病院日記

病院日記:50~60代の子どもの心配・世話をする80代以上の親のお見舞いという「忍びない」光景

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介護の話題で耳目をひくのは老々介護の話題ですけど、病院で仕事をしていると、老々介護ならぬ老老子介護とでもいえばいいでしょうか、その光景を目の当たりにするに、非常に切ないものを感じてしまいます。
※そして「切ないもの」を感じてしまう「傲慢さ」は承知しておりますが、ひとまず横に置きます。

さて、老老子介護ですけど、これは精神科だけでなく全ての病棟で見かける光景ですが、つまり、50~60代の子どもの心配・世話をする80代以上の親のお見舞いというそれです。

支援する側がまだ「若い」のなら「まだしも」ですけど、老いた親が子の心配をする光景は、非常に忍びありません。

3.11以降、「絆」よろしく、「自助」「共助」という言葉が強調されます。しかし、そのミニマムな共同体モデルとしての「戦後家族モデル」が失われつつある今、その胡散臭さに危惧を覚えます。

具体的に言えば、何かあれば「家族で面倒を見ろ」といういびつな「自助」、そして何かあれば、実際のところ戦時下の「隣組」を彷彿とさせる「相互監視システムよ、再び」という「共助」。

老いた子どもが老いた親の世話をする。老いた親が老いた子どもの世話をするという「自助」自体、現実的に限界に来ている。

その介護の「美談」の如きものを耳にして「いい話し聞いた☆」で済ませる訳にもいかず、「共助」といっても「絆」の語源の如き排他主義を隠しつつ、本来、必要なはずの共助としての公的支援・補助を「アウトソージング」といって誤魔化している訳で。

「家族で面倒を見る」ことも限界ですし、「お隣さん同士助けあう」ことにも限界がある。公的支援をばっさり切って、そこに現出するのは、「息苦しい」強者ばかりが生き残る殺伐とした光景ではありませんかねえ。

少し考え直す必要があると思います。


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病院日記:「生活の時間が止まる」ということ


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まとまっていないから躊躇してましたが、twitterのまとめで恐縮ですが、これが8ヶ月仕事をした体験でもありますので、病院日記としての記録を残しておこうと思います。

看護助手として4月に神経内科から精神科(閉鎖病棟)に移動して、そのゆっくりずむには驚きました。ただゆっくりとはいえ、やるべき仕事はきちんとあるわけですけど、看護師が忙しい人数も多くないので、その中継的に、仕事の途中に患者さんの話に耳を傾けることが多くなりました。

「これ頼んでよ!」というものから人生談までーー。

で、驚くことばかり。

広告代理店の用意した都合のよい「物語」に回収されない、生活者のナラティヴを奪ってきたのが現在日本の20年の歴史と僕は考えているのですが、いわゆる10年、20年と閉鎖病棟に入院している方と話をすると、都合の良い「物語」から排除されたひとびとの肉声に驚いてしまう。
※で、現実に、病院へ「島送り」して隔離することが世界の潮流(脱施設化)と逆行していることは承知ですけど、中にいると、そこがある意味では、「生きることが苦しい」日本社会の現在からの「避難場所」になっていること、は否定し得ない事実なので、前否定論はここではいったん、横に置きますけどね。

さて……。
精神科閉鎖病棟へ閉じこめられた10年選手、20年選手と話していて、「え」と思って「ちぐはぐ」することがよくあるなあと最近気づきましたんですよ。そしてその「ちぐはぐ」を生むのが、隔離されるということ。

想像してみてくださいな。10年、20年間、数百平米の病棟から「出入り」できないということを。

で、その「ちぐはぐ」の違和感とは何かといえば、10年閉じこめられた患者さんでも、入院してからの10年、例えば、日本の首相がどう替わっていったかということは「知識」として頭のなかに入っている。テレビもあれば新聞もありますから。

しかし「生活の時間」は止まっている。

「生活の時間」が止まっている、とは何か。

その患者さんは、閉鎖空間に10年も20年も閉じこめられているが故に、自分の目で見て体験したふつーの生活世界は10年前、20年前の「光景」で止まっているということ。例えば具体的に言えば、JR新宿駅の話をしても、入院するまえの「JR新宿駅」で「止まっている」。いくら新聞やテレビで「知識」をアップデートしたとしても「止まっている」。

その「時」が止まっていることが、やりとりを交わすなかでの「ちぐはぐ」を生んでいる。

異質なものは「囲い込め」、文明国としてふさわしくない人品は「隠蔽」せよーー。
その封じ込めによって獲得されたのが、「ぼくらの国には問題は何もないっすよ」式の欺瞞に満ちた「先進国」という勲章という寸法。

「文化的生活の享受」云々は日本国憲法でも明言されているにも関わらず、隔離されることで、人間は「生きている時間」を止められてしまう。

ここに戦慄しなくてはならない。

異質なものを包摂し得ない、生-権力による人間の値打ちのレベル論の欺瞞をうち、社会包摂という意味での脱施設化こそ「人間が人間として人間らしく生きていく」ためには必要不可欠ということを実感する。しかし、その前に済ませて置かなければならないことがある。それは端的に言えば、自らの眼差しに根深く内在する「あいつら、きもい」みたいな眼差しを自覚して更新しながら、「避難所」を維持しつつ、社会をも変えていく必要性を感じている。

「あそこにあったお肉やさんのコロッケが美味しいかったのよ、食べたことある?」ってふられて、ええと、脳内でいったん、「ええと、あそこにあったお肉さん、パチンコ屋になりましたがな」と反芻してから、投げ返す言葉にあぐねている。

精神科に移動したあとに、神経内科の看護師にも、「ウジケさん、あそこって、まじ、大丈夫な世界っすかw」みたいな反応されて「え!!!」と我ながら引いたことがありましたけれども、中にいると、精神科ほど、言葉をきちんとつかわなければならない世界はない。
※事実、曖昧な応答はできないんですよ。

ほんと、思うのは、言葉を大切にしない人間は人間をも大切にしないのだなあ、と。


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病院日記:奪われ続けるナラティヴ


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4月に精神科に移動して激増したのが高齢の患者さんの「たわいもない話」を聞くこと(看護師が忙しいから。

ほんと、そこには感動の大団円もなければ、ものすげえ悲惨な話もない。しかし、ひとに聞いてもらえることで「安心」する、自分が自分であることを肯定される安心感つうのはあるのだなあ、と実感する。

そういうやりとりをするなかで、この20年、そういう「たわいもない話」にきちんと「耳を傾ける」文化というのが根絶やしになったのではないかと思う。

まさに創作然とした感動話に受け、「人間だもの」みたいなのに頷く。ボードリヤールの議論ではありませんけど、人間の歴史と言葉が奪われたのではと
 
周りを見渡せば「永遠の0」、「人間だもの」、そして「水から伝言」みたいな言説ばかり。

感動が悪いとは思わないけれども(疑似科学はやばいけど)、そういう幸福と不幸の両極端にいない人間の「記録されない」声を無視してきた結果が、例えばネトウヨちっくな極端な議論の横行を招いたのではないか。

家庭を顧みない産業戦士という「昭和」、好きよ好き好きみたいな自閉的「平成」、そして「自分が生き残るためにはなりふり構ってはいられない「現在」。ずっーとひとびとのナラティブが奪われ続けているけど、その中でも、この現在つうのはひどすぎるような気がする。

大文字の政治的言説の対抗というものの有用性を否定するつもりは全くありませんけれども、声を奪われ続けること、そしてその代弁なんて不要なこと(そもそもおこがましい)、そういうところに寄り添うことから始めるしかないかな、ということを仕事をするなかで実感しています。


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病院日記:生産性・合理性を規準にした時間とは対極の時間の「流れ」


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今週で精神科勤務、2週間目をクリア。なんとなく仕事のペースをつかみ、やっと看護師さんや入院している方の名前も覚え、あちらさんからも「氏家さん」と呼んでもらえるようになったのだけど、ほんと、神経内科と違ってじっくり丁寧に仕事ができる。

そして時間の進行が世間の「スピード」と全く違うことが印象的です。何といえばいいのでしょうか。全ての生産性・合理性を規準にしたスケジュールが進行するというよりも、対極の時間が「流れていく」という感覚です。

正直なところ、危険手当も加算されるので、正直、移動の話しが来たとき、ひいていたのですが、イザ仕事をしてみると、みんなふつうのひとばかり。静かにゆっくりと時間が過ぎていく。

ただ今日は帰宅前に、保護室でひと騒動あって、拘束するかどうかでちょいと残業でした。拘束の意義は一面では神経内科的な点滴を抜くから拘束すると同じところもあるけど、それでもやはり違うところもあり、患者さん側の抵抗も分かるし、病院スタッフのそれもよく理解でけて(安全確保等々、正直寂しかった。

ここでも印象的だったのは、ゴルァ、バキッ!ゴキ!じゃなくて、何十分もかけて「言葉」で説得しようとした姿でした。

もう1回チャンスでクローズしましたが、やはり「切ない」ものはありました。勿論、程度にもよるのでしょうけど、パターナリズム実行に対する反省を常に持ち合わせていることには光明。

ただ、それもスタッフの数が限界となってしまう。夜勤であと1人いれば、いらいらさせてしまうことはないが如くの対応がとれて少しは違ってくると、しろうとながらに思う。外野はいろいろいうし、それはそうなのだけど、無責任な関わり方だけは避けていこうと思う。

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病院日記:「主婦の仕事」という観点

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 これは、産業社会で財とサーヴィスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自存に寄与するものではない。まったく逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自存を奪いとるものである。賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買物に関係する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、運動に費やされる骨折りなどが含まれる。押しつけられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲従、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動も含まれる。
さまざまな伝統的文化では、<シャドウ・ワーク>は、賃労働と同じくらい周縁的で確認しがたい場合が多い。産業社会では、<シャドウ・ワーク>は、日常のきまりきった仕事とみなされている。けれども、それは遠まわしの表現をまき散らしてその陰に身をひそめるものとなっている。単一の実在物として分析することに強いタブーがはたらくのだ。産業的生活は、それの必要性、規模、形を定めている。だがそれは、産業時代のイデオロギーによって隠されている。このイデオロギーによると、人々が経済のために強いられる活動のすべては、ほんらいの社会的なものであるとの理由で、仕事としてよりもむしろニーズを満たすものとみなされる。
    --I・イリイチ(玉野井芳郎、栗原彬訳)『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』岩波現代文庫、2006年、シャドウ・ワーク、207-208頁。

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看護助手(ナース・エイド)の仕事に就いてちょうど一年たったので、少しだけ書き残しておきます。

仕事のほとんどは、まさに看護師の助手といったところで、そしてその従業者のほとんどが主婦の方が多いのだけど、仕事を始めたとき、その方々から「イメージとして主婦の仕事だよ」と言われましたが、1年間仕事をしてみて、その言葉の意味を深くかみしめている。

主婦の方自体が「主婦の仕事」と形容することを、生権力に馴致されている!などと告発しませんが、オムツの廃棄からベッドメーキングに至るまで--シャドウワークというオイルがないと現実の世の中は回らないとは思った。それがいいことなのか、わるいことなのかは措くとしても。確かに看護師がやっても済むといえば済む。しかしいるといないでは、彼女・彼の本来業務がうまく遂行するかどうかといえば、支障をきたすとは言わないまでも、負担になることは間違いない。

さて「主婦の仕事」。もちろん、仕事だから当然それに対する対価が必然する。しかし職場から家を振り返ってみるならば、喩えが典型的すぎるかも知れないけれども、埼玉大学名誉教授・長谷川三千子大先生よろしく、役割分担業的に……そしてその強要恫喝する人間は安全地帯に居る訳なのだけど……これやってもらってトーゼン的な無償労働を強要して何ら恬淡として恥じらうことない精神とは訣別したいものだとは感じた。

それが伝統だ、文化だ、先例がそうなっている……とされる陰の部分に目を向けるたとき、そのいかがわしさが分かるのではないだろうか。

仕事をしながらそんなことを痛感している。

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病院日記:ゆっくりと静かに時間が経過する精神科(閉鎖病棟)

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twのまとめに少々手をいれたものですが、いちおう、「病院日記」として残しておきます。

4/1付で、看護助手の業務、神経内科から精神科(閉鎖病棟)へ移動しました。その初日の印象です。

OJT無しのいきなり独り勤務なので「お客さん」状態だとは思うのですけど、1日とにかく仕事して思ったのは、とにかく静かで病棟内の時間がゆっくりすぎることが印象的でした。

パーキンソンやミオパチー系の難病を主とする前の病棟は……裸の大将的表現ですけど……海兵隊の如き職場で、とにかく時間との戦いと体力勝負でした。一日で病棟の1/5が入れ替わることもあり、「汗だく」的なところで、とにかく「言われる前に準備しろ」的な文化!

それに対するとほんと今日から勤務する病棟は字義通り平穏でした。

シャウトや拘束は神経内科の方が多かったですし(先の平穏というのはまさに字義どおり、病棟の中でも最もセキュリティレベルの高い所だし、保護室には看護師の指示なくば基本的にノータッチなのだけど、とにかく時間の進行がゆっくりしている。

だから神経内科を裸の大将的に「海兵隊」と表現しましたが、精神科は在る意味で「近衛兵」といったところでしょうか……。

仕事もスピードより丁寧さが求められるといいますか、焦ってやったり、煽られるというのはないので、時間的タスクはこなさなければならいのですけど、丁寧に間違いなくやることが大切なのだなあ、と実感しました。

丁寧に間違いなくやることのその象徴とすれば、まさに閉鎖病棟ならではなのですけど、ロッカー、倉庫からスタッフステーションや病棟の出入り口に至るまで基本的に「施錠」するというのがその特徴で、鍵をかけ忘れたらいけないんです(ほんと、なので時間がかかる。

この所動が神経内科とは違う文化をつくっているのだと思いました。

笑い話風ですけど、前の病棟だと、扉を足で蹴飛ばすような不作法までもしても、スピードを優先するようなところでしただけに……それでもERから転職した看護師さんは、まだマシですとはいっていましたし、ERのナースエイドの時給はもっと跳ね上がりますが……それが在る意味ではカルチャーショック!

僕的には近衛より海兵隊的気質なのだけど、精神医療の現場には興味があるので……そして精神医療の現場については批判が多くありますが現実には医療行政と薬品業界の方に問題の比重は多く、現場のヘロヘロさをこれ見よがしに責めても詮無いことだと思いますが……まあ、まずは看護師の顔と名前、それから患者さんの顔と名前を覚えなけば仕事にならないので愚直にがんばろうとは思います。

移動したばかりで、先に言及した通り「まだお客さん」的な扱いですが、ひとついえるのは、いくつかある民間信仰的なもののひとつに「精神科に勤務すると、おまえも精神病になるよ」つうのはウソですね。


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病院日記:自分の外に出るというのは、他なるものを配慮するということ


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レヴィナス 私の本(引用者注--『実存から実存者へ』のこと)が言おうとしたのは、存在は重苦しい、ということです。
ポワリエ それは無に対する不安ではないのですか。
レヴィナス それは無に対する不安ではありません。実在の《在る》に対する恐怖なのです。それは死ぬことへのおそれではなく、おのれ自身の「過剰」なのです。事実、ハイデガー以来、あるいはカント以来といってもいいかも知れませんが、不安は、存在しないこと(ne-pas-être)の情動性として、無を前にしたときの心細さとして分析されてきました。それと違って、《在る》に対する恐怖は自己に対する嫌悪感、自分が自分であることのやりきれなさ、というのに近いのです。
ポワリエ であるこそ、自分から外に出ることが重要なのでしょうが、いったいどうやって自分の外に出ることが出来るのでしょう?
レヴィナス そこです。そこで私たちは根本的な主題にゆきつくのです。自分の外に出るというのは、他なるものを配慮するということです。他なるものの苦しみと死を気遣うより先に気遣うということです。
 それが心の喜びから出来るというふうに言っているわけではまったくありません。またそれはたやすいことだと言っているのでもありません。ましてやそれが存在することへの恐怖とか存在することの倦怠とかに対する治癒であるとか、存在する努力に対する治癒であるとか言うのではさらにありません。それは自分から気をそらす方法ではまったくないのです。
 私が言いたいのは、それは私たちの人間性の根源の発見である、ということです。それはまた他者との出会いにおける善なるものそのものの発見なのです。私は「善」という言葉を用いることをおそれません。他者のために、他者の身代わりになる有責性は善であるからです。それは快適なことではありません。それは善いことなのです。
    --エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)「ポワリエとの対話」、エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性』国文社、1991年、117-118頁。

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先週の火曜日、看護助手の仕事での入浴介助の最終担当日になりました。4月からは神経内科と異なる部署へ異動するので、最後になりましたが、ちょと考えることが多かったので「病院日記」として残しておきます。

基本的に身体を自ら動かすことに難儀のある入院されている方が多いのですが、今回は、入浴のお世話をさせていただいた、(どうやら若い頃は教員の方のようでしたが)おじいさんが興味深いことをいっておりました。曰く……、

「ここにくると、人間とは平等なんだなということを実感するね」。

その憶断を批判するつもりもないけど、そうおじいさんが言う言葉が字義通りにそうなんだなあと思った次第です。

何かといえば、人間が平等であると実感する「時」というのは、自らの存在が、自らの意志を離れ、文字通り、他者の手に委ねられる瞬間にそれが立ちがあるのではないか、という話しです。

誰でも人間は平等であるという認識を建前としては持ち合わせている(確率が高い)。しかし、生活の中では「そんなん、お花畑」と居直ってしまうのが現実で、僕もその例外ではない。しかしそうした臆見が木っ端みじんになり、人間の平等性を実感する瞬間がある。そしてそれは自発的に自分がそう思うというよりも、その人間が外堀を埋められて最後に辿りつくところに現出するする……そう、いわば、逆説的ながら、自分の命が他者の手に完全に委ねられた瞬間に「平等」の観念を体得するのでしょう。

人間とは他の動物に比べると実にその成育に手間暇のかかる存在である。例えば、牛の赤ちゃんは生まれ落ちて自分の足で大地に立ち乳を飲むことができる(できなければそれは死を意味する。しかし、牛の赤ちゃんと違って人間の赤ちゃんにはそれができない。

常にその生育に他者の介在が不可欠となる。

オレは自分一人で勝って来たみたいな傲慢さと訣別する必要があるよなあと思ったりです。

単純な他者に対するビジネス論的な信頼論ではないけど、全的に異なる他者に我が存在をなげうつことで、いきているのが人間なんだよなあ、と思ったり。「ここにくると、人間とは平等なんだなということを実感するね」という気づきは、「病を得れば、エライ人もフツーの人も皆同じ」という軽率な傲慢というよりも、むしろ、どちらかといえば、自身へもう一度戻る大切な手続きなのではないかのかね、と。

そこで人間観が更新されることによって、世界認識や人間理解の更新がもたらされる。


 


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病院日記(7) 「生きていることだけでそれはすばらしい」の意味

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今日はキツイ一日だった。2時間睡眠二日酔いにて入浴介助。しかも今日はストレッチャーではなくてキャリー一人介助が多かったので腰に効て、風邪が悪化。そのままGMSの職場へ行くと、冷凍機故障にて商品撤去を独りで。そんで、休憩時間にiPhoneに保存したレポート全部読んだ。

我ながらよくやったワと思うけど、明日仕事に行く前に最終チェックして採点して、書評の仕上げ予定。風邪引いた自分が悪いのだけど、いっぺんに色々とやらなければならないのでやるしかないのだけど、ぐへへ。

ほんとはもう少し思索して投下すべきなんだろうけれども、とりあえず実感もあるので、少し、今日、学んだことだけを流しておきます。まあ、そんなんいうても、お前の考えはいわれなくても分かるし、改めていわれてもそれは「言葉」だけの話ですよねwww と失笑を買いそうだけど、まあ、いいや。

配属先の病棟がそうだからなんだけど、体を自分で動かすことができない人が多いので、結局は、自分とは異なる他者の介助がなければ生きていくことができないと言っても過言ではない。だけど、所謂、字義通りの「生きていることだけでそれはすばらしい」ってものを持たないと始まらないと思った。

勿論、難病だけでなく、人が老いるということを考えれば「他人事」ではないからねー、という想定先取り“有用性”の論理から、「生きていることだけで素晴らしい」を認めることもできるよね!とは返されそうだけど、そういわれてしまうとそうではない、と思う。有用性の論理こそ人間の敵なんだと思う。

先週は、精神科から転棟してきた方が、何も自分ができないことを嘆き「一人前でない自分はだめですよねー、早く人間になりたい」ようなことを言っていましたが、こちらも仕事とはいえ、介助をしていると、こちらの体も心もツライんだけど、「そうじゃあねえんだ」ともの凄い思ってしまう。

「生きているだけで素晴らしい」って、誰でもそう思うし、そうありたいと思う“素敵なフレーズ”でぐうのねも出ないひとつのファイナルアンサーのひとつなんだけど、僕もそうだったけど、現実には、その中身っていうのは極めてうすっぺらなんだよね。

何ンというか、絵に描いたような美談にホロロとするような「ドラマ」のような、自分の五感をフルに発揮して、その生きているというこの美醜を嗅ぎつけることとはほど遠い、何か、無菌室で作業が進行をするのを眺めながら「うん、生きるっていいよね」みたいなね。そういう薄っぺらさなんだよ。

勿論、これは、体験至上主義でも、間接表象から学ぶことの無意義性という意味ではないですよ。しかし、そういったものを超越して、例えば「汝殺す勿れ」の戒律に無疑曰信で遵じていくようなものといいますか。ものすげえ、キツイしツライんだけど、だけどその極地で、「それでええんや」と感じるのね。

「生きているだけで素晴らしい」には、たぶん、その字義通りの本来性よりも、こういうひとも活躍できるんだ、とか、すごいエライよね、みたいなものが世俗社会ではやはり見え隠れするんですよ。その地平においては「来ているだけで素晴らしい」っていうものは、それ自身からどんどん遠くなってしまう。

ということは、その「生きているだけで素晴らしい」という人間存在の全肯定の思想というものは、何か特定の「生きている」ことに収斂されるものでもないし、宗教思想的に言えば、その「生きる」が「老」や「病」や「死」と有機的な相関関係を持ち得た「生」としてのそれなんだろうと思う。

毎度、毎度、入浴介助しながら、そういう思いが強くなってくる。毎度、毎度、…これも何度も言及したけど…「すまねえ」って手を合わせる利用者さんもいる(合わせないでくれ)。元気だから素晴らしいの? その人が有能だから素晴らしいの? いい学校でているから「生きていることが素晴らしい」の?

たぶん、そういう地平から人間を眼差していく、関わっていくしかないのとちゃうのかと……ね。そして、レヴィナスがそういうように、結局は、全く関係のない人間同士が、それとなく、敬意を相互に表しながら「殺し」あうことしないようにいきていくことなんかとも関わっているような気がしています。

まあ、こういうご時世で、そんなことを考えたりさ、世界の動向と切り離された(ように見える)そういうミニマムなことで悩むこと自体が、ナンセンスなんだろうけどね。ただ僕は、そういうミニマムなものというのは、大文字の現在進行形の出来事と無縁ではないとは思っている。


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