仏教思想史

日記:中村元先生の「ドイツ語」を介して

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 中村が、一高でペツォルトと出会ったのは、一九三〇年のことだから、ペツォルトが仏教の個人授業を受け始めて十三年経ったころである。ペツォルトの授業は、小学校の教科書をドイツ語に翻訳するという内容だった。その授業の中で、ペツォルトはよく仏教についてドイツ語で語った。
 日本では漢訳の仏教用語がそのまま用いられて、意味がすぐには読み取りにくい。ところが、ペツォルトがドイツ語で語る仏教用語は、言葉の解釈が施され、意味を理解した上で翻訳されていて分かりやすくなっていた。それによって、中村は、分かりやすい言葉で仏教を語ることの必要性を痛感したといえよう。そして、仏教用語を分かりやすい言葉で説明した『佛教語大辞典』の編纂へとも発展していった。また、仏教を思想としてとらえることも、ペツォルトとのやりとりの中で培われたものといえよう。
 日本は仏教国といわれるが、公教育の場で仏教について触れることはなく、大学に入学する前に仏教の教義を聞いたのは皮肉なことにドイツ人のペツォルトからであった。書物を通して仏教を学んだことはあったが、人を介して仏教と出会ったのは、外国人のブルーノ・ペツォルトを通してであった。
    --植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばと思想』角川学芸出版、2014年、23-24頁。

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仕事の関係で植木雅俊さんの『仏教学者 中村元』(角川学芸出版)を読み直していますが、書評すればこれほど書き易く、これほど書き難い本はないなあと実感します。中村先生はエピソードに事欠かない。それをうまくまとめれば紹介になります。しかし本書がその点と点を結び、その現代的意義とブレイクスルーをつまびらかにする訳なので、字数制限の中で闊達に語るのは至難だなと思わざるを得ません。

( まあ、そもそも世界史的意義を秘める中村元先生の評伝自体が、はじめてのものだからエピソード中心に紹介するというのはいたしかなたないとは思うけど…それが悪いのではない訳ですけど…真の探求者かつアカデミズムの翠たる中村元先生が狭隘なアカデミなんちゃらから蛇蝎の如く忌み嫌われたのには驚く。これは、井筒俊彦先生に関しても、同じ消息かも知れません。 )

さて、戻りますが……。

植木雅俊さんの中村元伝によると、一高時代に「中村の学問骨格、姿勢」が形成されたという。影響を受けた人物の一人が、ドイツ語担当のブルーノ・ペツォルト。1912年頃から仏教に関心を抱き、星野子四郎を経て、週2回、島時大等、花山信勝の個人教授をうけたそうな。

ペツォルトは「ゲーテと大乗仏教」「天台教学の精髄」など論文を執筆し、1928年、55歳で上野の寛永寺で得度し、大僧都になったという。中村元が15歳の中学生の時である。中村の出会いは1930年。授業では小学校の教科書をドイツ語に翻訳する内容で、仏教についてドイツ語でよく語ったという。

漢訳仏教用語は、言葉の解釈という負荷の故、ストレートに理解しがたい。しかしペツォルトがドイツ語で語る仏教は「意味を理解した上で翻訳されていて分かりやすくなっていた」。中村は「分かりやすい言葉で仏教を語ることの必要性を痛感」したという。それが後に、「佛教語大辞典」へ結実すると中村元伝はその消息を伝えています。

植木雅俊曰く「書物を通して仏教を学んだことはあったが、人を介して仏教と出会ったのは、外国人ブルーノ・ペツォルトを通してであった」。

このペツォルトの出会いが、僕と中村先生の一瞬の出会いの記憶を更新させたのに我ながら驚いた。

1995年(だったと思うが)、今は神学研究ですけど、一時期、仏教研究に志さし(華厳学)、院試の為に、サンスクリット語を習い始め、東方学院に半年通ったことがあります。その時、面接してくださったのが中村元先生なのだけど、5~10分くらいお話しました。

和顔愛語さながらのひとときの出会いでしたが、中村元先生は、当時の僕が独文学科の在学者ということでたいそう喜ばれ、「サンスクリット語から仏教を学び直そうとする上で、ドイツ語を学ばれていることは大変重要です」(趣旨)という言葉をかけてくださった。

「大変重要です」という中村先生の言葉を今日まで僕はそれを東洋学の先駆としてのドイツ語アカデミズムのアドバンテージと短絡的に理解していたのですが、ペツォルトとの出会い、そしてドイツ語を系有して仏教の神髄を理解・会得した経緯が、「ドイツ語云々」の背景にあったのではないかと認識を一新した次第です。

結局、仏教研究は、まさに中村元先生が唾棄したが如きセクショナリズムと、思想無き文献解釈への惑溺、そして宗学への予定調和に辟易して辞めて、日本人がどのように、異なる文化を理解し、それを受容(文化内開花)したのかという意味で神学研究へ舵を切ったのですけど、その研鑽の日々は有益だったと思う。

基本中の基本なのだと思うけど、やっぱり古典語をきちんとやっておくことは大切ですね。

碩学からすれば初手すぎて笑われてしまうかもしれませんが、普遍的なものの端緒に触れると、「日本は古来より美しい国でございます。あ、でも外国人出ていけ」みたいな発想を見ると、この世の現象にしか過ぎないものを、永遠不滅の実在の如く錯覚してしまう馬鹿さ加減には手を焼いてしまいます。

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日記:「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」こそ、空海の精神、そして仏教の精神、そしてもっといえば、宗教とは全く対極の立場

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日本仏教の現状に私は懐疑的であるし、大戦下において一部の密教僧侶のルーズベルト呪詛などというソレは確かに噴飯ものだけど、インドで誕生し、中国・朝鮮半島を経て日本へ伝来した三国仏教史としての日本的展開(文化内開花)を考えるならば、その直因は朝鮮半島にあり、空海、最澄が学んだ中国大陸に大恩がある。

精神として排外主義とは相容れない場所で差別表現はあり得ない。

蘇我物部抗争で出てくるのが仏教=「蕃神」という批判がある。しかしその蕃神論は、政治抗争におけるイデオロギー議論に過ぎず、そこに宗教の真性論を見い出すことは不可能だし、聖徳太子以降の受容経緯を考えると、大陸からの仏教輸入に力をいれてきたのが日本の歴史であり、宗教史である。
※もちろん、その負の側面が「御用」としての「鎮護」議論になるのですがここではひとまず措く。

だとすれば、朝鮮半島や中国大陸に対する報恩はあったとしても、根拠のない蔑視は日本の歩みそのものの全否定へと連動する。

私自身は、空海(お大師さん)の生まれ故郷・総本山善通寺の生まれだから、八十八カ所には幼い頃から親しんできている。観光的側面は否定しないけれども、だからこそ、特定の誰かを入れないというのは、違う訳でして……。

「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」こそ、空海の精神、そして仏教の精神、そしてもっといえば、宗教とは全く対極の立場だ。

お遍路さんの衣の背中には「南無大師遍照金剛」と記されている。「遍く照らす」ということを考えてもらいたい。

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差別貼り紙:遍路道に 外国人排斥 徳島、高松の5休憩所
毎日新聞 2014年04月10日 夕刊

 四国遍路の巡礼者が使う休憩所のうち、徳島県と高松市の計5カ所で、朝鮮人排斥を訴える紙が貼られていたことが10日、分かった。貼り紙は「日本の遍路道を守ろう会」との名で、「礼儀しらずな朝鮮人達が気持ち悪いシールを四国中に貼り回っています。見つけ次第、はがしましょう」などと印刷されていた。事態を受けて、徳島県は遍路道のある県内各市町村に確認を呼び掛け、徳島県警も軽犯罪法違反(はり札乱用)容疑を視野に情報収集している。

 徳島県内では、徳島市の観光施設「阿波おどり会館」前の休憩所で4枚▽吉野川市の休憩所で1枚▽阿波市の休憩所で2枚--の計7枚が見つかった。一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」(鳴門市)でも枚数は不明だが、発見された。

 高松市一宮町の休憩所では、先月28日朝、管理人の男性(71)が貼り紙1枚を発見し、その場ではがしたという。

 札所の寺院で組織する四国八十八カ所霊場会は昨年12月、外国人として初めて、遍路道の案内役や巡拝作法を手ほどきする「先達(せんだつ)」に4度目の結願(遍路終了)をした韓国人女性の崔象喜(チェサンヒ)さん(38)=ソウル市=を認定した。崔さんは、インターネットで遍路文化を紹介するサイトや、遍路宿や休憩所にハングルで書かれた自作のシールを貼るなど海外に遍路を紹介する活動を続けており、貼り紙は崔さんを中傷したものとみられる。【加藤美穂子、立野将弘、伊藤遥】
    --「差別貼り紙:遍路道に 外国人排斥 徳島、高松の5休憩所」、『毎日新聞』2014年04月10日(木)付(夕刊)。

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[http://mainichi.jp/area/news/20140410ddh041040010000c.html:title]


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差別貼り紙:遍路道に 愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会代表の寺内浩教授の話
毎日新聞 2014年04月10日 大阪夕刊

 ◇大きな違和感--愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会代表の寺内浩教授(日本史)の話

 大変残念だ。四国遍路は巡礼する人の悩みや苦しみを受け入れ、地域に「お接待」の文化が根付くもの。八十八カ所霊場を開いたとされる弘法大師空海は、中国に渡り、インド発祥の仏教を学んでおり仏教自体が国際的なものだ。その場に、特定の外国人差別を持ち込むことに、大きな違和感を覚える。
    --「差別貼り紙:遍路道に 愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会代表の寺内浩教授の話」、『毎日新聞』2014年04月10日(木)付(大阪夕刊)。

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[http://mainichi.jp/area/news/20140410ddf041040021000c.html:title]

関連報道まとめ
[http://togetter.com/li/653526:title]

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日記:「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」こそ、空海の精神、そして仏教の精神、そしてもっといえば、宗教とは全く対極の立場


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日本仏教の現状に私は懐疑的であるし、大戦下において一部の密教僧侶のルーズベルト呪詛などというソレは確かに噴飯ものだけど、インドで誕生し、中国・朝鮮半島を経て日本へ伝来した三国仏教史としての日本的展開(文化内開花)を考えるならば、その直因は朝鮮半島にあり、空海、最澄が学んだ中国大陸に大恩がある。

精神として排外主義とは相容れない場所で差別表現はあり得ない。

蘇我物部抗争で出てくるのが仏教=「蕃神」という批判がある。しかしその蕃神論は、政治抗争におけるイデオロギー議論に過ぎず、そこに宗教の真性論を見い出すことは不可能だし、聖徳太子以降の受容経緯を考えると、大陸からの仏教輸入に力をいれてきたのが日本の歴史であり、宗教史である。
※もちろん、その負の側面が「御用」としての「鎮護」議論になるのですがここではひとまず措く。

だとすれば、朝鮮半島や中国大陸に対する報恩はあったとしても、根拠のない蔑視は日本の歩みそのものの全否定へと連動する。

私自身は、空海(お大師さん)の生まれ故郷・総本山善通寺の生まれだから、八十八カ所には幼い頃から親しんできている。観光的側面は否定しないけれども、だからこそ、特定の誰かを入れないというのは、違う訳でして……。

「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」こそ、空海の精神、そして仏教の精神、そしてもっといえば、宗教とは全く対極の立場だ。

お遍路さんの衣の背中には「南無大師遍照金剛」と記されている。「遍く照らす」ということを考えてもらいたい。

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差別貼り紙:遍路道に 外国人排斥 徳島、高松の5休憩所
毎日新聞 2014年04月10日 夕刊

 四国遍路の巡礼者が使う休憩所のうち、徳島県と高松市の計5カ所で、朝鮮人排斥を訴える紙が貼られていたことが10日、分かった。貼り紙は「日本の遍路道を守ろう会」との名で、「礼儀しらずな朝鮮人達が気持ち悪いシールを四国中に貼り回っています。見つけ次第、はがしましょう」などと印刷されていた。事態を受けて、徳島県は遍路道のある県内各市町村に確認を呼び掛け、徳島県警も軽犯罪法違反(はり札乱用)容疑を視野に情報収集している。

 徳島県内では、徳島市の観光施設「阿波おどり会館」前の休憩所で4枚▽吉野川市の休憩所で1枚▽阿波市の休憩所で2枚--の計7枚が見つかった。一番札所「霊山寺(りょうぜんじ)」(鳴門市)でも枚数は不明だが、発見された。

 高松市一宮町の休憩所では、先月28日朝、管理人の男性(71)が貼り紙1枚を発見し、その場ではがしたという。

 札所の寺院で組織する四国八十八カ所霊場会は昨年12月、外国人として初めて、遍路道の案内役や巡拝作法を手ほどきする「先達(せんだつ)」に4度目の結願(遍路終了)をした韓国人女性の崔象喜(チェサンヒ)さん(38)=ソウル市=を認定した。崔さんは、インターネットで遍路文化を紹介するサイトや、遍路宿や休憩所にハングルで書かれた自作のシールを貼るなど海外に遍路を紹介する活動を続けており、貼り紙は崔さんを中傷したものとみられる。【加藤美穂子、立野将弘、伊藤遥】
    --「差別貼り紙:遍路道に 外国人排斥 徳島、高松の5休憩所」、『毎日新聞』2014年04月10日(木)付(夕刊)。

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差別貼り紙:遍路道に 愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会代表の寺内浩教授の話
毎日新聞 2014年04月10日 大阪夕刊

 ◇大きな違和感--愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会代表の寺内浩教授(日本史)の話

 大変残念だ。四国遍路は巡礼する人の悩みや苦しみを受け入れ、地域に「お接待」の文化が根付くもの。八十八カ所霊場を開いたとされる弘法大師空海は、中国に渡り、インド発祥の仏教を学んでおり仏教自体が国際的なものだ。その場に、特定の外国人差別を持ち込むことに、大きな違和感を覚える。
    --「差別貼り紙:遍路道に 愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会代表の寺内浩教授の話」、『毎日新聞』2014年04月10日(木)付(大阪夕刊)。

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葬式についての雑感


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葬式についての雑感ですが、ブログにまとめて書こうかと思いましたが、気力喪失にて、忘れない内にメモ程度に少しtwに流しておきます。

日曜日、妻の祖母が104歳(数え)でなくなり、月曜お通夜、火曜日葬儀となりました。宗派は浄土真宗本願寺派。実父の葬儀をだしてから、割と葬儀に出ると細かいチェック(なんじゃそりゃ)をするようになったのですが、本願寺派では死者は穢れた忌諱対象ではないから「お清めの塩」は使わないとか。

確かに、死者が忌諱の対象でないからという意義はよく分かる。しかし、日本仏教の歴史を振り返ると……それが権力による一方的なものであったとしても……寺請制度の人別張のことを勘案すると、「生」と「死」を管理してきた訳だから、少しだけ空虚に響いた。真宗だけの問題は勿論ありません。

葬式仏教の問題は私が指摘するまでもない話です。また穢れのような発想があるから、佛教者が「弔い」の役割を引き受けたという点を積極的に評価することもわかる。前者に対して鬼の頸~ってやるのも違うし、後者にしても、それは私度僧みたいな話やないけという話でもあって、難しい。

確かに葬式仏教化することで、「信仰」の形骸化は進んだ。その結果、信仰としての仏教ではなく、習俗としての仏教となってしまったことは否定できない。葬式を出す方も、とりあえず坊さん呼んで……みたいな手順をはずさずに「滞りなく」遂行すればそれでよしという風潮がある。

では、形式化した信仰の在り方は100%否定されて、近代日本のキリスト教に代表されるような、自覚的決断としての「信仰」だけが本物なのかと断じることには少しだけ違和感がある。勿論、葬式仏教の問題がスルーされてよいことでもないし、自覚的信仰も「継承」においては形骸化は不可避だし。

もともとは対峙・決断・受容というスタイルこそ本道だろうと思っていましたが、ここにはややもすると信仰の共同性や相互批判の問題が等閑視され、一切合切が個人へのみ還元されてしまうことになるのではないか、と。とすれば、「しゃべっている私の声を聞きたい」に傾く危険性を孕んでしまうのではと。

確かにアカデミズム的なヨーロッパのプロテスタンティズム的在り方は、宗教学の誕生そのものを歪めたように、ひとつの範にはなると思うし、宗教に限らず人間の共同性は、ややもすると、腐敗と形骸化の無限ループに陥ってしまう。それは宗教史が明らかにするところでもある。

何か特定の範型を示した上で、先験的な批判を遂行するのではなく、例えば、葬式仏教に問題があることは当事者にもわかっている問題だし(そうでない事例も多いでしょうが)、外からの高等批評によってのみ変えていくのではなく、何というか相互批判というかそうしたアプローチも必要なんじゃないかと。

まあ、伝統教団……個人的には冠婚葬祭を自前で準備できる宗教はもう制度宗教と捉えるべきと思いますが……は、これも何度も言っていますが、伝統に安住するのでなく、そしてロシア革命式な全否定主義の転換ではない、何か、を遂行して欲しいなとは思いました。まあ、そろそろ何いってんだかですが(酔

まあ、しかし、葬儀での導師の浪曲というか詩吟というか、独特の調子をもった、念仏の語りというのは、まあ、ある意味では「文化」になっているんだなーと瞠目はした次第。こういうのが、よくわらないけどありがたいというのは、坊さんにしても消費者にしてももったいないんではと思ったり。

それから、個人の信条として「これでなければ常道できない、本物はこれだけだ」っていうのは自分に返す言葉としては意義を持つと思っている。しかし、それを他者に向けることだけは慎もうと思っている。

死を利用して恐怖を餌に、何かを押さえつけようとするような言論に対してだけは警戒的でありたい。

ユニテリアンとつき合いが長かった所為かも知れませんが、個人的には、これによってしか~できないっていう発想という信念のようなものがほとんど中和されたように思う。勿論、信仰とは他に2番、3番があっての相対的な1番ではない絶対的な1番とは承知しているけど並立できる気はする。

個人的には真宗にはあまりいいイメージがない……TLの関係者の皆様すいません……ただ、生前お会いしたのが1度しかない祖母でしたが、いわゆる「成仏」はしたのではないかとは感じた。例えば、これでは成仏できないって何なんだろうか・・・。

それからもう一つはやはり序列の問題はやっぱり何じゃらほいとは思った。岳父が長男だから喪主になる。その長女が細君だから、席次でいくと主人の私が列席の2位につく。親族で僕より親しく故人と交流した人間が他に沢山いるにも関わらず。釈尊は水平的な人間関係を説いたというが……ちょとやれやれ。


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仏教哲学で初めて“ブッダ”とカタカナで書かれた中村元博士

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辺見 「萩の花」というタイトルにしてもいいですね。
 先生は仏教の心を本当にわかえりやすく書いていらっしゃいますね。私は、学生時代に『東洋人の思惟方法』を読みまして、とても勉強させていただきました。

中村 恐れ入ります。いや、あれはゲテモノでございましてね、専門家の間じゃ評判悪かったんですよ(笑)。

辺見 でも、今、たいへんな評価を受けて……。先生はまた仏教哲学で初めて“ブッダ”とカタカナで書かれたんですね。

中村 仏陀の“陀”の字を大学生が間違えるんだから、一般の若い方にはもう無理だと思いましてね。で、音写つまりカナでインドの発音を写したわけです。当時はずいぶんしかられたもんです。進歩的な仏教学者からもね。今では、築地の本願寺でもカナで“ブッダ”と書かれてることがございますから、もうしかられないと思ってるんですが(笑)。

辺見 もともとはインド哲学の教えだって難しくなかったと思うんですけれど。
中村 やさしいんですよ。お釈迦さんは、当時の民衆のことばで説いたわけですからね。ところが、中国の知識人を経て日本の知識人が受け取る間に、なんか難しいことになりましてね。
(初出)辺見じゅん『初めて語ること 賢師歴談』文藝春秋、1987年(初出誌『諸君!』1985年11月号)。
    --中村元、辺見じゅん「実社会じゃ役に立たない人間なんです」、中村元『中村元対談集Ⅲ 社会と学問を語る』東京書籍、1992年、252頁。

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稀代の碩学・中村元先生のエピソードといえば、やはり『佛教語大辞典』のそれを思い浮かべる人が多いのではないかと思う。自分自身もその一人だ。

中村先生が『佛教語大辞典』のために用意した「二百字の紙で三万枚くらい」の原稿が、まあ、事故のような形でなくなってしまいました。しかし、怒ったら原稿が戻ってくるわけでもないとして、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて、作り直したという話です。

このところ、中村先生の対談の方を読み直しているのですが、作家の辺見じゅんさんとのやりとりをちょうど仕事の休憩中に読んでいました。そのエピソードについても勿論、言及はありましたが、ひとつ、驚いたのは、“ブッダ”と「カナ」で表記する嚆矢が中村先生であったということ。

先生は卑下しながら対談を進めておりますが、“難しい”“高尚である”ことが学問ではないと日頃から仰っていた信念のひとつの真骨頂なのではないかと思います。

それを始めた頃は、「ずいぶんしかられた」そうですが、宗教にしても哲学や思想にしても、もともとは難しいものではなかったはず。難しいとか高尚であるということが悪いという訳ではありませんが、ワカラナイから「有り難い」とするのはひとつの錯覚であり、その錯覚というのが、日本における哲学や宗教の受容の歴史ではなかったかと思います。

今となってみれば「ブッダ」と「カナ」で表記することは殆ど当たり前で、「仏陀」と表記するひとの方がまれでしょう。

一見すると「些細」なことに見えるかも知れませんが、これは勇気ある決断だったのではないかと思います。


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「これから講義を始めます。体の具合が悪いのでこのままで失礼します」

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中村元先生の“最終講義”
 中村先生が亡くなられたのは、一九九九年一〇月一〇日のことだった。享年八六歳。猛暑で倒れられた先生は、亡くなられる少し前から昏睡状態が続いていた。そんなとき、先生の口から「これから講義を始めます。体の具合が悪いのでこのままで失礼します」という言葉が出てきた。訪問看護の看護婦さんは驚いた。見ると昏睡状態のままである。その場には、看護婦さんしかいなかった。聞きなれない言葉(サンスクリット語やパーリ語であろう)、それに専門用語が出てきて、その看護婦さんは「よく分かりませんでしたが……」と奥様の洛子婦人に報告された。講義は四五分続いたそうである。それは、東方学院での講義の様子のままであった。
 松尾芭蕉は、旅先で、
  旅に病で夢は枯れ野を駆けめぐる
と詠んだ。先生は、最後まで東方学院での講義に心を駆けめぐらせておられたのであろう。
    --植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書、2011年、206頁。
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1999年の10月10日のその日。
仏教・印度学の大家、そして希代の大哲学者・中村元先生がお亡くなりになりました。
もう13年になります。そして今年2012年は、生誕百年でもあるそうです。
私的なことを振り返れば、今となっては、神学研究者として学問活動に従事しておりますが、もともとは、中国仏教(華厳学)をやろうと志したことがあり、印度学・仏教学の基本となるサンスクリット語を自習せねばと思い、学部の講座を履修すると同時に、中村先生の私塾といってよい「東方学院」の「サンスクリット初級」を受講したことがあります。
※記憶によれば確かゴンダの『サンスクリット語初等文法』(春秋社)が教科書だったのですがあれがいいのかどうなのかは、うーむ。
で……。
いまはどうか知りませんが、そのときは、受講の可否を決定する「面接」というものがありました。もちろん、それは大学受験や資格試験に見られるような「落とすぞ! ゴルァ」っていうものではなく、「顔合わせ」のような雰囲気だったと僕は記憶しております。
大会議室のようなところでブースに分かれて、面接者と受講予定者が、一対一でそのときは行われましたが、たまたまというか僥倖でしょう--、僕を担当してくれた面接官が中村元先生でした!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
時間にして5~10分程度だったと思っております(中村先生だったのでびびって、記憶違いはあるでしょうが)。
中村先生とは、履修する志望動機や近況をやりとしつつ、たった数分です。
20ちょっとの洟垂れ学生を相手に「真剣」に「親身」に、言葉を交わしてくれた「知の巨人」の振る舞いに圧倒されたと同時に「人間はかくあらねば」と襟をただしたことが懐かしい思い出です。
その時ですが、僕は学部でドイツ文学専攻だったので、そういう話もしたのですが、中村先生は、
「ドイツ文学を勉強しているのですか。ドイツは、東洋学の先輩です。きっと、これまで勉強してきたドイツ語やドイツ文化と、そしてこれから学ぼうとするサンスクリットは全く無関係ではありませんよ。世の東と西を架橋する挑戦は素晴らしいですね。がんばってください」
……と激励してくださいました。
そのことは、懐かしいだけでなく、僕自身の宝物になっております。
東方学院での勉強は、通年で履修せず、半期で終了しました。中村先生が、学部で履修しているなら、その助走ができれば、後期はその段で考え直したほうが、価値的だよと示唆してくれたからです。
結局、今となってみれば、サンスクリットはローマナイズを辞書片手になんとか読める程度で……水準は保っていますが……、進路もキリスト教神学になりましたが、貴重な10分、そして半期にはなったと思います。
僕の履修したサンスクリット語の初級は、その時、たしか5名程度(希望曜日でわれますから)。
学部の学生だったので、そのとき、おどろいたのは、主婦の方やサラリーマン、いろんなひとと一緒に「研鑽」できたことです。関心や目的は千差万別でした。しかし、そういう多様なひとと学びあえたことは、大学という閉鎖的集団が基本的に「同質」人間を閉鎖的空間でブロイラーする現状であることを鑑みれば、その一コマというのは、そのときの僕に対してはカルチャーショックであったし、そのもたらされた動執生疑は、かけがえのないひとときであり、自分自身の財産になったと思います。
後日、通信教育部で教鞭を執ることになったのですが、そこでの多様な世代や人々との交流においても、それは一つの範型になったと思います。
さて……。
冒頭で紹介した一節は、中村先生の最後の最大のお弟子さんといっていい植木先生の著作から、その最後を紹介しましたが、非常勤とはいえ、学問に関わる人間としては、かくあらねばと襟をただす次第です。
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宗教者が俗権から爵位を受けて、それを名誉と感ずるとは何事であるか。

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「然るに此の仏法も、初生の時より治者の党に入りて其の力に帰依せざる者なし。古来、名僧智識と称する者、或は入唐して法を求め、或は自国に在りて新教を開き、人を教化し寺を建つるもの多しと雖ども、大概皆、天子将軍等の眷顧を微倖し、其の余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚しきは政府より爵位を受けて栄とするに至れり」。
(文二二四頁、旧文一九五頁、全一五六-一五七頁)


 「甚しきは」云々という表現は、前に出しました「奇観と云ふべし」といういい方と共通しています。皇室・政府が名僧知識に爵位を授けるなどということは当時の常識からみれば、「甚しきは」でも何でもない。一般の人は当り前だと思っている。これが福沢の目でみると、とんでもないことになる。宗教者が俗権から爵位を受けて、それを名誉と感ずるとは何事であるか。それぐらい宗教が俗権に対して独立性がなかったのだ、というわけです。ヨーロッパの歴史を読んでいたからこそ、こういう日本の光景が「甚しき」奇観と映ったのです。
 ただ、ヨーロッパの歴史を読んだからといって、こういう俗権と宗教との関係を問題にした知識人は同時期にはほとんどいません。その例外の一人が森有礼です。森は『日本における信教の自由』(明治五年アメリカで出版)という英文の意見書で、日本には良心の自由という観念がなかったと述べています。福沢がここではっきりいっていることも、ほとんど例外的といっていい指摘です。
 福沢がどこまで世界宗教としての仏教についての知識をもっていたのか、よく分かりませんが、すくなくとも原始仏教においては、こういう俗権の優位はありません。
 「出家の人の法は、国王に向かひて礼拝せず、父母に向かひて礼拝せず」という言葉があります。出家者は、国王の俗権としての首長としては認めるけれども、世間超越的な価値の立場から一般俗人と同じで、とくに「えらい」とは見ないから、礼拝しないのです。原始キリスト教と似ています。
    --丸山眞男「『文明論之概略』を読む(二)」、『丸山眞男集』第十四巻、岩波書店、1996年、173-174頁。

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丸山眞男さんの講義録ともいえる『文明論之概略』を読む』では、日本の宗教について福沢諭吉が言及している箇所についても精査されております。

これは丸山さん、福沢諭吉の両者に共通する問題式ですが、権力の偏重が社会というものをどのように特徴づけるのか、それが宗教の歴史的位置にシンボリックに表れるからです。
※福沢は文明論の概略で「日本文明の由来 二」の冒頭で宗教をとりあげ、丸山さんは「第十七講」、「諸領域における『権力の偏重の発現』 その一」として分析しております。

福沢は、まず、「宗教は人心の内部に働くものにて、最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存す可き筈なるに、我が日本に於ては即ち然らず」と「宗教」そのものの定義をしています。

そして、丸山さんは、それを受け「日本で『可き筈』と、ここでいえわれているような宗教の定義があったかといえば、すくなくもこうはっきりした形で良心の自由という定義があったとは思えません」と端的に指摘しております。

宗教は人間の内面性を代表し、精神的独立・精神的自由のシンボルとして存在する意義を福沢諭吉が「感得」していた点には驚くばかりですが、福沢のこのあとの叙述にも続く通り、日本宗教の歴史は、その大事なポイントを失念して展開してきたことは疑いもない事実です。

もちろん、それだけが宗教の全体性を代表するわけではありませんし、福沢や丸山さんに典型的に見られるように、ヨーロッパ世界の伝統と日本の伝統を対比することにものすごい意義があるなどとは思いません。しかし、対比云々以前の問題として、日本宗教の歴史とは、権力偏重で、個々の信仰者の「魂」の問題を軽く考えてきた伝統であり、そこが問題であることは否定できないとは思います。

ヨーロッパにおいては、俗権と教会は、それぞれが自律的な統治権を確立していくのがその歩みと大ざっぱには見ることができると思います。もちろん、世俗の独立、教会のトータル支配、そして宗教戦争の問題など、その文脈においては問題は山積しております。

しかし、互いに刺激を与えながら、相互に自律的な規範を生成してきたがゆえに、世俗の確立、そして精神性の独立というものも精錬されてきたことは間違いないと思います。

それに対して、日本の場合、特に仏教ということになるでしょうが(福沢も仏教を問題視しているわけですが)、その受容の経緯、国分寺の整備にみられるように、メインラインというものは、基本的に権力にそって展開されて来ました。ここに冒頭で指摘するような問題の因が潜んでいるのでしょう。

辛辣な福沢はそのことを次のように喝破しております。すなわち「仏教盛んなりと雖ども、其の教えは悉皆、政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明に非ずして、政権の威光なるが如し」、と。

丸山さんは、それが加速するのが……これは日本宗教史の定番になりますが……江戸時代になると捕捉し、宗教の自主・自立(自律)がないから、権力偏重に傾くという。宗教の自律性がないから「御定書百箇条」(幕府による僧侶に対する罰則規定)なども出てくる。

「自立の宗教、つまり世俗法に対して独立の教会法と教会政治というものがあるのならば、僧が戒律を破ったら教会(寺院)が裁くでしょう。自立していないから俗権が裁くことになる。社寺の自治法も一応ないわけではありませんが、幕府法・藩法のワクのなかで許され、『公儀之法』に従うのが原則」となる。

先に言及したとおり、受容経緯に見られるように権力偏重でありますし、その生成過程で、権力によって宗教の「威光」を増そうとするわけですから、必然といえば必然の筋道であることは明かです。

丸山さんは、この箇所の末尾を次のように締めくくっております。
※ちなみに次の節では「学問の権なくして却て世の専制を助く」。

「むろん日本宗教の大体の傾向の指摘としては、この段での福沢は鋭い太刀さばきはけっして見当ちがいではない、と私は思います」。

さて……。
福沢諭吉が『文明論之概略』を出版したのは1875(明治8)年のことになります。神道を中心に祭政一致を国家方針を示した「大教宣布」の発表が5年前の1870(明治3)年のことで、キリスト教の解禁は1873(明治6)年のこと。

しかしながら、解禁の前年に改組された組織・教部省による国民教化は1877(明治10)年まで続きます。当初神祇省による教導が試みられますが、失敗ののち、仏教者を交えた、キリスト教排斥といってもよい「国民教化」のただなかの時期に、『文明論之概略』が発刊されたのは意義深いものがあると思います。
※もちろん、その後は、「一定の留保付き」になりますが、信教の自由を「認めざるをえない」のと、教部省の運動の失敗・解体という流れですが。

何に意義深いと感じるかといいますと、通常、福沢諭吉は、『福翁自伝』の有名なエピソード(少年時代に、神社のご神体を石ころにかえた)にみられるように、宗教には淡泊で「功利主義的」なリアリストという認識があります。たしかにそれは当たっておりますが、それが福沢諭吉のすべてを代弁するわけでもないという点です。

福沢自身、確かに宗教に「淡泊」であったことは事実です。しかし、宗教そのものの実体を全くスルーするのではなく、冷静に見つめていたことも事実です。この辺りを失念してしまうと福沢を誤読してしまうでしょう。
※因みに、福沢は「宗教無用論」では全くないし、それが本来的に機能することには大賛成な人物です、念のため。

……などと書きつつ、大分錯綜してきましたがもとにもどりましょう。

福沢は日本宗教の権力依存構造を「鋭い太刀さばき」で腑分けしましたが、この後、日本宗教の流れはどうなるのでしょうか。

個々人の取り組みとしては、まさに真実回復の挑戦者たちが立ち上がることはいうまでもありません。しかしメインラインとしては、またしても偏重体質が加速していくのがその流れです。

無宗教としての「無関心」は「あり方」ですから別に問題はないと思います。しかし、「無関心」イコール「知らない」というのは、宗教の歴史だけでなく、様々な事柄についても同じかもしれません。

権力偏重体質というのは、権力の「威光」を借りて、自身の「承認欲求」を満たそうとすることで始まるのも一つの道筋でしょうが、「無関心」ってえいうのもまた同じかもしれません。

……って、うーむ。
また書き直しますわ。

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「本質」という虚構に頼って、それによって分節し出された存在者の世界は要するに虚構の世界、妄想に浮ぶ仮象にすぎない

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 「本質」ぬきの文節世界の成立を正当化するためにこそ、仏教は縁起を説くのだ。だが縁起の理論は、理論的にはいかに精緻を極めたものであっても、実践的にはなんとなくもの足りないところがなくはない。この現実の世界でわれわれが実際に交渉する事物には、縁起の理論だけでは説明しきれないような手ごたえがあるからだ。大乗仏教の数ある流派の中で、この問題に真正面から、実践的に取り組もうとしたのが禅である、と私は思う。
 禅も「本質」など絶対に認めない。「本質」という虚構に頼って、それによって分節し出された存在者の世界は要するに虚構の世界、妄想に浮ぶ仮象にすぎない。それなのに、現実の事物にどっしりした手ごたえがあるとすれば、それはもともと、「本質」を通した存在文節のほかに、いわばそれと密着して、それとは全く異質の、「本質」ぬきの文節が生起しているからであるに違いない。「本質」に依る凝固性の文節ではない、「本質」ぬきの文節が生起しているからであるに違いない。「本質」に依る凝固性の文節ではない、「本質」ぬきの、流動的な存在文節を、われわれ一人一人が自分で実践的に認証することを禅は要求する。
 そしてこのことは、当然、言語にも深く関係してくる。なん遍も繰り返したとおり、コトバは元来、「本質」喚起をその本性とするからである。つまり「本質」を通さない存在文節とは、もともと「本質」を喚起するように作られているコトバを、「本質」を喚起させずに使う、ということだ。
 老師が手にした杖を高々と振り上げて、さあこれをなんと呼ぶか、言ってみろという。杖であると言えば、「空」が凝結してしまう。杖でないと言えば、経験的事実に背く。現に老師に津でなぐられればたしかに身にこたえがある。ということは、杖でないことはない、つまり杖であるということだ。ここに至って切羽詰った学人は「転語」を発せざるを得ない。つまり自ら「本質」の影もない境位に身心を置いて、「本質」的でない仕方で杖を分節し出さなければならない。このような非「本質」喚起的な言語の用法、存在の非文節的文節については、語るべきことが多いが、いまはこれ以上語らない。後で主題的にこの問題を論じる機会があるので、ここではこのまま先に進むことにしよう。
    --井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を求めて』岩波文庫、1991年、25-26頁。

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井筒俊彦先生(1914-1993)の禅と唯識への傾倒には、正直なところ「若干」の違和感があるのですが、それでも、その営みの全体像を毀損することは全くなく、読み直すたびに驚くわけですが、『意識と本質』の冒頭で素描しているコトバのもつ「本質」喚起機能に、やはり我々現代人も多かれ少なかれ、影響を受けているんだよな……という自覚をもつことは必要不可欠のようですね。

昨日はありもしない『兎角亀毛』を現前させてしまう言語の問題について紹介しましたが、そのひとつの核となるのが、コトバの「本質」喚起可能ですね。

そうした似非存在論にNoを突きつけた論理を、おそらく「空」と読んでいいのでしょうけれども、本質実在論のイデオロギーが……この文章でも指摘されておりますが経験的事実に背くという意味ではない意味での……「虚構の世界」「妄想に浮ぶ仮象」に過ぎないということを深く認知すべきだし、ひょっとするとそれは釈尊在世時代よりも「濃厚」になっているのではないだろうかと危惧するばかりです。

ともあれ、そうした「虚構」「妄想」に執着しないこと、そしてそれに囚われている問題に目をそむけないこと……単純なようですが、ここを大切にするしかありませんね。

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存在しないものも存在するかのように思い込みがち

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 人に差別があるかのように世間で言われているのは、人間が勝手に言葉で規定しただけであると、釈尊は『スッタニパータ』で次のように言っている。

 身体を有する〔異なる生き〕ものの間ではそれぞれ区別があるが、人間〔同士〕の間ではこれ(区別)は存在しない。名称(言葉)によって、人間の間で差別が〔存在すると〕説かれるのみである。(一一八頁)。

 私たちは、言葉によって逆規定されて、存在しないものも存在するかのように思い込みがちであるが、釈尊は人間における差別が言葉による逆規定によるものであって、人間には本来、差別はいと断言している。
 仏教では「有」(bhava 存在)を種々に分析しているが、その中に「名有」というものがある。「名有」とは、「兎の角」を意味するシャシャ・ヴィシャーナ(sasa-visana)や、「亀の毛」を意味するクールマ・ローマ(kurma-roma)のように言葉(名)のみが存在していて、現実には存在しないもののことである。ところが、われわれは言葉によって、いかにもそれが存在するかのように錯覚してしまう。それを身近な例で教えたのが「兎角亀毛」であった。
 ここで言う、「人間の間の差別」というのも、「兎角亀毛」と同様、言葉によって存在するかのように思い込まされているのであり、そんなものは本来、存在しないのであると述べている。ここの人間(パーリ語 manussa)を、デンマークのパーリ語学者V・ファウスベルはmenと英訳しているが、それでは女性(women)が排除されているかのごとき誤解を与えかねないので、human beings(人間)と訳した方が無難であろう。manussaは、itthi(婦人)、あるいはpurisa(男)という語と複合語を作り、それぞれ「女の人」(manussa-itthi)、「男の人」(manussa-purisa)という意味になる。従って、manussaだけでは、男女を区別しない「人間」を意味しているのである。
    --植木雅俊『仏教 本当の教え』中公新書、2011年、18-19頁。

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しらないうちに僕たちは「言葉(名)のみが存在していて、現実には存在しないもの」を現実に存在「せしめて」いるんじゃアないだろうか。


それは権力理論に適応したフーコーは、社会の位置づけに応じた身体を訓練(=ディシプリン)によって形成してゆく陥穽を鋭く突いた。

根拠ではなく、言葉によって分断され、それが習慣によって「実体」化させられてしまった構造を温存させていく「生-権力」(bio-pouvir)。

知らないうちに拘泥して生きているのが人間の実情なんだろうけど、それは臨床観察者が記述すれば「妄想癖」って話しになるんだろうな((((;゚Д゚)))))))

虚構された「兎角亀毛」が持つ暴力の問題を真っ正面からとらえるほかない。

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出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった……

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 また、『サンユッタ・ニカーヤ』(内容別に分類された教えの集成)でも、次のように述べている。

 多くの呪文をつぶやいても、生まれによってバラモンとなるのではない。〔バラモンといわれる人であっても、心の〕中は、汚物で汚染され欺瞞にとらわれている。クシャトリヤ(王侯・武人)であれ、バラモンであれ、ヴァイシャ(庶民)であれ、シュードラ(隷民)であれ、チャンダーラ(施陀羅)や汚物処理人であえれ、精進に励み、自ら努力し、常に確固として行動する人は、最高の清らかさを得る。このような人たちがバラモンであると知りなさい。(第一巻、一六六頁)

 呪文を唱えるなどの宗教的祭儀を司っていたバラモン階級について、その生まれだけで清らかだとは言えない、その内心は、汚物で汚れているとまで言い切っている。
 その一方で、不可触民とされたチャンダーラでも、その行いによって「最高の清らかさ」(paramam suddhim)を得ることができると断言している。
 釈尊は、出家して袈裟を着ていたが、その袈裟はチャンダーラたちが身に付けていたものである。袈裟は、「薄汚れた色」、あるいは「黄赤色」を意味するサンスクリット語のカシャーヤ(kasaya)を音写したものである。その心は、墓地に捨てられた死体をくるんでいたものである。死体が猛獣に食べられた後、布の破片が散らばっているのを拾い集め、洗ってつなぎ合わせて衣にしていたのだ。死体の体液の染みで汚れ、黄赤色になっていることから、その衣はカシャーヤと呼ばれていた。あるいは、パーンスクーラ(pamsu-kula 拾い集めたぼろ布で作った衣)と言われることもあり、それは「糞掃衣」と音写された。
 中村先生は、「仏教では意識的に最下の階級であるチャンダーラと同じ境地に身を置いたらしい。仏教の修行僧は袈裟をまとっていたが、袈裟をまとうことは、古代インドではチャンダーラの習俗であったからである」(『原始仏教の社会思想』七七頁)と言っておられる。
 出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった。外見や生まれによってではなく、行いによって、最高の清らかさを得る在り方を求めたのである。
 このように、釈尊は人を賤しくするのも、貴くするのも、その人の行為いかんによるとして、「生まれ」による差別を否定したのであった。
    --植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書、2011年、15-16頁。

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インドの原始仏教における出家の意義を紹介した一節ですが、これれがのちに専業集団化するなかで、「社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つこと」という意義がうすれ、「世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨て」ることが、世間から超脱することとしての「出世間」=閉鎖的集団化することと誤解されて受容・流通・権威化してしまったことはひとつの不幸かも知れません。

もちろん単純に批判するわけではありませんが。

しかし、「世俗の名誉、名声、利益など一切」がごった煮している世間から離反するのではなく深く内在することによってそれに拘らないという観点は踏まえておく必要はあるかと思います。

加えて、ミスリードされた「出世間」が、世間や国家の役に立たないとして廃仏毀釈の理由に掲げられることが多かったことも忘れてはならないのだろうし、僕は国家や世間に「有用」であればOKとする劣化したプラグマティズムには全く興味はないけれども、そうなるとこんどは「いやいや、役に立つにんですよ」って迎合する連中もわんさかでてきたことが、たとえば近代日本の宗教史であったことは、宗教とは何かを考えるうえでは大事なことなんじゃないかと思いますが……。

いずれにしても、「壮大な伝言ゲームの果てに」という帯の植木雅俊氏(1951-)の近著『仏教 本当の教え』(中公新書)を読み始めたところですが、なかなか知的スリリングに満ちた一冊です。


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