研究ノート

研究ノート:「内閣政治」と「民本政治」の違い

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美濃部達吉といえば「天皇機関説」の問題で、ある意味では戦前日本を代表する良識といってよいですし、その憲法学の水脈は戦後日本にも受け継がれています。しかし、その「限界」というのも承知することの必要性、そして「乗り越えられた」と思われがちな「民本主義」に実は可能性があるのではないか、という指摘について少々、覚え書にしておきます。

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「内閣政治」と「民本政治」の違い

山口 ところで、憲法学というのは、戦前と戦後を貫く一貫性の方が強いのではないかという気がするのですが、どうですか。

坂野 そう、強いです。戦前の憲法学には、明治憲法をリベラルに解釈する美濃部達吉の憲法学と額面通りに解釈した穂積八束の憲法学があって、美濃部憲法学がいったんは勝った。ところが、一九三〇年代に天皇機関説事件でつぶされて、戦後は美濃部憲法学が復活したわけです。

 僕は安倍首相たちが言っていることは、穂積憲法学に戻るという話のように聞こえる。国体明徴で、天皇機関説攻撃をやって、万世一系に戻りたいというのと重なるんです。ただ、彼らは穂積八束が書いた『憲法提要』なんて読んだこともないだろうね。

山口 憲法学者と議論をしていて感じるんですが、彼らはやはり国家権力を担う官僚機構に対する信頼が強いような気がします。戦前憲法と戦後憲法は原理が違うことになっています。しかし、超然主義とまでは言いませんが、解釈・運用においては連続していて、要するに、政治の動きから遮断すべきという部分というものがあって、それこそが国家権力を動かすと捉えているように思うんです。官僚機構がそうですし、いま話題の内閣法制局もその典型です。法的安全性を確保するには、憲法解釈をあまり簡単には変えるべきではないと。そういう持続性を担保する機関を内閣の中に置いておいて、長官は職業的行政官をあてることで、政党政治の波を遮断する防壁をずっと敷いてきた。憲法学者はそれをよしとしてきたのです。それがあるから、民主主義の行きすぎを抑制できるのだという話だったわけです。

 今回安倍首相はそこに手を突っ込んで、法制局長官を党派化したわけですね。ある意味で民主化と言えなくはない。実は同じことを小沢一郎氏が民主党政権の時に、役人が憲法解釈を全部仕切るのはけしからん、これは非民主的だと言っていたのです。要するに、政党政治の波を遮断する防壁を作ることが、民主化の障害となるということは以前から議論があったんです。そこはなかなか微妙な問題です。職業的行政官が超然として憲法解釈を示しているからこそ、政党政治が成り立っている面もあるわけで。つまり、政治体制の基本問題に手をつけることなく、日常の政策課題に専念するという意味で政党政治のテーマが絞られている。

 このことは自主憲法という題目を掲げる自民党政治にとって重要な前提でした。表向き憲法改正は言うけれど、六〇年代以降は憲法問題にエネルギーを使わず、憲法の枠内で日常の政策課題に専心するのが自民党政治でした。

坂野 僕は明治憲法体制を「大権政治」と「内閣政治」と「民本政治」という三つの政治理念による憲法解釈から説明したことがあるんです(『近代日本の国家構想』第三章、岩波現代文庫)。大権政治というのは、穂積八束だけど、天皇が国家の重要な政策を自由に決定できると解釈する。内閣政治は美濃部達吉で、内閣だけで憲法解釈をやっていくというもので、議会に諮ったり国民に訴えるなんていうことは一切考えていない。民本政治は吉野作造で、議会から変えていくという。だから美濃部と吉野は仲が悪いんだ。

 内閣決定だけで憲法九条第二項の解釈を変えてしまおうとする安保法制懇は、この美濃部的な立場で、穂積憲法学の安倍首相とは立場が違う。しかし、日本国憲法は、議会と民意を最重視する吉野の「民本政治」に立っている。護憲派はこのことがわからないので、美濃部の「内閣政治」のままでいる。「内閣政治」という点では、石破幹事長と同じ立場の上で対立しているわけです。

山口 なるほど。美濃部流の内閣政治を、戦後も憲法学者は引き継いでいるのですね。これはある意味では官僚制の権力を温存するという側面がありました。政党政治が内閣政治の聖域まで入ってこようとすれば、これは絶対駄目だという形で反対する。国家中心の伝統的な憲法学に対して異議を唱えた松下圭一さんは、むしろ民本政治でした。内閣政治を突き崩して、地方分権や『国会内閣制」をやろうという議論を立てたわけです。

坂野 市民社会論だからね。

 もう一度繰り返すけれど、美濃部達吉の「政党内閣支持」は、明治憲法第五五条の「国務大臣規定」に根拠を持っているんだ。彼は「内閣論」から「政党内閣制」を支持したのであって、「議員内閣制」を主張したことはないんですよ。吉野作造の方は「民本主義」だから、普通選挙制で国民が議会を握れば、「政党内閣」は自然とできるという主張なんだ。その点では、選挙で勝てば何をやってもいいという安倍内閣の立場に、むしろ近い。議会制民主主義の国なんだから、総選挙で勝った政党内閣は、同時に議会をも掌握できる。ただ、公明党ががんばっているから、安倍内閣はまだ議会を完全には握っていない。護憲派は内閣法制局や公明党だけに頼らないで、次の選挙で勝つための努力をしなければ……。
    --坂野潤治、山口二郎『歴史を繰り返すな』岩波書店、2014年、21-24頁。

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簑田胸喜による矢内原忠雄批判


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昭和初期、言論抑圧で重要な役割を果たすのが民間の右翼言論人、とりわけ簑田胸喜になりますが、「狂信的」と形容するにふさわしい言論活動で、数々の良心を屠ってきましたが、まさに「狂信的」であるが故に、その実際の研究というのがほとんどされていないのが現状と聞きます。少し「覚え書」になりますが、矢内原忠雄に対する批判の「形式」を残しておきます。

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 簑田による矢内原批判において注目すべき第二の点は、矢内原がクリスチャンであることそれ自体に異を唱えているわけではないことである。簑田にとって矢内原が非難されるべき理由のひとつは、矢内原が「エセ・クリスチャン」であることであった。
 簑田によれば、矢内原がイザヤの預言に真理としての平和の理想を見るのは、ユダヤ教ないし「ユダヤ神話」を盲進する結果である。しかも、矢内原は「日本神話」を盲進することを排撃していながら、ユダヤ「神話」を盲進するのは自家撞着であると簑田は断じる。
 さらに、矢内原が旧約聖書を権威としてよりどころにすることから、ユダヤ教とキリスト教との相違をまったく無視していると簑田は推論し、このような混同を「無学」「無節操」であると痛罵している。そもそも、簑田によれば、ユダヤ教は「非人道的選民思想」であるが、そこから発生したキリスト教が「超民族的の世界宗教」へと成長しえたのは、キリストの信仰がイスラエルの神エホバを原理としたものであったが、それを「内的に深化し浄化したもの」だったからである。
 簑田にとって、キリスト者である矢内原がマルクス主義的な方法を植民政策研究で応用していることは、さらなる「思想的混乱または破綻」を示すものであった。つまり、「反宗教」すなわち「反キリスト教」的なマルクス主義に「媚態追従の態度を以て」『帝国主義下の台湾』をはじめとする学術的作品が書かれていることに、矢内原が「クリスチャン・マルキスト」「ニセ・クリスチャン」であることを看取できるというのである。
 簑田は、自分こそが真のキリスト教理解、真のイエス観を有していると自負していたようである。前述のように、矢内原による絶対平和主義的な聖書読解に対する反例を聖書の記述からいくつか取り出して批判している。そして、九州帝国大学で地質学者、教育学者として知られた河村幹雄のキリスト教信仰が、キリスト教の「全き日本化」を目指すものであり、かつて「祖国主義」者として真のイエス観を示すものとして簑田は称揚している。
 キリスト者を自認する矢内原に「エセ・クリスチャン」とレッテルを貼り、批判対象となる人物の信用失墜をはかるような言説を用いるのは、簑田が繰り返し用いた戦略であった。
    --将基面貴巳『言論抑圧 矢内原事件の構図』中公新書、2014年、91-92頁。

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日記:無人による支配

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 官僚制とはすなわち、一者でもなければ最優秀者でもなく、また少数者でもなければ多数者でもなく、だれもがそこでは責任を負うことのできない官庁の匿名のシステムであり、無人による支配とでも呼ぶのが適切であるようなものである。
    --ハンナ・アーレント(山田正行訳)『暴力について 共和国の危機』みすず書房、2000年、127頁。

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久しぶりにアーレントの時事評論を引っ張り出して読んでいたら、権力(暴力)に対峙するにあたっての市民的不服従の挑戦にひとつの範を見出していたことに驚いたのですが、権力(暴力)についての描写を読んでいると、カフカの長編小説『城』を想起した。

いつまでたっても城の中に入ることのできない測量技師Kをとりまく環境の諸力とは、人間には理解できない権力であり、それはハデイガーのいう「技術の支配」のことであり、圧倒的な力なのに、誰もが責任を取らないそれは、アーレントのいう「無人による支配」のことなのだろう。

その「無人の支配」とは、高度に発達した官僚制抜きには語れない。


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研究ノート:反ユダヤ主義の反ナチズム闘争のヒーローという問題

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 問題はこのようなキリスト教揺籃期の受難物語の元説が、ヨーロッパ中のすべてのキリスト教徒を途方もないユダヤ人憎悪に追い込んでいったという事実にあるのですが、それがユダヤ人問題として急速に加速されたのは、イベリア半島におけるレコンキスタ(八世紀~一四九二年)の過程においてであったことが歴史家によって指摘されています。先に引用したモルデカイ・パルディールの『キリスト教とホロコースト』は、こうしたユダヤ人憎悪におかされたキリスト教徒の筆頭に、一六世紀の宗教改革者のマルティン・ルターやジャン・カルヴァンを挙げ、二人の著作からそれぞれ驚くべき反ユダヤ主義の言説を抜き出して検証しています。さらに、私にとって少なからず驚き出会ったのは二〇世紀のプロテスタントの最高の神学者と称されるドイツのカール・バルトも、そうした一人であったこと。さらに、わが国では反ナチズム闘争のヒーローとして知られるディートリッヒ・ボンヘッファーもマルティン・ニーメラーも、ナチズムの反対者でありながら、一方では反ユダヤ主義者としてその言説をその著作に色濃くとどめている事実であります。
 私にとって不可解であるのは、こうした反ユダヤ主義の神学者や牧師が、第二次大戦後の日本のキリスト教会に反ナチズムのヒーローとして紹介され、日本人キリスト教徒の戦後の信仰的指標として受容され、大戦後の日本のキリスト教会の旗手として大きな役割を果たしていた事実にあるのです。このような人たちが、ナチス時代に、一方において反ユダヤ主義の急先鋒として動いた事実がそこではまったく隠蔽されたままに、日本の教会に紹介されてしまったのはなぜなのか。それにはさまざまな要因が挙げられますが、根本にあるのは、ほとんどの日本人キリスト教徒が、内村鑑三や矢内原忠雄といった人々を含めて、西欧福音派教会の主導するシオニズム運動に無批判に乗せられてしまった結果ではないか、と思われる。そしてこれは、とりわけ福音派の教会に、伝統として今日もそのまま継承されている。
 一方、ヨーロッパではどうか。ヨーロッパのキリスト教会は戦後、どのように転換したか。世界教会競技会(WCC)が大戦中の反ユダヤ主義を人道的犯罪として告発し、ユダヤ教徒に対して公式に謝罪を表明し、罪の赦しを乞う声明文を公表した一九四八年頃が境目になると思います。その頃、私は一六歳の高校生。私がようやくユダヤ人問題に目を開かれたのはそれから一〇年後、初めてヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳、一九五六年)を手にした時でした。その時の驚きというか震撼は、五〇年を過ぎた今も記憶から消えません。アウシュヴィッツが今日、世界有数の巡礼地として日本からもたくさんの参観者を集めているのもわかるように思います。
 ドイツの最近の情報では、ナチズムによるユダヤ人犠牲者を追悼する大小の施設が今も静かに各地に建設され、その数は一九九〇年のドイツ統一を契機として近年著しく増加し、現在もなお次々と新たな追悼施設が誕生していると聞いています。背景には、ナチスのユダヤ人虐殺の犯罪に対する加害者意識の高まりがある、と指摘する学者もいます(姫岡とし子「ドイツにおけるホロコーストの記憶文化性」『歴史と地理』六五四号、二〇一二年五月)。一方、それは私からするとヨーロッパ統合のアイデンティティとして、ユダヤ人問題の共有が現在もきわめて有効な政治戦略であり、免罪符であるからではないか、といった印象も少なからず残るのですが……。
    --山形孝夫『黒い海の記憶 いま、死者の語りを聞くこと』岩波書店、2013年、172-173頁。

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宗教人類学者の山形孝夫先生が『黒い海の記憶』(岩波書店)で少しだけ言及されていた問題について少しだけ紹介しておきます。これも自分の課題になりますので。

ご存じの通り、日本ではバルトやニーメラー、ボンヘッファーといえば反ナチズムの英雄になります。しかしながら、実は、反ユダヤ主義という側面も存在します。

勿論、反ユダヤ主義はキリスト教に内在するひとつのおおきな負の系譜だから、どうこうという話でもないし新しい話題でもないし、ルターやカルヴァンも例外ではありません。

問題なのは、日本のバルトをはじめとする教会神学の受容において「反ユダヤ主義の急先鋒として動いていた事実がまったく隠蔽」されたまま紹介されたことに尽きる……そういう話です。

山形さんはいくつか理由があるとしつつも根本には「ほとんどの日本人キリスト教徒が、内村鑑三や矢内原忠雄といった人々を含めて、西欧福音派教会の主導するシオニズム運動に無批判の乗せられてしまった結果ではないか」と同書で指摘。その伝統は今日までも継承されている……。

勿論、バルトの告白教会での反ナチズムの戦いや『教会教義学』の価値はそれで下がる訳ではないし、姑息なw旧大陸はいち早く罪責告白したうえで、有効な政治戦略の免罪符としてユダヤ・パレスチナ問題にアプローチしているのが現状です。

それはそれなのですが、ふまえたうえでの受容をどうして選択することができなかったのでしょうか。加えて、割と、バルト学者にはそこを隠蔽する癖は多いにあると思いますし。

バルト受容に関する歴史は、何度も言及してきた通り、戦前日本で、反ナチと対極の大政翼賛に迎合した過去があるのですが、それと似たようなフシもあるのではないかと推察されるということ。そして受容におけるそのねじれは、ことキリスト教における一つの神学のそれだけに限定されるものでもありませんよね。

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研究ノート:「ハイゼンベルクの不確定性原理」についてのひとつのまとめかた


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ハイゼンベルクの不確定性原理
 不確定性原理とは、一言でいえば、「この世で人間にわかることには限界がある」というものです。主体が客体を正確に観測できるという、近代科学の大前提が成り立たないことを唱えた、一種の思考実験でした。
 科学において、主体が客体を観測するというのはどういうことなのか。まず例として、温度計でお湯の温度を測ることを考えてみましょう。
 学校の理科の実験で、お湯の温度を温度計で測るさい、「温度計を温めておくように」と言われた人は多いでしょう。温度計を冷たいままお湯に入れたら、お湯の温度が下がってしまうので、もとの正確な温度を測れなくなるからです。
 ところが温度計を温めておいたとしても、お湯の温度とぴったり同じにすることはできません。測る前のお湯の温度はわからないからです。見当で温めますが温めすぎたらお湯の温度が上がってしまいますし、低かったら冷めてしまいます。
 すると問題は、対象に影響を与えずに観測することは原理的にできるのか、ということになります。たとえば、物体を見るためには光を当てなければいけない。しかし、光はエネルギーですから、光を当てれば人間が日焼けするように、対象の物体も必ず化学変化します。
 ではどうすればいいか。思考実験で原理的につきつめると、当てる光を無限に小さくすればよい。小さくしたら見えなくなりますが、無限に当てる光を小さくすれば、無限に影響も小さくなるので、原理的には観測は可能だと考えられていました。
 ところが一九〇〇年に、光のエネルギーには量子という最小単位があって、波長が同じ場合には一定以下にはできないという考え方をしたほうが、実験結果を説明できるという説が唱えられました。これが発展して量子力学になり、しだいに定説になります。
 そうなると、当てる光量を無限に下げることはできないことになります。だとすれば、対象を変化させないで観測することはできません。一定以下に下げるなら波長を変えて長くするしかありませんが、あまり長くすると、メートル波長のレーダーでは小さな物体をとらえられないように、素粒子のような極小の世界を正確にとらえられなくなります。
 つまり観測をやっても、必ず一定の不確定の領域、わからない領域が発生することになります。これが、不確定性原理の考え方でした。
 そうなると人間は、対象を把握できない、世界を完全には把握できないということになります。科学には絶対などありえない、ということが、科学的に立証されてしまったわけです。これはヨーロッパの近代哲学と近代科学の前提が、崩れてしまったことを意味します。
 こうした学説が、ほぼ同時期に唱えられた相対性理論とあわさって、近代科学を過去のものにしてしまいました。ニュートン力学は、日常世界の応用には近似的に使えますが、宇宙のように大きな世界や、原子や素粒子のような小さな世界には使えない、ということになりました。
    ーー小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書、2012年、339ー341頁。

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研究ノート:「内村鑑三は、近代の日本文学を否定することによって、近代文学に寄与した」。

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 逆説的な言い方をするならば、内村鑑三は、近代の日本文学を否定することによって、近代文学に寄与したのである。内村に接した文学者たちは、多かれ少かれ、この内村の文学観を知っていた。それが、結果的には、たとえ無意識にせよ、彼らの文学の彫りを深めることになったように思われる。
 内村と文学者たちとの関係を、内村のきびしい倫理主義や人間的狭量さからの離反、もしくは「背教」としてのみとらえず、接した時期による相違と、両者の間にある共通性と、文学者たちの精神の展開過程のうえで、全体的に扱おうとしたのが本書の課題であった。本書でとりあげた文学者たち(引用者補足……国木田独歩、正宗白鳥、魚住折蘆、小山内薫、有島武郎、志賀直哉、長与善郎、太宰治、亀井勝一郎、中里介山、芥川龍之介ほか)は、内村に接した時期により三群に大別することができる。
 第一の群は、内村が、『国民之友』や『東京独立雑誌』で活動していた時期に、その「大文学」論や、人間いかに生きるべきかの論にひかれた人々である。この人々は、その後身近に内村と接したことにより、内村の人間性に疑問を生じて離れる。この時期は、内村の方も、ややもすれば人と衝突し、社会に対して多くを責める時期でもあった。
 第二の群は、雑誌『聖書之研究』が創刊され、それを読むとともに角筈で開かれていた聖書研究会に出席した人々である。これらの人々は、内村のところで「自然」のキリスト教を見出し共感を示すが、それが同時に離反の一因ともなる。だが、その離反は「背教」というよりは「霊の父」からの自立の傾向の強いものでもあった。文学史上白樺派を形成することになる人々が、これに属する。
 第三の群は、内村の没後、その思想にふれた人々であって、主として日本浪漫派に属する人々である。彼らは、内村のなかに、近代日本の傑出せる「精神」と「近代」の批判をみた。
 これらの三群が、それぞれ内村に接した時期により反応の相違をみせたものの、相互に他と共通する面もある程度有することは当然である。若き日の人生の遍歴の途上に内村と出会い、やがてそのもとから去ることにはなるが、内村に対する尊敬の念は終生持ち続けた人が多く、彼らの生き方や作品にも、少なからぬ影響をとどめ、屈折や陰影を与えている。超越的存在の思想、独立心、天職への模索、「近代」および「近代人」への批判、キリスト教よりもキリストへの関心等々にそれは表れている。ただし、彼らと内村との間における大きな違いは、彼らが、内村のように、罪とキリストの福音については、明らかに語ることのなくなることである。しかし、本書で私は、文学者たちの信仰につき、高所より有無を断定するつもりはない。信仰の表明に関しては、多様な表現形式がありうる。内村はキリスト者の表現形式によりそれを語り、文学者たちのなかには、それぞれ文学的な表現形式により、それを語らんとした人々もいるからである。
    --鈴木範久『内村鑑三をめぐる作家たち』玉川大学出版部、1980年、177-179頁。

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内村鑑三の反教養主義……特に19世紀以降「制度化」「パッケージ化」された知の体系に対する批判……は、その再臨運動と軌を一にして深まってゆく。

この世のものをすべて無効化する内村の信仰のあり方から振り返ってみるならば、義戦論から非戦論への転回と同じく、その消息には納得がいくものである。

しかしながら、内村の弟子となった人間や縁した人間、そして離反した人間の文化人のなかには、内村と相反するように「教養主義的知識人」が多いことに驚いてしまう。

もちろん、個々の事例に即してケースバイケースであることは言うまでもないけれども、その相反する受容の特色の一つとしては、まさに内村の強烈な反教養主義との対峙すなわち「逆接」、その縁した人間の教養主義を涵養することになったとはいえるのではないだろうか。

翻って新渡戸稲造の場合、その教養主義に特色がある。しかし、その縁した人間は、新渡戸の教養主義よりも、(もちろんこれは新渡戸の教養主義とワンセットではあるところの)「修養倫理」を「順接」したケースが多いように思う。

時間のある時に、個々の事例で検証してみたい。

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なぜ、ロールズはグローバルな不平等に無関心だったのか

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なぜ、ロールズはグローバルな不平等に無関心だったのか
 『正義論』を読んでジョン・ロールズを知った人たちは、この節のタイトルに驚いたことだろう。結論から言うと、ロールズはまさしく、平等主義を強く支持する立場をとっている。しかし、「平等からの逸脱が正当化されるのは、その不平等がもっとも貧しい者の絶対位置(すなわち所得)を向上させるために必要であるときのみである」という、有名な「格差原理」でロールズが表明した立場は、一国家のレベルでのみ有効なのである。いかにして一国内での公平を実現するかが、ロールズの『正義論』のテーマだったのだ。もっとも、後に1999年に出版された『万民の法』では、ロールズはさらに理論を深めて、全世界統治(グローバル・ガバナンス)と世界正義(グローバル・ジャスティス)の問題に取り組んだ。そこでロールズは、グローバルな所得不平等と所得再分配について明確にも婉曲にも論じており、「格差原理」をグローバルなレベルで適用することを否定した。グローバルな不平等が世界でもっとも貧しい者の地位を改善していると主張できれば、グローバルな不平等の拡大を正当化せざるを得ないことを、「格差原理」は暗に示しているからだ。
 グローバルな所得分布の妥当性を論じる前に、移民問題に対するロールズの見解に注目してみよう。すでに触れたように、移民問題の原因は、各国の平均所得水準に大きな格差が生じていることであり、そしてグローバリゼーションが進展した結果として、その格差の存在が広く知れわたり、加えて移動コストの低価格化が移民を促進することとなった(2の3および2の5参照)。しかしロールズは、移民の受け入れは政治的・宗教的迫害を逃れてきた人々に与える亡命者保護のレベルに引き下げるべきだと主張した。だが結局のところ、移民の動機は一般に経済的理由であり、そのことは多くの米国市民にも当てはまるだろう。あえて言うなら、ロールズの祖先も同様だったはずだ。それなのに、ロールズは経済的理由による移民を明確に否定している。

 領土と、その領土が国民を永続的に支える能力は、国民の資産である。その能力の執行者は、政治的に組織された国民自身である……彼ら[貧しい国の国民]は自国の領土とその天然資源を適切に管理する責任を果たせなかったことを、戦争または同意を得ていない移民によって他国民の領土を侵略することで埋め合わせることはできないことを自覚すべきである。

 豊かな国々が移民に対する障壁をますます高くしていることを、ロールズは完全に正当化していると思える論調だ。引用文が述べているように、各国の国民は、自国の文化と伝統および全領土の管理者とみなされている。そうであれば、各国の国民には他国民の流入を受け入れたり拒絶したりする権利があるということになる。世界の人々の生活水準を平等化するための手段となり得る移民を、ロールズは永遠に遮断したと言えるだろう。
 グローバルな不平等に対するロールズの無関心ぶりは、さらに続く。ロールズによれば、不利な条件の「重荷に苦しむ社会」が「秩序ある国民」のレベルに達するために必要な場合に限り、国際援助は承認、支持されるという。「重荷に苦しむ社会」とは、歴史的原因によって所得水準が低いために、政治的行動についての法的規則を確立できず、基本的人権を尊重することができない社会である。政治的規則と基本的人権に加えて、他国民に対する平和的行動が「秩序ある国民」と定義されているための条件である。蔓延する貧困が原因で「秩序ある国民」になれない場合に限って、「重荷に苦しむ社会」を援助することは進歩的諸国民の義務となる。援助が継続されるのは、「重荷に苦しむ社会」がもはや物質的貧困に拘束されることなく、法的統治と基本的人権と実現できるようになる時点までである。つまり、この時点で援助は終了する。
 「重荷に苦しむ社会」が「秩序ある社会」に変容したら、各国間の所得水準の格差はもはや何の関係もない。ロールズははっきりと述べている。「いったん……適切に機能するリベラルな政府が確立できたら……各国の平均的な富の隔たりを縮めなければならない理由は存在しない」。ようするに、所得の格差は集団的選好の結果である、とロールズは考えているのだ。「秩序ある社会」の中には、消費よりも節約を好む社会もあれば、余暇を楽しむよりも一生懸命に働くことを好む社会もあるだろう。その結果として成果も異なり、一部の社会はその他の社会よりも裕福になる、というわけだ。基本的に、これらの違いは重要ではない。なぜなら社会が到達した豊かさのレベルは、その社会の選択を反映したものだからだ。
 各国間で平均所得の不平等が拡大していること(所得の分岐)については、すでに2の1および2の2で触れているが、ロールズの理論によれば、すべての国々が秩序ある状態である限りは、この所得格差を容認してよいということになる。おそらくロールズも、世界の最貧国の多くが現実に「重荷に苦しんでいる」のであり、裕福な国々は(所得の分岐が憂慮される限りにおいては)財政援助を行うべきであることには同意するだろう。しかし、ロールズは明らかに、秩序在る国々の間の所得の分岐が問題であるとは考えていなかった。インドも米国も、ともに秩序ある社会である。つまり、インドに対するいかなる援助も不要である、なぜならインドの物質的貧困はインド人の社会的選択の結果にすぎない、というわけだ。これと同じ趣旨のことを、ロールズを信奉する有力な研究者、ジョシュア・コーエンも明言している。「いったん、集団的自治の重要性を認めたならば、生活水準の収斂〔生活水準を先進国並みに引き上げること〕を望む理由は存在しない。収斂の欠如は、修正すべき欠陥ではない」
 こうしたロールズの姿勢は、互いに関連した二つの前提条件に基づいている。(1)政治制度(進歩的に機能する政府、すなわち国民全員の利益を考慮する政治制度)と基本的人権の順守は極めて重要であり、(2)個人的あるいは社会的目的としての富の取得は拒絶される。(2)は明らかに経済学の常識ばかりでなく、一般の常識からもかけ離れている。
    --ブランコ・ミラノヴィッチ(村上彩訳)『不平等について 経済学と統計が語る26の物語』みすず書房、2012年、183―187頁。

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ちょと最近忙しくてナニなんですが、ロールズの正義論の限界を1つ研究ノートとして「抜き書」しておきます。

後日、『正義論』、『万民の法』あたりと対照してみようと思いますが、ロールズに限らず、アメリカの正義論は、まさに歴史に準拠せず、正義を構想しようとする試みだから、どうしても、その土俵を大切にします。それゆえでしょうか、ときどきパラドックスを必然させてしまうフシもあるのかな、という実感です。

もちろん、歴史に準拠した(=生-権力の馴致)発想の楽天さほど、どうしようもないものはないわけですけど、念のため。


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研究ノート:日蓮のもつバイタリティ 中村元×鶴見俊輔対談より

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これからの仏教
鶴見 少し話がずれるんですが、そういうふうに世界を見渡して考えると仏教はどういう方向へといくんですか。
中村 やはり若干の特徴が現れています。まず一つは、超宗派性です。古い昔からの宗派というのがその区別の意味をもたなくなりました。その傾向はいろいろなところに現れていると思います。違った宗派の間で協力するとか、同じ地区の仏教徒が協力する。古いドグマは意味をもたなくなる。超宗派的な共同がおこなわれる。それから、宗教の世俗性ということです。古い時代には、宗教は世俗生活に対立していたものです。ところが最近になりますと、生活の中に宗教を生かさなければならないとみんながいうわけです。はては「在家仏教」という主張も出てきました。会社員などが集まって仏典を読む。話し合いをする、といったような動きがあっちこっちに出てくる。第三の特徴としては国際性というか普遍性をもってきた。違った人種、違った国の人々が意見を交換する、協力する。
鶴見 しかし、一方ではまた違う動きも出てきますね、創価学会のように今までの宗派よりさらに排他的な。
中村 さらに排他的なものが出てきましたね。これをどう解釈していいのか。しかし、将来は創価学会も変わるんじゃないかと思うのですが。これがナチスみたいなものに日本ではならないのではないかと私は思います。だんだん増えてくると先鋭な排他性が希薄になります。
鶴見 創価学会も日蓮宗なんですけど、どうして明治以後は日蓮宗を通してだけ、実に創造的な宗教運動が出てきたんでしょうか。また仏教的な思想家にしても、日蓮の系統が主に、宮沢賢治とか、石原莞爾とか、妹尾義郎とか……。
中村 日蓮の思想が、民族的なバイタリティに結びついているのでしょう。仏教界では日蓮の系統がいちばん活動意欲をはっきり出していますね。第一、日蓮の生涯がそうでしたでしょ。その門流がひじょうに活動的だったわけです。ただ、その向け方はいろいろ違うと思われます。ある場合は、ナショナリズムで、ある場合は平和運動で、中には同じグループが状況に応じて違った動きをするのです。たとえば日本山妙本寺。戦争中はかなり国家主義的だったですけれど、今日はもう、平和運動のほうへいっていますね。ここにひじょうな飛躍があるわけですけれど、しかし日蓮の精神を現実に生かすんだという意欲をもっている点では皆同じだと思われます。
 こういうことがいえませんかな。人間的に望ましい生活をするということについて、昔は、国家の支配統制の力が弱かった。それは、大名はずいぶん勝手なことをしたり暴圧をおこなったでしょうけれども、自分たちだけでひそかに暮らす範囲があった。しかし、今日ではそれができない。あらゆることに国家の支配統制を受けている。そういうところで邪曲を正すということになりますと、どうしてもおさえている権力に対して抗争することになる。だから対抗意識をもたせるものは、やはり日蓮の力です。今は、国家の問題じゃなくて、世界的に、世界が一つの地球社会というものになって、強い力をもっている国が他の国をおすというようなことが現実におこなわれているわけです。すると、これに対抗する精神が当然出てくる。それにいちばん結びつきやすいのがやっぱり日蓮であるようです。
鶴見 日本の仏教学についてどういうことを望まれるんですか。昔から変わらないという点で、どういうことがいちばん困るんですか。
中村 つまり訓詁註釈だけやってるわけです、仏教学でもインド学でも。現実の人間生活において個々の思想がどういう意義をもっていたかを検討しようという仕事は、ほとんどやろうとしない。
    --中村元、鶴見俊輔「学問をこえて」、『中村元対談集ⅢIII』東京書籍、1992年、243-245頁。

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中村元先生と鶴見俊輔さんの対談「学問を超えて」は、異色対談といってよいものの一つでしょうが、ふたりが肝胆相照らすといいますか、お互いの言葉に膝を打つところにその醍醐味があるのではないかと思います。

この対談では、学としての仏教学の過去と現在、そして未来を展望する内容です。それと同時に、仏教学に限らず学問とは、本来どうあるべきかということを、鶴見さんが聞き手になって、中村先生の生涯から語れるという仕立てになっておりますが、最後は「これからの仏教」について。

中村先生は、これからの仏教の特質として、超宗派性、世俗性、国際性の3つが大切になるのではないかと、この対談では指摘しております。それはとりもなおざす、日本仏教の負の歴史……それは、独自性の探求とはほど遠い宗派意識や宗学の問題、僧俗のヒエラルキー、そして島国根性、といってよいかと思いますが……の反省にたった上での展望であり、先生ご自身も仏教学というアカデミズムまでが同じ陥穽に陥っていることに対する異議申し立てに起因する創造的示唆なのではないかと思います。

だからこそ、先生は我が身で知らせながら、専門的手続きを決しておろそかにすることなく、狭苦しい仏教学という枠組をやすやすと乗り越えていったのだろうと思います。

そのひとつの実践道場としての「寺子屋」である東方学院もその一事例であることは言うまでもないでしょう。

たしかに、世界が狭くなっていく、そして通俗的には葬式仏教の限界といったものが露わになるにつれ、制度宗教の側でも、それなりの対応を講じていかない限り、じり貧になっていくことは明らかですから、そうした方向へシフトしつつあるとは思います。

もちろんまだまだな訳ですが、超宗派というのは、なんらかの作業仮説のような一なるものへ消化されるという意義ではなく……理性の宗教や、宗教におけるエスペラントなるものの創造というものは糞でしょうけど……参与の形式として「超宗派的な共同」は現代世界において必要不可欠ですし、「古いドグマ」に閉じこもることのナンセンスもあきらかだからです(※ただしここでも、時代に対するおもねりとしての改変もまたナンセンス)。

そして、世俗性に関しても国際性に関してもいうまでもありません。それぞれの独自性とは、他なるものと真摯に対面することによって、いっそうそれが輝き深まるからであります。

こうした3つの軸へのシフトは歓迎してしかるべき流れだとは思いますが、ところどころで指摘したとおり、安易な迎合は慎重に退けていってしかるべきですから、その動向を見守りたいなあとは思います。

さて、後半部分は、宗教のもつ「排他性」の問題。
特にここでは素材として日蓮門流の歴史が検討されておりますが、これは、実際のところ、日蓮関係にだけ限定される問題でないことも明らかでしょう。

その宗教がその宗教として他と違うという意識がなくなってしまうと宗教は存在することができません。もちろん、その意識が排他的なものとなって人々を苦しめてきたことは明らかですが、それを完全抹消することは、まさにそれぞれの宗教というものの消滅を意味するから、「二番、三番があっての一番」という絶対性をどのように担保していくかは、大きな課題であるとは思います。
※もちろん、これは敷衍すれば、宗教にだけ限定されるものでもありませんから、例えば、他者を否定することによって、自分の存在を充足させようとするネトウヨ的承認欲求のようなものも似たところがありますので、真理をめぐる問題に限定されない人間の生き方の問題と相即不二になっているとは思います。

で……。
鶴見さん、中村さんともに、排他性の問題は問題があるけれども、積極的な面にも注目する必要があると話を進めますが、「どうして明治以後は日蓮宗を通してだけ、実に創造的な宗教運動が出てきたんでしょうか」という問いに対して、それを日蓮のもつバイタリティ、そしてその随伴者たちの「日蓮の精神を現実に生かすんだという意欲」に見いだそうとしています。

もちろん、そのバイタリティには退けられてしかるべき事例の方が多いとは思いますが、日蓮自身の生涯を想起するならば、その批判の排他的エネルギーは実際のところどこに向けられていたのかと誰何した場合、それは、「国家の支配統制」であったことには注目すべきではないかと思います。

「おさえている権力に対して抗争すること」としての日蓮のバイタリティ、この創造的エネルギーは現在うまく機能しているのか。

「だんだん増えてくると先鋭な排他性が希薄」になるのは必然だと思いますが、社会において一定の影響力を与えうる、足場を固めたあとだとしても、「おさえている権力」に対しては、一定の預言者的スタンスを失わない。日蓮門流にはかくあって欲しいとは思います。

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研究ノート:関東大震災下における中華民国の救護支援

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 一九二三年九月一日、日本で世界を震撼させる関東大震災が発生した。その翌日、上海の『申報』はいち早くこの地震のニュースを報道し(1、地震発生三日後には中国の主要新聞が相次いで関東大震災を大きく報道し、日本が蒙った大きな災害に、異口同音の同情の意を寄せている(2。
 関東大震災は緊迫した日中関係について一つの転機をもたらした。九月三日、北京政府が以下のような震災救援措置を取ることを閣議決定した。すなわち、①被災者の慰問、②震災状況の調査、③義援金二〇万元の拠出、④各地の紳商に対する義援金拠出の呼びかけ、⑤救援物資の輸送、中国赤十字代表の派遣などである(3。九月六日、互いに対立する各派の軍閥が代表を北京に送って「救済同志会」を結成し、具体的な救援方法をめぐって討議した(4。清朝最後の皇帝溥儀は数回にわたって北京の日本大使館に金品を寄附し、京劇の著名な俳優・梅蘭芳は上海で慈善公演を行った。
 中国各界による関東大震災救援の中で、これまでにほとんど注目されてこなかったのが紅卍字会の活動である。同年一一月、世界紅卍字会中華総会は侯延爽ら三人を日本に派遣し、米二〇〇〇石と五〇〇〇ドルを送った。紅卍字会の救援活動活動は紅卍字会関係の資料の中でしばしば言及されるが、その具体的な内容については不明な点が多い(5。
1)「日本地震大火災」『申報』一九二三年九月三日。
2)「日本大震災」『晨報』一九二三年九月三日社説。
3)「中国軍民救済恤民」『盛京時報』一九二三年九月七日。
4)「段張競因日災会合」『盛京時報』一九二三年九月八日。
5)世界紅卍字会中華総会編『世界紅卍字会史料氵匸編』香港:二〇〇〇年八月、一三三頁。
    ーー孫江「地震の宗教学  ーー一九二三年紅卍字会代表団の震災慰問と大本教」、竹内房司編『越境する近代東アジアの民衆宗教 ーー中国・台湾・香港・ベトナム、そして日本』明石書店、2011年、83ー84頁。
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論文の趣旨は副題の通り「一九二三年紅卍字会代表団の震災慰問と大本教」についての研究ですが、関東大震災下における当時の中華民国の震災救援活動に関してはほとんど紹介されておりませんので、冒頭に掲げさせていただきました。
たとえばWikipediaで「関東大震災」を引くと、欧米の支援は写真入りで紹介されており、中国に関しては、清朝最後の皇帝溥儀の個人的活動に関しては言及がありますが、中国政府の支援に関しては記述がありません。
当時の日中関係は、4年前の五四運動にみられるように、日本の大陸進出の傍若無人ぶりから、きわめて良好なものではありませんでした。しかしながら、震災下においては、「互いに対立する各派の軍閥が代表を北京に送って「救済同志会」を結成し、具体的な救援方法をめぐって討議」し、中国政府は救援の手をさしのべております。
こうした友誼を忘れてしまうことこそ、歴史に対する健忘症であり、現状の誤解と混乱を助長させる一部政治家たちを利することになってしまうのではないかと思います。
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研究ノート:上杉思想の本質的な点への批判を怠った結果は、国民にとってよいことはすべて国家が引き受けるという官僚的国家主義への批判の弱さにつながった。

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 美濃部にせよ吉野作造にせよ、大正デモクラットは、国家的な規範価値が国民の内的要求と一致すべきことを要求した。そしてこの「民心」は二〇世紀欧米自由主義のなかに準備されているものと同質であると信じた。だから彼らは、官僚層もまたこの自由主義に同化すべきことを要求し、これに逆らって古い思想に固執するものを攻撃した。ところがこの時代を見直してみると、官僚のある部分が、吉野らに教えられて欧米デモクラシーに学びながら、そのデモクラシー的価値を国家規範に実現する過程を独占しようとしていたことに気づく。官僚主導の労働組合法や小作法の推進などはその例である。これらに登場する官僚は多少ともデモクラットであって、この時代における現実の「哲人」としてふるまったのである。
 デモクラシー運動からする批判は、官僚層の抱くべき規範内容を民主化することにとどまらず、彼らの国家をつうずるヘゲモニーの伝統を攻撃するべきであった。この伝統こそ自由主義派を含む官僚層が上杉慎吉と、たがいに意識せずに共有したものである。だから上杉の思想は、二〇世紀に議会主義と並んで進行していたもう一つの現実、行政国家の成熟に、官僚層が自己適応する過程のイデオロギーという面ももつのである。
 つまり、上杉思想の本質的な点への批判を怠った結果は、国民にとってよいことはすべて国家が引き受けるという官僚的国家主義への批判の弱さにつながった。三〇年代の労働運動について一言すると、二〇年代の運動が力で叩きつぶされ、政治的に解体されたあと、労働者大衆は個別企業コーポラティズムとでも呼ぶべきものに分断されるが、天皇主義にかつてなく浸されたこの企業別労資一体は、やがて産業報国体制にみずから流入していくことになる国家的権威主義を、はじめからもっていた。
    --伊藤晃「上杉慎吉論」、富坂キリスト教センター編『近現代天皇制を考える2 大正デモクラシー・天皇制・キリスト教』信教出版社、2001年、90-91頁。

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上杉慎吉の思想の問題点は、その天皇親政論にみられる専制擁護だけではないかも知れない。

上杉の主張は「前時代的」であり、イデオロギー性を批判し、超克していくことは必要だと思われる。しかし、その点にのみ惑溺するならば、上杉思想は形をかえて蘇ってしまうかもしれない。

上杉は確かに「天皇親政」を主張したが、前時代的王政復古を目指したわけではない。近代国家の形成において、天皇が体現する民本主義を主張している。この点に留意することは必要だろう。

上杉の説く絶対君主主義とは、「エゴイスト」の君主主義の再来ではない。天皇を紐帯とした疑似家族主義に粉飾した「よいことはすべて国家が担当する」という倫理国家である。

問題に対する批判とは、おうおうにして、それがよいことか悪いことかが論点となる。しかし、それと同じように大切なことは何か。

「よいことであれ、そもそもそれをなぜ彼らがやるのか」。

歴史を振り返るとこの批判が脆弱だったことは否めないし、そうした精神的態度は今も続いている。「何か上から来るものを媒介として自分の生活と意識を作る人びとが天皇の存在を疑問」としないのは、当然であるし、「そもそもそれをなぜ彼らがやるのか」と口を挟む事態が憚れる「世間」を形成するのであろう。

しかし、この態度こそ、共同体の欺瞞を加速させるものであるゆえ、たえず問い直す必要があると思われる。

吉野作造は民本主義を説く中で、整備の充実よりも、民衆の「元気」自体を常に気にかけた。制度論や事案の真偽論は大切だ。しかし、そこのみに拘泥しないようにありたい。


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