哲学・倫理学(古代)

いったい何が、一つでなくても、なお存在し得るであろうか。

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 すべての存在は、一つであることによって存在なのである。このことは第一義的な意味の存在についても、また何らかの意味において存在のうちに数えられるものについても、みなそうなのである。なぜなら、いったい何が、一つでなくても、なお存在し得るであろうか。ものが一つのものとして語られる、その一つということを取去られるならば、そこに語られていたものとしては存在し得ないからである。すなわち軍団は、一つのものとなっていなければ存在しないであろうし、合唱舞踊者の一団も家畜の一群も、一体をなしていなければ、存在はしないであろう。いや、家でも船でも、一つということを失えば、家はもはや家ではあり得ず、船も船ではあり得ないであろう。つまり、連続によってひとつの大きさをもつものも、これに一つということが加えられていなければ、存在し得ないであろう。すなわち連続体が分割される場合には、一体性を失う範囲において、有り様(よう)をかえるからである。そしてこのことは植物や動物の肉体について特にそうであって、その各は一つなのであって、これが多に細分されて、一体性から遠ざかる場合には、所有していた自己自身の本来のあり方をなくしてしまい、いままであったものではもはやなく、これと違ったものになってしまうのである。しかもその違ったものというのも、一つのものである限りのそれなのである。また健康っというようなことも、その肉体が綜合的に一つに秩序づけられるところに成り立つのであり、美ということも、一体性の支配が身体の部分部分に行き渡っているということなのである。また精神のよさ(徳)というものも、それが一体化されて、一つところに合致し、一つとなることにおいて成立するのである。
   --プロチノス(田中美知太郎訳)「善なるもの一なるもの」、『善なるもの一なるもの 他一篇』岩波文庫、1961年。

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人間が〝小せえなあ〟って思うのですが、ガタイはメタボな自称〝ナイス・ミドル〟の宇治家参去です。

詳細は措きますが、市井の仕事をしておりますと、そのシステムや仕組みに翻弄されることが多く、お恥ずかしい話ですが、〝頭に来る〟ことが多いのですが、今日はひさしぶりに〝凄いヤツ〟(って別に凄い〝人間〟と直面し、勝負したわけではありませんが)に、頭を悩ませた一日でした。

そもそも、人間が〝小せえ〟のでいたしかたありません。
ただしかし、すべてを〝分かった〟ように〝ふるまう〟のも〝小人(しょうじん)〟のやることですから、そのような無様なまねができるわけでもなく、壁にパンチをぶっ込む次第です。
※もはや段ボールパンチでは収まり切らなくなってしまいましたので(苦笑)。

ただし、そうした部分に自分自身の存在そのものが引っ張られてしまうならば、それも不毛であるわけで……ただ、〝存在〟と〝存在者〟とは違うんだよな、などとも頭を言葉がよぎるわけですのでこのあたりは〝職業病〟かもしれませんが、ひとまずもどります。

で、はい。
怒りに囚われすぎると、狂いがでてきますから不毛です。
ですからから、クール・ダウンにもってこいの新プラトン主義のプロティノス(Plotinos,205-270)を紐解く次第です。

プロティノスは、新プラトン主義の創始者として知られるアレクサンドリア生まれの哲学者ですが、プロティノス自身は、あたらしい流派を作ったという意識はまったくなく、プラトン(Plato,428/427BC-348/347BC)の思想を正統に解釈したにすぎないと思っていたようでしたが、プラトン的二元論を克服しようとするその営みは、独自の体系へと変貌したようでございます。

さて……。
西洋形而上学の諸悪の根源として〝自己同一性〟……デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)にいわせると「自分の話している声を自分で聞く」というところでしょうにこだわるわけではありませんが、そうはいっても人間の存在は、ある程度は自己同一性にこだわるものかもしれません。

程度の差がもちろん存在することも、そして、こだわる対象としての自己同一性というのも、さまざまな諸相の一断片であることも承知なのですが、レゾンデートルとしての対象となる(ひとつの断片としての)自己同一性の対象というものを、現実には、こだわる保存しながら、人間は、なんとか生きているのもその現実なのだろう……そのことを痛感いたします。

ですから、新プラトン主義の「一者」の概念というわけではありませんが、プロティノスが、存在が存在を保つ「連続性」として「一」であることにその根拠を見いだす叙述を読んでおりますと、はあ、なるほどね!とはなんとなく納得してしまうというものです。

べつに「一」でなくとも、存在は可能でありますし、自分が「一」と措定している連続性は、無数に存在(可能)な措定対象のうちの「ひとつ」なことかもしれませんが、ま、ある程度は、人間は、措定対象をひとつきめてその連続性を保つことによって生きているのでしょう。

そして、その人間が生きている世界というのは、どちらかといえば、その連続性を破壊し、分断してしまおうって傾向が強く、だからこそ「壁にパンチ」してやろうって局面になってしまうわけなのですが、手は痛かったのですが、ま、これもそうやって「連続性」を保つ訓練と、そして、連続性にこだわりすぎないように……という諭しとして理解するならば、貴重な学習の瞬間かもしれません。

プロティノスもデリダも再読できるわけですからね。

……ということで、市井の仕事へ出勤するまで、チトレポートに目を通そうかと思います。

昨夜はひさしぶりに「一ノ蔵」を頂戴しましたが、サッパリしていていいものです。

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初雪と「澤乃井」で考察?

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 或るものは現実的にのみ存在し、或るものは可能的にも現実的にも存在するが、それらの或るものは存在〔実態〕として、或るものは量として、またはその他の仕方で〔その他の述語形態において〕存在する。ところで、いかなる運動も事物(プラグマタ)から離れて別には存しない。というのは、転化するのは常に存在の述語形態のいずれかにおいてであり、しかもこれら〔存在の諸述語形態〕に共通していてそのいずれの一つの述語形態にも属しないようなものは全く存在しないからである。そして、これらの各々は、それぞれに面的な仕方で、それのあらゆる基体に属する(たとえば、これと指し示される存在〔述語形態としての実体〕では、一方は型式として、他方はその欠如態として、また性質では、一方が白なら他方は黒、また量では、一方は完了的で他方は未完了的、そして移動では、一つは上方へ他は下方へへ、あるいは一つは軽く他は重くというように〔二面的な仕方で〕)、したがって、運動や転化には存在の種類と同じだけの種類がある。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学(下)』岩波文庫、1961年。

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昨日は寒い寒いと思っておりましたら、やはり昼頃から雪がちらほらと舞い始めましたが、東京では今季はじめての初雪ではないでしょうか。

しかしながら、ものの数十分でみずれへと変わってしまい……ちょいと残念な宇治家参去です。

ただし、雨という状態も、雪という状態も、そしてみぞれという状態も、水という存在が、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の指摘したとおり「述語形態」においてのみ存在していることだけは理解できます。

自分としては「雪」という状態として現実的に存在して欲しかったわけですが、自分の思いが「雪」へと状態を転化するわけではありませんので、その寒々しい空気にのみ思いを馳せるしかありません。

「存在とは何か」……チト、一杯やりつつ感慨に耽る夕べです。

ただ、一杯やりはじめた時間がはやく、寝たのも早く、さきほど起きてしまいました。

さあ、どうしましょうか???

続きを考察してみます。

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物の原子が夫々如何なる順序に配置されているか、又如何なる原子と結合して運動を与え、且つ受けるのか、が重要な点である

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 さて、我々の見るところで感覚を持っていると思われるものも、すべて無感覚なる原紙から成り立っているのだ、ということも認めなければならない。明らかなる事実がこれを反駁することもないし、明白に認められる事実がこれと矛盾することもない。のみか、むしろ我々の手を引き、信ぜよと強要している--私の云うように--〔感覚を有する〕生物は無感覚なる原紙から生まれるのだ、と。
 例えば、過度の雨の為に湿った地が腐って来ると、悪臭を放つ糞から、生きた虫の発生するのが見られるし、又あらゆるものが同様に変化することが見られるからである。川、木の葉、繁茂する牧草は化して家畜となり、家畜はその体を変化して我々の肉体となり、我々の肉体から往々にして野獣の力が増大し、又翼強き鳥〔猛禽〕の体が成長する。
 であるから、自然はあらゆる食物を、生きた肉体に変え、その肉体からすべての生物の感覚を造り出すのであり、これは自然が乾燥せる薪を焔の中にひろげて、悉く火と化してしまうのと、何ら異なるところがない。では、物の原子が夫々如何なる順序に配置されているか、又如何なる原子と結合して運動を与え、且つ受けるのか、が重要な点であるということが直に君に判るであろう。
    --ルクレーティウス(樋口勝彦訳)『物の本質について』岩波文庫、1961年。

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古代ギリシア、ローマの哲学者たちのなかには、今でいうところの自然科学者のような人物か数多く存在します。

共和制末期の詩人・哲学者として知られるルクレティス(Titus Lucretius Carus,ca. 99 BC-ca. 55 BC)なんかもそのひとりで、原子論的自然観を説き、一切の現象を因果関係においてとらえ、原子と空間から成立する自然法則を説明したことで有名ですが、おもしろいのはそうした自然法則の説明に関して、それを人間の問題として詳論しているところです。

ルクレティスのほかにも原子論をとく自然科学者は多数存在しますが、自然を「法則」で説明するひとびとの態度が、法則に縛られてしまい、人間の自由を否定する方向性へと傾きがちなきらいがあるのですが、ルクレティスの場合は、そうした態度とはむしろ相反する方向性を提示しているところがあり、読んでいると頗る興味深いところが多々参存在します。

では、ルクレティスの態度とはどのようなものでしょうか。すなわち、原子と空間から世界を法則として理解しようとも、そのうえで、人間は現実の生を楽しむべきだというのがルクレティウスの一貫した主張です。

もっとも思想的には世界を快苦によって理解しようととらえるエピキュリアンの知的伝統を受け継ぐ人物ですのでいたしかたありませんが、ローマの問題としてとらえるならば、世界を十分に楽しんでやろうとするローマ市民の精神的態度も過分に繁栄されているのではないかと思われてもしまいます。

さて、いずれにしても、世界を楽しむ、人生を楽しむにはある程度の技術が必要なのでしょう。

暗中模索で対象と関わり楽しむことは不可能です。その場合、そもそも楽しむことがなにかすら理解できていない出発点に立ち止まっているわけですから。

だからこそ、ルクレティウスは楽しむための手順・準備を念入りに確認・点検することを自然理解からスタートして、人生論として説いたのも知れません。

いずれにしても手順・準備というのは学問だけでなく、楽しむことにおいても必要かもしれません。

昨夜はひさしぶりに「ほうとう」を頂戴したのですが、手順・準備を間違えたのでしょうか・・・。

親子3人で頂くには、かなり少な目に作ってしまったようで・・・。

ですけど、他に食べるものもなく・・・。

「何か買ってきてくれ」

……とのことで、自転車で5分のすき家へとミニサイズの丼を買いに行くハメとなってしまいました。

「ほうとう」も「ねぎ玉牛丼」もウマイのはウマイのですが、食事を途中で中断され、買い出しに出発し、そして食事を再開するというのは、微妙な感覚……否むしろ心地よくない感覚です。

手順・準備というのをひとつ誤ってしまうと「楽しい」ハズの「何か」は「微妙な」何かになってしまう……そのようなことを考えさせられたひとときです。

「物の原子が夫々如何なる順序に配置されているか、又如何なる原子と結合して運動を与え、且つ受けるのか、が重要な点である」ことをきちんと理解することは大切かもしれません。

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ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ

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Seneca

 昨日から市井の仕事が六連勤の宇治家参去です。忙しいのは分かっていますが、忙しさに流されたり、忙しさに酔って、己の本分を忘れぬ日々でありたいと思います。

 人間といういきものは、まことに不思議なもので、時間がある時は、無為に過ごし、時間がないときに頑張ろうとする、ぎりぎりになるまでは仕事に手を付けないが、その一方で、締切直前になると無性に部屋の片づけをしたくなる--。
 そうした感情を抱きたくなるのはおそらく宇治家参去ひとりではあるまい。

 われわれが短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生をうけているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく、われわれがそれを短くしているのである、われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。
    --セネカ(茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二篇』(岩波文庫、1980年)。

 古代ローマを代表するモラリスト・セネカの言葉は、至言である。
 ただしかし、それは冷静に考えれば、ありがたいおことばや高邁なモラルの宣言ではなく、過去・現在・未来の時間軸の中で、自分自身を率直に見直した結果の偉大な常識にすぎない。

 しかしながら、人は、こうした偉大な常識から眼をそらし、どこか遠くへ永遠不変の真理や原理を求めがちである。日常生活と乖離したところに人間の道はおそらく発見できないのではないか--そう実感する宇治家参去です。

 ひとは日常生活の繁忙さのなかで、おのれを見失い、気がついたときには、壮老に達してしまうということが多々あるが、そうならぬためにも、ときにふれては、己自身を見つめ直し、反省しながら明日へ向かってふたたび歩き直すことが重要であろう。

 その瞬間が夕暮れ時である。哲学者のヘーゲルは「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」といったそうだが、ミネルヴァとは、知恵すなわち“哲学の女神”であり、フクロウはその象徴である。様々な人間の活動についての知恵=哲学は、日常的な活動が一段落した夕暮れに動き始める。そのことをヘーゲルはミネルヴァのフクロウと表現した。
 このフクロウとは面白いたとえで、フクロウは、単に世界を認識する、というかかわり方で世界に関わっているのではない。行為という関わり方もしている。獲物だけを認識しても、飛び立ち捕らえる行為がないとフクロウは生きてゆけないからだ。
 ひともおそらく同じである。夕暮れ時に、ふと立ち止まり自分自身を見つめ直す(=哲学)する瞬間を、ときにふれてもつことで、有限な時間の中で、何が一番大切で、今なにをやるべきか、課題がおそらく見えてこようというものである。

そうした瞬間に写したのが、昨日と同じ、夕方の富士山です。

 田子の浦に うちいでてみれば 真白にぞ ふじの高嶺に 雪は降りける  山部赤人

    --佐佐木信綱編『新訂新訓・万葉集』(岩波文庫、1954年)。

 霊峰の雄大な姿に、今日一日の自分自身を向かい合わせながら思索する宇治家参去です。

 では、最後にセネカの言葉をもう一発。

 暇のある人というのは、自分の暇の何であるかについても気付いている人である。ところが、自分の体の有様を知るのに他人に教えてもらう必要のあるような人間が、一体どうして時間の主人となりうるであろうか。

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これって素敵でしょ?という言い方

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哲学の第4回目の講義無事終了する。

今回は、哲学の主題と全体の見通しを話した上で、次節、哲学の起源と開かれた対話(フォアゾクラティカーからソクラテス、プラトン、アリストテレス)までの話を講義する。
これまで哲学とは何か--といった概論を続けていたのでいよいよ、具体的な人物、思想を題材に講義できるので、すこしは話がしやすくなる。
ただ、哲学を講じているときに、一番注意しなければいけないのは、

「結局哲学って答えないじゃーん」
「一人の人間が頭の中で考えているだけ」

という、すなわち、哲学とは、難しくて自分には関係ない、独りよがりな考え方、と聴講者に結論づけられないように教授することである。

たしかに、上のような意見も哲学とか思想のある一面ではあるが、それだけではないだろう。
確かに、哲学の出発点としては、自分自身で、人間とは何か、世界とは何か、と考える地平から立ち上がる。しかし、その思想や内容を、ひとりでオシマイにしてしまうのであれば、それはとてつもなく淋しく・悲しい営みなってしまう。

たとえば、私はこのことに関して、これまでのところこう考えたけれど、これって素敵でしょ?という形で、他者と摺り合わせ洗練させ(その中で“他人とは地獄である”他者との出会いもあるのだが)、共有していく方向性の方がより魅力的で生き生きとした営みになるのではなかろうかと思う。

それがおそらく対話という営みであろう。
人は自分自身との対話、自然との対話、他者との対話を通じて人間になる。
それは、ソクラテスが自身の対話を“産婆術”と読んだように--。

さて、急いで先ほど帰宅し、これから市井の仕事です。
今週より、週1回だけ、衣料品Mgr代行となるので、その研修です。
さて、がんばるか。

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