教養教育

日記:古典語は八十日、近代語は四週間


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 私は大学の二年目と三年目、四月から六月までの三カ月を語学月間にきめて、ギリシア語とラテン語を独習した。もっとも、一日一課といっても、けっこう時間はかかる。出てくる単語は全部単語帳に書き、最近五日分の単語を藁半紙に繰りかえし書いて覚える。次にその日の分の文法を勉強し、名詞や動詞の変化を暗誦できるようにし、練習問題を忠実にやる。できればその練習問題の例文も暗記する。これだけのことをやると七、八時間はかかるものである。一方で『純粋理性批判』(引用者注 カントの主著、ドイツ語テクスト)を読み、演習の予習をしなければならないから、かなり大変だった。その頃は酒を呑む金もなかったが、よしんばあっても、この九十日間は酒など呑んでいられない。語学学習のコツは、休まず毎日やることである。昨日のことは覚えているものだが、一昨日のことは忘れる。あまり忘れるといやになってくる。だから、うまずたゆまず毎日やるしかない。熱でも出してやむをえず休んだら、仕方ないと諦めてー、初めからやりなおすくらいの気になること、マラソンなどと同じで一種ハイな気分になってきて休めなくなる、その気分をうまく利用するのである。
 私は元来飽きっぽいタチなのだが、英語とドイツ語の独習のおかげでこの頃には変に根気づよくなっており、ギリシア語もラテン語も三カ月でうまく文法をマスターした。ギリシア語の規則動詞は四百くらい変化する。ラテン語は二百ぐらいだが、規則動詞が四種類あってややこしい。こんなものは口で暗誦できるようにするしかない。これに比べれば、最後にやったフランス語の百ぐらいの動詞の変化を覚えることなど、ひどく簡単である。古典語は八十日、近代語は四週間と言うが、本当だと思う。こうして文法を一通りやったら、あとはムリヤリ本を読むしかない。
    --木田元『わたしの哲学入門』講談社学術文庫、2014年、66-67頁。

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今日で「哲学」の後期の講座が修了。履修されたみなさま、ありがとうございました。
最後の授業でもお話をしましたが、大学で「学ぶ」ということに関して、何らかの目的に連動した「学び」というのをいっぺん、リセットして、ただ「知る」こと、「学ぶ」こと自体が「楽しい」という「学び」を意識的に経験して欲しいと思います。

その最たるものが「語学」の学習だと思います。
今更、ラテン語やギリシア語なんて「学ぶ」意義があるのかと問われれば、それは就職に有利な訳でも、何らかのスキルが身に付くわけでもありませんが、どっぷりと古典語を学んでみるというのもすてきな経験になると思います。

これから長い春休みですが、ぜひ、知ること自体を楽しむ挑戦をと切に願う次第であります。

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日記:意識の高い、有意味な言説というドクサ

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たまこさんのお世話ちう。

土曜日に細君が子供を連れて実家に帰ってしまったので(とほほ、猫のたまこさんと二人ぐらしです。とはいってもほとんど家にいないので少しの時間ですし、今日はぐったりと寝ていたので、少々余裕をもって接していますがものすげえ甘えてきますね。

しかし振り返ってみれば、帰宅してからは、たまこさんと「たまー」、「たまこ、かわいいね」とかそういう発話しか、していないことに改めて驚きます。そりゃあ、話す相手がたまこさんしかないわけですからね。

まあ日当稼ぎで殆ど家にいないし、家にいても書き物しているし、妻子が家にいても別段、「有意味」な会話ばかりしている訳でもなく(所謂「意識の高い」話をすると煙たがられるし)、短絡的な経済的判断を下すと「おはよう」というような「無意義」な会話の方が多いと思う。たまことの会話も同じかw

無意義な会話はダメで、所謂「意識の高い」会話だけが素晴らしいというのもゾッとするし、その対極として、社会なんてどうでもいいという無意義な会話だけでいいのよ、というのにも違和感はありますが、こういうのはたぶん、対立的にとらえるとよくないのかもですね。

名匠・小津安二郎の作品に『お早よう』(1959・松竹)というのがあります。
郊外に住む林家の親子をめぐるコメディで、TVを買ってくれと子供はねだるけど拒絶され、大人は「お早よう、天気はどうですか」といった無意味な会話ばかりだから、言葉を発しないストライキを子供たちが実行します。

ぐろーばる人材だの、コミュ力でしたっけ、そういうテンプレ的言辞をうまく使いこなすことだけに、言語の有用性を見出すことは、言語使用の当体としての人間理解を極めて細めてしまうことになると思う(社会性からの撤退も同じだけど)。

価値があるのかないの、誰かに決めてもらうことの愚かさですよね。結局の所、グローバルだの、コミュ力だの、意識が高いといった「有用性」「有意味性」なんて、権力がこしらえる訳ですから(だからテンプレになるわけで)

まじめに考えること、そして、生活者としてそれは無意識のうちに発せられる社交儀礼のごとき言辞、そういうのを対立的に捉えるのではなく、それがあっての人間というところからはじめて、「さしあたり」有用である(=お金になる・出世できる)というところを相対化させたいなあと思ったりです。

あ、そういや、たまことしか会話していないし、僕はほとんど、独り言を発話しない系の人間なんだけど、そういや、「おっす、おら、悟空」をなんどか発話していたなあ(つらい

あ、それから安倍晋三さんのコピペは、儀礼的言辞の枠内を凌駕する暴挙だとは思う。工夫もできないぐらい頭がわるい。結局、言葉と人間の存在に対する冒涜でしょう。

だけど、逆に、「すべてのことがらをお前の言葉で語れ」と脅迫されてしまうとこれも困ってしまう。人間は神ではないのだから無から創造することができない。だけど、「まねる」としての「学び」がきちんとできれば、それはコピペとはちがう自己内受容としての言葉にはなると思う。

いつものおとしどころかもしれんけど、完膚無きまでの古典を読むこと、そして外国語を学ぶことしかねえわな。 


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日記:「今読んでいるんです」とはなかなか言えず「今読み返しているのですが」……


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(twのまとめですが……)

先週の続きで、今日も文学について少々お話をしました。『カラマーゾフの兄弟』における「人類」の議論から、社会実践としてのスピヴァクの可能性へ示唆を飛ばし、世界文学を読むケーススタディとしてゲーテを参照しました。

我ながらアクロバティック。

ゲーテは文学論で、特殊個別性と普遍性は相互に照らし合うことで双方が輝くとみます。田舎文学と呼ばれた独文学を世界の舞台へ引き上げると同時に、その土着性をも尊重する形で光を当て直しました。極めてドイツ臭のする作品であると同時に、誰が読んでも心を打つ。そこにゲーテの偉大さがあるのかも知れません。

薄っぺらい世界市民を気取ることはひとつの錯覚だし根無し草にほかならない。そして、その対極としての「日本の文化は世界一ィィィィ」式の認識ほど愚かなものはないから、そういう極端を退けるなかで、誰とも違う自分を認識し、同時にその自分が人間の一員であることが両方の眼でみてとれることができるようになることが肝要ではないかと思います。

なので、今日は、そのゲーテの議論をうけるかたちで、NHKのニュース内の特集の"ヘイトスピーチ" 日韓友好の街で何が・・・を紹介しました。

[http://youtu.be/Jyi1kUDIfJE:movie]

前期はデューイで接続したのですが、ゲーテの方がよりスムーズだったような感じでした。

前期もヘイトスピーチの問題を紹介しましたが、後期では反応が違うのに驚きました。前期は、その「事件」を知らない学生が多かったのですが、後期は知っている学生が多くいました。「正直、日本人の私も怖いですが、どのように向き合えばいいのでしょうか」という学生の熱意が印象的でした。

現実に、これが特効薬というのはないし、それぞれの人がそのNOという立場を自分のいる現場で自分のできることを諦めずに取り組んでいくことで穴を穿っていくしかないのだと思う。

以前、文学の議論で、週刊誌の偏向報道が問題になったのですが、そのやりとりの中で、一人の女学生が、バイト先の店長が週刊誌の愛読者だと思いだし、授業が済んでバイトに行ったとき、店長に、日本の週刊誌の体質の話をして、「もう、読まないよ」といってくれたと後日報告がありました。

勿論、法令の整備のような他律的なアプローチの充足は必要不可欠だとは思いますが、自身の認識を改めるなかで、自分のできることなんてないと問題の大きさに振り回されるのではなくて、実は自分の関わる世界のなかでもその人にしかできないことって一杯あるような気がするからそれを大切にしたい。

むしろ、それを実現させるためには、これだけをやれば済むのだ、というアプローチこそ問題なのかもしれない。たしかにそれを実現させるために、先の「これ」をやるのも大切だとしても、それだけで済ませてしまうのではなくて、自分自身が関わるなかでの自分の実践というのも大事なような気がしてね。

さて……。
私自身はやや古典的な教養主義の立場といってもよいけど、読書で教養を身につけることで「人間性は涵養されますよ」などと言い切るほどの自信はない(その効用を全否定はしないけど)。おそらく読書で教養とは、知のカタログにレ印をくわえるのではなく、自己の臆見をたゆみなく破壊することなんだろう

なので、たとえばつぎのような読書論・教養論は面白そうだけど違う気がする

→ 「世界のエリートは、なぜ大量の本を読みこなせるのか? ハーバード、エール、東京大学EMPほか、世界のトップ機関で研鑽を積んだ男が教える『いま、本当に使えるリベラルアーツ』の身につけ方」。

[http://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E8%9B%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E8%A1%93-%E7%94%B0%E6%9D%91-%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4864102767:title]

“本当に使える”と形容された時点で、リベラルアーツとは似て非なるものなんじゃないのかなあ。“使える”とか“役に立つ”ように読むことこそ狭隘な知へ導いていくのじゃないのかねえ。それに抗うのがリベラルアーツのような気がするが、そんな悠長なことは行ってられないって話なんでしょうかねえ。

私自身、割と本を読む方だし、学生さんにも「古典を読め」と言っていますが、それは「人生で勝利するため=エリートなるため、に読む」のかといえばそうじゃないと思う。形式としてのエリートになる人なんて殆どいない。じゃあ読む効用なんてないの?っていわれるとそうじゃないですよね。

高度経済成長期に所謂「文学全集」が売れたような受容もどうかとは思うのだけど、偉くなるためにこれを読むのじゃなくて、農家であったり、商店主であったり、サラリーマンであったり、小役人であったり、ひとはそれぞれなんだけど、そのそれぞれの中で読んでいくことの意義をみていきたいんだよねえ。

世の中全体が勝ち/負けの二元論に矮小化されるから、本を読むこと自体も「勝つ」ために収斂されていく。しかし現実にはスーパーエリートになっていくのなんて1%だけなのだから、中世の大学・哲学の伝統は「羊飼いよ、汝は哲学をもつや否や」なんだから、勝つために読むのは、ホント違いますよ。

鶴見俊輔さん流にいえば「みみずにも哲学がある」つう話。そのひとがそのひとであることを否定してジャンプするために読むわけじゃない。結果としての功利は否定しないけれども、それが目的と化した時、エピステーメーはテクネーへと転落してしまう。前者が大切なのは常に批判の眼を提示することだから

これも何度も言っているけれども、例えば文学を読むことを、戦前の文学青年の如く奉ろうとは思わない。しかし、必然される読書経験……例えば、資格試験で読まなければならない教材を読むことを、「1冊、読書したw」っていうのかねえ。

イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(河出文庫)の中で、古典とは「今読んでいるんです」とはなかなか言えず「今読み返しているのですが」っていう本がそれという。読まなければ本は多い。しかし、何度も読み返す本は存在する。それをどれだけ多く持ち合わせ、何度も読むことができるかだ。

今日も若い子と話していて、そうなんだと思ったんだけど、最近、いろいろと読み始めたとのことだったのですが、これまた若い子から「色々読んでいるみたいだけど、村上春樹も読んでないんですかー」って言われて読み始んだとのこと。

すると「面白い」ではすまされないなあ、と実感したとのことです。

村上春樹さんの作品には、賛否両論あるし、好き嫌いがものすごく分かれる。しかし、その話が象徴しているのは、一遍読んで「はい終わり、これは面白い、面白くない」ですべてが終わってしまうというのは違いますよね。ショーペンハウアーの「読書について」をひくまでもなく。

「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる」から「自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない」というパラドクスを引き受けるしかないですねw


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覚え書:「引用句辞典 トレンド編 [大学入制度改革]=鹿島茂」、『毎日新聞』2013年10月26日(土)付。


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引用句辞典
トレンド編
鹿島茂

[大学入試制度改革]
教育の本質はエロス
文科省には無理な話

ソクラテスよ、人間はみな、子を宿している。これは体の場合でもあっても、心の場合であっても、同様にいえることだ。そして、時が満ちると、子をなしたくなる。われら人間は、そう生まれついているのだよ。だが人間は、醜いものの中で子をなすことはできぬ。美しいものの中でなければならぬのだ。
(プラトン「饗宴」中澤務訳 光文社古典新訳文庫)

 文部科学省が教育再生実行会議の提言を受けて、センター試験を廃止し、「基礎」と「発展」の二段階からなる達成度テストにかえると言い始めた。
 教育現場にかかわっている人間にとっては「またかよ、もう、いいかげんにしてくれ!」というのが本音だろう。とにかく、文部科学省が(審議会の答申という形式はとるものの)なにか「改革」を思いつくたびに、事務仕事の量が倍になり、教育どころの騒ぎではなくなるのが常だからだ。極論すれば、文部科学省とは、雑務を増やし教育を阻害するためにのみ存在する官庁である。「最も良い文部科学省とはなにもしない文部科学省である」と囁かれているのを当の役人は知っているのだろうか? 制度をいじれば教育の質が向上すると考えるその発想法がそもそも誤りなのである。教育というものに携わったことのない彼らは教育の本質というものをまったく理解していないのだ。
 では、教育の本質とはいったい何なのか?
 プラトンに言わせると、それはエロスであるということになる。エロスとは生き物に子を産むようにしむける神である。死をまぬがれぬ動物はエロスに導かれて、より良きもの、より美しきものを統合して子をなさんとする。自己をより良くより美しく永遠に保存し、不死にしたいからである。
 しかし、人間という特殊な動物にはこうした生物学的自己保存願望のほかにもう一つ、自分が獲得した「知」を同じように永遠に保存したいという本能がある。しかも、より良く、より美しいもの(つまり優秀な生徒)を見つけてその中に自己を保存したいと欲するのだ。「そのような者たちは、通常の子育てをする夫婦よりもはるかに強い絆と堅固な愛情で結ばれることになる。なぜなら、彼らが一緒に育てている子どものほうがより美しく、より不死に近いのだから。どんな者でも、人間のかたちをした子どもよりも、このような子どもを自分のものにしたいと願うことであろう」
 もちろん、ここにはプラトン特有の少年愛的なエロスが暗示されている。しかし、プラトンが本当に言いたいのは、教育というのは本質的にエロスの支配する領域であり、知を獲得したおのが自己保存本能に駆られて行う再生産にほかならないということだ。この意味で、教育ほどエロチックなものはない。
 少しでも教育に携わったことのある人ならこうした教育のエロチシズムというものが理解できるはずだ。教育は、それがうまく行けば、教える側には大きなエロス的快楽をもたらすのであり、この快楽があればほかに何もいらないほどなのである。文科省の役人に決定的に欠けているのは、こうした教育へのエロス的側面への理解である。教えることが好きで好きでたまらない人間のヤル気をそぐこと。文科省の役人の狙いは、どうもここにあるとしか思えないのである。(かしま・しげる=仏文学者)
    --「引用句辞典 トレンド編 [大学入制度改革]=鹿島茂」、『毎日新聞』2013年10月26日(土)付。

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日記:人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。


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 -- あなたは、ごく頻繁に「哲学者」、のみならず、「歴史家」、「構造主義者」、「マルクス主義者」と呼ばれています。コレージュ・ド・フランスにおけるあなたの担当講座の肩書は、「思想体系の歴史の教授」です。このことの意味は何でしょう?
 わたしが何であるかを正確に認識する必要があるとは思いません。人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。ある本を書き始めたとき結論で何を言いたいか分かっているとしたら、その本を書きたい勇気がわく、なんて考えられますか。ものを書くことや恋愛観駅にあてはまる事柄は人生についてもあてはまる。ゲームは、最終的にどうなるか分からぬ限りやってみる価値があるのです。
 わたしの専門領域は思想〔思考〕の歴史です。人間は思考する存在であります。人間の思考方法は、社会や政治や経済と関連しているが、さらに、きわめて一般的かつ普遍的なカテゴリーや形態上の構造とも関連している。しかし思考は種々の社会関係とは別の何かである。人々が実際に思考する仕方は、論理の普遍的カテゴリーでは適切には分析されない。社会と体系的な思考〔思想〕分析とのあいだには、小道、小路--多分ごく細い--があって、それこそは思考〔思想〕の歴史家がたどる小道なのです。
    --ミシェル・フーコー、ラックス・マーティン(田村俶、雲和子訳)「真理・権力・自己  --ミシェル・フーコーにきく--」、『自己のテクノロジー フーコー・セミナーの記録』岩波現代文庫、2004年、2-3頁。

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金曜日から後期の「哲学入門」の授業がはじまりました。

このところ涼しい日が続いていたのですが、今日は夏日。
大学に到着すると温度計は31度を示しており、やれやれ……なのですが、やれやれとも言っておれませんので、ゆる~く、導入の授業をして参りました。

1年生の受講者がほとんどなので……そして、これはもう毎度毎度の話にはなってしまいますが……哲学とは何ぞや、というよりも、学問を修めるとは何ぞや、という話に力点がいってしまいます。

高等学校を含めてよいと思いますが、義務教育においては、それを理解して運用していくという「学習」が要求されますが、学問は、学習とは異なります。そうした基礎的な読み書きの力を、まあ、元にはしますけれども、結局の所は、1+1=?というようなものをうめていくのではなくして、自分が「おい、これ、どうなんだよ」っていうところを、仲間や先輩の手助け、そして先達の知見に耳を傾けながら探求していく……そこに尽きるのではないかと思います。

よく、学生から「哲学には答えがありませんね」と言われますが、「答え」は問題集の模範回答集に掲載されているわけでもありませんし、教師の私が開陳するものでもありません。結果として回答集やら私が開陳したものと同じであるかもしれません。

しかし大切なのことは、自分自身で納得のいくまで探求していくことではないかと思います。

ですから、授業ではそういう示唆をたくさん準備しておりますから……

「んんん????」

……と思ったときは、スルーすることなく、「では、どうよw」とツッコミを入れながら歩み出してほしいと思います。

結局はそうすることによって、これまで身につけてきた知識や習慣、常識といったものをいったんふるいにかけながら、たとえばそれを相対化してみたり、自分自身の「コトガラ」にしていくことで、自分とは関係のない他人事であった知というものが、いきいきとしたソフィアになるのではないかと思います。

これから15回の授業、どうぞよろしくお願いします。

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「みんなの広場 教養教育の大切さを考えよう」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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みんなの広場
教養教育の大切さを考えよう
大学生 19(京都市上京区)

 大学に入学してから発見したことがあります。一般教養科目のおもしろさと奥深さです。第一線で研究されている先生方の授業で、知的好奇心をくすぐられます。将来の損得勘定を抜きにして、縦横無尽に「知の世界」を旅することができるのは、大学生ならではのぜいたくだと思っています。
 しかし、現在は専門教育を重視する考え方が強いようです。国際競争力を磨くためといった実社会での有りようのみを考え、教育成果に「効率」という物差しを当てる傾向にあります。
 確かに日本を支える人材は必要です。しかし、そういう人物は、有用か無用かという枠を超えた知識を広げる中で自己を見つめ、人間としての深みを持つ人の中から生まれてくるのではないでしょうか。今後の日本を考えるうえでも、今一度、教養教育の大切さについて考えてもらいたいと思うのです。
    --「みんなの広場 教養教育の大切さを考えよう」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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試験のための読書だった。人と会話するときの話題のための読書だった。知識のための読書だった。それが、ここでは楽しみのために読書するようになった。

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 ベイトマンはどさりと椅子に座り込んだ。
 「君が理解できない」
 「変化は僅かずつやってきたんだ。ここの生活が次第に気に入ってきた。のんびりとして気楽だ。住民は人がいいし、幸福な微笑をいつも見せている。僕は考えるようになった。以前は考える余裕がなかったね。読書も始めた」
 「君は以前だって読書していたよ」
 「試験のための読書だった。人と会話するときの話題のための読書だった。知識のための読書だった。それが、ここでは楽しみのために読書するようになった。話すことも学んだ。会話が人生で最大の楽しみの一つだって、君知っている? でもね、会話を楽しむには余暇が要る。以前はいつも忙しすぎた。すると次第に、大切に思えていた人生がつまらない、下卑たものに見えだした。あくせく動き回り懸命に働いて、一体何になるというのだろう? 今ではシカゴを思うと、暗いー灰色の都会が目に浮かぶよ。全て石で出来ていて、まるで牢獄だな。絶え間ない騒音も聞こえてくる。頑張って活躍して、結局何が得られるというのだ。シカゴで最善の人生を送れるのだろうか? 会社に急ぎ、夜まで必死に働き、急いで帰宅して夕食を取り、劇場に行くーーそれが人がこの世に生まれてきた目標なのか?  僕もそのように若い時期を過ごさねばならないのか? 若さなんて、ごく短い間しか続かないのだ。年を取ってから、どういう希望があるのだろう? 朝家から会社まで急ぎ、夜まで働き、また帰宅して、食事をして劇場にゆくーーそれしかないじゃないか! まあ、それで財産を築けるのなら、それだけの価値があるのかもしれないね。僕には価値はないけれど、人さまざまだな。だが、もし財産を築けないなら、あくせくすることに価値があるのだろうか? とにかく、僕は自分の一生をもっと価値あるものにしたいのだ」
 「君は人生で何が価値あるものだと思うかい?」
 「笑わないでくれよ。真善美だ」
    --サマセット・モーム(行方昭夫訳)「エドワード・バーナードの転落」、行方昭夫編訳『モーム短篇選 上』岩波文庫、2008年、58ー59頁。
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今日の哲学の授業では、読書をする意義について1コマ割いてお話をしました。
どうして哲学で?
……というような野暮なツッコミはご容赦くださいませ。哲学にせよ、そして文学にせよ、歴史にしてみても、人文科学(のみらず総じて学問)とは、対象を丁寧に読まないと「はじまらない」からです。
ですから、時間を割いて、どうして読む必要があるのか、何をよむべきか、そして読むうえでの留意点を少々、紹介した次第です。
さて、学生さんたちと……
「今までで読んだものののなかで、友人に一番すすめたいものはどれ?」
「その理由は?」
「いい本とは何だろう?」
「わるい本とは何だろう?」
……さまざまなやりとりをしながら、そういうことをお互いに考えてみました。
さて……
必要性とかコツに関してはこれまで何度も言及しているので再論しませんが、今回は別の角度から少し読書事情を伺ってみようかと思います。
総じていえるのは、やはり学生さんたちは、読む子も読まない子も含めて「読んだ方がいい」というのは何となくわかっている……この認識だけはいつも「ああ、やっぱりそうなんだな」と毎年思います。
単純に「読まないよりは読んだほうがいい」ことは、それが功利的な動機であれ、何かのステップアップのため……というキャリア的な眼差しは大嫌いなのですが……であろうが、はたまた純粋に「読むのがすき」という立場であれ、「まあ、そうなんだよな」というのは一人一人が理解している。
しかし、やはり、そこには、……そしてそれを全否定するわけではありませんが……「功利主義的打算」が大きく働いていることは否めないようなことも実感します。たしかに、人間をつくるという上では「読書」は必要不可欠です。しかし、人間がつくられるということによる「利益」を意識したものであることは、その動因として否定することもできません。
まあ、とにかく読めばいいんだろ、ドヤっていわれてしまうとそれまでなのですが、思い返せば、授業中に、学生のみなさんと、ただ「本」について話あう時間を、今回は何度かもうけましたが、そのとき、私自身もそうですが、後からリアクションペーパーを確認すると、「ただ、楽しかった」という反応が予想以上に多くありました。
何らかの利益によって読むのではなく、ただ純粋に「本のお話」ができたことは、私にとっても学生さん一人一人にとっても「楽しかった」のではないかと思いました。
その意味では、功利主義的な事実に誘発された場合であろうが、道学的教養主義の人間形成論の発露であったとしても、ひとまずは、読む中で、「読む楽しみ」というものを大切にすることも必要なのではあるまいか……などと思った次第です。
これまでの読書経験は「試験のための読書だった」し、社会に出てからは「人と会話するときの話題のための読書」や「知識のための読書」の比重が大きくなることは否定できません。
だとすれば、「読書する暇を」とよく言われますが、大学時代ぐらいは、その「暇」すらをも大切する時間であって欲しいなーなどと考えた次第です。
冒頭に掲げたのはサマセット・モームの傑作短編集の中からのご紹介。
知人が、再起を決意し南島へ移り住んだものの、そこでがむしゃらサラリーマンを超脱して、自由人になってしまった。そこへ「あいつ、どうしてるんだ?」と訪ねていくわけですが、そこでのやりとりです。
もちろん、文明orz、非文明万歳という単純な認識や一方の全否定がモームの真骨頂ではありません。どこにいようとも、何かを、そして自分自身を相対化してしまうような「暇」を、せめて大学在学中ぐらいは、読書時間の中につくっていきたいものではあります。
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学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。…英語ではだめなのです。保証しますよ。

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多数言語によるコミュニケーションの重要性
 最後にもう一言申し上げたいと思います。
 当時においても、現在においても、別の言語で学んだり話したりすることを学ぶために注がれるエネルギーの量には驚くべきものがあります。情報を伝え、効用を伝え、考えを伝え、感情を伝える。一つの言語から別の言語へ。それはとても感動的なことです。
 たとえば、フィリピンのナショナリストたちが一九世紀の終わりに出した通信文を繙いてみましょう。それは、スペイン語で書かれていることもありますが、日本人に対しては英語で、フランスの同志に対してはフランス語で、かれらの支援者であったドイツの学者にはドイツ語で、書かれていたものです。
 かれらは、懸命に世界に訴えかけようとしていたのです、そしてそれは日本でも、中国でも、他の多くの国々の人々に関しても、おそらく同じことが言えるでしょう。かれらは、ビジネスのための支配的な言語の習得に興味を持っていたわけではありません。かれらは、他の言語集団に属する人々との感情的なつながりを得るためにこそ、言語を習得し、その精神世界に入り込むことを望んだのです。
 これはいまでもとても重要なことです。学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています。そのほかにも、重要で美しい言語がたくさんあります。
 本当の意味での国際理解は、この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます。英語ではだめなのです。保証しますよ。どうもありがとうございました。
    --ベネディクト・アンダーソン「アジア初期ナショナリズムのグローバルな基盤」、梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリズムを語る』光文社新書、2007年、99-100頁。
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『想像の共同体』でナショナリズムの認識を一変させたベネディクト・アンダーソンは2005年4月に来日し、早稲田大学で2日に渡って講演しました。『グローバリズムを語る』は、その講演録で、冒頭に紹介しているのはその末尾の部分です。
ここで言及されているフィリピンのナショナリスト云々とは、2012年の本年、邦訳された、山本信人訳『三つの旗のもとに アナーキズムと反植民地主義的想像力』(NTT出版、原著は早稲田大学講演と同じ2005年の出版)で詳論された19世紀末期のホセ・リサールを中心とするフィリピンの独立運動の闘志たちのエピソードからです。
19世紀末とは「グローバルなアナーキズムとローカルなナショナリズムがときに対立しながらときに連結するという独特な政治空間を醸しだした時代」。フィリピンのスペインからの独立運動は、19世紀末期のこの世界において突発的におこった現象ではなく、深く世界各地の運動と連携した浮かび上がってきたことを丹念にその作品でアンダーソンは描いており、「一九世紀末の二〇年間に『初期グローバリゼーション』と呼びうる兆候が始まっていたからである」と特徴を指摘しております。
いわば、通信、交通の発達が世界を「狭く」し、それにのってアナーキズムが世界へ広まった。そしてその延長線上にフィリピンの運動もネットワーキングされるという寸法です。だからこのアンダーソンの論考に目を通すと「読者は、アルゼンチン、ニュージャージー、フランス、バスクの内地でイタリア人と出会う」し、「プエルトリコ人やキューバ人にはハイチ、アメリカ合州国、フランス、フィリピンで、スペイン人とはキューバ、フランス、ブラジル、フィリピンで、ロシア人とはパリで、フィリピン人とはベルギー、オーストリア、日本、フランス、香港、イギリスで、日本人とはメキシコ、サンフランシスコ、マニラで、ドイツ人とはロンドンとオセアニアで、フランス人とはアルゼンチン、スペイン、エチオピアで出会う」ことになる。
さて、早稲田大学の2日目の講演では、当時執筆中の『三つの旗のもとに』の意図とあらすじを紹介しながらうえのように講演をまとめております。
ホセ・リサールの生涯を縦糸とすれば、アナーキズムと半植民地的ナショナリストの交流を横糸としてみるならば、その織物こそが19世紀後半のグローバルな「重力場」となるでしょうが、そこで「外国語」はどのように機能したのかと考えた場合、これは興味深い話題ですけれども、「多数言語によるコミュニケーションの重要性」はいうまでもないこととしつつも、言語を習得する、そして伝え・合うことが「感動的ななこと」と捉えております。
ホセ・リサールの時代から百年を経過した現在。軽薄にグローバルというものが叫ばれ、英語をとにかく拾得することが要求されるのがわたしたちのくらす21世紀の特徴でしょう。
もちろん、英語を習得することはいうまでもなく大事でしょう。しかし、グローバルな出会いにおいて外国語を習得し、それを使いこなすことは、百年前であろうが現在であろうが、「ビジネスのための支配的な言語の習得に興味を持っていたわけではありません」。否、「他の言語集団に属する人々との感情的なつながりを得るためにこそ、言語を習得し、その精神世界に入り込むことを望んだ」のではないでしょうか。
アメリカなるものへの不信は強いし、そしてマルチリンガルなアンダーソンの講演は反語のようなフレーズでおわりますが、そう、すなわち、
「学ぶべき価値のある言葉は、日本語と英語だけだと考えているような人は間違っています」。
「英語ではだめなのです。保証しますよ」。
といっていおりますw
もちろん、英語はできないよりもできた方にこしたことはないし、必須の要件でしょう。そして英語を学習することが無駄だという断定ではありませんので念のため。
しかし、それで「事足りる」ないしは「感情的なつながり」をえることなんてどうでもいい、とにかく「つかえればいいんだ」とガムシャラにやっても、それはただのアンドロイドのようなものかもしれません。
そして「支配的な言語」にしか関心がないのでは、本当のところでの地に足のついたローカルな「接続」は不可能だろうと思います。
「当時においても、現在においても、別の言語で学んだり話したりすることを学ぶために注がれるエネルギーの量には驚くべきものがあります。情報を伝え、効用を伝え、考えを伝え、感情を伝える。一つの言語から別の言語へ。それはとても感動的なことです」。
教訓チックかもしれませんが、外国語を習得する意義として、このアンダーソンの言葉は銘記しておきたいものです。
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知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもうひとつは、蓄積することなく、生きるという行為のなかでつねに学んでゆくこと

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……私たちが話しているのは二つの種類の学ぶことについてです。ひとつは知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもうひとつは、蓄積することなく、生きるという行為のなかでつねに学んでゆくことです。片方は技術的なことには絶対に必要なものですが、関係、人に対する態度は技術的なことではありません。それらは生きているものなので、それらについてはつねに学ばなければならないのです。もし人に対する態度について学び、その知識に基づいて行為をすれば、それは機械的になり、それゆえ関係は型にはまったものになってしまいます。
 そこからもうひとつ、きわめて重要なことがあります。蓄積と経験の学習の場合、それにそそぐ情熱は、そこから得られる利益によって決められます。しかし、利益という動機が人間関係のなかで働くとき、それは孤立や分離をもたらし人間関係を破壊します。経験と蓄積の学習が、人間の行動という領域、すなわち心理的な領域に入り込むとき、それは必然的に破壊をもたらすのです。利己心に長けることはある面では進歩をもたらしますが、ほかの面では、不幸や苦悩や混乱の温床となるのです。どんな種類のものであれ、利己心のあるところには関係が開花することはできません。関係が経験や記憶の領域内で開花することがないのはそのためです。
    --クリシュナムルティ(松本恵一訳)「学ぶこと」、『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』めるくまーく、1992年、224-225頁。
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今日の哲学の授業では、古代ギリシア以降の流れを現代までざっくり紹介するというきわめてアクロバティックな構成になってしまいましたが……来週以降はテーマに従ってそれぞれ深化させるために……、なんとか無事完了。我ながらよくやるわなw と思いつつ、それでも少し手順が良くといいますか・悪くといいますか、時間が微妙に余ってしまいましたので、学生さんたちと「教養とは何か」について考えてみました。
基本的には阿部謹也さんの教養論と中世における大学の意義を紹介しつつ、その知識や方ではない「人間」の問題として浮上するものとの認識を共有することができたと思います。
しかし、こちらから何かを提示するまえに、私の場合、じゃあ、みなさんはどう考えるのか?お互いに話しあってみましょうというスタイルを取り、そのフィードバックのやりとりで進行するようにしておりますので、学生さんの意見を聞くと、
やはり……
「知識もその一つだけれども、知識とイコールではない何かが加える」
……という認識が多くありました。
たとえば教養を身につけるために遂行するのは「学習」ではなく「学問」という行為になると思います。知識の習得といった場合、学習で事足りますが、そうではないものが「学問」という行為になると思います。
もちろん、学問の「作業」のなかには、その営為のひとつとして「学習」は含まれますから、学習を含め、実験や観察、読書やひととのすりあわせのなかからそれをやっていくのですが、要は知識の当体となる「人間」自身をそれによってカルチベートしていくことにより、その何かが身に付くと捉えるべきでしょう。
そしてその学問の現場はどこにあるのでしょうか。たとえば大学での1コマ90分の教室もそのひとつでしょうけれども、それだけではないと思います。この生きている世界の全ての事象から、自分自身が「問い」、「学(まね)び」往復関係の中からそれを様式として「暗記」するのではなく、いきたものとして、自身を薫蒸させるものとして受容していく。そこにこそあるのではないでしょうか。
たとえば、人間関係における「枠」というのもその「何か」のひとつでしょう。葬式に白いネクタイを締めていく人間はおりませんし、奇を衒った挑戦をする必要もないでしょう。たしかに「生活儀礼」として受容することは必要でしょう。
しかし、そうしておけばまあ「大丈夫」という認識と、弔問の意を衷心より表現するひとつの方として認識して創造的に受容するのでは大きな開きがあるでしょう。
そのあたりの二重の契機というものを踏まえながら、すべてのものから学んでいく……私自身含めて、まあ、そうありたいなあとは思う次第です。
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学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。

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ミシュレは、五一歳のとき、新たな人生(vita nuova)を始めた。新たな仕事、新たな恋愛を始めた。私は彼よりも年をとっている(この比較が親愛の情から出ていることはわかっていただけよう)が、私もまた今日、この新たな場所で、この新たな厚遇によって示された、新たな人生を歩み始めるのである。それゆえ私は、生きとし生ける者の生の力、つまり忘却に身をゆだねたいと思う。一生のうちには、自分の知っていることを教える時期がある。しかしつぎには、自分の知らないことを教える別の時期がやって来る。それが研究と呼ばれる。いまはおそらく、もう一つの経験をする時期がやって来たのである。つまり、学んだことを忘れてゆくという経験。自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ。この経験には、輝かしくも時代遅れの名前がつけられていると思う。ここではあえてその名前を、まさに語源的意味の分かれ目において、劣悪感なしに採用することにしよう。すなわち、「叡智」(Sapientia)。なんの権力もなく、少しの知(サボワール)、少しの知恵
サジェス)、可能なかぎり多くの味わい(サヴール)をもつこと。
    --ロラン・バルト(花輪光訳)『文学の記号学  コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1981年、57-58頁。

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昨日は担当する後期の「哲学」講座の初日だったので、ロラン・バルトの「開講講演」を再読しました
※神学界隈ならロランじゃなくてカールを読めって話でしょうがw。

ロラン・バルトは所詮、文芸評論の二軍扱いでスルーされるフシがありますが、じっくり読むと、なかなか意義深いものがあると思います。

冒頭の一節は、バルトがコレージュ・ド・フランスに招聘された折り、その開講講義の末尾一節になります。

ちょうど最初の授業(ほとんどがガイダンスに終始してしまうのが今の大学ですが、それでも40分程度は何とか導入授業しましたが)、反応は、「面白そう!だけど難しいかも?」というアンチノミーがやっぱり多いですよね。

前者は好奇心が発露する感想であり、それと同時に提示された後者は、彼女たちがこれまで営為してきた既存の価値観が破壊されることへの恐怖だと思います。

もうなんども言及しておりますが、私自身は旧時代的教養主義orzな人間でありますし、大学は「建前」かもしれませんが、そのベースを鍛える「場」だと考えております。

だとすれば、大学で「学問」するということの特徴とは何かといった場合、まずはこれまでの「義務教育」の「学習」とは違うという認識を持つことではないかと思います。そもそも大学とは……これも「建前」と嘲笑われるかも知れませんが……「義務」で入学した訳でなく「志願」して入学し、学問しようという設定になります。

義務教育では教室や教科書でとりあえず諸学は「完成」するという設定です。これもひらたくその特徴の一つを指摘すれば、いわゆる基本的道具を揃える段階といってよいでしょう。言葉の運用、論理的精確さ、社会や自然への基礎的知識の習得……といった諸々を身につける訳ですから、そこでは詰め込みになってしまう精確があります。
※理念からすれば、ホントはちゃうやんけというツッコミは措きます

しかし大学で学問を習熟するとは、全くことなる性質を有しております。教室や教科書、参考書といったものは、ひとつのきっかけや意識づけに過ぎず、そこで得た示唆からどう展開し、どう教員や図書館を利用していくのか、ここに大きなウェイトがあると思います。そのことで自身の教養をカルチベートしていくという寸法だと思います。
※とはいえ、就職予備校と化した現実の大学教育は「キャリア教育」だの資格・試験への突破といったものを重視し、義務教育以上の「詰め込み」スタイルが全盛なのは承知しておりますが(涙

設定の違い、学ぶ意義の違いその意味で、これまでのスタイルに引きずられると「難しい」という抵抗感を抱くのも必然だとは思います。

しかし、その抵抗感をこえ、いわばエポケーして自由に挑戦していくことも、人間が学問するという意義では大事です。

その意味でバルトのいう「自分が経てきたさまざまな知や文化や信念の堆積に、忘却がほどこす予期しない手直しを自由におこなわせてゆくということ」に注目したいと思います。

バルトはこれを教授する側から発言しておりますが、これは受け手の側も同じだと思います。私自身も、毎度、新しい学生さんを前にすると触発の連続で、これまで積み重ねてきた営為というものが木っ端みじんに砕け散る瞬間があり、「ああ、そういう発想もありか」などとビビることもあります。ですから逆も同じであるような柔軟な発想で取り組んでいくことこそ、学問が深まっていく秘訣になるのではないかと。
※もちろん、論理的整合性を無視するのではないのは言うまでもありません。

これまで身につけた知識や社会に対する構えというものをいったん「保留」にして、もう一度学び直すというのが「真理」への接近とバルトは解く。そしてこのことはスピヴァクのいうアンラーン(unlearn)や鶴見俊輔のいう「学びほぐす」という観点と同義かなと思われます。

これまでの身につけてきた既存の価値観や習慣、「まあ、そういうものだろう」というドクサをいったん「保留」し、「学びほぐす」挑戦をともにしてゆきたいと思います。そしてそれが哲学を学ぶ醍醐味もあります。

そのこで、当初は「面白そう!だけど難しいかも?」というアンチノミーは、「ほぉ、面白いなあ」になっていくと思います。


1月までの15回、どうぞ宜しくお願いします。

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