書評

書評:将基面貴巳『言論抑圧 矢内原事件の構図』中公新書、2014年。


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将基面貴巳『言論抑圧 矢内原事件の構図』中公新書読了。

『中央公論』掲載の「国家の理想」が反戦的とされ辞任に追い込まれた矢内原忠雄事件は戦前日本を代表する政治弾圧の一つだ。本書は歴史を複眼的に見る「マイクロヒストリー」の手法から、言論抑圧事件に関与した人物や機関を徹底的に洗い直し、その複雑な構造を明らかにする一冊。

戦前の言論抑圧事件の構造とは、権力からのプレッシャーを軸に、右派国家主義者からの踏み込んだ攻撃と過剰なまでに遠慮する大学というもので、そのデジャブ感にくらくらしてしまう。

矢内原失脚の要因には、当局の抑圧と国家主義者からの批判だけではない。すなわち、学部内の権力闘争や大学総長のリーダーシップの欠如も大きく関わっている。著者は大学の自治能力の欠如に、権力の過剰な介入を招いたと指摘する。

矢内原事件の発端は、「国家の理想」という論考だ。キリスト者としての「永遠」の視座から現状を「撃つ」理想主義の立場から「現在」の国家を鋭く批判した。当時は日中戦争勃発直後で、大学人にも国家への貢献が強要されていた。矢内原事件は起こるべくして起こり、大学内からも「批判」をあびることとなる。

弾圧のきっかけをつくったのは言うまでもなく蓑田胸喜だ。蓑田は通常、狂信的右翼で済まされるが(蓑田研究も少ないという)、著者は蓑田のロジックも丁寧に点検する。蓑田によれば矢内原の立場とは、新約聖書より旧約聖書を重視する「エセ・クリスチャン」(そして蓑田こそが真のキリスト教認識という立場)というもので、この論旨には驚いた。

愛国という軸において矢内原も蓑田も一致する。しかし両者の違いは、蓑田が「あるがままの日本」を礼賛することであったのに対し、矢内原の場合は、現在を理想に近づけることとされた。二人の眼差しの違いは、キリスト者ならずとも、「あるがまま」を否定する度に「売国奴」連呼される現在が交差する。

矢内原事件はこれまで矢内原の立場からのみ「事件」として認識されてきた。事件は事件である。しかしその豊かな背景と思惑を腑分けする本書は、およそ80年前の事件を現在に接続する。「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように……」(矢内原忠雄の最終講義)

蛇足:矢内原事件に関連して、無教会キリスト者たちも一斉に摘発を受ける。しかしながら、矢内原の東大辞職に関しては、矢内原が伝道に専念できるとして歓迎的ムードであったというのは、ちょと「抉られる」ようであった。これこそ、「●●教は××」という通俗的認識を脱構築するものなのであろう。


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言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)
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書評:内田樹『街場の憂国論』晶文社、2013年。


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内田樹『街場の憂国論』晶文社、読了。本書は国家や政治にかかわる著者のエッセイ集。未曾有の「国難」に対し、どう処するべきか。未来を「憂う」ウチダ先生の処方箋。表紙扉裏に「スッタニパータ」の一節「犀の角のようにただ独り歩め」と印刷。ノイズを退け未来を展望する著者の省察の本質がずばりだ。

政治的立場に関係なく可能なのが「憂国」だ。しかし「多くの人が自分と同じことを言っている」式の憂国談義ほど、その自分の生活を破壊するものに他ならない。正しく「憂う」には思考の作法、連帯の作法が必要なのだ。カッとなり乗せられてしまう前に紐解きたい一冊。

※書き下ろしがあとがき・まえがきになるのでちとあとがきから紹介。

著者は「『アンサング・ヒーロー』という生き方」として締めくくる(あとがき)。アンサング・ヒーローとは「歌われざる英雄」のこと。私たちの社会はアンサング・ヒーローたちの「報われることのない努力」に成立するが、減ってきたことに著者は危機を感じるというが、まさに。

歌われざる英雄とは「顕彰されることのない英雄」。具体的に言えば堤防に小さな「蟻の穴」を見つけた村人が、何気なく小石を詰め穴をふさいだ。放置すれば大雨で決壊は必至だが、「穴を塞いだ人の功績は誰にも知られることがありません。本人も自分が村を救ったことを知らない」。

“今の日本では「業績をエビデンスで示すことができて、顕彰された人」だけが貢献者であって、「業績をエビデンスで示せないし、顕彰されていない人」の功績はゼロ査定されます” 未然に無名で防ぐことで業績が特定され報奨を得る可能性がないことで「しない」でいいのかなあ?

アンサング・ヒーローとは「間尺に合わない生き方」かもしれないが、浮き足だって「改革だ」とがなり散らす「機動性」と対極にある「ローカル」な生き方だ。しかし、地に足をつけた一歩一歩からリスクを防ぎ未来の展望が可能になる。身近な蟻の穴埋めることから始めたい。

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書評:ジャン=フランソワ・リオタール(松葉祥一訳)『なぜ哲学するのか?』法政大学出版局、2014年。


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ジャン=フランソワ・リオタール『なぜ哲学するのか?』法政大学出版局、読了。哲学することと実践の架橋に悩むリオタールが40歳の時、パリ第1大学で新入生に行った、哲学と欲望、哲学の起源、哲学の言葉、政治など4つの講義を収録する。リオタールによる最良の哲学入門。訳者の解説は秀逸な伝記。

リオタールの膝下で学んだ訳者・松葉祥一さんインタビュー:神戸映画資料館
[http://kobe-eiga.net/webspecial/bookreview/2014/03/%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%8D%E6%9D%BE%E8%91%89%E7%A5%A5%E4%B8%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC/:title]

“ポスト・モダンとは「小さな物語」が並立的に存在する世界だと考える。これはとてもよく理解できる指摘です。確かに、現代は「みんな違ってみんないい」を肯定する社会でもあるでしょう。その一方でリオタールは、実はその社会が同時に「大きな物語」への強いノスタルジーを持っていること”を指摘。

今の日本を振り返ると「みんな違ってみんないい」の実存が許容される訳でもないのに、そのフレーズだけを「みんな」が言い、相互に同じ言葉を述べることで何かを確認している。「大きな物語」への強いノスタルジーの、しかも「いびつ」な形の立ち上がり痛感する。もう一度リオタール読むべきかなあと。

例えば次のような報道もある。

「『永遠の0』の影響?軍歴照会の申請が急増」『読売新聞』2014年12月22日付。
[http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20141222-OYT8T50100.html?from=tw:title]

これなんかもそう。
人がルーツを辿る意義を全否定しようとは思わない。しかしこの空前の『永遠の0』という熱狂は、悪しき国民国家への回収であり、都合の良い物語に「酔い」自尊する臭いが強く、危惧する。

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なぜ哲学するのか? (叢書・ウニベルシタス)
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書評:ミシェル・ワルシャウスキー(脇浜義明訳)『国境にて イスラエル/パレスチナの共生を求めて』つげ書房新社、2014年。


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ミシェル・ワルシャウスキー(脇浜義明訳)『国境にて イスラエル/パレスチナの共生を求めて』つげ書房新社、読了。「越えてはならない国境もあれば、むしろ破るべき国境もある」。本書はマツペンを経てAICで反シオニズム闘争を続ける「国境をアイデンティティとする革命家」の半生記。

シオニズムを知らずアラブを脅威としか感じないナイーヴかつ敬虔なユダヤ教青年が、イスラエルに渡り、同地の最左翼ともいうべき反シオニズム闘争を続ける原点は、故郷ストラスブールのユダヤ人コミュニティでの体験に由来する。

ホロコーストの追悼行事の折り、ニガーという差別用語を何気なく使って大人から強打された。そこから「貧しい人々、弱い人々、身分の低い人々に自分を一体化させるのは、私のユダヤ人アイデンティティの一部となっていた」という。

著者はイスラエル本国のホロコースト・アイデンティティの限界をユダヤ人中心主義に見て取る。人道に対する罪の認識がないから、ナチと同じような残虐行為をパレスチナ人には平然と行い、批判者を「ナチ」と罵倒するのがイスラエル・アイデンティティ

「他者である非ユダヤ人も被害者になり得ることを認めることが、シオニズム言説と袂を分かつ重要な一歩である」。アンチ・テーゼ関係にある価値観の間には通行不可能な国境があるが、人や文化の交流や共存を禁じる国境は否定すべきである。

著者の常人ならざる歩みは、まさに「過激」といってよい。しかし「過激」にならなければ、“常識のドクサ”が秘めるより重大な暴力性を暴くことは不可能であろう。柔軟かつしなやかに現世の重力を撃つ、今読むべき1冊。


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国境にて―イスラエル/パレスチナの共生を求めて
ミシェル ワルシャウスキー
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書評:サラ・マレー(椰野みさと訳)『死者を弔うということ』草思社、2014年。


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サラ・マレー(椰野みさと訳)『死者を弔うということ』草思社、読了。本書は高級紙のベテラン記者の著者が父親の死を契機に、世界各地の葬送をめぐる旅に出たその記録だ(副題「世界各地に葬送のかたちを訪ねる」)。シチリア島のカタコンベ、来世への餞別準備する香港、ガーナのポップでクレイジーな棺まで著者は訪ねる。

著者が記者であるだけに本書は紀行風の葬送ルポに読むこともできる。しかしその視線は、現在生じている事柄を記録するものではない。人はいかに人を葬ってきたか。人間にとっていかに死が受け入れがたいものであるのか浮き彫りにする。

死が受け入れがたいからこそ、生と死の間に儀式や儀礼が挟まれ、その受け入れがたい感情を和らげることができるのであろう。著者の父親は死を物体の消滅としか考えていなかった父親は、死の直前、遺言で遺灰を故郷に撒くように指示する。

なぜ父は考え方を変えたのか。世界各地の儀礼を訪ねるなかで、著者は不断に父との対話を試みる。本書の山場といってよい。死に関しては必ず否定的なイメージがつきまとう。しかしながら正面から考えるべき課題でもある。本書はその一助となろう。
 


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死者を弔うということ: 世界の各地に葬送のかたちを訪ねる
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書評:想田和弘『熱狂なきファシズム 日本の無関心を観察する』河出書房新社、2014年。


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想田和弘『熱狂なきファシズム』河出書房新社、読了。ファシズムに必然するのが狂気的熱狂だ。しかし著者は今日のファシズムを「じわじわと民主主義を壊していく」低温火傷という。「ニッポンの無関心を観察する」(副題)と、憲法改正、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認への現在が浮かび上がる。

気がついたときには手遅れになるのがファシズムの特徴だが、内向きなナショナリズムに喝采し、ヘイトスピーチが公然とまかり通り、貧困と格差が増す現在日本は、もはや「平時」ではない。反知性主義の勢いは民主主義を窒息させようとしている。

「僕は、私たちの一人ひとりが普段から目の前の現実をよく観て、よく聴くことこそが、巡り巡って『熱狂なきファシズム』への解毒剤になりうるのではないかと考えている。なぜなら虚心坦懐で能動的な『観察』は無関心を克服」するからだ。

世の中の変化のスピードが加速する現在は同時に忘却の速度が加速化している時代。だからこそ「現在」をよく観る必要があろう。著者が「観察映画」で追求してきた「能動的な存在としての観客と、互いに尊重し啓発し合う対等な関係」の構築こそ現在の課題だ。

“『永遠の0』が興行的に大成功した最大の秘密は、それが表面上「反戦映画」の体裁をとったことにある” 「あとがきのような『永遠の0』論」で締めくくられるが、こうした戦術と下支えする心情が「熱狂なきファシズム」を加速させる、警戒せよ。

 


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 「観察」という言葉に、冷たい響きを感じる人がいる。観察者と被観察者は、ガラスか何かで隔てられていて、あくまでも冷徹な分析がなされ、観察者は一切傷つかないというイメージがあるのであろう。
 しかし、前項でも述べた通り、観察という行為は、必ずといってよい程、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴う。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察するはめになる。
 例えば、蝿といえば、蝿タタキで潰すべき憎き存在というのが一般に流布するイメージだが、目の前にとまっている蝿の様子を観察すると、実に繊細な前脚や後脚を持ち、身繕いをする姿は優雅で上品で美しくもある。蝿=悪と決めつけていた自分が恥ずかしくなる。
 あるいは、身体の周りをブーンと飛んでいる蚊。思わず潰そうとしてしまうけれども、よくよく観察してみると、食事をするのにも命がけであることが分かる。僕らがコンビニへおにぎりを買いに行くのとは、大違いである。そう思うと、安易に潰したり、殺虫剤を撒いたりできなくなる。
 逆に言うと、蝿や蚊は害虫であるという固定観念があるから、僕らはあまり深く考えずに殺すことができる。それは、広島や長崎に平然と原爆を落とすことができる心理と、全く一緒ではないか。
 「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。
 観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は究極的には、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。
 観察は、自己や他者の理解や肯定への第一歩になりうるのである。
    --想田和弘『熱狂なきファシズム 日本の無関心を観察する』河出書房新社、2014年、157-158頁。

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[http://www.kanaloco.jp/article/78115/cms_id/103191:title]

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書評:スティーヴン・プロセロ(堀内一史訳)『宗教リテラシー:アメリカを理解する上で知っておきたい宗教的教養』麗澤大学出版会、2014年。

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スティーヴン・プロセロ(堀内一史訳)『宗教リテラシー:アメリカを理解する上で知っておきたい宗教的教養』麗澤大学出版会、読了。アメリカ人は信心深い割には宗教に関して無知であり、基本的な知識に疎いうという。本書の副題「アメリカを理解する上で知っておきたい宗教的教養」。宗教的無教養の現状で、本書は有益な情報源として活用できる一冊といえよう。

著者は、宗教に関する知識の欠如を、宗教という「記憶の鎖」が断ち切られた状態と捉える。建国の歴史そのものが宗教的信仰と宗教的知識が軌を一にしていた。しかし世俗化による公共世界からの締め出し=分断が「記憶の切断」を招来した。

植民地時代の若者はどのように読み書きの力をつけてきたのか。宗教は学校教育や公共の場でどう扱われてきたのか、こうした疑問と歴史を概観しながら、末尾に全体の1/3を占める「宗教リテラシー辞典」を収録する。

著者は、己の信仰に関心はあっても、宗教そのものへの基本的なリテラシーのない人間を「宗教的無教養人」と呼ぶが、米国に限定された問題ではない。無信仰を自称し、偏見の眼差しで他者の信仰を罵倒する日本社会にも、本書は有益な視座を提供する。
 


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宗教リテラシー: アメリカを理解する上で知っておきたい宗教的教養
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書評:石井光太『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』新潮社、2014年。


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石井光太『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』新潮社、読了。起点の東京大空襲から平成までーー。先の戦争で家族を失い浮浪児となった子供たち。その実像を、記録記録やすでに高齢者となったかつての浮浪児百人以上の聞き取りから迫っていく力作 

「終戦から約七十年、日本の研究者やメディアは膨大な視点から戦争を取り上げてきたはずなのに、戦後間もない頃に闇市やパンパンとともに敗戦の象徴とされていた浮浪児に関する実態だけが、歴史から抹殺されたかのように空白のままだ」から本書は貴重なルポルタージュだ。

戦災孤児は約12万人、うち浮浪児は推定3万5千人(『朝日年鑑』1948)。上野駅の通路を住処にゴミをあさり闇市で盗んで食いついだ。警察の「刈り込み」による施設収容は、保護とは程遠い強制労働。幾重もの疎外の対象となった浮浪児こそ戦争最大の被害者といってよい。

45年年末までは、上野の浮浪児は戦災孤児中心で靴磨きや新聞売りが多数を占めたが、以後「ワル」が増加する。メディアの上野界隈に対する治安危惧の報道が、地方の不良少年たちを上野に吸い寄せたのだ。かくして“上野に行くも地獄、施設に行くも地獄”

46年、上野でパンパンが急増するが、RAA(特殊慰安施設協会)の廃止がその理由の1つという。RAAとは旧内務省が進駐軍のために作った慰安所のこと。エレノア・ルーズベルトの意向と性病率の高さからGHQは解散を要求。失職は上野へ誘うことになった。

「新日本女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む!」

浮浪児と同じくパンパンも蔑まれたが、両者共に日本のご都合主義の「棄民」政策が作り出したもの。弱者は決して自己責任などではない。

極度の飢えと混乱。幼い子供がたった一人で生き抜いていくことは想像を絶する過酷さを伴う。本書は美化するでも蔑むでもなく淡々と描いていく。目の前で命を失う子供、あるいは自殺していく子供。誰もが浮浪児やパンパンを捨て駒としてあつかっていく。

浮浪児を取り巻く環境の変化は、46年に設立された孤児院「愛児の家」の登場だ。上野で見つけた浮浪児たちを連れ帰り、衣食住を提供し、就学や就労の世話をした。けんかやトラブルはつきないが、誰もが「ママさん」への信頼を今なお隠せない。

「僕自身が僕のことをわからない」--。
圧巻は、浮浪児たちの「六十余年の後」を追うくだり。バブルで大成功したあげくその崩壊を一人で引き受けた者、高度経済成長の陰と日向で苦闘した者。しかし、施設育ちは話せても、浮浪児だったことは話せない者が多い。

経済発展の連動でしばしば行われるのが町の「浄化作戦」。ひとはそのことで、ステージアップを夢想する。しかし社会構造が生み出した「浮浪児」を排除することが「浄化」なのだろうか。棄民で経済発展を錯覚する眼差しそのものを疑うほかない。

上野の地下道は、ペンキの塗り直しを重ねるが70年前のそのままだという。寝泊まりする人間は今もたえない。あの戦争は終わっていない、むしろその「余塵」と、みずから終わったのだと「ごまかそう」とする中で生きているのではないか、そう考えさせられた。

 
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[http://www.shinchosha.co.jp/book/305455/:title]


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書評:飯野亮一『居酒屋の誕生』ちくま学芸文庫、2014年。


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飯野亮一『居酒屋の誕生』ちくま学芸文庫、読了。幕府の開かれた江戸は男性都市としてスタートし、居酒屋は非常な発達を遂げたという。「暖簾は縄暖簾と決まっていた?」「朝早くから営業していた?」様々な疑問に答える形でその実像と変化を追う好著。副題「江戸の呑みだおれ文化」。

「のみに行居酒(ゆくゐざけ)の荒(あれ)の一騒(ひとサワギ)」(河合乙州)。「居酒」という言葉の登場は元禄のころ。居酒はもともと計り売りの酒屋ではじまったが、「居酒屋」の登場は寛延年間の頃という。

居酒屋は従来の酒屋とは一線を画する業種として出発し、明暦の大火を境に爆発的に拡大した。「居酒やは立つて居るのが馳走なり」「居酒やへ気味合いをいふ客がとれ」「居酒やでねんごろぶりは立てのみ」(全て「万句合」)。それぞれの狂句は現在の匂いをうかがわせる。

池波正太郎の愛好した「小鍋立」も居酒屋で始まり、家庭に拡大した。土鍋から鋳物製への転用が流行を加速させた。「しゃも鍋」の登場もこのころのこと。野鳥減少で鶏への注目がその契機。ただし当時の鶏肉は固く焼き鳥には向かずメニューには見られない。

「酒飲みの身としては外で飲むことが多いが、一番多いのはやはり居酒屋だ。今日の居酒屋の盛況ぶりを眺めながら、しばしば思いは江戸時代の居酒屋へ馳せた」(おわりに)。食文化を豊かにし、幕府の規制を撤廃していく原動力ともなった居酒屋の歴史を豊富な資料から丹念に掘り起こす労作。
 


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書評:仲正昌樹『マックス・ウェーバーを読む』講談社現代新書、2014年。

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仲正昌樹『マックス・ウェーバーを読む』講談社現代新書、読了。「知識人や学者の知的権威自体が決定的に凋落し、『教養』という言葉が空洞化している今日にあっては、そうしたウェーバーの魅力はなかなか伝わりにくくなっている」。本書は主要著作を参照しながら「古典を読む」魅力伝えるウェーバー入門。

著書が注目するのは、「自らの立脚点を常に批判的に検証し、『客観性』を追求し続けることを、学者の使命」と考えたウェーバー。「理論」と「実践」の間の緊張感を保とうと苦心し続けることは「一段高い」ところから見渡すことと同義ではない。

本書が取り上げるのは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(宗教社会学)、『職業としての学問』『官僚制』(ウェーバーの政治観)、『客観性論文』(社会科学の方法論)、『職業としての学問』(ウェーバーの学問観)。

古典を読むことでウェーバーの魅力へ誘う本書は「入門書」でありながら同時に「古典」や「教養」の重要さについて再考する骨太な試みとなっている。高等教育における学問全体がインスタント化する現在、初学者にも専門家にも紐解いてもらいたい一冊。

「『学問』は悪魔が生み出した業かもしれないが、価値の機軸がない混沌の時代にあって、悪魔や神々の属性を知るために利用できる確かな武器である。それが、ウェーバーが最終的に見出した、『学問』の存在意義である」。この強かさ継承したい。

ひさしぶりに、こういう時代だからこそ、「古典」を読まなければならないなあ、と実感。古典を読んで「そのアクチュアリティがどうの云々」ではなく、ウェーバーの価値自由ではありませんが、真摯に自己に立ち返ること促してくれるのが「古典」との「出会い」だなあ、と……ね。
 


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