといえば違うような気がしてね。

ちょと、正直うっとおしかった。

それまでの生き方を反省して違う生き方を選択することは誰にでもあるし、僕は大事なことだと思う。しかし、過度の精神主義や道徳主義というのは、大局的・長期的にみると、本人自身を毀損してしまうことになるのではないかねー。ふざけじゃなくて字義通りだけど「テイク・イット・イージー」は大事だな、と。

なんというか、あえて「悪ふざけ」する必要はないと思うけど、真面目とか正直に生きることを「望む」ことは大事だけど、「かくあらねばならぬ」とイデオロギー化してしまうと、真面目とか正直とはほど遠いものになるような気がするのよね。


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なごやまつり


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さて……。
8月3日の土曜日。
家族旅行で名古屋を訪問しましたが、その日の夜は、少し時間を頂き、古い友達、そして新しい友達と歓談する時間をつくることができました。

皆様、お忙しい中、時間をさいてくださりありがとうございました。

しかしびっくりのするのは、世界が狭いということ。いろいろなものごとがリンクしてきたり、共通の知人がいたりして驚いた次第です。

また、ご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくおねがいします。

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旗の台の満衛門


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水曜日は授業が済んでから、ふるい知人……そう、その名前を“兇賊・旗の台の満衛門”とでも呼んでおきましょうかw……と軽くのつもりが重く一献。

貴重な時間をありがとうございました。

しかし、すこし飲み過ぎた具合によって……だな。

げふんげふん。
 

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他の人に考えてもらうことを辞めることと、ほんの少しの想像力。

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1年生の倫理学の講義が水曜日にて終わりました。

いろいろとお話をしましたが、結局は他の人に考えてもらうことを辞めることと(勿論「自分で考える」と言ってもそれは孤立した私ではないのだけど)、ほんの少しでいいから想像力を持ちあわせることに尽きるなあ、と思います。

そして、それを日常生活の中で諦めないで実践していくしかない。

ここにつきます。

それだけ、失念しないで、それぞれの道を歩んで欲しいと思います。

皆様、15回の短いつきあいではございましたが、ありがとうございました。

非倫理的倫理学教員、敬白。

さて……。
ただ講座の都合上、これで終わったわけではありません(汗

来週は2年生の最終講義。

と言っても二人だから、これはこれで大変なのよね。

しかし3年前に1名の履修者からはじまった非常勤先だけど、今期は80名近くだからずいぶん盛況になったもんだな。とわ言え、18名ぐらいがちょうどいいとは思うのですけどね。

まだ、がんばります♪

なにしろ、今日は、帰りに、この糞蒸し暑いのに、しぞ~かおでんを頂戴しましたので、エネルギーチャージできましたので(苦笑


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生きるということは、それぞれの状況なりに、やはりしんどい

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 あたりまえのことだが、原発の計画さえなけえれば未来はバラ色、というわけにはいかない。原発計画がなくなっても、生きるということは、それぞれの状況なりに、やはりしんどい。それでも、それを「原発あり」で生きるか、「原発なし」で生きるかは、まるで違うと私は思う。
 ならば、やはり「原発なし」で、しんどい生を生きてゆきたい。祝島や珠洲の人びとは、そのしんどさを、安易に解決しようとはしなかったのだろう。
 「抵抗をしつづければ、原発は経済的に破綻して、撤退せざるを得なくなる」(序章の立花正寛さん)という言葉のとおり、珠洲の原発計画は「凍結」となった。いままた上関の原発計画も、原発をつくるための海の埋め立て免許が失効しつつある。
 どちらも、わかりやすい勝利とはほど遠い。それでも、たたかいの日々を実際に保ちこたえ、事実として原発をつくらせていない人びとが、祝島にも珠洲にもいる。
    --山秋真『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』岩波新書、2012年、210頁。

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水曜日は授業が終わってから、かねてより約束していた青年と軽く一献の筈が重く一献となり、結局、終電の終点で起きてしまうというヤツをやってしまいましたが、有意義な時間を共有することができたことには、感謝の念のたえません。

原発の問題に限らず、なんらかのカタチで政治的イシューと連結した問題というのは、必ず「バラ色の未来」が“語り”としてでてきます。

そしてほとんどの場合、そのポスト・変革といったものが、どのようなカタチであれ、提示されたものとは違うものとなってしまうことも多い。

そしてそこで、「ああ、やっぱり“期待する”んじゃなかった」というシラケで退行していくというのがお約束のパターンだったのはではないかと思います。

しかし、喧噪をかき分けて、何かを変えていくということは、バラ色の未来が「棚からぼた餅」式にポンっと与えられるものではなくして、自分の昨日・今日・明日という時間軸の連続のなかで、1ミリでも不断にずらし続けていくことでなければならないのではあるいまいか。

そういうことを、奮闘する青年の姿から、実感した次第です。

鳴り物入りのキャッチコピーでもシニシズムに耽るでもなく、たえず現実と格闘し続けていく--そういう“担う”“引き受けていく”自分でありたいものです。

しかし、若い者には負けていられないね(苦笑

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Rさんとの邂逅

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水曜日は授業が終わってから、かねてより一献の約束をしておいたメガロポリス埼玉のRさんと乾杯。

様々な話をし、楽しい時間かつ有意義なひとときを過ごす事ができました。ありがとうございます。

しかし、本当に、驚くのは、いろいろと無茶苦茶な連中が沸いてくるのは承知なのですが、そういうのに対抗していこうとする人々も草迸してくるのが不思議なことです。

そういう出逢い、友誼は大切にしたいと思います。

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無理をして出かけるということ=我慢なのか?

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日曜は、2.5週間ぶりの休日なんだけど(ヤッタ!、家族との約束で、その付き添いというか、色々しないといけない。ホントはゆっくり休むとか自分の仕事(論文を書くとか)したいんだけどそういうわけにもいかない。

思えば、少年の頃、釣りが好きで、疲れた親父に無理を行ってつれていってもらった。当時は社会的にも日曜日だけが休日という世の中でしたが、親父は釣りなんか好きじゃないけど、無理して、よくつれていってくれたとは思う。その意味では、「我慢」というのとは違うけど、がんばるしかないのよね。

しかし、現実にはだるいという感情を否定することはできないし、それは虚偽なんだろうな。

……などと思いつつ、寝てから、その日は都内で数件、家人の用事を済ませてきました。

たしかにまあ、だるいのですが、家族も喜んでいたようですのでそれでよしとしておきます。

たぶん、死んだ親父もそうだったのではないのかなあ、などと、ぼんやり。

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