告白・独白・毒吐の日々

生活経験とは成長してゆく生命の省察と反省である

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 哲学と生活経験との交渉はそれ程判然とはしない。生命とは、人間といふ連関に於ける諸々の心理的業績の内的関係である。生活経験とは成長してゆく生命の省察と反省である。之によつて、基礎的な形での合目的行動の相対的なもの、主観的なもの、偶然的なもの、個別的なものなどが、吾々にとつて価値あるもの、合目的なもの、の洞察へ高められるのである。吾々の生命の全世帯の中で、諸々の激情は何を意味するか? 自然的意味でいふ生活に於て、犠牲とか、名声とか、世間的に認められることとかはどんな価値をもつか? 之等の問題を解決しようとするものは個人の生活経験だけではない。この生活経験は拡大して行つて社会が獲得する生活経験になる。社会といふものは、感情と衝動の生活の大調節機である。それは、規律のない激情に対し、共同生活の必要から生ずる限界を、法律や道徳によつて興へる。分業、結婚、所有権などによつて、色々の衝動の秩序ある満足のための条件をつくる。社会は、この恐るべき支配者から吾々を解放するのである。生命は高次の精神的な感情と努力とのための余地を得るやうになつて、之等のものが優位を占めることが出来るやうになる。社会がそのやうな仕事によつて得る生活経験は、諸々の生活価値の決定を益々妥当ならしめ、そして興論によつて、之等の価値に対し確定した、整頓した位置を与へる。之によつて社会は、それ自身のなかから或価値段階をつくり出し、またそれが更に個人を制約する。この社会の地盤の上に、個人の生活経験が現はれて来るのである。それは様々の仕方ででてくる。それの礎石をなすものは、或価値がその中で現はれる限り、個人的経験である。人々の様々の情熱を--彼等自身の破滅へまた当然他人との関係の破滅へ導いて行く彼等の激情やそれから来る彼等の悩みを、観衆として目撃することによつて、吾々は他の教へを受ける。
    --ディルタイ(戸田三郎訳)『哲学の本質』岩波文庫、1935年。

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や、や、や、やっと……

休めそう……

か・も・し・れ・ま・せ・ん!!

ちょうど2週間前の13日が、市井の職場の指定休でしたので、ゆっくりと起きてからちょいちょいと学問の仕事をおわらせて、あとはのんびりとまどろんだ数時間が実は最後で、市井の仕事、短大での講義、たまった学問の仕事の処理と、論文指導……。

ようやく明日は、13日と同じように数時間だけ休憩できそうです。

今回、スクーリング講義で実のところ参ったのが、足腰の疲れです。
履修された方はご存じかもしれませんが、午前中は大丈夫なのですが、昼をすぎると立っているのが結構きつく、あわせて毎日鯨飲するものですから、痛風問題も併発する始末でして……。

講義二日目の最終日の帰宅時は、もはや、歩くのが実のところ困難?でありまして……。

ひさしぶりにステッキ(杖ではない!)を同伴しないとまずいのか……などと頭を抱えた始末です。

とりあえず、翌日の短大への出講は問題ありませんでしたが、それでも1コマやると結構きつく、そのまんま市井の仕事へ出かけ、ヘロヘロに鳴って帰宅した次第です。

ちなみに短大へ昼過ぎに出講すると、気温が14度。
雨の所為もあるのでしょうか……、体感はもちっと寒いぐらいでした。

さて……、
今週もじつのところ本日しか休みがありません。

ですから、今週締め切りのスクーリング試験の採点と同じく今週締め切りのレポート20通あまりと、来週の授業の仕込を、なんとか日中に終わらせ、ちょいと夜はゆっくりと……

……休養を取らせて頂こうかと思います。

鍵は、朝きちんとはやく起きることですね。

解釈学者・ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)は、「哲学と生活経験との交渉はそれ程判然とはしない」と語っております。しかし同時に、生命の活動としての生活に関してはそうであったとしても、その反省する要素=哲学することと生活の関係が依然として「判然とはしない」けれども、まったく無関係でもないと説いております。

「生命とは、人間といふ連関に於ける諸々の心理的業績の内的関係である。生活経験とは成長してゆく生命の省察と反省である」。

何度も経験し、何度も反省しながら、ひとは恣意的な状況から価値を紡ぎ出すのかもしれません。

たしかに「貧乏暇無し」ということはつくづく実感しますが、その沃野しか自分自身には沃野がありませんので、そこを明日はちょいとうまく開拓しながら、価値を創造してゆきたいものだよな……

……などと思いつつ、無性にギネス(Guinness)が飲みたくなりましたので、ちょいとやってから沈没です。

しかし、この足の痛さ、ホンマどうにかならないものですかねえ。。。

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汝の視力を内部に向けよ

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汝の視力を内部に向けよ、やがてそこには、いまだ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の最高権威者となれ。
    --ソロー (飯田実訳)『森の生活(下)』岩波文庫、1995年。

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秋期スクーリングのことを少し書き残しておきます。

倫理学はもともと履修される学生の多い科目ではないのですが
(「哲学」なんかの半分)、そして、新型インフルエンザの影響もなんとなくあるにもかかわらず、それでも50名以上の方が今回も履修してくださり、ありがとうございました。

秋期担当はこれで二回目です。

昨年は、激論の二日間となったのですが、こんかいは和やかな?ムードで授業を進行することになりました。激論も面白いのですが、和やかなムードというのもなかなかいいものです。

また昨年と同じなのは、ご夫婦での履修という方がいらっしゃい、楽しいひと時を経験させていただきました。

倫理学は俗に「人間関係の在り方」を探究する学問とのきらいが濃厚ですが、その関係性のあり方がおおきくなれば、それが共同体、社会と個人の関係になるわけですけども、共同体と個人の関係に関する議論の中で個人主義の問題を扱います。

本朝においては、それが誤解されたまま西洋から輸入され、孤人主義として機能している側面が否めませんが、本来の西洋における個人主義にはヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)のいう「相互承認」があるわけですが、その相互承認を確認するためには様々な手段が講じられ、それがひとつの文化になっております。

ですから、夫婦や恋人間でもお互いがお互いを個人として尊重しているのかどうか確認するために(もちろんそれは意識的な戦略的アプローチではなく「文化」なのでしょうが)、「愛している」とか、そこまで言わずとも、関連した意思疎通を交わすわけなのですが、やはりご夫婦で参加していらっしゃる方がいますと、

ここは・・・

「いかがですか?」

・・・と直接、お聞きする宇治家参去です。

初日は、事前に参加されることをうかがっていた方から事前に体験談をメールで送っていただいておりましたので、機会をみつけて、授業の中でご本人に読んでいただいたりもしました。

感動の一瞬です。

なんでもありといえば、なんでもありなのですが、自分がその対象とどのような関係を構築していくのか、それを探究するのが倫理学でありますから、いたしかたありません。

そういえば、夏のスクーリングでは「演歌歌手志望です」というお兄さんがいましたので、演歌をひとつ歌ってもらったのも興味深い思い出です。

初日は軽く?慰労会。

二日目もへろへろでしたが、魂は厚く、無事に授業を終えました。

これも学生の皆さんあっての講座なのだと思います。

教師とか、できあがった「学問」ありきではなく、相互の有機的な関係性のなかで、学を論ずるところがこの倫理学の醍醐味かもしれません。

であるとするならば、ソロー(Thoreau Henry David,1817-62)のいうとおり、全体性のなかでの還元不可能な自己自身を丁寧にあつかっていくしかありません。

「汝の視力を内部に向けよ、やがてそこには、いまだ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の最高権威者となれ。」

・・・善い、ことばです。

さあ、これから短大での「哲学」の授業です。

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初日は授業がすんでから飲みに行って、そのあと締めに「天下一品」のラーメンをたべましたが、これが思った以上に、胃にのこりましたが、これまたいい思い出です。

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人間が出合うところのものに応答すること

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    責任
 責任の観念は、自由に大気の中に漂う<当為>の特殊倫理の領域から、生きた生命の領域へと帰るべきものである。真の責任は、現実の応答のあるところにのみ存在する。
 何にたいして応答するのであるか。
 人間が出合うところのものに応答すること、すなわち、見たり、聞いたり、感じたりすることができるものにたいし、応答することである。個々人に頒ち与えられているそれぞれの具体的な時間、世界と運命の内容をもつ時間は、これを注意深く見つめる者にとっては一つの言語である。人間に与えられた<しるし>を読み取るためには、注意深く見つめることがなにより必要である。すでに前に仄めかしておいたように、しるしを注意深く見つめることと、それによって生ずる結果から何とかして人間を守ろうとして、まさにこのような理由でわれわれの文明の全機能、全能力をあげて必死である。なんとなれば、注意深く見つめる者にとっては、しるしとの出会いの状況の瞬間を、彼がいつも見慣れているものを扱うように、<適当に済ませてしまう>ことが、もはやできないからである。つまりその状況に関わり、その状況の中へとはいり込むことが求められる。この場合、彼がいつも適用できるものと信じこんでいるような知識、技術、体系、計画、一切のものがなんの役にも立たなくなるのである。なぜなら、彼は今や、分類しがたいもの、あの具体性そのもので、ことをなさねばならぬからである。このような型りかけの言語は、アルファベットをもたず、その発音のひとつひとつは新しい創造であり、ただそれ自体としてのみ把握さるべきである。
 それゆえ、注意深く見つめる人とは、生起しつつある創造に直面することである。創造は言語として生起するが、それは彼の頭の上をかすめ過ぎる言語ではなくして、まさに彼にたいして向けられた語りかけとして生起する。もしひとが相手に、彼もまたその言葉を聞いたかどうかをたずね、相手がきいたと答えるならば、彼らはただその経験について理解し合っただけであって、経験されたものの理解ではないはずだ。
 しかし、この語りかけを成り立たせている音声は、--おそらくあり得べき誤解をとり除くために、繰り返していうが、わたしはいくぶん、特殊なもの、実際生活以上のものを考えたのである、--個人的な日常生活の出来事なのである。大小のさまざまの現に生じつつある出来事の中から、われわれは語りかけられている。しかも、大なる出来事とおもう出来事が、他の出来事より大きな<しるし>を示すとはきまっていない。
 だが、われわれがしるしを会得することだけでは、まだわれわれの態度が決定されたとはいえない。われわれは、二度ともいかなる活動力によっても、いかなる無感覚をよそおっても忘れることのできない痛手をうけているにもかかわらず、--現代の重大な一つの類型(タイプ)となっている応答の方法として--われわれは沈黙を押し拡げるか、あるいは、習慣の中に逃げこむかである。けれどもわれわれは、いくぶん吃りながらではあるが、答えてみようとすることがある。そのとき魂はごくまれにしか確実に文節(アルテイキュラチオーン)して話すことができない。なるほど感覚と喉は、一緒になっていおうとしても、驚きのあまり、喉からあらかじめ滑らかに整えられた意味もはっきりと声にならぬような真面目な口ごもりとなるのである。われわれの応答の言葉は、語りかけと同じように、行為と無為の解説しがたい言語によって語られる。--この際、行為と無為、無為は行為と同じようなふるまいとなる。このようにわれわれが全存在をもって語ることは、まさに今生じた状況に立ち、状況の中へはいってゆくことである。このような状況は、いまだ生じたことのないものであるがゆえに、その状況の出現をわれわれはあらかじめ知っておらず、知ることもできなかったのである。
 さてわれわれは断念しなければならなかったあの状況への応答をいい加減に済ますことはしない。会得した状況はけっして適当に済ますわけにはゆかなくなる。われわれは生きた生の実体へこの状況を導入させるようになるのだ。ただこのように瞬間に誠実であることによってのみ、われわれは瞬間の総体とは全く別の人生を経験する。われわれは瞬間に向かって答えるが、同時に、瞬間にたいして責任を負う。新たに創造される世界の具体性は、われわれの掌中に委ねられている。われわれはこれに責任を負っている。犬があなたを見つめたとき、そのまなざしに答えるがよい。子供があなたの手をつかんだとき、その触れ合いに答えるがよい。群衆があなたを取り囲むとき、彼らの苦しみに答えるがよい。
    --マルティン・ブーバー(植田重雄訳)「対話」、『我と汝・対話』岩波文庫、1973年。

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さあ、倫理学の、大学の教員としてのつとめを果たしに出陣です。

今日明日カンヅメで講義です。

しかし、講義といっても、それは一方通行ではありません。

なにゆえなら、孤高のユダヤ人哲学者・ブーバー(Martin Buber,1878-1965)のいうとおりです。

「人間が出合うところのものに応答すること、すなわち、見たり、聞いたり、感じたりすることができるものにたいし、応答すること」であるからです。

その責任の自覚を楽しんで参ります。

以上。

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「○○人で代替が不可能な技能の持主にかぎる」

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 ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。もはや完全にローマに同化していたエトルリア人は、あいもかわらず土木事業で腕をふるっていたし、南伊のギリシア人は通商をまかされていた。シチリアが傘下に加わって本格的にギリシア文化が導入されるようになって以降は、芸術も哲学も数学もギリシア人にまかせます、という感じになってくる。このローマ人の開放性は時代を経るに従ってますます拡大していくが、どこかの国のように滞在許可証を与えるのに、「○○人で代替が不可能な技能の持主にかぎる」などとは言わなかったのであろう。
    --塩野七生『ローマ人の物語3 ハンニバル戦記[上]』新潮文庫、平成十四年。

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かくかどうかまようわけですが、一応、記録としてのこしておきましょう。

9月から、いくつか専任以上の公募にチャレンジしてきたのですが、ひとつ、最終面接まで行ってきました。

所属は語学の学部で、担当が聖書学(新約・旧約のどちらでもよいのですが)・宗教学ということで、ダメもとで応募したのですが、非常勤ながらも論文も数本あり、教育歴もあったからでしょうか、先だって息子殿の運動会の日の午前中、場所取りだけやってから、来園した細君とチェンジして面接に行ってきましたが……。

マア、お陰で、運動会にはスーツで参加という異常事態になったようですが、その奮闘?にもかかわらず、今回は御縁がなかったようで・・・。

とくに凹むことはなく(細君は凹んでいますが)、アカデミズム底辺で流す素浪人との自覚ですので、「マア、だめだよな」っていうのが先に立つわけですが、それでも「勝負には立てることができる」という自信ではありませんが、なにか、「まだまだ、これからサ」という光明が見えたような……、そんな経験を積むことが出来たように思います。

人文系(語学とかスキル系以外の“純”人文という意味ですが)はほとんど求職がなく、専任教員を置かない場合のほうが多いことを勘案すると、今回、落とされたのはイタイのですが、これからのところもまだちょいとあるので、もうひとつ山を越えていけ!との激励と受けとり、再度、挑戦の毎日です。

しかし、やっぱりハードルは高いです。

専門はキリスト教全般になりますので、業績としての論文関係はその筋ばかり。
教えているのは、まったく関係がなくはないのですが、それと同様に直接交差することの低い、倫理学と哲学(西洋)ですので、立場が微妙であるということ。

また基督者でない人間がキリスト教を論ずるというのにも抵抗があるのかもしれません。
狭い専門をあれこれ論じ始めますときりがないので、ローマ時代であれば融通が利くのかなとも思いますが、いずれにしましても、ただ前者はよく考えれば、専門性を踏まえた上で、はばひろい人文科学の沃野で戦うことができると考えることもできますし、後者に関しては、このポスト・モダンの思想状況を踏まえるならば、学問としての「キリスト教」という意味では、基督者でないけれどもキリスト教教育には手弁当でかけつけることができる稀有な存在?として戦えるのでは?……などとも思うところです。

その辺は指導教官の鈴木先生からも言われたとおりですが、また、仕切直しですね。

……とわいえ、このところ市井の仕事で怒濤でしたので、本日は「ただぼんやり」と過ごしてしまいました。

明日からは通信教育部の秋期スクーリングにて、まる二日間缶詰で「倫理学」の講義です。上記のような経験が、倫理学を「骨太の構造改革」する肥やしになるのが不思議なもんです。

さて……、
ちょうど、スクーリングに備え、オーダーメイド(BTO)で新しいパソコンを注文していたのですが、それが届いたので、セットアップをしていたのですが、これが思った以上に時間がかかりましたが、明日使用するパワーポイントか映像資料もばっちりぶち込みましたので、明日の授業が楽しみです。

が……、

5時には起きたい!

……ので、早めの沈没が肝要かもしれません。

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バークレーでは半ズボンの人だっている

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 東海岸から西海岸にやって来ると、同じ大学、同じ大学生といってもずいぶん違うものなあという思いを新たにすることになる。とくにプリンストン大学と、UCバークレーとでは両極端というか、大学の雰囲気がそれこそもう天と地ほど違う。プリンストンはいわゆる伝統的なエリート市立大学で授業料も高く、学生は東部の上層白人家庭の子弟中心、キャンパスの人口密度も圧倒的に少ない。それに較べるとバークレーは州立大学で学生は人種的にはもうぐしゃぐしゃ、いかにも庶民的で、政治的には昔からラディカルで有名である。大学のまわりもバークレーはなにしろ賑やかで、ヒッピーやらヌーディストやらホームレスらがうようよしている。学内には大きなゲーム・センターまである。それに較べればプリンストンは本当に平和かつ物静かである。二年近く住んでいて、ホームレスの姿なんてただの一度も見かけたことがない。クラスの雰囲気もどちらかといえばバークレーの方が活発、プリンストンの方が穏やかという感じがある。教授だってプリンストンではだいたいがきちんとネクタイをしめているけれど、バークレーでは半ズボンの人だっている。それくらい違う。
 自動車に譬えていえばプリンストン大学がクラシックなベントレー、バークレーが明るく楽しいコンバーティブルのアメ車といった感じになるのだろうか。
    --村上春樹「バークレーからの帰り道」、『やがて哀しき外国語』講談社文庫、1997年。

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最近、日中は穏やかな陽光が続くのですが、夜になると結構冷え込みますので、仕事に行くとき、着ていくものに困るのが正直なところです。

月曜は大学での授業がありましたが暖かい一日です。
バークレーの先端的な教員?のように半ズボンでいくわけにも参りませんので、きちんとネクタイを締めて、合い物のスーツでいきましたが、夜はこれで十分なわけですが、日中ですと、やはり暑い……ぐらいでして・・・。

ぼんやり煙草を秘密の喫煙所にて吸っておりますと、やはり暑いのでしょうか……季節のはずれのカマキリ殿が顔を見せておりました。

しかし、目に写る風景は……宇宙にまでつづくような抜けるような高さの空と、短い夕刻は、間違いもなく秋のそれであり、一日一日と深まりゆく秋を堪能した次第です。

……しかし、今日のお昼も結構暑いですねえ。

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肥えた畑は酷使してはいけない

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 また、心はいつも同じ緊張のうちに抑え付けておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい。ソクラテスは幼児と戯れても顔を赤らめなかった。カトーは公務に疲れた心を酒で和らげた。またスキピオは凱旋の折の、あの武人らしい体を楽の音に合わせて動かした。もっともそれは、なまめかしく体をくねらせて当世風に、足取りまでが女のなまめかしさそこのけに流していく連中のようにではなく、まるであの昔の人たちが、競技や祭礼のときによく勇壮な踊りを踊って、たとえ敵側から見られても、不利にならないようにしたのと同様であった。心には寛ぎが与えられねばならぬ。心は休養によって、前よりも一層よき鋭さを増すであろう。肥えた畑は酷使してはいけない。つまり、一度も休耕しないで収穫だけを上げるならば、畑はたちまち不毛の地に化すであろう。それと同じように心も休みなく働くと、その活力をくじかれるであろうが、少しでも解放されて休養すると、再び活力を取り戻すであろう。こころが休みなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感である。
    --セネカ(茂手木元蔵訳)「心の平安について」、『人生の短さについて 他二篇』岩波文庫、1980年。

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たしかに「心はいつも同じ緊張のうちに抑えつけておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい」のでしょう。

ですので、休日の趣味とかリフレッシュのつくり方のうまい人間は、仕事のできもばがよいものです。逆に、ずるずる休みの日にまでひっぱている場合は、オンの業務時もなかなか彩り豊かというわけにはいかず--その辺りの心理をセネカは実にうまく表現していると思います。

こちらもなかなか休みをとって、日がな一日趣味に惑溺するというわけにはいきませんので、休みの日にも、学問の仕事は継続中というお粗末な毎日をおくっておりますが、それでもそればかりやっておりますと、「こころが休みなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感」になってしまいますので、寝る前の晩酌がそれを払拭する「寛ぎが与えられる場」として活用させていただいている次第です。

とわいえ、「時には娯楽に興ずるもよい」とセネカ(Lucius Annaeus Seneca,c. 4 BC-AD 65)が「時には」と断っているとおりで、その「寛ぎが与えられる場」が「公務」そっちのけとなった場合、本来の機能を発揮できないのもまたしかりです。

残るのは、学齢期の学生さんが無目的に長期休暇を消化してしまったあとの焦燥感のようなものもそのひとつでしょう。

ですから、毎晩の「寛ぎが与えられる場」としての「晩酌」において一番大切なのは、「過度の摂取」を「控える」ということに他なりません。アリストテレスは「中庸」を論じ、「過剰」と「過少」を退けよと提示しましたが、そのことがこの部分でも大切になってくるのは言うまでもありません。

ですから、ビール2本程度に、日本酒二合ぐらいがちょうどよいのですが、やはり次の日授業があることを考えるとも、もちっとセーヴするわけですが、それはそれでもそれが「適度」なのかもしれません。

物事にはバランス感覚が大切だとよく言われますが、このバランス感覚ほど体得していくのが難しい事案はほかにはありません。なにしろ、これだけは自分自身で確認しながら--失敗と成功をもってして--やっていくしかありませんので、その積み重ねをひとつひとつ大切にしながら、バランスを体得していくしかありません。

昔はもっといけたのですが、最近では上の量ぐらいがほどよい分量です。

で--
この「時には娯楽に興ずるもよい」というところですが、実は微妙なところが存在します。いわばスポーツマンが練習とか鍛錬をあくなく追及するような局面がそれに相当します。そのような熱中期においては、そうした「興ずるもよい」というプラスアルファの部分は不要なのかもしれません。

若い頃?を思い出しつつふりかえってみれば、何かに--それがスポーツであったり勉強であったり、社会活動であったり--熱中し、四六時中それに専念するときっていうのが人間には何気にあるものです。
そのときは、「興ずるもよい」部分などほしくもない、他ごとに「興ずるもよい」時間ほどもったいないものはなく、その時間すら惜しい--そう思うときっていうのもあるものです。

その場合は、まさにそれ自体に「興ずるもよい」のでしょう。

そのことにより、建物でいえば、その基礎が強固となり、あっちへふらふら・こっちへふらふらしている場合よりも、よいのかもしれません。

いずれにしましても、それを経た?大人?には、どこかで「興ずる」精神を大切にしたほうが、この現代社会には最適かもしれません。

さて--

古代ローマの哲人政治家・カトー(Marcus Porcius Cato Uticensis,95 BC-46 BC)は、「公務に疲れた心を酒で和らげた」わけですので、カトーにならい、今宵もいっぺえ飲んでから沈没といういつものパターンです。

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「普通」という、これも思いのほかなりがたい道に精進したらいい

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 「うちの子の書くものがすごくいいんだ。親に似ず、才能があるみたいなんだ」
 どこでどう探したものか、旧知の男が十何年ぶりに電話をしてきた。いまは長野県の山の村で古い農家を借りて、彼は木工を、奥さんは染めものをしているそうだ。
 「うちの子」の書く詩や文章が「すごく個性的」だから発表したい、編集者に紹介してくれないか、というのが要件である。
 彼はわたしと同じ年頃、いわゆる「団塊の世代」で、知り合ったのは二十年も前だ。ライブハウスだったか、それとも小劇場だったか。「反権力」と「支援」と「生きざま」を連発するのが悪いクセだが、気はよかった。「個性」と「自主性」も当時から彼が好んだ言葉だ。私は聞かないふりをしていた。
 八〇年代前半に離婚して旅に出た。その旅先、メキシコかどこかで会った日本の若い娘さんと再婚した。彼女も旅行中だった。そこまでは風の便りに聞いていた。その子がいま十一歳だそうだ。
 「日本の管理教育はひどいもんだからね」と彼はいった。「できれば中学くらいからは外国にやりたいと思っている」
 六〇年代末に二十歳前後だった人のなかには、ときどき妙に教育熱心な人がいる。蛇が蛙をのみこむ一部終始をわざわざコドモに見せて、自然の掟の勉強だ、なんて理屈をつけたりするたぐいである。
 ところでわたしは、編集者を紹介してくれという彼の頼みを婉曲にことわった。
 コドモはある時期、オトナがてともおもしろがるものを書くことがある。それは文章に限らない。音楽でも絵でもだからといって親が子を「芸術家」にしたてあげようとするのはどうか。ほとんどの場合、長じれば「並みの人」に落ち着くことになっている。
 まずアタリマエとはなにかを教える。それが親のつとめではないかとわたしは思う。
 「芸」や「表現」に生きたいとコドモがいったら、一応反対するのも義務だろう。とてめとまるならそこまでの子だ。「普通」という、これも思いのほかなりがたい道に精進したらいい。一方、親にそそのかされて芸術を志す子は、たいてい大成しない。
 なにかを表現していなければ生きている気がしない、という子もたしかにいる。そういう宿命、または一種の病気があることは認める。
 しかしそんな子は大丈夫、親に反対されても禁じられても、ちゃんと隠れてやる。「人生の三災」という孔子の言葉がある。老年に至って子を失うこと、中年で連れあいをなくすこと、少年のうちに志を得てしまうこと、それが三つの災いだという。わたしはここに、幼年に親にいじくられすぎること、という一項をつけ加えて「人生の四災」としてみたい。
 などとは、実は他人事だからいえる。自分が当人になったらとても自信がないからわたしはいまだにシングルなのである。
    --関川夏央「『団塊』の親」、『中年シングル生活』講談社文庫、2001年。

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休みでしたが、ちょい課題があり、一日中……でもないですが……、文献とPCと向かいあっておりますと、まあ、煮詰まってきますので、もうこれでいいやってところを踏ん切りをつけ、一息つく宇治家参去です。

……これからちょいと飲んで寝ますが、本日は息子殿の幼稚園の運動会。

7時までには登園して「場所取り」なる労作業をしないといけませんが、

「なんで、そんなことをしないといけないのか」

……と細君に誰何したところ、

「それがフツーでアタリマエのことだから」

たしかに“フツー”は茨の道であるよな、と噛みしめつつ、大好きな文筆家・関川夏央(1949-)のいうとおり、「「普通」という、これも思いのほかなりがたい道に精進」することが肝要であるとひとりうなづきつつ、フツーのアタリマエの「オヤジ」としてこれから数時間後、頑張って参ります。

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中年シングル生活
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モンテーニュは、いつ読んでも、男らしくていいねえ。

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財産の貧乏を治すことはやさしいが、精神の貧乏を治すことはできない。
    --モンテーニュ(原二郎訳)『エセー (六)』岩波文庫、1991年。

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やっぱり、「モンテーニュは、いつ読んでも、男らしくていいねえ」。

池波先生(池波正太郎、1923-1990)曰く……

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 夜半、書庫から〔モンテーニュ随想録〕を二冊ほど出してきて、久しぶりに読む。その中の〔鍛錬について〕の章で、モンテーニュは、こういっている。

……睡眠は死に似ているから、自分の睡眠をよく観察せよと教えるのも、決して道理のないことではない。(中略)ひょっとすると、我々から、あらゆる行動とあらゆる感覚をうばう睡眠という働きは、いかにも無用な、また自然に反したことのように思われるかも知れないが、実はこれによって、始めて自然が我々を生と死の両方のために作ったことを教えられるのである。(関根秀雄訳)

モンテーニュは、いつ読んでも、男らしくていいねえ。
    --池波正太郎『池波正太郎の銀座日記〔全〕』新潮文庫、平成三年。

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じつに、「男らしくていいねえ」です。

時間がないにも拘わらず、16世紀フランスを代表するモラリスト・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533-1592)の『エセー Essais(随想録)』を繙く宇治家参去です。

先月は、月末締めの原稿に締め切り直前まであたふたしましたが、実は、土曜日が締め切りの別の報告書がありまして……また、おなじようにあたふたしております。

なんとかはなりそうなのですが、その性癖が治りません。

まさにモンテーニュが語る通り、「財産の貧乏を治すことはやさしいが、精神の貧乏を治すことはできない」のかもしれませんが、財産の貧乏を治すことも、「やさしい」わけではなく、至極難しいのでは……と思うのですが……。

とりあえず、本日は、「赤い彗星」ならぬ「赤い憎い奴」で沈没です。

ヱビス(SAPPORO)の秋期限定プレミアムビールの「琥珀ヱビス」ですが、何気にこれがヱビスシリーズでは一番好きかもしれません。

この「赤い憎い奴」を飲みますと、まさにほかのモビルスーツよりも3倍速く動きますので、原稿も3倍速く執筆することができますので、いつもより3倍多く飲んで寝ます。

さて……。
昨日は台風一過、例の如く市井の仕事でしたが、台風のおかげで空が澄み渡り、夕刻、職場の屋上へ上がると、遠く富士が遠望できました。

なんだか、心が洗われます。

帰り際には、遅い夏休みでアメリカへ行っていた同僚から煙草のプレゼント!
ただ、メンソールではないのが玉に瑕ですが、ぼちぼちいただいてみましょう。

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著者:池波 正太郎
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3 煙草を出したら、必ずまず周りの人に勧めます。自分の分をとるのはそのあとです。

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15 煙草

1 煙草を吸うのは、チーズ(チーズを食べない時はデザート)以後にします。それ以前に数のは、行儀が悪いばかりでなく、せっかくの料理の味もかえてしまいます。

2 煙草を吸う場合は、必ず一緒に食事をしている人に許可を求めなければいけません。普通、よほど煙草が嫌いな人でないかぎり、断れることはありません。

3 煙草を出したら、必ずまず周りの人に勧めます。自分の分をとるのはそのあとです。

4 女性が煙草を吸う時、男性は火を貸してあげるのを忘れてはいけません。もっとも男性が煙草を吸う時には、女性は火を貸したりしません。

5 西洋にある迷信の一つでしかありませんが、一本のマッチで火をつけるのは煙草二本までとされています。

6 煙草をくわえたままで話をするのは、誰にたいしても失礼です。

7 料理の皿や受け皿、カップなどを灰皿代わりにしてはいけません。灰皿が近くにない時は、サーヴィスマンに頼んで持ってきてもらいます。

8 煙草を吸い終えたら、煙が残らないように完全に揉み消しまう。

9 葉巻は火をつける前にラベルをとり、葉巻切りで先端を切っておきます。火をつける時に、葉巻全体を火にかざさないようにしてください。葉巻を吸っている途中で火が消えたら、火をつけないで、新しいものにとりかえます。もっとも質のよい葉巻は途中で消えたりしません。

10 葉巻を残すのはよいマナーではありません。一度火をつけた葉巻は最後まで吸ってください。

11 女性が葉巻を吸うのはよい印象を与えません。
    --辻ホテルスクール編『テーブルマナー・ブック』新潮文庫、平成元年。

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大学から案内がきていたのですが、どうやら将来的にキャンパスでの全面禁煙化を検討していくようです。

自分で言うのも何ですが、愛煙家をもって自認する宇治家参去ですので、きちんと灰皿のある分煙された喫煙所にて紫煙を味わっておりますが、肩身の狭い思いは払拭できません。

たしかに受動喫煙の問題とか、禁煙への潮流を招来してしまった日本の煙草文化のマナーの低さにも由来することは否めませんが、愛煙家としてはなかなか寂しいものです。

こんど、公聴会が行われるようですので、いっぺん行ってみようかなどと思います。

さて……
手元にあるテーブルマナーブック、発行より20年が経過しておりますが、ある意味ではこの時代、おおらかだったのかもしれません。

……ということで、一服してから仕事へ行ってきます。

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旅はまだ終わらない……

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 ヘッドライト・テールライト 中島みゆき
 作詩:中島みゆき 作曲:中島みゆき

語り継ぐ人もなく
吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は
忘れられても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

足跡は 降る雨と
降る時の中へ消えて
称える歌は
英雄のために過ぎても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

行く先を照らすのは
まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは
あどけない夢
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

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http://www.youtube.com/v/AauVuuhmyHk

とりあえず、紀要に載せる原稿が完成しました!
うほぉぉ~、パフパフどんどん!!

来年も同じセリフを書くことは思いますが、「直前になってじたばたしないように仕込み」“たい”

“たい”ですから希望ですので、実現できなくても責めないでくださいマシ。

とりあえず、英文要旨は一旦寝て・起きてから書きましょう。

とりあえず、完成して良かったです。

とりあえず、完成に「酔う」暇がありません。

次は出世の本懐?たる博士論文の仕上げです。

時間がありませんが、挑戦がつづきます。

まさに「旅はまだ終わらない」というやつです。

しかし「旅はまだ終わらない」とすれば……

しかし「旅はまだ終わらない」とすれば……

……ということはそれは終わると次の課題がまっている?……のかも???

とりあえず、さっくり寝ます。

ということで、「とりあえず」というフレーズを「5回」も多用してしまった雨の朝です。

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自分の成功して来た方法に執着する?

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……我々の小学校時代--明治二十四五年頃の国民教育は、今から見ると滑稽な程排外的敵愾心を児童に鼓吹したものである。学校の唱歌は多くは勇壮なる軍歌で、其外には「三千余万の同胞共に、守れよ守れ我が日の本を……」とか、万国公法ありとても、弱肉強食の世の中には空論に畢ると云つたやうな六つかしい思想を歌はしたものだ。露国皇太子遭難事件当時の廟堂の狼狽の醜態をみても、如何に外国の圧迫に怖れて居たかゞ解る。斯ふ云ふ時代には、労働者が困るの、物価が高くて貧民が困るのと云つたやうな問題に、頓と頭を使ふの余裕がない。今日の政治家は皆斯の時代を通つて夫れぞれ成功して来た日とであるから、今尚ほ自分の通つて来た途に執着し、自分の成功して来た方法に執着するといふのは免かれない。然しながら今日の日本は已に二三十年前の日本ではない。今日は小学校の児童にも花が咲いたとか月が円いといふやうな呑気なことを歌はして居る時代である。外勢の圧迫は全く之を感じないではないが、已に自己の「力」の自覚が出来た。故に翻つて国家を構成する分子即ち個人の充実発達を顧みて、国家の根本興隆を根柢から作り上ぐべき時代になつて居る。けれども一般の政治家の頭脳は仍ほ過去の制度、過去の経験、過去の事業に捉へられて、充分に其新らしき方面を見透して居ない。
    --吉野作造「国家中心主義個人中心主義 二思想の対立・衝突・調和」、『中央公論』一九一六年九月。

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たった40枚なのですが、なんとか1/3の素案が完了しました。
朝までにはなんとかなりそうです。

いつもながら突貫作業です。
次回からはきちんとやりたいものです。

しかし、いつもそうなのですが、総論として枠組・構成をつくってから仕上げていくと、初めに思い描いたようになかなかなりません。各論を資料をもとにつめていくと、仕上がりが最初に思っていた方向性ではないようになってしまいます。

やはり、これは真理をありきとみるプラトニズムに対する嫌悪感がそうさせているのかな……などと思うわけですが、もうちょいねばってみます……というか完結させます。

……ということで疲れたので煙草を一本吸ってきます。

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挑戦者たち・・・

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 基督教以外の宗教と云へば、儒教神道仏教などがある。神道は宗教であるかどうかがわからないのみならず、此の頃反動的に之を担ぎ廻る者があるが、国民の精神並に生活の上に何等現実の勢力を持つて居ない事は疑を容れない。儒教と仏教、特に仏教は特色ある東洋的宗教として相当に民心を支配して居るとは思ふけれども、然し乍ら単独に之のみで今日の世界に立つ国民の精神的根柢を造り得るかどうかの見定めは、未だ全体の国民について居ない。それが出来ないと云ふのではないが、国民の全体が夫れ程の信頼を未だ仏教に与へて居ないと思ふ。尤も今度の戦に動かされて今迄眠つていた仏教は大いに奮起せんとするの趣を呈して居る。それとても従来基督教会がやつて居る事を真似る位の程度であるが、之が基督教ほどの実際的影響を与へ得るや否やは、是からの問題である。要するに今度の戦争は、之等の宗教に対する国民の観念には殆ど影響を与へなかつた。之に対する信頼の念を別に弱めたとも思はないが、決して強めたとは云へない。若し今度の戦争が何等かの影響を仏教などに与へたとすれば、それは仏教に対する国民の信頼心に向つてでは無くして、仏教信者の眠を覚ましたと云ふ事である。然し眠を醒ましたのは実は仏教界の故老先輩に非して、殆ど青年に限られて居る。之は大いに祝すべき現象であるが、唯だどれ丈け今後の国民を動かすかは是れからの問題である。
    --吉野作造「戦争の基督教に及ぼせる影響」、『新人』一九一九年七月。

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だいぶループしてきましたので、ぼちぼち飲んで沈没します。
月曜日は、短大での講義がありますので・・・。

しかし読めば読むほど読み応えのある本物の人間が居たんだなと驚かされるばかりでございます。

おかげで、読めば読むほど、籠絡されてしまう、ちんけな宇治家参去なのですが、デッドラインを間近に控えた格闘戦が、実に楽しいものです。

さて……
吉野作造(1878-1933)で面白いのは、本人自身がクリスチャンですから、その誇りを語りますけど、最後には必ず警句を発しているところ……。

その慎み深さには脱帽せざるをえません。

さて……?

どうでもいい話ですが、小鳥は水浴びが大好きです。
うちのピーコとピーチャン(息子殿は“ピーチン”と発音しておりますが)は、一定の時間は籠から放鳥して、部屋の中をとばさせておりますが、そのときに水浴びをしております。

しかしながら、ピーチャンご夫婦はチャレンジーなのでしょうか。
うちには水槽が3つあるのですが、何故だが、ザリガニの水槽にて水浴びを楽しんでおります。

君たち挟まれちゃうんぢゃないの?

……などと思うのですが、そのチャレンジーぶりはやはり、宇治家参去に由来しているのかもしれません。

100枚ほど書いたところで、すべて粉砕しました。

明日もう一度、書き直します。

……我ながらチャレンジャーだと思います。

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 唯だ今日の基督教会は是の如き重大なる任務を尽くすに果して適当であるかどうかは一の疑問である。前にも述べた様に、基督教精神の勃興は今日の如く著しくして、而かも教会はあまり多くの青年の集る所となつて居ない。是れ何の為であらうか。我々は今日の基督教会に向つて、時世の要求し又青年の要求するものは唯だ一に基督教的生命にある。教会の教ふる所の色々繁雑なる形式が此の真生命の把握を妨ぐる処無きや否やに反省して貰いたいと思ふ。
    --吉野作造「戦争の基督教に及ぼせる影響」、『新人』一九一九年七月。

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近代日本の思想家〈11〉吉野作造 (近代日本の思想家 11) Book 近代日本の思想家〈11〉吉野作造 (近代日本の思想家 11)

著者:松本 三之介
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「他人がはたらいているときに休む」はずが・・・

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 私は、むかしから、他人の休日にはたらき、他人がはたらいているときに休むのが好きだった。
 太平洋戦争が始まって、海軍へ入る前の一年ほどを、徴用された私は軍需工場で旋盤工員をしていた。
 海軍からの召集令状を受けたのは翌年の二月で、その前年から、私は岐阜県の太田へ出張しており、木曽川のほとりに新設された工場で、土地の徴用工員たちへ旋盤の使い方を教えていたが、前年も押し詰まってから工場長に、
 「すまないが君、正月は東京へ帰らずに、こっちで仕事をしてくれないか。そのかわり、正月の終わりには、十日、休暇を出す」
 と、いわれた。
 こうしたときの私は嫌な顔をするどころか、大よろこびになってしまう。
 正月に帰郷する人びとで混雑する列車に乗るよりも、空いた列車へゆっくりと坐って帰ったほうが、どれほど休暇がたのしいか知れない。
 宿舎で共に暮らしていた同僚たちは、
 「すまないな。一人だけ残して、こんなところで正月をさせて……」
 しきりに同情してくれたが、みんなが帰郷した後の広い宿舎へ一人残って、のびのびと寝るのは快適だったし、賄の老婆たちも、
 「池波さんは気の毒に……」
 と、物資不足の折柄、自分たちの家で食べる餅やら芋やらを運んできてくれ、こちらが悲鳴をあげるまで食べさせてくれる。
 戦争をしていたのだから、大晦日も元旦も作業をやすむわけにはいかない。
 各宿舎から一人ずつ残って、土地の工員たちに仕事を教えながら、自分の製品もつくるというわけだ。
 私がいた向上では戦闘機の精密部品をつくっていたのである。
 元旦の早朝。
 宿舎を出て、靄がたちこめる木曽川を渡し舟で向上へ行くのだが、船着き場へあつまった残留組は、
 「こんな田舎で正月をさせられたんじゃ、たまったものじゃあない」
 「なさけないよ、まったく」
 しきりに、こぼしながら、私に、
 「あんた、うれしそうだね」
 と、いう。
 「いや、別に……」
 「だって、うれしそうだよ」
 「そうかね」
 「おれたちが、こんなおもいをしているのを見て、それがおもしろいのか」
 などと食ってかかられ、閉口したことがあった。
 前年のままの、油だらけの作業衣を着て元旦からはたらく気分も、なかなかよかった。
 現在の仕事に入ってからも、私の休暇は正月ではなく、十二月だった。
 したがって、やむを得ない仕事の取材や講演旅行などのほかは、春夏秋の行楽の季節に、自分のたのしみで旅行をすることは、ほとんどない。
 六月の梅雨どきか、十二月がもっともよい。
 どこへ行っても空いている。列車も旅館も好む日の好む時間に利用ができる。何よりも、これがありがたい。
    --池波正太郎「私の休日」、『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和五十九年。

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学問の仕事も、市井の仕事も、カレンダー通りに休日が取れませんので、まあ、「他人の休日にはたらき、他人がはたらいているときに休むのが好き」というわけでもありませんが、そうせざるを得ないといいますか……。

ただし、「他人がはたらいているときに休む」と確かに池波先生の仰るとおりで、渋滞にも行楽客にもラッシュにも巻き込まれることはありませんので、その意味では正鵠を得ており、どこでほんとうに休むのかを考えた場合、カレンダー通りに休まない方がよいのかもしれません。

本日は、市井の仕事が休みですので、当然「休み」というわけですが、原稿がまだまとまっておらず「休み」にはならず、朝から文献とPCと向かいあっている次第です。

貴重な「休み」ですが、締め切り直前の貴重な「集中できる」一日ですので、仕事をしていたところ……不幸の電話です。

「今日、出勤できない?」

……っていわれましても・・・。

「……っていわれましても、突発休で回らないので、そこをなんとか・・・」

……してほしいということで、

「ありえねえ……」

……と心で叫びつつ、

仕事へ行ってきます。

まあ、小島よしお(1980-)のいうとおり、「でもそんなのカンケーねぇ♪」っていうのが世の中なんでしょうねえ。

とりあえず、帰ってきてからがんばりますですわ。

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Book 日曜日の万年筆 (新潮文庫)

著者:池波 正太郎
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残る賊どもは七人……?

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 残る賊どもは七人。
 これに、新たな龕灯のあかりをさしつけてきたのが二人。今度は、龕灯を仲間のうしろから出して、平蔵へさし向けているから、切り捨てることもならぬ。
 「石を投げつけろ!!」
 「死んでいる仲間のかたなをひろって、投げつけろ!!」
 賊どもが叫んだ。
 「もう、いかぬか……」
 国綱をかまえつつ、平蔵は、最後の突進をする覚悟を決めた。
 石が飛んで来た。
 脇差がひとつ、うなりをたてて、平蔵を襲った。
 これを叩き落したとき、右わきへ忍び寄って来た浪人が一人、
 「死ねい!!」
 必殺の一刀を、平蔵へたたきつけてきた。
 平蔵は、前へ飛びぬけ、左足を軸にして身をまわしつつ、二の太刀ををふりこんで来る相手へ組みつくかたちになり、
 「や!!」
 肩のちからで押しのけざま、飛びはなれ、辛うじて敵の胴をなぎはらった。そして平蔵は体勢を立て直す間がなかった。
 それへ、いっせいに賊どもが襲いかかった……いや、襲いかかって来ると感じ、それに対しての備えをうしなった自分に、平蔵が絶望をおぼえた。
 その瞬間であった。
 「わあっ……」
 どこかで、急に、人のどよめきがきこえた。
    --池波正太郎「血闘」、『鬼平犯科帳 4』文春文庫、2000年。

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抜本的に構成を考え直し、資料を組み替えてみたところ、ようやく光明がみえはじめてきました。

とりあえず、最初のプロットで一度しあげたところ……

「なんだかな~」

……という出来具合で、内容がわからなくはないのですが、散漫な印象が強く

「駄作だ」

……ということで、ばっさり、やり直し。

構成を根本的に組み替えなおしたところ、論点がはっきりとしはじめましたので、これでいってみようかと思います。

学生さんがレポートを作成する苦しみというのもこれと同じかもしれません。

とりあえず、40枚分の3枚は入力完了です。

新しい構成に従い、若干資料を入れ直しながら、再度調整していこうと思いますが……。
これから仕事です。

ちょと合間合間を見ながら内職するしかないですか……ねぇ。

昨夜の軽めのアルコール消毒のお陰で風邪はおちつきましたが、いつもぎりぎりまで手をつけない自分に辟易としてしまいます。

……が、不思議なモノですが、ぎりぎりになると、俄然闘志が燃え上がってくるという雰囲気がなんとなく心地よいと思うのはわたしひとりではないとは思います。

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鬼平犯科帳〈4〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈4〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
販売元:文藝春秋
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あるとき、ねこは だれの ねこでも ありませんでした

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 あるとき、ねこは だれの ねこでも ありませんでした。

 のらねこだったのです。

 ねこは はじめて 自分の ねこになりました。ねこは 自分が だいすきでした。

 なにしろ、りっぱな とらねこだったので、りっぱな のらねこに なりました。
    --佐野洋子『100万回生きたねこ』講談社、1977年。

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どうも長谷川平蔵です。

月曜日朝起きると、例の如く首ががちんがちんでしたが、それに加えて、こういうのを「泣きっ面に蜂」とでも言えばいいのでしょうか……、風邪をまたひいちまい、この大事な時期に!と、負の連鎖の奥底で佇む長谷川平蔵です。

ですが、不思議なもので、肉体的になにか瑕疵があるほど、頭脳が明晰というやつで、講義の方は無事に終了し、思っても見なかったリアクションに驚いております。

哲学の講義なのですが、クロニクルな哲学「史」に関しては、最初の3回程度の講義で済ませるのですが(あとはテーマを集中的に論ずるというスタイル)、思った以上に、哲学者たちの考え方に熱心に耳を傾ける若い学生たちの関心の高さに驚かされた次第です。

ちょうどイマヌエル・カント(Immanuel Kant,1727-1804)の理性の限界論(理性の二律背反)から、実践理性の問題への跳躍に関して、簡単に言及したのですが、内なる道徳律を確固として、他律ではなく、自律の問題として確立することの「かっこよさ」を語ったのですが、その辺りがクリティカル・ヒットしたようで驚いております。

しかし、なんです。
新しい教室で2回目の講義でしたが、マイクの調子が悪く……、100名近い学生さんを相手に、「生」声で、話をすると結構疲れるものです。

体力をつけなければ!……と授業開始前に新しくできた学食でランチを少々。
若鶏の唐揚げ定食(日替わり)を頂戴しました。
育ち盛りの若い学生さんたちにはベストなメニューでしょう。
長谷川平蔵も完食した次第です。

疲れたとはいえ、そのまま帰って帰宅することも出来ず市井の仕事へ直行し、それでも仕事が済んでから重くアルコール消毒したのが効いたのでしょうか……。

熱はちと下がったのですが、薬の所為でまだまだぼぉぉ~っとしておりますが、月末締めの論文の方も、一端完成した時点で内容を読み直してみると……

「なっていない!」

……ということで、もういちど組み立て直しております。

タスクを支配するのではなく、タスクに追いかけられるように仕事をしておりますが、なんとかその位置関係を逆転させたいものですが……、そのためには、『100万回生きたねこ』のように……

「あるとき、うじいえさんきょは だれの さんきょでも ありませんでした」

……というフレーズにならないと駄目なのかも知れません。

……ということで作業に戻ります。

ちなみに昨日は休日出勤でしたが、ありがたいことに創立者から「お菓子」の激励が教員にありました。

ありがたいことです。

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地球は美味かった

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The values of this Western civilization under the leadership of America have been destoryed.Those awesome symbolic towers that speak of liberty,human rights, and humanity have been destoryed They have gone up in smoke.
     OSAMA BIN LADIN
    --IAN BURUMA,AVISHAI MARGALIT,OCCIDENTALISM The west in the eyes of its enemies,Penguin Books,2005.

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本来は、9・11ですので、同時多発テロに関して何かまとめておかないといけないと思い、イアン・ブルマ(Ian Buruma)と、アヴィシャイ・マーガリット(Avishai Margalit)の共著『オクシデンタリズム……敵の目からみた西洋像』をひもといておりました。

ただ飲み会があり、なかなか論じることが出来ず恐縮です。
しかし、待ち合わせのときもやはり「9・11」の衝撃を少し語り合いつつ、記憶に留めることができたのは幸いかもしれません。

忘却とは暴力かもしれませんから……。

……ということで、昨日は吉祥寺にて、怪飲させていただきました。

皆様ありがとうございました。

かなり飲みましたが、おいしく頂戴した次第です。

詳細のレポートは後日アップします。

……ということで?仕事へ行ってきます。

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Occidentalism: The West in the Eyes of Its Enemies Book Occidentalism: The West in the Eyes of Its Enemies

著者:Ian Buruma,Avishai Margalit
販売元:Penguin (Non-Classics)
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露の身を草のまくらにたきながら風にしよもとも憑(たの)むはかなさ

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 予熟々(われつらつら)世の状態(ありさま)を視るに人生僅かに五十年七十ハ古来稀なり其の生る〻や霜露のおけるにひとしく其死ぬるや宛(さ)ながら幻しに異ならず昔し後醍醐帝屢々世の浮沈に遭ひ具(つ)ぶさに艱難を嘗(な)めたまひて終(つい)におもき疾病(いたつき)にか〻りて頓て消えゆかんとする生命を果敢みて
  露の身を草のまくらにたきながら風にしよもとも憑(たの)むはかなさ
と口占(くちずさ)みたまへるも実(げ)に然ることにてあらゆる書籍を探りなば斯る言(ことば)は殆ど数ふるに堪ふべからず然るを世の人おほくは日々の営業(ことわざ)に眼をうつし浮き逸楽(たのしみ)に魂を飛し朝より夕にいたるまで飲食の郷に彷徨ひ行きて少しも此の辺に心を用ふることを知らず是れいとも危うきことならずや古へより心厳(おごそ)かにして能く物の奧を究めんとしたる人ハ常に思ひを此に凝らし深くその理を推し尋ねたり中にハ愛(め)でうつくしむ妻子をふり棄て〻深山(みやま)のおくに道を求めたるものもありき蓋し世界は如何なる境遇(ところ)にして何等の目的あるにやわれ人のこ〻に現れ出でたるハ何所(いづこ)よりなるやまた何所を向(さ)して去るものなるや或ひは世の中は何に喩へん朝ぼらけ漕ぎ出し舟の跡なきがごとしと観念するもあり或はいずれかの宗教(おしへ)を修めその道に依りて此の大事を思ひ諦めんとするものあり左(さ)てこそ國々に種々(くさぐさ)の宗教となんいへるもの〻出で来れるなれ現今(いま)の世の習俗(くせ)として動(やゝ)もすれば妄りに宗教の道を蔑如(ないがしろ)にし只名利の途に迷ひておのが住む世界のありさまを思はず只管(ひたすら)に邪欲の海に漂ひその身薄氷の上に立つなるをも覚らず夢の世を夢のうちに住み暮らすもの十が七八に居るなるべしせめては此の世を覚(さ)めてこそわたらま欲しきものなるに尚ほ覚めずして夢路をたどるハ是非なくもまた哀れなりこ〻ろみに思へ吾人が額に汗して為すところのことは結局何等の益かある粒々辛苦の生涯も果ては如何なる功をか奏すべき若し宗教の真理を知らずもあらば蓋(ことごと)く空を捉(つか)み影を捕ふるに同じからん或る切にいはく設令(たとひ)わが身の生命あらん限りハ望を遂ぐるに由なきにせよ子孫のためい謀を為すまた善からずやと是れ深く思はざるのみ何んとなれバわが労苦(ほねおり)を受け嗣ぐべき子孫も悉くわれに等しき人類なれば失望の期限を延すのみにて其実少しも異なるところかなるべし斯く如くならば人生の労苦は僉(みな)煙りのごとくに消え行んとするにあらずや果して然らば此の生命は生きて甲斐なき生命たらざるを得ず仁といひ義といひ或ひハ道理と呼ぶも空しき名に過ぎず之を喋々(てうてう)するも何の益するところあらんやと斯く思ひ来れるやからも少なからずといへども更に之を考ふるに仁義決して虚名にあらず此れにか堅固にして動かず変ぜざるものあるべし良し世のなかをば虚しき影のみといはゞいへ影は必らずしもその形に添ふものなれバ何れにかその本原(もと)なる実態のあるべきこと疑ひなし世の人みな知らず……
    --植村正久『福音道志流部』米国聖教書類会社、明治十八年。

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月末締めの原稿と悪戦苦闘している宇治家参去です。
例の如くはやくやっておけば良かったのですが、例の如く二度あることは三度ある……というわけですが、まだ半月以上あるのでナントカナルと思っていたのですが、予想以上に大変のようでした。

和文に関しては、基本的には明治末から大正時代の文献を読むことが多いのですが、その時代の日本語ですと、難なくすらすらといくわけですが、明治初頭の文献はやはり読みにくく時間がかかってしまいます。

上の文章はちょうど、日本において福音主義的プロテスタンティズムを確立した植村正久(1853-1925)が若い頃に著した宗教論の一節からですが、まだまだ江戸の香りのする文章でして、読み応えはあるのですが、なかなか大変です。

ただしかし、日本において異国の宗教であるキリスト教を熱意をもって伝道しようとした初期教会のひとびとの熱意がありありと感じられるとともに、その労苦や誤解や偏見とのすさまじい戦いの軌跡には、実に驚くと同時に一種の敬意をもちあわせてしまうものです。

明治維新・文明開化をへた当時の明治初期の精神世界においては、今では考えにくいことかも知れませんが、あらゆる宗教とか精神性といったものが、文明開化という美名のもとに抛擲された時代なのですが、そこでキリスト教を説くということは、キリスト教を説く以前に、宗教の必要性を論じなければならない……という前段階の議論からスタートするを得ず、植村の格調高い文章に、刮目される次第です。

ただしかし、同時に何度読んでも頭に入ってこず、……ただしかし、理由は文体や内容の難解さにあったようではありませんでした。

……どうやら風邪をひいちまったようです。

熱は昨日で終わった……といいますか、当初は疲れでほてっているだけか?と思っていたのですが、本日は下がりましたが、喉が完全にやられているようで……。

さふいえば、昨夜寝る前に飲んだビールと日本酒もとんでもなくマズく感じたのですが、たぶん、それは風邪のなせる業だったのかもしれません。

季節の変わり目ですので皆様をご自愛専一心よりお祈り申し上げます。

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なにやってんだか……

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 「これがどん底だ」などと言っていられる間は、どん底にはなっていないのだ。
    --シェークスピア(野島秀勝訳)『リア王』岩波文庫、2000年。

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ときどき、どうしようもない虚無感に襲われることがあります。
なんといいますか……「オレ何やっているんだろうか?」って。

安い給料ですが……同世代の半分?……タツキとしての仕事も真面目に取り組んでおります。

本業?のほうも「倫理的な性格を強く」もって、授業を行い、レポートをみたり、論文を書いたりしております。

この業界でいうと遅筆のほうでしょうが……それでもここ5年は毎年1本と決めて積み重ねており、紆余曲折しながら博士論文もまとめつつ……

ある意味では、「きちんとやっている」とはいえなくはないのですが、

……なかなか“開く”ことができず・・・、

どうしようもない至上・市場経済の最前線で、責任(役職)がありますので、ぶっとおしで食品レジなど何時間もうっていると……、

「オレ何やっているんだろうか?」

「そろそろ潮時じゃアねえの?」

「学位だけ取れば、学問商売なんか辞めてしまい、民間で会社勤めやったりとか、田舎に帰って引き籠もって晴耕雨読でもすれば……?」

……などと、どうしようもない虚無感に囚われてしまいます。

ちょうどここ数日アリエナイほどの時間、……レジ担当者の当日欠勤とかそのへんで、をい、お前らっ!……、食品レジをうち続ける中で、精神がひさしぶりに疲弊してしまいました。

しかし、まさにどうしようもない話です。

働かなければ食べても行けず……。
それなら博士課程のときにしっかりやっておけばよかったというのも後の祭りで、学生時代に結婚もしておりますので、当然父親とか主人としての役割も放棄できず、それも、あんまり丁寧にはやっておりませんが、それでも最低限のことはやっており、付加価値もついてきますので、時間が飛んでいく……。

まさにどうしようもない話です。

それでも年頭からこれだけは毎日やる!と決めて、本業、そして本業の仕込となる語学の手入れとか、そこからふくらませていく周縁分野との知的交流は欠かさずやってきましたが、なかなか、

「これ!」

……っていうかたちにならず、それと相反するような現実生活にて、

「はあ、なにやっているんだか」

……っていう毎日です。

日曜は市井の職場でもアリエナイ、アリエナイ!と心のなかで叫びつつ、リアルコンクリート外壁にパンチをぶっこんでから、手が痛いのでがっつり飲んでしまいました。
ですからので、月曜は比較的ゆっくりと起きました……といいますか、起きざるを得ませんでした。

昼過ぎに起きると、細君から、

「偏頭痛で動けないので、息子殿を幼稚園まで迎えに行ってくれ」

……というわけでゲフゲフしながら、エッチラオッチラ迎えに行ってから帰宅すると、

「先生から手紙がきているよ」

……っていうので、汗を拭いつつ

郵便物に目をやると、

学問の師匠・鈴木先生からの執筆物とお手紙でした。

おそるおそる開封すると……、

博士論文で扱っている吉野作造(1878-1933)のキリスト教信仰にかかわるエッセーでした。

先日、そうした小文をまとめているよ……っていう話は伺っておりましたので、その完成稿を頂戴したのですが、これは狭い分野になりますが、学問商売という本業においては、その内容はまさに悩んでいたところ……人生論的悩みではありませんが……に対するひとつの明確な光明のような、示唆のような、……要するに援護射撃のような内容にて……、

「せんせい、ありがとうございます!!」

……と、落涙しつつ、ご自宅を遙拝したものです。

……って、市井の仕事へ出かけて、今日もハンパ無いレ地獄=レジ地獄でしたが、なんとか時間をこじ開け、先生宅へ御礼の電話をかけました。

論文の、前回手直しからの進捗具合とか近況のご報告とか相談とかしつつ、

「けっこうきついです」

……ってぽろっと吐露したわけですが、

「今がね、ふんばりどころなんだよ、一歩でも一歩でもすすんでいくしかないんだよ」

……って激励されてしまいました。

ほんとうに、ありがとうございました。

その一言で、なんだか、ひとつ、「なにやっているんだろうか」ってわだかまりがとれたようで、もう一度、戦っていくことができそうです。

人間は人間によってしか磨かれない……このことだけは確実です。

「きちんとやっている」ならそれが形になるまでは「やっていく」しかないのでしょう。

これから一ぺえ飲んで起きてからまたがんばります。

どうでもいい話でした。

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ありふれたものをわたしは歌う

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 ありふれたもの
 ありふれたものをわたしは歌う
 健康であるに金はかからぬ、気高くあるにも金はかからぬ、
 節制をこそ、虚偽や、大食、淫欲はお断わりだ、
 晴れやかな大気をわたしは歌う、自由を、寛容を、
 (ここからもっとも主要な教訓を学びとれ--学校からでも--本からでもなく)、
 ありふれた昼と夜とを--ありふれた土と水とを、
 君の農場、君の仕事、商売、職業、
 そして万物を支える堅牢な地面さながら、それらのものを支えている民主的な知恵を。
    --ホイットマン(鍋島能弘・酒本雅之訳)『草の葉(下)』岩波文庫、1971年。

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人間が何かを学ぶためのフィールドとかスクールとかはいったいどこにあるのでしょうか。拙学で恐縮ですが「倫理学」においては、その対象が「あらゆる“関係性”」に対するという省察になりますので、その学ぶべき現場は、もっとも身近な生活ということになります。何故なら、生活とは「生命の活動」の舞台に他ならず、その現場を顧みるに値しないやって抛擲してしまいますと、そのひとは自らの生命から遠ざかっていくことになってしまいます。

しかしその「生命の活動」の舞台としての「生活」のなかにこそ、探究すべき、ものとの“関係”、ひととの“関係”、そしてひとがもっとも大切にしなければならないじぶんじしんとの“関係”があるはずなんです。

ですけど、日常生活世界とは、もうひとつの側面からみるならば、連日のことですから、まあ、顧みるに値しないやって断じてしまいそうですが、そう、早計することほどもったいないことはないのかもしれません。

近代日本において、はじめての『倫理学』に関する体系的な著作を著したのは和辻哲郎(1889-1960)です。

和辻は自分自身が実に幸福だったと記憶する農村共同体における人間関係のあり方に注目する中で……もちろんその功罪はあるのですがひとまず措きます……、人間存在のあり方としての「間柄」に軸を置く独自な倫理学的体系を導き出したことは、そうしたひとつの成果なのかもしれません。

和辻哲郎のような歴史に残るような発見とか発明は、自分自身にはできないかもしれませんが、身近な生活に注目することによって、それがすでに発見・発明されたものであったとしても、そしてそれが往々そういう事態であるわけなのですが、それにもかかわらず、注目することで、何か「新しい」ものを見出してゆきたいもので御座います。

唐突ですが、宇治家参去は、昆虫の専門家ではありません。
先週から息子殿の幼稚園がはじまりました。
かえってくると、幼稚園から「鈴虫」をもらってきました。

彼らは夜中、啼きまくっております。
これは風流だなあ……と隣の部屋で聞いている分にはそう思います。
しかし、寝る前に、息子殿が枕元に彼らの飼育ケースをもっていきます。
寝ようとすると、当然「鈴虫」さんご一行が大合唱を始めるわけで……寝不足です。

今日もレジを打ちながら、落ちそうになりました……。

で……それからちょいと彼らの様子を気にするようにしました。
昼間も活動?しております。ちょこちょこと動き、餌を食べております。

しかし不思議なもので、啼きません。

しかし15-16時を過ぎると、鳴き始めてしまうんです。

ちょいとその生態について調べたくなってしまいました。

……ということで?
自称ホイットマン(Walter Whitman,1819-1892)“愛好家”を任ずる宇治家参去です。くどいようですが自称ホイットマンではありません。ここが大事です。

しかしホイットマンが『草の葉』で注目しているのもまさに此処だなって思った次第で、7月から再読しておりますが、ようやく3分冊の下に到着し、感動をもって読んでおります。

よくいわれます。

「詩のどこがおもしろいの?」

「いやはや、面白いから面白い」

……としかいえない語彙の貧弱に忸怩たるわけですが、この「詩」というやつもよんでみなければわかりません。

しかし不思議なことに、忙しいなかで読むからこそ、活字が書物から浮かび上がってくるというものです。

是非、苦手とか遠慮しがちであった方には、忙しい・読む暇がないからこそ手にとってほしいと思わざるを得ません。

そこに注目することで実は思わぬ発見なんかがあるのだろうと思います。

……ということで?
読んでいる中でも一ツ面白いのを見つけましたので紹介しておきましょう。

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 ある弟子に
 改革が必要なのか、改革をするのは君か、
 改革が必要であればあるだけ、それを成就するための「人格」が必要になる。
 君、目や血液や顔色を、清らかに美しくすることがどんなに役に立つか君には分らないか、
 君が群集の中にはいっていくとき、願望と指導力のかもし出す雰囲気も同時にはいりこんでいき、群衆のひとりびとりが君の「人格」に感銘をうけるように、清らかで美しいからだと魂を持つことが、どんなに役に立つか君には分らないか。

 おお、この磁力よ、肉体のすみずみまでみなぎる力よ、
 行きたまえ、いとしい友よ、必要ならばすべてを捨てて、きょうすぐに始めたまえ、勇気、実在、自尊、明確、高貴を目ざして君自身を鍛えることを、
 君自身の「人格」を高めるまでは休んではならぬ。
    --ホイットマン(鍋島能弘・酒本雅之訳)『草の葉(下)』岩波文庫、1971年。

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Ob's stürmt oder schneit,Ob die Sonne uns lacht,Der Tag glühend heiß Oder eiskalt die Nacht

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Panzerlied
1933
Kurt Wiehle Adolf Hoffmann

1.
Ob's stürmt oder schneit,
Ob die Sonne uns lacht,
Der Tag glühend heiß
Oder eiskalt die Nacht.
Bestaubt sind die Gesichter,
Doch froh ist unser Sinn,
Ist unser Sinn;
Es braust unser Panzer
Im Sturmwind dahin.

2.
Mit donnernden Motoren,
Geschwind wie der Blitz,
Dem Feinde entgegen,
Im Panzer geschützt.
Voraus den Kameraden,
Im Kampf steh'n wir allein,
Steh'n wir allein,
So stoßen wir tief
In die feindlichen Reihn.

3.
Wenn vor uns ein feindliches
Heer dann erscheint,
Wird Vollgas gegeben
Und ran an den Feind!
Was gilt denn unser Leben
Für unsres Reiches Heer?
Ja Reiches Heer?
Für Deutschland zu sterben
Ist uns höchste Ehr.

4.
Mit Sperren und Minen
Hält der Gegner uns auf,
Wir lachen darüber
Und fahren nicht drauf.
Und droh'n vor uns Geschütze,
Versteckt im gelben Sand,
Im gelben Sand,
Wir suchen uns Wege,
Die keiner sonst fand.

5.
Und läßt uns im Stich
Einst das treulose Glück,
Und kehren wir nicht mehr
Zur Heimat zurück,
Trifft uns die Todeskugel,
Ruft uns das Schicksal ab,
Ja Schicksal ab,
Dann wird uns der Panzer
Ein ehernes Grab.

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http://www.youtube.com/watch?v=jEIm3pe5wbA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=lSLHasN9UXQ&feature=related

あんまりつっこまないでください。
しかし、ナチス党員でもありませんし、シンパでもありませんし、現実的にはポストコロニアル批評の思想家を自認する宇治家参去です。

しかし不思議なもので、しかも何度も言及した話題ですが、男という生き物は、軍歌だとか兵器(基本的には通常兵器)だとか、その周辺部分の「文化」に対してシンパシーを感じる存在です。

軍歌などを聴きますと、魂が鼓舞されてしまうので、わが性に辟易としてしまいます。

ですから、その手の文化に接していると、「倫理学者として平和を論じながら、何やっとんぢゃい、ボケ」って細君にどやされている宇治家参去です。しかも、それを息子殿が告げ口するという負のスパイラルでして……

「おまえは、KGBの手先か!」

……っていうと、

「お母さんのてさき」

……って返される始末でして、手先よりは手羽先が食べたいと切に願う晩夏です。

さて、フェミニズムの先駆者と評され、フランス革命に密接に関わり、ロマン主義の台頭を準備したスタール夫人(Madame de Staël,本名:Anne Louise Germaine de Staël,1766-1817)は「政治とは女性と子供のため」に存在すると語ったとされますが、そうした周辺文化に悩まされずに、本当に生命とは何か、そして何が生命のためなのか、原初からそこに焦点を置いている存在は女性とか子供なのかもしれません。獣のような命になにか美学を感じる男性との差異がそこにあるのかもしれないなアなどと思わざるを得ませんが、それを実行力をもって行使してくださる細君及び息子殿には感謝です。

さて……。
金曜に痛飲してしまい、土曜は仕事もあるので、でかけるのはよしちゃおうか……と思っていたのですが、朝から細君及び息子殿からいぶられ、ちょいと東京北東部を放浪してきました。

まずは例の如く日暮里・舎人ライナーにて大川周辺を探訪です。

ちょうど10日あまり前にも訪れた地域ですが、そのときも1時間ちかく道に迷い悩んだものです。

しかし実に暑かった次第です。

要件をすませ、西日暮里まで戻ると昼食タイムでしたが、今回は済んでからそのまま仕事がありますので、鮨屋でいっぺえというわけにもいかず、息子殿御用達?のマックにて昼食で、ちょいとやさぐれてしまいました。

せいろかざるで粋にやるのが本道ですが、マア、息子殿が喜んでいたのでよろしいとしましょう。

一息入れてから、京浜東北線にて懐かしい?赤羽へ移動。
塔を遠望しつつ、所用を済ませると14時でして……。
といことは任務完了!ってことで……

いっぺえ!

……とやりたいところですが、仕事もあるので、ぐっと我慢して、“ノンアルコール・ビールテイスト飲料”「KIRIN FREE」にて任務完了?の祝砲ですっ!

なんどもやっておりますが、やっぱりビールとはちがうんだよなア~

ビールで〆をやったと思うことで仕事へ行ってきました。

同道した細君および息子殿、お疲れ様でしたっ!!

で……。
冒頭にもどります。

冒頭の引用は1933年に造られたドイツ軍の行進歌「パンツァー・リート(Panzerlied)」でございます。第三帝国時代に作られた歌なのですが、戦後はドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)陸軍でも謳われた歌曲でひろくドイツで親しまれている行進歌なのですが、これが魂を鼓舞するという奴です。

宇治家参去がドイツ語で歌える数少ない歌……ほとんどが軍歌ですが……のひとつですが、これが実に魂を鼓舞してくれます。

ホンマ、朝はやめようかと思いましたが、頭と心の中でこの歌声を口ずさみつつ、自分自身に対して悔いのない一日がおくれたのではないだろうか……そう思わざるを得ません。

しかしいい歌詞です。

ちょいと一番だけ私訳しますが……

嵐の日も雪の日も、
太陽が我らを照らす日も、
炎熱の真昼も
極寒の夜半も
顔がちりに塗れようと、
我らが心は快活ぞ。
我らが心は快活ぞ。
戦車は憤然と
暴風の中へと驀進す。

……ということで、今から本物のビールを頂いて沈没します。

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お前の叫びは、さながら疾風の如く鋭く、梢が高ければ高いほど激しく撃つがよい

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……身に覚えのあるものや、身内に覚えがあり、良心に曇りがある連中は、お前の言葉を必ずや露骨、唐突と感じるだろう。だが、たとえそうなろうとも、お前は一切のうそ偽りを排し、お前の目に映った一切の姿を明るみに出すがよい。お前の言葉は、当初は耳障りが悪いかもしれぬ。しかし、いったん飲み込まれ咀嚼されたときには、命の糧を体内に残すほどだ。お前の叫びは、さながら疾風の如く鋭く、梢が高ければ高いほど激しく撃つがよい。それがどうして論ずるにも足らぬ誉れだろうか。
    --ダンテ(平川祐弘訳)『神曲』河出書房新社、1992年。

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ふうぅぅ。
ようやく本日、金曜日に休みが取れそうです。
ちょうど大学のスクーリングが4日間、終わった翌日が市井の仕事、その翌日が「休み」……の予定だったのですが、朝っぱらから店長から電話あり、

「すまないんだけど、今日出てくんない?」

「マジッスか?」

……ということで?出勤してしまい、ようやく休めそうです。
スクーリング最終日は、午前のみでしたので早々に帰宅し、休んだといえば休んだのですが、体の芯から込み上げてくる悲鳴のようなものはわかちがたく、年を感じる次第です。
ちょど一昨日、市井の職場で事故があり、その対応を担当主管へ連動して遅く切り上げたのですが、本日出勤すると、円満解決へむかっていたようでしたのでひとつ肩の荷がおりました。

ゆっくりやすむぞ!と思っていたのですが、とわいえ……という状況です。

金曜日は、細君が知り合いと王子のほうへ出かける用事があるとのことで、幼稚園が始まった息子殿の世話とか、夕方までに提出しないと行けない書類との最後の格闘がありますので、実質休みなし哉?……と嘆く宇治家参去です。

ともあれ……、自宅での仕事と息子殿の世話で日中は追いやられそうですが、仕事へ「行く」という必要がない分、気分的には楽なものですので、手をいれるべき課題の方もこれからちょゐと飲みながら、素案だけ練り上げ、起きてから仕上げてしまおうかと思っております。

さて……
ちょうど、仕事の休憩中……その貴重な休憩中か電車に乗っているときぐらいにしか学問の仕事と直接関係のない、いわば自由な読書ができないのですが、本日は、ダンテ(Dante Alighieri,1265-1321)の長編叙事詩『神曲』(Divina Comoedia)を繙いていたのですが、「此処ダナッ!」ってところに突き当たりましたので、ひとつ紹介した次第です。
民衆の紡ぎ出す、ひとつひとつの言葉ほど重く、大石を穿つたゆまぬ水滴のような残響をのこすものはありません。

自分自身の語り出す言葉のひとつひとつが、かくありたい、そう思う宇治家参去でした!

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理想が製造されるこの工場は--真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます

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  --地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その有機をもっている者が誰かあろうか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険者君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえ--今度は私が聴き役だ。--

 --「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞こえてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱きを嘘でごまかして手柄に変えようというのです--確かにそうに違いありません--全くあなたのおっしゃったとおりです。」
 --それから!
 --「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、憶病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、--奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている憶病さそのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐することができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕をさえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなり--かれらの為すところを知るのはただわれわれのみ!』)。その上、『敵への愛』を説き--そしてそれらを説きながら汗だくになっています。」
 --それから!
    --ニーチェ(木場深定訳)『道徳の系譜』岩波文庫、1964年。

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今朝は早く起きることが珍しくできましたので、朝からスクーリング試験の採点をそうそうに済ませ、昼からレポートを添削しているともうこの時間となり、こ1時間もすれば、地獄の釜がぐつぐつと煮たって眼鏡が曇ってしまう市井の職場の再開です。

ちなみに昨夜はタイのシンハビール(Boon Rawd Brewery Co., Ltd.)をやりましたが、さっぱりしていて暑い夏はぴったりです。もう1本かっておくべきでした……。

さて……
今回、学生さんの経験そのものを学の立場から言説化させるという作業をやったり、筆記してもらいましたので、それを聞いたり、読んだりするなかで、くどい話ですが、自分自身もまた頑張ろうと思ったわけですが、理想や理念といったものは、決して人間世界に存在しないものでもなく、泥沼の奥地に埋没してしまったものでもなく、同時に、世界へ還ってこない遠い遠い星空の中の世界にだけあるものでもないんだよな……そのへんを深く確認できたように思います。

基本的に、人間は理想とか理念的なるものが、いきている現在からちょいと離れているお陰で、「現実」を照射させることが可能になります。

そのことによって、たゆみのない歩みがはじまるわけですが、どこまでいってもその理想とか理念的なるもが、プラトニックに“届かない”叡智界にだけ存在するものでしかなかったとすればそれはそれで現実に対する機能としてはあまり意味のないものになってしまうのかもしれません。

思想史を振り返ると、プラトン主義的な二元論のアプローチが基本的には興隆をきわめ、その通底を流れていたフシがあります。

その反省からなのでしょうか。
現代においては、どちらかといえば、「理想とか理念的なものなんてないのサ」と嘯く風潮が顕著で、もちろん、プラトン主義的なアプローチに問題があったとしても、理想とか理念的なるものは、人間にはまったく必要ないのかといえばそうでもないのでしょう。

反省の契機を欠いた人間はまさに、スペインの思想家・オルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)が指摘する「慢心しきったお坊ちゃん」であり、積み重ねてきた人間の「矜持」というものを自ら脱ぎ去る行為でしかないのかもしれません。

いずれにしても、現実的なるものと理想・理念的なるものは相即的な有機的な関係であり、そのダイナミズムのなかにこそ現実を変革し、一歩歩みを不断にすすみゆくヒントが内在されているのではないだろうか……そのように思われて他なりません。

日中は家にいたので、ときどきニュースをみたり、ネットでの配信記事を時折ながめながら、世界を観じていると、そこから垂れ流されてくる理想とか理念的なるものが、どうしても山師的なそれであると同時に、現実不可能なマヤカシのザレゴトにしか聞こえず、いったい真面目に仕事をしているのはだれなのだろうか……ふと足を抱え込む次第です。

とわいえ、足を抱え込んでもはじまりません。
自分自身の仕事や生活のなかで、人と向かいあい、言葉をかわすなかで、しかもそれがあとになって気が付くような……地殻変動を無名戦士として起こしていきたいものです。

スローガンが前に立ち、職業革命家やデマゴギーに煽動された急進主義的アプローチは結局の所、まったく人間のためという結果を生んだことがありません。

「シカタガナイ」と諦めることなく、できるところから手をつけてゆく日々でありたいものです。

何しろ「工場」で製造された「理想」ほど「理想」と遠くかけはなれたものはありませんから。

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最終講義とは、未来へ“開く”こと

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すべてがおわり帰宅しました。

全力投球できました。

4日間、真剣に『倫理学』を講じてくることが出来ました。
最後のひとこまのしめくくりは感動的でした。
受講された学生の皆様のおかげです。

そして哲学でもなく、神学でもなく宗教学でもなく、倫理学についてお話ができたことに感謝で一杯です。本来こうした大文字の学問は熟練の大家がやるべきで、シャイでナイーヴなチキンボーイがやるべき科目ではありません。

ただしかし最終日まで振り返ってみると全力投球できたことは否定できませんし、ほかの学問・科目に対して失礼ではありますが、倫理学をやっていて、そして授業でかかわることできたことはよかったと、幸福であると思わざるを得ません。

こちらのほうが涙が込み上げてきた次第です。

夢の舞台がおわった感慨です。

夢の教室から現実の教室への扉が開かれました!

雄々しく自分らしく健闘して参りましょう、時には休息をいれつつ!!!

……ということで、今週は睡眠時間がほとんどなく、本日もマイクを握りながら手がつってしまうという状況でしたので、今日だけは休ませてくださいまし。

明日からがんばります。

とりいそぎ終了報告まで。

ほんとうにありがとうございました。

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Vodka Martini. Shaken, not stirred

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 形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるはいうまでもないが、幾千年来我らの祖先を孕み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んでいるのではなかろうか。我々は心の此の如きものを求めてやまない。私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思うのである。
    西田幾多郎「働くものから見るものへ」、上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I 場所・私と汝 他六篇』岩波文庫、1987年。

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無事、夏期スクーリング3日目を終えた宇治家参去です。

まだ終わっておりませんが昨年と較べるとハードです。
昨年は三度飲みに逝きました……。
うち記憶という人間の一機関を喪失したのは全くありませんでした。

ことしもすでに三度飲みに逝きました……。
ことしはすべての記憶という人間の一機関を全て喪失したようです。

こうした場合、反省という内省としての正座の時間がながくなるので……それはそれで大事なのかも知れません。

そして、参加してくださる方が“喜んで”下さるのであれば、宇治家参去自身の味ということなのでしょうか……ご寛恕頂きたいところですが、いくらご同道頂いた方に“喜んで”頂いたとしても、どうして反省という内省として正座の時間がながくなってしまいます。

それとおなじことが一回一回の授業をしても、おなじように「これでよかったのか?」「あれはどうだったのだろうか?」……生来がナイーヴでシャイなチキン野郎ですのでいつも反省することばかりです。

夏期スクーリングは4日ほどかけて行われるわけで、それを組み立てる……いわば、哲学者・西田幾多郎(1870-1945)が言うが如く「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」仕込の作業に関しては毎度毎度更新をして「更に善いものを!」と取り組んでおりますが、やはり実際に授業として展開してしまうと、「これでよかったのか?」「あれはどうだったのだろうか?」などと反省することばかりで、連日忸怩たる宇治家参去です。

ともあれ、倫理学そのものが不可避的に「形なきもの」であり「声なきもの」であり、学問としてはそれに「形を与え」そして「声を聞く」学問ですから、どうしてもその違和感が当事者としても残るものですが、こうしたズレが必然的に伴送するものですから、逆に言えば、「これでOK!」っとして「開き直る」「居直る」ことができない学問というわけで、必然的にナイーヴにならざるをえないのですが、考え方を変えてみれば毎度毎度反省の契機を与えてくれるというのは、ありがたい学問なのかもしれません。

さて……。
周知の通り、夏のスクーリングは、全国から学生さんたちが集うわけで、ここでも不可避的にかつて自分と一緒に学んだ学生さんたちと遭遇します。

今回も数十人の受講生さんと出会いました。

お昼は昨年受講された愛知県のTさんと一緒にさせて頂き、「秋期スクーリング予約します!」とバンコックのI氏とも御一緒に頂き、感涙の至りです。

ほんとうにちんけな?授業なのに

「ファン?です」
「もう一度受けたいです」
「先生に会いたかったんです」

……そういう言葉が多く、

「おおっ!」

……って思いました。
独り言ですが、……皆さんスルーして下さい!……これがいわゆる“手前味噌”の境地です!……で、自分自身はわるい従業をしているのではなく、授業をがおわったあとに“砂金”を残せる教師だったんだ!などとちと……正直いえば、……嬉しかった次第です。

が!!!!!
……いずれにしましてもここに安住してはならないのでしょう。
皆様ありがとうございました。

そしてライヴ?で今回受講されている皆様方!
明日の一コマで授業はおわりますが、最後まで頑張りますので、どうぞ宜しくお願いします。

……ということで?
授業終了後、夕刻より宇治家参去倫理学1期生……すなわち2年弱前に始めて通信教育部で教鞭をとった最初の授業の受講者さん……から、まえまえまら「飲みにいきましょう!」……って誘われておりましたので、チト軽く!逝ってきました。

本学『倫理学』は2年次以上の履修可能科目になるわけですので、ちょうど彼が2年生の初夏にはじめて地方の教室で出会い、熱い二日間を過ごさせて頂いた訳ですが、昨年は都合上一度も呑むことが出来ず、その弔い合戦?とばかり、本日は闘わせて頂いた次第です。

今回は、本格派の英国パブにて乾杯してきました!
彼は飲めないのですが、こちらがハンパ無く良い酒を呑むことを誰よりも?知っておりますので、「先生の喜びそうなお店を予約してきました!」

……ということで
3時間余りの濃密な夜の倫理学の授業ができた!次第です。

ありがたいものです。

大変な状況の中、4年間の必死の奮闘で、来る3月に卒業が見えた!とのこと。
教職も取得し、来年度の採用試験に挑戦するとのことで、あつく握手を交わした次第です。

人間、あきらめなければなんとなかなる……そのことだけは本当かもしれません。
しかしあきらめないということは、「努力」が必要です。
しかし、努力をするということは、文豪・ゲーテ(1749-1832)が「人間は努力する限り迷うもの」と語っているとおり、かならず「迷い」「悩み」が出てくるものです。

しかしそれにまけずに挑戦するなかで、自分自身の使命が見えてくるのかも知れません。

かえってこちらがはげまされたようで……。

ちなみに、本格英国ビールを2L弱、ウィスキー・ロック・ダブルを3倍、カクテル1杯……ですが、ウィスキー関係は不思議なことに全く酔いません。

カクテルはいうまでもなくマティーニですが、

ここはいっちょ、敬愛する007のジェームズ・ボンドばりに

「Vodka Martini. Shaken, not stirred.」

……と注文させて頂いた次第です。

久し振りにやりましたが、旨かった!

ともあれ、現状に甘んじることなくたえずレコンキスタしていく精神で、さらなる学問道を追求していかなければならぬ!そのことを自覚したひとときでした。

明日は最後の一コマです!
みんな“泣かせてやる?”……の勢いで最高の授業を組み立てて参る所存です。

……ということで、あれだけ飲んだのですがまったく酔っておりませんので、これから日本酒をちょいとやって寝ますワ。

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「媚態」と「意気地」と「諦め」

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……「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうした第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。
    --九鬼周造『「いき」の構造 他二篇』岩波文庫、1979年。

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いきな人間になりたいのですが、なかなかなれないようで「意気地のなさ」と「諦め」の境地においては追随を許さない!と自負している宇治家参去です。

木曜日から担当する「倫理学」のスクーリングが無事始まりました。
初日は午前授業のみでしたが、夕刻?から憂国の志士と飲んでしまい、帰宅するとどうやら1時過ぎのようで、ほとんど寝ることが出来ず、本日はほとんどげふげふでしたが……、手前味噌で恐縮ですが、まあ、良い授業ができたのでは?

……と思うある日の宇治家参去です。

ナイーヴな繊細な?授業ですが、倫理「学」を丁寧にお話しながら、学生さんたちとやりとりをかわしながら、お互いに学びの夏という状況です。

あと二日間ありますので、受講されている方はどうぞよろしくおねがいします。

ちなみ昨年は冷夏で過ごしやすかったのですが、本年は炎夏のようにて、スライムのように溶け出してしまいそうです。

とりあえず?
初日は好例の?三揃えで講義してきましたが、いやはや暑かったです。
このスタイルを通していきたいですが、通していけるうちは、まだまだ「若い」のかもしれません?

……ということで、本日はヘロヘロなり!ですんので、はやめに沈没します。
おやすみなさい、お月様。

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Men who fight by night and day

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Fighting soldiers from the sky
Fearless men who jump and die
Men who mean just what they say
The brave men of the Green Beret

Silver wings upon their chest
These are men, America's best
One hundred men we'll test today
But only three win the Green Beret

Trained to live, off nature's land
Trained in combat, hand to hand
Men who fight by night and day
Courage deep from the Green Beret

Silver wings upon their chest
These are men, America's best
One hundred men we'll test today
But only three win the Green Beret

Delta Force and CIA
Marines and SOCOM clear the way
Covert missions now in play
Special OPS like the Green Beret

Silver wings upon their chest
These are men, America's best
One hundred men we'll test today
But only three win the Green Beret

While back at home a young wife waits
Her Green Beret has met his fate
He has died for those oppressed
Leaving her this last request

Put silver wings on my son's chest
Make him one of America's best
He'll be a man they'll test one day
So have him win the Green Beret
Have him win the Green Beret

Silver wings upon their chest
These are men, America's best
One hundred men we'll test today
But only three win the Green Beret

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http://www.youtube.com/watch?v=BnvG52osDm4&hl=ja

どうも!
平和を説く流しの素浪人?宇治家参去です。

平和であってほしいわけで、戦争をなんとかしたいのですが、DNAの問題なのでしょうか……軍歌の類を聴くと、「がんばろー」!ってことで、魂を鼓舞する宇治家参去です。

……ですから、へんな話ですが、形式主義的極左でも極右でもないんです。しかしメガホンから聞こえてくる、街宣車から聞こえてくる、そして、遊説から聞こえてくるそれは、そうした感情を無視したイデオロギーありきで、人間不在なところに辟易とはするわけですが、感情と向かい合いつつ、世界と向かいあいつつ、自己自身の立ち位置を確認しない限りは、そして未来を創造できないかぎりは、とおりいっぺんとうな外野の怒声にしかならないわけですよネ!

……ということはレコンキスタ=現状改革には一切通じない文言ありきで、そこになにかをうがってやろうと挑戦する宇治家参去です。

今日は“BALLAD OF THE GREEN BERETS”を口ずさみつつ……。

……ということで?一昨日、痛飲したのですが、昨日は細君とのアポイントがありました。

「扇大橋で会いましょう+?」

……なんじゃそりゃぁぁとは思ったのですが、その界隈に用事があるので

「まあ、ついてこいやア」

……ってことで朝から言ってきました。

旧知への訪問なのですが、道を間違えたり、なにをしたりと……、ネットの地図検索では駅から5分のはずが、1時間の放浪にて、すっかり絞られた次第です。

で……。

はじめて!「舎人ライナー」なるシロモノに乗って参りました!
旧知が足立区の方で西日暮里から同列車にのったわけですが、ある意味で大感動してしまい、二日酔いで?「もう今日は許して!」と嘆く幣職のしりをたたいてくださった細君に感謝です。

用は基本的に無人列車なんです。

モノレール形式(でいいのでしょうか?)で列車は無人運行で……

これぞ手塚治虫的未来都市だ!

……などと子供のように騒いだ次第です。

しかし、足立区を1時間放浪しましたが東京もマア広いものだよな!

……そのことは汗をかきつつ実感しました。

学生時代から都心部に十数年済んでいたのでそれが基本的なカテゴリーになっております。
そんで子供が生まれてから都下に引き、それがいまの現実認識になっているのですが、足立区への訪問は、学生時代以来のことであり……ちょうど大学時代の友人が事故で怪我してそのお見舞い……その時代とうってかわった現代の「舎人ライナー」に驚いた次第です。

当時……10年以上前……は「舎人ライナー」などなく、私鉄で向かって、駅から1時間ちかくかけて炎夏のなか、訪問先を目指して歩いたのが良い思い出ですが、今回はまさに「舎人ライナー」のお陰にて、比較的に直結的に訪問できました。

まあ、お宅を訪問するまで道に迷ったので、結局1時間以上、荒川沿いを経めぐり廻りましたが……。

で……。
かつて自前の思考ができる稀有の市井の哲学者・小阪修平(1947-2007)がなにかの雑誌エッセーで言っていたことを思い出した次第です。
※出典出せずすいません、趣意で。

要は未来像の変化をそこでは語っていたと思います。
つまり、1990年代以前の未来像は「バラ色」の「鉄腕アトム」が闊歩するようなバラ色の未来です。しかし現実には「ブレードランナー」に代表されるようなぐちゃぐちゃしところがそれで、みな清潔なバラ色の未来像を描けなくなってきた……それが実感でしょう。
そんなことを書いていた記憶があります。

まさに現実にはぐっちゃぐっゃなんですが、「舎人ライナー」にのるなかで、その陥穽を穿つひとつの光明を見た次第です。

バラ色の未来も必要ない。
ぐっちゃぐっちゃの未来も必要ない。

だけれども、きちんとやっていければ、そのひとなりの未来ができるのでは……?

「舎人ライナー」は運転手不在の列車で、そのバラ色を代表する「鉄腕アトム」的未来像です。

各停の駅には駅員不在の、まさに「機械的」未来像でありました。

……が、昨夜痛飲して所為なのですが、スイカを洗濯機と一緒にまわした所為で?、その駅でチャージしようとすると、券売機にいれるとのみこまれて帰ってこず、「使用中止」にて、インターホンで駅員さんに連絡したわけですが、無人駅ですが、10分程度で駅員さんが常駐駅よりかけつてきてくれ、難をしのいだわけですが、ある意味で人間とテクノロジーの幸福な邂逅を見させて頂きました。

……ということで、かな~り遅い昼さがり「舎人ライナー」を降りてから、JRに乗り換えるタイミングで、西日暮里駅周辺にて「ランチしましょうか!」

……ってことで、メディアの特集系で有名な回転寿司や「回転寿司 玄海寿司」を発見しましたもので、吸い込まれてしまった次第です。

http://genkai-sushi.jp/

3-4枚程度しか所望できませんでしたが、ダイレクトヒット!にて……ちょいと楽しませてくれました。

「玉子」ばかり食べる息子殿から「きょうは“すうぱあどらい”なんだ」と揶揄?されましたが美味でした。

二日酔いには炎天下を放浪するのが気力回復だとはおもったわけですが、やっぱり飲んでいるある日の宇治家参去でした!

つうことで? 数時間後の授業頑張ります!!

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自ら称す 臣は是れ酒中の仙

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 飲中八仙歌   杜甫

知章騎馬似乗船
眼花落井水底眠
汝陽三斗始朝天
道逢麹車口流涎
恨不移封向酒泉
左相日興費萬銭
飲如長鯨吸百川
銜杯楽聖称避賢
宗之瀟灑美少年
挙觴白眼望青天
皎如玉樹臨風前
蘇晋長斎繍仏前
酔中往往愛逃禅
李白一斗詩百篇
長安市上酒家眠
天子呼来不上船
自称臣是酒中仙
張旭三杯草聖伝
脱帽露頂王公前
揮毫落紙如雲煙
焦遂五斗方卓然
高談雄弁驚四筵

知章が馬に騎るは船に乗るに似たり
眼花み井に落ちて水底に眠る
汝陽は三斗にして始めて天に朝す
道に麹車に逢えば口に涎を流し
恨むらくは封を移して酒泉に向わざりしを
左相の日興 万銭を費す
飲むこと長鯨の百川を吸うが如く
杯を銜み聖を楽しみ賢を避くと称す
宗之は瀟灑たる美少年
觴を挙げ白眼にして青天を望めば
皎として玉樹の風前に臨むが如し
蘇晋は長斎す 繍仏の前
酔中往往逃禅を愛す
李白は一斗 詩百篇
長安市上 酒家に眠る
天子呼び来れども船に上らず
自ら称す 臣は是れ酒中の仙と
張旭は三杯 草聖伝わる
帽を脱ぎ頂を露わす 王公の前
毫を揮い紙に落せば雲煙の如し
焦遂は五斗 方めて卓然
高談雄弁 四筵を驚かす
    --前野直彬注解『唐詩選(上)』岩波文庫、1961年。

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詩聖・杜甫(712-770)の「飲中八仙歌」をひもといております。杜甫が八仙に因んで当代の名だたる酒客を選んで創った詩作なのですが、どの御仁もハンパのない飲みっぷりのようで、この領域まではさすがにいけない……などと思う宇治家参去です。

昨日は、夕刻より、13名の勇士が集い、「飲中八仙」の如く怪飲させて頂いた次第です。

記憶がないのですが、最後は「壊れた」古時計?のようになっていたとかで……非常に恐縮です。

ただ、全国から集われた「志」を同じくするひとびとと飲み始めますと、もうその“雰囲気”にまで“酔ってしまう”というやつですから仕方ありません。

また、どうぞよろしくおねがいします。

しかし……歌のなかで紹介されている詩聖の李白(701-762)は、「李白は一斗 詩百篇  長安市上 酒家に眠る  天子呼び来れども船に上らず  自ら称す 臣は是れ酒中の仙」(一斗の酒を飲めば百篇の詩が生まれ出てくる。酒場で眠り、天子の召し出しがあっても「自分は酒飲み仙人」だと歌う)という領域まではまだ来ていない?はずですので、懲りずにどうぞよろしくおねがいします。

ただ、あの特別に仕立てて頂いた自家製掬い豆腐……その日は創る予定がなかったのですが……の味わいだけはどこかに残っております。

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花“小平”

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 八 人間よ、若し汝が自然のこの秩序のうちに真理を探究するならば、汝はその真理が必要に応じて汝の立場に対しても汝の行路に対しても役立つことを見附けるであらう。
 九 真理が汝にとつて安らぎと平和都に必要なものであるやうに、人間よ、それがまた汝にとつて汝の最も手近な幸福において確かな導きの星であり、且つまたそれが汝の生命の休らふ支へであるやうに、それは汝にとつて浄福である。
    --ペスタロッチー(長田新訳)『隠者の憂鬱 シュタンツだより』岩波文庫、1943年。

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日曜の昼過ぎに細君及び息子殿が帰京されるとのことで、帰宅前にちょいと野暮用?をすませるべく、電車の乗り継ぎをまっていたのですが、到着するまで数分あり、今週の半ばからは自分の担当するスクーリング授業の『倫理学』も開講予定ですので、民衆教育の父と称されるペスタロッチー(Johann Heinrich Pestalozzi,1746-1827)を再読していたある日の宇治家参去です。

電車が駅に到着するまでまだ数分あり、今日も暑いなあ……と名匠・小津安二郎(1903-1963)の映画に出てくる笠智衆(1904-1993)ばりに、「今日もあつうなるで」……と独り言が出そうになる矢先!

宇治家参去の後ろで同じく電車をまっていた母子の会話にすいこまれた次第です。

ちょうど駅は、西武新宿線・花小金井駅でしたのですが……

「ねぇねぇ、どうしてここは花“小金井”なの?」
「うん! 小金井市じゃないのに、花“小金井”でしょ?」
「小平市なんだから、本当は花“小平”じゃないの?」

ふたりの……小学生低学年のお子さんでしょうか……質問に責め立てられたお母さんが立派でした。

「だったら、夏休みの自由研究とかで、調べてみたら? どうしてここが花“小金井”なのかを! お母さんも手伝ってみるよ」

……とのことだそうで……どうやら電車が到着したようです。

「どうして?」……っていう驚きから始まるのが探究に他なりません。
その探究の手助けすることしかできないのが、学問なのですから、ちょいと今週はがんばってみますです。

……などと思いながら、空を見上げると、まぢであちいのあちいのですが、なんとなく一足お先に空は秋の気配を感じさせつつ……、夏と秋が今まさに喧嘩しているんだろうな~などと思ったわけです。

ともあれ、探究の手助けがどこまでできるのか……ひとつ考えさせられた一瞬でありましたが、本日も例の如く、金がないので月桂冠で一杯です。

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わが酒を われひとり酌むに 誰かわれを阻まん かくてわれ独自の思いにふける

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夏の夜
詩人

 日は沈みぬ
 されど西空はなおもかがやけり
 われは知りたり この金色の輝きの
 いかに長く続くかを
    --ゲーテ(小牧健夫訳)「酌人の巻」、『西東詩集』岩波文庫、1962年。

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今日もあっちくてあっちくて……仕事があるのであっちくても仕事へいかなくてはならず、帰ってきたら鯨飲してやろうと、軽度の二日酔いにもかかわらず、そのことをハナから決めていたのですが、問題は肴を何にするかというところです。

夕刻、市井の職場の屋上に上って、西空を見上げると、陽の沈んだあとの余韻がひびいており、バックミュージックは、日暮蝉の大合唱ですが、それがかえって「日の名残」の余韻を惜しむようで……この光景とBGMだけでも何杯もいけるなア~、冷房はないんだけれども外で楽しむことの出来るビヤガーデンにいきたいな~、と感慨に耽っておりました。

……って惚けていると、現実に強烈に引き戻す内線電話にて、妄想タイムが終了し、痛風を我慢しつつ、お仕事お仕事の一日でした。

起きたときはちょいとグロッキーでしたが、仕事で体を動かし、頭をつかうなかで、その違和感が適度に中和され、これから「盃」のひとときです。

本日は強烈に豆腐が食べたくなり……昨日も「掬い豆腐」食べたんですが……、また無性に所望しましたので、豆腐で闘おう!ということで? 冷や奴ばかりでは芸がないので、今回はすき焼き風肉豆腐にて戦いの開始です。

24時過ぎに帰宅して、それから料理して、サア酒呑むか……っていう器用さに我ながら驚くばかりですが、あつあつの肉豆腐がかえって、ビールと絶妙で、夏の疲れを癒すというものです。

ただしかし、この時間からこういうのをやるからこそ、持病が治らないのかもしれません。

しかし、このひとときが大切な時間なので、当分はがんばってしまいそうです。

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 ひとり坐りてあるに
 ここにまさるところあらんや
 わが酒を
 われひとり酌むに
 誰かわれを阻まん
 かくてわれ独自の思いにふける
    --ゲーテ、前掲書。

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ゲーテ全集〈2〉詩集―西東詩集 Book ゲーテ全集〈2〉詩集―西東詩集

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「人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ」!

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 世界内の社会性とは、意思疎通(communication)ないし合一(communion)である。諍いをすることは、互いの間に何も共通項がないことを証立てることである。触れ合いは、何か共通のもの、ある考えや利害、営みや休息、あるいは「第三者」への関与によって成立する。人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ。
    --レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』講談社学術文庫、1996年。

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たしかに、人間は「一個人」の自覚を強烈にもっているのですが、「他者の前」に向かいあってしまうとただたんに「一個人」としての自分だけでなく、「他者たちとともに個々人」を自覚することがあり、そこに礼節とか情愛が醸造されていくのかも知れません。

……そんなことをぼんやりと考えながら、細君が木曜日から、いち早く帰省した息子殿を迎えにいくために、これまた帰省してしまい、「一人暮らし」の状態です。

無人島で一人暮らしするならば「礼節」も「他者」に対する様々な態度も不要だろうと思われますが、物理的には不在であったとしても、不在ではない人間関係が必然しておりますので、掃除をしたり、洗濯をしたりと種々やっておりますと、はやいものですでに夕方……。

さて……。
昨日は、八王子にて「莫逆」な「ひとびと」とのセッションがあり、少し早めに家を出て、18:30から『人間学』の勉強会をしてきました。

いやはやこの勉強会が楽しいものでして……。
自然科学から、経営の立場から、そして営利の最前線たる会社員のたちばから、種々議論でき、またお互いの理解を深めることができたのが何よりです。

ご参集いただきました皆様方ありがとうございました。
宇治家参去の人間理解もこれによって更に深まったことは間違いありません。

思った以上に飲んでなく?……時折チェイサーを入れていたのが正解でした!……、今回は無事に電車で帰還できましたが、帰ってからチト寝る前の一杯をやったのが宜しくなかったようです。

次回は、この最後の「チト寝る前の一杯」を避けられるように学習して参りたいものです。

ともあれ、突発の勉強会?にご参集頂きました皆様方、楽しいひとときをありがとうございました!

まさにレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が語るとおり「人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ」!

というところでしょうか。

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今回のヒットは、鮪とアボガドとチーズを湯葉で巻いた一品ですが、この濃厚かつ絶妙なハーモニーに驚かされた次第です。

いつも頼んでしまうのが、つくねですが、つくねもあなどりがたい一品です。
ふつうのみせよりも大ぶりで、濃いめのタレのかかった串に、卵黄をといてかけていただくとこれがめっぽうウマイんです。

しかし写真を見ておりますと結構飲んでおります。
※ただ随所で写真を撮っておりますので、酩酊はしていないというところでしょうか。

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自家製の豆腐はさわやかであり、夏バテ回復のチゲ鍋は熱かった!

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「知人ハ、起ヲ知リ、蛇ハ、自カラ蛇ヲ識ル」

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四四

孟子曰、於不可已而已者、無所不已、於所厚者薄、無所不薄也、其進鋭者其退速、

孟子曰く、已むべからざるに於て已むる者は、已めざる所なし。厚くす所者に於て薄くする〔者〕は、薄くせざる所なし。其の進むこと鋭(疾)き者は、其の退くことも速かなり。

孟子がいわれた。「〔道理上〕やめてはならぬ事を平気でやめてしまう者は、どんな重要な事でも成し遂げずやめてしまうものだ。十分に手厚くすべき事柄を平気で手を抜く者は、どんな事でもやはりまた手を抜いてしまうものだ。あまりに性急に進みすぎる者は、またさっさと気早く退くものだ(熱し易いものは、またさめやすい)。」
    --「巻第十三 尽心章句上」、小林勝人訳注『孟子(下)』岩波文庫、1972年。

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……天台云く、「雨ノ猛キヲ見テ、龍ノ大ナルヲ知リ、花ノ盛ナルヲ見テ、池ノ深キヲ知ル」等云云、妙楽云く、「知人ハ、起ヲ知リ、蛇ハ、自カラ蛇ヲ識ル」等云云。天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識る者は世法を得可き歟。
    --「観心本尊抄」、兜木正亨校注『日蓮文集』岩波文庫、1968年。

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休みでしたので、ちと論文の入力を日がな一日やっていたのですが、その途中に、人名漢字の「読み方」をネットなんかでしらべていたところがまずかったです。

細君がいきなり私室へ乱入してきたわけですが、入力画面ではなく、ネットの画面が開かれていた状況でしたので……

「遊んでいる!」

……ひとしきり説教を喰らった次第です。

すて言葉として……、
「貴方にはそれによって立つモットーとか、言葉とかないの?」

……と聞かれたので、上に引用したような孟子の言葉とかを紹介したのですが、却ってやぶ蛇だったようで……

①「於所厚者薄、無所不薄也」(十分に手厚くすべき事柄を平気で手を抜く者は、どんな事でもやはりまた手を抜いて)しまっている!

②「雨ノ猛キヲ見テ、龍ノ大ナルヲ知リ」わけですが、猛キ程雨ヲフラス龍のような状況で頑張っている様子でもないからこそ、「蛇ハ、自カラ蛇ヲ識」リナサイ!

……との厳しいオコトバを頂戴した次第です。

全く見当違いの詰問でもありませんので、ひとしき反省してから……、ちょいと仕事をしているといい時間でさすがにPCモニターに10数時間直面していると目が疲れてきましたので、適当にクローズさせていただきました。

で……注目したいのが、細君が「モットー」とか「依って立つべき言葉」として「何があるのか」と誰何した際なのですが……かえってやぶ蛇になった部分はひとまずおきますが……、注目したのは最後の言葉です。

「古典~現代西洋が専門で、東洋関係は片手間だったはずだよね?」
「はい、そうでござんす。一応、『大正蔵』(大正新脩大藏經)あたりの白文は読めますヨ」
「しかし、本職は西洋でしょ?」
「はい」
「でもモットー系は東洋(言語)なんだ!!」

……そこです。

慣れ親しんできた語感に起因するわけなのです。
どんだけ西洋の文献を原典で読んでも、なかなかモットー系の熟語として定着させるのは困難なんだよね……そのところです。
これは文化的価値の優位を競う問題ではありません。
逆にいうならば、同じように海のあちらがわに住んでいる人もその陥穽を免れることは不可能です。

ただ親しんでいる語感として、日本語の通俗表現を借りるならば、モットーには、「漢字」の「四字熟語」的なものとか、オールドスタイルの和文がしっくりとくるやつです。これが対岸でしたら、英羅の韻をふんだ章句がそれにあたるのでしょう。

本来は、西洋を主としたフィールドとする宇治家参去にとっては、もっとも西洋言語に由来する言葉をモットーとすべきで、聖書なんかの章句をそれに当てたいところなのですがなかなかそうなりません。

聖書の聖句でもいくつか当てるべき言葉もありますが、これも翻訳上の問題から、やはり文語訳のほうが「ありがたみ」があって、現代訳にはしっくりきません。

ですから翻訳の西洋文典であっても「○○だ」よりも「○○べし」とか「○○なり」って翻訳に親しみを何故か覚えてしまうものでして・・・。

そんなことを勘案すると、人間という生き物は、やはり歴史的に鍛えられた言葉……その歴史的鍛えられた経緯としてんの文化的優位の主張としてではなく、そんなことをやっちゃうと「裏返し」のオリエンタリズムになっちゃいますので……に愛着をいだいてしまうということなのでしょう。

……ということで、説教されたときには、ちょいと頭にきましたが、まあ、発想を広げる局面に火を付けて下さったという点には感謝です。

……ということで、コンビニかリカーショップでしか扱っていないSAPPOROの「ラガービール」をゲットしましたので、ちょいとこのガツンとさっぱりしたやつを頂戴してから、すこし本を読んでネンネします。

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「教授可能な知」の超克の下準備

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知の種類

 (I)真理の知
 このような知はそもそも存在しない。なぜなら、真理は志向の死だからである。

 (II)救済する知
 この種類の知は、救済を意識させ、したがって救済を完了させるための知としては、存在する。しかし、救済をもたらすための知としては、存在しない。

 (III)教授可能な知
 この知の最も重要な現象形態は、陳腐ということである。

 (IV)規定する力そなえた知
 行為を規定する力をそなえたこの種の知は存在する。ただしこれが規定する力をもっているのは、「動因」としてではなく、その言語的構造のおかげである。道徳における言語的な契機は、この知と関係している。はっきりしているのは、行動を規定する力をそなえたこの知は、沈黙へとつづいてゆくということである。したがってこの知は、それ自体としては、教授不可能である。この規定する力をそなえた知は、道教のタオ(道)の概念ときわめて近い関係にあると言ってよいかもしれない。だがこれとは逆に、この知は、ソクラテスの徳論における知とは、まっこう対立する。というのも、ソクラテスの知は、行為を動機づけるものであって、行為者を規定するものではないからである。

(V)洞察もしくは認識から発する知
 これはきわめて謎めいた知である。それは、知の領域において、時間の領域における現在というものに似た何ものかである。これが存在するのは、理解不可能な移行の途上においてのみである。何から何への移行なのか? 予感から真理の知へと向かう移行である。
    (一九二一年ころ)
    --ヴァルター・ベンヤミン(道籏泰三訳)「知の種類」、『来るべき哲学のプログラム』晶文社、1992年。

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8月9日から勤務している大学の通信教育部の夏期スクーリングが始まりました。
炎夏での学問への取り組み、その挑戦が完遂されんことを心より祈るばかりです。

ちなみに宇治家参去は、愁眉を飾る3期の『倫理学』の担当ですので、講義はまだ先です。

ですが準備もあるわけで、ハードウェアを組み立てるための……例えば機器申請とかそのへん……書類の提出は無事に7月の“遅い”中盤に返却したのですが、ソフトウェアを組み立てるための……要するに教材以外の配付資料……書類を提出していることを“失念”していたようで、〆切の前々日、せっせこせっせこ作り直していた次第です。

5月の札幌スクーリングにてだいたい「完成」されたな!と思ったわけですが、「完成」は即腐敗を意味するわけですので、もういっぺんコンテンツをぶっ壊して一から組み直してやろうと思っておりました。

それは否定のための否定ではなく、言葉の額面通りの「発展的解消」という名の「脱構築」という作業なのですが、それにともない、1年弱使用した配付資料も洗い直しだ!ということで、日曜の夜、組み替え入れ替え作業をしておりました。

完成すると結構な深夜でしたので、ふうっと一息アルコール消毒を入れてしまいますと、まあ、電子メールで印刷物のファイルを送るのは明日でいいやって独り合点してしまうと、そのまま鯨飲してしまったのがよくありませんでした。

昼前に起きると、何か忘れて居るんだよなア~と思いながら、最近、銀塩カメラに手をいれていないなア~と思って、空シャッターを切りながら、各部位を点検していると……デジカメと違いこの手のフィルムカメラはフィルムを入れなくとも定期的に動かしてやることが大切です!……、それでも「電子メール」を送付することを思い出すことができず……。

まさに何か奥歯につまったものがあるような感覚を抱きながら……、手帳を開いてみると、本日が印刷物の申請最終日だったことに気づき、急いで送付した次第です。

物理的な汗は噴出しておりませんが、精神的に汗をかいたというのはこのことなのでしょう。

ともあれ無事に下準備完了です。

あとは、それにあわせてパワーポイントやら映像資料の差し替えがあるのですが、これは直前までだましだまし伸ばさず……早めにやっておきたいものです。

なにしろ、すぐに忘れてしまいますから、掌にでもマジックで「パワポ修正」とか書いておくかもしれませんが、いずれにしましても「リニューアル」した宇治家参去『倫理学』が、受講者の期待を裏切らないようなコンテンツへと仕上げていく決意ですので、どうぞ宜しくお願いします。

いずれにしましても、ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin,1892-1940)が指摘しているとおり「教授可能な知」とは、「陳腐ということである」わけですので、陳腐でもない、享受可能な地平を乗り越える、ナイーヴな授業になることは間違いありませんので、宜しくお願いします。

「ぶっちゃけ……」

……と振った後のフレーズは、「教授可能な知」をすり抜け、たぶん「救済する知」?ぐらいまではいくとは思いますので・・・。

……ということで、台風上陸直前なのでしょうか……、全く蒸し暑いので、本日はエビスの瓶ビールにて懇ろに消毒して沈没します。

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……しっかし、ウルトラセブンはアイスラッガーが頭上にないときわめてダサイです。

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赤羽、東十条界隈・・・

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 第一に、真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、「一生に一度は」自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を、転覆させ、それを新たに建て直すように試みるのでなければならない。哲学ないし知恵とは、哲学する者の一人一人に関わる重大事である。それは自分の知恵とならねばならず、普遍的に探究されるものでありながら自ら獲得した知として、初めからそしてその歩みの一歩一歩において、自らの絶対的な洞察に基づいて責任を持てるような知、とならねばならない。このような目標に向かって生きる決心によってのみ、私は哲学者となるのだが、もしこのような決心をしたなら、それによって私は、まったくの無知から始める道を選んだことになる。そこでは明らかに、真正な知に導いてくれる前進の方法をどうしたら見出すことができるか、について考えることが第一である。したがって、デカルトの行った省察は、デカルトという哲学者の単に個人的な事柄を目指したものではなく、もしてや、ただ印象深い文学的形態をもって最初の哲学的基礎づけの叙述を目指したものでもない。それはむしろ、哲学を始める者やそれぞれに必要な省察の原型を表しており、そこからのみ哲学は根源的に誕生することができるのだ。
    --フッサール(浜渦辰二訳)『デカルト的省察』岩波文庫、2001年。

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現象学の祖エドムント・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)を繙きつつ、たしかに「第一に、真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、『一生に一度は』自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を、転覆させ、それを新たに建て直すように試みるのでなければならない」わけだなア~、ということで? これまで見た知見や憶測、経験にたよるだけでは真正の哲学者になることはできない!

……ということで、ちょいと野暮用で赤羽・東十条界隈へ昨日は細君と行ってきました。
赤羽・東十条といえば、いわゆる東京都北区の中心地になるのでしょうが訪問したのは初めてです。

むかし、

東京外国語大学(現在は府中市)の西ヶ原キャンパスで同大学を受験したとき訪問したのが最初で、次は、学生時代、チェロを弾いていたとき、王子の「北とぴあ」を会場に、ブラームス(Johannes Brahms,1833-1897)の交響曲の2番か4番かのどちらかを演奏したときにその前後訪問したきりです。

ですから、中心部といいますか、ディープ・ミッド・北区のようなところは、列車に通過したぐらいしかなく、今回が初めてでしたが、

いやはや……

「それは……
 哲学者・宇治家参去が、はじめて〔知人〕を訪れるための汽車の旅であったが、〔国境〕の長いトンネルを抜けると、
 (あっという間に……)
 そこは〔灼熱地帯〕であった。」

……?

といわけで、いやはや……

暑うござんした。

赤羽で降りると、よさげな「居酒屋」が軒をつらね、昼過ぎに到着しましたが、体が自然にそちらの方向へ向かっていってしまう本能を断ち切り、「ポテトチップス」で有名なカルビー(株)本社を横切ると、さすがに、赤羽が「交通・商業の中心地」と表現されているごとく、物流拠点がおおいなア~と思い、ひとつ南にある東十条の方まで散策した次第です。

いや、しかし暑うござんした。

息子殿は火曜日に細君の実家に帰省しており、今回は同行しておりませんので、そのかわり?に東十条駅で、ちょいとポケモンラリーのスタンプを押してから、今度は北赤羽に向かい、駅を降りると、壮大な荒川が駅から眺望でき、川面を走る風に汗を少し引かせて頂いた次第です。

要件を済ませると、小腹が空いており、あたりを見まわしましたが昼食時をすぎており、テキトーにというわけにもいかず、駅前の「笠置そば」にて、空きっ腹を充たしましたが、暑い中だからこそ、あつあつの「天ぷら蕎麦」で却って汗がひきしまるというのはこのことなのでしょう。

さて、帰路へと着きましたが、宇治家参去としては、赤羽でちと途中下車してから、気のきいた肴、たとえば、鮪のづけと山芋の和え物のようなもので、生ビールをぐっとやりたいところでしたが、細君がウルサイので、池袋で下車させてもらい、構内のロンドン・パブにて、「バス ペールエール」を1パイントで頂き、イッキのみで本日の任務完了です。

いやはや、暑かった!
けど、ちと体も心も燃え?
北区に対する昔の印象だけでなく、感慨を新たにすることができた!という意味では、所定の目標、すなわち「第一に、真剣に哲学者になろうとする人は誰でも、『一生に一度は』自分自身へと立ち帰り、自分にとってこれまでは正しいと思われて来たすべての学問を、転覆させ、それを新たに建て直すように試みるのでなければならない」というところはひとつ達成されたのではなかろうかと思います。

帰宅後、慰労会を宇治家参去一家郎党御用達の「ささ花」にて行いましたが、そのレポートはまた後日??

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とりあえず、動くことが出来たという意味ではよしとしておきます。

ただしかし、北赤羽で「笠置そば」に再会したのは驚きで、真夏の炎天下にもかかわらず、暑い一杯を頂いたお陰で、バスペールエールの琥珀色が染みこむ! 染みこむ!

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We few, we happy few, we band of brothers

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This day is call'd the Feast of Crispian:
He that out-liues this day, and comes safe home,
Will stand a tip-toe when this day is named,
And rowse him at the Name of Crispian.
He that shall see this day, and liue old age,
Will yeerely on the Vigil feast his neighbours,
And say, to morrow is Saint Crispian.
Then will he strip his sleeue, and shew his skarres:
Old men forget; yet all shall be forgot:
But hee'le remember, with aduantages,
What feats he did that day. Then shall our Names,
Familiar in his mouth as household words,
Harry the King, Bedford and Exeter,
Warwick and Talbot, Salisbury and Gloucester,
Be in their flowing Cups freshly remembred.
This story shall the good man teach his sonne:
And Crispine Crispian shall ne're goe by,
From this day to the ending of the World,
But we in it shall be remembred;
We few, we happy few, we band of brothers:
For he to day that sheds his blood with me,
Shall be my brother: be he ne're so vile,
This day shall gentle his Condition.
And Gentlemen in England, now a bed,
Shall thinke themselues accurst they were not here;
And hold their Manhoods cheape, whiles any speakes,
That fought with vs vpon Saint Crispines day.
    --William Shakespeare,The Life of Henry the Fifth,1599.

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いうまでもありませんが、戦争に行くのも厭だし、現実の戦争や暴力を肯定することは100%できません。

しかし、しかし、ながら、その「造形美」に感嘆してしまい、戦争映画を見てしまうと「魂」が「鼓舞」され、涙を流してしまう宇治家参去です。

やはり、これは生き物としての男性“性”に起因するのだろうか……と思わなくもないのですが、例えば、肩にとまったわが家の十姉妹のピーチャンは肩にとまりしばらくすると、髪の毛をひっぱりはじめるのですが、そのおり、宇治家参去は、“我慢”するのですが、細君などは、ピーチャンがつんつくしだすと同時に、手で追い払うようですので、この問題は、男性“性”にのみ起因するわけでもなかろう……などと思うのですが、話が例の如くずれ込みました。

そう、戦争に関する文化といいますかそうしたものから、不思議なモノですが、なにがしかの活力を頂いてしまう宇治家参去です。

さて、自分自身としても、種々がんばっているつもりではあり、ヘンな言い方ですがきちんと本業もコツコツやって、市井の仕事もきちんとやって……今日はレジの打ちすぎで突き指とか「アリエネー」って叫びましたが……、種々社会活動等々もふくめある意味では「そつなく」やっている“つもり”なのですが、このところ、人生を闘うという根本的な意義においては、なんだか違うんだよナー、という感覚も拭いきれないものです。

だいたい数ヶ月に一度こうした、「こなしているけど、どうよ」みたいなツッコミがどうしてもあり、それを機会に反省して、同じことを「こなす」にしてもその「こなす」レゾンデートルを点検しながら、意義ある一歩へ転換してゆかなきゃいかん!などと恒例行事をやっております。

その契機として今日は仕事へ行く前と、帰ってきてからひたすら戦争映画(TVシリーズ)の『バンド・オブ・ブラザーズ』(Band of Brothers,BBC/HBO,2001、以下BoB)を再聴している次第です。

いゃあ~染みます。

話の筋としては、戦争映画ですので、舞台は第二次世界大戦になります。
合衆国陸軍第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊の訓練、そしてノルマンディー上陸作戦を経て、対ドイツ軍戦線での経過を終戦まで描いた大河ドラマになるわけですが、これがまた染みこんできます。

闘う気概!
そしてその意味!
国境とかイデオロギーに左右されない本物の絆!

平和を説く?神学者(ないしは哲学者or倫理学者)ですし、感性と生命からの叫びになりますが、現実の戦争や暴力を肯定することは100%できません。

しかしおなじく感性と生命からの叫びとして、こうしたものに心がぶるぶる震えてしまうのは一体何なんでしょうか……ねえぇぇ。

愁眉はやはり最終話!
ドイツが敗戦後、101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊はオーストリアで最後の任務を遂行します。
敗れたドイツ軍将校の軍団解散演説で幕を閉じるわけですが、この演説にしびれてしまうものです。

作中でも、ドイツ軍、米軍にかぎらず、その演説が心を打つわけなのですが、アルプスから降りてきた第352国民擲弾兵師団長トルスドルフの演説がそれです。

元ネタは、シェークスピア(William Shakespeare,1564-1616)の『ヘンリー五世』(The Life of Henry the Fifth)なります。

百年戦争の渦中、1415年のアジャンクールの戦い(Bataille d'Azincourt,Battle of Agincourt)は奇しくも英国軍が3倍のフランス諸侯軍を下した戦いなのですが、劣勢のさなか、仲間たちを励ましたヘンリー五世の演説(聖クリスピンの祭日の演説)……シェークスピアの手による……になります。

冒頭がそれですが、坪内逍遙(1859-1935)の訳によると次の通りです。

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今日はクリスピヤン祭と称される日だ。今日死なゝいで帰国する者は、此後此祭日が来た時には、クリスピヤンの名を聞くと同時に、(我れ知らず)足を爪立て(我ながら肩身を広く感ず)るであろう。今日死なないで老いに及ぶ者は、年々此祭の前夜に隣人を饗応して、明日は聖クリスピヤンだといって、袖を捲って古傷を見せて、こりゃクリスピヤン祭に受けたのだといふだろう。老人は忘れっぽい。何もかも忘れるだらうが、此日にした事だけは、利子を附けて憶ひ出すだらう。その際、彼等の口に俗諺のやうに膾炙するのは我々の名だらう。王ハーリー、ベッドフォードにエクシーター、ウォーリックにタルボット、ソルズバリーにグロースターを、彼等はなみなみと注いだ酒盃を挙げて、又新たに憶ひ出すだらう。戸主が此話を其息子に伝へるから、今日から世界の終るまで、クリスピヤンが来さへすればわれわれの事は憶ひ出される。われわれは、われわれ幸福な少数は、兄弟団とも称すべきだ。今日わたしと共に血を流す者はわしの同胞なんだから。どんな卑賤な者も今日で以て貴紳と同列になる。イギリスで今寝てゐる貴紳連は、後日聖クリスピヤン祭に、われわれと一しょに戦った誰れかに其話を聞きゃ、きっと今日こゝにゐなかったのを残念がり、男がすたったやうに思ふだらう。
    --シェークスピヤ(坪内逍遙訳)『ヘンリー五世』新樹社、1958年。

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闘う人間には貴賤も身分も何もありません。

“共に”“闘う”ところに一種の美学があるのでしょう。

こうした映像を見てしまうとねぇ~、頑張ろうと思ってしまう不思議な宇治家参去でした。

Band of Brothers

……いい、響きではありませんか!!

……ですけど、ミリタリストではありません。

……ってあまり説得力ありませんですかね?

http://www.youtube.com/watch?v=ozGIgCVO9AA&hl=ja

因みの蛇足ついでですが、このテーマソングに使われている「Requiem for a Soldier」も染みるんです。

……ので、歌詞を付けておきます。

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You never lived to see
What you gave to me
One shining dream of hope and love
Life and liberty
With a host of brave unknown soldiers
For your company, you will live forever
Here in our memory

In fields of sacri-fice
Heroes paies the price
Young men who died for old men's wars
Gone to paradise
We are all one great band of brothers
And one day you'll see, we can live  together
When all the world is free

I wish you'd lived to see
All you gave to me
Your shining dream of hope and love
Life and liberty
We are all one great band of brothers
And one day you'll see - we can live together
When all the world is free

-----

http://www.youtube.com/watch?v=CfVELFsb96Q

くどいですが、ただひとこといえるのは、宇治家参去は、教科書的な原則的平和論者ではありません。

たたかう平和論者……でアリタイ。

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勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません

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 ト伝は、義輝にせがまれるままに、この冬を京で越すことにした。義輝がせがむままに、自ら木刀をとって教えつづけた。
 当時の剣法というのは、まだ原始的なもので、戦場での活用を主眼としているから後年のような複雑な太刀筋がまだ生まれてはいない。
 ト伝は、ただ一撃の打込みにこもる気力と、この気力に伴う肉体の自由自在な活動が、いざというとき充分に発揮されるべく鍛錬をかさねてきた。これを義輝に伝えるのである。
 それともう一つは--いかなる場合にあっても、燃え上がる闘志を押える冷静な心と、立合いの駆け引きである。
 「勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません」
 と、ト伝は義輝に言った。
 「勝てぬと思うときは逃げるのです。恥ではありません。よろしゅうございますか、私は、あなたさまが自らをお守りになる為に剣をお教えしたのでございますぞ」
 年があけて永禄五年となった。
    --池波正太郎「ト伝最後の旅」、『上意討ち』新潮文庫、昭和五十六年。

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ひとつだけ自慢できることがあります。

それは何かと申しますと、「喧嘩をしたことがない」という……ただそれだけのことです。

勿論乳幼児期の記憶は定かではありませんので、学齢期以降ということですが、喧嘩を一度もしたことがありません。

……などというと、「男は拳と拳で勝負じゃああ」的な発想からすると……言語が若干差別的表現を伴いますがリアルな状況を表現できますので臆面もなく表現するならば、いわゆる「女々しい奴」「男らしくない奴」……などといわれてしまいますし、そのことを否定しようとも思いませんし、それはそれで当を得ていると思わざるを得ません。

いずれにしろ喧嘩だけはしたことがなく、それは裏っ返せば、憶病の誹りをうけてしまっても、反論することができません。

しかし喧嘩だけはしたことがないんです。

憶病ですし、怖いからですし、ついでにイタイからです。

「やっぱ弱虫かよっ」

……って言われてしまうと、それまでなのですが、そのことは否定もしませんし、逆に言えば、批判のまさに的となってしまう全方位外交こそが、自分自身のレゾン・デートルを形成してきたのだろうと思います。

ですから、小学生の頃から、どのようすれば、そうした縁に紛動されないですむのか……丹念に取り組み?、オトラント公ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, duc d'Otranto,1759-1820)も驚くばかりの権謀術策に知的リソースを注ぎ込んできたようなチキン野郎です。

ですから、大声でなにかをやられるとか、リアルな拳法をやっちゃうとか、その類が極めて苦手でございます。

剣道を小学1年生のころから、都合12年ほどやっておりましたが、試合で勝ったことも通算2度ほかしかなく、……それはアンタがヘタクソなのだろうといわれればそれまでですが……、剣道で学んだのはなにか「力」によって「伏せる」ということよりも、それ以外の方が多かったのかも知れません。

いずれにせよ、力量・技倆・気迫の問題もありますが、「諍う」ことに憶病になってしまう宇治家参去です。

ですから細君などからは、「闘うときに役に立たない」などとのたまわれてしまいますが、そこに、宇治家参去の「非暴力の聖者」としての止めどない人類に対する愛を感じて貰いたい次第なのですが、話がずれてきました……ので、本論?にもどりましょうか。

……ということで?

市井の職場6連勤の最終日、マア、例の如くありえないレジ地獄ではありましたが、ちょいと別件のしごともしなければならず、やっている最中に、お客様との応対をしながら……、聞こえてきたのが、大人“たち”の“怒声”でございます。

……ひょとして“危ない人”が騒いでいるのか?

応対しているお客様に、怒号の情勢を“察して”もらい、手短に要件をすませ、現場?へ急行すると、お父さんとお父さんがガチ喧嘩をしていた次第です。

「“あ”んだ、テメエ」
「“い”いかげんにしろよ、こんにゃろぉぉ」
「“う”ぜえぇぇんだよ」
「“え”えかげんしろやぁぁぁ」
「“お”い、なぐりたけりゃぁぁ、なぐれやぁぁ」

……ってご様子で、買い物に訪れた他のお客様も怯えるばかりでございます。
ちょうど時間帯が夕刻のピークタイムですので、ふぁみりーなひとびともおおく、

「うぉっぷ、まじですか」

……って式に「驚く」というよりも「おびえている」わけですから、

誰がどうすんの?

……って式に宇治家参去さん、チキン野郎でしょうが、収めろや……って内面の声とともにフロアに対する職業倫理的@ヴェーバーの“責任倫理”から……、

声をかけた次第です。

ひさしぶりに心臓が爆裂した次第です。

興奮した2人をなだしつつ、状況を把握すると、どうやら、肩と肩がふれた……というような……実際は違いますが措きますが比喩で……“ささいな”突発事が発端であったようですが、一度火がついたおふたりのお父様は、なかなか矛を収めてくれません。

どちらかといえば、ますますエスカレートする様子で、そこには仁義も公共精神もへったくれもあったもんではりません。

やるなら外でやってくださいましよ……とは思うのですが、不特定多数のひとびとが集うGMSという、公共空間@ハーバーマスであるわけですから、放置プレイもできず、補佐のバイト君……こうした場合は複数人対応が原則です……に「警察でも呼ぶか」って声をかけると……、

「薬が効いた」……のかしら?

……一方のかたが、鉾を収め初め、三々五々に当事者およびギャラリーが雲のを子を散らすように退散した次第です。

これ以上、ことをあらげるつもりもありませんでしたので、

「もうしわけございませんが、ここは、いろんなひとが集まる場所ですから、ほんと、もうしわけございませんが、ここはひとつおだやかにできませんでしょうか……」

……って最後に声をかけると、すこし冷静さを取り戻したお二人が、「いやいや、あんたが“あやまる”必要はないんだよ」

……などと、一方のかたが声をかけてはくれたのですが、

「あんたが“あやまる”必要はないんだよ」

……っていうのは、「わるいのはおれと喧嘩しているおめえだ」……っていう言語の表裏に隠された「夏への扉」という余韻がふくまれいることが濃厚でしたので、

「では! これでよろしいでしょうか。警察も呼びません。種々誤解があったようですが、他のお客様も“怖がって”おり、“迷惑”しております。おわりにしましょうか」

……って“びくびく”で案内し、ようやくクローズです。

言語として記述すると長くなりますが、1分足らずの出来事です。

ひやぁぁ、なんとかおさまてくれて幸いです。

ある意味では……処理するという意味では……クレームの方が楽であり、諍いの仲裁ほど生命力を使う事例はありません。

ともかく無事に案件終了で“幸い”です。

しかし……“怖かった”です。

この手の事案に“介入”すると、正直なところ、「あんだ、テメエ」って“ぶん殴って”もらったほうが楽なんです、司直的には。しかし、「易き」への「阿(おもね)り」を排した極限状況?の提示というものは、まさに、人文学者としての本業の枠を拡げてくれているようで実にありがたいものです。

しかし……“怖かった”です。

……といわざるを得ない、まさに“チキン野郎”宇治家参去でございます。

接客の問題、品質の問題を含め、クレームとか事故が一番多いのがこの季節です。

それはそうですよね!
これだけ暑くてゲレってきてしまいますと、ぶち切れてしまう……というものでしょう。

しかし、宇治家参去は“ぶち切れ”ることが許されていないんですよ、……トホホ。

だから……喧嘩をしません。

「勝負というものは負くるものではございません。必ず勝つという見込みがない勝負は、するものではございません」

負ける相対というのが“喧嘩”なのでしょうねえ。

そして必ず勝つとというのが“勝負”なのでしょうねえ。

どこに生命力を“注ぐ”のか、ひとつ学ばせて頂いた次第です。

しかし蛇足ながら、喧嘩を収める……これはチキンの蛮勇にしかできないかもしれません。

つうことで、帰宅すると、注文していたデッドストックのシェーファー(SHEAFFER)の「スクール万年筆」が届いておりました。

今はつくっていない80年代のラインですが、ネットオクで易く入手できました。

スクール万年筆とは、学齢期の児童にもつかってもらおうという簡易な万年筆ですが、やはり老舗の作った物は、書き心地が、使い捨てアイテムとは全く異なります。

お子様向けですから自重はほとんどなく、かるく、まさにライトな万年筆ですが、お子様向けなのでしょうか、細字ののりもよく、これはひとつめっけもんでございます。

このライン、すなわち「スクール万年筆」は、ペリカン(Perikan)なんかも出しているのですが、未使用のデッドストックになかなか出会えず、ペリカン党としては是非ペリカンなどと思っては居たのですが、ぼちびち学齢期にさしかかる息子殿にも1本と考えていた矢先、シェーファーもそうなのですが、なかなか手に入らない奴が手に入ったのは幸いです。

来月あたりに、なんとなく「勉強をがんばったご褒美」ということでプレゼントしてみようかと思います。

宇治家参去自分自身もネズミのはったような文字しかかけません。
しかし忘れがたいのは、自分自身も小学校に入学した折り、父母からもらったのが万年筆です。

今は手元にありませんが、ドイツのラミー(Lamy)の“サファリ”ラインだったかと思います。いわゆる「スクール万年筆」ではありませんが、初学者向けの一品で、なんだかんだといいながら6年間使い倒した思い出があります。

うちの息子殿も、親である宇治家参去以上にグレート“チキン野郎”でございます。

しかし、“諍う”ことに専心できるよりも、“諍う”ことを調停できるひとになってもらいたい……などと思うのは、親ばかでしょうか。

……っていうことで、寝ますワ。

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(ああ、畜生め、なんて暑いんだよう)

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 昼下がりの境内の、松の木立に蝉が鳴き頻(しき)っている。
 夏の盛りの日ざしに参道が白く乾いて、参詣の人の姿もなかった。
 (ああ、畜生め、なんて暑いんだよう)
 相模の彦十は、げんなりとなって、先へ行く長谷川平蔵の背中を、うらめしげに見やりつつ、
 (へっ。長谷川さまときたらあ、この暑いのに汗もかかねえのだから、供をしている者は、たまったものじゃあねえ)
 参道の左側が大きな池になってい、その辺(ほと)りには葦簀張りの茶店もならんでおり、その中には客の姿もちらほら見えた。
 (ちぇっ……昼めしも食わねえつもりかよ。長谷川さまも吝(しわ)くなったものだ。あきれるほかねえ)
 胸の中で、彦十は文句をならべている。
 この日の長谷川平蔵は、白い帷子(かたびら)を着ながしにして、塗笠をかぶり、和泉守國貞二尺三寸五分の太刀を落とし差しに、例のごとき浪人姿の市中見廻りであった。
 平蔵が、本所二ツ目の軍鶏なべ屋〔五鉄〕へあらわれたのは五つ半(午前九時)ごろで、
 「おい。彦十。供をしろ」
 いまも、五鉄の二階に寝泊まりをしている老密偵・相模の彦十を連れ出した。
 それから、およそ二刻も諸方を歩きまわり、水一杯のもうとしなかったのだから、彦十が怒り出すのもむりはない。
 平蔵が〔本所の銕〕などとよばれていた、若き日の放蕩時代から知り合っている彦十だけに、いざとなると遠慮も会釈もなくなってくる。
 「長谷川さまよう。ちょいと、ひと休みさせておくんなせえよう」
 たまりかねて、彦十が声をかけたけれども、平蔵は振り向きもせぬ。
 ここは、請地村にある秋葉大権現の境内である。
 秋葉大権現は、遠州の秋葉大権現を勧請し、稲荷の相殿としたもので、ゆえに土地(ところ)の人びとは「千代世稲荷」と、よんでいる。
 このあたりは、現・墨田区向島というわけだが、当時は田園そのものの景色であって、物の本にも、
 「……境内の林泉は幽邃にして、四時遊覧の地なり」
 と、ある。
 「長谷川さまよう。いいかげんにして下せえよう」
 彦十が、ついに大声をあげたとき、平蔵は裏門を出てしまった。
 「ええ、もう、勝手にしやがれ」
 喚きながら彦十が裏門を飛び出すと、長谷川平蔵が向こうの茅ぶき屋根の茶店の前に立ち、塗笠をぬぎ、笑いかけているではないか。
 「な、何がおかしいのでござんす。年寄りが空腹を抱え、照りつけられてひょろひょろしているのが、そんなにおかしい……」
 「まあ、落ちつけ」
 「落ちついてなんか、いられ……」
 「この家(や)の鯉はうまいぞ」
 いうや、平蔵はさっさと茶店へ入って行く。
 (な、なあんだ。それならそうと、早くいっておくんなさりゃあいいによ)
 照れくさそうに彦十が、一足遅れて茶店へ入ると、すでに平蔵は土間を抜けて奧の小座敷へあがっている。
 茶店といっても、酒を出すし、気のきいた肴もつくる。
 この店は〔万常〕といい、土間の一隅に生簀を設け、鯉を放してあった。
 冷たい井戸水をつかっての鯉の洗いで、酒が出たものだから、
 「へ、へへ……すみませんねえ、長谷川さま」
 彦十は、たちまちに相好をくずした。
 「爺(とつ)つぁん。ここでたっぷりとのんだら、今日はもう、五鉄へ帰って昼寝でもするがいい」
 と、平蔵の口調もくだけてきた。
 「さすがは銕つぁん……いえ、あの長谷川さまだ。ものわかりがようごぜえます」
 だが、これから後で昼寝というわけにはいかなくなった。
 彦十が、むかし、知り合っていた盗賊の顔を見たのは、それから半刻(一時間)ほど後のことであった。
    --池波正太郎「高萩の捨五郎」、『鬼平犯科帳 20』文春文庫、2000年。

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なんらかの引用がありませんと宇治家参去らしくありませんので、入力はしたものの、ほぼ息が切れてきました。

土曜は短大の定期試験にて、早朝より大学へ出講。
前日、疲れを癒すためにガッツリ飲んだのが良くなかったのでしょうかヘロヘロ状態で出勤しましたが、早朝はそれでも、曇りながらになんとなく涼しい風がふいておりましたので、「長谷川さまときたらあ、この暑いのに汗もかかねえ」という快適状態で向かいましたものの、大学へ到着してからしばらくすると、バケツをひっくり返したような雨です。
試験開始とともに、雨足もよわくなりはじめましたが……無事、試験終了で、前期の大学の仕事は、あとは成績をつけてそれを返却して終了!ということで、ひとやまこえたなという実感です。

通信教育部のスクーリング直前に祖母がなくなったり、種々ありましたが、マア、なんとか走りきることが出来たことに、まだまだ、自分自身もすてたものではないな!と思いつつ、帰宅の教員バスの時間まで講師控室にて、答案を読んでいると、面白いコメントがひとつ。

「哲学って全然自分自身に関係ない、遠い世界の字面だけの議論だとおもっていましたが、15回の授業をうけるなかで、俄然その認識が変化しました。最終講義は、“卒業式”の当日のホームルームのようでじいいんと来ました! 先生はよくいっていましたよね!“授業で寝ていても何していてもいいが、『おめえら、本読めよ』”を肝に銘じて夏休みは挑戦してみます」

手前味噌ですいません。
しかしありがたいものです。
いろいろ試行錯誤しながら今回はまたちと特別に工夫もしてみたのですが、もった以上の反応でしたので、これから更に最高の内容を組み立てていくぞ!と決意するばかりです。

さて……バケツをひっくり返したような雨ですが、試験終了時刻ちかくになると、すっぱりと晴れ、太陽がぎらぎらと昇り始めてしまいました。

こいつはチトやばい!

そうです。
台風一過ってやつですね。

嫌な予測はドンピンで、大学から教員バスの停車する講堂前まであるくだけで、汗まみれ!

精神としてはここちよい疲労なのですが、肉体としては最悪のコンディションにて……、どこかで弔い合戦を!

……とは思うのですが、夕方から市井の仕事を控えていることもあり、そのまんま飲みに行くなどという選択肢は当然とれません。

また「冷たい井戸水をつかっての鯉の洗いで、酒が出」て、帰って「昼寝」をとることもできませんので、ちょいと気になっていた蕎麦屋でお茶を濁した次第ですが……、

……これが思った以上に絶品で、「鯉の洗い」がなくとも、冷たい「酒」がなくとも、ひさしぶりに満足したものです。

細かいレポートは恐縮ですが、次回の詳論?させていただこうかと思います。

さて……。
用事が山積みですが、本日は、これから寝て、朝一番で息子殿と細君と共に、本人が入学を希望している小学校の入試説明会です。

昨年も参加したのですが、これがきつかったです。

ど夏日に、スーツをフル装備で参加しましたが、たぶん同じ状況だと思います。
しかも、説明会がおわるとそのまんま市井の仕事……という仕事のスパイラルです。

「貧乏暇なし」とはよくできた言葉です。

……ということで、これからチト冷酒を飲んでから寝ますですワ。

お休みなさい、お月様。

……まさに昼寝のできない相模無宿の彦十でした!

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「直接的な理念は生命である」わけなのですが……疲れがとれません!

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a 生命(Das Leben)
  二一六
 直接的な理念は生命である。ここでは概念は魂として肉体のうちに実現されている。魂は第一に肉体という外面的なものの、直接に自己へ関係している普遍性であるが、第二にはまた肉体の特殊化でもあって、そのために肉体は概念規定が肉体に即して表現する以外のいかなる区別をも表現していない。最後にそれは無限の否定性としての個である。すなわちそれは、独立の存立という仮象から主観性へ復帰させられた肉体の諸部分の弁証法であり、したがってあらゆる部分は、相互に一時的な手段であると同時に、一時的な目的でもある。かくして生命は、最初の特殊化であるとともに、最後には否定的な向自有する統一となり、弁証法的なものとしての肉体性のうちでただ自分自身とのみ連結する。--このように、生命は本質的に生命あるものであり、またその直接性にしたがって、生命ある個体である。有限性はここでは、理念が直接的であるために、魂と肉体とが分離しうるという規定を持っている。そしてこの分離の可能が、生命あるものの可死性をなしているのである。しかし魂と肉体という理念の二つの側面が異なった構成要素であるのは、生命あるものが死んでいるかぎりにおいてのみである。
    --ヘーゲル(松村一人訳)『小論理学(下)』岩波文庫、1978年。

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最近、目覚めがすこぶる最悪です。
いろんなことをこころみても疲れが取れませんので、大切にしているのは、①酒を呑むこと、②睡眠をとることと丁寧に取り組んでいるのですが、なかなか疲れがとれません。

どうしてなのだろうか……ふと頭を抱えつつ、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)を繙く宇治家参去です。
ヘーゲルの言葉に耳を傾けると理念としての生命という概念の叙述には頗る納得します。

が、魂と肉体という理念の二つの側面を厳密に峻別するところは、作業仮説としては理解できるものの、生きている実感としてはなかなか頷くことが出来ないのもまた事実です。

しかし、ヘーゲル本人などからいわせると、「いやいや、チミはまだ甘いよ、これが弁証法的に発展していくことで肉体と魂というふたつのテーゼは止揚されるんだからねえ」と説かれてしまうのかも知れません。

で……。
最近、細君が朝から用事が多く、そのまま放置プレイされてしまうことがあるのですが、「必殺・起こし人」の業務をこなしてくれます細君のかわりに、うちの十姉妹の「ぴーちゃん」が「必殺・起こし鳥」の役目を買っていてくれます。

そんな役目は買わなくてよいのですが、外出する少し前から、部屋のなかで、放鳥してくれるものですので、寝ている宇治家参去さんの顔に飛んできては、つんつく・つんつくしてくれますものですから、うわぁぁ~んという状況で起きざるを得ません。

起こしてくれるのが人間ではありませんので、裏拳にてその要請を却下してしまうこともできず、まさに小さな生命の叫びに、「おののき」ながら起きてしまいます。

……だから疲れがとれないのでしょうか?

このぴーちゃん、よく人間に絡んできてくれます。
起きてから数時間後、昼食後の運動?にと、細君がまた解き放ったわけですが、これがまたすこぶる愛想良く接近してくださり、……仕事になりません!

ぴーちゃん!
貴方は鳥という生命なのですが、人間という生命と勘違いしていらっしゃるのでしょうか!

と聞いてみましたが、マウスを操作する腕から離れてくれません。

……そもそも鳥と人間の生命の差異をくどくど論じようとしてしまう人間という生き物のもつ先入見を打破してくれているのでしょうか?

……だとするとありがたいのですが、本日は朝から定期試験!

たぶん、またぴーちゃんがありがたくも起こしてくれるのでしょうね……えええ。

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「ゆっくり急げ」(Festina lente)

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 われわれはわれわれに知られていない。われわれ認識者が、すなわち、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない。それはそのはずである。われわれは決してわれわれを探し求めたことがないのだ。--われわれがいつかはわれわれを見出すであろうなどと、そんなことがどうして起こるというのか。「あなたの宝のある所には、心もある」〔「マタイ福音書」六の二一〕と言われたのは当たっている。われわれの宝はわれわれの認識の蜂房のある所にある。生まれつきの有翅動物として、また精神の蜂蜜蒐集者として、われわれは常にその蜂房への途中にいる。もともと、われわれはただ一つの事だけに--何ほどかのものを「わが家に持ち帰る」ことだけに心を悩ましているのだ。それ以外の生活、すなわち、「体験」はと言えば、--われわれのうちの誰がそんなものを顧みるほどの真面目さだけでもっていようか。あるいは時間だけでももっていようか。そのような事柄については、恐らく、われわれは本当に「その事に当たった」試しがなかったのだ。全くわれわれの心が、--否、耳すらもが!そこにはないのだ。むしろ、法悦に浸っている人や瞑想に耽っている人の耳へ、時計がそれこそ全力を挙げて正午の十二の時鐘を打ち轟かせたとき、その人がはっと眼を覚まして、「あれは一体何時を打ったのか」と自問するのと同じように、われわれもまた往々あとから耳をこすって、すっかりあわてふためきながら、「われわれは一体何を体験したのか」と問うのはまだしも、「われわれは一体何者であるのか」とさえ尋ねて、いま言ったように、あとからわれわれの体験、われわれの生活、われわれの存在の十二の時鐘の震動を残らず算えてみる--おっと! そこでわれわれは算え誤るのだ…… われわれはいつまでもわれわれ自身にとって必然に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない。われわれはわれわれを取り違えざるをえない。われわれに対しては「各人は各自に最も遠い者である」という格言が永遠に当てはまれる。--われわれに対しては、われわれは決して「認識者」ではないのだ……
    --ニーチェ(木場深定訳)『道徳の系譜』岩波文庫、1964年。

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休みでしたが、これからまた仕事が続き、その最中に、短大の期末試験を行い、そんでもって息子殿の小学校の入学説明会があったりと、積み重なったタスクに翻弄されたそうな宇治家参去です。

とりあえず、来週〆切の通信教育部のレポートはすべて添削がすんだので返却し、ちょいと論文の資料照合をやってから、後回しにしてきた、短大の前期講義のふりかえりを少々……やりながら、それも落ちついたのでぼちぼち一献です。

休みなのに休めませんが、ワーキング・プアなのでしかたありません。

さて……。
月曜日、ようやく短大での「哲学」の最終講義が終わりました。
ちょうど市井の仕事ともかぶっていてきつかったのですが、講義がおわってから世の中は三連休だったようで……、バスの時間がしっくりこなかった理由が夕刻に判明した次第です。

ただいずれにしましても、授業回数の調整が理由となる不可避的な休日講義開講でしたが、最後までお聞き頂き、一緒に議論することのできた短大生たちにまずは感謝申し上げたいところです。

教材は私家版の教科書になります。
本年でちょうど、7週目突入ですが、やはり毎年積み重なっていきますので、微調整・入れ替え・加算でますます教材の量が多くなってきているのは致し方ないのですが、主題は一貫して「人間とは何か」というカント的問いの探求といっても過言ではありません。

しかし、膨れあがる教材の内容を確認するだけであるならば、極端な話ですが、「ここまで読んできてネ」式な自家自習ですませることでも内容は理解できるでしょう。

しかし、それだけに終始してしまうとやはりどうしても無味乾燥になってしまいますので、昨年来より、なるべく学生さんたちの関心や探求にそったところを、手探りかもしれませんが、共に考えてみようというスタイルを心がけるようにしておりました。

手探りといえばそれだけが手探りではなく、毎度、講義の部分においても、やはり対向衆の感覚を意識しますから、まさにすべてが手探りになるのですが、最終講義で書いてもらった学生さんたちのリアクション・ペーパーを拝するに、今回はまた、以前にもまして、そうした試みがひとつ成功したのではないだろうかと安堵する次第です。

もちろん安堵で停止してしまうのが一番恐ろしいので、鉢巻きを締め直す契機へと転換しゆかんと決意はしたわけですが、それでもなお、手前味噌で恐縮ですが、「マア、がんばって善い講義ができたな」……と自分を誉めてもやりたいというののもいつわざる心情であり、その念は払拭しがたいものがあります。

ともあれ、講義を組み立てる方のねらいのひとつとしての「動執生疑」は起こせたのではないかと思います。そして彼女たちに「動執生疑」をおこさせるだけでなく、こちら自身も「動執生疑」させて頂いたことには感謝の念がたえません。

さて……、
短大生とは4大生と違って入って1年もすると即就職活動(進学含む)という形でリアルな選択肢をつきつけられます。

だからなのでしょうか……。

社会と自分自身の存在に対する関心が著しく高いように思われます。

そして、現実と範とすべきαでありΩである部分との乖離に悩むことも多いようで、それがひとつの“焦り”になってしまうところがあるのかもしれません。

「このままじゃまずい」
「なんとかしたいんだけど・・・」
「考える暇がありません・・・」
「わかってはいるんですが、勇気がでません・・・」

たしかにそうした吐露こそさいなやまされる生活実感なのかもしれません。

タスクをこなしてスルーすることも可能です。
深刻になりすぎて、御破算的に舞台から降りてしまうことも可能です。
そして考えずに突っ走ることも可能です。

しかし、どの道を選択しても、どこかで傷つくのは当人なのも事実です。

だからこそ、歩きながら、時には立ち止まったり、時には早足になったり、そして時には井戸端会議でもしながら、考えながら行動し、行動しながら考えるしかないのかもしれません。

特効薬はありませんし、“特効薬”という触れ込みのやり方ではどうしても、その副作用が強すぎます。

だからこそ、大切なのは自己の問題であれ、他者の問題であれ、そして社会の問題であれ、違和感があった場合「なんとかしたい」というその心を忘れないようにするしかないのだろうと思います。

「何とかしたい」と思うのが大切なんでしょうねえ。

人生を彼女たちよりちょいとばかり長く生きてきた経験論になりますが、そうした心を持ち続けていれば、いつかきっと「何とかできる」はずだと思うからです。

そのときにできない・解決できない問題の方が多いのが実情ですが、大切なのは「自分には何もできない」とあきらめないことなのでしょう。

「自分には何もできない」ってだだっ子をこねてしまった、そのとたんに、本当に何もできなくなってしまうからです。

自己の問題にしろ、他者の問題にしろ、そして人間のいきる社会の問題にしても、「大丈夫かよ」って叫んでしまうことの方が多いのが現実です。

しかし大切なのは、誇大妄想的な「特効薬」に飛びつくよりも、その対象と丹念に向かい合いながら、宝物を創りだしていくしかないんでしょうねえ。

宝物はここにある!ってひとにいわれた宝の地図には往々にして、宝物はうまっておりません。

だからこそ、「時計がそれこそ全力を挙げて正午の十二の時鐘を打ち轟かせたとき、その人がはっと眼を覚ま」すようにではなく、常に、「目覚めている」必要があるのでしょう。

そのへんを、彼女たちの対話から再度確認したような気がします。

ともあれ大切なのは、焦りでおわらせないこと。
焦りはどこにも存在します。

だからこそ、

「ゆっくり急げ」(Festina lente)

……でございます、。

自己と他者と社会に対して決して諦念するのではなく、元本保証のない投機的未来予想図に法悦するのでもなく、「ゆっくり急げ」が肝要なのでしょう。

……ということで、土曜日が定期試験。
皆様、がんばってくださいまし。

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写真は、講義前に頂戴した学生食堂でのパスタ。
海老がNGなので、海老さんは頂けませんでした。
月曜は28度。28度が涼しく思えたという異常事態です。

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いざ、小舟よ! 心せよ!

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   一二四

 無限なものの水平圏内で。--われわれは陸地を後にして、舟に乗り込んだのだ! われわれは背後の橋梁を撤去した--というよりむしろ、戻るべき陸地を撤去したのだ! いざ、小舟よ! 心せよ! お前のかたわらに広がるのは大洋だ。まこと、大洋はいつも吼え立ててばかしいるのではない、おりおりは絹かのように金かのように好意の幻夢のように臥していることもある。けれども、それが無限であるのを、そして無限にまさる怖るべきものの何一つないのを、お前が認める時が来るであろう。ああ、身の自由を感じたのに無限というこの鳥籠の壁につきあたっている、哀れな鳥よ! そこにはさらに多くの自由があったとでもいうように、陸地への郷愁がお前を襲うとしたら、いたましいことだ! --もう「陸地」はどこにも無いのだ!
    --フリードリッヒ・ニーチェ(信太正三訳)「悦ばしき知識」、『ニーチェ全集8』筑摩書房、1993年。

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いつくるのか、いつくるのか、気をもんだ書類がようやく到着しました。

8月の中盤、大学の夏期スクーリング(3期E群)にて『倫理学』を講じる予定なのですが、「出講依頼」そのほか事務手続きの書類がようやく到着した次第です。

例年、七夕前後に届けられるのですが、本年はなかなか到着しませんでした。

おそらく新型インフルエンザの影響とか社会情勢を反映してのことなのでしょうか……、そして、アリエナイとは思っていた恐ろしい三文字「不開講」を回避できたようにてひとまず安堵です。

これまで2回ほど大学での集中講義ともいうべき夏期スクーリングを経験しましたが、2回とも100名オーヴァーでしたので、まさか「履修人数が決行可能な最低人数に達しませんでした」……というような不幸の通知がくるわけはないよなア……は思うものの、やはりきちんとした書類が到着しないことには、なかなかそのハラハラ感は収まらないものです。

ちなみに夏期スクーリングの哲学は受講者数を見てみると(昨年)、倫理学の倍を数えておりますので、やはり倫理学とはチトいまひとつなイメージがあるのかな?……などと思う次第です。学問としては両方を教えており、近代的な制度学問として、哲学、倫理学、宗教学をもってして人文科学の要とするわけで、どの科目も人間が生きていく上で必要不可欠な視座とヒントを提示するわけですが、哲学なんかとくらべると、やはりイメージしがたい雰囲気が「倫理学」というコトバには語感としてあるのかな……と思います。

ただ、本業的には、宗教学(神学)のほうがプロパーになりますので、そのうち「宗教学」(ないしは宗教史)の講座を担当してみたいものです。

さて……、
金の話で恐縮ですが、非常勤ですので、不開講となった場合、当然その分の収入が途絶えてしまうという生々しいスリリングな状況ですので、いやはや安堵というのはそのことです。

まさに大海をさまよう小舟のような人生を送っておりますし、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の指摘のとおり「陸地への郷愁がお前を襲うとしたら、いたましいこと」だということはとっくに承知しておりますし、「もう『陸地』はどこにも無いのだ!」ということも「覚悟」はしているものの、ときどき舟とすれ違ったり、補給船と邂逅しないことには、「刺激」がありませんので、何よりですし、妻子眷属が路頭に迷わず何よりです。

で……。
大切なのは開講に「安堵」して「止まる」ことではありませんよネ。

開講が決まりましたからこそ、「完成の未完成」「未完成の完成」を目指して、今までにない最高の講義となるよう、ひとまず掘り進めていく挑戦への出発へと期していこうと思っております。

このところレポート添削も忙しさの波に左右されることなくコツコツとやっておりますし、その「勢い」?にて、これまでやってき内容を再度検討し、限られた時間の枠の中で何ができるのか、どこに重点をおくのか、再点検していこうと思います。

……ということで、本日は酒を補給をまず第一義としながら、明日から手を入れていこうかと思います。

……ということで、盛夏にワタクシの授業を受講されるかた、いらっしゃいましたらどうぞ宜しくお願いします!

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ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

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知恵の観照における楽しみは、それ自身のうちに楽しみの原因を含む

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 知恵の探求は、人間のすべての営みの中で最高であると宣言したトマスは、次の一文でそれを遊びにたとえている。なおトマスは『神学大全』第二-二部、百六十八問題第二-四項で遊び突いて考察し、遊びは人間の共同生活において欠くべからざるもので、遊びを知らず、快活さに欠けることは一種の悪徳であると述べている。

    §

 ここで(『集会書』((三二・一五~一六))に「いち早くあなたの家へ走り、そこに引き籠もり、そこで遊び、あなたの心に浮かぶことをしなさい」とある箇所を指す)知恵の観照が、遊びに伴う二つの要素ゆえに、適切にも遊びにたとえられていることを考察しなければならない。すなわち、第一には遊びが楽しいものであり、そして知恵の観照が最大の楽しみを含むものだからである。ここからして『集会書』(二四・二七)には、知恵みずから語る言葉として、「わたしの霊は蜜よりも甘い」とある。
 第二に、遊びにおける活動は他のことに秩序づけられているのではなく、それ自身のために追求されるからである。そして、この同じことが知恵の楽しみについてもあてはまる。
 というのも、時としてある人が、自分の欲しがっているもの、あるいはなそうとしていることについて思いめぐらすことで、楽しむことがある。だが、この楽しみは、彼が到達しようと欲している何か外的なものに秩序づけられている。
 ところで、そうしたものを手に入れることができなかったり、入手が遅れたりすると、この種の楽しみには少なからぬ苦痛が伴うものであって、『箴言』(一四・一三)に「笑いには悲しみがはじまるであろう」と言われているとおりである。
 しかし、知恵の観照における楽しみは、それ自身のうちに楽しみの原因を含む。ここからして、何か不足なものが生ずるのではないかとの不安におそわれることはない。このゆえに『知書』(八・一六)には「知恵との対話は苦さを含まず、知恵との交わりは倦怠を生じない」と言われている。このようなわけで神的知恵はその楽しみを遊びにたとえて、次のように語るのでえある。「わたしは、彼の前で遊び、それぞれの日を楽しんだ」『箴言』(八・三〇)
 ここで「それぞれの日」とは真理についてのさまざまの考察のことである。このゆえに「そこであなたの心に浮かぶことをしなさい」と付け加えられているのであって、「心に浮かぶこと」conceptionesとは、それでもって人が真理の認識を受け取るところのものを指している。
    (『ポエティウス・デ。ヘブドマディブス註解』序言)
    --稲垣良典『トマス・アクィナス』講談社学術文庫、1999年。

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午前中は爆睡していたのですが、起きると息子殿が帰宅したようで……、今日が幼稚園の終業式とか。

本当は本日外出の予定があるのでおこしてくれと細君に頼んでいたのですが、おこしてくれなかったようで、洗顔をして着替えると、食事をすませた息子殿が宇治家参去さんのPCにてYoutube三昧のご様子。

細君は外出の用事があったようで……

「帰宅するまでYoutube見ていていいよ」

……とのことだそうで、仕事に使うためのPCが占拠されておりました。

息子殿には専用のPCを用意しているので、そちらをセッティングして使って欲しいものなのですが、24H電源入れっぱなしの仕事に使うためのPCの方が便利なのでしょう。

遅く起きてしまったので、要件のために外出することもできず……。
細君が不在ですから、そのまま「ままよ」って式に飛び出すこともできませんので、大人しく、息子殿がYoutubeを楽しんでいるとなりの座席にて、今朝届けられたばかりのレポートを数点添削していた次第です。

あとになって貯めこむと苦労するのは自分自身ですから、到着したその日から手を入れるのが常道です。

さふいえば、今回のひとやまには、海外からのレポートが1件あり……タイランドですが……、地球的規模で拡大する向学心に襟を糾させて頂いた次第です。

で、頃合いのよいところで、天使博士・トマス・アクィナス(Thomas Aquinas,1225年頃-1274)に関する補足資料をぱらぱらと再読していたのですが、態度が「遊んでいる」ように見えたのでしょうか……。

帰宅した細君から、勉強しないで遊んでいてばかりと恫喝です。

遊んでいたわけではなく……勉強していたのですが……、息子殿がYoutubeを見ながら、奇声をあげている横合いにて、寝っ転がり本を読んでいて、そのちかくにCDとか漫画本が散逸していた様子がよくなかったのかもしれません。

しかし、なあ~。

トマスも言っているとおり、「しかし、知恵の観照における楽しみは、それ自身のうちに楽しみの原因を含む。ここからして、何か不足なものが生ずるのではないかとの不安におそわれることはない。このゆえに『知書』(八・一六)には「知恵との対話は苦さを含まず、知恵との交わりは倦怠を生じない」と言われている。このようなわけで神的知恵はその楽しみを遊びにたとえて、次のように語るのでえある。「わたしは、彼の前で遊び、それぞれの日を楽しんだ」『箴言』(八・三〇)」わけですから、ここから、あたらしい発想の局面が展開するはずなのですが……。

……ということで?

存分に楽しんだ息子殿は細君によって自室へ引き戻され、しばしのお勉強タイムのご様子です。

そのあとかたづけをしながら、「さふいえば、今日は外出すべき予定が……」

……ということで、思い出したのが、「骨董ジャンボリー」

土曜日曜と開催されるのですが、市井の仕事のためいくことができず。
前日の金曜が「アーリーバイヤーズデー」ということで、楽しみにしていたのですが、涙ながらにスルーしてしまいました。

前日に「骨董、骨董!! ぴーひゃらら」と叫んでいたのがよくなかったのかもしれません。

来年は「捲土重来」したいものです。

http://home.att.ne.jp/sun/jambokun/antique/?gclid=CMaqtouR3ZsCFdMtpAodei_i_A

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「今度は、お前の御手柄じゃ」

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 それはさておき、大塚清兵衛一味を捕えて役宅の牢屋へ打ちこみ、あとは佐嶋忠介にまかせて長谷川平蔵は、
 「ああ、もう、たまらぬわ……」
 ひどい疲れに欲も得もなく、臥所へころがりこんでしまった。
 目ざめたのは夕暮れになってからだ。
 入浴し、居間へ出て夕餉の膳に向かった平蔵が、久栄へ
 「雪は熄んだような……」
 「はい」
 「積もったか?」
 「すっかり、溶けてしまいました」
 「春の、気ちがい雪か……」
 「まあ……そのような雪が、ございますかしら?」
 「わしの頭も今度は、いささか狂うていたような……」
 「何とおっしゃいます?」
 「なにしろ、御先手組五百石の宮口伊織が相手だったので、あわててしもうたらしい。いかに道楽者とはいえ、天下の直参が、ああなろうとは……」
 「なれど、首尾よう盗賊どもを……」
 「捕えた。が、調べはこれからじゃ」
 うまそうに酒盃をかたむけつつ、平蔵が、
 「それにしても、わからぬことよ」
 「何がでございます?」
 「あの老いた掏摸が、どうして、あの女の家を訪れたものか?」
 おきねも宗八も、山田某の兇剣をうけて即死してしまったいま、二人の口からは何も聞き出すことはできない。
 「さて、久栄……」
 「今度は、お前の御手柄じゃ」
 「何のことやら……?」
 「ほうびに何ぞ、買うてつかわそうか。ほしいものを申したらよい」
 「まあ……うれしゅうごうざいます。なれど、わたくしが、どのような手柄をたてましたのでございましょうか?」
 「お前の、あの一言を聞かなんだら、わしは、もっと無様なまねをしかねなかったろうよ。うふ、ふ、ふ……」
    --池波正太郎「春雪」、『鬼平犯科帳 13』文春文庫、2000年。

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7月初旬の山場をなんとか家族一丸となって?突破することができましたので、その「ほうび」にという名目で?……といっても自分自身に対する「ほうび」?……ということで鮨にいってきましたが、思った以上にやっちゃった次第です。

「ほうびに何ぞ、買うてつかわそうか。ほしいものを申したらよい」

……などと申し出てしまうと、何をふられるかわかったものではありませんから、こちらがわから「じぶんたちへのご褒美として鮨でもいきますか?」という流れです。

昨日の東京は猛暑。
夕刻よりすこし風がふきましたが、それでおさまるどころでなく、細君も一日中外へでており、息子殿も種々用事があったようで、宇治家参去は誰もいない休日を休日として休ませて頂き、ひさしぶりに学問を何もしませんでした(本当はマズイのですが)!

梅雨から家族3人でよく都内を経めぐり廻ったな……ということで、次の山場へ向けての決起大会です!

人間という生き物、本来ひとりでできることであったとしても、それがなかなかできないという側面を有しておりますからこそ、共同存在の他の人間によって、背中を押され、できないと遠慮していたことが、そそっとできてしまうというリアリズムがあるのかもしれません。

まずはプレミアムモルツの生をイッキ飲み!
黄金色の大人の飲み物がのどをとおると同時に汗がひくのが不思議です。

初手は、脂はのっているのにさっぱりとしたえんがわで始め、お兄さんに中トロとスーパードライの瓶ビールをお願いして、ひさしぶりのお米と魚に舌鼓でございます。

大トロぢゃなければだめだ!という方もいらっしゃいますが、宇治家参去はどちらかといえば、中トロぐらいの脂ののりぐらいのやつを、1カン程度で十分だなと思う次第ですので、1枚頂きましたが、肉とはまた違った魚の「コッテリ」具合というのもなかなかです。

目の前で捌いていただいたシマアジなんぞをヒマラヤの岩塩をおろしたやつでさっぱりと頂戴しましたが、醤油ではなく塩でやりますと、シマアジの潤沢な脂身がいきおいよく“引き締まる”というのはこのことでしょうか。

種々頂戴しつつ、夏の限定メニューということで、スタミナ三貫セット(うなぎ・焙りサーモン・豚カルビ)に挑戦です。

三河産の鰻の香ばしさ、道産サーモンの豊かな味わい、そして臭さのまったくないしまりのよい豚カルビなどという、ふたたび「コッテリ」で攻めましたものですから、やはりもう一度「さっぱり」したやつを!

……ということで、久し振りにひらめをオーダーです。
こちらも醤油ではなく岩塩で頂きました。
透き通るような白身にほんのりと輝く山葵の蒼がなんとも涼やかで清げで、ひらめこそ魚の王様ではないかと思う次第です。

そのほか、鰺、小鰭なんかをちょいちょいつまみながら、冷酒へチェンジし、本日は一の蔵(無鑑査・本醸造)にて米を相手に米の汁にて勝負させて頂きました。

ぼちぼちウェップだな……帰ろうか?

……とおもったところで、店内での活け魚の捌きがはじまりましたものですから、息子殿がこれまた興奮?し、本人は食べないくせに注文されたようで……。

頂きました。

豊後水道で水揚げされたばかりの八幡勘八(だったと思います)を〆の一品として勝負!

食べ過ぎでした。

しかし朝から何も食べておりませんでしたし、米を頂くのも1週間ぶりでしたので?のでちょうどいいのかなということで。

宇治家参去自体は、古式ゆかしき伝統的な日本讃美、ナショナリズムの言説に出てくるような、職務に熱心な帝国陸軍憲兵大尉のような愛国主義者ではありませんが、日本で造られる食のゆたかな地平には毎度毎度、讃美すると言うよりも感謝せざるを得ないということで、食に対して一種畏敬の念すらおぼえるものでございます。

しかし、今回一番美味だったのは、山形名物「だし」の軍艦だったのではなかろうかと思います。最近、東京でもちらほらみかけるようになりましたが、みょうが、昆布、なす、大葉(しそ)、きゅうりをきざんだちょいとねばねばしたやつなのですが、あつい一日をおえたひとときにこれがたまらなく効く!というやつでして……。

こちらは2皿ほど頂戴しました!

さて、帰り道。
タバコとビールを求めてコンビニへよりましたが、息子殿がポケモンのスピードくじ(500円)に挑戦したところ、なんと1等賞の巨大なぬいぐるみをゲットしちゃいました。

マア、暑い夏、父母とともに闘いの戦野?に同道したご褒美でしょうか。

しかし、この手のグッズ、ヤフオクなんかで売却すると良い値がつくので出品したいところなんですが、売却しちゃうとまずいよな~。

……などと忸怩した夏の一夜でございました。

さあ、今日からまたがんばりますか!

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捌きたてのしまあじ、
 夏のスタミナ三貫セット
  そしてしんせんなひらめ。
   白くかがやく身のおくから蒼く煌めく山葵が涼味を誘います。

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 これですね!
  豊後水道の八幡かんぱち、
   そして、山形の「だし」軍艦!
    夏には欠かせないひとしなです。

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 なんだかんだいいながらも、メニューにあればちゅうもんしてしまう生しらす。
  大葉とのベストマッチです。
    そして巨大なピカチュー!
     だまって出品しちゃおうかな……という誘惑を乗り越えました。

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気合いの冴え

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 一本一本のオールを流さないこと、誤魔化さないこと、それはむしろ、いわるべき言葉ではなくして、筋肉によって味覚さるべきものである。疲切った腕がなおも一本一本のオールを引切って行くその思い気分は、人生の深い諦視と決意の底に澄透れる微笑にも似る。この微笑気分はよき練習と行きとどいた技術の訓練においては特殊の「冴え」をもたらすものである。オールあるいは水に身を委ねた心持、最も苦しいにもかかわらず、しかも楽に漕げる境、緊張し切った境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。あるままに思切り振舞って、しかもあるべき調子に乗って行く気分である。それはいわば骨(こつ)、気合いの冴えとでもいわるべきものである。耐えることは最早放棄しか有得ない極みにおいて、何物かに身を委ねる。それはフォームといわんにはあまりにも流動的である。成長するモルフェの瞬間的な把捉であり、時そのものの特殊な実存的深化である。
    --中井正一(長田弘編)「スポーツ気分の構造」、『中井正一評論集』岩波文庫、1995年。

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どうも宇治家参去です。

エンジンがかかるのが遅かったですが、5月から7月にかけては自分自身としては、本業、市井の職場、家庭、社会活動等々……マアよくがんばったナと思わざるを得ないのですが、貧乏暇なし……ということで、仕事ばかりがつづくもので、なかなか休む時間がありません。

まだ若いですし、それはそれで「マア、なんとかするサ」という諦念……普通ならば「楽観主義」と表現する方が文意は正しいのでしょうが、宇治家参去の場合それはやはりどうしても「諦念」というのが相応しかろうと思います……にて難局をのりきる毎日です。

仕事・仕事の合間に種々、難行をこなしておりましたが、さすがに仕事が続くとキツイのですが、人もいないので休むわけにもいかず、休んでしまうと銭が減るし、大学の授業の場合、補講になりかえってきつくなってしまう……という負のスパイラルですが、なんとか仕事もぶじ一山越え?、大学の講義もあと1回で定期試験ということで、ようやく自分の時間がとれそうです。

今日の仕事もきつく、痛風が原因なのか、それとも市井の職場でレジを打ちすぎたためのストレスおよび立ちっぱなしが原因なのか不明ですが、両足が爆発すべく鈍痛が走るのですが、なんとか無事終了ということで、ようやく休みの水曜日です。

火曜にフラフラになりながら来週の授業の準備も澄ませましたし、来週返却予定のレポート添削も終え返却しました!

論文の資料解読もひとくくりおわり、つぎの山脈への登攀準備が整いました!

なにか、一抹の「筋肉によって味覚さるべきもの」を味わっている状況です。

ふう、疲れた!というよりもむしろ、さあ来い!

……という感慨にて、美学者・中井正一(1900-1952)が美しく描いたように、「疲切った腕がなおも一本一本のオールを引切って行くその思い気分は、人生の深い諦視と決意の底に澄透れる微笑にも似る」とのごとく、笑みすらこぼれてきそうです。

ただし、今日はチト痛飲してがっつり休もうと思います。

いつまでも走りきるほど、若くもないものですから。

……ということで?

24時過ぎに職場からの帰宅途上、道路にて、もさもさ動くカブトムシと遭遇です。

「気合いの冴え」にて発見できたのでしょうか。
「ここは東京なんだよな?」

……などと思いつつ、一枚取ってしまいました。

私淑する稀代の写真家にしてライカつかいのアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson,1908-2004)には叱られてしまいそうです。

ブレッソンは被写体と向かい合う際、なるべくカメラを意識させないように極限まで配慮した作風で有名で、決してフラッシュを使わなかったといいます。

「(フラッシュ撮影は)コンサート会場にピストルを持ち込むことだ」というフレーズは有名ですが、その禁をやぶってしまいました。

しかし、お陰でカブトムシの「画」は「記録」されましたが……まあ、いいですかね?
相手が人間ではありませんから……という発想が人間中心主義を招いているのは承知なのですが、今日はお許しを!

……ということで?

本日は、秋鹿酒造@大阪府の「秋鹿 特別純米酒 千秋 バンビカップ」を楽しませて頂きます。

鹿の絵柄が、カップを再活用させてくれる活力を提供してくれるものですが、久し振りに山田錦を酒米とした純米酒を頂きましたが、これはこれでなかなか濃厚かつ鮮烈な味わいに驚きです。

肴は、大好物?の冷や奴。
こちらは、男前豆腐(株)@京都府の「男の3連チャン」でやってみましたが、大豆の味が濃すぎて、鮮烈な日本酒にちょうどよい具合です。

……っていつも酒の話ですいません。

豆腐も日本酒も痛風には大敵なのですがねえ。

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中井正一評論集 (岩波文庫) Book 中井正一評論集 (岩波文庫)

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単なる善良さはたいして役に立たぬ

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 幸福についての複合的見方であれ、主知主義的見方であれ、アリストテレスはそのいずれかを完全に受け入れることにはためらいを感じているように思われるが、これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず、したがって人間の幸福の本質について不確かなままであったことからくる、と解釈できよう。アヴェロエスの場合、われわれは何であり、われわれの働きは何であるのか、を知る上で問題はもっと少ない。というのは、このことはイスラムによってある程度示されており、そして事実すべての信仰がそうなのである。
 しかし、彼は人々が幸福に至りうるさまざまな道を記述するのに、アリストテレスとは違う説明を用いる。この区別が必要なのは、人々がその能力や関心において異なるからである。たしかに、シャリーアの優れた点の一つは、誰にもその人に最もふさわしい形で幸福に至ることを可能にしている、というじじつのなかにあると考えられている。したがって。誰も内的能力の故に幸福を奪われていることはないのである--ある宗教において、その創造主が被造物をさまざまに創った結果、ある人だけが幸福になりえて他の人々がそうではないということになれば、それこそ問題であろう。
 アヴェロエスはこの点でプラトンを非難し、プラトンによる社会の説明では、国家の三階級のうち、守護者たちと哲学者たちの二階級だけしか論じられていない、と主張する。国家の法は理論的知識に基づいた幸福をエリートだけのために用意しているのに対し、シャリーアは全人類に--彼らがすべてムスリムである限り--幸福を保証している。この解釈によれば、プラトンのモデルは社会の一部に限定され、したがって政治的実在の一般的説明としては不満足なことになる。イスラム哲学者はこの批判を採用し、イスラムは社会全体をカヴァーするように、プラトンを満足のいくように変容することができたのである。なぜなら、啓示されたイスラムの真理は、それに対応する幸福と共に、すべての人に等しく開かれているからである。
    --オリヴァー・リーマン(中村廣治郎訳)『イスラム哲学への扉 理性と啓示をめぐって』ちくま学芸文庫、2002年。

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春先からさやさやとイスラム哲学、宗教思想に関する文献を定期的にひもとくようになりましたが、その濃厚なアリストテレス理解には驚くばかりです。

ご存じの通り、ローマ帝国崩壊後、アリストテレス(Aristotle,B.C.384-B.C.322)の哲学・思想がまとまったかたちで探究されたのは、当の西洋ではなく、バクダッドをはじめとするイスラーム世界であるわけなのですが……西洋に再輸入されるのは中世後半からですが……、往時をしのばせるアリストテレスの学説とイスラーム神学との対話に耳を傾けてみると発見することが多く、毎度ながらうならされております。

当然、酒を呑みながら、うならされているわけですが……それはひとまずおき、たしかに引用した文献にみられるように、アリストテレスの議論には「これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず、したがって人間の幸福の本質について不確かなままであったことからくる、と解釈できよう」というふしが多々存在します。

たしかにアリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、最高善とは何かを議論するなかで幸福であるというひとつの結論を提示しますが、当の最高善とは観照(テオリア)的生活(=真理を覚知する生活)であると論じてはおりますものの、その内実に関しては一切踏み込んでおりません。

既に何度か確認したところですが、最高善を保管するひとつの契機としての正義論に関しても、友愛(フィリア)の感覚が人と人との間に存在するならば、形而上的正義論は不要だとアリストテレスは論じておりますが、大胆だよなと思うばかりです。

天空のイデア界に汚れ無き完成されたモデルネを模索・願望しつづけた師匠・プラトン(Plato、BC.427-BC.347)とは裏腹に、大地に指を差しつつ、真理なるものは現実に内在すると説いたアリストテレスの学風を彷彿させる発想だとおもわれるわけですが、たしかに、現実の個物に注目しつつ、超越的なる概念を探究していくならば、簡単に「これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず」というのはすこぶる納得する次第です。

定義論的ファイナル・アンサーを模索したのがプラトンであるとすれば、そのファイナル・アンサーへの道程を示したがアリストテレスかもしれません。

昇っていく枠組みを確認しながら、その当人、すなわち個別存在者がその仕方において還元不可能な固有な仕方で在りつつも、普遍性へのつながりをうしなわないあり方の提示がアリストテレスの営みであり、そこになにかプラトンよりも親近感を覚えてしまう宇治家参去です。

昨年は研究所での輪読でスペイン・コルドバ生まれのイスラム神学者・哲学者イブン=ルシュド(Abu Al-Walid Muhammad Ibn Ahmad Ibn Rushd、ラテン名:Averroes,1126- 1198)の文献を独仏羅で読んでおりましたが、このところなかなか忙しく参加できないところが残念というか……忙しさを理由に、自分自身の選択肢の展開させる契機を自分で潰していることが残念なのですが、すこし状況がおちつけば真正面からとりくんでいきたいところです。

ちなみにこのイブン=ルシュドの業績がラテン訳され、中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学の興隆につながるわけですから、なかなか捨てたものではありません。

……ということで?

月曜は大学での講義があり、その日は、非暴力主義について講義してきましたが、この辺が実にむずかしいですね。

理念を現実に取り込んでいくといいますか、内在化させていくとでもいいかますか……しかし人間はその努力を怠ってはいけないのだろうと思う次第です。

アリストテレスの如く、定義づけはできません。
しかし、かすかな光明にして眼前にまぶしく光り輝く光明に近づいていく努力は手放してはいけないのかもしれません。

で……?
感覚とか理論として非暴力主義の真実性を理解することは容易です。
しかし、それを現実生活に適用させると、そこから脱落していくことが容易です。

なぜならば、時間がかかるからです。

学生さんたちの反応もそうした実感がありありと伺えました。

しかし、時間がかかるけれども本源的改革というものはそうした忍耐が要求されるものなのでしょう。

そしてそこでいう忍耐とは諦念としての忍耐ではなく、変革を覚知した決意としての忍耐なのだと思われて他なりません。それこそがアラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)のいう「意志」としての楽観主義かもしれません。

そして“わたしはそこなしの楽観主義者だ”と自認したのはガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)です。
ガンジーにおいてはアランよりも一段と高く「意志」の問題以上に「真理」論としての楽観主義者としてあったのだろうと偲ばれます。

しかしそこでおもしろい現実があります。
すなわち、ガンジーはその仕込において重々・念入りに組み立てていったということです。

仕込を重々・念入りに組み立てることを嫌悪するのが急進主義的アプローチかもしれません。そしてその青写真は妄想に産物にほかならず、現実への適用を不可能なのでしょう。

だからこそ次のような言葉が出てくるのかも知れません。

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善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立たぬ。人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければならない」という言葉にもよく表れております。
    --ガンジー(K・クリパラーニー編・古賀勝郎訳)『抵抗するな・屈服するな ガンジー語録』朝日新聞社、1970年。

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さっ、勉強しよう勉強!
善良さや強さは、賢明さの裏付けがあってこそ十全な力を発揮できるから!

しかし、その前に寝るか!
既に飲んでいて、いつも支離滅裂な宇治家参去でした。

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選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる態度を他の人格に求むることである。

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社会評論雑談(抄)

    〔各人の利益は各人最もよく之を知る〕
 「各人の利益は各人最も能く之を知る」といふ諺がある。前世紀初頭の自由主義や不干渉政策は一つにはこの命題を主なる根拠とした。今日でも往々にして此の格言に基く一種の自由放任論を世上に見る事がある。説き様に依ては正しいが又説き様に依ては飛んでもない間違いを生ずる。
 何処が悪いのかは病人たる本人が最もよく之を知る。併し其れが何病にて如何の処置を必要とするかは医者でなければ分からない。世の中でも、「解決」は本人の要求を丁寧に聴いて専門家たる第三者が之をきめるといふ場合は普通の現象である。
 何時の世にも一知半解の徒は非常に多い。素人鑑定家、田舎政治家、劇通、角通、数へ立てれば際限もないが、概して彼等は其の道の一端を聞いて直に全斑の通を気取る。是れ虚誇人の衒ふの性分にも依らんか、一つには思ひ掛けない知識の獲得に由て有頂天になるの余り、自らを過大に評価するの錯覚に陥るのが常人に免れ難いからであらう。病人にしても同じ事だ。少し何かを聞きかぢると、やがて医者をそつち除けにして己れの病気は何病だ、何の薬を飲めば直るなどと云ふ。斯う云ふのを医者に対する病人の無政府主義と謂つてもよからうか。
 知識が広まれば専門家を必要とする程度は減ずる。之は疑がない。併し専門家を必要としないと云ふ事と聡明なる先覚者に訊るといふ事とを一所に排斥してはならない。
 「各人の利益は各人が案外に知らぬことが稀でない」。その本人を離れて之を知り得る途のないのは勿論だ。昔の専制政治は民衆と没交渉に民衆の利福を進めんとした所に抜く可らざる誤があつた。民衆の要求は到底之を聴かなければならない。立憲政治はこの真理に立脚する。併し乍ら民衆の要求は何に依て満足せられ得るかも亦民衆自身が最も能く知つて居るのかといへば、之は大なる疑問である。痛苦を訴ふる本人が其の何病たるを知らざるが如く、要求の対象の本体は案外にも本人にも分つて居ないことは普通でないか。其処で病人が医者に聴くが如く民衆は先覚者にきく。茲処に代議政治の理論的根拠がある。所謂代議政治否認論は、一面に於て「各人の利益は各人最もよく之を知る」の意味を取り違へたものと謂ふことが出来る。
 「各人の要求は各人に就て之を知るの外に途はない」。而かも如何にして各人の要求を満足すべきかは、各人自身之を知らないのが常である。茲処に指導の必要が起る。時としてまた強制の必要が起る。孰れにしても、「各人の利益は各人最もよく之を知る」といふ命題より、自由放任論をひき出すことは甚だ危険である。

    〔自由主義の根拠〕
 さればと云つて僕は自由主義に反対するものではない。僕も熱心なる自由主義者だ。たゞ僕の自由主義は人性に対する無限の信頼から来るのである。
 僕は人の性能は無限に発達するものなるを信ずる。今日の無知は必しも明日の無知ではない。故に我々は現在の無知に失望することなく、将来の聡明に期待する処なければならない。而して彼の性能は本来日に日に発達して熄まざるものなるが故に、我々の最も心して努むべきは、正しきを知ることよりも、常に正しきを知らんとする向上的態度でなければならぬ。斯くの如き倫理的態度を社会上政治上の活動に応用すれば、民衆は現在の無知を自覚して指導を聡明なる先覚者に托さなければならぬ。所謂代議制否認論は、民衆が自ら其現状に於て聡明謬る所なしと僭称するに異ならない。
 選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる態度を他の人格に求むることである。他人の人格の内容によりよき己れを見出すことである。選挙権が人格の自由といふことに根拠して文化開発の上に一の重大な役目をつとむる所以は、主としてこの為である。
 人性の発達に対する無限の信頼といふことを外にして、自由主義の倚るべき基礎はない。
    --吉野作造「社会評論雑談(抄)」、『中央公論』一九二二年八月。

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哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)と聴きますと、壮大な弁証法的哲学大系の論者、すなわち怜悧な思弁的思想家としてその人物像を思い起こしてしまいそうになりますが、彼の真骨頂とはそこにはなく、むしろ数々の『政治論文集』にみられるような、情熱的な政論家であったところにあるのでは……などとフト思う宇治家参去です。

しかしヘーゲルにあってはその体系的な側面とリアルな現実との格闘は全く関係のない別個の二物であったわけではないのでしょう。

ヘーゲルの言葉に「現実のなかにこそ理性的なものは宿る」というものがありますが、ヘーゲルのかなにあってはまさに両者は有機的・弁証法的に相互作用を与えていたことは間違いないのだと思います。

さて、明治時代の末期、こうしたヘーゲルの法哲学の骨格を論じたひとりが宇治家参去が研究している……私淑している……吉野作造(1878-1933)でございます。

ちょうど吉野が大学院時代に演習の課題としてまとめたのが、『ヘーゲルの法律哲学の基礎』であり、刊行物としては吉野の処女作になり1905年、有斐閣より出版されました。

以後吉野は民本主義の旗手として論壇をリードしていくわけですが、吉野の生涯もヘーゲルと同じように理論と現実との対話の連続であったのだろうと思われます。

理論的な陥穽を突くことも、そして現実の適応論の不備を突くことも実に簡単なことなんです。

吉野を批判する同時代の論者の文献を読んでいるとそのことを痛感します。

吉野の議論の不整合をつくことは実に簡単です。

しかしその検証作業をしているとおどろくことがあります。

すなわち、突く方は、どちらかにどっぷりとひたっている……その事実です。
現実を抽捨した理論家は手厳しくツッコミを入れるわけで、理論もヘッタクレもないと血眼になり革命を模索する現実主義者は、その不備を指摘してやみません。

しかし、どちらも両極端の極端であり、理論からも現実からも遠ざかるばかりなのでしょう。

雄々しく改善しゆくためには、不備を承知で不備を修繕しながら、一歩一歩すすんでいくしかない……。

そのことを吉野の文献を紐解きながら実感する……否、せざるを得ない……宇治家参去です。

ちょうど今日から東京都都議会議員選挙のようですね。

現実の対話を拒否した理論も理想も大風呂敷も不要です。
吉野が語る如く徹底的に現実と理念の対話を忘れず、生きている人間の眼差しを忘れず、汗をかいてくれる政治家の到来を希望するのみです。

ちょうど、息子殿が幼稚園から七夕の短冊をもってかえってきてくれました。

おそらく彼が成人する頃は、時代情勢としては今よりも悪くなっているのでしょう。

百年の計とは、そこにすまう人間のために存在するはずです。

未来への責任ある行動と実践に期待したいところです。

ちなみに息子殿の書いた短冊には「大学の先生になる」と書かれておりました。

うれしいやら、かなしいやら……。

本人に何を教えるのか?って聴いたところ、

「ポケモンがく(学)の先生」

……だそうな。

大学の先生になっていただくのは結構ですが、くれぐれも神学だとか倫理学だとか、哲学の道にはすすまないように……。

……ってことで、寝ます。

明日……精確には本日から……から仕事が六連チャンなのですが、嬉しいことに?1月に目黒で飲んで一緒に死んだ莫逆の友から緊急連絡があり、仕事にいくまでちといそがしい一刻一刻を送らねばならなくなってしまいまして……はやく寝た方がよいのですが、まだ飲み足りない……という状況で……。

人間という生き物は不思議な生き物です。
うえで吉野が指摘しているとおりで、自分本位でありながら、自分本位のために自分で動けばいいのに動けないという側面があるわけなのですが、どこかそれでも自分本位って錯覚してしまいます。

目指すべき自分本位の確立とは自分自身によってのみ成就できないのが実情なのでしょう。

そこを糺してくれるのが友かもしれません。

ひととの触れあいによって、本当に自分がすすめていかなければならない自分本位に軌道修正してくれるのは実にありがたいもので……。

吉野の最後の言葉……すなわち、

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 選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる態度を他の人格に求むることである。他人の人格の内容によりよき己れを見出すことである。選挙権が人格の自由といふことに根拠して文化開発の上に一の重大な役目をつとむる所以は、主としてこの為である。
 人性の発達に対する無限の信頼といふことを外にして、自由主義の倚るべき基礎はない。
    --吉野、前掲書。

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このへんを、政治屋さんたちには深く理解してもらいたいものです。

でないと、息子殿が大学教員になったご時世には、宇治家参去の時代よりも厳しき状況だと想像されますから。

しかし、くどいようですが、神学だの云々はやらなくて宜し!

つうことで、青梅の地酒「多満自慢」(佳撰辛口・石川酒造)でも頂いて寝ますワ。
何しろ昨日は日本酒を封印したものですから……。

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「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」

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 『ところで死は? どこにいるのだ?』
 古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」
 これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、この一瞬の意味はもはや変わることがかなった。しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間つづいた。彼の胸の中でなにかことこと鳴った。衰えきった体がぴくぴくとふるえた。やがて、そのことと鳴る音もしわがれた呼吸も、しだに間違いになって行った。
 「いよいよお終いだ!」誰かが彼の頭の上で言った。
 彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』
 彼は息を吸い込んだが、それも中途で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。
    --トルストイ(米川正夫訳)『イワン・イリッチの死』岩波文庫、1973年。

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凡庸な一官吏イワン・イリッチが不治の病にかかり、あらゆる肉体的・精神的苦痛を経験し、死の恐怖と孤独にさいなまれながら、最後にはある種の達観にいたるようするを、なまなましくも透徹に描ききったトルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828-1910)の作品が『イワン・イリッチの死』ではないかと思います。

非凡な英雄よりも、凡人の小さな生活の存在感こそぬぐいがたい事実であり、トルストイの人間観察とその描写には、驚くばかりです。

この著作は、『アンナ・カレーニナ』以後のトルストイの転回・深化の出発点となる作品であり、人生の根本問題たる「死」の問題を生活のただなかで真正面から捉え直した作品になるわけですが、そこで開陳されるトルストイの死生観とは……単純化の恐れがありますが……いわば、「生も歓喜」「死も歓喜」といったところでしょうか。病に苦しみにのたうちまわるイワン・イリッチには、「死」は見えず、対象化された「恐怖」しか見えません。

しかしイワン・イリッチは自分自身の内なる声と対話をつづけるなかで、死の間際において光を見出します。

とかくまわりの状況や事件に紛動されがちな宇治家参去ですが、左右されない根本原理としての死生観とでもいえばいいのでしょうか、ラテン語の格言Memento mori(「死を想え」「死を忘れるな」)を忘れずに状況と向かい合っていきたいものだなと思う毎日です。

さて、
最近おどろいたこと3点。

ひとつめは先週、実母と電車にのりましたが、電車のなかで立っていると、座っていたお姉ちゃんが母親に席を譲ろうとしてくれたこと。
※次の駅でおりるため、こちらも遠慮しましたが。

ふたつめは短大の授業のなかで、「軍艦マーチ」の話をしたところ、「軍艦マーチ」なるものを知らない学生の方がマジョリティであったこと。

そしてみっつ目が、昨日、またしてもデジカメを紛失してしまったこと。
月曜日にパソコンの液晶をフルHDモニタに買い換えたついでに、買ったばかりのカメラです。短い人生でございました。

昨日、高尾へ家族と出かけましたが、その帰路、どこかで紛失したみたいです。

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 紛失して辛く思う感情の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」

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かくありたいものです。

高尾の写真はすべてパー!になりましたので、弔い合戦の写真でものっけておきます。

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イワン・イリッチの死 (岩波文庫) Book イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

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権力者というものは、おのれの暴力行為をつねになにか宗教上の理想、世界観上の理想で飾りたてようとするものである

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 権力者というものは、おのれの暴力行為をつねになにか宗教上の理想、世界観上の理想で飾りたてようとするものである。
    --ツヴァイク(高杉一郎訳)「権力とたたかう良心」、『ツヴァイク全集 第一七巻』みすず書房、1973年。

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先ほど自宅へ戻ってきました……。
ちょいと市井の職場で突発休がかさなり、帰宅が長引いてしまったようで……。

ちょいと段ボールにパンチをしてきました。
突発休とは職場におけるテロリズム?かもしれません。

さて……
ご存じの通り、宗教に「名」を「借りた」テロリズムとは暴力に他なりません。
イスラームすべてが「原理主義」的「テロリズム」と断じてしまうメディアの偏向性には辟易としてしていまうものですが、「理想」を「飾りたてよう」とするところには、実のところ「理想」は現出しないのかも知れません。

宗教に「名」を「借りた」テロリズムの病巣をこのところ探究するなかで、オーストリアのユダヤ系作家・評論家として知られる孤高の思想家・ツヴァイク(Stefan Zweig,1881-1942)の文献を紐解いていたわけですが……ちょうどamazonのマーケットプレイスでゲットしたわけですが……その謎が氷解した思いです。

なにかに、宗教とか思想とか理想とか理念といったものが「誘導」「利用」されてしまうことほど恐ろしいことはありません。

だからこそ、賢明に懸命になるしかないのでしょう。

そもそも宗教……いわゆる世界宗教……とは人間を幸福へと導くものに他なりません。

幸福へ至るので在れば、自爆する必要も、異なる信仰者を破壊することも必要ありません。

そのへんのところを「生きている」「人間」の「感覚」として常に鋭敏にもっていかないと、なにかおおきな集団熱狂的な波が襲いかかってきたときに、その勢いを避け、非暴力的手段をもって対峙していくことはできないんだよな~、と最近そんなことばかり考えております。

人間を人間として、そのカテゴリーとして見ずに、代換不可能な唯一者として接していく……このへんを生きる流儀として確立していくしかないんだよな~、と最近そんなことばかり考えております。

最後にツヴァイクの師匠・ホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal,1874-1924)の言葉で紹介しておきます。

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他人に対して傍観者の態度がとれる人であるか、それともつねにともに苦しみ、ともに喜び、ともに罪を受くる人であるかどうかは、決定的な差異である。後者は真に生きている人だ。
    --ホーフマンスタール(都筑博訳)『友の書』彌生書房、1972年。

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……ということで寝ますワ。
明日……というか本日は朝一で高尾(八王子市)へ出かけないとマズイので。

高尾へは、マスコミで仕事をしていたときに取材で一度、そして新宿で飲んで電車で寝て起きたら到着したのが一度……終電終わっていたのでタクシーで帰りましたが……訪問したきりです。

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理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである

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 理性のある動物、人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけることもできるのだから。
    --フランクリン(松本慎一・西川正身訳)『フランクリン自伝』岩波文庫、1957年。

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先が思いやられるのですが、今年の夏はあつくなりそうです。
まだ6月……といってももはや本日のみですが、かなりじめじめ、むしむし、としており、ちょゐとメタボリック星人を自他共に任ずる宇治家参去としては、過ごしにくい季節でございます。

6月といえば、ジューン・ブライド(June bride)が有名ですが、ブライダル産業における結婚式の稼働率は、6月まっただ中というよりも、実は春先と晩秋の方が繁忙期だそうで、6月は統計的にはすくないのだとか。

そりゃあそうです。
これだけ蒸し暑いと、せっかくの衣裳も化粧も台無しになってしまいますから……。

……って話がずれ込みました。

宇治家参去が講義をする場合、どんなに暑くても、ネクタイを締め、上着をきて、場合によっては8月の真夏でも三揃えで講義をします。

ことしは6月のあたまに三揃えをきて授業をしましたが、とけてしまいました。
7月、8月は無理そうです。

ですけど、「伝統的な学問」である哲学とか倫理学を講じるにあたっては、スタイルも伝統的なスタイルにこだわらなければならない……というのを金科玉条にしておりますので、ベストは着用できないかもしれませんが、このスタイルを崩したくはないものです。

ちなみに、月曜に短大へ出講すると、だれもネクタイをしめておりませんでした。

半袖のドレスシャツ!に、クールビズ!

ウラヤマシイ!

……くはありませんよ(苦笑)。

我が道を歩み抜く中に、真実の道が開かれてくるわけですから、いかに暑くとも、溶岩がふりそそごうともこのスタイルだけは変更することが不可能なようです。

しかし、夏の掟を最近変更してしまいました。

宇治家参去、日に10杯以上は、本格コーヒー……すなわちインスタント、缶コーヒーを除く……を摂取しております。

むかしから、どんなに暑い日でも「アイス・コーヒー」は退けながら、ガチ熱い「ブラック」にこだわり続けてきました。

よくいうではありませんか!
夏は冷えたお茶よりも、熱々のお茶のほうがかえって暑さがひくと……。
それを謹厳実直な帝国陸軍憲兵大尉の如く励行してきましたが、最近その掟が崩れつつあります。

「アイス・コーヒー」がうまい!

……とゴマカシながら、ホットコーヒーを退けつつ、堪能しております。

うまいし、暑いときには、ホットとアイスを混在させたほうが、すかっとするのではなかろうか……などと理由を付けてしまいました。

それでよしとします!

「伝統的な学問」にこだわるのであれば、コーヒーも伝統的にホットで飲まなければならないのですが、人間とは不思議なモノで、「したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理窟をつけること」ができますので、ちょいと許して貰おうかと思います。

しかし、本日も蒸し風呂ですね、八王子は。

33度でございました。

がんばって授業では上着をとりませんでしたが……。

……ということでご褒美!

日本酒はホットよりアイスに限ります。
細君が月に一度、人間関係世界の必然的理由によって地酒購入してくれますので、今日は半年ぶりに「純米吟醸酒「出羽燦々誕生記念  (本生)」です。

山形の日本酒はどうしてここまでうまいのでしょうか。
清らかな水、そして瑞々しい米に、作り手の優しさがあるのかも知れません。

……ということで、酒は冷やに限るというのを金科玉条にしておりますので、それを職務に忠実且つ謹厳実直な帝国陸軍憲兵大尉の如く、実行して参ろうかと思います。

おやすみなさい。

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互恵という精神的理想の上に打ち立てられることをわれわれは望んでいる

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 次の時代の文明は、経済的、政治的競争と利用とにもとづくものではなく、全世界が社会的協同に基盤を置き、能率という経済的理想の上ではなく、互恵という精神的理想の上に打ち立てられることをわれわれは望んでいる。それを実現するときには、女性は自らの真の位置を見出すだろう。
    --タゴール(山口三夫訳)「人格論」、『タゴール著作集』第九巻、第三文明社、1981年。

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土曜日に母が、世田谷の住む友人を訪ねて東京へ赴いてきましたので、道案内ということで、同道してきましたが、実に暑い一日でして……。

30度はゆうに超えていたようで、湿度も高く蒸し暑い一日でございました。

50年ぶりの再会ということで、旧交を温めて頂き何よりです。

宅を辞してから、新宿に用事があり、要件がすべてと済むと13時過ぎ。

ちょうど一番暑い時間帯でしょうか。

近くに……鮨屋しかなかった……?

……ので、握りをいただき、ビールまで頂戴しましたが、この季節は昼ビールが旨いものでして……。

一仕事あとの麦芽は夏の快味であることは間違いありません。
暑ければ暑いほど、そして不快指数が高ければ高いほど、快味であることは間違いありません。

さて……。
いずれにせよ、男性とは腰が重い生き物であるのに対して、女性とは身軽くぱっぱぱっぱと目的に向かって軽やかに進んでいけるのではなかろうか……などと実感します。

ともすれば観念論に堕してしまいがちな存在を横目に、そうした女性が動くという時代は、新しい時代の開幕かもしれません。

……ってこれは、「だからといって」観念論にふけっていてもよろしいという免罪符ではないことも忘れてはならないところだろう……ということですね。

昨日は幼児のように?

21時には沈没してしまった次第です。

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開学一期生からのレポート:人間は小宇宙ではなく、大宇宙-巨大宇宙である

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 人間は小宇宙ではなく、大宇宙-巨大宇宙である。なぜなら、他の一切の自然においては必然的に不完全であり、断片的であり、単に原始的であり、独立していない一切のものが、人間においては、少なくとも理念及び可能性からすれば、完成しており、成熟しており、自覚しているから。
    --ジンメル(清水幾太郎訳)『愛の断想 日々の断想』岩波文庫、1980年。

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どうも宇治家参去です。
先週中盤、レポートの山が送付されてきたのですが、今回は、毎日やっていこう!ということで1日何通ということでこつこつ見ていたお陰で、返却〆切まで10日近く残し添削完了しました。

で……。
久し振りに「感動」しました。

せせこましい世の中の瑣事に振り回され、「お前らなあ~」と思い悩みつつ、浴びる冷や酒の量が多くなり、結果として足も痛くなってしまう昨今ですが、今日は「お前らなあ~」ではなく、「いや~あ、人間というヤツ、まだまだ捨てたアもんじゃアねエなア」と思いつつ、乾杯でもしようかとおもうほど「感動」しました。

人間とは生命としては、他の本能のみで生きる動物より不完全ですから、理由が「お前らなあ~」という場合であっても、「いや~あ、人間というヤツ、まだまだ捨てたアもんじゃアねエなア」という場合であっても、飲み過ぎると足が痛くなってしまう訳ですが、今日は無礼講?でしょうか。

……って話がずれこみました。

ちょうど送られてきた最後のレポートをみていると、学籍番号の入学年度表記の部分が「76」……。

うぉぷっ!

……これってひょっとして、担当している大学の通信教育部が開設されたした年じゃないか!

感動しました。

通学部と違い通信教育の場合、入学者に対する卒業生の割合は、数%程度と一般的には言われてい、4年で卒業できる事例もこれまた稀であるわけですが、通信教育部開設時の入学とすれば、本年で在学33年目です。

途中で長期の休学とか種々あったのかも知れません。

しかし、「あきらめず」に学ぼうとする意欲と執念に関しては、「人間」として襟を糺して学ばざるを得ないよナ……レポートと向き合いつつそう思うことひとしきりです。

返却するコメント欄には、最後にRedのインクの万年筆で……宇治家参去の場合、書き込みはBlueBlackかRedBrownのインクを使用しますが……、ここばかりは「がんばって卒業してください!」と書き込んでしまいました。
※ちなみに俗に言う「達筆」という「判読不可能」な「難字」で恐縮です。

で……、
へんな言い方で恐縮で誤解を招きそうですが、「あきらめてしまう」ことって学問に限らず簡単なんですよね。

例えば、哲学的思索の重大問題における「人間とは何か」という探究に関して言ってみるならば、「人間なんてラ・ララ~」と「定義」づけてしまうことは簡単です。しかし、それはひとつの「あきらめ」であり「閉ざされた」思考・志向の硬直化に他なりません。

「あきらめず」に「奮闘する」姿……そこにこそ人間の人間らしさ、「小宇宙ではなく、大宇宙-巨大宇宙」たる所以があるのでしょう。

ときどき仕事をしながら……といっても学問で喰えないので、市井の仕事と併業しながら、「ぼちぼち、あきらめたほうがよいのか?」などと思うことの多く胃痛と痛風に悩まされる宇治家参去ですが、(ある程度時間を区切ってってことになりますが)挑戦できるうちに悔いのない挑戦はしておかないと!などと反省した次第です。

……ということで、その健闘に対して祝杯をあげないわけにはいかないでしょう!

梅雨~真夏はメタボな宇治家参去には難渋な季節でございますが、ビールが旨い季節でもございます。今日はチト奮発して、Suntoryの『プレミアム・モルツ』で「ワルプルギスの夜の夢」でございます。

しかし、よかったです。
今夕から豪雨でしたが、帰宅時は雨があがり、これはひとえに、日頃の行いがよろしきがゆえにそうなったのか……などとおもうわけですが、いかがでしょうか?

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自分があれこれの特定の人間であるということ・自分がそもそも人間であるということ

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 ほとんどすべての人間は、自分があれこれの特定の人間であるということを、そこからみちびきだされる系をも含めて、たえず気づかっている。これに反して、自分がそもそも人間であるということ、そしてここからいかなる系が出てくるかということは、ほとんど彼らの念頭に浮かばない。けれども実は、これが大切なことである。はじめの命題よりもあとの命題の方に心を寄せる少数の人々が、すなわち哲学者である。
 それでは、ほかの人々の心の傾向は何にもとづくかというと、それは、彼らが物事に接していつも個別的な個体的なものを見て、それらに具わる普遍的な事柄をまったく見ない、ということから起こっている。いくらか高い天分をさずかった人々だけが、彼らの優秀さの度合いに応じて、次第に個々の物事の中に、それらを通ずる普遍的な事柄を見るようになる。
 この重要な差別は、認識能力全体にわたる差別であるから、きわめてありふれた物事の直観の末にまで及んでいる。だから、そういう卑近な物事の直観でさえ、それが優秀な頭脳の中にあるのと、平凡な頭脳の中にあるのとでは、すでにちがっているわけである。--このように、そのつど接する個別的なものにおいて普遍的なものを把握するはたらきは、私が認識の純粋に没意志的な主観となづけて、プラトンのイデアに主観の側で対応するものとして説いておいたものとも一致する。けだし、普遍的な事柄に向かう認識だけが、意志から解放された認識にとどまるのであって、個別的な物事は、これに反して、意欲の対象であるからである。それゆえに、動物の認識はこの個別的なものだけに窮屈に限定されており、それに応じて彼らの知性ももっぱら彼らの意志に奉仕する位置にとどまっている。これに反して、上に述べた普遍的な事柄へ向かう精神的傾向は、哲学と詩において、一般に芸術と学問において、真価のある仕事をなしとげるために必須の条件である。
 意志に奉仕する知性にとって、すなわち実際的に使用される知性にとっては、存在するものはただ個々の物事のみである。芸術と学問にたずさわる知性にとって、すなわち独立に活動している知性にとっては、存在するものは、すべて種とか属とか類とかのような普遍的存在のみであり、事物のイデア(理念)のみである。造形的な芸術家さえも、個体の中に理念を、すなわち類を表現しようとしているのである。
 この差別は次のことにもとづいている。すなわち、意志というものは、直接には、もっぱら個別的な事物のみをめざしている。これらのものが、意志の本来の対象なのである。というのは、それらのみが経験的な実在性を具えているからである。--これに反して、概念や類や種は、すこぶる間接的にしか、意志の対象とはなりえない。粗野な人間が普遍的な真理をまるで理解しないのは、このためである。
    --ショーペンハウエル(細谷貞雄訳)「哲学とその方法について」、『知性について 他四篇』岩波文庫、1961年。

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午前中にレポート添削を少しすませ、昼からは、まだ手を付けていない論文の資料に目を通していると……はや夕方です。

休日なのに、マアよく仕事をしたわい!ということで、夜はゆっくり休ませて頂くか!と思った矢先、細君が急な外出の要件ということで、息子殿と留守番してくれ……とのご命令のようで、「ゆっくり休ませて頂く」ことが不可能になり、深い溜息をつくある日の宇治家参去です。

「息子殿と留守番」ということは……とりもなおさず、そのお相手をしなければならない……という状況で、当然「ゆっくり休ませて頂く」わけにもいかず……仕事もしたし予定もはいっていないので、今日ぐらい休ませてくれや!って式にレンタルしていたDVDでも見て、ちびりちびりと飲みながら日付変更線が変わる前に寝よう!と思っていたのですが……、息子殿と対決です。

……ただ細君が出ていくと、

それはやはり息子殿にとってもまさに「鬼の居ぬ間のなんとやら」で、早速「Youtube!Youtube!」と激しい催促デモに遭遇です。

このまま「Youtube!」に「留守番」させるのもなんだかなあ~というところで、2-3日、パソコンにふれることを我慢していたようなので、「Youtube」をセットしながら、その横でこっちは作業しながら、すこしやりとりをすることにしました。

もっともYoutubeを真剣に鑑賞したい息子殿にしてみると、横から口を挟んでくるそのあり方はウザイのでしょうが、構わずに?言葉をかけると、それでも返してくれるようで、少し発見の数時間です。

息子殿の生活や言動を観察していると……これは幼稚園に入る前ですが、ひとつ思っていたのが、個別の存在者を認識することはできても、その個別の存在者を収斂していく「種」とか「属」とか「類」を認識するのが難しいようだよな~と常々実感していた事態です。

今日の息子殿は英語塾が夕方にあったので、何をやったの~?ってふってみたわけですが、やはりYoutubeに集中したいので、「覚えていない!」って速攻で返されましたが、丹念に執拗に声を掛けていくと、動物の名前なんかで数の数え方をやったようでして……

「象」は「えれふぁんと」、「虎」は「たいがー」

……なんだよ、と言っておりましたが、

それでもそのあとで、

「“象”は“えれふぁんと”だけど、“えれふぁんと”にはいろんなぞうがいるんだよ。いんどぞう、あふりかぞう。だけど、いんどぞうもあふりかぞうも“えれふぁんと”なんだよお~。あにまるかいざーの“るしふぁー”もぞうだよお」

幼稚園にはいってからは、ある意味で共同生活や学習を経験し、そして塾での勉強に取り組むようになってからは、稚拙ながらも特殊な還元不可能な個別の存在者だけでなく、その存在者を「ひとくくり」にする概念とか理念を理解し始めたようですね。

動物とか植物に関しては、それでも、個別の存在者とそれを包括する概念を理解するのは早かったかと思います。

例えば、スミレやタンポポ、白百合……といった個別の存在者をそれとして認識しながらも、「花」なる概念・理念を「花」とは異なる概念・理念と区別することには、うえの象の話ではありませんが、早かったかと思います。

ただ、話を聴いていると、個別の存在者と包括する概念・理念の関係において一番難解なそれはやはり「人間」ということのようでした。

「○○くん」
「××さん」
……こうした個別の還元不可能な存在者に関しては、その違いを理解し、その差異を尊重しているようでしたが、それをグルーピングしてしまう排他的概念である「人間」なるものに関してはなかなか理解できなかったようですが……。

それでも、マア、(本人はYoutubeに集中したいのでちとウザイ感全開ですが)「仮面ライダー」のup動画を見ながら、「でぃけいどと人間はどっちがつよいの?」と聞いてくるので、「リアルなにんげんだよ」って返答すると、「ありえない」って返され、矢継ぎ早に「なんで?」と聞くと、「にんげんがつよいのなら、ぱぱよりつよいはずだけど、それはありえないよね」……。

……次の言葉が出てきませんでしたが、ある意味では「人間」という概念を理解しはじめたようです。

思うに、人間に関しては子供は還元不可能な個別の存在者の認識に傾くきらいがある一方で、大人はそれを抽象化・概念化してしまう普遍の認識に傾くきらいがあるようです。

しかし、どちらも極端な形であり、その両者を相関的に相互検討していかない限り、「○○君」の笑顔が輝き、「人間」なる普遍的概念が煌めく生活というのもアリエナイのでしょうねえ。

……ということで、寝るか。

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適量がむずかしいです

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……ん、ん、ん~むぅ。

金曜日、5月に短大で休講した授業の補講のために大学へ出講してきましたが、その授業のなかで、「善を為せというが、その善がわからない」という議論に関して、ひとつまとめていたのですが……。

……宇治家参去、一応、この手の文章を書くときは、基本的にはテキストエディタで文章として書き、保存して、upしているのですが、「名前を付けて保存」をクリックしたまではいいのですが、途中で、×点をおして、「保存しますか」で「いいえ」を選択して、ふっとんでいきました。

呑んでやっていたのが良くないですねえ。

書き直す気力が萎えましたので、また改めます。

少し酒を控えようと思って、昨日はビール500ml缶1本と、日本酒1合でクローズさせました。
※普段は大体、ビール500ml×3,日本酒が3合強程度(だいたい1升瓶もウィスキーのボトルも3日で底をつきます)。

しかし、控えたのがよくありませんでした。
寝付きの悪いことといったらありゃしません。
1時間おきには目が覚めるし、熟睡もできないもので、まったく寝た気がせず……。

今日はちとがっつり呑んでやろうと思って飲みながら書いているとこの体たらくです。

少なくもなく、多くもなく……というあたりに「人間の真実」はあるのだろう……ということでしょうかねえ。

宇治家参去御用達である「うどん」を看板とする「武蔵野うどん いちょう庵」で「蕎麦」を頼んでしまったところにも、そうしたチグハグがあるのでしょうかねえ。

とりあえず、モチッと呑んで寝ますわ。

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愛は惜しみなく奪うものだ。愛せられるものは奪われているが不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている

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 愛は自己への獲得である。愛は惜しみなく奪うものだ。愛せられるものは奪われているが不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。ダンテが少年の時ビヤトリスを見て、世の常ならぬ愛を経験した。その後彼れは長くビヤトリスを見ることがなかった。而してただ一度あった。それはフロレンスの街上に於てだった。ビヤトリスは一人の女伴れと共に紅い花をもっていた。而してダンテの挨拶に対してしとやかな会釈を返してくれた。その後ビヤトリスは他に嫁いだ。ダンテはその婚姻の席に列って激情のあまり卒倒した。ダンテはその時以後彼れの心の奥の愛人を見ることがなかった。而してビヤトリスは凡ての美しいものの運命に似合わしく、若くしてこの世を去った。文献によればビヤトリスは切なるダンテの熱愛に触れることなくして世を終ったらしい。ダンテの愛はビヤトリスと相互的に通い合わなかった。(愛は相互的にのみ成立つとのみ考える人はここに注意してほしい)。ダンテだけが、秘めた心の中に彼女を愛した。而かも彼は空しかったか。ダンテはいかにビヤトリスから奪ったことぞ。彼は一生の間ビヤトリスを浪費してなお余る程この愛人から奪っていたではないか。彼れの生活は淋しかった。骯髒(こんそう)であった。しかしながら強く愛しtたことのない人々の淋しさと比べて見たならばそれは何んという相違だろう。ダンテはその愛の獲得の飽満さを自分一人では抱えきれずに、「新生」として「聖曲」として心外に吐き出した。私達はダンテのこの飽満からの余剰にいかに多くの価値をおくことぞ。
    --有島武郎「惜しみなく愛は奪う」、『惜しみなく愛は奪う --有島武郎評論集--』新潮文庫、平成十二年。

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市井の職場で、パソコンを使って私的な仕事をする際、公用のパソコンを使いたくないので、私物のパソコンで仕事をしておりますが、昨年導入した日立のCPUがPentiumII233という骨董的なマシンにWindows2000をぶちこんで使っていたマシン……それでも、MS-OfficeもネットもぎりぎりOKでつかっておりましたので、それなりにもっさりはしておりましたが重宝していたマシンですが……がとうとう、成仏なされてしまいました。

ソフト的なトラブルというよりもハード的なトラブルのようにて、HDDを換装するとか種々対処は想定できるのですけども、その方がかえってコスト的に高く、マア、購入も2000円で買った骨董マシンですから、踏ん切りはつくのですが、会社のロッカーに置きっぱなしする新しいPCが必要だわな……その出費に悩む宇治家参去です。

宇治家参去の場合、かなり「律儀」といいますか「杓子定規」といいますか、パブリックとプライベートをかなり俊敏に区別してしまう性質です。

おそらく前世紀的にきびしい躾をされていた三つ子の魂なのでしょう。
セキュリティの問題がどうだとか、ファイルのウィルス感染がどうだ、とかいう当座的な問題以上に、どうも会社のPCなんかで私的な要件を済ませるのが……それが許容されたあり方であったとしても……なにか抵抗を感じるところがあります。

大学では共用PCですがアカウントで管理されているので、それなりに利用しますが、市井の職場ではやはり自己PCをロッカーに寝かせて、休憩中に学問の仕事をしたり気分転換をしたりと利用しております。

windows2000以上であればウィルコムとかe-mobileの接続ができますので、それをひとつの規準にして利用していたわけですが、10年以上まえに発売された、やはり2000円の骨董マシンです。

よく1年間もってくれたものです。

ありがとうございました。

ご成仏、心より深く哀悼の意を表します。

ただ……そのPCの成仏は、そのマシンの負荷以上の活躍から、深く哀悼の意を評せざるを得ませんが、同時に後継機も必要となるわけで……。

自宅には、今モバイルPCが3台あります。
1台は出張用の新調したSonyのvaio type-P。
1台は、息子殿のYoutube観賞用……それはMottainai使い方なのですが……IBM(現Lenobo)のThinkPadX61。
1台は細君が利用しているAcerのネットブック・AspireOne。

細君利用のPCはほとんど利用していないようで、結局宇治家参去が不在時に宇治家参去がメインPCとして利用しているデスクトップをいじくっているので、それを代換えすることは可能なのですが……、

「何かあったときに、使えないと困る」

……とのことで、代換え拒否!

数日前から、骨董マシンが「ぷすんぷすん」と微妙な音色を奏でておりましたので、その代換えにと伺いましたが、「非常時に困る!」とのことで拒否られてしまいましたので……

「それなら、その代換え分の費用を!」

……と申請したところ、

「今月は実家にもどったりと色々出費があったから、自家撞着?しなさい」

……とのことで、

結局、ネットオークションでライターでも売却してそれに見合う、多分、5000円前後でしょうか……その費用で、1-2年使い潰せるマシンを新調するほかありません。

金のないときにかぎって、必要不可欠な出費が要求されるのは世の常なのでしょうか!

まさに、「愛は惜しみなく奪うものだ。愛せられるものは奪われているが不思議なことには何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている」ようです。

トホホのホイ!

いつもだと冷酒で締める!わけですが、気分転換にカクテル・パートナー(アサヒ)の「イタリアン シトラスプモーニ」でも呑んで寝ます。

これ以上、「惜しみなく奪われる」と辛いので。

ただ、これ、「甘すぎる」!

世の中は「甘くない」ので、ときには「甘いもの」がちょうどいいのかしら?

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次号「以降」ですから、次号という「必然」はなく……

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(引用者註……時間が短いと嘆く人に対して)しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くは浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩(ほうとう)や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使わないならば、結局最後になって否応(いやおう)なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くその通りである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。
    --セネカ (茂手木元蔵訳)『人生の短さについて 他二編』岩波文庫、1980年。

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今から考えると市井の仕事の休憩中に古代ローマの哲人政治家・セネカ(Lucius Annaeus Seneca,B.C.1-65)なんて読んでいなければよかったと思うわけですが、あとになってみるとよかったということにしておこうと踏ん切りをつける宇治家参去です。

夜半からの暴風豪雨の影響で、市井の職場も……すなわちGMS店舗ですが……閑古鳥のため、今日はゆっくりと本が読めるな!と思っていた矢先、細君より不幸のメールが到来です。

よく言われますが……ワタシダケ?……「Amazonは忘れた頃にやってくる」というわけで、だいぶまえに注文を入れていた書物が宇治家参去の出勤後、到着したご様子のようで……。

それが数千円のやつなら何も問題はなかったのですが、フランス語の洋書で、2万円近くするヤツの代金引換の配達のようでして……

「なんで、お金をおいていかなかったのか!」

いわゆるクレーム・メールというやつです。

たしかに配送のお知らせのメールは見ていたのですが、なんとなく酒飲んでスルーしていたようで「なんかくるんだよな」という程度の認識で、詳細を把握しておらず、「不祥事」となった次第です。

明日にでもお返ししますので、お許し下さいまし。

さて、到着したのは、フランスのカトリック思想家でトミズムを代表するジャック・マリタン(Jacques Maritain,1882-1973)の全集の第3巻なのですが、これがべらぼうに高いわけで、立教の図書館には所蔵されていたとは思うのですが、洋書の場合、あれこれと書き込みが多くなるので、なるべく自前で手に入れるようにはしております。

しかし、なんで、ジャック・マリタンの著作なんか頼んでいたんだっけ?

たしか、ジャック・、マリタンを師匠と仰ぎ、神学研究を続けたカトリック思想家・吉満義彦(1904-1945)の研究の仕込のためだよな……

……などと思い起こすと、ちょうど昨年上程した論文「吉満義彦の人間主義論 --近代批判とその神学的根拠(1)」、『東洋哲学研究所紀要』(第24号、2008年)の続編執筆のために必要不可欠な資料だから注文したような記憶があるのですが……。

……と、そこまで思い出すと、

これまた「やばい」事態を自覚する宇治家参去です。

「三歩あるいて忘れる」よりも「一杯飲んだら永久に忘れてしまう」宇治家参去なんですが、このときばかりは、大切なことを思い出し、研究所の紀要論文のエントリー〆切が今週中だった……という一大事を発見です。

ちょうど締め切り直前の通信教育部の「倫理学」のレポート57通も済ませ、安心モード全開だったのですが、またまた追い込まれモード全開となり、今日か明日にまとめようかと思っております。

本当に七転八倒です。
ひとりバックドロップです。

ただ、どうするべ!

……というのが実情です。

これからフランス語を1400頁読むのも、まさに「時間」がなく、かといって丁寧に系譜の探究をスルーして適当にまとめるのもマズイよな……という事態に悩み多き丈夫(ますらお)というわけですが……。

いずれにしても、1年1本は論文をと決めてここ5-6年はこなしてきたので、なんとかしたいのですが……、悩んでいても始まらないので、その(1)をふり返ってみたところ、その2は「次号以降に収載する」ようなことを書いていたことを発見し、ひとまず安堵です。

次号「以降」ですから、次号という「必然」はなく、次々号でもいいのでは……とひとまず「解釈」し、別の専門誌に載せようかと半分以上完成している論文をエントリーしようかと決断です。

なにぶん、この紀要の論文の〆切が9月末なのですが、11/1が博士論文の提出〆切、その直前の土日が秋期スクーリング、その数週間後が息子殿の入試と、秋は忙しそうなので、今回はこれにて「ゴメンナサイ」という体たらくです……が、なんとか、博論も、授業も、家庭の事も、ひとつひとつは積み重ねて行かねば--というところで、いいところにおちつく配分をすぱっとできたのでは!……といことにしておきます。

とわいえ、吉満論文のその(2)もきちんとやっていきたいので、とりあえず、今日からマリタン全集、毎朝10頁だけは読んでいくようにしておきます。

ホンマ、「時間がない」と倫理学の荒野で慟哭する宇治家参去ですけれども、実のところ、セネカの言うとおりで、「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費している」のがその実情なのでしょう。

先週はSAPPOROビールばかり鯨飲しておりましたので、今日は地域的にその対極にある「ORIONビール」(Asahiビール)でも飲んで寝ますです。

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さらば札幌!

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17時過ぎに試験を終えると、ありがたくも、指導員の方が札幌駅まで送って下さり、空港快速にて新千歳空港へ向かい、翌朝高松へ飛ぶためのチケットを購入し、手荷物をあずけると、ひとり慰労会&反省会です。

どこにいくべ?

……などと悩むこともなく、目の前に「銀座ライオン」がありましたので直行です。

2泊3日ほど札幌市に滞在させていただきましたが、やはりビールが旨いです。
日本酒もいいのですが、そうだとしてもやはりビールが旨いです。

銀座ライオンでは、エビスの生、エビスのハーフ&ハーフ、SAPPORO Classicの生、余市産のケルナーの白をグラスで頂戴し、2日間の疲れを癒させていただきました。

今回の講義を総括すると……

はばかりながらですが、眠っていた学生はひとりもおらず、皆真剣に探究できたということがひとつの収穫です。地方スクーリングだとそもそも眠る行為が存在「できない」のですが、それでもなお、適宜に刺激をあたえる議論、メディアを適性に配置し、教材とうまく連動できたのではないかと思います。

自分で言うのも何ですが、ちょうど今回で13回目、2年目が終了し、3年目の初回になりますが、その積み重ねが、ある意味では「ひとつの形」として「完成」したのではないかと思います。

ただし、「完成」ということは同時に「崩壊」をも内包しておりますので、十年一律になるまえに、今度は自分で一片ぶっ壊して、また作り直していこうかと思っております。

で……。
結局、いつものことですが、ご当地ラーメンを食べるのを結局わすれてしまいました。
千葉県から参加された壮年の方は、「そうならないように、最初に食べるんですよ」といっておりましたので、次回からそうするようにしようかと思います。

「帰るまでには、どこかで行けるよな」……っていう見通しが甘いのかもしれません。

空港でラーメンというのもなあ~と抵抗のありましたが、ライオンのメニューに石焼きジンギスカンがありましたので、ちょいとそれをセレクトです。

半焼けの状態で、あつあつの石焼きザラに盛られたヤツを自分で焼きあげていき、ふうふう食べるわけですが、これが疲れた体に染みこみました。

羊の肉は臭いと俗にいわれますが、北海道で食べると、なぜだが臭いまでがさわやかです。北海道の空気にのみこまれたのかもしれません。

さてフライトの遅れで、自宅へもどると1時前。

今日はこれから、始発で羽田に向かい、始発のフライトです。

無事故で帰還できればと思います。

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札幌の朝

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札幌二日目の朝です。
昨日は快飲快眠にて、実にスッキリとした朝で、これからコーヒー飲んで講義へ行って来ます。

道内ではこれから桜が開花する地域もあるとのこと。
東京へ戻る前にどこかでみたいものです。

前期のスクーリングはこれにて終了です。
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