吉野作造研究

日記:【ご案内】吉野作造記念館 戦後70周年記念「大崎市岩出山出身写真家 岡本央が見てきた中国」


Resize1609

「親切と楽天」(牧野英一)、「人道の戦士、吉野作造」(赤松克麿)、「学者、思想家のガウンを著けた大親分」……。

1933(昭和8)年の今日、吉野作造博士が逝去。その遺徳をしのびつつ、吉野作造ゆかりの催し物をご紹介します。

-----

催しのご案内
吉野作造記念館 戦後70周年記念
大崎市岩出山出身写真家 岡本央が見てきた中国

2015年3月29日(日)~4月26日(日)
会場:吉野作造記念館企画展示室

オープニング講演会
講師 岡本央 氏
演題 中国を撮り続けてきて
日時 3/29(日) 14時~
申込 お電話にてお申し込み下さい/定員90名
料金 無料(常設展見学は有料)/会場 研修室
Sanaka Okamoto ●科学雑誌ニュートン編集部を経てフリーとなる。「中国」「日本の農村」「国境を越えた日本人」など、“人間と風土”をテーマにした多くのフォトルポルタージュを各誌に発表。『郷童』のタイトルで、日本各地の子どもたちの撮影にも力を入れている。日本写真家協会会員、日中文化交流協会会員、東京都日中友好協会会員。

 政治学者で大正デモクラシーの旗手・吉野作造は、ジャーナリストとしても卓越した存在だった。明治39年から3年にわたり中国に滞在。中国の近代化・民主化にも強い関心を寄せ、建国の父・孫文との交流もあった。
 当記念館では戦後70周年を記念し、また膠着状態が長らく続いている現在の日中関係の在り方を考える機会提供を目的に、長年中国を撮り続けてきた写真家・岡本央(さなか)の見てきた中国を、写真と各紙誌掲載記事を通して紹介します。

問い合わせ連絡先 吉野作造記念館
[http://www.yoshinosakuzou.jp/:title]

-----

Resize1610
Resize1611


| | コメント (0) | トラックバック (0)

覚え書:「河北春秋:当たり前に享受している投票権は、民主主義を追い求める闘いの末に勝ち取られている」『河北新報』2015年02月06日(金)付。


1


-----

 宮城県出身の政治学者吉野作造は、普通選挙実現の運動を推し進めた。腰の重い政府の尻をたたかんばかりの論文の数である。論拠は明快、選挙権は国民固有の権利と断じてぶれがない。1920(大正9)年の論文は語る

 ▼「昔は王侯が国家を領していたとしても、いまは全ての人がそれぞれ積極的な分担を負い、ともに経営している。独立人格を持つのは明白で、法律以前から国民固有の権利として在ることに一点の疑いもない」。5年後、加藤高明内閣によって普通選挙法が制定される▼高額税を納める富裕層だけから全ての男性へ。女性に広がるには平塚雷鳥や市川房枝による活動を経て、終戦まで待たなくてはならない。当たり前に享受している投票権は、民主主義を追い求める闘いの末に勝ち取られている

 ▼国民の権利たる選挙の信頼が揺らぐ。仙台市の青葉区選管に端を発した一連の不正は、過去にも宮城野区や若林区で集計ミス、保管すべき記録の廃棄など広がりを見せる▼昨年末は突然の衆院解散で準備がいまひとつ…の弁明をそのまま受け取る人はいまい。関わった職員がどれだけいるのか、上司である役職者の監督責任をどう問うのか、市民感覚からすれば曖昧(あいまい)に映る。よくある行政事務の誤りと根本から違うと心すべきである。
    --「河北春秋:当たり前に享受している投票権は、民主主義を追い求める闘いの末に勝ち取られている」『河北新報』2015年02月06日(金)付。

-----


[http://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/20150206_01.html:title]


Resize1434

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日記:三谷太一郎「吉野作造記念館開館20周年によせて」


1


吉野作造記念館様から『吉野作造記念館20年のあゆみ』(大崎市教育委員会)を頂戴しました。

ありがとうございます。

「吉野作造記念館開館20周年によせて」を三谷太一郎先生が寄せています。短い文章ですが吉野作造の吉野作造である所以をズバリ言及されておりますので、ちょいとご紹介します。

-----

 吉野作造記念館開館20周年によせて

 吉野作造は、既に日本政治史および日本政治思想史に確固たる永続的な地位を占めている。そのことについては、政治的立場の違いをこえて、何人も異論がないであろう。一世紀近く前に吉野が唱えた「民本主義」は日本的デモクラシーの本質を明らかにしたものであり、具体的妥当性をもつとともに、それは少数説であったが、今や日本の政治体制の理念的基礎をなしている。おそらく吉野作造は、明治期において福沢諭吉が果たしたオピニオン・リーダーとしての歴史的役割を大正・昭和期において継承したというべきであろう。
 それだけではない。吉野の思想的影響は今や国際的に広がっている。日韓および日中両国の歴史認識をめぐる深刻な対立を生み出している昨今の状況においても、ほとんど一世紀を遡る吉野の植民地統治批判や対中外交批判が対立している双方の側で顧みられ、その先見性が再認識されるとともに、双方の対話の出発点となっている。
 「民本主義」は決して過去の遺物ではなく、今日を導く指針である。しかもそれは日本一国に特有なものではなく、国際的な通有性をもっている。吉野作造記念館の20年の事業は、そのことを明らかにしている。

-----


[http://www.yoshinosakuzou.jp/:title]


11

12


Resize1334


人は時代といかに向き合うか
三谷 太一郎
東京大学出版会
売り上げランキング: 371,884


学問は現実にいかに関わるか
三谷 太一郎
東京大学出版会
売り上げランキング: 250,498

| | コメント (0) | トラックバック (0)

吉野作造研究:〔ご案内〕吉野作造記念館 開館20周年記念式典 基調講演「晩年の吉野作造」(=三谷太一郎先生)のご案内。

1

〔ご案内〕吉野作造先生のお誕生日の1月29日、吉野作造記念館開館20周年記念式典開催(パレットおおさき、13時~)。三谷太一郎先生が、基調講演(「晩年の吉野作造 -国内および国際情勢の変化への対応-」)されます。 

講演会の参加には、電話での申し込みが必要になりますが、お近くの方はぜひ。

[http://www.yoshinosakuzou.jp/:title]


11

Resize0834


| | コメント (1) | トラックバック (0)

吉野作造研究:社会経済的な格差の是正のための政治的平等を目指した民本主義


1


-----

「民本主義」の党か「資本家」の党か
 一九二〇年に全国的に盛り上がった普通選挙運動が東京、大阪、京都、神戸をはじめとする都市部を中心とするものだった以上(松尾尊兊『普通選挙制度成立史の研究』一五四~一五五頁)、約三四〇万人の都市中間層の多くが普通選挙法を成立させた憲政会の支持者になったことは、容易に想像できるところである。憲政会やその後身の民政党も農村に地盤を持っていたことは確かである。しかし、同党が政友会と対等に渡り合える大政党になりえた主因は、この都市中間層の増加によるものと思われる。その意味では、本章の冒頭で紹介した、一九一四年五月の吉野作造の指摘が現実のものになったと言えよう。
 問題は、新たに政党政治の一極となった憲政会(民政党)と新たに有権者となった都市中間層とが、都市部の上層部に近づくか下層部に接近するかにあった。前者の途を採れば「資本家の時代」が到来し、後者を択べば「社会民主主義の時代」への途が拓かれる。
 実は、普通選挙の提唱者吉野作造が普通選挙法成立の九年前(一九一六年)に主張した「民本主義」とは、後者の途を示したものであった。今日では高校教科書にも名前だけは登場するこの「民本主義」のなかで、吉野は次のように論じている。

 「抑も社会主義が資本家に対して抗争する所以の根本動機は、是れ亦社会的利福を一般民衆の間に普く分配せんとするの精神に基づく。此点に於て社会主義は又民本主義と多少相通ずるところないでもない。(中略)経済上の優者劣者の階級を生じ、為めに経済的利益が一部階級の壟断に帰せんとするの趨向は、是れ亦民本主義の趣意に反するものなるが故に、近来の政治は、社会組織を根本的に改造すべきや否やの根本問題まで遡らずして、差当り此等の経済的特権階級に対しても亦相当の方法を講ずるを必要としている。所謂各種の社会的立法施設は即ち之れである」(『吉野作造著作集』第二巻、四一~四二頁。)

 「経済上に優者劣者の階級を生じ」ることが「民本主義の趣意に反する」と吉野は明言しているのである。今日の言葉で言えば「格差の是正」が、「民本主義」の目的の一つであり、観方によっては普通選挙制という「政治的平等」は、社会経済的な格差の是正の手段だったのである。
    --坂野潤治『<階級>の日本近代史 政治的平等と社会的不平等』講談社選書メチエ、2014年、93-95頁。

-----


吉野作造の教え子世代になる政治学者・蝋山政道の回想をして吉野作造の限界とは何かと誰何すれば、吉野が実践に惑溺するばかり、政治「理論」構築への関心を失ったことという指摘がある。

まだ同時代の社会改良の伴奏者たちは、吉野作造の民本主義は「古くさい」とし、いわゆるボルシェビキ式の革命へ激送してしまった。

しかし、果たして、政治『理論」の構築へ関心を失ったということは、吉野作造の思想と実践において、果たして瑕疵だったのかと問えば、それはイエスでもありノーでもあろう。なぜなら、現実を離れて政治理論は存在しないし、政治理論が現実と切り離されて遂行されても意味がないから関心を抱かなかったとすればそれはイエスであろう。しかし、吉野作造の著作をひもとくと、たしかに全体としての「体系」構築へ意欲は薄いが、現実の批判理論となっていることは否定できないからノーであろう。

そもそも体系としての理論と現実世界の二項対立こそ「プロクルーステースの寝台」に他ならない。

そして吉野作造の民本主義は果たして同時代史的にも「古くさい」のかと誰何すれば、それはまさに「誤読」としかいいようがない。

吉野は1916年1月の『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、大正デモクラシーの旗手として注目を集めた。しかし、早くから主権の所在を不問にしたデモクラシー論ばかりが批判の矢面に立たされ、その「社会的利福」増進の価値はスルーされたままだ(※1。
※1 吉野は民本主義の弱点の修正として2年後に「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を斉すの途を論ず」を発表、目的としての民本主義(民衆の利福増進)を絶対的目的として措定することを取り下げるが、これも単純に「撤退」と捉えるのは早計であろう。大正晩年から昭和初期にかけての吉野の無産政党への支援と実践は、「撤退」を意味していない。

戦前日本における社会改良の運動が先鋭化のあげく、地下活動そして滅亡という経緯を考えれば(その実践と思索が全く無価値ではないことは勿論いうまでもないが)、吉野の体制内での漸進主義的改良と、構造に「依存」しないデモクラシーの実践は、決して「古くさい」ものではないし、民主主義の「中身」というものが、決して西洋からの輸入といった外発的規範などではなく、「内発的」「自前」のデモクラシーの思索と実践であったとすら言える。

歴史に学ぶとは何か。現在の立ち位置から、簡単にその値打ちを決めてしまうことなどではない。


Resize0738

普通選挙制度成立史の研究
松尾 尊兌
岩波書店
売り上げランキング: 1,460,659
吉野作造選集〈2〉デモクラシーと政治改革
吉野 作造
岩波書店
売り上げランキング: 1,507,055


吉野作造評論集 (岩波文庫)

岩波書店
売り上げランキング: 516,160

| | コメント (0) | トラックバック (0)

覚え書:「デモクラシーの本質、追求 松尾尊兌さんを悼む 京都大教授・永井和」、『朝日新聞』2014年12月23日(火)付。


1_2


-----

デモクラシーの本質、追求 松尾尊兌さんを悼む 京都大教授・永井和
2014年12月23日

(写真キャプション)14日に85歳で死去した松尾尊兌さん=2004年、京都市
 ◇京都大教授(日本近現代史)・永井和

 12月14日午前10時30分に松尾尊兌(たかよし)先生が亡くなった。1カ月半前に85歳の誕生日を迎えたばかりである。

 戦後日本を代表する歴史家の1人であり、大正デモクラシーの研究では不朽の業績を残した。単行本だけでも著書は16冊にのぼり、質量ともに余人の追随をゆるさぬものがある。吉野作造をテーマに執筆中の岩波新書の完成をみることなく、病に斃(たお)れられたのはまことに残念である。

 以前、先生は、満州事変期の吉野がデモクラシーを護(まも)るために最後の抵抗を試みていた、と論じたことがある。公表された論説で、吉野は満州事変や日本の国際的孤立もやむをえないと述べているため、一見すると、彼が袂(たもと)をわかった娘婿の赤松克麿(かつまろ)(軍部の侵略主義を積極的に支持して国家社会主義に転じた)と大同小異に見えるが、そうではない。

 遠くから見ればごく僅(わず)かとしか見えないが、吉野と赤松にははっきりとした違いがあり、デモクラシーを研究する者は、その違いを見抜く目をもたねばならない。その違いを見ずに、吉野を赤松と同列にみて斬って捨てる議論も、吉野にかこつけて赤松を弁護する議論も、いずれも先生は否定した。

 その大正デモクラシー研究の根底には、「歴史家がデモクラシーの伝統を見いだしえずして、どうして日本においてデモクラシーが可能になりえようか」という問題意識があった。見いだされるべきデモクラシーの伝統とは、反・非帝国主義、反・非植民地主義でなければならなかった。

 かつて終戦の際、再起の日を期して軍事訓練用の小銃を油紙に包んで土中に埋めた、絵に描いたような軍国少年としての戦争体験。そこから百八十度転換した松江高校、京都大学での学生生活。その両者からして、このことは動かせない一線であったと思う。

 石橋湛山や吉野作造は、そのようにして先生によって見いだされたデモクラシーの先達であり、その伝統の上に構築されるのでなければデモクラシーは存立しえないとされたのである。
    --「デモクラシーの本質、追求 松尾尊兌さんを悼む 京都大教授・永井和」、『朝日新聞』2014年12月23日(火)付。

-----

[http://www.asahi.com/articles/DA3S11520691.html:title]


11

Resize0595


大正デモクラシー (岩波現代文庫―学術)
松尾 尊兌
岩波書店
売り上げランキング: 122,138

戦後日本への出発
戦後日本への出発
posted with amazlet at 14.12.26
松尾 尊兌
岩波書店
売り上げランキング: 356,391


大正時代の先行者たち (同時代ライブラリー)
松尾 尊兌
岩波書店
売り上げランキング: 264,045

大正デモクラシー (同時代ライブラリー (184))
松尾 尊兌
岩波書店
売り上げランキング: 767,417

| | コメント (0) | トラックバック (0)

催しのご案内:企画展「吉野作造と賀川豊彦―貧しき者、弱き者のために」(吉野作造記念館)


Photo


企画展「吉野作造と賀川豊彦―貧しき者、弱き者のために」

ともにキリスト教者だった吉野作造と賀川豊彦は、当時の未熟な資本主義社会の中で
困窮する人々を助けるため、様々な社会事業に取り組みました。日本のセツルメント
活動の草分け的存在となった2人の事跡から、大正デモクラシーの中に芽生えた相互
扶助の心を紹介します。

●企画展
 期間 10月12日(日)~12月28日(日)
 料金 大人・個人500円(常設展見学可能)

●オープニングシンポジウム
 日 時 10月12日(日)14時~16時
 テーマ 「吉野作造と賀川豊彦―貧しき者、弱き者のために―」
 パネリスト
 金井新二氏(賀川豊彦記念松沢資料館館長、東京大学名誉教授)
 大川真(当館 館長)
 コメンテーター・司会
 森田明彦氏(尚絅学院大学教授)
 料金 大人・個人500円(企画展・常設展見学可能)
 会場 吉野作造記念館 研修室
 申込み お電話にてお申込み下さい(電話0229-23-7100) 

百年前の日本-吉野作造を取り巻く時代背景
  東日本大震災復興支援 吉野作造記念館講演会
◎講演会
 日時 平成26年10月19日(日)午後1時30分~3時
 講師 原 武史 氏(明治学院大学教授、清泉幽茗流清泉会理事長)
 会場 吉野作造記念館 研修室
 定員 70名
 料金 無料(常設展・企画展見学は有料)

◎文人茶席 ※講演会終了後、祥雲閣にて茶席がございます。
 時間 午後3時30分~5時
 内容 清泉幽茗流(家元 古川純佳)宮城支部による文人茶席
 会場 祥雲閣
 料金 無料

主催 清泉幽茗流清泉会宮城支部
共催 吉野作造記念館指定管理者NPO法人古川学人
後援 大崎市・大崎市教育委員会・大崎市文化協会
    朝日新聞仙台総局・河北新報社・大崎タイムス社

[http://www.yoshinosakuzou.jp/:title]


11

12

Resize2172


| | コメント (0) | トラックバック (0)

覚え書:「吉野作造の直筆展示 原敬暗殺を運不運で語る世相批判・宮城」、『毎日新聞』2014年7月10日(木)付。

1_3


-----

吉野作造の直筆展示
原敬暗殺を運不運で語る世相批判
大崎・記念館「人の値打ちは人格と事跡で評価」

(写真キャプション)原敬の暗殺について吉野作造が記した直筆原稿=大崎市古川で

 「平民宰相」と呼ばれた原敬(1856~1921年)の暗殺について記した民本主義者、吉野作造(1878~1933年)の直筆原稿が横浜市で見つかり、大崎市古川の吉野記念館が入手し開催中の企画展「吉野作造とキリスト教」で展示している。
 原稿は「原さんの暗殺と人の運」と題したコラム調で、200字詰め原稿用紙5枚のペン書き。政友会総裁として初の本格的な政党内閣を発足させた原が、21(大正10)年11月に東京駅で市井の若い不満分子に刺殺されたことを受けたもので、同年12月発行の生活改善啓蒙誌「文化生活」の巻頭に掲載された。
 「死に場所を得て男を上げ運が良かった」「これからだったのに運が悪かった」と、運不運にからめて原の人物評価をする世相を批判。「運不運によって人の価値に大小の差がつくわけではない。人の値打ちは生前に築き上げた人格と事跡で評価すべきもの」と結論づけている。
 同記念館によると、原は普通選挙に否定的で、吉野とは相いれない立場だった。吉野は25年に右派無産政党の社会民衆党の結党に関わっている。
 企画展は8月3日まで。有料。問い合わせは同記念館。0229・23・7100【小原博人】
    --「吉野作造の直筆展示 原敬暗殺を運不運で語る世相批判・宮城」、『毎日新聞』2014年7月10日(木)付。

-----

 


20140710

Resize1896

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日記:灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき

1

-----

 それでは、吉野先生の本質はどこにあるか。ここに「先生とキリスト教」という問題が出て来る。この点は『世界』(一九五五年四月号、一〇〇頁)の座談会の中でもふれられていますが、たしかに、先生は内村鑑三先生とは無関係だった。ただ、吉野先生は本郷教会の有力な会員であられた。従って海老名(弾正)先生の影響があったのは事実だろう。しかし、この点でも、先生は、おそらく海老名先生ともちがうのではないか。吉野先生には、吉野先生のものがあった。先生独自の境地があったのではないかと思う。これは私どもの学ばなければならない点である。私どもは、とかく、ゾルレンとザインとの間にたえず苦悶している。ところが、吉野先生の場合には、もちろん、この二者があるにはちがいないが、それは外いはあらわれていない。ゾルレンとザインが一つになっている。そこに一つの調和がある。先生は何もいわれないけれども、無言の伝道をされたのである。先生の言動には、深いそういったものがあった。ここに、吉野先生がマルキシズムになり得なかった理由がある。なによりも、先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた。
 それについて、吉野先生が病院に入院されたとき、私は、おそらく長くないだろうから、お元気なうちに一度ぜひお見舞いしたいと思って、高木(八尺)君と一緒にお伺いしたことがある。先生は、死を前にして、きわめて当り前、きわめて自然にふるまっておられた。これは東洋流にいえば、達人である。悟りに入った人である。その先生を失ったことは、まことに大きな打撃であった。
 吉野先生は、満州事変は知っておられたが、日中戦争のことはご存知なかった。それから第二次世界大戦となった。この間、私は事あるごとに、先生のことを思った。私は、日記がわりに短歌をつくっているが、昭和十四年のくだりに、一首、先生のことを詠んだ歌がある。昭和十四年といえば、学内では河合(栄治郎)事件の真最中、外では日中戦争がはじまっている。ドイツからはケルロイターが来ていた。このときにあたって、先生のことを想った。
 灯ともる昼の廊下を行きつけて、吉野作造先生この部屋にいましき
    --南原繁「吉野作造先生の思い出(吉野博士記念会・例会録(第八回) 1955年3月26日、於学士会館」、丸山眞男、福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録』東京大学出版会、1989年、233-234頁。

-----

南原繁は、吉野作造に直接学生として学ぶことはなかったし(吉野が留学時代)、教員時代の重なりも薄い。しかし、その謦咳に接し、「先生のそうした一体となったナツア(Natur)に、私は打たれた」と評価する意義は大きい。

吉野作造が「有機的知識人」であるとすれば、南原繁は自称する通り「現実的理想主義者」である。しかしその「現実的理想主義者」は、吉野作造に学び、自ら、次代の吉野作造たらんとした意志の発露とも捉えることは不可能ではない。

繋がらなかった点と点、線と線がつながりはじめたような予感です。


Resize1833


聞き書 南原繁回顧録
聞き書 南原繁回顧録
posted with amazlet at 14.08.15
南原 繁
東京大学出版会
売り上げランキング: 168,105

| | コメント (0) | トラックバック (0)

吉野作造研究:抵抗としてのアジア主義:吉野作造の場合


1


-----

 天心にあっては、美(そしてそれとほとんど同義の宗教)が最大の価値であり、文明はこの普遍的価値を実現するための手段である。美は人間の本性に根ざすから、西欧だけが独占すべきではない[竹内 一九九三:三二九]

 竹内の見るところ、アジア主義は岡倉天心の登場によって、はじめて「思想」を獲得しました。単なる連帯と抵抗の論理を超えて、西洋文明を超える存在論と認識論を提示する「哲学的根拠」を手に入れたのです。

二つの出会い損ね
 しかし、竹内によると、この「思想としてのアジア主義」は誰にも継承されず、溶解していきました。天心は「アジア主義者として孤立しているばかりでなく、思想家としても孤立して」いたのです。
 一方で、「抵抗としてのアジア主義」は宮崎滔天や吉野作造へと継承されていきました。さらに、この「心情」は、昭和期に入っても岩波茂雄のような「非侵略的なアジア主義者」に引き継がれていきます。
 滔天の「抵抗」は功利主義的近代に対する根源的な反発を含んでいました。彼の反発は、西洋のアジア支配に対してだけではなく、合理主義の拡大による人間の堕落に向けられていました。滔天にとって、近代文明の栄光は賢しらな欲望の産物であり、義理や人情、良心といった情念の敗北に他なりませんでした。滔天の「心情」や「抵抗」は、近代に対する衝動的アンチテーゼを内包していました。
 しかし、問題は「思想としてのアジア主義」と「抵抗としてのアジア主義」の関係でした。竹内は次のように指摘します。

 その心情は思想に昇華しなかった。言いかえると、滔天と天心が出あわなかった。それはなぜか、というのがここでの私の問題である[竹内 一九九三:三三七]

 この部分は序章でも引用しましたが、竹内論文のきわめて重要なポイントです。
 竹内は、「心情が思想に昇華しなかった」「滔天と天心が出あわなかった」ことを問題にしています。つまり「抵抗としてのアジア主義」がもっていた連帯の想像力や義勇心、反功利主義が、「思想としてのアジア主義」へと結びつくことなく継承されたことに、竹内はアジア主義の可能性が潰えていった原因を見ているのです。 さらに、竹内は決定的な「もう一つの出会い損ね」が存在することを指摘しています。
竹内は、玄洋社から派生した国龍会のトップ内田良平の「抵抗としてのアジア主義」を高く評価したうえで、彼が日露戦争を「文明の野蛮への進軍」と捉えていたことを問題視します。内田は、アジアにおける反封建勢力の抵抗的連帯を命を張って模索しますが、その論理が次第に「文明による野蛮への闘争」という見方に傾斜し、無自覚のうちに「西洋文明の使者」へと変貌してしまったのです。竹内が指摘によれば、この内田の論理は「福沢の文明論の延長線上にある論理」です。--アジア主義を標榜する者が、いつの間にか西洋文明の使者に変貌してしまう。そして西洋的な帝国主義の論理(文明国には非文明国を開明する義務がある)へと回収されてしまう。
    --中島岳志『アジア主義 その先の近代へ』潮出版社、2014年、37-38頁。

-----

 中島さんの『アジア主義』より。
竹内好がアジア主義を政略としてのアジア主義、抵抗としてのアジア主義、思想としてのアジア主義と腑分けしましたが、その論旨によれば、吉野作造は、抵抗としてのアジア主義。

たしかに宮崎滔天との関係や、吉野の中国・朝鮮論に耳を傾けると、それは「義侠」です。しかし、吉野の場合、西洋の限界を承知したうえでの枠内変革への展望が素描されており、僕はそこに可能性を見出しております。

ちょと、竹内さんの議論にももう一度、目を通しながら、その意義を確認したいと思いますが、岡倉天心の如き「思想としてのアジア主義」に憧憬はするものの、規範意識のないこの国においては、西洋の没落に対する無批判の有象無象な東洋主義が跋扈する訳ですから、ある意味では「近代の超克」というものを近代の外からもってきて対応するよりも、まずは、近代という枠組みのなかで解決すべきではないかと考えています。

吉野作造は反近代でも反西洋でも反東洋でもありません。その現在の枠組みのなかで何ができるのか、それを探究し実践した訳ですから、吉野作造におけるアジア主義そして近代にどう向き合うというプロジェクトをもう一度検討し、そこにひとつ可能性なり思想と実践の指標を導きだしていきたいと思っております。

Resize1776
アジア主義  ―その先の近代へ
中島岳志
潮出版社
売り上げランキング: 10,197
竹内好「日本のアジア主義」精読 (岩波現代文庫)
松本 健一
岩波書店
売り上げランキング: 204,009


現代日本思想大系〈第9〉アジア主義 (1963年)

筑摩書房
売り上げランキング: 243,732

日本とアジア (ちくま学芸文庫)
竹内 好
筑摩書房
売り上げランキング: 41,974


| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧