学問・大学論

日記:「池上彰と考える」……てもシカタガナイでしょうに。


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ウーム、これはひどすぎじゃアございませんか? 日本分子生物学会。

[http://mbsj.jp/admins/committee/careerpath/doc/careerpath_poster_2014.pdf:title] 
池上彰と考える これでいいのか 日本の生命科学研究”ってふられても、池上彰と考えても、日本の生命科学研究に関して創造的批判にはならんやろう。とりあえずヘビロテの人気「識者」を冠りしとけばよいという「考える」を否定する劣化企画と思われてほかない。

「わかりやすさ」自体を全否定するつもりはないし、導入としては大切だとは思うけれども、それで「終わり」というコンビニエンスに問題がある訳で。

池上さんが出てきて「解説」してもまあええけど(いやいかん、そこから自分で知的格闘をしていかんといかんのに、それがスルーされるのが現代世界のスタンダードですから、多いに問題があると思われる。

耳学問自体も否定するつもりはないけど、結局、学問の基本というのは、どのレベルでもきちんとテクストを精読することなのに、そういう手間を「池上さんと考える」ことによって、「わかったつもり」になって終わっちゃう。これは本当に問題だと思う。

解説で済ませるのが良くないのは、人間の基本的なリテラシーを鍛える「読む」と「書く」を単純化させてしまうということ。

勿論水先案内としての解説はありでしょうけど、小学生が解答の○付けをするが如くの「解説」依存の自らの対峙なしになってしまうと本当に良くない。

解説や水先案内で啓発を受けて、では実際どうなのか。自分で「読む」そして「書く」ことによって、最初の認識の更新が初めて可能になり、どこまでも自分の外側にある知を自分自身の「知」へと引き寄せることができる。

「読む」と「書く」っていえば、そりゃあ、あんたのやっているような「人文科学」の話やろうと言われそうですけど、「読む」→「書く」というプロセスは、データや実験をもとに何かを論証していくという意味では同義だから、社会科学や自然科学も例外ではない訳でね。手順を省くとアウトですよ。


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日記:英語のネイティブスピーカーはなぜ白人だけに限定されなければならないのか。


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よく思うのだけど、どこまで白人に対する愛憎まみれた卑屈さを持ち、その鬱憤を返す刀の如き形で、アジア蔑視へと注ぎ込む。人間は相互に平等ではなかったのか(今更だけど。卑屈と蔑視であたかも中庸に位置する如き錯覚として自己を序列化する発想は卒業しなければならないのではないの?

いわゆる、英語のネイティブ教員を見れば判るけれども、画一的に「白人」ばかりでっしゃろ(殆どがメリケンでしょうが。しかし、英語話者は、「欧米」に限定される訳ではない訳でして、南米出身でも、香港でも、インドでも、フィリピンでも、黒人でもありだと思うのだけど、何故かそうならない。

雑に言えば、明治以降の近代化の眼差しをそのまま継承しているのだと思うけど、白人(という先端の西洋〔当時〕)から直接学び、アジアをリードする(=支配する)という歪んだ名誉白人の如き思い上がりが、今の日本をも潜在的に支配しているのだろうと思う。

朝日新聞の土曜版(be on Saturday、2014年11月1日付)に、フィリピンのセブ州マクタン島で、英語ビジネスを展開する元バイク便会社経営者が紹介されていた。「英語が母語でないフィリピン人は教えるツボを心得ていて」だそうな。

テレビ業界を席巻する「世界で輝く日本人」だとか「外国人があこがれる日本」だのというのは、本当にどうでもいいのだけど、例えば英語ひとつにしても、もはやそれはアメリカやイギリスの専有物ではない訳で、多様な「交差」っていうのもありだと思うのですけど、白人がしゃべらないといかんのかの。

例えばですけど、いろんな人種・国籍の英語話者が、英語教育にはいってくる。そのことによって、英語だけでない、その多種多様な背景を学ぶという有り様で、彩り豊かになるはずなんだけど、英語教科書開いても、Johnだのなんだのですからのお。


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社会を批判的にまなざす「力」

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金曜日の授業にて、哲学の講座は残り1回になりました。

最初の授業から口をすっぱく言っているのですが、本来、大学での学問、なかんずく教養教育とは、例えばそれが外国語を学習するものであったとしても、何かそれは社会の要請に応えるという名の馴化としてあるべきではなく、社会を批判的にまなざす「力」を養うものであるはずだから、徹底的に、俗流のプラグマティズムに陥ってはいけないと考えています。

だから、哲学や倫理学を学習するといっても、それは、誰が何をいったかとか、どこに何が書かれているのか、というコピポbotになるのではなくして、そういう考えに耳を傾けながら、自分ではどう考えるのかということが肝要になってくるのではないかと思います。

勿論、コピペbotになるといっても、それはローティがいうように、鏡に映し出すように正確に記述することは、先験的に不可能でありますし、「自分で考える」といっても、無から何かを創造するなんてことはできません。

だから、今、生きている現代の私として、古典と対話するしかありません。

残り1回ですが、そういうひとときになるように配慮しましたが、これは、哲学や倫理学といった講座に限られた問題ではありませんので、「グローバル~」だとか「意識の高い~」といった鳴り物入りの現在の流行に左右されることなく、力を養い続けてほしいなと思います。

ともあれ、7月からもの凄い猛暑。

あと1回ですが、干からびないようにがんばるしかないですね。


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“日本は世界でも有数の豊かな国”ということにかんして


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 日本は世界でも有数の豊かな国です。世界一の平均寿命を誇り、一人当たりの国民総所得(Gross National Income)は、三万三四七〇ドル(約二六八万円)。世界一九位の数字ですが、世界平均の一万五九七ドル(約八五万円)の三倍以上の値です(WHO,二〇一一年)。他方で東日本大震災は、明治の近代化以降、日本が抱えてきたさまざまな問題と結びついているという指摘もあります。日本全体としては、繁栄を誇りつつも、多数者の利益のために、必然的に存在する問題の影響や影の部分を、少数者や社会の一部の構成員に押し付けてきた社会でもあるということです。沖縄の米軍基地の問題、明治時代後期に発生した日本の公害の原点である足尾銅山鉱毒事件や、水俣病、そして原子力発電所の問題です。
 原発は被曝労働を必要としています。放射能にさらされながら業務を行う被曝下請け労働者、あるいは原発被爆者ともいわれるべき人々が事故の収束に向けた作業に携わっています。桁違いに高い放射線量にさらされながらの闘いですが、原子炉で働く人々が高い放射線量にさらされているのは、「事故後」の特別な事象ではありません。平時の、それも、定期点検や清掃作業の中で、原子力発電所で働く人たちは、高い放射線量にさらされてきたのです。
 人間の安全保障の視点からこの原発の問題を見直すと、エネルギー政策とは別に、そもそも一部の人の圧倒的な犠牲の上でなければ成り立たないシステムを私たちは容認し続けるのか、という視点が生まれます。海外、特に途上国に原発を輸出することは日本製の原発施設が他国の製品に比べ、いかに安全性に優れ、技術的に優位に立とうと、「人間の安全」が「保障」されない労働者を生み、あるいは、すでにある格差を利用して、さらにその格差を助長することにもつながりかねません。日本は東日本大震災の年、二〇一一年一〇月に原発輸出でベトナムとの間で合意、ほかにもトルコやインド、ヨルダンなどへの原発輸出が推進されようとしています。私たちは国内の原発問題のみならず、海外への原発輸出をどのように考えていくべきなのでしょうか。
    --長有紀枝『入門 人間の安全保障 恐怖と欠乏からの自由を求めて』中公新書、2012年、242-244頁。

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水曜は千葉の短大で倫理学の授業でしたが、学生さんの一人一人が授業を楽しみにしてくれているのが、ほんとうに嬉しいので、往復6時間かけて90分1コマなのですが、まいどまいどこちらの方が教わることが多く、費用対効果を考えると「きつィ」ものもあるのですが、これもひとつの財産になっていると思い、通っております。

さて、今日は、倫理学の大切な観点の1つであり、出発点でもある「身近なものへ注目する」ことについて少々をお話をしてきました。

私たちは、普段生活のなかで、小文字の事柄と、大文字の事柄について別々の事柄として「たてわけ」て考えているフシがあるかと思います。

小文字の事柄とは、プライベート・ライフといってよい部分であり、大文字の事柄とはパブリック・ライフの部分です。

しかしこの両方の事柄は、相互に無関係であるのではなく、互いに密接に規定しあっているものでもあります。だからこそ、両方に無関心であることは問題であるし、片一方だけに過度に偏重するのには問題があります。

そういうことをお話してきました。

日常生活の中に全ての根があるとすれば、その展開を考えるうえでは、自分自身の事柄をまったく抽象して思索するのも問題がある。

そういうことですよね。

なんだか、そのあたりことのがスルーされて、撤退か意識の高さかのイエスかノーかを迫るひとびとが多くいますが、そうではない地平において、意識を働かせていきたいものです。

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「話さない」ことも、そして「いない」ということさえ表現かもしれない


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 さて、「今朝、何、話したの?」と聞くと、子どもたちは、ほぼ決まって「えぇ、今朝、何話したっけ?」と呟く。私はこれだけでも、この授業(国語授業内での演劇教室のこと……引用者註)の意味があると考えている。話し言葉の教育とは、まずもって、自分の話している言葉を意識させることから出発するはずだから。
 日常、話し言葉は、無意識に垂れ流されていく。だからその垂れ流されていくところを、どこかでせき止めて意識化させる。できることなら文字化させる。それが確実にできれば、話し言葉の教育の半ば達成されたと言ってもいい。子どもたちは、そこから、日常使っている自分たちの言葉に意識的になるはずだから。
 実際の授業では、優等生的な子が、「じゃあ、宿題の話をします」とか「運動会が近いので、運動会の話をします」と発言して、流れが決まっていく。私の役割は、それでも黙っている子に、さらに聞いていくことだ。「じゃあ、君は何話すの?」
 そうすると必ず「話さない」という子がいる。私はすかさず「じゃあ、君は話さない役にしようか?」と聞くと、意外とみんな、「えー、じゃあ、なんか言う」と言って自分の台詞を書き始める。日頃、書くということにプレッシャーを感じている子も、いったん「書かないでいい」と言われると、不思議と自分の台詞を書き始めるものなのだ。
 あるいは「話さない、寝てるから」という子どももいる。こういう子には、「おぉ、いいね、いいね。じゃあ君は寝る役にしょうか」と言う。まだ黙っている子に、「君はどうする?」と聞く。そうすると「いない」と言う子がいる。「いつも遅刻ギリギリに来るから、いない。だから友だちが何話してるかも知らない」と言う。私はもう喜んでしまって、「おぉ、いいねいいね、じゃあ、遅刻してくる生徒の役も作ろう」となる。
 さて、三時間目、冒頭、最後の練習をして、どうにかギリギリ、各班とも台本が出来上がって発表となる。発表の場では、全員が宿題の話を真面目にしている班よりも、宿題の話をしている子の横で、机に突っ伏して寝ている子もいれば、途中から「やばいやばい」と教室に入って来る子もいる班の方が、よほど演劇的には面白い。
 このとき子どもたちは、「話さない」ことも表現だということを学ぶ。「いない」ということさえ表現かもしれないと感じる。子どもたちのなかで「表現」という概念が、大きく広がっていく瞬間がある。
    --平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年、5557頁。

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国民国家体制において、強い国家=強い軍隊をつくるためには、どうしても国語の統一が必要となる。

正しい言語や標準語といってものを設定し、それについての「読み・書き」できることの収得が何よりも優先させられてきたのが国語教育の歴史といってよい。

たしかに言語の「共有」という意義では、国語教育はその役割をしっかり果たしてきたが、もはやその使命は終わっている。加えて、コミュニケーション能力が国語を中心とした初等教育に要請される昨今、確かに改革は必要だけれども、需要と供給のバランスは、ホンネと建前的なダブルバインドによって、その目指すべきものとは、思っても見なかった方向に向かっていると言っても過言ではない。

そうしたなかで、大切なことは色々あるのでしょうが、やはり「表現」とは、「自分の考え」を「言葉」によって適切にパロールするもの(ないしは)ディスクールするものという狭いものに限定しないことも必要なのではあるまいか。

劇作家平田さんの魅力的な提案には驚くばかりだ。

確かに「話さない」ことも表現の一つであれば、誰かを祝福するために「言葉」を贈るのもその1つだし、絵がうまいのなら絵を贈り、歌がうまいなら歌を歌うというのもその一つであり、これは立派な表現である。

表現概念について、もっと柔軟に向き合う必要がありますね。

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「だから何なんだ」と問い続けること

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「自分で考える」ということ
 そんな失意の中、七一年の春休みに帰省し、知人が持っていた一冊の本『自分で考えるということ』(澤瀉久敬著、角川文庫)のタイトルに惹かれた。一晩借りて読了した。「自分で考える」ことの手ほどきを手取り、足取りといっていいほどに、懇切丁寧に、順を追って、ものごとを整理しながら、解きほぐすように語ってくれていた。明晰な書は、読者に自分の頭がよくなったかのような錯覚をもたらすものだが、私は、この本を読みながら、頭の中が整理され、著者とともに順を追って思考している思いがした。その感動を知人に語ると、喜んでその本を私にくださった。心にのこる一冊となった(『科学者の本棚』岩波書店、五五~五九頁参照)。
 その本は、デカルトの「理性」に基づく「順序」と「方法」に則って考えることについて詳述していた。すなわち、「多くの問題がいつまでも解決できぬのは、与えられている問題を、そのままで解こうとするから」で、「複雑な問題を、そのままで、全体として解こうとしても、それは無理な話」であり、「全体を部分に分けて、一つ一つ解きほぐさねばならぬ」と述べ、「特に東洋人は--『全体』ということが好きで、『全体を全体のままで』ということをむしろ重んじさえする」が、「それではいけない。複雑なものを単純なものに還元せねばならぬ」と忠告していた。
 「理性の方法はこれだけではない。分けられた要求を、次に、一つ一つ、徐徐に、段々と、積み重ねてゆくことが必要である」「絵の上達を願うものは、まず一本の線を美しく描くことを学ばねばならぬ。一人前の大工になるには、幾年もただ板をけずることだけを習わねばならぬのである」「その前進にあたっては跳躍を試みてはならない。地上から一挙に屋根に飛び上がるようなまねをしてはならない」「理性に従う者は階段を一段一段と登らねばならぬ」「理性は跳躍をゆるさない」「分析と綜合こそ理性的人間の辿らねばならぬ道なのである」とも教訓していた。
 その本を何度も繰り返し読んで、与えられたものを受動的に受け入れるのみであったことを根底から反省した。素朴な問いを大事にし、自分が納得することを重視した。単純なことに始まり、一つひとつ自分で納得することを積み重ねた。自分が納得しなければ先へは進まない。不確かな「知」を足がかりとせずに、必ず納得するまで調べて、その上で先に進むという方法をとった。ものごとを理解するためには、与えられたものを鵜呑みにするのではなく、「だから何なんだ」と問い続けることが大事だと思うようになった。どんなに有名な先生に主張に対しても、同じ態度を貫いた。
    --植木雅俊『思想としての法華経』岩波書店、2012年、4-5頁。

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24日は、後期の哲学の定期試験。試験終了日のためか、大学構内の学生の数も少なく、4時間目に、全員参加で無事終了しました。

履修された皆様、15回の授業、レポートの作成、そして定期試験、お疲れさまでした。

最後の授業でもいいましたが、結局のところ、教室の中でまなんだもの「だけ」、テクストにかかれていること「だけ」が、哲学ではありません。

皆様の日常生活のなかで、どれだけ「気がつく」ことができるのかが、哲学なんだと思います。

15回の授業も、レポートの作成も、そして定期試験への取り組みは、本質ではなく、むしろ、その一つのリハーサルであったと思います。

試験が済んで、これから春休みになるかと思いますが、むしろ、そこでひとりひとりが自分自身の生活へ還っていくなかで、哲学という学問は立ち上がってくるものだと思います。

生-権力による馴化も同じです。学問もおなじです。「そういうものだよ」「考えるに値しない」ではなく、「与えられたものを鵜呑みにするのではなく、『だから何なんだ』と問い続けることが大事だ」と思います。

「だから何なんだ」

常にそう心がけるなかで、学問を深め、人間性を涵養していってほしいと思います。

皆様、ほんとうにありがとうございました。

……って、こちらは今度は、レポートの内容確認と採点ですね・・・・orz

orzとなってしまってもイタシカタありませんので、昨日は、試験が済んでから、勉強会の仲間達と、遅くなりましたが、新年会。

こちらもご参集されました皆様方、ありがとうございました。

こちらでも同じですが、おたがいに「だから何なんだ」でいきましょう!!!

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とにかく迎合するまえに批判せよ

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 とにかく迎合するまえに批判せよが、簡にして要を得た解答となる。知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択肢したかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象(レプリゼント)されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年、61-62頁。

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必要な資料を探すために本棚をひっくり返しているうちに、気が付くと夕方でして……、ほとんど進展のない無益な一日を送ってしまったのですが、学生時代に読んで、非常に啓発を受けた一書も出てきたので、少しだけ抜き書きして紹介しておきます。

『オリエンタリズム』で有名な思想家サイードのBBC講演(6回)をまとめたのが『知識人とは何か』。サイードが望ましいと考える知識人とは、専門知識で重武装したエキスパートではなく、アマチュアですが、このアマチュアというのは、ひとつの分野に呪縛され、何かに集中的に奉仕する専門家ではありません。むしろ各分野を自在に横断できるアマチュアこそ、次代を切り開く開拓者というわけです。

冒頭に紹介した一節は、このちょうど2回目にあたる「国家と伝統から離れて」というところからです。

知識人はどこに立つべきか。サイードによれば「弱者の側、満足に代弁=表象(レプリゼント)されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか」という二者択一になります。

いうまでもない選択肢だと思いますが、これがそううまくいかないのが現実だと思います。

わたし自身、別に知識人を気取ろうとは思いませんが、各分野を自在に横断するアマチュアの自認と誇りはあります。

だとすれば、前者の立場に常に立ちたいとは思います。

そして、これだけ情報と知のネットワークが進展した現在の特質を考えれば、丸山眞男が「一国の学問をになう力は--学問に活力を賦与するものは、むしろ学問を職業としない『俗人』の学問活動ではないだろうか」と呟いた通りのリアリティが進行しているのも事実であるとすれば、一部の専門家だけでなく、「俗人」としての一人一人も、どうその知と向かい合い、どこに立脚するのかというのも重要になってくる気がします。

そんなことを15年ぶりに再読したサイードに諭されたような訳ですが、結局は本棚から必要な書籍は見つからず・・・。

さてと……。

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大学の建物の正面に掲げるべきは、《教育と研究のために》ではなく、《至高の教育としての研究のために》という標語であるべきでしょう。

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 第三の点、これを私はゲルマン的と名づけたいのですが、しかしこれについては、私はいくつかの激しい反駁にさらされなければなりませんでした。--私は大学というものは他の教育施設とは根本的に異なったものであると考えています。大学の建物の正面に掲げるべきは、《教育と研究のために》ではなく、《至高の教育としての研究のために》という標語であるべきでしょう。大学で学ぶ者が努力すべきことは、すでに出来上がった知識の習得ではなく、知を拡充することなのです。
 患者をただ教科書どおりに治療するような医者は、医者ではありません。どんな患者からも、医者はそのつど新たな研究目標を受け取り、その知識を拡充してゆくべきです。同じ事は、依頼人一人一人の問題を、そのつど新たな法律上の問題として捉えるべき法律家についても言えます。また、このような要請は、もちろんあらゆる聖職者にも当てはまるものです。聖職者は一人一人の人間の魂が、神と直接つながるものであることを自覚していなければなりません。聖職者の務めは、この上ない畏敬の念をもってこれらの魂に耳を傾けることであって、陳腐なお説教をして信徒を退屈させることではないあのです。
 ところで、こうした知の拡充は研究の自由なしにはありえませんが、しかし私のロシア人の同僚からは、これには激しく反対しました。彼らはその理由として、何よりも哲学のことを引き合いに出し、ロシアの青年たちをたぶらかして危険な道に迷い込ませたのは哲学であり、あらゆる国家の基盤を揺るがすニヒリズムは哲学のせいだと主張しました。
 私は彼らに対して、哲学というものは生命に対する自分勝手な要請を理論的に正当化するようなものではなく、逆に生命が個々人に対して要請するところを、ある神的な力として開明するものだということを説明しようとしましたが、いくら説明しても聞き入れられませんでした。
    --ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(入江重吉・寺井俊正訳)『生命の劇場』講談社学術文庫、2012年、30-31頁。

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環世界説を提唱し、機械論的な生物行動を批判したユクスキュルの『生命の劇場』が文庫収録されましたので、昨日からぱらぱら読み始めました。

一見すると「小説か?」と見まがう文体で、ひとびととのやりとりや自身の省察から議論が進んでいくのに驚きます。ちょうどその本の冒頭で「大学の使命」について言及がありましたので、ひとつ紹介しておきます。

ユクスキュルによれば、大学とは「教育と研究のために」存在するわけではなく、「至高の教育の研究のために」存在することに意義があるということです。

そしてそこで学ぶ者が努力すべきこととは、「すでに出来上がった知識の習得ではなく、知を拡充すること」と指摘しております。

そして、医者、法律家、聖職者におけるあり方をとりあげ、その議論を具体的に説明しております。

確かに大学が他の教育機関と異なるのは、「教育と研究」という二つが内在するからに他なりません。しかしそれは、結局別々の事柄ではなく、深く相関しあっているものであるとすれば「至高の教育の研究のために」存在することに意義があることは間違いないでしょう。

たしかに今日の大学世界だけでなく、かつてもそうですが、「教育」と「研究」は、別々のものとして「立て分け」られて受容されてきたことは否めません。

しかし、今日では、様々な「評価」とか「見える化」によって、その二律背反はますます深まるばかり。吹けば飛ぶような非常勤に過ぎませんが、自分自身のことがらとしても「至高の教育の研究」のために、その生業が成立するよう努力するほかありません。

さて……。
昨日は、通信教育部在籍時代の「倫理学」受講者たちと一献。
さまざまとつもるお話や近況を讃え合うことができました。
皆様、遅くまでありがとうございました!

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一国の学問をになう力は--学問に活力を賦与するものは、むしろ学問を職業としない「俗人」の学問活動ではないだろうか

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 私は本書の中で、市民の日常的な政治的関心と行動の意味を「在家主義」にたとえたが、同じ比喩を学問、とくに社会科学についても日頃考えている。私を含めて学問を職業とする学者・研究者はいわゆる学問の世界の「坊主」である。学問を高度に発達させるために、坊主はいよいよ坊主としての修業をつまなければならない。しかし、宗教と同じように、一国の学問をになう力は--学問に活力を賦与するものは、むしろ学問を職業としない「俗人」の学問活動ではないだろうか。私が乏しいながらも、本書の論文で意図したことは往々誤解されるように学界とジャーナリズムの「架橋」ではなくて、学問的思考を「坊主」の専売から少しでも解放することにあったのである。その意味で、私としては今後とも、とくに学問を愛する非職業学者からの鞭撻と率直な批判を期待しお願いする次第である。
    --丸山眞男「増補版 現代政治の思想と行動 後記」、『丸山眞男集』第九巻、岩波書店、1996年、181-182頁。

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政治学者・丸山眞男の単著で最初に手に取ったのは、『日本の思想』(岩波新書、1961年)ではなく、『現代政治の思想と行動』(未來社、1956-57年)だと思う。

手に取ったのは合本増補版(1964年)だったと思うが(現在の新装版、2006年)、あの衝撃はわすれることができない。現代日本の精神状況、そしてイデオロギーの政治学を踏まえ、人間と政治について論じた「迫力」に度肝を抜かされるとともに、偉大な先達と時間を共有していたことに、少し嬉しくなった記憶がある。

さて冒頭に引用したのは、増補版の「後記」です。

『現代政治の思想と行動』は、出版以来、様々な「暴風雨」にさらされたといってよいと思いますが、それを踏まえたうえで、自身の「試論」に対する、応答ととらえていいでしょう。

丸山の挑戦とは、その一冊だけにかぎらず、トータルな歩みとして通俗的なアカデミズムという象牙の塔への「撤退」でもなく、さりとて手順を割愛したジャーナリズムへの「迎合」でもない。そこにその真骨頂を見出すことができるとは思います。

それを「坊主」と「在家主義」というキーワードで、自認していたことは非常に興味深い。

私自身も“通りすがりの”非常勤にしかすぎませんが、手順を割愛して、何かに迎合するようなことは「学問」ではないと思うから「坊主はいよいよ坊主としての修業をつまなければならない」というのは至言であると思う。

しかし、真理を探究する学問者というのは坊主であって坊主でもない。何かの奴隷ではないという意味では「自由人」であるから(←くどいけど、手続きをおろそかにして好き放題ぺらぺら言及するとか、何かにとっていいように利益誘導するという意味ではなく)、一個の人間として……丸山の言葉で言えば「俗人」として……関心や問題意識をもって、対象を観察し、熟慮し、表現していく「身軽さ」は大事だと思う。

そういう刺激が相互に応答されることによって、学問というのは、漸進していくのだと思うし、意外なところで「ああ、そういう発想もあるのだよな」と、例えば学生さんや主婦の方といった「生活者」の視座から「うん、うん」と唸ることもある。

これは経験からよく分かる。

自分自身、ハンパモノなので、その感覚が凄く分かるのですが、それを学問の「在家主義」といいますか……、結局のところ、学問と生活という二元論ではなく、坊主としての「学問」関係者も「生活者」だし、生活者も「探究者」としては、学問関係者だから、その交差をうまくやっていくなかで、実際のところ創造的営為というものは、生成されていくのだろうと思います。

さて……。
自分自身の事柄で恐縮ですが、いわゆる「最近の学生はねぇ~」っていう“定番”の上から目線の先生に出会ったことがないのは幸甚としかいいようがない。

後達を「いいよう」に利用するのがアカデミズムの世界であり、学校教育においても「昔はナー」という連中がごまんとして存在する。もちろん、「ものたりなさ」の批判はしかるべきだろうけれども、発想の全否定はされたことがない。
※誤認の修正への指摘は枚挙の暇がないという(涙 でもありますが。。。

その意味では、そうした「素人感覚」とそれを洗練していく過程としての学問としての「在家主義」(と同時に「坊主」の内在的・不可避な批判)というものは「学問」という営為を営為たらしめるうえで、必要不可欠なんでしょうねー。

自分自身もかくありたいと思います。

そういう意志とか発想とか、自由な思念をねじ曲げようとする「坊主」こそ最低ですし、おうおうにして「坊主」っていう奴は、自身の安心立命が「坊主」のメシノタネになるものを「利用」するだけ「利用」してあとはポイですから……宗教にしても学問にしても……。

だからこそ、自身への訓戒として、その辺には自覚的でありたいというはなし。


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わたし個人にとっても空腹がいちばんの問題です。そのことが歴史記述の底にあって、価値判断の底にあるような歴史観でなければ信頼できないと思うのです

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人間本位の歴史学
鶴見 歴史学は人間の立場から見なければいけないとわたしが言うのは、人間の根本の問題は空腹だと思うのです。わたし個人にとっても空腹がいちばんの問題です。そのことが歴史記述の底にあって、価値判断の底にあるような歴史観でなければ信頼できないと思うのです。だれが絵がうまかったとか、だれがバイオリンがうまかったとかいうふうなことを中心に書いていくような歴史ではしょうがないと思うのです。そこでは、いかにして人間にとって空腹が減っていくような立場を守れるか、ということをつらぬいているような歴史学でなければいけないと思うのですが、同時に人民大衆のなかにあって、疑う権利を守るような歴史学あるいは歴史意識でないと困る。
 キリスト教のおそろしいところは、神が全部取っちゃう。一元の神だから、疑う権利は初めから神学的に圧殺するところがあるんですよ。わたしはアウグスティヌスはそうとうえらい人だと思うんだけれども、依然としてそこがおそろしい。そうではないもの、だから司馬遷になると別のものがあっておもしろい。そういうふうな歴史意識のほうが、わたしにとっては魅力がありますね。
 キリスト教と科学が癒着したような種類の歴史科学意識からは離れたい、もっと別のものを得たいという気持ちはつよいです。いまのような巨大科学になると、科学者は権力と癒着しやすいでしょう。それを抑制するように、しろうとの立場に歴史をとりもどさなければ、わたしが希望するような歴史意識はなかなか生まれないんじゃないかな。
    --「歴史をみつめる視点 奈良本辰也」、『鶴見俊輔座談 近代とは何だろうか』晶文社、1996年、65-66頁。

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鶴見俊輔さんらしい表現といいますか、「人間の根本の問題は空腹だ」という指摘は、歴史学に限らず、思想や哲学、そして文学に関しても同じじゃないかと思う。

ここでいう「空腹だ」というのは即物的なそれももちろん含まれるまですが、唯物的にそれのみ還元される「意識」でないことは言うまでもないでしょう。

机上の架設のうえで、どうだこうだ人間を操作するのでもなく、かといって、モノを配給すればすべて解決するという短絡でもない、ここに「人間の生きた姿」がある。

そして同時に「人民大衆のなかにあって、疑う権利を守るような歴史学あるいは歴史意識でないと困る」。ここも大事なポイントですね。

昨今、知識人の信用がガタ墜ちですが、もういちど、人間の生活世界のなかから、遊離でも惑溺でもないきちんとした在り方をつくっていくしかないですね。

ホント、これは他人事ではありません。


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